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hathuさんのプロフィール

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ブログタイトル
『はつかいち』ぶらり
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/hera_001
ブログ紹介文
安芸の宮島がある廿日市−見たままを紹介します。
更新頻度(1年)

374回 / 365日(平均7.2回/週)

ブログ村参加:2007/05/12

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『はつかいち』ぶらり
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『はつかいち』ぶらり

hathuさんの新着記事

1件〜30件

  • 芸州廿日市御本陣旧趾碑

    廿日市市中央市民センターの前庭に「芸州廿日市御本陣旧趾」と刻された石碑が建立されている。碑文の中に「・・・旧地ノ一角ニ碑ヲ建テ・・・」とあり、碑文を読んだ人は中央市民センターの地が本陣跡と間違われそうである。本陣跡は中央市民センター東隣で中画像の赤線内にかつて下画像のような豪壮な本陣屋敷があったようである。この碑もここの一角にあったが二度目の移設で現在地に移されたのである。芸州廿日市御本陣旧趾碑

  • 欧州戦争平和記念玉垣

    天満宮や正覚院のある天神山には何十回と登っているが、参道石段途中の玉垣親柱に欧州戦争平和記念と刻されているのを初めて気が付いた。刻銘によると大正9年(1920)8月に建立されたようである。欧州戦争とあるのは第一次世界大戦のことであろうか?各地に建立されている戦没者慰霊碑に大正3年乃至9年役とあり出征者名、戦死者、従軍者名などが刻されており、欧州戦争にも我が国は無縁でなかったようである。欧州戦争平和記念玉垣

  • 盆燈籠づくり-③

    燈籠の骨組みに燈籠紙を張り角頭に切り房や垂れ房などを張り付けると完成である。下画像の一ケ所ピンク色の燈籠紙下半分は糊付けしなくて開放としているのは、かつてここからローソクの火を付けたりしていた名残りである。中央部分にナスなどのヘタを置き芯棒を差し込んでローソクを立てていたのである。店先に並んでいる燈籠に比べると見劣りするけれど手作りの燈籠でもあり御先祖さんも喜んでくれるであろう。盆燈籠づくり-③

  • 盆燈籠づくり-②

    燈籠の骨組みが出来たので6種類ある燈籠紙を朝顔型花弁の二等辺三角形に切る。二等辺三角形の燈籠紙を燈籠骨組みに張り合わせていくと朝顔型燈籠になる。六角頭に飾る切り房(かつて葬儀の際の野燈籠と同じ作り方)や垂れ房などの加工に手間取るのである。盆燈籠づくり-②

  • 盆燈籠骨組みづくり

    盆が近くなったので毎年墓前に供える盆燈籠を作る準備を始めた。燈籠の骨組みとなる女竹の先端部を6等分に割って朝顔型に折り癖をつけて先端部に切り割を付けておく。朝顔型の上部に嵌め込む6角型の枠を作るために真竹を小割にして削ぎ、ローソク火で炙って曲げ6角型の枠を作る。朝顔型の先端部の切り割に6角型の枠を嵌め込んで燈籠の骨組みが出来上がりである。燈籠紙の貼り付けは何時にしようか・・・盆燈籠骨組みづくり

  • 上村厳島神社

    昨日紹介した山口市徳地上村の月輪寺薬師堂の近くに厳島神社があったので参詣した。二の鳥居神額には厳島新宮と刻されており江戸期の寺社由来によると新宮厳島大明神とあった。安芸国佐伯郡より勧請したとあり、永正9年(1512)や享禄4年(1531)に再建された棟札などが記されており中世からこの地方で祀られていたようである。上村厳島神社

