昔、親の時代に減反政策で梅の木を植えた所がジャングル状態になっていたので昨日草刈りをした。自然に生えたものか定かでないが大きな桑の木かあり沢山の実が付いていた。もう少しすると熟しておいして実になるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/桑の実
昔、親の時代に減反政策で梅の木を植えた所がジャングル状態になっていたので昨日草刈りをした。自然に生えたものか定かでないが大きな桑の木かあり沢山の実が付いていた。もう少しすると熟しておいして実になるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/桑の実
令和6年3月に竣工した南棟上層階の外周に配置されている病室は中画像のように凹凸のある変わった平面とされている。屋上にはヘリポートが設置されており、ドクターヘリ、防災ヘリ、自衛隊ヘリなどの受入ができるようである。駐車場にいるときにドクターヘリが患者さんを緊急搬送されてきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島総合病院②
JA広島総合病院の全景で左側の南棟は令和6年3月に竣工したようで、当病院の前身は昭和22年(1947)12月23日に農業会佐伯病院として開設されたようである。当ブログ主が小学高学年の時に鼻茸治療のために下画像の佐伯病院に通っていたことを思い出した。(下画像-ふるさとの写真集より)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島総合病院
広電宮島線のJA広島病院前駅は平成10年(1998)9月1日に開業された請願駅で、宮内駅-地御前駅間にある広島総合病院前に新規開設された駅である。朝の6時・7時台には当駅始発の7便の折り返し便がある。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島病院前駅
時折り紹介している市道堂垣内広池山線工事の可愛川に架かる架橋工事の進捗状況で、昨日大きなクレーン車が2台止まっていたが架橋工事は行われていなかった。もうすぐ架橋の工事が行われるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
今年は色々と事情があって通年より10日以上も早く終わることが出来た。広大な田園地帯のような田んぼではなく箱庭みたいな田んぼで、助っ人を得て4条植えの田植え機で植え付けた。親の時代には下画像のような三角枠で印の所に数人の早苗(?)が植付て、手前に回転させ後すだりをして植えていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/田植え
ウォーキング途中、道路脇から河川に向かって繁茂しているウツギの小さな白い花がびっしりと咲いていた。ウツギの茎は小竹のように中空であり子供の頃に笛を作っていたことを思い出して作ってみたがうまく鳴らなかった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ウツギ
ウォーキング途中、歩道脇にある側溝のコンクリート隙間に大きな株を張り小さなピンクの花びらをつけた花があった。Googleレンズで検索するとユウゲショウのようで、原産地は南米から北米南部、帰化植物のようである。どこからか種が飛んできてコンクリートのわずかの隙間に入り込んで成長したようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ユウゲショウ
菩提寺の総会で久しぶりに参詣した。本堂前には石造の天水桶が設置されているが刻銘には露盤とある。この天水桶は大正3年(1914)にこの地からハワイのカウアイ(加哇)島のケカハ、ワイノヤ。リフエ、キャリー、マカウエ、ハナベ、カバア、キャリヤなどに移民した人々の寄進によるものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/西連寺の天水桶
ウォーキング途中、里山の山裾に数輪のササユリが咲いていた。山裾にはまだ咲いていない蕾も各所にみられもうすく咲くものとみられる。里山に人の手が入らなくなってササユリも減少しているようであるが、ここの山裾は毎年手を入れておられるので保たれているのである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ササユリ
宮島サービスエリアからみた一昨日の平良丘陵開発の現状で、上画像は展望できる東側部分で尾根筋が掘削されて低くなっている。下画像は西側部分で谷筋が埋め立てられて広大な平地となっている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/平良丘陵開発の今
ウォーキング途中で見かけたことがないような鮮やかな花をみかけた。Googleレンズで検索してみるとカルミア・オスボレットようである。北米やキューバに分布するツツジ科の常緑低木のようで、紅色の濃い蕾がびっしりと付いており開いた花は桃色であった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-カルミア・オスボレット
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞第三区地帯標石は岩根砲台から2250間(4095m)の第三区地帯の区域標石である。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/近代戦争制限区域標石-呉要塞第三区地帯標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港付近には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞地帯区域標石は要塞地帯法に基づいた陸軍・海軍連帯告示によるもので、宮島の紅葉谷道、大元谷道や岩船岳に向かう尾根筋など7ケ所にみられる。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。ttps://ameblo.jp/n3491/近代戦争制限区域標石-呉要塞地帯区域標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞地区域は明治36年(1903)5月1日に陸軍・海軍省連帯告示で広島湾要塞区域と改称されており、大野地区高見川上流の地蔵橋脇に広島湾要塞第三地帯標石がある。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp...近代戦争制限区域標石-広島湾要塞第三地帯標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。宮島の腰細浦にある軍港第二(三)区標石は呉鎮守府とあり呉軍港境域の標石である。呉港部分が一区でその他の部分が二区とされたが後に呉港部分に一区、二区が設定されその他が三区とされ、刻字がバランス良くない三となっているのである。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-軍港第二(三)区標石
