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  • 熊本方面旅行

    昨日は地域のお世話をしている人達とサントリー熊本工場を見物した。当方は飲めないので試飲はノンアルコールを・・・慣れないタブレットより更新熊本方面旅行

  • 林道玖島川末線開設工事の遠望

    原地区の川末側と泉水峠側から林道工事が行われていることは以前にも紹介したが、山中の工事であり進捗状況は定かでなく現在の遠望画像である。県道294号虫道廿日市線の険道区間が林道として建設整備されているようである。林道玖島川末線開設工事の遠望

  • 抹茶碗で一服③-上野焼

    若い頃に北九州の窯元を訪れた時に記念に求めたもので、福岡県田川郡赤池町(現福智町)上野皿山にある上野焼は遠州七窯の一と言われ三窯元を巡ったように記憶している。この茶碗は高鶴窯の高鶴夏山の作品である。抹茶碗で一服③-上野焼

  • 移設保存されている蔵飾り

    公共工事に伴って取り壊された土蔵に設けられていた龍と弁財天が表されている蔵飾りで、取り壊しの際に蔵飾り部分を切り取っておられた。他の場所に新築された物置の妻壁面にこの蔵飾りが復元設置され彩色も施されている。通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵に設けられているものは蔵飾りと称している。移設保存されている蔵飾り

  • 各地の厳島神社㉛-宇佐神社境内社の厳島神社

    岩国市錦町宇佐にある宇佐神社本殿脇に祀られている境内社で厳島大明神夏焼社と表示してある。江戸期の地誌によると夏焼地区に中御前社がみられ、祭神は市杵島姫命、祭日が6月17日とある。明治期に中御前社と他二社とが合祀し夏焼社と改号し、いつの時代かに境内社として祀られ厳島大明神夏焼社と称されるようになったようである。各地の厳島神社㉛-宇佐神社境内社の厳島神社

  • 廿日市鋳物師の鋳造作品⑧-国前寺の梵鐘

    廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市東区山根町にある国前寺の鐘楼に架けられている梵鐘で、刻銘によると元禄7年(1694)に山田治右エ門が鋳造している。この梵鐘も喚鐘と同じ山田貞栄が鋳造している。この梵鐘は鐘楼内に架けられており常時見ることが出来ない。画像は見学会が催された時のものである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑧-国前寺の梵鐘

  • 遊びの菜園―陸稲の今

    田んぼの稲は穂が実りつつあるが、畑に植えた陸稲と陸植え2代目黒米の現在である。陸稲の背丈は低いが穂が出つつある。上画像の左側の陸植え2代目黒米は背丈も低く稲穂は出ないかもしれない。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園―陸稲の今

  • 平良丘陵開発の今

    早朝ウォーキングで宮島サービスエリアに行き平良丘陵開発地を遠望すると、以前に仮設建物のようなものが築造されていると紹介したことがある。仮設の足場状の所にディスプレイが設置されており何かの画像が放映されていた。早朝の用地内で誰もいないところで(?_?)平良丘陵開発の今

  • 廿日市鋳物師の鋳造作品⑦-国前寺の喚鐘

    廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市東区山根町にある国前寺の庫裡に架けられている喚鐘で、刻銘によると元禄7年(1694)に山田治右衛門藤原貞栄が鋳造している。この喚鐘は庫裡内に架けられており常時見ることが出来ない。画像は見学会が催された時のものである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑦-国前寺の喚鐘

  • 吉野山の鉄塔移設工事の今

    吉野山に設置されている中電の高圧線鉄塔(画像向こう側)が移設されることを以前に紹介したが、現在画像の手前側に見える掘削機があるところで基礎工事がおこなわれているものとみられる。吉野山の鉄塔移設工事の今

  • 廿日市鋳物師の鋳造作品⑥-生見の鉄燈籠

    廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。岩国市美和歴史民俗資料館に展示されている生見の鉄燈籠で、以前に訪れた時は美和町生見中村の覆屋の中に設置されておりその時に作図した。当時は鉄燈籠の腐食が激しかったが後に修復されて歴史民俗資料館に展示されるようになった。腐食が進んで鉄燈籠の鋳出銘文は見えないが、江戸期の地誌に「天文十五丙午八月吉日廿日市之住大工綱家」とあり、天文15年(1546)に廿日市鋳物師の久枝綱家が鋳造したことがわかる。(覆屋鉄燈籠画像―山口県文化財要録より)廿日市鋳物師の鋳造作品⑥-生見の鉄燈籠

  • 原低区配水池工事の今

    台風一過、早朝ウォーキング途中で原小学校プール脇の原低区配水池工事現場では配水タンクの設置工事中であった。また川末川に架かる下ケ原橋からここの場所までの道路にはアスファルトの切断がされていたので給水パイプの埋設工事が行われるのであろう。原低区配水池工事の今

