先日、厳島神社の大鳥居付近で宮島フェリーななうら丸(上画像)が浅瀬に座礁したことが報道されていた。現在の3代目ななうら丸は平成28年(2016)11月7日に就航したようである。中画像は2代目ななうら丸で昭和62年(1987)2月8日に就航し平成28年(2016)11月7日3代目ななうら丸に交替している。下画像は2代目ななうら丸が就航した時の記念乗車券である。宮島連絡船-ななうら丸
所用で久しぶりに広島駅裏方面に行き通り掛かりの国前寺に久しぶりに参詣した。山門裏の桜は満開であった。本堂の脇には見たことが無いような細長い花弁が重なった鮮やかな色合いの花が咲いていた。写真を撮っておられた御婦人に聞いてみたが何の花か分からないとのことで、ネットで調べてみるとハナモモ(花桃)の一品種のキクモモ(菊桃)のようである。国前寺-桜と菊桃
平良丘陵開発土地区画整理事業の工事施工者であるN建設の現場事務所が上平良地区で新築工事中である。現場事務所の使用期間は令和9年(2027)6月末迄の予定のようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
大野地区の海岸線の多くは護岸工事が行われており自然海岸はところどころのわずかしか残されていない。昨日紹介したフマキラー広島工場の西側に自然岩礁の蛭ケ崎鼻が残されており、工場側にある潮廻し部分も自然岩礁のようである。蛭ケ崎鼻
フマキラー広島工場沖の堤防道を進んでいるとフマキラー広島工場内にガラス張りで見たことが無いような近未来的な外観の工場内施設があった。なんと工場周囲の外構塀にもガラス板が嵌め込まれたものであった。ガラス張りの工場内施設が!
昨日紹介したかつての新開鼻灯台は大野瀬戸の最狭部に設置されていたのであるが、この最狭部には日露戦争時に広島湾要塞の一環として厳島の室浜に室浜砲台が設置されていた。室浜砲台跡は広島大学理学部付属自然植物園内に残されている。※昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数150万UUの大きな節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。室浜砲台跡
大野地区の大国新開先端護岸に設置されていた新開鼻灯台がなくなっており、基礎のコンクリート破片が残されていた。大野瀬戸の最狭部にあったここの灯台(中画像)は明治32年(1899)5月に設置されていたが、平成20年(2008)10月に廃止撤去されたようである。新開鼻灯台跡
ウォーキング途中の道路脇の笹藪にある外車を以前に紹介したときは下画像のようであった。現在は枯れ笹で気を付けてみないと分からないような状態になっていたが、今から笹の新芽が伸びてくるとさらに見えなくなるであろう。この車は米国ゼネラルモーターズのキャデラックのようである。笹藪の外車が!
ウォーキング途中に伊勢神社に参詣したら境内の桜並木にボンボリが吊り下げられていた。境内の桜の木は老樹であるが何時ごろに植えられたものであろうか。開花はもう少し先のようである。伊勢神社のボンボリ
本日は生憎の天候であるが、昨日ウォーキング途中のあちらこちらで色々な花が咲いていた。ユキヤナギ、モクレン(紫紅色・白色)、ウメかモモ、ツバキ等々の花が咲き乱れており春真っ盛りである。春爛漫
ウォーキング途中には畑が荒れて竹藪となった所が多くみられ、今まで気が付かなかったが画像の竹藪は竹の色が黄色っぽい色であり緑色の筋が入っていた。ネットで調べるとキンメイチク(金明竹)のようでありマダケが突然変異してできたものであろうか。キンメイチク(金明竹)
ウォーキング途中に家屋を取り壊したものと思われる残骸が置かれており、その中に懐かしいダイガラの一部で踏柄と先端部に杵が付いたものがあった。当ブログ主が子供の頃には親が餅を搗いていたのを思い出した。下画像は2014年3月に岩国市本郷町の町家で見かけたダイガラである。ダイガラ
ウォーキング途中にある立善寺の山門工事の進捗状況を以前に紹介してきたが、すでに工事は完了しているようである。しばらくの間保護柵がしたままであり、彼岸の中日ごろに通り初めが行われるのであろうか。立善寺山門工事の今
原地区を流れる川末川に架かる県道虫道廿日市線の下ケ原橋(上画像)と市道第一路線の下ケ原橋(下画像)で、中世、折敷畑山合戦の時に下ケ原付近でも戦いがあったことを伺わすような記述が戦記物にみられる。吉田物語には「敵よりも平良の郷志し、下の原と申す所迄押し下る處へ・・・」と記されている。川末川の下ケ原橋
平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地にある極楽寺参道をウォーキングしていると何の木か分からないけれど変形した芸術的な樹木がみられる。芸術的な樹木
山の境木について以前にも紹介したことがあるが、平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地にある極楽寺参道脇にあった。樹木の主幹を切って脇枝が多く出たもので、脇には境界杭がみられるので先人が山の境木としていたものとみられるのである。山の境木
昨日はキヅタが繁茂している倒木を紹介したが下平良地区の民家のブロック塀では全面に蔓性の植物であるオオイタビが絡みついて綺麗に覆っており冬でも葉が落ちず緑化されていた。オオイタビの緑化
山陽自動車道の側道をウォーキングしていると道脇の山林にある倒木に蔓性植物のキヅタ(木蔦)がびっしりと張り付いていた。一見すると常緑の大木かと間違いそうである。キヅタ(木蔦)の大木か・・・
平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地である広池地区を通っていると道路の各所に「敷地造成工事を行っています」との看板が設置されていた。準備作業が行われているようであり間もなく開発工事が始まるのではなかろうか。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
二重原地区産業団地造成事業予定地内の山林に見たことが無いようなハゲシバリの老樹があった。ハゲシバリは山崩れの場所などにいち早く成長する木で、ヤシャブシ、オオバヤシャブシ、ヒメヤシャブシなどの種類があるようだが通常ハゲシバリと称している。また、幹や枝が水平に育った珍しい松の木がみられた。ハゲシバリの老樹
二重原地区産業団地造成事業予定地内の山林には竹が繁茂している所があり大きな竹があった。胸高の位置で計ってみると直径18cmの大きなものもみられた。また下部が2連の珍しい形のものがみられ上部は普通の竹となっていたものがあった。大竹・変形竹
先日来紹介している長尾の尾根筋に廿日市市の3級基準点が3ケ所設けられているのがみられた。この3級基準点はこれから始まる二重原地区産業団地造成事業の造成地の測量、設計に用いられるものとみられる。廿日市市3級基準点
昨日紹介した長尾の尾根道脇に多くの貝殻が散布しているところがあった。こんなところに遺跡の貝塚がと思われるが・・・元は一ケ所に埋められていたものが次第に露出して散乱したものとみられる。貝殻は腐食しないので昔は山境に使用していたのであるが、現在はプラスチック杭やコンクリート杭が用いられている。山境に腐食しない陶磁器やガラス瓶が埋められているのを見たこともある。貝の塚が!
