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  • 『Mトレイン』/パティ・スミス

    パティ・スミスによる回顧録的なエッセイ。自身の内面深くに潜り込んでいくような文体で、自由連想的な文章が紡がれている。彼女自身の年齢もあってか、全体のムードは静謐、瞑想的で、粒子の粗いモノクロームのような美しさを感じさせる一冊になっている。 音楽の話はほとんど出てこない。主な話題は彼女のルーティン――朝起きていつものカフェに向かい、いつもの席に座り、ブラウントーストとコーヒーを注文し、ノートに文章を書きつける――と旅、彼女が愛する本たちと作家たち、失われた場所や物たち、そして何より死者たちに関するものだ。だから本書にはパンクの女王としてのパティ・スミスの姿というのはほとんど感じられない。これは、あくまでのひとりの文学少女(の大ベテラン)の手による随想集なのだ。 あらゆる瞬間は過ぎ去っていき、後には何も残らない。どんなものも人も、消えていかないものなどない。だからこそ、物書きは文字としてそれらを留め、なんとか形あるものとして焼きつけようと足掻くのかもしれない。訳者の菅は「訳者あとがき」で、パティ・スミスを「墓守」と呼んでいたけれど、彼女にとって、書くこととは失われゆくことへの哀歌であり、失われたものへの鎮魂歌でもあるようだ。

  • 『親の家を片づけながら』/リディア・フレム

    精神分析学者の著者による一冊。 親の死後、子が親に対して抱く感情というのはなかなか複雑なものだ。自分を愛してくれる人を失ったことの悲しみや、こんなことあり得ないという非現実感があるのはもちろんだろうけれど、決してそれだけに留まるものではない。そこには、自分の心を掻き乱されたという怒りや恨み、罪悪感や劣等感、解放感のようなものだって、同時に存在し得る。 本書で取り扱われているのは、そんな感情のグラデーションの複雑な様相であり、そんなややこしいものと向き合わなければならないことの困難さである。物で溢れた実家を何年もかけて片づけていく「私」が、親との関係について自分のなかでなんとか「片をつけ」ようとしていくさまが丁寧に語られているのだ。

  • 『猫を棄てる 父親について語るとき』/村上春樹

    村上春樹がはじめて自身の父親について率直に書いたというエッセイ。全編通して、村上の小説や普段のエッセイの文体とはまた異なる、ごく淡々とした文章が連ねられているところが特徴的で、彼の文章からいつも感じられる、過剰なくらいの読者へのサービス感というのはほとんどないと言ってもいい。村上は、戦争によって大きく人生を変えられてしまったひとりの若者としての父親の姿を追っていくことで、彼の物語を、ある意味では心ならずも引き継ぎ、ある意味では自ら率先して受け継いでいこうとする。 もっとも、村上と父親のあいだにはかなりきっぱりとした断絶ーー「二十年以上まったく顔を合わせなかったし、よほどの用件がなければほとんど口もきかない、連絡もとらないという状態」ーーがあり、ようやく顔を合わせて話をし、和解のようなものができたのは、村上が60歳近く、父が90歳の頃だったという。そのため、本作のなかにも、父親自身によって語られた内容というのはほとんどない。あくまでも、父親の死後に村上が調べたり周囲の人から聞いたりした情報を元にしたもの、ということだ。父と子との関係というものの、なんと難しいものよ…とおもわされる。

  • 『恋する惑星』

    高校生の頃にミニシアター系の映画を見始めたころから、そのうち見ようーとおもっているうちに気がつけば20年あまり経ってしまっていたのだが(そういうことって、結構ありますよね?)、ようやく見れた。ウォン・カーウァイというと、個人的に『花様年華』のイメージが強く、もっと官能的でシリアスな作風かと勝手に想像していたのだけれど、もっとずっとポップでソフトで猥雑、90年代らしいごちゃごちゃ感のある映画だった。 作品の主な舞台となる返還前の香港の街並みやマンションの様子は、とにかく狭くて小汚くて構造もおかしくて、いかにもアジア的な雑駁さに溢れているのだけれど、それを撮影や編集の力でおもいきり幻想的でファンタジックに見せているのがさすがという感じだ。カラーパレットはサイケデリックでありつつもどこかシックだし、構図はいちいち絵画的に決まっているしで、とにかくぱっと見がわかりやすく格好いいというところがよい。

  • 『誰も知らない』

    事件のニュースや物語の筋書きだけでは、これは単にものすごくやるせない酷い話、未来の見通しのまるでない辛い話でしかない。けれど、彼らのじっさいの生活のなかには、そういう括り方では捉えきれないようなたくさんの豊かさがあったはずで、そのなかには、きらきらとした美しい瞬間や、シンプルな生の歓びを感じさせるような瞬間といったものだって、たしかに無数に存在していたはずなのだということを、本作の映像は訴えているようにおもえる。「誰も知らない」かもしれないけれど、それはきっとそうだったはずなのだ。

  • 『ある一生』/ローベルト・ゼーターラー

    しんと静かな、あるひとりの男の人生の物語。文体も内容に見合った朴訥としてシンプルなもので、派手さはまったくないが、深く沁みいるようなところがある作品だった。 あっと驚くような展開や胸がすく逆転劇といったものもない。ただ、さまざまな形で訪れる試練に耐え、捨て鉢にならず、ひたすら愚直なまでに淡々と生き抜いていく男の姿を描いているのだ。舞台こそ20世紀ではあるものの、ひたすら故郷のアルプスの山に暮らし続けるエッガーはもはや山の精霊のようでもあり、その姿にはどこか神話的な美しさすら感じられる。 自己実現とか目標達成とかいった、現代の資本主義社会を駆動する諸々からはまったくかけ離れた、ある意味修行僧のようにストイックな、しかし本人的にはそんなつもりなどまったくなく、ごく自然に、そういうものとして生涯を生ききる、という人生。何かを得たり、誰かと優劣を比較したりしなくても、死の訪れるそのときまでただおもいきり生きるということ、人生というのはそれで十分だし、そういう生き方にもたしかに人の幸福というのはあり得るのだ、そんなことを感じさせてくれる一冊だった。

  • 『サマーフィーリング』

    ある夏の日、ベルリンに暮らす30歳のサシャは突然倒れ、そのままこの世を去ってしまう。あまりにも唐突な彼女の死は、恋人のローレンスにとっても、サシャの妹ゾエをはじめとする家族にとっても、そう簡単に受け止められるものではない。傷を抱えたもの同士としての彼らの心の交流と、時間の経過が少しずつその傷を癒やしていく様子が静かに描かれていく。 ストーリー性は非常に薄く、サシャの死→ローレンスとゾエそれぞれの回復、という以外には、展開らしい展開もない。あくまでも淡々と彼らの姿を映し出していくだけなのだ。彼らの台詞にしても、物語を駆動させるような印象深い台詞などというものはほとんどないし、もっと言ってしまうと、あまり内容らしい内容もない。ただ、それでも観客によくわかる(ように感じられる)のは、彼らが互いをおもい合い、いたわり合っている、ということだ。それははっきりとした台詞や明快なアクションで示されるものではないのだけれど、画面に映し出される彼らの視線やふるまいからは、たしかに互いへのおもいやりが感じられるのだ。

  • 『面白いとは何か? 面白く生きるには?』/森博嗣

    本書で扱われているのは、自分なりの面白さとはどんなものであるのか、それを見つけて面白く生きていくにはどうしたらいいのか、といったテーマだ。そしてその結論はというと、アウトプットする面白さこそが本物だ、ということに尽きる。

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