時折り紹介している市道堂垣内広池山線工事の可愛川に架かる架橋工事の進捗状況で、昨日ウォーキングをしていると現場に鉄骨の橋桁が搬入されていた。もうすぐ架橋の工事が行われるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
令和6年もいよいよ今日かぎりとなりました。先日紹介していたしめ飾りを当ブログ主流と娘流で先日仕上げてそれぞれの玄関に飾った。※当ブログは老化防止のために記しているぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪閲覧して頂き大いに励みとなりました。来年も老体鞭打って更新を続けたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。大晦日
龍虎大頭神社境内社の注連縄瀬戸の滝立岩ダム白髭神社大蛇辰年(竜・龍)も明日限りとなりました。今までに市域でみかけた龍に関する画像を紹介しよう。龍虎の蔵飾り、大頭神社境内社でみた龍型の注連縄、吉和地区にある咬龍の滝と言われる瀬戸の滝、龍神湖と言われる立岩ダム。隠岐の白髭神社では大蛇と言われる藁蛇が龍頭に見えた。さようなら辰・竜・龍年
辰年(竜・龍)ももうすぐ終わり、辰年も本日を含めて3日となりました。今までに市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介しよう。このなかには残念ながら消滅したものもあります。通常このような漆喰細工は鏝絵と称されているが、当ブログ主は蔵飾りと称しています。さようなら辰・竜・龍年
椎茸栽培用のホダ木は年数が経つと腐食や白アリに喰われて廃棄するので補充は欠かせないのである。(下画像は数年前に植菌したもの)一昨日助っ人と椎茸栽培用にドングリの木(クヌギか)を伐採した。春頃に植菌して2年後くらいに椎茸が生えてくるようになるのである。椎茸栽培用のホダ木伐採
昨日紹介した陶磁器酒樽には丸亀支店「正宗」とあり、中画像の酒ラベルには丸亀酒場「正宗」YYANAKIMASAMUNEとある。下画像の陶磁器酒樽には宮城商店「正宗」とある。家納喜酒造の前身は、明治34年(1901)に丸亀小六が酒造業を始めており、大正7年(1918)に合資会社丸亀商店を設立しているがいつの時代の銘酒なのだろうか。銘酒「正宗」の謎
ウォーキング途中に丸亀支店「正宗」とある陶磁器酒樽があったことを以前に紹介したが、小川に落ちて上部が壊れ後ろ向きに置いてあった。この陶磁器酒樽はかつて廿日市の銘酒であった家納喜の前身時代のものとみられるが詳しいことは定かでない。丸亀支店「正宗」の陶磁器酒樽が!!
昨日紹介したしめ飾りは「はつかいち」ぶらり流の作り方で若い者には・・・娘から上画像のようなしめ縄の輪っかを作るよう頼まれた。下画像は今年正月に飾っていたしめ飾りで、若者好みのしめ飾りを作るようである。しめ飾りづくり
我が家の玄関に架けるしめ飾りを作った。上画像のように3つのパーツを作り上側2つの藁束を2等分して捩じりながら綯っていく。下側のパーツは真ん中で折り曲げ適当な長さに切る。綯ったパーツの大きいものを輪がたにし小さなものは2重輪型にして画像のように先端部を切り取る。これら3つのパーツを組み合わせて縛り上げてウラジロ、ダイダイ、センリョウなどを取り付けて完成である。29日に仕上げる予定でほぼ下画像のようになる。しめ飾りづくり
難病と付き合いながら今年も元気であった証として注連縄を大歳神社の本殿と拝所に架けて奉納した。今年は藁不足で拝所の注連縄は短めとなり仕上がりも良くなかった。平成22年(2010)に作り始めたがいつまで続くやら・・・河野原大歳神社の注連縄奉納
今年も元気であった証として例年通り河野原大歳神社の本殿と拝所の注連縄づくりを行った。従来あった拝殿は老朽化のために撤去され仮設的な拝所が設けられたのである。拝所の注連縄は通常みかける注連縄とは変わったものを今年も作ってみたが仕上がりが良くなかった。河野原大歳神社の注連縄づくり
宮島サービスエリアの展望所よりみた平良丘陵開発の現在で、久しぶりに訪れてみたが商業用用地となる大きな用地が築造されていた。以前クレーター状の大きな穴があっが小さくなっており、以前にはこの付近は深い谷があったところだったのである。平良丘陵開発の今
五庵山の東麓からみた平良丘陵開発の現在で、久しぶりに訪れた見たが商業用用地となる大きな法面が築造されていた。上画像の高い山が中世の星ケ城跡で右側の少し低く見える山に極楽寺がある。平良丘陵開発の今
