ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
島根県吉賀町金山谷集落の通称観音山に建立されている小椋余右衛門妻の墓碑で、弘化2年(1845)の刻銘があり墓碑上部に16弁菊花紋が陰刻されている。木地屋の人達は惟喬親王を業祖と仰いでおり親王に随伴した人達の末裔として菊の御紋を使用するようになったものとみられ墓碑に刻されている。(廿日市の文化第24集所収・西中国山地の木地屋参照)菊花紋の墓碑②
上画像はJR廿日市駅の裏手にある洞雲寺の昨日の風景画像で、イチョウの葉がきれいに黄葉していた。次画像は2008年11月に撮影したものであり参道のモミジの紅葉もあり絵になる風景であった。また、春も冬も絵になる風景であったが・・・洞雲寺の紅葉
遥か昔、昨日紹介した折居の厳島神社前を通って、室谷地区の山中にある菊花紋のある墓碑を発見した人に案内してもらったことがある。墓碑の主は元治元年(1864)に葬られたようであるが俗名は刻されていなかった。山中であり菊花紋がみられるので山中で稼業していた木地屋の墓碑と思われるが、この地での木地屋の挽造活動についての資料は見当たらないのである。(西中国山地の木地屋参照)菊花紋の墓碑
浜田市折居町の国道9号線から県道303号線(一の瀬折居線)に向かって行くと道路脇に祀られている厳島神社で、弁天島と称されていたようであるが由緒などについては定かでない。ここの本殿も出雲大社の影響を受けているものとみられ本殿は大社造りに似た造りとなっている。各地の厳島神社㊲-折居の厳島神社
浜田市金城町七条に祀られている青原厳島神社で石見国神社記によると仁安3年(1168)9月17日安芸厳島より勧請したようである。明治43年(1910)に火災で全焼のため現在の社殿は大正6年(1917)に再建されたようで、本殿は出雲大社本殿と同じような大社造りで造られている。各地の厳島神社㊱-青原厳島神社
佐伯区楽々園で作陶されていた芸州焼西本瑛泉さんの夏茶碗を求めたもので、鶴首花瓶も同作者のものである。21日付の中国新聞文化欄に芸州焼を継承されている西本直文さんの東京での個展についての記事が掲載されており、西本瑛泉さんの作品も展示されているようである。(下画像)抹茶碗で一服⑤-芸州焼
以前に訪れた岩国市周東町祖生にある新宮神社の絵馬の中に厳島神社を描いた絵馬が掲額されている。明治18年(1885)に奉納されたものであるが、絵図には本地堂や鐘楼が描かれており廃仏毀釈以前の様子が描かれているのである。(厳島を描いた木版画参照)当神社は江戸期の地誌によると安芸の厳島勧請で祭神は三女神とあり、厳島神社との関わりがあったようである。厳島神社絵図の絵馬
宮島サービスエリアから久しぶりに見た平良丘陵開発の現在で、展望所からみるとクレーターのような大きな穴がみられ徐々に埋め立てられているようであった。西側方面(下画像)の手前現場では法面の工事が行われているようであった。平良丘陵開発の今
山陽自動車道の側道脇に立てられてい電柱の電線に黄色い養生がしてあり何の為だろうかと思っていた。ウォーキング途中に見てみると法面の雑木が伐採されているためのようであった。山林を崩し多くの樹木を伐採して自動車道が築造されたのであるから法面の雑木はそのままにしておけばと思ったのであるが・・・山陽自動車道の法面雑木伐採
時折り紹介している上平良河野原地区にある大歳神社の昨日のイチョウの紅葉状況で、もう少し先に見頃となりそうだ。近くの田んぼでは稲のひこばえに実がついているがこれから寒くなるので実ることはないだろう。河野原大歳神社の今
親の時代に田んぼの減反政策で梅やカリンの木を植えていた。古くなったカリンの木に今年も5~6個のカリンの実がなっていた。カリンは芳醇な香りをもっているが、生で食べようにも硬くて渋いため食べれないので、毎年ほったらかしにしているのである。カリン(花梨)
袋状になったコモの中に米袋を入れて新米を詰めてコモの上端を折り曲げて他端と同じように紐で亀の甲状に編み上げていく。胴部分の両端ケ所に横縄を二周回して男結びとする。2本の縦縄を十の字として端部の編み上げ端を通し、横縄部分で一回りして他端中央で飾り縄に紐で結び、横縄を中央部に二周回して男結びとする。突起の飾り縄部分に色紙を巻き水引で結んで完成である。新米の米俵は今年も元気であった証としてしかるべき所に・・・米俵づくり②