野貝原山の第53号第54号かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。陸軍輸送港域は2区に分けられており、昨日紹介した第一区は防御営造物から250間(455m)、第二区は750間(1365m)に設定された。廿日市市域では第二区標石が極楽寺・野貝原山系など赤丸ケ所に残されていたが、野貝原山の第53号は造成のため消滅した。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-陸軍輸送港域第二区標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。陸軍輸送港域は2区に分けられており、旧廿日市市と旧大野町境の標高108.2mの三角点ケ所に画像の陸軍輸送港域第一区標石があったがふじタウン造成のため所在不明である。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-陸軍輸送港域第一区標石
県道247号廿日市港線の串戸陸橋下の交差点脇に建立されている旧平良村・宮内村境の標石で、旧国道脇の村境に明治33年(1900)12月31日に建立された。廿日市港線の整備に伴って当初の場所から現在地に移設された。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/村境標石
市有林の貸付山林で宮内地区(旧宮内村)では講中単位で貸し付けが行われているようである。折敷畠山の山系で的場講、串戸講、宮迫講、明石講、北山講の山林使用境の表示が見られる。もう講中組織はないものと思われるが・・・移転先のAmebaブログでも更新をしていきますのでご来訪お待ちしています。https://ameblo.jp/n3491/市有山林使用山境
昨日紹介した境木は個人の山の境界を示すものであったが、極楽寺参道の30丁碑手前には旧上平良村・原村・佐方村の山境に古い時代の石塚がみられる。(上画像)下画像は極楽寺山頂にみられる石塚で旧原村・白砂村の山境とみられる。※gooブログのサービス終了に伴って当ブログはAmebaブログに移転することに致しましたが、老ブロガー故にてこずっています。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも試行錯誤しながら更新をしていきますので今後とも宜しくご来訪お待ちしています。https://ameblo.jp/n3491/山境の石塚
先日紹介した平良丘陵開発で極楽寺参道が途切れたすぐ上手に画像のような山の境木と隣接して現在のプラスチック杭がみられる。昔はコンクリート杭やプラスチック杭がなかったので山の境を表すために木の芯を止めて画像のような樹形にしたり、貝殻を埋めていたりしていたが知っている人は少ないであろう。山の境木
5月の第一日曜日は当ブログ主の田んぼに関係する水路の井手セキであり、水田を作らなくなった人達も参加しての水路清掃をした。現在水路はコンクリート溝となっているので作業をすることは少なくなったが久しぶりの顔合わせとなった。この井手は昭和16年(1941)に田んぼの面積に応じて出資し築造した河野原溜池から流れる川から取水している井手である。井手セキ(堰き)
先日、平良丘陵開発のために極楽寺参道が消滅したことを紹介したが、上側の途切れた極楽寺参道から見た平良丘陵開発用地の画像である。この場所では宮島サービスエリア展望所からのように広範囲の展望は出来なかった。平良丘陵開発の今
ゴールデンウイークで平良丘陵開発地内の掘削や運搬などの重機類が勢揃いしていた。このような大型の重機類はどのようにして現地に運搬してきたのだろうか。平良丘陵開発地内の重機勢揃い
昨日の中国新聞の天風録欄に日露戦争時にロシア兵が萩市の見島に漂着して島民が救護したことなどが掲載されていた。漂着した見島の宇津地区には露兵漂着地の碑が建立されていた。(2018.4.10探訪)また隠岐の島大城地区にある墓地には漂着したロシア兵遺体を葬った露国軍人戦没者墓地があった。(2018.5.14探訪)露兵漂着地の碑・墓地
上画像は宮島サービスエリア展望所からみた平良丘陵開発用地の現在で、中画像・下画像は宮島サービスエリアの西側付近からの画像である。山や谷部分が無くなって平地部分が大きく広がっている。平良丘陵開発の今
宮島サービスエリア近くをウォーキングしていると道路斜面に藤の花に似た白い花があった。藤の花は蔓性の植物であるが斜面に生えた木に咲いていた。Googleレンズで検索するとニセアカシアのようであり、北米原産で植物学上の標準和名はハリエンジュというようである。ニセアカシアの花
市道堂垣内広池山線工事の可愛川部分の橋梁工事で、看板表示に橋梁上部工事とあるので橋桁が架けられ床版・舗装と橋が出来上がるのであろう。工期は9月30日と表示してあった。市道堂垣内広池山線工事の今
上平良二重原地区に予定されている産業団地の工事に向けての準備作業が行われている。現在現場事務所の建築工事が行われており、まもなく造成工事に向けての森林伐採がはじまるのであろうか。二重原地区産業団地工事の今
ボチボチと田んぼの準備をしなければいけないので取り掛かった。田んぼにはスズメノテッポウという雑草がびっしりと生えている。子供の頃の記憶で穂先と茎を引き抜いて葉を折り曲げて吹くとピィーと小さな音が鳴り子供の頃を思い出したのである。草笛
キナヤ(木納屋)といってもわかる人は少ないであろう。昔炊事や風呂焚きの燃料は木材などであり、焚き付けをするコクバ(松の落ち葉)やコギ(細い立ち木を束ねたもの)、ワラキ(割り木)などを木納屋(木小屋)に収納していた。また農業用の用具なども保管していた。キナヤ
崩れそうな木納屋にネコグルマの部品である猫背状の木材があった。親の時代には山で曲がった木を挽割加工して上画像のようにし、横材などで下画像のように組み立て車輪を付けて農作業運搬具としていたのである。ネコグルマとは両側の枠材が猫背状であったので名付けられたものであろう。ネコグルマ
以前に植菌したほだ木からは冬の時期に椎茸が出来ていたが、去年植菌したほだ木からは出来なかった。ところが久しぶりにみると1本のほだ木から沢山の椎茸が出来ていた。今年植菌したほだ木は仮伏せしているがぼちぼち本伏せをしなければ・・・椎茸が!