平良地区と宮内地区の境の長尾の尾根筋にある山道で、かつて丹戸山越(沢ノ尾峠)から長尾通り、横道を通り黒折に通じる道であった。現在は折敷畑山への登山者や中電の管理道として使用されているのみで途中から横道は途切れている。車の無い時代遠縁の人が明石からこの道を通って平良に来ていたと聞いたことがある。長尾の尾根道
昨日紹介した長尾の尾根筋の高圧線鉄塔下では阿波の土柱を思わすようなミニ土柱がみられる。斜面の土砂が雨水で流され小石などある部分が残されて土柱状になったようである。ミニ土柱が⁉
平良地区と宮内地区境の長尾の尾根筋に建てられている中電の高圧線鉄塔で通常の高圧線鉄塔とは異なった複雑な形状の鉄塔である。尾根筋すぐ下の宮園団地には廿日市変電所があり、山間部を通っていた高圧線が直角に山下の変電所に向かうためにこのような複雑な骨組みとなったようである。変形高圧線鉄塔
市道堂垣内広池山線道路改良工事の予定線付近を山の上から俯瞰すると、中央付近の青いシートの建物右側に道路が築造されるようで、左側鼠色の防護シートの建物は今から取壊し作業が行われるようである。下地図の中央付近の陽光台南交差点から上に向かって点線のように平良丘陵開発用地に向かう市道堂垣内広池山線が築造されるようである。(廿日市市地図情報システムより)市道堂垣内広池山線改良工事の今
上画像は廿日市本通り商店街の現在で、下画像は昭和51年(1976)頃の同商店街の様子である。かつて賑わっていた商店街もスーパーなどの大型店の進出や商店主の高齢化による後継難、集客力のある魅力的な店舗減少などで現状のようになったのであろうか。(下画像-はつかいち合併20周年記念誌より)廿日市本通り商店街の今昔
常念寺前の道路に建てられている電柱脇に昔懐かしい手押しのポンプがまだ残されていた。ポンプにはケーボー号津田式と鋳造銘があるがケーボー号呼称は下画像より警報用手押しポンプからのようである。(下画像-レインワールドブログより)手押しポンプが‼
かつて潮音寺川に架かっていた幸橋は大正2年(1913)3月に築造されていた石橋であった。(中・下画像)潮音寺川の暗渠化工事で幸橋は撤去されたが、幸高洲線の市道として整備された道路脇に石橋の一部がモニュメントとして残されている。幸橋モニュメント
所要の途中に速谷神社に参詣したら楼門脇にある梅の花が五分咲きくらいであった。朝晩はまだ寒く今朝は霜が降りていたが日中は暖かくなりそうで春がそこまでやってきている。速谷神社の梅
平成7年(1995)と平成10年(1998)1月15日の成人式記念の使用済みテレホンカードがあった。市無形文化財の廿日市張り子と県無形民俗文化財である原の説教源氏節画像のものがあった。テレホンカード-成人式記念
平成9年(1997)4月に市庁舎と文化センターが落成した時の未使用の記念テレホンカードがあった。市役所の地は以前紹介した西尾商店第四製材工場、後に太陽コルク工業合資会社があった所である。テレホンカード-市庁舎・文化センター落成記念
今は殆ど使用することが無くなったテレホンカードで使用済みの厳島関係のテレカが物入れの隅にあった。先日来厳島神社の舞楽蘭陵王に関する画像を紹介したが、高舞台での蘭陵王の舞楽奉奏画像のものがあった。テレホンカード-蘭陵王の舞楽奉奏
国道2号線下を通る宮島口連絡地下通路の壁面に「厳島94迎(むかえる)」と「厳島94歓(よろこび)」と題した大きな壁画が設置掲示されている。厳島神社の蘭陵王の舞人を多く描いている洋画家北田和広が平成6年(1994)に制作したもののようである。地下自由通路の壁画
国道2号線下を通る宮島口連絡地下通路の壁面に「いもせの滝」「べにまんさくと湖」と題した陶画が設置掲示されている。近くにある宮島焼(お砂焼)の窯元川原浩二氏の作品のようである。地下自由通路の陶画
宮島口旅客ターミナル前のロータリーに設置されている舞楽「蘭陵王」の像で宮島口ライオンズクラブにより寄贈されたもののようであるが、作者については定かでない。厳島神社蔵の陵王面は国の重要文化財に指定されている。(厳島神社発行絵葉書・芸藩通誌より)舞楽「蘭陵王」像
時折り紹介している新設なった広電宮島口駅の周辺整備工事の進捗状況で、現在国道2号線から分岐しての観光客用アクセス道路(赤崎3号線)の工事が行われている。現在アクセス道路の宮島口駅側の工事が行われているようである。広電宮島口駅周辺整備工事の今
スポーツセンター「サンチェリー」のある峰高公園の一角に建立されている句碑で「浮宮のたゆたふまでに春の潮藍子」と刻されている。碑文によると廿日市市制25周年記念と俳誌「廻廊」八百号達成を記念して平成26年(2014)4月に廻廊俳句会の人々により建立されたようである。「廻廊」俳句碑
佐伯総合スポーツ公園の駐車場脇の植え込みに建立されている巨石の竣工記念碑で、旧佐伯町時代の平成5年(1993)6月にここの総合スポーツ公園が整備竣工したときにこの記念碑が建立されたようである。佐伯総合スポーツ公園竣工記念碑
佐伯総合スポーツ公園に設置されている飛躍と題した石像オブジェで、銘板のまま表示「頭部のボールは、灼熱の太陽上下二つの三角形は不屈のスポーツ精神を表す、全体として大地をふまえ逞しく天に向って伸び行く佐伯町のイニシャルSを表現した。」とあり、旧佐伯町時代に設置されたものである。石像オブジェ-「飛躍」
藤掛交差点角で峰高公園の隅に巨木で作られたオブジェが設置されておりここを通過するほとんどの人が目にするであろう。銘板に「THEORIGINOFCREATIVITY」(創造のたまご)とあり、米国ワシントン州オリンピア産出の樹齢610年の巨樹から切り取られ平成7年(1995)6月に作成設置されたようである。巨木オブジェ-創造のたまご
サンチェリー正面に設置されているブロンズ像で銘文に「COMEACROSS」(出会い)と表示されている。尾道市の彫刻家高橋秀幸氏の作品で廿日市ライオンズクラブにより寄贈されたようである。サンチェリー正面のブロンズ像-出会い