  • 茅葺堂宇-月輪寺薬師堂

    山口市徳地上村にある月輪寺薬師堂で看板表示によると文治年間(1185~90)に鹿野清涼寺から移転再建されたようである。鎌倉時代の山口県内最古の木造建造物で国の重文に指定されている。堂宇はスタンダードな寄棟の茅葺屋根で鐘楼門もかつて茅葺屋根であったようであり現在は薄鉄板葺きとなっている。当薬師堂には平成2年(1990)に皇太子殿下(現天皇)が中世史研究のために行啓されたようである。茅葺堂宇-月輪寺薬師堂

  • 鈴屋厳島社

    当ブログ主は訪れた地にある厳島神社参詣するようにしており、昨日紹介した宇佐八幡宮のある防府市鈴屋地区にある厳島社を参詣した。江戸期の寺社由来には鈴屋村の地蔵堂と炭頭に厳島社がみられ、いずれの社も祭日は6月17日とあり厳島神社の管弦祭と同じ日であるが由緒については不明である。画像の神社はどれに該当するのか不明であり神社地も祠も新しいようでどのような歴史があるのだろうか。鈴屋厳島社

  • 茅葺屋根の社殿-鈴屋宇佐八幡宮

    (人吉市-青井阿蘇神社)(人吉市-岩屋熊野神社)防府市鈴屋地区にある宇佐八幡宮で看板表示によると本殿は貞享5年(1688)に右田毛利就信による再建で、拝殿は文政2年(1819)に右田毛利房顕・氏子により再建されたようである。本殿・拝殿共に茅葺屋根の社殿は珍しくあまり見かけることはない。当ブログ主が今までに見た茅葺屋根社殿の神社は先日多大な水害被害を受けられた人吉市にある青井阿蘇神社と岩屋熊野神社が思い出されるのである。茅葺屋根の社殿-鈴屋宇佐八幡宮

  • 氷上山興隆寺・北辰妙見社

    山口市大内氷上にある大内氏の総氏寺であった氷上山興隆寺・北辰妙見社の現在で、妙見社と中興堂、鐘楼が残されている。大内氏全盛時代には古伽藍図をみると多くの塔頭が並んでいたようであるが、大内氏滅亡後に衰退し江戸期には脇坊が5坊あったが明治期の神仏分離令で寺社領がなくなり昔の面影は無くなったようである。鐘楼の梵鐘は享禄5年(1532)に大内義隆が寄進したもので国重文に指定されている。先日紹介した桜尾山の妙見社は大内氏の氏神である北辰妙見社を勧請して祀られたものと思われるのである。氷上山興隆寺・北辰妙見社

  • 宮島厳島神社

    (山口古図-山口県文書館蔵複製より)(多宝塔画像-山口市指定文化財HPより)山口市宮島町に移築された小さな厳島神社がある。厳島神社は応永14年(1407)に大内盛見が芸州厳島神社を勧請して宇野令村に祀った。現在の県庁の地であり山口古図の赤丸部分に厳島社がみられ赤四角部分が先日紹介した瑠璃光寺である。江戸期厳島神社は山口10社の内の一社で宮司は10社に限り大宮司と呼ばれていたようである。幕末期に萩城から現在の県庁の地に山口政庁が置かれて厳島神社は現在地に移転したようである。かつて厳島神社の宝殿内に安置祀られていたものとみられる多宝塔が残されており山口市指定文化財に指定されている。宮島厳島神社

  • 楼拝殿造り-古熊神社

    山口市古熊にある古熊神社で本殿・拝殿共に国の重文に指定されており、本殿は室町時代で拝殿は室町時代末の建築とみられている。昨日紹介した今八幡宮と同じような楼拝殿造りで入母屋造の楼門正面に片流れの向拝が設けられ左右に切妻造の翼廊が設けられているが、当社の両翼廊の妻側には昇階段が設けられている。楼拝殿造り-古熊神社