時折り紹介している広島はつかいち大橋架橋工事の進捗状況で、以前の看板表示では海上部上部工工事で工期は4月14日までとなっていたが、現在看板には10月14日までの工期となっていた。広島はつかいち大橋架橋工事の今
現在大阪・関西万博が開催されており、毎日動静が報道されている。本棚の片隅に昭和45年(1970)に開催された時の「万国博オールガイド」冊子があった。訪れたパピリオンには印を付けており2日間で外国館37ケ所、国内館10ケ所と記しているが何を見たか覚えていない。若かったのだなあーもう行く元気はない。EXPO70
今日の一服飲む茶碗は宮島口の窯元である川原厳栄堂の川原陶斉の抹茶碗で、ちょっと見た感じは萩焼かと思うような茶碗である。宮島焼は宮島の砂を混ぜて焼くことから御砂焼、神砂焼とも言われているようである。抹茶碗で一服⑨-宮島焼
平良地区丘陵開発地の西側に伸びている御棒杖山と菊ケ迫山の尾根に旧石州往還道があったことを何度か紹介している。先日紹介した市道堂垣内広池山線工事で寸断されたが所々に掘割の往還道跡がみられる。工事近くの測量杭をみると旧往還道の幅員が1m位となっているが荷駄馬が行き来した道はもっと広かったのではなかろうか。旧石州往還道
旧佐伯町内にかつて四和村があったことは知っていたが、佐伯郡地誌略の地図を見ていてかつて三和村があったのを初めて知った。明治22年(1889)に峠村とは離れた飛び地である渡ノ瀬村、松ケ原村の三村が合併して三和村となり、役場は峠にあったようである。昭和4年(1929)に三和村・友原村が合併して友和村となった。三和村
ハエブチと言ってもわかる人はほとんどいないのではなかろうか。ハエ叩きのことで現在はハエを見ることは少なくおれば殺虫剤を使用している。物資のない時代に親たちが作っていたハエ叩きを作ってみた。棕櫚の葉を利用したもので後にプラスチックで出来たハエ叩きを見るようになった。ハエブチ
先日、旧石州往還道からみた市道堂垣内広池山線工事ケ所(画像上向こう側)を紹介したが、旧石州往還道があった菊ケ迫山や御棒杖山の多くはかつて段々畑であった。この段々畑の跡に野壺が残されており、かつての農業施設で屎尿を貯蔵して腐敗させ畑の下肥として使用するための貯蔵壺であった。野壺が!
昨日紹介の消滅した極楽寺参道の代替えの予定登山道のルートが工事説明会の資料の中に表示してあった。山陽自動車道の既設トンネルを通るルートのようで、旧参道は極楽寺橋から高圧線鉄塔脇、12丁碑ケ所で行き止まりになる。(中央上の赤線ケ所)※一昨日、11月18日をもって当ブログサービス終了とのお知らせがあった。2006年6月22日から老化防止のため19年間当市域を中心としてみたままを、当ブログを利用をさせて頂き紹介してきた。開設日の6月22日か、8月21日が開設7000日目となりますので、この日を目途に次の方策を・・・平良丘陵開発用地内の予定登山道
現在行われている平良丘陵開発用地内にあった極楽寺参道には以前にも紹介したが、石仏や里程碑の4丁碑・5丁碑・6丁碑・7丁碑・10丁碑があったが現在どこかに保管されているのであろう。これらは開発完了後どのようになるのであろうか。平良丘陵開発用地内の石仏・里程碑
昨秋に種蒔きした廿日市20代目桜島大根と廿日市10代目切葉松本地大根の双葉が出た頃に虫に悉く食われてしまいもうこれまでかと思っていた。しかし何とか残った苗で上画像の桜島大根、下画像の切葉松本地大根が育って花が咲いている。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
時折り紹介している市道堂垣内広池山線の可愛川に架かる橋の橋脚工事の進捗状況で、西側の橋脚工事はほぼ終わっているようである。完了している東側の橋脚上で何かの作業をされていたが架橋に向けての準備作業なのだろうか。市道堂垣内広池山線工事の今
先日、平良丘陵開発用地側の市道堂垣内広池山線の進捗状況を紹介したが、平良集落側の道路予定地付近から菊ケ迫山をみると工事の気配は見られない。(上画像)しかし中平良付近からみると先日紹介した東側からの工事が平良集落山林間際まで進んでいるようである。市道堂垣内広池山線工事の今
ウォーキング途中の道すがら様々な花が咲いており目の保養になっている。以前にも紹介した伊勢神社の老樹の桜、原市民センターのしだれ桜、道すがらの花桃、トキワマンサク、タンポポや名も知れぬ草花などがみられた。春らんまん
時折り紹介していたウォーキング途中でみられる原低区配水池の工事がすでに完了していた。、上画像は原小学校プール脇に大きな配水タンクが設けられており、平良・原地区境付近に下画像の中継ポンプ所が設けられている。原低区配水池
昨日紹介した末広橋から真っ直ぐに進んだ高台にある広瀬御本陣跡で、江戸期隅貞家は庄屋で本陣を務めており、屋敷内に前山代宰判の勘場(宰判役所)が置かれていたようである。看板表示に明和頃の広瀬御本陣の間取り図が表示されているが、現存の建物は江戸末期に焼失後文久元年(1861)に再建されたもののようである。錦町ぶらり-広瀬御本陣跡
錦川に架かる末広橋で、この場所を江戸期の絵図でみると船橋長38間とあり、何と船を何艘か並べて板を架け渡して橋としていたようである。大きな川であり洪水の時には船を移動させて大水に対応できるようにしていたようである。(山口県立文書館-御国廻行程記絵図より)錦町ぶらり-船橋
ウォーキング途中で久々に訪れた伊勢神社境内の桜が満開であった。例年のようにボンボリが吊り下げられていたが寒いので夜桜見物する人は少ないのではなかろうか。下画像は元原村役場(現橋本集会所)があった所の老樹桜も満開であった。さくら満開
平良丘陵開発地側の市道第2群塚線から菊ケ迫山に向かって行われている市道堂垣内広池山線工事の現状である。旧石州往還道部分からみた掘割部分でこの先の西側部分は見ることが出来なかった。下画像の杭間(赤丸)が旧石州往還道部分で掘割り向こう側に続いていたのであるが・・・市道堂垣内広池山線工事の今
時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で、開発用地の西側に伸びている御棒杖山・菊ケ迫山に残されている旧石州往還道からの遠望である。上画像の矢印ケ所が宮島サービスエリアの展望所で、時折り展望画像を撮影しているところである。平良丘陵開発の今
長い石段を上った高台にある広瀬八幡神社を参詣した。この神社の拝殿は当地では見られないような形式のものであった。拝殿の中央に通りがあり両側に板敷間が設けられているもので、いわくに文化財探訪によると「拝殿中央に馬道をとる割拝殿形式で、これを横町と呼んでおり、かつて礼祭の際は、名主が裃に着替え、神事に臨む前の控えの場所として横町は使われた。錦川を挟んで西側の名主と東側の名主各十二人、計二十四人の座が建物内で定められている」と記されていた。広瀬八幡神社
先日紹介した西岩国駅前に再現された木炭自動車が置かれていた。稼働しているのをみてみたいものである。当ブログ主が子供の頃、原行きの木炭バスが舗装もされていない砂の坂道をノロノロと登っていたのを思い出したのである。木炭自動車が!
