一の鳥居二の鳥居三の鳥居ミステリーツアーで最も訪れてみたいところであった大町市の仁科神明宮に参詣した。参道入口に一の鳥居、参道途中に二の鳥居、社殿前に三の鳥居があったが通常見かける鳥居の形状とは少し異なった鳥居であった。伊勢神社でみられる鳥居と同じようであり伊勢形神明鳥居という形式のようである。仁科神明宮-伊勢形神明鳥居
一の鳥居二の鳥居三の鳥居ミステリーツアーで最も訪れてみたいところであった大町市の仁科神明宮に参詣した。参道入口に一の鳥居、参道途中に二の鳥居、社殿前に三の鳥居があったが通常見かける鳥居の形状とは少し異なった鳥居であった。伊勢神社でみられる鳥居と同じようであり伊勢形神明鳥居という形式のようである。仁科神明宮-伊勢形神明鳥居
今回訪れた地には当地域では見られないような火の見櫓がみられた。上画像は旧中山道の奈良井宿町並みの中央付近の消防団詰所脇にみられた火の見櫓であり、下画像は善光寺仲見世通りの仁王門脇にある消防団詰所脇にみられた火の見櫓で何れも高さの高いものであった。バス移動中にもみられたが撮影することが出来なかった。火の見櫓
善光寺では明治初期までは「善光寺七名物」という商品があったようで、昨日紹介した八幡屋磯五郎の七味唐辛子、また眼界堂笠原十兵衛薬房の雲切眼薬などがあったようである。雲切目薬は現在も笠原十兵衛薬局で販売されており薬局内には家伝薬であった当時の調合器具や資料、看板などが展示されていた。善光寺七名物-雲切目薬
ミステリーツアーの最終日に善光寺を参詣した。以前に娘が長野市に居たことがあったことと以前のミステリーツアーで参詣したことがあり三度目の参詣となった。善光寺本堂の外陣に入ると以前に盗難報道のあったびんずる尊者が安置されており、御本尊参拝後に善光寺名物である仲見世通りの八幡屋磯五郎の七味唐辛子を求めた。善光寺参詣
安曇野にある大王わさび農場を久しぶりに訪れた。以前訪れた時の記憶は広いわさび畑と水車小屋だけだったが、農場内には数多くの道祖神や石仏があった。これらの道祖神は各所に祀られていたものが集められたものではなかろうか。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。大王わさび農場の道祖神
大町温泉郷の宿泊ホテルの玄関先に上画像の道祖神が設置されており、宴会場前のホールには中画像と下画像のような最近築造された道祖神が設置されていた。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。大町温泉郷の道祖神②
今回のミステリーツアーで大町温泉に宿泊した。当温泉地には積雪が多くあったが、寸暇を惜しみ温泉郷内を散策して広島地方ではみられないような道祖神を訪ねてみた。道祖神はどのような信仰が行われていたのであろうか。大町温泉郷の道祖神
昨日は天龍峡大橋下歩道そらさんぽ天龍峡を散策してから養命酒駒ケ根工場を見学した。続いて大王わさび農場を散策し国宝の仁科明神宮を参詣した。今日はどこにいくのだろうか。馴れないタブレットから***ミステリーツアー2
体調不良であるが無理してミステリーツアーに参加した。fdaチャ-タ-便で極楽寺山と同じ位いの標高の松本空港についた。雪の降る中山道の宿場町であった奈良井宿では震えながら散策した。今日はどこにいくのだろうか。ミステリーツアー
一昨日の中国新聞に三つの「みよし」災害協定へとの記事があった。その一つである徳島県三好市池田町マチに祀られている厳島神社を紹介しよう。由緒などは不明であるが吉野川を利用していた船運関係者によって勧請祀られていたのではなかろうか。池田町の町並みには重厚な袖うだつを設けた町屋が多く見られる街である。各地の厳島神社㉖-マチ厳島神社
昨日紹介した堂垣内付近にあった中世の平楽寺はいつの時代かに衰退してその跡地に平楽地蔵が祀られていたようである。昭和初期に平楽地蔵堂が荒廃していたので、上平良住民の浄財金を集めて新しい平楽地蔵堂を権現山の麓に新築し地蔵供養が行われたようである。平楽地蔵堂
上平良を通っている国道433号線で堂垣内と表示されているバス停留所標識がある。堂垣内地名は中世速田大明神(現速谷神社)との深い関りのあった平楽寺の名残りを伝えている地名である。江戸期の地誌には平楽寺跡(赤丸ケ所)がみられるのみであるが、明治5年(1872)の地券申受帖には堂垣内、寺ノ前、平楽寺の字名がみられる。堂垣内地名
当ブログ主は若い頃には城に興味を持っており、各地の城跡や山城を巡っていたものである。古い城友達から城郭移築建造物大全「西日本編」という458頁もある大著をこのほど頂戴した。当方が若い頃作図していた安芸高田市の法円寺経蔵を掲載して頂いたのである。城郭移築建造物大全「西日本編」
椎茸の栽培で年数が経つとホダ木が腐朽していくので毎年少しずつ補充をしている。昨年暮れに切り置いていた椎茸のホダ木に植菌をした。「にく丸」という品種と「もりの金太郎」という品種を植菌してみた。遊びの菜園の続きでありうまく出来ればよいのであるが・・・椎茸植菌
昨日、「かっぱえびせん」のカルビー工場が建築中であることを紹介した。かっぱに因み・・・玖島地区の大峰山登山口付近の吉末川にはエンコウ(河童)伝説があるようである。子供の頃、溜め池で遊びをしているとエンコウが尻の穴に入ると恐らされていたことがある。危険な渕に近づかないようエンコウに引きずり込まされると云われていたのであろう。七尋淵
佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中であった。大規模の工場であり完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中