  • 楼拝殿造り-今八幡宮

    山口市上宇野令にある今八幡宮で看板表示によると文亀3年(1503)に大内義興が下宇野令の朝倉八幡宮を今八幡宮の地に移し二社を合併して造営したもののようである。入母屋造の楼門正面に片流れの向拝が設けられ、左右に切妻造の翼廊が設けられており、楼拝殿造りの最古で代表的な遺構のようである。楼門部分と翼廊は共に板床であり、楼門部分は一段と上がっており、祭儀の際の着座などが関係していたようである。向拝の両側に石造の桶状のものが設置されており沢山の榊が生けてあった。楼拝殿造り-今八幡宮

  • 瑠璃光寺参詣

    中世、当市の洞雲寺と深い関りのあった山口市の瑠璃光寺を参詣した。前回訪れた時には外国人が多くごった返していたが、今回コロナの影響で3~4人の参詣者しかみられなかった。洞雲寺の開山である金岡用兼は周南市長穂にある龍文寺(陶氏の菩提寺)の大庵須益・為宗仲心に師事していた。長享元年(一四八七)に厳島神主藤原教親は龍文寺の金岡用兼を招いて洞雲寺を開いている。瑠璃光寺にある正法眼蔵は龍文寺で金岡用兼の侍者(金岡用兼に仕えた僧)が書写したものが洞雲寺に伝えられていたもので、洞雲寺住持の遷化にあたり瑠璃光寺の悟宗圭頓が秉炬師を勤めた謝礼として享禄2年(1529)に洞雲寺から瑠璃光寺に寄贈されたようである。(正法眼蔵画像-山口県文化財総覧より)瑠璃光寺参詣

  • 楼拝殿造-厳島神社

    山口市下郷に祀られている厳島神社で、江戸期の寺社由来によると大内氏時代に芸州より勧請して祀られたようである。楼拝殿は瓦葺き入母屋造の楼門正面に唐破風の向拝が設けられ、左右に切妻造の翼廊が設けられているもので、建立は18世紀中期頃とみられている。嘉慶2年(1388)に起筆し、応永33年(1426)に終筆した大般若経(現在山口市小郡文化資料館)が伝えられていたようであり、鐘楼もあり神仏習合時代の名残りであろうか。今回訪れた山口市の神社では向拝の両側に石造の桶状のものが設置されており榊が生けてあった。広島地方では余り見かけないようであるが・・・楼拝殿造-厳島神社

  • 楼拝殿造り-正八幡宮

    山口市秋穂にある正八幡宮の本殿、拝殿、楼門、庁屋は国の重文のようである。入母屋造の楼門正面に唐破風の向拝が設けられ、左右に切妻造の翼廊が設けられている。翼廊はL型となって拝殿方向に伸びており、当神社では庁屋と称されているようである。楼門の床は現在石敷きの通路となっているが痕跡から当初は板張りであったようである。楼拝殿の礎石は、円形、四角形の礎石に溝が彫ってあり見たことが無いような形状で、この溝に塩水を入れて白蟻防止をしていたようである。境内には神仏習合時代の名残りであろうか大師堂や鐘楼がある。楼拝殿造り-正八幡宮

  • 楼拝殿造り-鰐鳴八幡宮

    以前に御神籤の女子道社がある二所山田神社を参詣して山口地方に多い楼拝殿造りを知ったので、山口市内にある楼拝殿造りの神社を探訪してみた。山口市上小鯖にある鰐鳴八幡宮(通称小鯖八幡宮)の楼拝殿は看板表示によると寛政3年(1791)の棟札があるようで当時のものとみられている。楼拝殿は入母屋造の楼門正面に唐破風の向拝が設けられ、左右に切妻造の翼廊が設けられている。楼門は通常通路であるが楼拝殿造りでは翼廊と共に板床とされており、翼廊部分は一段下がっていた。画像を撮るのを怠ったが長い参道脇には鬼ユリが満開でありカメラマンが数名おられた。楼拝殿造り-鰐鳴八幡宮