錦川鉄道の車窓から宮の串地区の遠望で、錦川沿いに国道187号線が通っており三叉路向こう側に行くと本郷方面に向かう。三叉路角の神社境内にかつて河山村役場があり、後に美川町役場、岩国市役所美川総合支所があったが現在は取り除かれている。この地はかつての中心地であった。この宮の串には昭和20年頃廿日市電停前から広電バスが本郷村を経て宮の串までの路線があった。(下画像赤丸-広島電鉄開業80年・創立50年史より)昭和23年に省営自動車が本郷線の営業開始したので、昭和24年には広電バスは本郷までの路線となっている。宮の串地区の遠望
錦川清流線は岩徳線の川西駅から錦川沿いを走り錦町駅に至る鉄道路線であり、昭和62年(1987)に旧国鉄二次特定地方交通線の岩日線を第三セクター鉄道に転換された鉄道路線である。途中駅の河山駅はかつて河山鉱山の鉱石積み出し駅であり、廃線路脇には当時の名残りの手動転轍機がみられた。錦町街並みに大衆食堂岩日線と看板があり、古い時代の鉄路名が・・・錦川鉄道・錦川清流線
先日、赤字が続く「錦川清流線」について存続のあり方を検討する会議が開かれたと新聞報道されていた。錦町には何度も車で訪れているが鉄道には乗ったことがないので、西岩国駅から錦川清流線に乗って錦町広瀬地区をぶらりと散策してみた。西岩国駅舎は昭和4年(1929)に岩徳線部分開業時の終着岩国駅として設置されたようであり、登録有形文化財に指定されているようである。西岩国駅舎
一昨晩NHKラジオの深夜便で「昭和100年~大衆を魅了したSPレコードの世界」と題して蓄音機でのSPレコードの音源が流されていたが途中から寝てしまった。当方懐かしいSPレコードを数十枚所持しており、先人から保存するよう託された蓄音機があるので何時か聞いてみたいものである。SPレコードの世界
宮島サービスエリア東側の中ノ谷を流れる谷川にある滝を久しぶりに訪れたが、今時分水量が少ないので画像のような状態であった。(下画像は以前訪れた時の画像)仮称中ノ谷川は現在造成されている平良丘陵開発用地を流れる広池川の一支流であるが川名はない。中ノ谷滝
時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で、宮島サービスエリアからの遠望で上画像は商業用地の西側部分であり現在水路が設けられているのであろうか。下画像で以前クレータのような穴があったが現在は逆四角睡のような穴がみられる。平良丘陵開発の今
昨日紹介した記念樹を探している途中で、プール脇に2本の石柱が置かれていた。この石柱は元平良体育館(旧平良小学校体育館)の脇に置かれていたが(下画像)、体育館が取り壊された時に移転されたようである。長い石柱に「大正十年一月吉日」と刻されていたのを確認できたが、重量物でありその他は確認できていない。元あった付近には旧平良小学校と旧平良村役場があった所であり、これらに関係する何らかの石柱だったものとみられるのである。平良小学校にある謎の石柱
一昨日、市議会議員選挙の投票場所である平良小を訪れて運動場脇の庭園に植樹されている記念樹を見に行った。創立150周年記念式典については以前に紹介したが少し遅れての2代目せんだんの記念樹が植樹された。当ブログ主が小学生の頃、元の小学校校庭に大きなせんだんの木があった。(平良小全景画像の赤丸ケ所)(せんだんの木画像-この我が平良小百二十九年より)この栴檀の木からPTA新聞名が「せんだん」と名付けられたのであるが知っている人は少ないであろう。平良小学校創立150周年記念樹-せんだん
時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で、久しぶりに五庵山西麓方面からの遠望である。かつての山や谷、畑であった部分が広い平地とされつつあり、完了した部分の大きな法面がみられる。平良丘陵開発の今
時折り紹介している広島はつかいち大橋の架橋工事の進捗状況で、工期は来月14日までなので何の工事が行われているのか分からないが大詰めの工事がされているのであろう。開通までにはまだ何らかの工事が行われるのであろうか。広島はつかいち大橋架橋工事の今
以前から平良地区内の高圧線鉄塔で工事が行われていることを紹介しているが、昨日ウオーキング途中宮島サービスエリア近くの高圧線鉄塔上で数人の方が作業をされており、なんと線の上で作業をされている人もみられた。この鉄塔より西側で宮園団地にある鉄塔間の張替え工事が行われているようである。高圧線鉄塔工事の今
出雲大社に参詣する八足門前の石段下に大きな円形の文様のような表示がされているが、参詣する人で気に留める人はほとんど見られない。この円形文様は平成12年(2000)に巨大神殿の柱束の遺構が出土した跡で、当時新聞のトップニュースとなっていた。当時何度か訪れたが画像が見当たらない。出雲路ぶらり―出雲大社巨大神殿柱跡
アナゴといえば瀬戸内と思っていたが・・・大田市でのアナゴの水揚げ量は全国有数の漁獲量のようで、商工会議所が中心となって「大田の大あなご」ブランド化推進しているようである。以前に何度か食したことを紹介したが、夕食をと思ったが観光地近くでなく大きな街でないのでどこも早く店仕舞いをされていた。大あなご料理店一覧の店で何とか穴子天ぷら丼を食することが出来た。出雲路ぶらり―大田の大アナゴ