  • 廿日市鋳物師の鋳造作品⑤-浄教寺の梵鐘

    廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市西区草津本町にある浄教寺の鐘楼門に架けられている梵鐘で、狭い鐘楼内で画像が撮りづらかった。刻銘によると享保元年(1716)に山田治右衛門貞能が鋳造しており、中帯下段には唐草文様が抽出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品⑤-浄教寺の梵鐘

  • 廿日市鋳物師の鋳造作品④-善行寺の喚鐘

    廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。三原市幸崎能地地区にある善行寺の本堂に架けられている喚鐘で、刻銘によると延享3年(1746)に山田次右衛門貞幹が鋳造している。草の間には唐草のくずし文様が鋳出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品④-善行寺の喚鐘

  • 廿日市鋳物師の鋳造作品③-多田八幡神社の鰐口

    廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市佐伯区湯来町の多田地区にある多田八幡神社の鰐口で、寛保2年(1742)8月に上多田四原総氏子中が寄進している。冶工は廿日市山田氏と鋳出されているので、当時の鋳物師山田次右衛門貞幹が鋳造したものとみられる。廿日市鋳物師の鋳造作品③-多田八幡神社の鰐口

  • ならず者御用だ!

    先日、田んぼの防護柵を壊してならず者が田んぼの中を歩き回っていた。まだ稲の穂が出たばかりであり稲の被害はなかったがもう少し実ってくると大変だ。一昨日捕獲檻のセットをして貰いならず者を御用とした。6月以降この場所での捕獲は7匹目であり吉野山には多く生息しているものだ。ならず者御用だ!

  • 廿日市鋳物師の鋳造作品②-善徳の梵鐘

    廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市安佐北区深川2丁目にある善徳寺の鐘楼に架けられている梵鐘で、寛永11年(1634)7月に広島市中区の白神神社の鐘として山田次右衛門尉が鋳造したものである。どのような経緯で当寺に移ったのかは定かでない。梵鐘の中帯上部には仏型座像と中帯下部には蓮弁のくずし文が鋳出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品②-善徳の梵鐘

  • 橋本辻地蔵

    昨日紹介した辻地蔵がある橋本はかつて石州往還道と山縣道が分岐する交通の要所で賑わっていたところである。辻地蔵はかつて道路向い側にあり、地蔵の基礎石には「是ヨリ右山縣道左石州道」とある。江戸期には『原で橋本田舎で名所、出馬入馬市がたつ』と唄われるほどの賑わいであったようで、昭和中頃まで役場、郵便局、農協、商店、医院、駐在所、理髪店、鍛冶屋などあったが今や商店一軒のみで閑散としている。橋本辻地蔵

  • 橋本辻地蔵まつり

    昨日は原地区にある橋本辻地蔵の地蔵まつりが近所の人達で行われた。当ブログ主が子供の頃、地蔵まつりは原村の一大イベントで盆踊りや子供相撲などが行われ、一番の楽しみは麦藁クジで、麦藁クジは小さく小切った麦藁の中に当たりクジが入っていたものであった。最終のバスが通った後に道路一杯に麦藁が撒かれ一斉に我先にと搔き集めて当たりクジを探すもので、当たりクジがあれば生活用品が貰えていた。橋本辻地蔵まつり

  • インドの国民車アンバサダーが!

    先日紹介した蓮台寺の境内にレトロな車が置かれて「アンバサダー釈CARしゃ(インドの車)」と表示してあった。Wikipediaによるとヒンドゥスタン・アンバサダーはインドのヒンドゥスタン・モーターズが1958年から2014年まで生産した自動車で、インドの国民車として生産されていたようである。インドの国民車アンバサダーが!

  • 疥癬病発症のキツネか?

    家の周りを見たことがないような小動物がうろついていた。孫が画像を撮って何かと検索してくれたがすぐには分からなかった。夏休みで博多から来ている孫たちは携帯ばっかりいらっており何をしに来たのかと昭和初期人間は・・・しかし、色々と調べてくれ疥癬病を発症しているキツネではなかろうかと教えてくれた。疥癬病発症のキツネか?