吉野山の高圧線鉄塔の高圧線の張替えの準備作業のために両側にある鉄塔上部に登って寒空の中作業をされていた。上画像では見えにくいが高圧線か作業用のワイヤーなのかは不明であるが垂れたものや斜めになったものなど一見すると「あやとり」に見えた。巨大なあやとり
広島市南区にある旧陸軍被服支廠を保存活用するために耐震化工事が始まったとテレビ報道がされていた。昭和4年(1929)の大広島市街地図をみると比治山公園南側の宇品線沿いに被服支廠の広大な用地が見られ、現在4棟の被服支廠の煉瓦建物が残されている。内部画像など2001年に広島県建築士会が行った見学会に参加して撮影したものである。旧陸軍被服支廠の耐震化工事
天神山の下にある蓮教寺本堂前に植えられている大ソテツは元津和野藩船屋敷にあったもので、旧津和野藩士であった田原小左衛門の寄付により移植されたものである。このソテツは県下5番目の大きさのようであり、市の天然記念物に指定されている。蓮教寺の大ソテツ
廿日市市市民センターに隣接した旧国道と県道廿日市停車場線の四辻にかつて胡堂が祀られていた。(廿日市絵図赤丸ケ所)大正期には新港町に移設されていたようであるが、昭和期に天満神社境内に移され11月20日が祭日として祀られている。中世佐西浦の集落では度々市立てが行われていたが、集落中心に祀られていた胡堂の御開帳のある20日の市には信仰心の熱い近郊近在の人々が集まり、廿日の市が著名となって地名として定着したものと思われるのである。(廿日市の地名)廿日市四辻の胡堂跡
上画像は天神山からみた昨日紹介の中央市民センター東隣の地で、赤線の範囲に江戸期鋳物師で庄屋をしていた山田氏が経営していた廿日市本陣があった。廿日市本陣の間取り図が残されていたので、このような建物があったのではと立体復元間取り図と姿図をはるか昔に作図したものである。廿日市本陣跡地
元佐伯郡役所元中央公民館上画像は天神山のすぐ下に見える中央市民センターで、この地にはかつて西洋建築を模した擬洋風建築の佐伯郡役所があった。しかし昭和47年(1972)に中央公民館の建築のために取り壊されたのである。その後中央市民センターが建築されて2階に郡役所の看板と模型が展示されている。(佐伯郡役所建築について)廿日市市中央市民センター
天神山から平良方面の遠望で、ざっと右端の緑屋根が見える付近から左側の高いマンションより向こう側が平良地区になる。宮内地区と界する長尾根の名残りの山がマンション横にみられ、長尾根部分は陽光台団地となっている。画像中央を西広島バイパスの廿日市高架橋が横切っている。右側の高い山が野貝原山で右端に泉水峠の林道工事ケ所がかすかにみられる。天神山から平良方面遠望
吉野山に高圧線鉄塔が建っていたことを先日紹介したが、上画像の山上の低い鉄塔から高い鉄塔に高圧線を架け替える準備作業が行われているようである。画像では分かりにくいが鉄塔の上に人影がみられ架け替え準備作業が行われているようである。吉野山の高圧線鉄塔工事の今
厳島神社平舞台前にある左右楽房の屋根は上画像のように直線的になっている。ところが江戸期の芸州厳島名所図会の絵図には中画像のように神社社殿と同じように曲線的な屋根となっており、明治期の絵葉書でも曲線的な屋根となっている。(下画像)明治後期の台風被害により再建の際に直線的な屋根に改変されたようである。その後何度か台風被害により再建されたが何故か江戸期の姿に戻されていないのである。厳島神社左右楽房の屋根
市道堂垣内広池山線の工事で可愛川に架かる橋梁の橋台工事で東側の工事完了については以前に紹介したが、現在西側の橋台工事が行われている。看板表示によると今年度末までの工事のようである。市道堂垣内広池山線工事の今
以前に吉野山にある高圧線鉄塔が建て替えられる準備作業が行われていることを紹介していたが、足首を痛めウォーキングが出来なくなってこの工事のことは忘れていた。ところが我が家からも見える所にもう高い鉄塔が立てられていたのである。順次上に向かって区組み立て工事が行われていたのに全く気が付かなかったのである。ウォーキングで順次見ていなくなると・・・吉野山の高圧線鉄塔
先日来紹介していた速谷神社の大しめ縄など8本のしめ縄の飾り房を昨日取り付け終わって、拝殿前に大しめ縄を架け奉納を済ませた。その他のしめ縄は後日架けられるようである。速谷神社しめ縄奉納
一昨日の新聞報道で宮島口の西にある元広銀の保養施設「レゾナンス宮島」の跡地に高級ホテル「ヒルトン」が新築開業されるようである。遥か昔のレゾナンス宮島時代には関係者のお世話で何度か利用したことがある。宮島を借景とした素晴しい庭園があり、庭園の一角には木造の数奇屋風の建物があり「碧庵」と扁額が掲げてある茶室がある。(画像は2008年撮影)レゾナンス宮島跡地が!