日御碕灯台からの帰り道久しぶりに日御碕神社へ参詣した。楼門を入って正面に下の宮の日沉宮が祀られており、高台に上の宮の神の宮が祀られている。境内には数多くの摂社・末社が祀られており、こられ社殿の多くが国の重要文化財に指定されているようである。出雲路ぶらり―日御碕神社
大田市波根西の海岸にみられる化石になった樹木で、国の天然記念物に指定されている珪化木を見に行った。古い時代の火山噴火で埋没した樹木が化石化したものであり、周辺の地層の中には枝であったものとみられる細い炭化石もみられた。出雲路ぶらり―波根西の珪化木
日御碕灯台は明治36年(1903)3月15日に完成し、4月1日に点灯したようである。この灯台は石積み造りで内壁には煉瓦積みがされており、今では築造出来ないような高い組積造の灯台である。発光部を支えている鋼管が過去に門司港駅舎でみかけたような鋳造鋼管であり築造の時代を感じさせる。出雲路ぶらり―日御碕灯台
昨秋に切り置いていたドングリの木(クヌギ)に一昨日椎茸菌400個を植菌した。今まで栽培の流れで仮伏せを適当にしていたので一昨年植菌したほだ木から椎茸はほとんどできなかった。今回は栽培手引き通りに仮伏せをしたが・・・椎茸植菌
先日、ジャガイモの植付けをしたが当方は親がしていたようなやり方で上画像のような現状である。隣接して二人の方が畑づくりをされており、片方の方は中画像のように植付されて、もうひと方は下画像のように植付されていた。ジャガイモ植付け三者三様
出雲大社前駅ホーム内には日本最古級の電車デハニ50形・52号車と表示されている電車が展示公開されていた。デハニ50形は1928~1929年に製造され52号・53号の2両が現存しているようである。この電車は中井貴一主演の「RAILWAYS49歳で電車の運転士になった男の物語」の映画に登場した電車のようである。出雲路ぶらり―日本最古級の電車
一畑電車の出雲大社前駅ホームに出れるようになっており、ホームに出ると丁度電車が到着してきた。上屋の骨組みは古レールを加工したものであり木造トラスもみられ開設当初のもののようである。またホームに設置してあるベンチもレトロな木製のものであった。出雲路ぶらり―出雲大社前駅ホーム
神門通りにある一畑電車の出雲大社前駅の前を過去に何度も通っているが立ち寄ることはなかった。が今回孫達とは別行動で駅舎内を訪れてみた。この駅舎はRC造で昭和5年(1930年)に建てられたようで、半円型の屋根や室内にはステンドグラス風の窓が設けられており、半円型の切符売り場など洋風的な建築である。この建物は登録有形文化財として登録、近代化産業遺産に認定されているようである。出雲路ぶらり―出雲大社前駅
出雲大社の宝物殿入り口脇に稜威砲・神風砲と称される二門の大砲が置かれている。説明表示によると天正8年(1580)に毛利輝元が寄進した銅鳥居を弘化2年(1845)に松江藩主の松平斉貴が大砲に鋳造したようである。大砲を鋳造した鋳物師は松江の村松幸左衛門忠清である。鳥居を鋳造した天正頃の安芸国の鋳物師は廿日市鋳物師しか鋳造活動が確認できないので銅鳥居は廿日市鋳物師が鋳造したのかもしれない。出雲路ぶらり-稜威砲・神風砲
昨日は孫の運転する車に便乗して出雲路を訪れた。出雲大社に参詣するのは2年ぶりであろうか。日曜日であり神社や門前町は大勢の参詣者・観光客がみられた。出雲路ぶらり-出雲大社
昨日紹介した芸藩通志の古器図にみられる鰐口釜の銘文に施主廿日市とあり、荒胡子神社の鰐口は廿日市の有力町人が寄進したものとみられ廿日市鋳物師が鋳造したのは間違いないであろう。江戸期、茶の湯の隆盛時代に芦屋釜などと同様に廿日市の鋳物師が鰐口釜を量産していたものとみられるのである。今のところ画像の4口の鰐口釜が確認できたのである。鰐口釜
昨日紹介した厳島神社の五重塔下に祀られている荒胡子神社に架けられていた鰐口を模して鰐口釜が鋳造されていた。江戸期の芸藩通志に「永正十二年に鋳たる鰐口、昔は社に懸けしや、今は本願金剛院にあり」とあり、これを模した鰐口釜の図が掲載されているが鰐口は残されていないのである。荒胡子神社関連の鰐口釜
荒胡子神社恵美須宮厳島神社の五重塔下に祀られている荒胡子神社で、この神社を中世初め頃に分祀して愛媛県内子町に祀られ、当地での御開帳日の廿日の市が地名として定着していったのである。内子町の恵美須宮について江戸期の『大洲旧記』に「治承養和の頃か、厳島を平家取立、夫を学て河野氏五十崎へ宮床を取立、厳島の荒えびすを勧請して廿日市へ鎮座す。厳島は開帳なし。廿日市は、毎月市日に一日宛開帳有。依遠方より参詣多し。弥以廿日市繁昌す」とある。荒胡子神社
先日、高圧線鉄塔の上で作業をされていたと紹介したが、鉄塔間に高圧線ではなさそうな細い線が多くか架け渡されて所々の垂直方向につなぎ材が設けられていた。巨大なあやとりのようだ!巨大あやとりが!
物置の片隅に今では見ることもないソノシートがあった。1964年10月10日に開催された第18回の東京オリンピック協賛のソノシートのようであるが、どのようにして手元にあるのか覚えていない。ソノシートが一般的な呼び名であろうが「コロムビアコロ・シート」と記されていた。ソノシートが!