  • 瑜伽大権現―「蓮台寺」・由加神社

    瑜伽大権現は明治期の神仏分離令により由加神社と蓮台寺に分離されているが、山内の広くに蓮台寺の施設が散在しておりその中に由加神社の境内があり、神仏混合の瑜伽大権現時代の名残りである。客殿は本瓦葺裳階付入母屋造の堂々たる建造物で県の重文に指定されているようであり、多宝塔は県内最大の規模のようで県の重文に指定されている。瑜伽大権現―「蓮台寺」・由加神社

  • 瑜伽大権現―「由加神社」・蓮台寺

    以前に権現山頂の廃瑜伽祠について記し、江戸期の地誌に「此祠、備前児島に移すといひ伝ふ」とあったので、児島地区にある瑜伽大権現(由加神社・蓮台寺)まで足を延ばした。由加山は古くから磐座信仰が行われ、瑜伽大権現と呼ばれ神仏習合の山であったようである。由加神社の鳥居は珍しい備前焼の鳥居であり、狛犬も熊野神社と同じような備前焼のものであった。本宮本殿は県の重文に指定されているようであり、本殿脇には磐座信仰が行われていた巨岩がみられる。瑜伽大権現―「由加神社」・蓮台寺

  • 五流尊瀧院

    三重塔梵鐘後鳥羽上皇御影塔後庵室五流尊瀧院は修験道の寺院で昨日紹介した熊野神社は明治時代の神仏分離令により十二社権現が熊野神社として祀られたようである。三重塔は文政3年(1820)に建立されたようで県の重文に指定されており、鐘楼に架けられている梵鐘は康正3年(1457)に鋳造されたようで県の重文に指定されている。後鳥羽上皇御影塔は仁治元年(1240)に亡くなった後鳥羽上皇の供養のために建立されたようで国指定重要文化財に指定されている。五流尊瀧院

  • 熊野神社

    昨日は孫娘の運転する車に便乗し倉敷美観地区からは車を借りて別行動で、林地区にある熊野神社に久しぶりに参詣した。備前焼に近い地であり備前焼の狛犬に出迎えられた。社殿は第一殿から第六殿まであるが現在第四殿は修復工事中であった。熊野神社

  • 廿日市鋳物師の鋳造作品①-誓光寺の梵鐘

    廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。呉市吉浦中町にある誓光寺の鐘楼に吊り下げられている梵鐘は貞享5年(1688)に山田貞栄が鋳造している。銘文によると広島金屋町の長安寺に寄進されていたようであるが、どのような経緯で当寺に移されたのかは定かでない。この梵鐘は呉市の有形文化財に指定されている。廿日市鋳物師の鋳造作品①-誓光寺の梵鐘

  • 広島はつかいち大橋の今

    時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。看板表示によると来年4月14日までの工事のようである。工事名は「国際拠点港湾広島港臨港道路廿日市草津線広島はつかいち大橋海上部上部工工事」と表示してあった。広島はつかいち大橋の今

  • 平良丘陵開発の今

    田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで、宮島サービスエリアの展望所に行き平良丘陵開発の用地を展望した。西側の用地内では仮設の建物が建築中のようであり、その向こう側では市道堂垣内広池山線の工事が行われていた。工事ケ所北側入口に掲示されている看板によると、どの範囲かは分からないが工期は来年3月末のようである。平良丘陵開発の今

  • 掘削機器が勢揃い

    田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで、宮島サービスエリアの展望所に行き平良丘陵開発の用地を展望した。用地内では盆休みのために多くの掘削機器や先日紹介した大型ダンプカーなどが勢揃いしていた。掘削機器が勢揃い

  • 遊びの菜園-陸稲・陸植2代目黒米の今

    陸稲の苗と古代米の陸植2代目黒米の苗を畑に植えてみた現在で、右側は陸稲、左側は陸植2代目黒米である。黒米は本来水田に植えるものなのであるが陸植2代目黒米は画像のような状態であり、籾は取れないかもしれない。手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・陸植2代目黒米の今

  • 河野原大歳神社の今

    取り壊し前先日、上平良地区にある河野原大歳神社の拝殿が取り壊されたことを紹介した。ウォーキング途中に訪れてみると本殿上に仮設的な覆屋が設けられていた。少ない氏子でありこれが存続していく限度のようである。河野原大歳神社の今

  • 河野原大歳神社の今

    取壊し前先日上平良地区にある河野原大歳神社の拝殿が老朽化により取り壊されていたことを紹介した。ウォーキング途中訪れてみると本殿の上に仮設的な覆い屋根が設けられていた。少ない氏子で守っていくのはこれが限度のようである。河野原大歳神社の今

  • トッピン―肉桂水

    昨日ラムネ瓶を紹介したが懐かしい飲み物で、画像のような肉桂水は今でもあるのだろうか。子供の頃トッピンと言っていたが催し物か町に出た時しか飲むことはなかった。当時瓶の蓋はコルク栓であったが後にアルミ蓋となったようである。左側はハタ鉱泉㈱のニッキ水、中央はオーパイ㈱のニッケ水の空瓶、右側は四国明治飲料㈱のニッキ水である。トッピン―肉桂水