  • 佐伯郡役所-看板・模型

    廿日市市中央市民センターの2階ホールにはかつての佐伯郡役所の看板とアクリルケースの中に模型が置かれている。佐伯郡役所は現在の中央市民センターの地にあったもので、西洋建築を模した擬洋風建築であったが、多くの識者に惜しまれながら昭和46年に解体された。事務所棟では正面のベランダ部分、円形の柱列、柱頭柱脚の繰型、軒下蛇腹など、また、事務所・議事堂棟の軒裏の曲線仕上げ、円形換気孔、出入り口のファン・ライト式欄間など従来の日本建築には見られない手法の建築であった。佐伯郡役所-看板・模型

  • 廿日市張り子

    廿日市市中央市民センターの2階ホールにあるショウケースの中に江戸期から制作されている廿日市張り子の主だったものが展示されている。廿日市張り子は元禄8年(1695)に近江国から移住してきた大津屋の先祖が人形作りをしたと伝承されている。大津屋の何代かがこの地方で豊富に生産されていた手漉き和紙を利用して張り子の製作を始めたものとみられ、現存する張り子型の墨書銘文からみると天保6年(1835)頃に製作していたことは間違いない。近郊から廿日市のまちにやってきた人達は子供の玩具や魔除け、宴会用、祭礼用などに張り子を求め、また、寺社の縁日などでも子供達に人気があり、「大島の張り子」「大島の面」と有名であった。ひとつひとつの手作りでありその日の気分により一品ごとに表情が違っており、全く同じものがない泥臭い素朴さが特徴である。廿...廿日市張り子

  • 墓上施設-スヤ

    ニブヒ(ギリヤ-ク)の墓隠岐(郡)のスヤ隠岐(飯美)のスヤ隠岐(大城)のスヤ隠岐(卯敷)のスヤ対馬(青海)のスヤ数十年前に北海道旅行をしてどこかで購入していた「消えた北方民族」という特別展図録は書棚に積読していた。久しぶりにページを捲っていると以前に紹介した隠岐と対馬でみた墓上施設でスヤと呼ばれているものによく似た画像が掲載されていた。上画像で北海道の北方にある樺太のニブヒ(ギリヤ-ク)の墓のようである。遠く離れた北方民族の地樺太と隠岐、対馬などにみられる葬送習俗が類似しているようにみられるのであるが・・・墓上施設-スヤ

  • 桜尾山の妙見社

    桜尾城址は削平されて遺構は残されていないが、桜尾山の北麓には桜尾城時代に山口の大内氏氏神である氷上山興隆寺妙見社を分祀し、桜尾城の守護神(軍神)として勧請された妙見社が祀られている。お世話をされておられた方々が高齢となられたのであろうか境内や社殿が荒れ気味のようである。妙見社の本尊妙見菩薩像は右手に宝剣を持って亀甲の上に立っており、足元には白蛇がどくろを巻いている軍神の容姿像である。大内氏の妙見尊崇については長享元年(1487)の大内家壁書に、鼈(すっぽん)、亀及び蛇は氷上山の御仕えのものという堅い信仰に基づき、鷹の餌として鼈、亀、蛇を用いてはならず事の次第によっては死罪にするとの極めて厳しい厳命が下されていた。桜尾城と妙見社桜尾山の妙見社

  • 石碑を喰い始めた樹木

    桂公園の片隅に昭和48年(1973)4月老人福祉法制定10周年記念に廿日市長生会が植樹した樹木が、隣接して建立されている石碑を喰い始めていた。喰いついたものの石碑は大きくどのようになっていくのであろうか。石碑を喰い始めた樹木

  • 山隅衛の歌碑

    桂公園の北側に移設建立されている山隅衛の歌碑で、表側には「ふるさとの町のいらかを見にのぼる城あとの山春蝉のなく衛」と刻されている。この歌碑は刻銘によると皇紀2600年(昭和15年-1940)11月23日に晩鐘誌創刊20周年記念として建立されたようである。山隅衛の歌碑