国道2号線(宮島街道)の廿日市小学校入口交差点付近の中電電柱に観光道路支と表示された銘板が取り付けられていた。今時観光道路がわかる人は少ないのではなかろうか。昭和6年(1931)から在来の道路(旧国道)とは別に、昭和恐慌の失業者救済の事業として現在の国道2号線が建設された。この道路を宮島観光道路と称されていたのである。観光道路
昭和61年(1986)に四季が丘団地の造成に伴って高砂遺跡群の発掘調査が行われている.墳墓や土壙などの遺跡群のうち竪穴式石室が出土しており、石室内に割竹形木棺が埋納されていたもののようである。同遺跡については「高砂遺跡群発掘調査報告書」に詳述されている。高砂古墳発掘調査時の画像
大正期、水質の悪かった須賀町の有志が発起人となり、簡易上水道敷設の計画を立て工事が行われて大正12年1923)に通水式を行ったようである。(ふるさとの写真集)砂走り山中の水源地にはレンガ積みの湧水トンネルや配水池がみられた。須賀町飲料水道の水源地
原地区の川末集会所がある地はもと川末大歳神社があった所で、明治32年(1899)旧3月15日と刻されている石鳥居が残されている。明治期の地誌によると明治42年(1909)12月に川末大歳神社は村社の伊勢神社に合祀している。川末大歳神社跡
ウォーキングの途中にある伊勢神社境内から瀬戸内方面を遠望すると手前中央の山が以前に紹介したゴゴロ山で、ゴゴロ山を貫いたように見えるのが山陽自動車道である。瀬戸内にみえる右側が宮島で左側は能美島でさらに左は江田島である。厳島海峡右向うに大黒神島が見え左側向うには倉橋島が遠望できる。瀬戸内島嶼部遠望
物入れの片隅にあったスクラップ帳にラジオ少年であった頃のQSLカードがあった。下画像のような5球3バンドのラジオを制作して各地の放送を受信して受信状態や内容などを報告したら送ってもらえたものである。「RADIOAUSTRALIA」「VOICEOFFREEKOREA」「VOICEOFAMERICA」「北京放送」など短波の日本語放送も聞いていたことがあった。QSLカード
物入れの片隅にあったスクラップ帳に昭和後半期頃に訪れた懐かしい各地の有料道路や橋・トンネルなどの通行券があった。現在はETC化されておりこのような通行券を知っている者は高齢者のみであろう。上画像の領収書は鳥取砂丘から姫路城に向かう中国山地を超える途中で、主要道が通行止めでガタガタの林道が迂回路となっていた時のものである。有料道路・橋・トンネル通行券
生口島瀬戸田町の鹿田原(江戸期鹿田原村)の俵崎城跡の麓にある厳島神社で、(絵図赤丸ケ所)江戸期の地誌には「建暦二年壬申、勧請すといふ」とある。中世、俵崎城を所守していた生口平左衛門と何らかの関りがあったのかも知れない。各地の厳島神社㉕-鹿田原厳島神社
山口市宮島町にある嚴島神社で、応永13年(1406)に大内盛見が安芸国嚴島神社を勧請して県庁がある地に祀った。(絵図赤丸ケ所)幕末期に社地が藩主の居館となったので現在地に移転したようである。社殿内の多宝塔上層部は室町時代中頃の建築手法のようであり山口市の有形文化財に指定されているようである。各地の厳島神社㉔-宮島町厳島神社
ウォーキング途中の新興団地の庭で、見たことが無いような小さな黄色い花がびっしりと咲いている木があった。Googleレンズで検索してみるとミモザのようでオーストラリア南東部を原産とするマメ科アカシア属の植物のようである。ミモザの花が!
昨年3月5日に植菌した椎茸のホダ木から椎茸が生えてきた。9本のホダ木に植菌したが太いホダ木からはまだ生えそうにない、細い1本のホダ木のみから生えてきた。以前のホダ木からは沢山の椎茸が生えていた。補充用のホダ木にぼちぼち植菌しなければ・・・椎茸が!
宮内地区でみかけた民家の棟が見たことが無いような納め方がしてあった。通常の棟は熨斗瓦を何段も積み重ねて雁振瓦を被せたものである。この民家では熨斗瓦の部分には荒波紋と武田菱の家紋がある特注の瓦が嵌め込まれているものである。民家の棟飾り
ウォーキング途中でみかけた民家の棟が見たことが無いような納め方がしてあった。通常棟は熨斗瓦を何段も積み重ねて雁振瓦を被せたものである。この民家では丸瓦を並べずらした二段重ねとして小口は漆喰仕上げとし、上部に二段の熨斗瓦で雁振瓦が被せてある。民家の棟飾り
ウォーキング途中の原地区鎮神原にある鎮神堂で、この地には江戸期浄楽寺があった所のようである。(絵図赤丸ケ所)江戸期の地誌によると「往古者浄楽寺与申真言宗ニ而堂塔御座候由之処、其後退転仕、当寺ノ小堂一宇本尊而巳相残、鎮守さま与唱へ申候」とある。N家の先祖が浄楽寺の住職であったが福島正則の寺領没収により以降小堂をN家の鎮守尊として代々祀っているようである。鎮神堂
昨日は現在行われている開発地の進捗状況を下流方向からみた遠望画像であったが、今画像は宮島サービスエリアの展望所からの遠望で、上から3・4画像のクレーンがある所で擁壁工事が行われているようである。平良丘陵開発の今
五庵山の東麓からみた平良丘陵開発の工事現場の現在であり、用地の最下流地域で広池川沿いに大きな調整池の工事が行われていた。遠くの斜面では擁壁の工事も行われているようである。平良丘陵開発の今
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体の最後の立ち上がりが残っているようであった。堂垣内広池山線の予定地内で市道中央線(元小学校道)沿いの2棟と山添にある住宅が無くなっていた。市道堂垣内広池山線工事の今
一昨日紹介した旧平良小学校の講堂写真を見ると2階建て校舎からの渡り廊下がみられる。当ブログ主が通った平良小学校や七尾中学校では校舎間を渡り廊下で繋いでいた。渡り廊下は屋根付きのコンクリート土間で下画像のようなサンジキが並べてあった。その上を通って移動をしていたがいま時サンジキが分かる人は少ないのではなかろうか。サンジキ(桟敷)