ウォーキング途中にみられる林道玖島川末線開設工事で上側にみられる泉水峠側と下側にみられる川末側の工事ケ所の遠望画像である。現在どのような作業が行われているのかは定かでないが、下画像は2021年1月頃の泉水峠の工事ケ所画像である。林道玖島川末線開設工事遠望
上画像の右向こう側の鉄塔が以前紹介した建て替えられた吉野山の鉄塔で、一昨日中央の鉄塔上部(中画像)で4人が高圧線の張替えの準備作業をされていた。左手前側の鉄塔(下画像)は以前に岩木神社元宮を紹介した時には撤去されていたが、新しく高い鉄塔が建替えられており上部で作業をされていた。吉野山の高圧線鉄塔関連工事の今
久しぶりに原地区をウォーキングしているとなんと田んぼにハゼ架けが残っており、稲束が架けられたままになって周辺には藁束が散乱していた。稲束先の籾は無くなっており、脱穀後に架けられたものか雀などがたべたのであろうか。通常の状態ではないがどうされたのであろうか。ハゼ架けが!!
時折り紹介している市道堂垣内広池山線の可愛川に架かる橋の橋脚工事の進捗状況で、現在橋台立ち上がりの工事と周辺の護岸の工事が行われているようである。可愛川の流域の地中にはなんと大小の岩がゴロゴロとしているものだ。市道堂垣内広池山線工事の今
昨日は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の進捗状況であったが、画像は市街地からみた開発用地の全域の遠望である。画像中央を横切っているのが西広島バイパスの廿日市高架橋で、画像向こうの左側高い山が中世の星ケ城跡で右側の山に極楽寺がある。平良丘陵開発の今
時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で、宮島サービスエリアの展望所からの遠望である。商業系、準工業系、住居系などの用地が造成されているようであり、それぞれの平地の部分が多くみられるようになってきた。平良丘陵開発の今
時折り紹介している原地区にある伊勢神社に初参りをした。昨年秋に足首を痛めてウォーキングが出来なくなり正月の初参りも出来なかった。リハビリ治療のおかげでぼちぼちとウォーキングを始めたところである。一昨日降った多くの雪も湿雪であったので残雪はわずかであった。伊勢神社参詣
以前にも紹介したが、厳島神社西廻廊の曲がり角から陸地側に架かる反り橋に10ケ所の擬宝珠がありこの内1ケ所廿日市鋳物師が鋳造したものがみられる。刻銘によると安永5年(1776)3月に廿日市鋳物師の山田氏藤原貞利が鋳造している。解体修理前は廻廊側に取り付けられていたが、重要文化財なのに解体修理後はなぜか陸地側に取り付けられているのである。厳島神社反り橋の擬宝珠が!
経納山頂に登ってみると松くい虫で伐採された大きな松の木の切り株がみられる。被害を免れた大きな松の木には松くい虫防除の薬剤が注入されたものとみられ、薬剤名や注入年月日が記された表示が取り付けられていた。松くい虫防除
相当以前に紹介したが、ある施設内にまだ懐かしいレトロなスクーターが置かれていた。銘板から昭和34年(1959)に発売された三菱・シンバーピジョンC110のようである。可動するのかは不明であるが、施設には似付かないようなものがなぜ置かれているのだろうか。レトロスクーターが!
上画像は大元公園にあるみやじま杜の宿であるが樹木が茂って見えにくい。大正期この地には広島産業奨励館(原爆ドーム)設計のヤンレッツルが設計した宮島ホテルが建築されていた。終戦後に宮島ホテルはイギリス連邦占領軍(BCOF)に接収されていた。(下画像-呉の歩みⅡより)昭和28年(1953)に火災に遭い宮島ホテル建築は焼失したが、当ブログ主が小学校遠足で訪れた時に焼け跡があったのを記憶しているのである。みやじま杜の宿の地今昔
上画像は大元神社の鳥居の現在で笠木、柱が丸太で貫が長方形の神明鳥居である。江戸期の厳島図会の絵図をみると明神鳥居が描かれており(中画像)、下画像昭和期の絵葉書をみると鮮明ではないが上部の笠木と島木がみられ、時代とともに鳥居の形式が変わったのであろうか。大元神社の鳥居今昔
上画像は昭和初期であろうか経納山から大元公園方面をみた絵葉書で、手前左手には茅葺の大元旅館がみられ右側の現在宮島水族館のあるところは海であった。遠くには宮島ホテルがみられる。現在経納山の樹木が茂っており瓦葺となっている旧大元旅館と宮島水族館の一部しか見ることが出来ない。大元公園遠望今昔
上画像は1952年発行の岩波写真文庫71からの画像で、厳島神社境内地堺付近から有の浦海岸通りを見た画像である。岩波写真文庫には「海岸通りをふさぐ柵、進駐軍自動車路というのが名目だが、・・・」と記されている。火の見櫓がみられこの場所は昭和49年の地図には消防庫と記されている。有の浦海岸通りの今昔
上画像は1952年発行の岩波写真文庫71からの画像で、連絡船から降りたすぐの参道脇の護岸に長い雁木が設けられていた。小中学生の頃何度も遠足で訪れているのでこの雁木はよく覚えており、松大船がこの雁木に歩み板を架けて乗船客が乗り降りしていたのも記憶している。有の浦長雁木の今昔
上画像の絵葉書は昭和初期ごろだろうか五重塔がある塔の丘からみた有ノ浦の街並みである。向こう側の山が昨日触れた要害山で左側には以前にも触れた商船桟橋がみられる。現在桟橋はなく突堤上に広島経済大学成風館の建物がみられる。宮島街並みの今昔②
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昔、親の時代に減反政策で梅の木を植えた所がジャングル状態になっていたので昨日草刈りをした。自然に生えたものか定かでないが大きな桑の木かあり沢山の実が付いていた。もう少しすると熟しておいして実になるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/桑の実
令和6年3月に竣工した南棟上層階の外周に配置されている病室は中画像のように凹凸のある変わった平面とされている。屋上にはヘリポートが設置されており、ドクターヘリ、防災ヘリ、自衛隊ヘリなどの受入ができるようである。駐車場にいるときにドクターヘリが患者さんを緊急搬送されてきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島総合病院②
JA広島総合病院の全景で左側の南棟は令和6年3月に竣工したようで、当病院の前身は昭和22年(1947)12月23日に農業会佐伯病院として開設されたようである。当ブログ主が小学高学年の時に鼻茸治療のために下画像の佐伯病院に通っていたことを思い出した。(下画像-ふるさとの写真集より)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島総合病院
広電宮島線のJA広島病院前駅は平成10年(1998)9月1日に開業された請願駅で、宮内駅-地御前駅間にある広島総合病院前に新規開設された駅である。朝の6時・7時台には当駅始発の7便の折り返し便がある。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島病院前駅