  • ラムネ瓶のいろいろ

    酷暑が続いており、呉市の飲料メーカーではラムネの生産が最盛期を迎えていると新聞、テレビで報道されていた。当ブログ主が子供のころはなかなか飲ませて貰えるものではなかった。中に入っているガラス玉が不思議でほしかったのを思い出した。上画像の右側は昔のリサイクル瓶で、左側は「¬吉ラムネ製造所、山崎商店」と浮文字があり専用のリサイクル瓶だったようである。時代が下がると下画像のように上部がプラスチック製となっているのである。ラムネ瓶のいろいろ

  • 消滅した蔵飾り

    ウォーキング途中にあった民家が取り壊されて土蔵に施されていた蔵飾りも消滅した。屋敷側の蔵飾りは牛に袋みたいなものを乗せ金太郎が籠を背負いあぐらを組んでいる像であった。反対側は宝貴祈願の福袋が表されていたのであるが・・・通常は鏝絵と称されているが蔵に施されているものを当ブログ主は蔵飾りと称している。消滅した蔵飾り

  • 蔵飾り―那須の与市

    ウォーキング途中にある民家の土蔵に施された蔵飾りで、道路側は弓の名手那須の与市が扇の的を射落とす様子を表した像が施されている。屋敷側は見ることが出来ないが以前に拝見させてもらった時の画像で、祝福芸能である萬歳を表しており、太夫が扇をかざして祝言を唱え才蔵が小鼓を打っている像である。通常は鏝絵と称されているが蔵に施されているものを当ブログ主は蔵飾りと称している。蔵飾り―那須の与市

  • 蔵飾り―恵比寿

    ウォーキング途中にある民家の土蔵に施された蔵飾りで、道路側は鯛乗り恵比寿が表されている。屋敷側は見ることが出来ないが以前に拝見させてもらった時の画像で、犬が福袋を引っ張っている像である。通常は鏝絵と称されているが蔵に施されているものを当ブログ主は蔵飾りと称している。蔵飾り―恵比寿

  • 謎の石燈籠

    速谷神社境内の儀式殿前に建立されている石燈籠は、萬治3年(1660)に奉納されたもので境内に建立されている石燈籠の内で一番古いものである。江戸期に奉納された石燈籠はすべて地元の住人によるものであるが、この石燈籠は刻銘に「肥前国松浦平戸住人、谷川助左衛門尉成勝」とある。谷川助左衛門は長年平戸町の町役人や町年寄などを務めていた有力町人であったが、遠く離れた地の住人がどのような経緯で当神社に寄進したものであろうか・・・謎の石燈籠

  • 盆燈籠の習俗

    高松市地域高松市地域高松市地域丸亀市地域丸亀市地域昨日盆燈籠を作ったことを紹介したが、このようなカラフルな盆燈籠の習俗は浄土真宗の安芸門徒を中心に現在は他宗派でも行われている。他地方での盆燈籠の習俗については数年前に訪れた讃岐地方でみかけたもので、上画像は高松市と周辺地域、下画像は丸亀市地域でみられたもので地域によって盆燈籠形状が異なっていた。盆燈籠の習俗

  • 盆燈籠作り

    昨日紹介した燈籠の骨組みに張り付けたり、取り付けたりする各パーツを燈籠紙を使って作っていく。燈籠各面に貼る長三角形の燈籠紙、六角形の頂部に取り付ける飾り房などを順次張り付けて完成となるのである。長三角形の燈籠紙は一ケ所だけ下半分は糊付けしないのである。昔は漏斗型の下部にナスやキュウリのへた等を置いてローソクを立てており、ここから火をつけていたのである。盆燈籠作り

  • 盆燈籠作りー骨組み

    盆が近くなったので毎年作っている盆燈籠の下準備で、竹藪から切り取った篠竹の根元部を六つ割にする。六つ割の上部に六角枠を入れ込む割れ目を入れる。竹ひごをロウソクの火で炙り六角に折り曲げて六角枠をつくり、割れ目にはめ込んで燈籠の骨組みが出来上がるのである。盆燈籠作りー骨組み

  • 後畑河内神社

    先日、後畑河内神社の鳥居と天然記念物指定の巨樹を紹介したが、昭和57年(1982)に祠堂調査を行った時に御神体を拝見させて頂いた。神仏習合時代の名残りで薬師如来像と随身像が祀られていた。後畑河内神社

  • 巨大起重機船「駿河」

    先日来紹介してきた広島はつかいち大橋の橋桁架設には巨大な起重機船によって行われた。起重機船は深田サルベージ建設の「駿河」で、主巻定格荷重2200tのようである。このような巨大な起重機船を見ることはほとんどないが次はどこに行くのであろうか・・・巨大起重機船「駿河」