昨日紹介した元平良村役場があった所から旧県道(旧速谷神社参道・旧バス道)に向かう道(現在第一群塚線)で可愛川に架かる橋が中央橋と呼称されている。(現在も?)仮設の橋のようであるが中央橋とあるのは旧平良村役場に向かう橋であり、役場に近い橋であったので中央と名付けられたものと思われるのである。可愛川に架かる中央橋
屋内運動場(体育館)講堂旧平良村役場庁舎昨日紹介した街区公園の場所には平良小学校の屋内運動場(体育館)があったが、小学校の移転後は平良体育館として使用されていた。当ブログ主が小学生の頃に木造講堂が建築され、隣接して旧平良村役場庁舎の建物が残っていたのを覚えている。かつてこの地は平良村の中心地であった。街区公園用地の変遷
以前に元平良体育館が取り壊されていることを紹介したことがあるが、現在表題のように表示した看板があり公園の工事が行われていた。工事が完成すると公園名が付けられるものとみられる。旧平良小学校体育館跡地街区公園整備
以前にも紹介した真宗寺院である立善寺の経堂に残されている不動明王立像・天部立像は、昨日紹介した禅宗であったとみられる円光寺に祀られていたものとみられている。この不動明王立像・天部立像共に県の重要文化財に指定されている。立善寺の不動明王立像・天部立像
立善寺ウォーキング途中にある「ふれあいライフ原」特養老健棟の下側に墓地がみられるがこの付近に円光寺があったようである。(絵図の赤丸ケ所)江戸期の地誌によると円光寺は慶長頃に退転して真宗に改宗し立善寺を開基したようである。現在ある墓地は円光寺の名残りのようである。円光寺旧地
物入れの片隅に令和の中頃に購入したGARMINgeko201があった。当時は日本語表示のものはなく、解説書も英文でありどのように操作すればよいのか分からなかった。いろいろと操作していると何となく分かるようになったので宮島の御床山先の砲台跡(当時は資料のインターネット検索が出来なかったので砲台跡と思っていた)での遺構の位置を確認するために使用したのである。(嚴島聴測照射所)舶来品(⁇)のGPSが!
ウォーキング途中の原地区にある立善寺本堂の懸魚で屋根勾配があるので今まで紹介した民家のものより形状が異なる。下画像は上平良地区の西蓮寺本堂の懸魚で平成12年(2000)頃に屋根修復された時に作成された懸魚のようである。寺院の懸魚
原地区をウォーキングしていると元建築会社の作業場の壁に懸魚が架けられていた。(上画像)亡くなった当主の先代が建築した民家に取り付けてあったもののようであり、当時は大工さんが懸魚も制作していたようである。この懸魚と同じものがある民家がみられるのでこの大工さんが建築されたものとみられる。民家の懸魚
ウォーキング途中の原地区でみかけた民家の両妻に設けられた懸魚である。中央に六葉紋があるもので今迄に紹介した懸魚に比べて簡素なものである。懸魚は通常棟木の鼻隠しの役と共に妻飾りとして設けられているものである。民家の懸魚
昨日、速谷神社において節分祭で湯立神事や鬼遣(おにやらい)儀式などが行われた。速谷神社の湯立については厳島野坂文書の毛利隆元書状に「早田社江立願之事、御湯立七年可進之由得其心候、即従今月可遂其節候」とあり、毛利隆元が早田社(速谷神社)の湯立を七年に亘り今月より執り行うよう寄進をしている。斎館の神楽殿前では年男・年女の人々により豆撒き・餅撒きが行われて、参詣者に御久米が配られた。速谷神社-節分祭
先日紹介した権現山頂にある倒壊しそうな祠の脇にある檜とクヌギの木であろうか樹木がくっつきあって連理木のようであるが、このような状態は連理木というのであろうか・・・権現山登山-連理木?
上平良地区の最上流部にある河野原溜め池で流入水量が少ないために水位が少し低いようである。この溜池は昭和16年(1941)に流域23戸の田んぼ面積に応じて工事出資金を出し合って築造されたものである。当ブログ主が子供の頃この溜池で丸太を浮代わりにして泳ぎが出来るようになったところである。遥か昔の話。河野原溜め池
権現山の山頂から少し下った登山道脇に石積みがありその上は平坦地となっている。なぜこのような場所に平坦地を造っているのかと以前に登山した時から疑問に思っていた。ところがこの石積みの平坦地は以前紹介した極楽寺山の幕末の砲台跡と同じ遺構とみられるのである。佐伯郡誌に「(芸藩小姓組番頭本田)庫人は峠村権現山下に砲臺を築き・・・」とあり権現山下の遺構はこの砲臺に相当するものとみられ、後畑御台場の例からみるとここにも陣小屋や篝焚小屋などと木炮が設置されていたものと思われる。権現山登山-幕末砲台跡
権現山の山頂にある祠は今にも崩れそうである。江戸期の地誌によると古い時代には磐座信仰(巨岩を御神体)をしたと思われる瑜伽祠があったようである。「此祠、備前児島に移すといひ伝ふ」とあり地誌編纂頃にはなくなって廃祠と記されている。倉敷市児島の瑜伽大権現(現在蓮台寺・由加神社)と古い時代に何らかの繋がりがあったのであろうか。権現山名は大権現から名付けられたようである。現在ある祠は近代に何を祀られたのかは定かでないが再興されたようである。しかし現在は画像のように崩壊寸前である。権現山登山-権現山祠
我が家の方では雪は無いからと天気の良い日の先日、大野地区と佐伯地区境にある権現山へ登山した。権現山の三角点は点名権現で標高は699.12mであるが「おおの自然観察の森」からの比高は250m位しかない。山道に入ると雪が残っており歩きづらく牛歩で登っていると途中2名の登山者とすれ違った。権現山登山
ウォーキング途中に昔懐かしい瓦焼きのコタツと上部のみの土製アンカが置かれていた。コタツは完形品で中の土製火入れ函に灰を入れ炭火を埋めて、コタツの上に直接コタツ布団をかぶせたり、木製のヤグラの上にコタツ布団をかぶせていた。以前に紹介した時には向うの田んぼが作られてカモが草取りをしていたが現在は耕作放棄地となっていた。懐かしい瓦焼きコタツが!
