searchカテゴリー選択
chevron_left

カテゴリーを選択しなおす

カテゴリーのご意見・ご要望はこちら
cancel
プロフィール
PROFILE

hathuさんのプロフィール

住所
広島県
出身
広島県

自由文未設定

ブログタイトル
『はつかいち』ぶらり
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/hera_001
ブログ紹介文
安芸の宮島がある廿日市−見たままを紹介します。
更新頻度(1年)

367回 / 365日(平均7.0回/週)

ブログ村参加:2007/05/12

本日のランキング(IN)
フォロー

ブログリーダー」を活用して、hathuさんをフォローしませんか?

ハンドル名
hathuさん
ブログタイトル
『はつかいち』ぶらり
更新頻度
367回 / 365日(平均7.0回/週)
フォロー
『はつかいち』ぶらり

hathuさんの新着記事

1件〜30件

  • 現存天守閣-松本城

    長野県松本市にある松本城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国宝天守閣5城の一つでもある。別名は深志城といわれている。松本城は五層の天守閣で築造についての確定的な資料はないようで、竣工は文録4年(1595)説、慶長2年(1597)説、慶長5・6年(1600・01)説などがあるようである。(平成19年(2007)撮影)現存天守閣-松本城

  • 現存天守閣-弘前城

    旅のつれづれで訪れた現存天守閣を紹介しよう。青森県弘前市にある弘前城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり国の重要文化財に指定されている。別名は高岡城といわれている。現在の天守閣は文化7年(1810)に棟上げをしているようであり、天守閣は現在石垣の修復工事のために別の場所に曳き移転されている。令和7年度(2025)に天守閣を曳き戻し、令和8~10年度(2026~2028)に天守閣の耐震補強・保存修理がされるようである。(平成27年(2015)撮影)※当方「はつかいちぶらり」と放浪が出来ませんので、しばらくの間老化防止のためストック画像から更新しますので宜敷くお願い致します。現存天守閣-弘前城

  • 近代学校建築-旧八幡東学校(白雲館)

    滋賀県近江八幡市にある旧八幡東学校(現白雲館)で、明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国の登録文化財に指定されている。正面玄関のポーチや2階バルコニー、六角塔屋、軒裏蛇腹など従来の日本建築にはみられない擬洋風建築である。(平成26年(2014)撮影)近代学校建築-旧八幡東学校(白雲館)

  • 近代学校建築-旧開明学校

    愛媛県西予市にある旧開明学校で、明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国の重要文化財に指定されている。伝統的な木造建築に洋風の半円型の窓を取り入れたもので和風色の濃い擬洋風建築である。(平成27年(2015)撮影)近代学校建築-旧開明学校

  • 近代学校建築-旧開知学校

    滋賀県長浜市にある旧開知学校で、明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国の登録文化財に指定されている。木造の3階建て玄関出入口の丸柱、扇型欄間の出入り口、上げ下げ窓と上下の花形レリーフ、屋根には八角塔屋など従来の日本建築にはみられない擬洋風建築である。(平成30年(2018)撮影)近代学校建築-旧開知学校

  • 近代学校建築-旧中込学校

    旅のつれづれで訪れた近代学校建築を紹介しよう。長野県佐久市にある旧中込学校で、明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国の重要文化財に指定されている。正面玄関ポーチやベランダ、2階バルコニー、八角塔、円柱で柱頭の繰型、繰型礎石、半円の窓上部な、丸窓など従来の日本建築にはみられない擬洋風建築である。(平成23年(2011)撮影)近代学校建築-旧中込学校

  • 近代学校建築-旧開智学校

    旅のつれづれで訪れた近代学校建築を紹介しよう。長野県松本市にある旧開智学校で明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国宝に指定されている。正面玄関部分のバルコニー上部の唐破風の屋根や雲文の手摺、龍の彫刻など和風とバルコニーや八角塔、天使像などの洋風が混在した従来の日本建築にはみられない擬洋風建築である。(平成19年(2007)・平成23年(2011)撮影)近代学校建築-旧開智学校