速谷神社拝殿に架ける注連縄が細く貧弱であったので、平成25年(2013)に大頭神社の大注連縄づくりにOLD俱楽部有志が参加させて頂き作り方を習得して、翌年から大注連縄を作り始めた。今年11回目の大注連縄が出来たが有力な習得者が欠けていき後継者が育ってこないので先行きが・・・速谷神社の大注連縄変遷
二重原地区に祀られている八幡神社を久しぶりに参詣したら幣殿両脇に祀られている随身さんの格子が破られて随身像がバラバラになっていた。人為的にされたものとは思われずバラけた随身像を見ると内部に蜂の巣があったので熊の仕業とみられるのである。二重原八幡神社の随身像が!!
昨日紹介した大注連縄のコモ編み3枚が終わって、芯材を新しく編んだコモで包み込み捩じりながら綯っていくのが難しい作業である。拝殿と斎館、儀式殿、注連柱、境内社など大小8本の注連縄が出来上がった。後日、飾り房など最後の仕上げを行う予定である。注連縄づくり②
新年に向けて速谷神社に奉納する注連縄づくりの準備作業がOld俱楽部の有志達で始まり、まず大注連縄のコモ編みから取り掛かった。コモ編み機のことをコモカセ、コモガセ、イテセニ(アイヌ集落)などと呼ばれていたようで、紐巻のことをツヅラコ、コマ、カチコ、ツロロ、ツツロ、ツツラ、ツツラコ、ツチノコ、ピッ(アイヌ集落)などと各地方で呼称されていたようである。注連縄づくり①
昨日の速谷神社境内のモミジやイチョウは綺麗に紅葉しており見頃であった。月初めの日曜日で参詣者の人や紅葉見物の人達が多く見られた。また、正月に向けて奉納する注連縄づくりの作業も始まった。速谷神社の紅葉
島根県吉賀町樋口地区に祀られている厳島神社で当初は滝壺というところに祀られていたようである。明治期に現在地に造営され樋口地区にあった速田明神などの小社7社が合祀されたようである。各地の厳島神社㊳-樋口の厳島神社
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時折り紹介している市道堂垣内広池山線工事の可愛川に架かる架橋工事の進捗状況で、昨日ウォーキングをしていると現場に鉄骨の橋桁が搬入されていた。もうすぐ架橋の工事が行われるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
久しぶりに通ったウォーキング途中の畑の一部に麦を植えておられた。穂が熟しているようなのでぼちぼち刈り取りを迎える時期ではなかろうか。穂先をみると小麦のようである。この地域で麦畑を見ることは殆どないが、出雲平野では広大な麦畑があちらこちらでみられたことを思い出したのである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/麦秋
昔、親の時代に減反政策で梅の木を植えた所がジャングル状態になっていたので昨日草刈りをした。自然に生えたものか定かでないが大きな桑の木かあり沢山の実が付いていた。もう少しすると熟しておいして実になるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/桑の実
令和6年3月に竣工した南棟上層階の外周に配置されている病室は中画像のように凹凸のある変わった平面とされている。屋上にはヘリポートが設置されており、ドクターヘリ、防災ヘリ、自衛隊ヘリなどの受入ができるようである。駐車場にいるときにドクターヘリが患者さんを緊急搬送されてきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島総合病院②
JA広島総合病院の全景で左側の南棟は令和6年3月に竣工したようで、当病院の前身は昭和22年(1947)12月23日に農業会佐伯病院として開設されたようである。当ブログ主が小学高学年の時に鼻茸治療のために下画像の佐伯病院に通っていたことを思い出した。(下画像-ふるさとの写真集より)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島総合病院
広電宮島線のJA広島病院前駅は平成10年(1998)9月1日に開業された請願駅で、宮内駅-地御前駅間にある広島総合病院前に新規開設された駅である。朝の6時・7時台には当駅始発の7便の折り返し便がある。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島病院前駅