峰高公園前の藤掛交差点東側に架かる七尾陸橋は平成11年(1999)9月に竣工しており、両側手摺には平良小学校児童・七尾中学校生徒と市との姉妹都市ニュージランドのマスタートン市の子供たちが描いた絵が嵌め込まれている。当初はカラフルな絵の焼付けタイルかと思っていたが・・・最近訪れてみると劣化して剥がれそうなものや色が退色しているものが見られ樹脂系のもので制作され嵌め込まれているようである。七尾陸橋の手摺画が‼
市庁舎・文化センターの市民ホールから文化ホール・美術ギャラリーへの階段踊り場正面の陶壁「海と風と」で備前焼作家の金重晃介の作品のようである。この陶壁は平成9年(1997)4月市庁舎・文化センター落成に際し寄贈されたようで、タイル状のパーツで風による海の波文が表されているようである。陶壁「海と風と」
昨日は尾道市御調町出身の彫刻家圓鍔勝三の晩年の作品を紹介したが、以前にも紹介した広島赤十字・原爆病院のアトリウムロビーに展示されている彫刻「調べ」は昭和9年(1934)に制作されたようで圓鍔勝三の初期作品のようである。彫刻「調べ」
海辺和合深山豊穣楽楽はつかいち文化ホール「さくらぴあ」の壁面に張り付けられている「はつかいち今昔-21」と題した壁面彫刻で「海辺、和合、深山、豊穣、楽楽」の5場面が表されている。平成9年(1997)10月に廿日市ライオンズクラブ、廿日市市管理職等親交会により寄贈されたようで、制作は尾道市御調町出身の彫刻家である圓鍔勝三の晩年の作品のようである。壁面彫刻「はつかいち今昔-21」
広電宮島線の廿日市市役所前(平良)駅前のロータリーに厳島神社の鎮座伝説に由来する「神鴉」モニュメントが建立されている。神鴉伝説は厳島神社をはじめ大頭神社、宮内天王社、阿賀速田神社などでみられる。平成19年(2007)10月27日に廿日市市市制施行20年記念、廿日市ライオンズクラブ25周年記念で、廿日市ライオンズクラブによって建立されている。「神鴉」モニュメント
友和市民センターのアプローチ壁面に設けられている陶壁で「躍動」と名付けられている。陶銘板によると昭和61年(1986)3月に広島ひかり園の人達により制作され戸屋野窯で焼成されたようである。陶壁「躍動」
JR宮内串戸駅前のロータリーに松本隆司制作の「朝の詩」と題した彫刻が設置されている。昭和63年(1988)4月3日に宮内串戸駅が新設開業しており、開業記念で廿日市ライオンズクラブが寄贈したようである。野外彫刻「朝の詩」
地御前の余田公園脇にある毘沙門堂で本尊の毘沙門天立像が祀られている。江戸期の地誌に「往古神宮寺と申ス寺有之由申伝ヘ、毘沙門堂御座候」と記されている。仁安3年(1168)の当社(厳島神社)神殿舎屋等色目事-外宮分(地御前神社)の中に五間四面拝殿神宮寺一宇がみられるが何時頃廃寺になったのかは不明である。(町史附録絵図)毘沙門堂
現在市役所がある地にあった西尾商店第四製材工場で、画像右側向うに先日紹介したかつての藤掛尾城跡の山がみられる。昭和5・6年(1930・31)頃に太陽コルク工業合資会社がこの地に移設されコルク製造がされており、昭和40年(1965)頃に製造中止されたようである。絵葉書で廿日市ぶらり-西尾商店第四製材工場
久しぶりに江津市の有福温泉に向い、温泉街の高台にある御前湯に入浴し英気を養った。御前湯は昭和4年(1929)に建築されたようでアーチの窓や入口などモダンな西洋建築風の外観で、中に入ると昔懐かしい番台があるなどレトロ感のある建物である。土曜日であったが入浴者は2~3人と閑散としていた。かつて広島バスセンターから有福温泉行きの広電バスがあったが何時ごろまであったのであろうか。若い頃職場の慰安旅行で当温泉に宿泊したが、当時は大変賑わっていたことを思い出したのである。有福温泉
戦国時代桜尾城の友田興藤を攻撃するために山口の大内義隆は七尾に陣を張っており、厳島に社参して七尾の陣に帰っている。また七尾より外宮に参詣しており、後に義隆は藤懸、七尾より佐東銀山城に移っている。これらから中世の七尾は藤懸城(藤掛尾城)から越峠尾城一帯であったものと思われる。(赤丸内)戦国時代の七尾位置が忘れられ江戸期に七ツの尾が付いた城や七ツの尾根などと作り変えられたようである。七尾について-七尾陣
芸州吉田行程記-福尾氏蔵折敷畑山合戦図-廿日市市教委蔵芸州吉田行程記によると藤掛尾城、上ノ尾城、笹尾城、桜尾城、岩戸尾城、海老尾城、エビカ城の七ケ所を七ツ尾というとある。また古戦場である折敷畑山より連なる峰々七つの尾根を七ツ尾としたものとみられるものに毛利元就、隆元連署感状に「折敷畑七ツ尾合戦之時」や大内盛衰記に「七ツ尾に備え二ノ尾、三ノ尾、四ノ尾、五ノ尾、六ノ尾に打向う」などとある。七尾について-七ツ尾
昨日紹介した七尾中学校の校名の由来は、桜尾城を中心とした七つの尾が付いた城があった(赤印ケ所)から名付けられたようである。江戸期の芸藩通志に桜尾城、岩戸尾城、篠尾城、谷宗尾城、宗高尾城、藤掛尾城、越峠尾城の七所を七尾城と称すとある。七尾について-七尾城
七尾中学校アートの同窓会「第5回七美会展」が今夏に開催されるようである。七尾中学校の美術部で昨日紹介した吉野誠先生の指導を受けた方々有志で立ち上げた実行委員会が主催で開催されるようで、現在七尾中学校同窓生の出品を募っているようである。(七美会)七美会展
光禅寺参道入口脇に建立されている原爆死没者慰霊碑で、看板表示によるとこの慰霊碑をデザインしたのは、遥か昔、当ブログ主が七尾中学校時代に教えて頂いた美術の吉野誠先生とのことであった。慰霊碑は人間が合掌をした像を表現しているようである。原爆死没者慰霊碑
五日市の光禅寺に久しぶりに参詣した。鐘楼に架けられている梵鐘は廿日市鋳物師が鋳造した梵鐘であり、延宝7年(1679)5月に山田貞栄が鋳造している。この梵鐘の中帯にみられる蓮弁文の両側に蕨手文を配して図案化した文様は極楽寺、蓮教寺の梵鐘にもみられ山田貞栄が使用した文様手法のようである。光禅寺の梵鐘