ウォーキング途中の民家納屋の軒下に昔懐かしいネコ車が置かれていた。下画像は親が曲がった木を使用して制作使用していたネコ車であったが邪魔になるので処分してしまった。昔の車は木製で外周に鉄板の輪が嵌めてあったが下画像のネコ車はゴム製のタイヤであった。ネコ車が!
現在行われている平良丘陵開発用地内にあった極楽寺道には石仏と里程碑の4丁・5丁・6丁・7丁・10丁・12丁碑があったがどのようになっているのであろうか。またどのようにされるのであろうか。埋もれていると思われる3丁・8丁・9丁・11丁碑が見つかればよいのであるが・・・旧極楽寺道の石仏・里程碑
星ケ城跡脇の登山道を下っていくと登山道の凹部に屏風岩・装束岩といわれる大岩があり、岩上に石造の大日如来像が安置されている。台座石には「無手堂本尊大日如来」と刻してあるので先日紹介した極楽寺文書の「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」に相当する石仏のようである。屏風状の岩には刻字がみられるが判読は出来ないような状態である。大日如来像にはかつて堂宇があったのを記憶しているが次第に朽ちて現状のようになった。極楽寺道つれづれ-屏風岩・大日如来
30丁碑を過ぎすぐに原方面からの登山道と出会いここからは緩やかな登山道となり、この登山道の左側尾根筋に中世の星ケ城跡がある。城跡は南北弓状の尾根上に郭群を配したもので、大永期ごろ(1521~28)に立野主膳が守居していたということ以外に城の歴史については定かでない。極楽寺道つれづれ-星ケ城跡
石塚木砲(下関戦争で配備された木砲-図録より)30丁碑の少し手前にかつて佐方方面からの登山道分岐があり旧平良村と旧佐方村の山境の石塚がみられる。石塚の先は石積みのある平坦地となっておりここは幕末期の芸藩の砲台跡である。後畑御台場の例からみるとここにも陣小屋や篝焚小屋などと木炮が設置されていたものと思われる。極楽寺道つれづれ-石塚・幕末砲台跡
27丁碑を過ぎてしばらく登っていると右側に三角点が設置されている。点名は極楽寺で標高は518.36mのようである。「広島を繞る山の研究」の絵図によるとかつてこの付近に近代戦争制限区域標石の呉要塞区域標石が設置されていたようである。このような標石は三角点位置に建立されているのが他所でみられるのである。極楽寺道つれづれ-三角点
先日紹介した26丁碑の脇に祀られている手無し観音で、極楽寺文書によると「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」とあり、極楽寺境内にあったようであるがこの手無し観音との関係は定かでない。かつての木造手無し観音像が無くなり石仏が祀られていたが堂も朽ちてきたので平成17年(2005)に現在の堂に新築されたようである。極楽寺道つれづれ-手無し観音
江戸期の上平良村地誌絵図で高尾山の上に天狗石が表示されている。高尾山は高地性集落遺跡の高尾山遺跡があった所である。天狗石については何らかのいわれがあったのであろうが定かでない。先日紹介した極楽寺山23丁遺跡の近くに下画像の大きな岩がありこれが天狗石と呼ばれていたものであろうか。極楽寺道つれづれ-天狗石
宮島サービスエリア脇から極楽寺道を少し登った所に展望所があり、以前は宮島サービスエリアが俯瞰できていたのであるが樹木が伸びて見えづらくなっている。遠くの宮島を遠望すると右端の高い山が岩船岳・御床山で若い頃にここから先の羊歯藪を藪漕ぎして探査したことがある。現在はルートが出来て厳島聴測照射所跡を訪れる人がいるようである。極楽寺道つれづれ
前日まではウォーキングの延長で20丁碑までと翌日は26丁碑まで登っていたが、一昨日は登山支度をして極楽寺山に牛歩で初登山して初参りをした。前日からつづいての里程碑は27丁、29丁、30丁、34丁、35丁、36丁、37丁碑で極楽寺に至る。平日であったが20数人くらいの登山者に出会った。極楽寺初登山・初参り
ど根性松速谷神社道分岐碑22丁碑23丁遺跡24丁碑26丁碑・手無し観音翌日もウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の26丁碑まで登った。20丁碑を過ぎてから道脇にあるど根性松はまだ元気であった。速谷神社道分岐碑から高尾山遺跡脇を通るが現在通行不能である。23丁遺跡は昭和59年(1984)頃に土石流ケ所から弥生式土器を採集したものである。26丁碑の脇には手無し観音が祀られており、ここからの眺望は素晴らしい。極楽寺道②
極楽寺参道脇の山中に画像のような何らかの環境調査をした器具とみられる残骸が放置されていた。残骸器具には「総合科学部基礎科学研究自然環境研究」と記されていた。環境調査の後は放置⁉
ウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の20丁碑まで登った。山陽自動車道より下道の極楽寺参道廿日市道は時折り紹介している平良丘陵開発のために掘削中であり里程碑などはどのようになっているのだろうか。極楽寺参道に
津田地区にある教覚寺の鐘楼門で珍しい草葺(茅葺)屋根の鐘楼門である。この鐘楼門は宝永3年(1706)に建立されたようである。棟飾りで棟の上に馬乗り型にX型に乗っている部材は民家では「カラスオドシ」「ホテギ」「ウマノリ」「ウマキ」等々、その上の横木は「カラスオドリ」「ホテ」「オトシ」「マキワラ」等々と呼ばれていたようである。(中国地方の民家)教覚寺の鐘楼門
左側への脇道が山代街道の名残り道江戸期、津田の町の中心地であった十王堂市は津和野街道筋で山代街道の分岐点でもあり、御制札所で高札が立てられていた。また、疫病や災害、悪戯者などが村に入らないようにと中心地に祀られた十王堂もあったが近代の県道拡幅のために西福寺脇に移設されている。十王堂市