  • 広島はつかいち大橋の今

    時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。廿日市市側の橋桁第5ブロックの架設は先日紹介したが、昨日の午前中、廿日市市側最後の橋桁第6ブロックが起重機船により橋脚上に吊り降ろされていた。これで全架橋となったのである。広島はつかいち大橋の今

  • 後畑河内神社境内の巨樹群

    河内神社の境内には大きな樹木が多くみられ、この中でコウヤマキ(上画像)とヒノキ(下画像)が市の天然記念物に指定されている。看板表示によるとコウヤマキは胸高幹囲199cm、樹高25.5mとあり、県内6位の大きさのようである。ヒノキは胸高幹囲221cm、樹高30mのようである。かつて胸高幹囲300cmの松の木があったが枯れてしまった。後畑河内神社境内の巨樹群

  • 後畑河内神社の鳥居

    原地区後畑集落にある河内神社は長い石段を上がったところに祀られており、木造の両部鳥居は現在石段登り口にある。昭和57年(1982)に祠堂調べで訪れた時には石段の中間点位置に建立されていたが、現在跡地には礎石の一部が残されている。後畑河内神社の鳥居

  • 体験学習の田んぼ

    原小学校では近くの田んぼで米つくりの体験学習が行われており、ウォーキング途中にある田んぼをみると稲苗の植え筋がずれており農家の方が植えたものでないことがわかるのである。以前にカカシやハゼカケなどを紹介したことがある。体験学習の田んぼ

  • 原低区配水池工事

    ウォーキング途中、原低区配水池工事で原小学校プール脇の工事では配水タンクの基礎は既に完成していた。中画像のような配水タンクが設置されるものとみられる。平良・原地区界付近では中継配水タンクの基礎工事が行われていた。原低区配水池工事

  • 広島はつかいち大橋の今

    時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。廿日市市側の橋桁第4ブロックの架設は先日紹介したが、昨日の午前中、廿日市市側の橋桁の第5ブロックが起重機船により橋脚上に吊り降ろされていた。もう1ブロックの架設で全架橋となるのである。広島はつかいち大橋の今

  • 平良丘陵開発用地内の大型ダンプカー

    平良丘陵開発用地内にみられるダンプカーは通常道路を走っているダンプカーとは違った工事用地内専用の大型ダンプカーのようである。大型ダンプカー・・・下画像は孫たちが小松市にいた頃(2013)の小松駅前に設置されていた「コマツ電気駆動ダンプトラック930E—2」で最大積載量296,728kgと表示してあった。平良丘陵開発用地内の大型ダンプカー

  • 平良丘陵開発の今

    廿日市の街中から見た平良丘陵開発用地のほぼ全域の現在である。画像中央を西広島バイパスの廿日市高架橋が横切っている。向こうの高い山の左側が中世の城跡である星ケ城跡で、右側の山に極楽寺がある。かつて開発用地内には極楽寺への廿日市参道があったのであるが・・・(廿日市参道①廿日市参道②)平良丘陵開発の今

  • 広島はつかいち大橋の今

    時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。広島市側の橋桁第3ブロックの架設は先日紹介したが、昨日の午前中、廿日市市側になるのであろうか橋桁の第4ブロックが起重機船により橋脚上に吊り降ろされていた。広島はつかいち大橋の今

  • 管弦祭(聞き取りー松明振り)

    昨夜は十七夜、厳島神社では管弦祭が斎行され、下画像は過去の厳島神社前と地御前神社沖の画像である。上画像は原地区北方に聳える通称汐見山(右側高い峰)で、山頂には三等三角点(標高635.7m)があり点名は南峠とある。昔、峠の人たちは管弦祭の時に管弦船が地御前神社前についた際に汐見山で松明を振っていたと古老から聞いたことがあった。管弦祭(聞き取りー松明振り)

  • のうが高原廃墟遠望

    バブル全盛期の夢の跡、野貝原山頂あった「のうが高原」の施設(当時のパンフレット)であった大岩風呂棟が朽ちて鉄骨骨組みが露出しているのがみられる。右側の宿泊棟は画像では崩壊状況は確認できない。のうが高原廃墟遠望

  • カープグッズの折り紙

    早朝ウォーキングで平良丘陵開発用地を見るために宮島サービスエリアの展望所に行った。SAトイレの手洗い所壁面にカープグッズを模したカーブの帽子とユニホームの小さな折り紙が吊り下げられていた。カープファンの従業員の方が織り上げて吊り下げられたのであろうか。カープグッズの折り紙

  • ならず者御用だ!