益田の高津川と益田川下流域で中世から中須東原遺跡など港湾遺跡があった所に祀られている厳島神社で、「史跡中須東原遺跡保存活用計画書」によると江戸期に浜田組七浦大年寄を務めた中須村大賀家の鎮守社であったものを中須村の氏神としたというとある。隣接して大元神社が祀られており、石見地方では明治初年頃564社位の大元神社が祀られていたようであるが、どのような信仰が行われ祀られていたのかは定かでない。各地の厳島神社⑫-中須厳島神社
現在、スポーツセンター・サンチェリ脇の歩道が削られて工事が行われており何の工事が行われているのかと思っていた。上看板表示によると「一般県道廿日市港線道路再生改良工事」とあり、下看板には完成後4車線になるとの表示があったが上部に何故か「一般県道虫道廿日市線」と表示してあった。県道廿日市港線道路の再生改良工事
七尾配水地タンクがある斜面下に建立されている谷宗尾城跡標木であるが城跡は削平され城跡(遺構)は残っていないのである。かつて標高71mの谷宗山にあり最高所と北斜面に平壇があったが記録してない。写真2枚は昭和40年頃の谷宗尾城跡の姿である。谷宗尾城跡標木
太田市温泉津町小浜にある厳島神社で毛利元就が石見銀山を支配した頃に勧請されたのであろうか。表示によると祭神は市杵島姫命、田心姫命(多紀理姫命)、湍津姫命(多紀津姫命)と記されており、毎年2月14日に御日待祭という火祭りが行われているようである。各地の厳島神社⑪-温泉津厳島神社
昨日紹介した御山神社中央社殿の高欄親柱の擬宝珠は安政3年(1856)5月に海田鋳物師の植木直義が鋳造し寄進されている。海田鋳物師の鋳造作品は115ケ所の鋳造が判明しているがこの擬宝珠は晩期の鋳造作品である。海田鋳物師の鋳造活動については「安芸国鋳物師の鋳造活動」に詳述している。御山神社の擬宝珠
弥山にある御山神社で明治以前は三鬼神社・三鬼神三社・三鬼堂などと称されており、中央社殿に追帳鬼神、左社殿に魔羅鬼神、右社殿に時(肘)眉鬼神が祀られているようである。以前にも紹介したが大正15年(1926)に皇太子殿下(後の昭和天皇)が御山神社に登山参詣されている。御山神社
ウォーキング途中に川末川沿いに寄り道してみると、かつて田んぼや畑があった所が竹藪化しており、画像部分は小さな畑地であったのであろうか人も入れないように竹が密繁茂していた。繁茂竹林
昨年暮れに建築家磯崎新の訃報が報道されており、今月10日付の中国新聞文化欄に「磯崎新さんを悼む」との記事が掲載されていた。ストック写真をみていると当ブログ主が若い頃、博多駅前で磯崎新が設計したインド砂岩壁面の赤茶色が印象的な福岡相互銀行本店を竣工後に見に行った時の写真があった。昨年11月に訪れた時にはすでに建物はなく西日本シティ銀行本店ビルの基礎工事であろうか仮囲いの中で工事が行われていた。元福岡相互銀行本店
国道433号線の陽光台南交差点ケ所で、市道堂垣内広池山線道路改良工事と表示され建物が取り壊されていた。下地図の中央付近の陽光台南交差点から上に向かって点線のように市道堂垣内広池山線が築造されるようである。(廿日市市地図情報システムより)市道堂垣内広池山線道路改良工事の今
頂上手前の巨岩にへばりつくように建てられていた毘沙門堂は明治40年(1907)に焼失したと記されている。(宮島町史)しかし絵葉書には大正8年(1919)の年号がみられるので焼失年に疑問がわくのである。焼失した堂跡の巨岩の上には土台と柱の跡が刻されている。その後小堂(下画像)が再建されたが平成3年(1991)の台風で倒壊したようである。弥山の毘沙門堂跡
弥山本堂から山頂に向って登っていると登山道脇に鐘楼跡が残されている。かつて上画像のような鐘楼があったが鐘楼跡には木の礎盤が二ケ所残されていた。梵鐘は治承元年(1177)に平清盛の三男平宗盛が施主で寄進しており、現在は国の重文に指定されて弥山本堂に安置されている。弥山の鐘楼跡
弥山には以前にも紹介した皇太子殿下(後の昭和天皇)が大正15年(1926)に行啓された時の石碑三基がみられる。弥山本堂から山頂に向って登っていると登山道脇に4本の石柱に鎖を巡らせ区画した所に「皇太子殿下大正十五年五月御播種松」と刻された石柱がみられ、頂上手前の24丁碑に「皇太子殿下御展望跡」とある。御山神社には「皇太子殿下御参拝」と刻された石碑がみられる。弥山の皇太子殿下(後の昭和天皇)関係石碑
厳島合戦図宮島でみられる厳島合戦に関する石碑を紹介しよう。上画像は包ケ浦自然公園入口に建立されている「毛利元就上陸之跡」碑で昭和16年(1941)3月に建立、中画像は高安ケ原にある「陶晴賢敗死之所」碑で大正10年(1921)8月10日に建立されている。下画像は大元公園にあり通称「血仏」と称されているが供養塔で明暦4年(1658)7月14日に建立されている。厳島合戦関連石碑
大聖院登山道の仁王門前から奥の院に向かい奥の院大師に久しぶりにお参りした。奥の院境内には明治44年(1911)6月13日に建立された「陶晴賢公一族郎党戦死者」碑がみられる。弘治元年(1555)の厳島合戦で亡くなった人達を供養するために陶勢関係者の子孫の方々が建立されたのであろうか。陶晴賢公一族郎党戦死者碑
夕日観音朝日観音弥山の展望台から厳島合戦の古戦場と云われる駒ケ林(絵馬ケ岳)を遠望。かつて多宝塔から駒ケ林下に至る登山道があり途中に夕日観音と朝日観音が祀られていたが、現在は閉鎖され登山禁止となっている。弥山から駒ケ林遠望
我が家から弥山をカメラの望遠で撮影すると展望台の上の人がいるのが見えるので、展望台上から我が家が見えるのではと撮影すると、条件が悪かったので鮮明には撮れなかったが下画像中央に我が家がみられた。弥山を遠望・・・弥山から遠望