時折り紹介している市道堂垣内広池山線工事の可愛川に架かる架橋工事の進捗状況で、昨日大きなクレーン車が2台止まっていたが架橋工事は行われていなかった。もうすぐ架橋の工事が行われるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
今年は色々と事情があって通年より10日以上も早く終わることが出来た。広大な田園地帯のような田んぼではなく箱庭みたいな田んぼで、助っ人を得て4条植えの田植え機で植え付けた。親の時代には下画像のような三角枠で印の所に数人の早苗(?)が植付て、手前に回転させ後すだりをして植えていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/田植え
ウォーキング途中、道路脇から河川に向かって繁茂しているウツギの小さな白い花がびっしりと咲いていた。ウツギの茎は小竹のように中空であり子供の頃に笛を作っていたことを思い出して作ってみたがうまく鳴らなかった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ウツギ
ウォーキング途中、歩道脇にある側溝のコンクリート隙間に大きな株を張り小さなピンクの花びらをつけた花があった。Googleレンズで検索するとユウゲショウのようで、原産地は南米から北米南部、帰化植物のようである。どこからか種が飛んできてコンクリートのわずかの隙間に入り込んで成長したようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ユウゲショウ
菩提寺の総会で久しぶりに参詣した。本堂前には石造の天水桶が設置されているが刻銘には露盤とある。この天水桶は大正3年(1914)にこの地からハワイのカウアイ(加哇)島のケカハ、ワイノヤ。リフエ、キャリー、マカウエ、ハナベ、カバア、キャリヤなどに移民した人々の寄進によるものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/西連寺の天水桶
ウォーキング途中、里山の山裾に数輪のササユリが咲いていた。山裾にはまだ咲いていない蕾も各所にみられもうすく咲くものとみられる。里山に人の手が入らなくなってササユリも減少しているようであるが、ここの山裾は毎年手を入れておられるので保たれているのである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ササユリ
宮島サービスエリアからみた一昨日の平良丘陵開発の現状で、上画像は展望できる東側部分で尾根筋が掘削されて低くなっている。下画像は西側部分で谷筋が埋め立てられて広大な平地となっている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/平良丘陵開発の今
ウォーキング途中で見かけたことがないような鮮やかな花をみかけた。Googleレンズで検索してみるとカルミア・オスボレットようである。北米やキューバに分布するツツジ科の常緑低木のようで、紅色の濃い蕾がびっしりと付いており開いた花は桃色であった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-カルミア・オスボレット
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞第三区地帯標石は岩根砲台から2250間(4095m)の第三区地帯の区域標石である。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/近代戦争制限区域標石-呉要塞第三区地帯標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港付近には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞地帯区域標石は要塞地帯法に基づいた陸軍・海軍連帯告示によるもので、宮島の紅葉谷道、大元谷道や岩船岳に向かう尾根筋など7ケ所にみられる。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。ttps://ameblo.jp/n3491/近代戦争制限区域標石-呉要塞地帯区域標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞地区域は明治36年(1903)5月1日に陸軍・海軍省連帯告示で広島湾要塞区域と改称されており、大野地区高見川上流の地蔵橋脇に広島湾要塞第三地帯標石がある。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp...近代戦争制限区域標石-広島湾要塞第三地帯標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。宮島の腰細浦にある軍港第二(三)区標石は呉鎮守府とあり呉軍港境域の標石である。呉港部分が一区でその他の部分が二区とされたが後に呉港部分に一区、二区が設定されその他が三区とされ、刻字がバランス良くない三となっているのである。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-軍港第二(三)区標石