寒入りしている一昨日、田んぼの寒起こしをした。今年の田んぼの初仕事をしたので田の神に遭いに行った。当地方では田の神信仰はみられないが他地方から移された田の神が小瀬川沿いにみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神があるカフェテラス北山でスパイシーで味わい深いカシミールカレーを・・・田んぼの寒起こし
先日、孫が成人式を迎え記念品に木工の町に因んだ杓子をデザインした木製のスマホスタンドを頂いたようである。子供たちの成人式の頃は携帯電話もなく公衆電話用のテレホンカードを貰っていたのである。当ブログ主が成人式の頃はほとんどの家に電話はなかった時代であった。成人式記念品の移り変わり
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、上側の三画像は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の現状で、下側の二画像は藤掛陸橋付近からみた現状である。平良丘陵開発の今
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体が立ち上がっていた。市道中央線沿いで堂垣内広池山線の予定地内にある住宅2軒の取壊し工事が始まっていた。市道堂垣内広池山線工事の今
本年は辰年なので市域で龍のついた滝を紹介しよう。滝はこの時期に紹介するものではないが・・・別名が咬龍(こうりゅう)の滝といわれる瀬戸の滝が吉和地区の瀬戸谷にある。上段と下段の滝があり若い頃に滝上から瀬戸谷を遡ってウシロヤマ谷の源流域から十方山道に至ったことが思い出される。辰年に因んで⑦
応龍山洞雲寺龍文寺本年は辰年なので市域また関連の龍のついた寺院を紹介しよう。以前に何度も紹介している洞雲寺の山号は応龍山と称されている。洞雲寺は厳島神主で桜尾城に居た藤原教親が周南市長穂にある龍文寺の金岡用兼を招いて開山しているのである。辰年に因んで⑥
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。友田地区にある龍王神社であるが由緒などは不明、祭神は龍神のようである。友田地区にはもう一カ所に龍王祠があったが石清水八幡社に合祀されているようである。辰年に因んで⑤
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。地御前地区の扇新開堤防上に祀られている龍宮神社であるが由緒については定かでない。一説には漁業者の守り神で扇新開を築造する時に多くの貝が犠牲になったので霊を祀ったという。旧暦の2月9日に貝祭りが行われているようである。辰年に因んで④
本年は辰年なので市域でみかけた龍に関係するものを紹介しよう。例年なら極楽寺に初登山して初参りをするのであるが風邪のため登ることが出来なかった。極楽寺本堂の天井には龍の絵が描かれているのである。中画像は昭和56年(1981)に撮影したもので、下画像は同年に赤外線テレビカメラで撮影されたものである。(保存科学研究会会報VOL.2より)辰年に因んで③
本年は辰年なので市域でみかけた龍文に関係するものを紹介しよう。津田八幡神社の向拝部分の虹梁の上部中央に龍の彫刻が施されている。辰年に因んで②
本年は辰年なので市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介します。上画像は吉和地区にあった蔵飾りであったが残念ながら消滅している。龍は水を呼ぶ生き物とされていることから、火事などで焼失しないように願って龍の字が表されたものが多くみられる。辰年に因んで
例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り
新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
卯年最後の日であるので今までに市域でみかけた兎文様の蔵飾りを紹介しよう。このなかには残念ながら消滅したものもあります。通常このような漆喰細工は鏝絵と称されているが、当ブログ主は蔵飾りと称しています。※今年も多くの方々の御来訪、閲覧して頂き有難うございました。快調ではありませんが来年も可能な限り継続していきたいと思っていますのでどうぞよろしくお願い致します。さようなら卯年
卯年も本日と明日のみとなりました。先日紹介した注連飾りも仕上げて玄関に飾りました。卯年の今秋、訪れた山形県南陽市の熊野大社の本殿裏にうさぎが三羽隠し彫りされているようで、うさぎを三羽見つけた人は願い事が成就するとのことであったがなかなか見つけにくかった。卯年もあとわずか
昨日、ウォーキングで宮島サービスエリアの下り線展望所まで訪れた。駐車場は帰省帰りの車がいっぱいであった。隣接公園では「ピクミンテラスin宮島SA」という催しが行われておりずらりと列を成していた。昔人間にはよくわからないが「ピクミン」とは・・・「宮島SA下り線」にて
今年も椎茸の補充用のドングリの木(クヌギ)を伐採したが来春になって植菌する予定である。今春植菌したホダ木からはまだ椎茸は出てこない。以前からのホダ木からは椎茸が出来ているが年数が経つとホダ木が腐朽していくので毎年少しずつ補充をしているのである。椎茸のホダ木
正月も近づいてきたので我が家の注連飾りのパーツ作りをした。29日に藁で作った3つのパーツとウラジロ、ダイダイ、マンリョウ又は南天などを組み合わせて完成させ玄関に架ける予定である。しめ飾り
桜尾城址は大正元年(1912)10月に旧桜尾城主の末流である公爵桂太郎が縁故深い桜尾山を買収して公園として廿日市町に寄付し、桂公園と称して最高所に桂公園碑が建立されていた。昭和42年(1967)頃から桜尾城址が削平されて城の遺構はなくなり現在の桂公園が整備された。桂公園
一昨日紹介した絵葉書はかつての桜尾城址から撮影されたもので、桜尾城はかつて海に臨んだ要害の地であり、標高31mの独立丘陵には本丸、二の丸、三の丸、東の丸などの曲輪があった。昭和42年(1967)頃から削平されて現在の桂公園となったのである。上・中画像は昭和40年(1965)頃の桜尾城跡の遠望で、下画像は同年頃の曲輪の状態を表したものである。(桜尾城について)在りし日の桜尾城址