弥山への登山は久しぶりであり平成25年(2013)に建築されたという現在の展望台は初めてである。大聖院コースから登山して紅葉谷コースで下山したが、途中5~6人の登山者に会っただけであるが弥山山頂は大勢の人であった。多くの人達がロープウェイを利用しているのであろう。下画像の以前の展望台の頃は紅葉谷公園の四宮神社付近から展望台下に至る険しい登山道があったが現在は閉鎖され通行止めとなっている。弥山展望台
修復なった大鳥居を見ながら厳島神社に向かい初参りして弥山に初登山をした。修復なった現在の鳥居は明治8年(1875)に建立されたようである。下画像の大鳥居絵図は享和元年(1801)に棟上げされた先代大鳥居の各部の寸法などが表されたものである。厳島神社大鳥居
時折り紹介している新設なった広電宮島口駅の周辺整備工事の進捗状況で、現在国道2号線から分岐しての観光客用アクセス道路(赤崎3号線)の工事が行われているが、現状ではどのような道路形状になるのかは不明である。広電宮島口駅周辺整備工事の今
今年も椎茸のホダ木を補充するためにクヌギの木(当ブログ主はドングリの木と称している)を伐採し、春ごろに植菌をする予定である。全くの素人栽培であるが数年経つと少しずつ椎茸が生えだして我が家で消費するぐらいのものが出来るのである。椎茸ホダ木
極楽寺に参詣する人で本堂の屋根頂にある宝珠・露盤で露盤に銘文があることに気付く人は殆どいないであろう。銘文によると路盤は旦那宍戸元次で慶長4年(1599)に鋳造されているが鋳工名がみられない。宝珠にも銘文があるようだが下からは見ることが出来ない。銘文によると宝永元年(1704)に廿日市鋳物師の山田貞能が鋳造している。極楽寺屋根の宝珠・露盤
廿日市参道の30丁碑手前に石積みがみられ上部は平坦地となっている。この場所は幕末期の砲台跡であると先人から聞いたことがある。大正期の地誌などに第一次長州戦争時、極楽寺山の南方頂に近き所に広島藩が仮砲台を設け、農兵を募り応援隊として之を守備したことが記されている。ここには陣小屋場、篝焚小屋などがあったようで何と木炮が配備されていたようである。(木炮画像-下関市立歴史博物館)極楽寺参道所どころ-幕末砲台跡
上画像は極楽寺参道途中にある「ど根性松」で、樹木は通常上に伸びていくものであるがこの松は画像左側向うが根元で、幹が赤線のように大きく曲がって参道脇で上に伸びているのである。中画像は26丁碑脇にある通称「手無し観音」でかつて木造の観音像が祀られていたが現在は石仏が祀られている。ここからの瀬戸内の眺望は素晴らしいのであるが一昨日は曇天で・・・下画像は通称屏風岩の上に大日如来の石仏が祀られている。かつてお堂の中に祀られていたが堂は朽ちて跡形も無くなっており、屏風岩正面には名号が刻されていると言われているが判読できない。極楽寺参道所どころ
極楽寺山に初登山して極楽寺に初参りをした。体調に少し不安もあったが二人の孫達を助っ人に、往復4時間半かかって何とか家にたどり着いた。昨年1月に登山して1年ぶりであったが、昨日は曇天で瀬戸内方面の展望は良くなかった。初登山・初参り
一昨日紹介した林道玖島科川末線の工事ケ所から広島湾を遠望。串戸から木材港北の工場群や廿日市の町並みがみられ、瀬戸内の左側には津久根島がありその斜め先には安芸の小富士(似島)とその先に灰ケ峰がみられる。海の向うには能美島、江田島、倉橋島の山々がみられ、その向こうにうっすらと四国の山々がみられる。川末から瀬戸内遠望
(佐方-2008年)(飯山-2007年)(浅原-2009年)(中道-2007年)(友和-2010年)兎年となりましたのでストック画像から兎年に因んだ蔵飾り(通常鏝絵と言われているが当ブログ主は蔵飾りと称している)を紹介しよう。これらは平成19年(2007)から平成22年(2010)に廿日市地区と佐伯地区で撮影したものであるが現在は失われたものもあるようである。蔵飾り-兎
林道玖島科川末線工事で上画像の赤丸ケ所の川末工区までウォーキングした。現在は工事の区切りであろうか工事は行われていないので探訪してみた。泉水峠方面(細赤丸)からも工事が行われているようであるが全通まではまだ年数が掛かりそうだ。林道玖島科川末線工事の今
昨日は天候もよく初ウォーキング~~~度々紹介しているウォーキング途中にある原伊勢神社、立善寺、河野原大歳神社の三社寺参りをした。今まで伊勢神社で参詣者に遭うことがほとんどなかったが正月で三々五々お参りの方がみられた。初ウォーキング
例年のように元日の早朝には速谷神社の歳旦祭へ初参りを済ませたので、おせち料理で腹ごしらえをして菩提寺である西蓮寺、長い石段のある二重原地区の八幡神社へと三社寺の初参りをした。三社寺参り
新年明けましておめでとうございます。今年も御来訪閲覧のほど宜しくお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も健康で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
今年も本日限りとなりました。本年も万人向きでない当ブログに多くの方々の御来訪閲覧して頂き有難うございました。老体鞭打っての更新に大いに励みとなりました。去る年は寅年でしたので虎に因んだ絵馬をストック画像から紹介致します。厳島千畳閣に掲額されている絵馬で上画像は山本雲渓の「武松虎退治の図」、中画像は玉峨斎東洋の「虎の図」である。下画像は佐方八幡神社に掲額されている絵馬で「加藤清正の虎退治」を描いたものとみられる。虎の絵馬
寅年の本年も明日飾りとなりましたがストック画像から寅年に因んだ蔵飾り(通常鏝絵と言われているが当ブログ主は蔵飾りと称している)を紹介しよう。上画像は上平良地区で下画像は佐伯地区で見かけたものである。龍虎の同じような構図であり、同じ左官の作かどちらかを真似たものであろうか。蔵飾り-龍虎
年の瀬も迫ってきたので我が家の注連飾りづくりを始めた。まず三つのパーツを作って組み合わせ、ウラジロ、南天、橙を取り付けて完成である。玄関に取り付けて速谷神社、大歳神社の注連縄づくりから各神社の注連縄めぐりなどと今年の注連縄納めである。しめ飾りづくり