時折り紹介している市道堂垣内広池山線工事の可愛川に架かる架橋工事の進捗状況で、昨日大きなクレーン車が2台止まっていたが架橋工事は行われていなかった。もうすぐ架橋の工事が行われるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
今年は色々と事情があって通年より10日以上も早く終わることが出来た。広大な田園地帯のような田んぼではなく箱庭みたいな田んぼで、助っ人を得て4条植えの田植え機で植え付けた。親の時代には下画像のような三角枠で印の所に数人の早苗(?)が植付て、手前に回転させ後すだりをして植えていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/田植え
ウォーキング途中、道路脇から河川に向かって繁茂しているウツギの小さな白い花がびっしりと咲いていた。ウツギの茎は小竹のように中空であり子供の頃に笛を作っていたことを思い出して作ってみたがうまく鳴らなかった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ウツギ
ウォーキング途中、歩道脇にある側溝のコンクリート隙間に大きな株を張り小さなピンクの花びらをつけた花があった。Googleレンズで検索するとユウゲショウのようで、原産地は南米から北米南部、帰化植物のようである。どこからか種が飛んできてコンクリートのわずかの隙間に入り込んで成長したようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ユウゲショウ
菩提寺の総会で久しぶりに参詣した。本堂前には石造の天水桶が設置されているが刻銘には露盤とある。この天水桶は大正3年(1914)にこの地からハワイのカウアイ(加哇)島のケカハ、ワイノヤ。リフエ、キャリー、マカウエ、ハナベ、カバア、キャリヤなどに移民した人々の寄進によるものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/西連寺の天水桶
ウォーキング途中、里山の山裾に数輪のササユリが咲いていた。山裾にはまだ咲いていない蕾も各所にみられもうすく咲くものとみられる。里山に人の手が入らなくなってササユリも減少しているようであるが、ここの山裾は毎年手を入れておられるので保たれているのである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ササユリ
宮島サービスエリアからみた一昨日の平良丘陵開発の現状で、上画像は展望できる東側部分で尾根筋が掘削されて低くなっている。下画像は西側部分で谷筋が埋め立てられて広大な平地となっている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/平良丘陵開発の今
ウォーキング途中で見かけたことがないような鮮やかな花をみかけた。Googleレンズで検索してみるとカルミア・オスボレットようである。北米やキューバに分布するツツジ科の常緑低木のようで、紅色の濃い蕾がびっしりと付いており開いた花は桃色であった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-カルミア・オスボレット
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞第三区地帯標石は岩根砲台から2250間(4095m)の第三区地帯の区域標石である。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/近代戦争制限区域標石-呉要塞第三区地帯標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港付近には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞地帯区域標石は要塞地帯法に基づいた陸軍・海軍連帯告示によるもので、宮島の紅葉谷道、大元谷道や岩船岳に向かう尾根筋など7ケ所にみられる。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。ttps://ameblo.jp/n3491/近代戦争制限区域標石-呉要塞地帯区域標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞地区域は明治36年(1903)5月1日に陸軍・海軍省連帯告示で広島湾要塞区域と改称されており、大野地区高見川上流の地蔵橋脇に広島湾要塞第三地帯標石がある。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp...近代戦争制限区域標石-広島湾要塞第三地帯標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。宮島の腰細浦にある軍港第二(三)区標石は呉鎮守府とあり呉軍港境域の標石である。呉港部分が一区でその他の部分が二区とされたが後に呉港部分に一区、二区が設定されその他が三区とされ、刻字がバランス良くない三となっているのである。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-軍港第二(三)区標石
野貝原山の第53号第54号かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。陸軍輸送港域は2区に分けられており、昨日紹介した第一区は防御営造物から250間(455m)、第二区は750間(1365m)に設定された。廿日市市域では第二区標石が極楽寺・野貝原山系など赤丸ケ所に残されていたが、野貝原山の第53号は造成のため消滅した。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-陸軍輸送港域第二区標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。陸軍輸送港域は2区に分けられており、旧廿日市市と旧大野町境の標高108.2mの三角点ケ所に画像の陸軍輸送港域第一区標石があったがふじタウン造成のため所在不明である。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-陸軍輸送港域第一区標石
県道247号廿日市港線の串戸陸橋下の交差点脇に建立されている旧平良村・宮内村境の標石で、旧国道脇の村境に明治33年(1900)12月31日に建立された。廿日市港線の整備に伴って当初の場所から現在地に移設された。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/村境標石
市有林の貸付山林で宮内地区(旧宮内村)では講中単位で貸し付けが行われているようである。折敷畠山の山系で的場講、串戸講、宮迫講、明石講、北山講の山林使用境の表示が見られる。もう講中組織はないものと思われるが・・・移転先のAmebaブログでも更新をしていきますのでご来訪お待ちしています。https://ameblo.jp/n3491/市有山林使用山境