昨日紹介した絵葉書にみられた佐伯郡役所が現在の中央市民センターの地にあったことを知る市民はわずかであろう。上画像は天神山から見た解体前の元佐伯郡役所建物である。佐伯郡役所は明治時代に西洋建築を模した擬洋風建築で従来の日本建築には見られない手法の建築であったが昭和46年(1971)に解体された。(元佐伯郡役所建築について)在りし日の佐伯郡役所
上画像の絵葉書はかつての桜尾山(桜尾城跡)からみた廿日市の町並みで、中央付近に大きな屋根の佐伯郡役所がみられ、街並みの中に草ぶき屋根の町屋が3棟みられる。下画像は桂公園からのほぼ同じ方向の画像であるが向うの山並みが違っている。手前保育園の建物があるので同じ山並み方向を見ることが出来ないのである。廿日市町並み遠望今昔
一昨日紹介した近江八幡市の日牟禮八幡宮のしめ縄を真似て2017年(平成29年)に作り始めて6年作成している。綯い上げたパーツをその年の気分で3組や4組、5組と再度綯い上げて作成するのである。河野原大歳神社の変形しめ縄変遷
先日、河野原大歳神社のしめ縄を作ったことを紹介したが、昨日大歳神社の拝殿と本殿に架けて奉納した。配り物の途中に参詣、細い縄がしめ縄代わりとされていたのを見兼ねて平成22年(2010)に作り始めてから13年となった。河野原大歳神社しめ縄奉納
一昨日、河野原大歳神社の拝殿のしめ縄は2014年(平成26年)10月に参詣した近江八幡市の日牟禮八幡宮のしめ縄(上画像)を参考として作成したと紹介した。しかし、2018年(平成30年)9月に参詣した時には上画像のしめ縄は無くなっており下画像のようなしめ縄となっていた。現在はどのようなしめ縄であろうか・・・日牟禮八幡宮のしめ縄
昨日、ウォーキング途中の伊勢神社では一の鳥居、二の鳥居に新しい注連縄が架けられており、拝殿前には大きな門松が設置されていた。本殿と拝殿の注連縄は古いままであったので一年ごとに鳥居と交互に作っておられるようである。伊勢神社のしめ縄
今年も河野原大歳神社のしめ縄づくりを始めた。本殿に架けるしめ縄は通常みられるような注連縄を作って房飾りを取り付けた。拝殿に架けるしめ縄は通常みられるものとは異なった形状のものを数年に亘り作っているものである。2014年に近江八幡市の日牟禮八幡宮に参詣してみかけた注連縄を真似て作り始めたものであるが一人仕事であるためにうまく出来ないのである。河野原大歳神社のしめ縄づくり
上平良地区の東側にある吉野山、寺山ともいわれていたようで、現在は竹藪化しつつある。右端向うの山が先日紹介した旧石州往還道のある御棒杖山で左側向うの高い山が星ケ城跡の山である。吉野山には古い時代に吉野明神という小祠あったようであり、また中世の速田大明神に奉仕する供僧寺の一つであった宝泉寺があったものとみられる山でもある。吉野山
ウォーキング途中の原市民センターでは毎週金曜日の午後にMaxValuの移動販売車が来ている。車の運転ができず平良地区などに買い物に行くことが出来ない人達のために移動販売が行われているようである。(画像は先週金曜日)原地区の移動販売車
大根を抜いてみると・・・またまた芸術的な大根であった。大根を植えている畑地は固い地盤ではないのになぜこのようになったのであろうか。芸術的な大根が‼
旧石州往還道を歩いていると枯れ木にびっしりとクソナバが生えていた。Googleレンズで検索してみたがオシロイタケかオオオシロイタケかよくわからない。名前が分からないとクソナバと称しているのである。※昨日、当ブログを開設してからトータル閲覧数650万PVの大きな節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪閲覧して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。クソナバが!
先日来紹介している平良丘陵開発用地の西側に伸びている五庵山から菊ケ迫山・御棒杖山の尾根筋東側には旧石州往還道の名残りが残されている。御棒杖山から下っていくと旧石州往還道の脇まで掘削工事が行われていた。もう少し下った場所では市道堂垣内広池山線の工事で旧往還道の名残りが消滅してしまいそうである。旧石州往還道
ウォーキング途中、山陽自動車の法面にみたことがないような虫こぶ状の葉がついた植物があった。Googleレンズで検索してみるとヌルデハイボケフシのようで、「ヌルデのハ(葉)にイボのようについたケ(毛)のあるフシ(むしこぶ)」という意味のようである。ヌルデハイボケフシ
五庵山の東北麓にある共同墓地内にみたことが無いような石造物があった。狛犬が逆立ちして足で線香鉢であろうか大きな石鉢を支えているような像である。この狛犬は雄であろうか雄のシンボルも刻されている。逆立ち狛犬⁉
五庵山の東北麓からみた広池地区で行われている丘陵開発の現在で、手前では計画図の左下部分にみられる調整池の工事が行われているようである。平良丘陵開発の今🙌
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一の鳥居二の鳥居三の鳥居ミステリーツアーで最も訪れてみたいところであった大町市の仁科神明宮に参詣した。参道入口に一の鳥居、参道途中に二の鳥居、社殿前に三の鳥居があったが通常見かける鳥居の形状とは少し異なった鳥居であった。伊勢神社でみられる鳥居と同じようであり伊勢形神明鳥居という形式のようである。仁科神明宮-伊勢形神明鳥居
今回訪れた地には当地域では見られないような火の見櫓がみられた。上画像は旧中山道の奈良井宿町並みの中央付近の消防団詰所脇にみられた火の見櫓であり、下画像は善光寺仲見世通りの仁王門脇にある消防団詰所脇にみられた火の見櫓で何れも高さの高いものであった。バス移動中にもみられたが撮影することが出来なかった。火の見櫓