過去に訪れた神社でみかけた色々な注連縄を紹介しよう。平成24年(2012)に訪れた福岡県宗像市の八所宮で、この神社にあった梵鐘を豊臣秀吉の島津攻略の際に持ち帰って厳島神社に寄進したと言われている。拝殿に架けられている注連縄はコモ巻きした藁束に細い藁縄で螺旋状に巻き付けた2本をゆったりと綯ったものである。訪れた当時のものなので現在どのようなものかは定かでない。各神社の注連縄-八所宮
街への所用ウォーキングの途中、西広島バイパス沿いに小さな竹林があった。ここの竹の節間隔が55cm位あったので唐竹(大名竹)とみられるのである。場所的にみると庭木として植えられていたもの繁茂して竹藪状になったものとみられるのである。唐竹林(大名竹林)
近年にない大雪も道路には殆ど無くなってきたのでウォーキングを再開。ウォーキング途中に伊勢神社に参詣したら拝殿と本殿に新しい注連縄が架けられており、一の鳥居と二の鳥居にも新しい注連縄が準備されていた。立善寺の山門工事では袖壁の瓦葺の作業をされていた。雪後のウォーキング
過去に訪れた神社でみかけた色々な注連縄を紹介しよう。平成28年(2016)に訪れた長野県諏訪市の諏訪大社上社本宮で、7年毎に行われる御柱大祭が今年斎行されており、大鳥居の左側には一之御柱がみられる。大鳥居の正面にみられる塀重門に架けられている注連縄は、藁縄を細い紐で束ねて綯ったもので見たことが無いようなものであり、飾り房も変わった作り方である。訪れた当時のものなので現在どのようなものかは定かでない。各神社の注連縄-諏訪大社上社本宮
過去に訪れた神社でみかけた色々な注連縄を紹介しよう。平成31年(2019)に訪れた福岡県添田町の英彦山北東中腹にある高住神社で、豊前坊天狗神として有名であったが明治期神仏分離令・修験禁止令で高住神社となったようである。一の鳥居と拝殿に架けられている注連縄は棒状の均等な藁束に縄を巻き付けたようなもので見たことが無いようなものであった。二の鳥居には通常みられるような注連縄が架けられていた。これらの注連縄は訪れた当時のものであり現在どのようなものかは定かでない。各神社の注連縄-高住神社(豊前坊)
昨日は冬至、当ブログ「はつかいちブラリ湯」では、不作で浴槽にたっぷりとは出来なかったが柚子を入れ柚子湯三昧・・・あぁー極楽!極楽!すべすべ肌のゆず湯モデルの入浴シーンをと撮影依頼をしたら・・・来年は農地改良で柚子の木を伐採するので今年が柚子たっぷり湯の最後となったのである。柚子湯三昧
ウォーキング途中の立善寺山門工事が行われていることを時折り紹介しているが、山門本体の工事はほぼ終わっているようである。現在は両袖壁の瓦葺き工事が行われているようである。本日の中国新聞に阿多田島灯台資料館の記事が掲載されていました。当ブログの別館「阿多田島灯台資料館」をご覧になって下さい。立善寺山門工事の今
ウォーキング途中の伊勢神社に参詣したら新年に向けて大きな門松が設けられており、手水舎の竹樋も新調されていた。一の鳥居、二の鳥居、拝殿、本殿には注連縄が架けられているが古い注連縄のままであった。原伊勢神社の今
過去に訪れた神社でみかけた色々な注連縄を紹介しよう。令和元年(2019)に福岡県福津市の宮地嶽神社を参詣し拝殿には日本一と称されている大注連縄が架けられている。当神社には日本一と称されるものが3つあるようでその一つが大注連縄のようである。毎年架け替えられているようであり今月17日には大しめ縄かけ替祭が斎行されたようである。各神社の注連縄-宮地嶽神社
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先日、厳島神社の大鳥居付近で宮島フェリーななうら丸(上画像)が浅瀬に座礁したことが報道されていた。現在の3代目ななうら丸は平成28年(2016)11月7日に就航したようである。中画像は2代目ななうら丸で昭和62年(1987)2月8日に就航し平成28年(2016)11月7日3代目ななうら丸に交替している。下画像は2代目ななうら丸が就航した時の記念乗車券である。宮島連絡船-ななうら丸
下画像は廿日市1丁目7番から8番の間を通っている市道幸高洲線で、かつて上画像(ふるさとの写真集より)のように潮音寺川が流れていたが現在は暗渠となって川の痕跡は見当たらない。上画像の左端にみられる橋がかつての幸橋とみられ、現在は橋の遺構が道路端にモニュメントとして設置されている。潮音寺川の今昔
天満神社の旧国道沿い玉垣のうちで「宮内武田狂気之薬所」と刻された親柱がみられる。江戸後期宮内村の武田文敬は西洋医学を学び、「武田逢原堂文敬製」の「鎮火奇応散陰陽狂気之妙薬」を特効薬として広く販売した。明治期になって子の武田敏恵は武田精神病医院を開院されていたようである。(中・下画像-広島県の医学歴史散歩より)「狂気之薬所」玉垣
天神山を広電廿日市駅前ロータリー付近から見た画像で、上画像(ふるさとの写真集より)は大正中頃の写真のようで蓮教寺後方にみられる町屋は草屋根葺きである。かつて山斜面には樹木が鬱蒼としていたが現在は無味乾燥なコンクリート擁壁とされている。うしろ天神今昔
廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花がぼちぼち咲き始めている。花が実ってその種を毎年採って次年にどのように育っていくのかをみるだけ・・・手間暇かけての遊びの菜園である。遊びの菜園-桜島大根と切葉松本地大根の今
昨日、営業運転中の蒸気機関車で最も古い「SL人吉」の営業運転が終了したと報道されていた。画像の銘文にみられるように大正11年(1922)に製造された「8620形58654号機」の蒸気機関車のようである。平成28年(2016)7月に電動自転車での人吉市内の観光を終えて人吉駅に着いてみるとSL人吉がホームに停車していた。もう少し後の列車を予定していたが乗車が可能であったので人吉駅から熊本駅まで乗ったことが懐かしく思い出されるのである。「SL人吉」営業運転終了