今年もやっと秋の収穫が終わったので例年の如く米俵を作りはじめた。まず稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする。藁のくずをアクタと親から聞いているが、地方によると藁すぼといわれ藁の芯を藁しべというそうである。俵の胴体部になるコモを編む自作機具で、ヒモの上に藁をのせて紐を法則的に交差させ、藁の向きを交互にして必要目数まで順次編み上げていく。編みあがったコモを筒状に編み紐で結んで中に筒型を入れ、コモの片端部分を折り曲げて紐で亀の甲状に編み上げていき袋状にする。米俵づくり①
速谷神社境内の昨日の紅葉状況であるが、モミジもイチョウももう少し先が見ごろになるのではなかろうか。境内には七五三参りのお子さん連れの参詣者が多く見られた。速谷神社境内の今
以前に棹干ししていた陸稲・陸植2代目黒米を少量であり機械は使用できないので手作業で脱穀した。上画像は陸稲で籾摺り・精米すれば少しは食べられそうである。下画像の陸植2代目黒米は空籾が多く、来年の陸植3代目黒米は無理かもしれない。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園-陸稲・陸植2代目黒米の今
ブログのネタが枯渇気味、一服飲んで・・・はるか昔、若い頃に耶馬渓の青の洞門や羅漢寺を訪れた時に、吉村松月園・耶馬渓焼の窯元があったので訪れた記念に求めていたものである。抹茶碗で一服④-耶馬渓焼
上画像・中画像は、かつて江波の二本松、瀬戸内の舟、安芸の小富士を描いた江波焼であるといわれていた皿で、一時江波焼に関心を寄せる人たちが多くコレクターも多くいた。しかし、佐賀県嬉野市塩田町の窯跡から採集された焼物片の中に、以前に江波焼とされていたものが含まれていたのである。また志田焼展にも江波焼であるといわれていた絵柄の皿がみられたのである。まぼろしの江波焼皿
広島市中区の江波山の東斜面に祀られている衣羽神社で、祭神は宗像三神(市杵島姫神・多紀理毘売神・多岐都比売神)のようである。当神社は安芸国神名帳にみられる佐東郡廿前・三位七前の衣羽明神とされているが、江戸期の地誌には明神社と記されている。旧暦6月17日に行われる厳島神社の管弦祭に江波の漕ぎ伝馬と阿賀の舟が管弦船を曳いており、看板表示によると当神社では漕ぎ伝馬に曳行される御座船と暗夜の火炎が織りなす火祭神事が旧暦6月29日に斎行されるようである。衣羽神社
江津市後地町尾浜地区の高台に祀られている厳島神社であるがどのような経緯でこの地に祀られたのかは定かでない。本殿脇には大岩があり古くは磐座信仰がされていたものではなかろうか。各地の厳島神社㉞-尾浜の厳島神社
親の時代に植えていた梅の木が枯れて数年になり、昨日草刈りをしていたら2本の枯れ木にサルノコシカケが出来ていた。また、草の中に下画像のようなクソナバが生えていたのでGoogleレンズで検索してみるとヒイロタケによく似ているが・・・サルノコシカケ
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。現在見る限り橋梁の各ジョイント部分の工事と各橋脚上部部分の工事が行われているようである。看板表示によると来年4月14日までの工期のようである。広島はつかいち大橋の今
子供の頃に使用した上画像のような歯磨き粉(今は缶のみ)を知っている人は少ないであろう。現在は歯磨き粉と言えばチュウブ式のものが主流である。歯磨き粉のおかげで現在24本の歯が健在であり歯科衛生連絡協議会から8020達成記念の記念品・表彰状を頂戴した。歯磨き粉空き缶
時折り紹介していた陸稲と陸植2代目黒米を刈り取って棹架けをしている。右側の3束陸稲は稲穂がなんとかついているが、左側の陸植2代目黒米は稲穂が実っているものが少なく陸植3代目は無理だろう。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園-陸稲・陸植2代目黒米の今
山形県南陽市にある東北の伊勢・熊野大社といわれている熊野神社境内には30柱の祭神が祀られているようであり、そのうちの境内社に厳島神社がある。看板表示によると祭神は市比島姫命、水難除けの神と記されていた。遠く離れたこの地にどのような経緯で祀られているのかは定かでない。各地の厳島神社㉝-熊野神社境内社の厳島神社
市道堂垣内広池山線の工事で可愛川に架かる橋の西岸橋脚を設ける(橋脚下部工事)ための準備作業が行われているようである。市道中央線の東側でも道路改良工事が行われている。市道堂垣内広池山線工事の今