  • 移築された石葺き屋根の倉庫

    以前に紹介した熊本県和水町のトンカラリン方面に向かう道路の反対方面にある肥後民家村に対馬の石葺き屋根の倉庫が移築されている。(上画像-平成19年(2007)撮影)園内には数棟の民家や水車小屋などが移築保存されている。福岡県福津市にある宮地嶽神社民家村自然苑内にも対馬の石葺き屋根の倉庫が移築されている。(下画像-令和元年(2019)撮影)苑内には合掌造りや二棟造り、くど造り、鉤屋造りなどの民家が移築されているが維持管理がされてないようであり、ネット情報によると合掌造りの一棟が取り壊されたようである。移築された石葺き屋根の倉庫

  • 石葺き屋根の倉庫

    石葺き屋根の倉庫平成30年(2018)に対馬を訪れ、佐須瀬・久根浜・久根田舎・上槻・椎根地区などに残されていた25棟の石葺き屋根の倉庫をみることができた。屋根材はかつて島内産出の砂岩を挟む地層(対州層群)の石材を使用したようで、小船越地区で下画像のような地層がみられた。※「はつかいちぶらり」と放浪が出来ませんので、しばらくの間老化防止のためストック画像から更新しますので宜敷くお願い致します。石葺き屋根の倉庫

  • 板葺き石置き屋根の民家 ④

    平成23年(2011)に飛騨高山方面を旅行した時に飛騨民俗村(飛騨の里)を訪れた。園内にはかつて飛騨地方にあった榑(クレ)葺き屋根の民家が数棟移築保存されていた。当地では榑葺き屋根といわれているようである。ネズ、サクラ、カラマツ、ナラ、クリ材などを木の目にそって均等の厚さに裂いたものが榑板のようでこれを屋根に葺いているものである。板葺き石置き屋根の民家④

  • 板葺き石置き屋根の民家 ③

    2015年(平成27年)に佐渡島観光で訪れ宿根木集落の路地を散策していたら2棟の板葺き石置き屋根の建物をみかけた。当地では石置木羽葺屋根というようである。現在、主屋や納屋の屋根約40棟が石置木羽葺屋根に復原されているようで、特徴的な景観のひとつとなっているようである。板葺き石置き屋根の民家③

  • 板葺き石置き屋根の町屋 ②

    2010年(平成22年)に中山道宿場跡の妻籠宿の町並みを訪れた時に2棟の板葺き石置き屋根の町屋がみられた。長い町並みを歩いてみたが高い位置に屋根があるのでこの2棟しか目につかなかった。宿場内には板葺きの屋根が数ヶ所残っているようで、建物の保存と葺き替え作業の伝承を目的に順番に屋根の葺き替え作業を行っているようである。板葺き石置き屋根の町屋②

  • 板葺き石置き屋根の町屋

    2013年(平成25年)に金沢を訪れた時に同市の市街地野町で板葺き石置き屋根の町屋がみられた。この建物は市街地に唯一残る板葺き石置き屋根の建物として貴重な建物として金沢市保存建造物に指定されているようである。「金沢の町家」(鹿島出版会)によると金沢の町家は大正期まで板葺き石置き屋根で瓦の普及は昭和の初めからとのことである。※「はつかいちぶらり」と放浪が出来ませんので、しばらくの間老化防止のためストック画像から更新しますので宜敷くお願い致します。板葺き石置き屋根の町屋

  • 市域の旧町村誌(史)-廿日市町史通史編

    旧廿日市町で刊行された廿日市町史で通史編(上)、通史編(下)は昭和63年(1988)に発行されている。通史編(上)には廿日市町の自然と環境、原始・古代の廿日市、古代の廿日市、中世の廿日市、近世の廿日市、通史編(下)には近代の廿日市、現代の廿日市、廿日市の民俗、特論編など論述されている。通史編(上)に中世山城の遺跡、通史編(下)に家屋の構造と旧町域の中世山城の調査や農家や町屋の調査での愚稿と作図を掲載して頂いた。市域の旧町村誌(史)-廿日市町史通史編

  • 市域の旧町村誌(史)-廿日市町史資料編

    旧廿日市町で刊行された廿日市町史で資料編Ⅰは昭和54年(1979)、資料編Ⅱは昭和50年(1975)、資料編Ⅲは昭和52年(1977)、資料編Ⅳは昭和56年(1981)、資料編Ⅴは昭和58年(1983)に発行されている。資料編Ⅰには古代・中世資料、資料編Ⅱには近世資料・町域旧村資料が、資料編Ⅲには近世編年資料、資料編Ⅳには近代・現代資料(上)、資料編Ⅴには近代・現代資料(下)が収録されている。市域の旧町村誌(史)-廿日市町史資料編