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況を時折り紹介しているが、東側の工事はほぼ終わっているようである。周辺整備がもう少し残っているのだろうか。今年度は西側の橋脚工事が行われるのであろう。市道堂垣内広池山線工事の今
昨日、田植えの一便が助っ人により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。平野地で圃場整備された四角な田んぼであれば苦労は少ないが、いびつな箱庭のような段々田では何かと大変である。田植え
早朝、田んぼの水廻りを兼ねた夏場のウォーキングコースとなり速谷神社に参詣した。現在、楼門や神門、社殿に防護覆いがしてあり修復工事が行われているようである。速谷神社社殿の修復工事
一昨日の中国新聞に広電宮島線でかつての廿日市駅舎前にある山田漬物店が閉店されることが大きく掲載されていた。以前にも紹介したが、昭和18年(1943)にマキノバスが広島電鉄に買収統合されて廿日市営業所となった。当ブログ主が小学生の頃、漬物店の所に営業所と待合所があったのを記憶している。昭和29年(1954)に国道2号線沿い(メガネ21ケ所)に移転しており、昭和42年(1967)に廃止となっている。(下画像-ふるさとの写真集)広電廿日市営業所跡
知り合いの畑にみたことが無いような植物があり名前を教えて貰ったが覚えることは出来なかった。画像を撮ってGoogleレンズで検索するとキク科に属するアザミの仲間の多年生宿根草本のアーティチョークのようであった。蕾を貰ったがどのようにして食べるのか分からずネットで調理方法を調べてみたが、御飯に味噌汁人間には・・・アーティチョーク
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
先日来、諏訪大社を参詣したことを紹介したが、諏訪大社上社前宮と下社秋宮で鋳造鳥居を撮影することが出来た。上社前宮の鳥居は鋳造銘文によると大正10年(1921)年に鋳造建立されたようであり、下社秋宮の鳥居は刻銘分によると文化12年(1815)に鋳造建立されたようである。鋳造鳥居二基
さくらのおか公園や周辺の法面に鮮やかな黄色の花が咲いており何の花かと思っていたが、なんと特定外来生物に指定されたオオキンケイギクとのことであった。この花は日本の生態系に重大な影響をおよぼすおそれがある植物ということで栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されているようである。臨港道路廿日市草津線の分離帯でもオオキンケイギクの群生がみられた。特定外来生物オオキンケイギクが!
アルプス公園内に設けられている山と自然博物館の5階展望室からは北アルプス連峰や松本平、安曇野平など360度が一望できた。生憎の曇天で美しい北アルプス連峰の画像は撮れず画像のような状態であった。アルプス公園からの遠望
今年の3月に訪れてから再度の探訪となった。城内見物は数珠繋ぎ状態であったが、前回の時よりは少な目であった。前回は時間の関係で赤い埋橋方面に行くことが出来なかったが赤い折れ曲がった埋橋と天守閣画像が撮れた。松本城は国宝の天守閣5城の一つであり、現存の天守閣12城の一つでもある。国宝松本城天守閣探訪
松本城下町に祀られている深志神社を参詣した。当神社は中世にこの地の領主により先日来紹介している諏訪大社の分霊を宮村宮としてこの地に祀り、北野天満宮の分霊が他所に祀られていた。後に天満宮を宮村宮の傍に遷し宮村両社とされていたのを深志神社と改称されたようである。ここの宮司さんは何と当市佐方にお住まいであったようで、遥か昔に当ブログ主は父上様と姉上様に別々の場所でお逢いしたことがあったのである。深志神社
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社春宮は旧中山道脇に祀られている。社殿配置は秋宮とほぼ同じようであり中央に神楽殿があり、後方に弊拝殿と左右片拝殿と東西御宝殿が配置されている。現在車道となっている参道中央に下馬橋(太鼓橋)があったが、マイクロバス移動だったので撮影できなかった。これで諏訪大社の上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮を参詣することが出来た。諏訪大社参詣-下社春宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社秋宮は旧中山道と甲州街道が交わる地に祀られている。温泉地であり手水に温泉(御神湯)が使われている。社殿の周囲には7年に一度の大祭である御柱大祭の4本の御柱が立てられている。諏訪大社参詣-下社秋宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、前宮は本宮より少し離れた場所に祀られている。諏訪信仰の発祥の地だったが、室町中期に本宮の地に神殿が移転したようである。本殿は神明造りで伊勢神宮の用材で建てられたようである。諏訪大社参詣-上社前宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、上社本宮は弊拝殿の左右に片拝殿が並んでいる諏訪造りという社殿配置のようである。四脚門は徳川家康が寄進した門のようである。7年に一度の大祭である御柱大祭の一ノ御柱のみしか撮影できなかった。諏訪大社参詣-上社本宮
下関市豊田町殿居に祀られている厳島神社で、江戸期の防長寺社由来によると芸州佐伯郡宮島勧請とあり、文安5年(1448)に願主佐伯盛安によって再造立されたようである。江戸期、長州藩一門家老である吉敷毛利家の5代当主毛利広包が社殿を再建している。各地の厳島神社㉚-殿居の厳島神社
昨日は某研修旅行で名古屋から木曽路、諏訪地方にきた。諏訪大社など参詣して諏訪湖畔のホテルに宿泊した。慣れないタブレットから送信。信州探訪
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で海中部分の工事は去年位に終わっていた。現在何かの工事が行われているようであり、上部橋梁工事に向けての準備工事が行われているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
半世紀前頃に訪れた地にあった窯元で記念に求めたものである。安来市伯太町母里には江戸期、松江藩の支藩であった母里藩の陣屋があった所で、陣屋跡や街並み、母里焼の窯元など探訪し求めたものである。ノコギリの刃のようにギザギザの町並みがあったのを現在でも覚えている。現在、求めた母里焼窯元は廃窯となっているようである。抹茶碗で一服①-母里焼
以前に紹介した河野原溜め池のほかに、迫の谷下流のジャングル化した中に小さな溜め池がまだ残されていた。宝暦2年(1752)の上平良村の地誌に「河ノ原留池水持4畝拾弐歩水懸り3町2反」とある。子供の頃この溜め池で泳ぐようになっていたが、浅く小さいために前述のため池に仲間達とこっそりと行っていたのを思い出した。遥か昔の話。河ノ原溜め池