善光寺では明治初期までは「善光寺七名物」という商品があったようで、昨日紹介した八幡屋磯五郎の七味唐辛子、また眼界堂笠原十兵衛薬房の雲切眼薬などがあったようである。雲切目薬は現在も笠原十兵衛薬局で販売されており薬局内には家伝薬であった当時の調合器具や資料、看板などが展示されていた。善光寺七名物-雲切目薬
ミステリーツアーの最終日に善光寺を参詣した。以前に娘が長野市に居たことがあったことと以前のミステリーツアーで参詣したことがあり三度目の参詣となった。善光寺本堂の外陣に入ると以前に盗難報道のあったびんずる尊者が安置されており、御本尊参拝後に善光寺名物である仲見世通りの八幡屋磯五郎の七味唐辛子を求めた。善光寺参詣
安曇野にある大王わさび農場を久しぶりに訪れた。以前訪れた時の記憶は広いわさび畑と水車小屋だけだったが、農場内には数多くの道祖神や石仏があった。これらの道祖神は各所に祀られていたものが集められたものではなかろうか。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。大王わさび農場の道祖神
大町温泉郷の宿泊ホテルの玄関先に上画像の道祖神が設置されており、宴会場前のホールには中画像と下画像のような最近築造された道祖神が設置されていた。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。大町温泉郷の道祖神②
今回のミステリーツアーで大町温泉に宿泊した。当温泉地には積雪が多くあったが、寸暇を惜しみ温泉郷内を散策して広島地方ではみられないような道祖神を訪ねてみた。道祖神はどのような信仰が行われていたのであろうか。大町温泉郷の道祖神
昨日は天龍峡大橋下歩道そらさんぽ天龍峡を散策してから養命酒駒ケ根工場を見学した。続いて大王わさび農場を散策し国宝の仁科明神宮を参詣した。今日はどこにいくのだろうか。馴れないタブレットから***ミステリーツアー2
体調不良であるが無理してミステリーツアーに参加した。fdaチャ-タ-便で極楽寺山と同じ位いの標高の松本空港についた。雪の降る中山道の宿場町であった奈良井宿では震えながら散策した。今日はどこにいくのだろうか。ミステリーツアー
一昨日の中国新聞に三つの「みよし」災害協定へとの記事があった。その一つである徳島県三好市池田町マチに祀られている厳島神社を紹介しよう。由緒などは不明であるが吉野川を利用していた船運関係者によって勧請祀られていたのではなかろうか。池田町の町並みには重厚な袖うだつを設けた町屋が多く見られる街である。各地の厳島神社㉖-マチ厳島神社
昨日紹介した堂垣内付近にあった中世の平楽寺はいつの時代かに衰退してその跡地に平楽地蔵が祀られていたようである。昭和初期に平楽地蔵堂が荒廃していたので、上平良住民の浄財金を集めて新しい平楽地蔵堂を権現山の麓に新築し地蔵供養が行われたようである。平楽地蔵堂
上平良を通っている国道433号線で堂垣内と表示されているバス停留所標識がある。堂垣内地名は中世速田大明神(現速谷神社)との深い関りのあった平楽寺の名残りを伝えている地名である。江戸期の地誌には平楽寺跡(赤丸ケ所)がみられるのみであるが、明治5年(1872)の地券申受帖には堂垣内、寺ノ前、平楽寺の字名がみられる。堂垣内地名
当ブログ主は若い頃には城に興味を持っており、各地の城跡や山城を巡っていたものである。古い城友達から城郭移築建造物大全「西日本編」という458頁もある大著をこのほど頂戴した。当方が若い頃作図していた安芸高田市の法円寺経蔵を掲載して頂いたのである。城郭移築建造物大全「西日本編」
椎茸の栽培で年数が経つとホダ木が腐朽していくので毎年少しずつ補充をしている。昨年暮れに切り置いていた椎茸のホダ木に植菌をした。「にく丸」という品種と「もりの金太郎」という品種を植菌してみた。遊びの菜園の続きでありうまく出来ればよいのであるが・・・椎茸植菌
昨日、「かっぱえびせん」のカルビー工場が建築中であることを紹介した。かっぱに因み・・・玖島地区の大峰山登山口付近の吉末川にはエンコウ(河童)伝説があるようである。子供の頃、溜め池で遊びをしているとエンコウが尻の穴に入ると恐らされていたことがある。危険な渕に近づかないようエンコウに引きずり込まされると云われていたのであろう。七尋淵
佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中であった。大規模の工場であり完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中
国道2号線(宮島街道)の廿日市小学校入口交差点付近の中電電柱に観光道路支と表示された銘板が取り付けられていた。今時観光道路がわかる人は少ないのではなかろうか。昭和6年(1931)から在来の道路(旧国道)とは別に、昭和恐慌の失業者救済の事業として現在の国道2号線が建設された。この道路を宮島観光道路と称されていたのである。観光道路
昭和61年(1986)に四季が丘団地の造成に伴って高砂遺跡群の発掘調査が行われている.墳墓や土壙などの遺跡群のうち竪穴式石室が出土しており、石室内に割竹形木棺が埋納されていたもののようである。同遺跡については「高砂遺跡群発掘調査報告書」に詳述されている。高砂古墳発掘調査時の画像
大正期、水質の悪かった須賀町の有志が発起人となり、簡易上水道敷設の計画を立て工事が行われて大正12年1923)に通水式を行ったようである。(ふるさとの写真集)砂走り山中の水源地にはレンガ積みの湧水トンネルや配水池がみられた。須賀町飲料水道の水源地
原地区の川末集会所がある地はもと川末大歳神社があった所で、明治32年(1899)旧3月15日と刻されている石鳥居が残されている。明治期の地誌によると明治42年(1909)12月に川末大歳神社は村社の伊勢神社に合祀している。川末大歳神社跡
ウォーキング途中に家屋を取り壊したものと思われる残骸が置かれており、その中に懐かしいダイガラの一部で踏柄と先端部に杵が付いたものがあった。当ブログ主が子供の頃には親が餅を搗いていたのを思い出した。下画像は2014年3月に岩国市本郷町の町家で見かけたダイガラである。ダイガラ