  • 市域の旧町村誌(史)-宮島町史

    旧宮島町で刊行された宮島町史で資料編・地誌紀行1は平成4年(1992)、資料編・石造物は平成5年(1993)、特論編が平成9年(1997)に発行されている。厳島神社のある宮島は歴史もあり文化財、資料も豊富にあり、国際的な評価に耐えうる町史編纂をと計画されていたが財政的悪化で上記の3巻発刊のみで編纂事業は中止となった。資料編・地誌紀行1は江戸期に編纂された地誌、名所案内記、名所図会など収録されている。資料編・石造物は宮島町内に存在する石造物を調査し写真、実測図、銘文など掲載されている。特論編は厳島神社をはじめとする宮島町内の神社建築、寺院建築、民家建築を論述したものである。市域の旧町村誌(史)-宮島町史

  • 市域の旧町村誌(史)-佐伯町誌

    旧佐伯町で刊行された佐伯町誌で資料編一は昭和56年(1981)3月31日、資料編二は昭和59年(1984)3月31日、本編が昭和61年(1986)3月31日に発行されている。資料編一には重要文化財に指定されている文書、村関係資料、諸家所蔵文書、転載文書など収録、資料編二には佐伯町所有資料、諸家所蔵文書、碑文・社寺遺文などが収録されている。本編には私たちの町・佐伯町編で佐伯町の生い立ち、佐伯町の自然環境など4章、町域の歴史編で前史時代、古代、中世、近世など記述、文化編、民俗編など記述されている。市域の旧町村誌(史)-佐伯町誌

  • 市域の旧町村誌(史)-吉和村誌

    旧吉和村で刊行された吉和村誌で第一集は昭和61年(1986)12月1日に発行、第二週は昭和60年(1985)7月1日に発行されている。第一編自然と有形文化では気候、生物、民家、民具、地名など記述され、第二編では文書資料などが掲載されている。第二集の第三編生活伝承-衣食住、生産と労働、通運・交易、社会生活、通過儀礼、年中行事、口承文芸・芸能、宗教・信仰などにわたり記述されており、民俗学色の濃い村誌である。市域の旧町村誌(史)-吉和村誌

  • 各地産出の凝灰岩

    ①来待石来待石②福光石福光石③笏谷石笏谷石④日華石日華石先日、NHKのブラタモリで千葉県房総半島にある鋸山の凝灰岩房州石採石場跡を紹介していた。当ブログ主がみてきたその地方で産出の凝灰岩について紹介する。①松江市来待町でかつて産出していた来待石採石場跡にはモニュメントミュージアム来待ストーンが設けられて来待石について色々が展示紹介されている。(下画像-ミュージアム展示パネルより)②温泉津町福光にある福光石石切り場では現在も採石されており、事前予約すれば採石場を案内して頂ける。③福井市足羽山で産出していた笏谷石を加工して福井県坂井市丸岡町にある丸岡城の屋根瓦や鯱鉾瓦が作られていた。④北陸の小松市で産出する日華石は石切り場によって滝ケ原石、観音下石、大杉石などといわれているようであり、同市平面町でみた石蔵で地域色の...各地産出の凝灰岩

  • 市域の旧町村誌(史)-大野町誌

    旧大野町で刊行された大野町誌は昭和37年(1962)3月31日に初版が発行され、平成4年(1992)3月31日に第二版が発行されている。大野町史の外観編では原始・古代・中世社会、近世村落の成立など十一項目で記述され、大野町誌編では大野の自然、政治、経済、産業、教育など二十二項目で記述されている。市域の旧町村誌(史)-大野町誌

  • 在りし日の地御前町屋

    中世末期から江戸期にかけて地御前神社の門前町として成立した地御前の町並みは社会変化や生活様式の移行により町屋独特の家並みが失われている。画像の平面図・立面図はすでに失われている地御前町屋を昭和後期頃に調査させて頂いたものである。(上画像-廿日市町史附録絵図より)在りし日の地御前町屋