    田の水廻りを兼ねた早朝ウォーキングをしていると、田んぼの近くに設置してある捕獲檻に可愛いウリボウ2匹が捕獲されていた。可愛くても畑を掘り返すならず者であり御用となったのである。ならず者御用だ!

  • クソナバが!

    人も通らないような里道にクソナバが3本(上・中画像)生えていた。Googleレンズで検索してみたがシロハツモドキ、ツチカブリ、キハツダケなどの画像が出てきたがどれに該当するのかよくわからない。当ブログ主は食用にならない名前もわからないキノコをクソナバと称している。クソナバが!

  • 広島はつかいち大橋の今

    時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。広島側の橋桁第二ブロックの架設は既に終わっており、昨日の午前中、橋桁の第三ブロックが起重機船により橋脚上に吊り降ろされていた。広島はつかいち大橋の今

  • コフキサルノコシカケが!

    先日、梅の木を植えた畑で草刈りをした所の老木に通称サルノコシカケが出来ていた。Googleレンズで検索するとコフキサルノコシカケのようで、食用ではなく煎じて薬とするなど、薬用として利用されるようである。コフキサルノコシカケが!

  • 林道玖島川末線工事の遠望

    原地区川末の泉水峠付近で林道工事が行われていることを以前に紹介したが、工事が順次進捗しているようである。上画像は昨年9月の状態であるが現在は下画像のように工事ケ所が延伸しているのである。県道294号虫道廿日市線の険道区間が林道として建設整備されているようである。林道玖島川末線工事の遠望

  • 市道堂垣内広池山線の今

    時折紹介している市道堂垣内広池山線の進捗状況で、宮島サービスエリアから遠望すると平良丘陵開発用地側の工事が始まっているようである。菊ケ迫山の樹木が伐採され掘削も始まっているのであろうか。以前にも紹介したがこの山の尾根筋に旧石州往還の名残りがあったところであった。市道堂垣内広池山線の今

  • ツガノマンネンタケ?

    梅の木を植えている畑の草刈りをしていたら鮮やかな色のクソナバがあった。Googleレンズで検索するとツガノマンネンタケのようであり、枯れ木に発生するとのことであった。しかし雑草の中に生えていたのであるが枯れ枝が雑草の下に埋まっていたのであろうか・・・ツガノマンネンタケ?

  • ホタルブクロが!

    極楽寺山に向かう自動車道脇に見慣れない花が咲いていた。Googleレンズで検索するとホタルブクロのようである。ホタルブクロは中国原産の多年草のようであるが、このような山中にもあるものだろうか・・・ホタルブクロが!

  • 速谷神社-磐座祈りの図

    速谷神社社務所の待合室に掲げられている、磐座の前でこの地の長(おさ)が祈りをささげている図で、先日の中国新聞に掲載されていた。速谷神社の前身は、磐座を神が降臨する場所とする自然崇拝が行われていたものとみられ、その後磐座を中心にして社殿が建立され現在に至っているのである。速谷神社-磐座祈りの図

  • 広島はつかいち大橋の今

    時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の現在である。橋桁の広島側の第一ブロック(上画像の右端)の架設は終わっており、第二ブロックの工事を進めるべく貯木場沖に起重機船が橋桁を吊り下げて待機しているようである。広島はつかいち大橋の今

  • スミレホコリタケ?

    ウォーキング途中で見たことがないようなクソナバがあった。Googleレンズで検索するとスミレホコリタケのようである。当ブログ主は食用とならないような不明のキノコをクソナバと称している。スミレホコリタケ?

  • 河野原大歳神社が!

    しめ縄づくりや春の桜などで時折り紹介している河野原大歳神社の拝殿が老朽化のために撤去されていた。昭和15年(1940)に多くの寄進者によって社殿が建てられ境内周囲にはずらりと並んだ玉垣や数多くの石灯籠が建立され整備されたが・・・現在は氏子数も少なく修復費用の捻出が難しいために本殿のみで存続されるようである。河野原大歳神社が!

  • マタタビの白い葉

    極楽寺山に向かう道すがらの各所に白い花が咲いたように見えるマタタビの葉がみられる。花をつける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようであり、葉の裏側は通常の緑のままである。令和元年に漬けたマタタビ酒を飲んでぶらり「又旅」をしようか・・・マタタビの白い葉

  • 極楽寺山の氷河礫層

    極楽寺山に向かう自動車道で、さくらの里分岐手前の斜面に上画像のような氷河礫層があるが、現在は雑木に覆われておりどこにあるか分からない。看板表示も見えにくくなっており氷河礫層があることを気付く人はいないであろう。河原にあるような玉石がなぜこのような山上にあるのだろうか、この氷河礫層については廿日市の文化第11・12集、廿日市町史通史編(上)に詳述されている。極楽寺山の氷河礫層