(2010年7月撮影)(2010年7月撮影)大町市から長野市に向かうバス車中からみられた民家を撮影したがうまく写すことができなかった。上画像は旧中村家住宅で主屋は元禄11年(1698)に建立されたようであり、主屋と土蔵の二棟は国の重要文化財に指定されているようである。2010年7月に長野市に居た娘と立山観光の途中にこの民家を撮影していたのである。この地域の民家を4棟しか撮影出来なかったが、これらの民家は屋根の中央にいろりの煙り出しの越屋根が設けられているのが特徴的であるようである。長野大町線沿いの民家
現在行われている開発地の進捗状況で西広島バイパスを走りながら助手席から撮影してもらったものである。この付近は弘法川を遡った谷でありかつては農業用の八ケ迫溜池があった。(下画像)平良丘陵開発の今
現在行われている開発地の進捗状況を宮島サービスエリア展望所からみた遠望画像である。上から3画像目付近では向こうの山から大きな数台のダンプカーで土砂を運びこんでいるのがみられた。平良丘陵開発の今
今回のミステリーツアーで最後の観光地が国宝の松本城であった。ウイークデーであったが天守閣内は見物客の数珠つなぎであり閣内の展示物などはゆっくりと見ることは出来ないような状態であった。以前に当地の民家や寺院の懸魚を紹介したが閣内に当城の古い懸魚が展示してあった。松本城天守閣
今回のミステリーツアーで最も訪れてみたいところであった。伊勢神宮の正殿と同じような形式のものであり、寛永13年(1636)に造営された伝統的な神明造りの様式が残されているようで、本殿・中門・釣屋は国宝に指定されている。神門には積雪があったが側面を廻っていくと国宝の本殿・中門・釣屋を見ることができたのである。仁科神明宮-国宝社殿
一の鳥居二の鳥居三の鳥居ミステリーツアーで最も訪れてみたいところであった大町市の仁科神明宮に参詣した。参道入口に一の鳥居、参道途中に二の鳥居、社殿前に三の鳥居があったが通常見かける鳥居の形状とは少し異なった鳥居であった。伊勢神社でみられる鳥居と同じようであり伊勢形神明鳥居という形式のようである。仁科神明宮-伊勢形神明鳥居
今回訪れた地には当地域では見られないような火の見櫓がみられた。上画像は旧中山道の奈良井宿町並みの中央付近の消防団詰所脇にみられた火の見櫓であり、下画像は善光寺仲見世通りの仁王門脇にある消防団詰所脇にみられた火の見櫓で何れも高さの高いものであった。バス移動中にもみられたが撮影することが出来なかった。火の見櫓
善光寺では明治初期までは「善光寺七名物」という商品があったようで、昨日紹介した八幡屋磯五郎の七味唐辛子、また眼界堂笠原十兵衛薬房の雲切眼薬などがあったようである。雲切目薬は現在も笠原十兵衛薬局で販売されており薬局内には家伝薬であった当時の調合器具や資料、看板などが展示されていた。善光寺七名物-雲切目薬
ミステリーツアーの最終日に善光寺を参詣した。以前に娘が長野市に居たことがあったことと以前のミステリーツアーで参詣したことがあり三度目の参詣となった。善光寺本堂の外陣に入ると以前に盗難報道のあったびんずる尊者が安置されており、御本尊参拝後に善光寺名物である仲見世通りの八幡屋磯五郎の七味唐辛子を求めた。善光寺参詣
安曇野にある大王わさび農場を久しぶりに訪れた。以前訪れた時の記憶は広いわさび畑と水車小屋だけだったが、農場内には数多くの道祖神や石仏があった。これらの道祖神は各所に祀られていたものが集められたものではなかろうか。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。大王わさび農場の道祖神
大町温泉郷の宿泊ホテルの玄関先に上画像の道祖神が設置されており、宴会場前のホールには中画像と下画像のような最近築造された道祖神が設置されていた。広島地方ではみられないような道祖神文化が栄えていたようである。大町温泉郷の道祖神②
今回のミステリーツアーで大町温泉に宿泊した。当温泉地には積雪が多くあったが、寸暇を惜しみ温泉郷内を散策して広島地方ではみられないような道祖神を訪ねてみた。道祖神はどのような信仰が行われていたのであろうか。大町温泉郷の道祖神
昨日は天龍峡大橋下歩道そらさんぽ天龍峡を散策してから養命酒駒ケ根工場を見学した。続いて大王わさび農場を散策し国宝の仁科明神宮を参詣した。今日はどこにいくのだろうか。馴れないタブレットから***ミステリーツアー2
体調不良であるが無理してミステリーツアーに参加した。fdaチャ-タ-便で極楽寺山と同じ位いの標高の松本空港についた。雪の降る中山道の宿場町であった奈良井宿では震えながら散策した。今日はどこにいくのだろうか。ミステリーツアー
所用で久しぶりに広島駅裏方面に行き通り掛かりの国前寺に久しぶりに参詣した。山門裏の桜は満開であった。本堂の脇には見たことが無いような細長い花弁が重なった鮮やかな色合いの花が咲いていた。写真を撮っておられた御婦人に聞いてみたが何の花か分からないとのことで、ネットで調べてみるとハナモモ(花桃)の一品種のキクモモ(菊桃)のようである。国前寺-桜と菊桃
平良丘陵開発土地区画整理事業の工事施工者であるN建設の現場事務所が上平良地区で新築工事中である。現場事務所の使用期間は令和9年(2027)6月末迄の予定のようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
大野地区の海岸線の多くは護岸工事が行われており自然海岸はところどころのわずかしか残されていない。昨日紹介したフマキラー広島工場の西側に自然岩礁の蛭ケ崎鼻が残されており、工場側にある潮廻し部分も自然岩礁のようである。蛭ケ崎鼻
フマキラー広島工場沖の堤防道を進んでいるとフマキラー広島工場内にガラス張りで見たことが無いような近未来的な外観の工場内施設があった。なんと工場周囲の外構塀にもガラス板が嵌め込まれたものであった。ガラス張りの工場内施設が!