野貝原山の第53号第54号かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。陸軍輸送港域は2区に分けられており、昨日紹介した第一区は防御営造物から250間(455m)、第二区は750間(1365m)に設定された。廿日市市域では第二区標石が極楽寺・野貝原山系など赤丸ケ所に残されていたが、野貝原山の第53号は造成のため消滅した。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-陸軍輸送港域第二区標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。陸軍輸送港域は2区に分けられており、旧廿日市市と旧大野町境の標高108.2mの三角点ケ所に画像の陸軍輸送港域第一区標石があったがふじタウン造成のため所在不明である。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-陸軍輸送港域第一区標石
上平良地区の吉野山にある中電の廿日市八幡線高圧線鉄塔(上画像赤丸ケ所)が同じ山上で少し位置を変えて建替えられるようである。藤戸の谷の田んぼでは作業をするための用地が整備されていた。吉野山の高圧線鉄塔
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況を時折り紹介しているが、東側の工事はほぼ終わっているようである。周辺整備がもう少し残っているのだろうか。今年度は西側の橋脚工事が行われるのであろう。市道堂垣内広池山線工事の今
昨日、田植えの一便が助っ人により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。平野地で圃場整備された四角な田んぼであれば苦労は少ないが、いびつな箱庭のような段々田では何かと大変である。田植え
早朝、田んぼの水廻りを兼ねた夏場のウォーキングコースとなり速谷神社に参詣した。現在、楼門や神門、社殿に防護覆いがしてあり修復工事が行われているようである。速谷神社社殿の修復工事
一昨日の中国新聞に広電宮島線でかつての廿日市駅舎前にある山田漬物店が閉店されることが大きく掲載されていた。以前にも紹介したが、昭和18年(1943)にマキノバスが広島電鉄に買収統合されて廿日市営業所となった。当ブログ主が小学生の頃、漬物店の所に営業所と待合所があったのを記憶している。昭和29年(1954)に国道2号線沿い(メガネ21ケ所)に移転しており、昭和42年(1967)に廃止となっている。(下画像-ふるさとの写真集)広電廿日市営業所跡
知り合いの畑にみたことが無いような植物があり名前を教えて貰ったが覚えることは出来なかった。画像を撮ってGoogleレンズで検索するとキク科に属するアザミの仲間の多年生宿根草本のアーティチョークのようであった。蕾を貰ったがどのようにして食べるのか分からずネットで調理方法を調べてみたが、御飯に味噌汁人間には・・・アーティチョーク
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
先日来、諏訪大社を参詣したことを紹介したが、諏訪大社上社前宮と下社秋宮で鋳造鳥居を撮影することが出来た。上社前宮の鳥居は鋳造銘文によると大正10年(1921)年に鋳造建立されたようであり、下社秋宮の鳥居は刻銘分によると文化12年(1815)に鋳造建立されたようである。鋳造鳥居二基
さくらのおか公園や周辺の法面に鮮やかな黄色の花が咲いており何の花かと思っていたが、なんと特定外来生物に指定されたオオキンケイギクとのことであった。この花は日本の生態系に重大な影響をおよぼすおそれがある植物ということで栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されているようである。臨港道路廿日市草津線の分離帯でもオオキンケイギクの群生がみられた。特定外来生物オオキンケイギクが!