  • 蛇の池弁財天社跡

    蛇の池一帯は湿地帯であったものを明治・大正期に農業用溜め池として整備されたものとみられ、田圃灌漑、五穀豊穣など祈念のため堰堤西端の山際に弁財天社が祀られていた。昭和43年(1968)の明治100年記念事業で、道路築造のため弁財天社は周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなって知っている人はもういないであろう。蛇の池弁財天社跡

  • 蛇の池の睡蓮

    梅雨の中休みに極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。ピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲いていたが、以前に訪れた時より鮮やかな色合いが少ないようであった。撮影ポイントである展望台が老朽化のために立ち入り制限されており、池端からの望遠撮影となった。蛇の池の睡蓮

  • サラエノヒトヨタケか?

    雨上がりの井出沿いの小道に直径2cm位の小さい唐傘のようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとサラエノヒトヨタケかクズヒトヨタケのようであるが定かなことは不明である。サラエノヒトヨタケか?

  • 『はつかいちぶらり-別館』

    ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』

  • 路傍の花

    梅雨の合間のウォーキング途中で、紫色の花と朱色の花が重なったような見たことがない花があった。Googleレンズで検索すると上段画像はムラサキルエリアのようであり、下段画像はコエビソウのようである。路傍の花

  • 速谷神社-夏夏越大祓式

    梅雨の合間で6月の晦日であった昨日、速谷神社において前半年間の過ち穢れを祓う神事が行われ、多くの善男善女が茅の輪を三度くぐって家内安全、無病息災、疫病退散を祈っていた。速谷神社-夏夏越大祓式

  • 亀石灯標

    大野地区と宮島との間の大野瀬戸に設置されている亀石灯標で上の浜地区護岸からの遠望画像である。大野瀬戸の中央部や北側、また西方には浅礁が広がっているようであり、昭和25年(1950)5月6日に旧亀石灯柱の位置に灯標を設置点燈したようである。亀石灯標

  • 宮浜温泉3号源泉

    以前に宮浜温泉の駐車場で宮浜温泉3号源泉の掘削準備作業が行われていることを紹介した。それから日にちが随分経過したが昨日所用で訪れてみると駐車場脇に宮浜温泉3号源泉井と思われる囲いがあった。ここから温泉(冷泉)が湧出するのであろうか。宮浜温泉3号源泉

  • 平良っ子わいわい広場

    オープン間近であった平良体育館跡に設けられた公園を以前に紹介したが、すでに「平良っ子わいわい広場」として開放されていた。以前にも紹介したがこの地には平良村役場、平良小学校講堂・体育館(平良小移転後平良体育館)などがあった地である。平良っ子わいわい広場

  • オニフスベか?

    山陽自動車道の宮島サービスエリア展望広場の芝生の中にゴルフボールのようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとオニフスベのようである。大きく育つようであるが多くの人が通るところでありどのようになるだろうか。オニフスベか?

  • 平良丘陵開発の今

    平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の五庵山東麓にある調整池付近からの遠望画像である。昨日は開発用地の上側からの画像であったが今日は下側西方面からの画像である。以前訪れた時には山林の樹木がみられたが用地内では樹木はほとんどなくなっている。平良丘陵開発の今

  • 平良丘陵開発の今

    平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の宮島サービスエリアからの遠望画像である。これから梅雨も本格化していくものとみられる。下画像のような土砂流出の防止策は施されているのであろうが・・・平良丘陵開発の今

  • 広島はつかいち大橋の今

    時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋で、下り線側橋脚工事の現在の工事進捗状況である。看板表示には来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。広島はつかいち大橋の今

  • 高圧線鉄塔の不思議

    原地区にある「ふれあいライフ原」後方の山中に中電の高圧線鉄塔がみられるが、早朝ウォーキングをしていると朝日に照らされて鉄塔上部が白く光って見え、少し場所を変えてみると通常の鉄塔となるのである。高圧線鉄塔は鉄骨部材を組み合わせた骨組みであるのだが、なぜ面的に光って見えるのだろうか?高圧線鉄塔の不思議

  • 速谷神社の風鈴棚

    田んぼの水廻りを兼ての早朝ウォーキングで速谷神社を参詣しているが、夏越祓の茅の輪が設置されていた手前に、風鈴まつりの風鈴棚が設置されていた。鈴がかなでる音色は邪気を払うとのことである。速谷神社の風鈴棚

  • アオサギか ?

    田んぼの水回りを兼ての早朝ウォーキングをしていると藤戸の谷の田んぼにサギがいた。何というサギであろうか?以前にこのようなサギをアオサギと教えて頂いたような気がするが・・・アオサギか?