昨日紹介したかつての新開鼻灯台は大野瀬戸の最狭部に設置されていたのであるが、この最狭部には日露戦争時に広島湾要塞の一環として厳島の室浜に室浜砲台が設置されていた。室浜砲台跡は広島大学理学部付属自然植物園内に残されている。※昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数150万UUの大きな節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。室浜砲台跡
大野地区の大国新開先端護岸に設置されていた新開鼻灯台がなくなっており、基礎のコンクリート破片が残されていた。大野瀬戸の最狭部にあったここの灯台(中画像)は明治32年(1899)5月に設置されていたが、平成20年(2008)10月に廃止撤去されたようである。新開鼻灯台跡
ウォーキング途中の道路脇の笹藪にある外車を以前に紹介したときは下画像のようであった。現在は枯れ笹で気を付けてみないと分からないような状態になっていたが、今から笹の新芽が伸びてくるとさらに見えなくなるであろう。この車は米国ゼネラルモーターズのキャデラックのようである。笹藪の外車が!
ウォーキング途中に伊勢神社に参詣したら境内の桜並木にボンボリが吊り下げられていた。境内の桜の木は老樹であるが何時ごろに植えられたものであろうか。開花はもう少し先のようである。伊勢神社のボンボリ
本日は生憎の天候であるが、昨日ウォーキング途中のあちらこちらで色々な花が咲いていた。ユキヤナギ、モクレン(紫紅色・白色)、ウメかモモ、ツバキ等々の花が咲き乱れており春真っ盛りである。春爛漫
ウォーキング途中には畑が荒れて竹藪となった所が多くみられ、今まで気が付かなかったが画像の竹藪は竹の色が黄色っぽい色であり緑色の筋が入っていた。ネットで調べるとキンメイチク(金明竹)のようでありマダケが突然変異してできたものであろうか。キンメイチク(金明竹)
ウォーキング途中に家屋を取り壊したものと思われる残骸が置かれており、その中に懐かしいダイガラの一部で踏柄と先端部に杵が付いたものがあった。当ブログ主が子供の頃には親が餅を搗いていたのを思い出した。下画像は2014年3月に岩国市本郷町の町家で見かけたダイガラである。ダイガラ
ウォーキング途中にある立善寺の山門工事の進捗状況を以前に紹介してきたが、すでに工事は完了しているようである。しばらくの間保護柵がしたままであり、彼岸の中日ごろに通り初めが行われるのであろうか。立善寺山門工事の今
原地区を流れる川末川に架かる県道虫道廿日市線の下ケ原橋(上画像)と市道第一路線の下ケ原橋(下画像)で、中世、折敷畑山合戦の時に下ケ原付近でも戦いがあったことを伺わすような記述が戦記物にみられる。吉田物語には「敵よりも平良の郷志し、下の原と申す所迄押し下る處へ・・・」と記されている。川末川の下ケ原橋
平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地にある極楽寺参道をウォーキングしていると何の木か分からないけれど変形した芸術的な樹木がみられる。芸術的な樹木
山の境木について以前にも紹介したことがあるが、平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地にある極楽寺参道脇にあった。樹木の主幹を切って脇枝が多く出たもので、脇には境界杭がみられるので先人が山の境木としていたものとみられるのである。山の境木
昨日はキヅタが繁茂している倒木を紹介したが下平良地区の民家のブロック塀では全面に蔓性の植物であるオオイタビが絡みついて綺麗に覆っており冬でも葉が落ちず緑化されていた。オオイタビの緑化
山陽自動車道の側道をウォーキングしていると道脇の山林にある倒木に蔓性植物のキヅタ(木蔦)がびっしりと張り付いていた。一見すると常緑の大木かと間違いそうである。キヅタ(木蔦)の大木か・・・
平良丘陵開発土地区画整理事業の予定地である広池地区を通っていると道路の各所に「敷地造成工事を行っています」との看板が設置されていた。準備作業が行われているようであり間もなく開発工事が始まるのではなかろうか。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
二重原地区産業団地造成事業予定地内の山林に見たことが無いようなハゲシバリの老樹があった。ハゲシバリは山崩れの場所などにいち早く成長する木で、ヤシャブシ、オオバヤシャブシ、ヒメヤシャブシなどの種類があるようだが通常ハゲシバリと称している。また、幹や枝が水平に育った珍しい松の木がみられた。ハゲシバリの老樹
二重原地区産業団地造成事業予定地内の山林には竹が繁茂している所があり大きな竹があった。胸高の位置で計ってみると直径18cmの大きなものもみられた。また下部が2連の珍しい形のものがみられ上部は普通の竹となっていたものがあった。大竹・変形竹