ウォーキング途中にある立善寺の山門工事の進捗状況を以前に紹介してきたが、すでに工事は完了しているようである。しばらくの間保護柵がしたままであり、彼岸の中日ごろに通り初めが行われるのであろうか。立善寺山門工事の今
原地区を流れる川末川に架かる県道虫道廿日市線の下ケ原橋(上画像)と市道第一路線の下ケ原橋(下画像)で、中世、折敷畑山合戦の時に下ケ原付近でも戦いがあったことを伺わすような記述が戦記物にみられる。吉田物語には「敵よりも平良の郷志し、下の原と申す所迄押し下る處へ・・・」と記されている。川末川の下ケ原橋
平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地にある極楽寺参道をウォーキングしていると何の木か分からないけれど変形した芸術的な樹木がみられる。芸術的な樹木
山の境木について以前にも紹介したことがあるが、平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地にある極楽寺参道脇にあった。樹木の主幹を切って脇枝が多く出たもので、脇には境界杭がみられるので先人が山の境木としていたものとみられるのである。山の境木
昨日はキヅタが繁茂している倒木を紹介したが下平良地区の民家のブロック塀では全面に蔓性の植物であるオオイタビが絡みついて綺麗に覆っており冬でも葉が落ちず緑化されていた。オオイタビの緑化
山陽自動車道の側道をウォーキングしていると道脇の山林にある倒木に蔓性植物のキヅタ(木蔦)がびっしりと張り付いていた。一見すると常緑の大木かと間違いそうである。キヅタ(木蔦)の大木か・・・
平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地である広池地区を通っていると道路の各所に「敷地造成工事を行っています」との看板が設置されていた。準備作業が行われているようであり間もなく開発工事が始まるのではなかろうか。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
二重原地区産業団地造成事業予定地内の山林に見たことが無いようなハゲシバリの老樹があった。ハゲシバリは山崩れの場所などにいち早く成長する木で、ヤシャブシ、オオバヤシャブシ、ヒメヤシャブシなどの種類があるようだが通常ハゲシバリと称している。また、幹や枝が水平に育った珍しい松の木がみられた。ハゲシバリの老樹
二重原地区産業団地造成事業予定地内の山林には竹が繁茂している所があり大きな竹があった。胸高の位置で計ってみると直径18cmの大きなものもみられた。また下部が2連の珍しい形のものがみられ上部は普通の竹となっていたものがあった。大竹・変形竹
先日来紹介している長尾の尾根筋に廿日市市の3級基準点が3ケ所設けられているのがみられた。この3級基準点はこれから始まる二重原地区産業団地造成事業の造成地の測量、設計に用いられるものとみられる。廿日市市3級基準点
昨日紹介した長尾の尾根道脇に多くの貝殻が散布しているところがあった。こんなところに遺跡の貝塚がと思われるが・・・元は一ケ所に埋められていたものが次第に露出して散乱したものとみられる。貝殻は腐食しないので昔は山境に使用していたのであるが、現在はプラスチック杭やコンクリート杭が用いられている。山境に腐食しない陶磁器やガラス瓶が埋められているのを見たこともある。貝の塚が!
平良地区と宮内地区の境の長尾の尾根筋にある山道で、かつて丹戸山越(沢ノ尾峠)から長尾通り、横道を通り黒折に通じる道であった。現在は折敷畑山への登山者や中電の管理道として使用されているのみで途中から横道は途切れている。車の無い時代遠縁の人が明石からこの道を通って平良に来ていたと聞いたことがある。長尾の尾根道
昨日紹介した長尾の尾根筋の高圧線鉄塔下では阿波の土柱を思わすようなミニ土柱がみられる。斜面の土砂が雨水で流され小石などある部分が残されて土柱状になったようである。ミニ土柱が⁉
平良地区と宮内地区境の長尾の尾根筋に建てられている中電の高圧線鉄塔で通常の高圧線鉄塔とは異なった複雑な形状の鉄塔である。尾根筋すぐ下の宮園団地には廿日市変電所があり、山間部を通っていた高圧線が直角に山下の変電所に向かうためにこのような複雑な骨組みとなったようである。変形高圧線鉄塔
市道堂垣内広池山線道路改良工事の予定線付近を山の上から俯瞰すると、中央付近の青いシートの建物右側に道路が築造されるようで、左側鼠色の防護シートの建物は今から取壊し作業が行われるようである。下地図の中央付近の陽光台南交差点から上に向かって点線のように平良丘陵開発用地に向かう市道堂垣内広池山線が築造されるようである。(廿日市市地図情報システムより)市道堂垣内広池山線改良工事の今
上画像は廿日市本通り商店街の現在で、下画像は昭和51年(1976)頃の同商店街の様子である。かつて賑わっていた商店街もスーパーなどの大型店の進出や商店主の高齢化による後継難、集客力のある魅力的な店舗減少などで現状のようになったのであろうか。(下画像-はつかいち合併20周年記念誌より)廿日市本通り商店街の今昔
常念寺前の道路に建てられている電柱脇に昔懐かしい手押しのポンプがまだ残されていた。ポンプにはケーボー号津田式と鋳造銘があるがケーボー号呼称は下画像より警報用手押しポンプからのようである。(下画像-レインワールドブログより)手押しポンプが‼
かつて潮音寺川に架かっていた幸橋は大正2年(1913)3月に築造されていた石橋であった。(中・下画像)潮音寺川の暗渠化工事で幸橋は撤去されたが、幸高洲線の市道として整備された道路脇に石橋の一部がモニュメントとして残されている。幸橋モニュメント
所要の途中に速谷神社に参詣したら楼門脇にある梅の花が五分咲きくらいであった。朝晩はまだ寒く今朝は霜が降りていたが日中は暖かくなりそうで春がそこまでやってきている。速谷神社の梅