アルプス公園内に設けられている山と自然博物館の5階展望室からは北アルプス連峰や松本平、安曇野平など360度が一望できた。生憎の曇天で美しい北アルプス連峰の画像は撮れず画像のような状態であった。アルプス公園からの遠望
今年の3月に訪れてから再度の探訪となった。城内見物は数珠繋ぎ状態であったが、前回の時よりは少な目であった。前回は時間の関係で赤い埋橋方面に行くことが出来なかったが赤い折れ曲がった埋橋と天守閣画像が撮れた。松本城は国宝の天守閣5城の一つであり、現存の天守閣12城の一つでもある。国宝松本城天守閣探訪
松本城下町に祀られている深志神社を参詣した。当神社は中世にこの地の領主により先日来紹介している諏訪大社の分霊を宮村宮としてこの地に祀り、北野天満宮の分霊が他所に祀られていた。後に天満宮を宮村宮の傍に遷し宮村両社とされていたのを深志神社と改称されたようである。ここの宮司さんは何と当市佐方にお住まいであったようで、遥か昔に当ブログ主は父上様と姉上様に別々の場所でお逢いしたことがあったのである。深志神社
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社春宮は旧中山道脇に祀られている。社殿配置は秋宮とほぼ同じようであり中央に神楽殿があり、後方に弊拝殿と左右片拝殿と東西御宝殿が配置されている。現在車道となっている参道中央に下馬橋(太鼓橋)があったが、マイクロバス移動だったので撮影できなかった。これで諏訪大社の上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮を参詣することが出来た。諏訪大社参詣-下社春宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社秋宮は旧中山道と甲州街道が交わる地に祀られている。温泉地であり手水に温泉(御神湯)が使われている。社殿の周囲には7年に一度の大祭である御柱大祭の4本の御柱が立てられている。諏訪大社参詣-下社秋宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、前宮は本宮より少し離れた場所に祀られている。諏訪信仰の発祥の地だったが、室町中期に本宮の地に神殿が移転したようである。本殿は神明造りで伊勢神宮の用材で建てられたようである。諏訪大社参詣-上社前宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、上社本宮は弊拝殿の左右に片拝殿が並んでいる諏訪造りという社殿配置のようである。四脚門は徳川家康が寄進した門のようである。7年に一度の大祭である御柱大祭の一ノ御柱のみしか撮影できなかった。諏訪大社参詣-上社本宮
下関市豊田町殿居に祀られている厳島神社で、江戸期の防長寺社由来によると芸州佐伯郡宮島勧請とあり、文安5年(1448)に願主佐伯盛安によって再造立されたようである。江戸期、長州藩一門家老である吉敷毛利家の5代当主毛利広包が社殿を再建している。各地の厳島神社㉚-殿居の厳島神社
昨日は某研修旅行で名古屋から木曽路、諏訪地方にきた。諏訪大社など参詣して諏訪湖畔のホテルに宿泊した。慣れないタブレットから送信。信州探訪
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で海中部分の工事は去年位に終わっていた。現在何かの工事が行われているようであり、上部橋梁工事に向けての準備工事が行われているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
半世紀前頃に訪れた地にあった窯元で記念に求めたものである。安来市伯太町母里には江戸期、松江藩の支藩であった母里藩の陣屋があった所で、陣屋跡や街並み、母里焼の窯元など探訪し求めたものである。ノコギリの刃のようにギザギザの町並みがあったのを現在でも覚えている。現在、求めた母里焼窯元は廃窯となっているようである。抹茶碗で一服①-母里焼