  • 赤いキノコが ‼

    昨日紹介した桂公園碑脇の野芝の中に小さな赤いキノコが沢山生えていた。当ブログ主の分類では名前が分からないのでクソナバだ‼赤いキノコをネットで検索するとアクヌマベニタケ、ベニヤマタケ、アカタケなどがみられるが、なんという名前であろうか?赤いキノコが‼

  • 桂公園と桂太郎

    桂太郎旧宅-萩市川島昨日紹介した桂公園内には大きな桂公園碑が建立されており、碑文には大勲位公爵桂太郎書と刻されている。中世、芸防引き分け後に毛利元就は桜尾城に重臣の桂元澄を配置して約15年間在城していた。大正元年(1912)に旧城主桂元澄の末流である公爵桂太郎が縁故深い城址の荒廃を惜しみ全山を買収して公園とし廿日市町に寄付して桂公園と称したのである。当時町会の決議で「一、桂公爵ノ寄贈ニ係ル山林ハ桂公園ト命名シ永久町ノ公園トシテ維持スルコト」とあり、町ノ公園とは城址公園として維持すると決議されたのであろうが・・・桂太郎は憲政史上最長の首相通算在職日数の記録を保ってきたが、現安倍晋三首相に記録を塗り替えられた。桂公園と桂太郎

  • 桂公園

    桜尾本町にある桜尾山の麓には桂公園とある石柱の上側に桜尾城址とあり、反対側には廿日市町指定史跡桜尾城址と刻された石碑がみられる。かつて標高31mの桜尾山には桜尾城の遺構が残されていたが、昭和42年(1967)頃から埋立用土砂採取場となって削平され城の遺構は全くなくなり現在の桂公園となった。桂公園

  • 草葺き屋根社殿の箕甲

    以前紹介した岩国市祖生にある新宮神社の拝殿内にかつての草葺き屋根本殿の写真が掲額されていた。写真を見ると妻側屋根の箕甲は美しいカーブを描いて刈込されて特徴的である。数年前に参詣した茨城県大洗町にある大洗磯前神社の本殿草葺き屋根の箕甲(下画像)も同じような形状の美しいカーブを描いて刈込されたものであった。草葺き屋根(茅・麦藁・藁など)草葺き屋根社殿の箕甲

  • 水車小屋

    先日来紹介している二所山田神社の門前から漢陽寺にかけて遊歩道が整備されており懐かしい水車小屋が復元されていた。当ブログ主が子供の頃母親の里には大きな水車があり、水車で精米をしたり発電機を回して電気を起こしていた。またベルトを掛けて製材機や木工加工の機器を動かしていたのを記憶している。下画像は伯父が作ってくれていた水車小屋の模型で長らくほこりを被っていた。水車小屋

  • 二所山田神社の石造物

    昨日紹介した二所山田神社の境内にみられる石造物は通常のものとは少し変わったデザインのものがみられたので紹介する。二の鳥居の手前にある文化9年(1812)の刻銘のある二の狛犬で、猛々しい姿の狛犬でなくユーモラスなスタイルの狛犬である。参道途中に建立されている注連柱の頂部は擬宝珠形状とされており珍しいものである。拝殿のある手前の段にある一対の石燈籠は見たことが無いような斬新なデザインであり菊の紋章がみられる。刻銘の確認を怠ったが画像を見ると勝間田信右衛門通宏と刻されており、勝間田信右衛門通宏は江戸期酒造業を営んで庄屋や大庄屋、勘場役人などを勤めていたようである。二所山田神社の石造物

  • 二所山田神社

    昨日紹介した女子道社のある二所山田神社は鹿野上村にあった二所神社(二所大明神)と鹿野村にあった山田神社(山田権前)を明治期に合祀して二所山田神社となったようである。境内社の菅原神社が隣接してみられ、何れの社殿も当市域でみられる社殿の造りとは少し違った造りで、楼拝殿と言われる造りのようである。唐破風の向拝に続いての拝殿は楼門風の高い屋根で左右に翼廊を設けたもので山口地方にみられる社殿造りのようである。二所山田神社

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