  • 原低区配水池工事

    久しぶりに原方面をウォーキングしていると、原小学校のプール脇で原低区配水池の工事が行われていた。看板表示によると来年3月末までの工事のようで、下画像のような配水タンクが設けられるようである。原低区配水池工事

  • 抹茶碗で一服②-八幡焼

    安来市広瀬町には中世尼子氏の居城月山富田城があり、江戸期、松江藩の支藩であった広瀬藩の陣屋があった所である。半世紀前頃に月山富田城跡や陣屋跡、街並みなどを訪れ八幡焼の窯元があったので記念に求めたものである。抹茶碗で一服②-八幡焼

  • 「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中

    以前にも紹介したが、佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中で8割方工事が終わっているようにみえる。完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中

  • 吉野山の高圧線鉄塔

    吉野山にある中電の高圧線鉄塔が場所を変えて建て替えられることを以前に紹介した。現在、藤戸の谷の作業用地から山上の鉄塔までの工事部分の山林が伐採されていた。また資材などを運搬する索道の準備作業が行われているようである。吉野山の高圧線鉄塔

  • ならず者御用だ !

    以前紹介した吉野山に生息しているイノシシによって、山裾の畑で被害があったことを聞いていた。当ブログ主の田んぼの近くに以前から捕獲檻が設置されており、一昨日親子のイノシシが捕獲されていた。一昨年は田んぼをイノシシに荒らされたことがあったなぁ・・・ならず者御用だ!

  • 平良地区最下流域の田んぼ--2

    可愛川の西側流域で広電廿日市市役所前駅のロータリと旧国道の間、住宅に囲まれた中にある田んぼが最下流の田んぼである。用水は薬師井手か新宮川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ--2

  • 平良地区最下流域の田んぼ

    可愛川の東側流域で平良保育所脇に見られる田んぼが最下流の田んぼである。用水は柳庵川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ

  • ヒペリカム

    ウオーキング途中に赤い実がびっしりと付いた植物があった。ヒペリカムと教えて頂き、挿し木するとつきやすいとのことで、枝を分けてもらった。挿し木した枝は大きく育ち、黄色の花が咲いて赤い実となりつつある。ヒペリカム

  • カヤのバッタ

    ウォーキング途中にカヤがあったので、久しぶりにバッタを作ってみた。当ブログの最初はウォーキング途中カヤでバッタを作っていたバッタおじさんから習ったバッタ画像であった。カヤのバッタ

  • 遊びの菜園ー陸稲・黒米苗

    水稲育苗箱で陸稲(左側)と黒米苗(右側)が育っている。陸稲は昨年秋に収穫した籾であり、黒米は昨年陸植した籾で陸植2代目となる予定の黒米苗である。陸植した赤米は育ちが悪く籾が採れなかったのである。遊びの菜園ー陸稲・黒米苗

  • かなけ水の田んぼ

    宮園団地の高い法面下の擁壁から赤褐色の水「赤水」「かなけ水」などと呼ばれる水が湧出している。擁壁下にある田んぼはこの水が使用されており既に田植えがされていた。かなけ水を使用した田んぼと通常の川水を使用した田んぼの米の出来ぐわいが異なるのであろうか。かなけ水の田んぼ

  • モリアオガエルの卵塊

    玖島上大町地区のとある谷筋(谷名分からず)を入った所に小さな溜め池があり、その上に張り出した樹木の枝に「モリアオガエル」の産卵の泡である卵塊が数多くみられた。ここの場所では梅雨時期に近いこの頃になると毎年見ることができるのであるが、今年は卵塊の数が少ないようである。モリアオガエルの卵塊

  • 田植えに関する民具⑤

    「引き回転定木」引き回転定木は引っ張っていき円板で筋を付け十の字跡を付けていくものである。上画像と中画像は吉和地区でみたもので、下画像は佐伯歴史民俗資料館に展示されているものである。このような民具は吉和地区と佐伯地区で使用されていたようである。田植えに関する民具⑤

  • 田植えに関する民具④

    「六角枠」六角枠は前に転がして碁盤の目のような跡を付けていくもので、交点に前向きで植えて行くため効率的である。植え筋が縦列と横列が揃った植え方となるのである。田植えに関する民具④

  • 田植えに関する民具③

    「スジツケ」上画像は前に向かって植え筋を付けていくもので、下画像は引いて植え筋を付けていくものである。隠岐郷土館に展示してあるスジツケ(下画像)には「ババ」と表示してあり、出雲地方では筋を引くことをババヒキと言っているようである。筋の上に前に向かって植えて行くので効率的であるが植え手によって間隔はバラバラとなるのである。田植えに関する民具③

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