  • 在りし日の廿日市町屋

    中世から江戸期にかけて成立した廿日市の町並みは社会変化や生活様式の移行により町屋独特の家並みが失われている。画像の平面図・立面図はすでに失われている廿日市町屋を昭和後期頃に調査させて頂いたものである。二棟の町屋は江戸後期の長州戦争時に焼失し以降に建築されていたものである。(上画像-廿日市町史附録絵図)在りし日の廿日市町屋

  • 水稲稚苗

    田植え時期が迫ってきたが昨日、第一便の稚苗が配付されてきた。今年は日照不足で苗色が悪いとのことであったがうまく育ってくれれば良いのであるが・・・残念ながら今年の田植え仕事は助っ人頼みとなりそうだ。水稲稚苗

  • ブラシノキ

    ウォーキングの途中、川向こうに見たことがないような赤い花が見られたので、訊ねてみたらブラシノキということであった。見るとブラシの形状をしていた。Wikipediaによると別名はカリステモン、ハナマキ(花槙)、キンポウジュ(金宝樹)ともいうようであり、赤の長い花糸が穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見えるようである。ブラシノキ

  • 麦秋

    ウォーキング途中の原地区で麦畑の小麦がたわわに実っておりもうすぐ刈り取りをされるのであろうか。当地域は温暖であり昔は麦の取入れが終わってから田植えの準備をしていたものである。数年前に出雲平野で広大な麦畑をみたことがある。麦秋

  • 遊びの菜園-赤米・黒米

    昨年の秋に出雲方面を訪れた途中、道の駅で古代米の赤米と黒米の玄米を購入した。玄米からでも芽が出るかと種蒔きしたら少しずつ芽がでてきた。下段右側が黒米で左側が赤米である。上段は昨年秋に収穫した陸稲の籾を蒔いたものである。何れも種蒔きが遅かったので現状のような状態である。遊びの菜園-赤米・黒米

  • 厳島合戦絵図

    山口県文書館広島市中央図書館広島大学文学部国立公文書館東京大学安芸高田市歴史民俗資料館厳島合戦の信憑性のある資料は「棚守房顕覚書」などみられるが、一般的に知られている合戦の経緯は江戸時代に記された軍記物の「陰徳太平記」からである。史料的価値は低く史実とは異なる部分があるようである。厳島合戦を描いた絵図が数点みられるが、これらは軍記物の「陰徳太平記」をもとに描かれているようである。(出典-デジタルアーカイブ・吉田町歴史民俗資料館図録より)厳島合戦絵図

  • 洞雲寺の陶晴賢墓碑

    厳島合戦絵図高安ガ原陶晴賢敗死之所碑陶晴賢首塚弘治元年(1555)9月30日、厳島に於いての毛利元就と陶晴賢の合戦で陶晴賢の敗死場所は諸説あるが、高安ガ原で自刃したとの説により高安ガ原に陶晴賢敗死之所碑が建立されている。毛利元就は桜尾城で陶晴賢の首実検をして丁重に弔って石塔を洞雲寺に建立した。陶晴賢首塚は洞雲寺西墓地にあり、安山岩製の宝篋印塔と花崗岩の基礎石となっているので後世に整備されたものとみられる。洞雲寺の陶晴賢墓碑

  • 廿日市木地屋の挽造活動 ②

    当ブログ主が若い頃須賀町でろくろ細工の碁器を製造されていた(上画像)のを記憶しているが何時ごろまで稼業されていたのであろうか。明治大正期頃の旧廿日市町には6軒のろくろ細工の木工場があったようで、下画像は明治37年(1904)に調整された講中椀であり廿日市の木工場で製造されたものとみられる。(上画像-図説廿日市の歴史)廿日市木地屋の挽造活動②

  • 廿日市木地屋の挽造活動

    廿日市木地屋の江戸期における挽造活動については資料不足で明らかでないが、多くは木椀、木皿、盆などの生活用品を製造していたものと思われる。これらのほかに和傘用の開閉部品である上轆轤と下轆轤の生産をして広島城下に積み出されていたようである。ろくろ技術から派生した十露盤づくりも行われ近郷近在では廿日市十露盤は有名であったようである。(下画像「ふるさとひろしま」より)廿日市木地屋の挽造活動

カテゴリー一覧
商用