山形県鶴岡市羽黒町の羽黒山にある出羽三山神社への参道を登り切って鳥居があり、すぐに出羽三山神社御開祖を祀った蜂子神社に並んで厳島神社(中画像左側)が祀られている。看板表示によると祭神は宗像三神(多紀理比売神・市寸島比売神・多岐津比売神)と津速魂神が祀られているようである。どのような経緯でこのような地の当境内に祀られたのかは定かでない。各地の厳島神社㉜-出羽三山神社境内の厳島神社
昨日もしめ縄づくりの準備作業を行ったが、連休初日でもあり神社には七五三参りのお子さん連れの人達が多く見られた。境内のモミジやイチョウの紅葉はもう少し先のようである。速谷神社の境内
年末に速谷神社へ奉納する注連縄を作るための稲わら藁そぎ(藁のあくた取り)が、温かいうちにとOld俱楽部の人達や有志などにより始まった。拝殿、斎館、儀式殿、注連柱、岩木神社、稲荷神社などに架ける大小8本の注連縄i用の準備作業である。速谷神社のしめ縄準備作業
昨日紹介したデコ芝居といわれる説教源氏節人形芝居で、三味線や太鼓のお囃子に合わせて襖が次々と左右に引かれ御殿座敷がいくつもあるようにみせる「はったんがえし」という舞台装置が見どころである。デコ芝居-はったんがえし
昨日触れた民俗芸能伝承館で眺楽座により演じられた演目は石井常右衛門「土手八丁五人斬りの段」で、語り太夫の独特の節回しで三味線太夫の三味に合わせ物語を語っていくのである。デコ芝居-説教源氏節人形芝居
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ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
所用を兼てのウォーキング途中、壁面に本業敷瓦とみられるものが張ってある民家があったが近寄って見ることは出来なかった。本業敷瓦は日本のタイルの源流で、明治時代に焼き物の産地愛知県瀬戸で焼かれた陶製タイルである。参考画像は当ブログ主が所持しているもので、大きさは24cm×24cm厚さは1.8cmのものと15cm×15cm厚さ1.8cmのものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/本業敷瓦(タイル)
昨日紹介した地御前漁港には築港時代の石積みの防波堤が残されている。大正5年(1916)頃に南北の新開が築調されそれぞれの地先に石積みの防波堤が築造された。防波堤の先端部は海側にL型に折れ曲がって築造されて堤頂部には繋船石柱が設けられている。(地御前漁港築港についてー広島県の近代化遺産参照)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港の防波堤
上・中画像は平成8年(1996)頃の地御前漁港で、護岸には多くの雁木(石階段)がみられ漁船から漁獲物の荷揚げがされていたものであろう。現在、地御前漁港は艇置施設(プレジャ-ボート係留施設)となってプレジャ-ボートがびっしりと係留されている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港今昔
所用をかねてのウォーキング途中、可愛川下流域でアオサギが水中の餌を食んでいた。当方の移動を察知して上流方面に飛んで行った。以前に田んぼの中で餌を食んでいたのを紹介したことがあった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/アオサギが!
一昨日紹介した搬入されていた橋桁が、昨日の昼過ぎ通りがかりにみると可愛川に架けられていた。何本の橋桁が架けられているのか分からないが、画像をみると手前側にまだ数本の橋桁が架けられるのであろうか。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
以前にも紹介したが、佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中で8割方工事が終わっているようにみえる。完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中
吉野山にある中電の高圧線鉄塔が場所を変えて建て替えられることを以前に紹介した。現在、藤戸の谷の作業用地から山上の鉄塔までの工事部分の山林が伐採されていた。また資材などを運搬する索道の準備作業が行われているようである。吉野山の高圧線鉄塔
以前紹介した吉野山に生息しているイノシシによって、山裾の畑で被害があったことを聞いていた。当ブログ主の田んぼの近くに以前から捕獲檻が設置されており、一昨日親子のイノシシが捕獲されていた。一昨年は田んぼをイノシシに荒らされたことがあったなぁ・・・ならず者御用だ!
可愛川の西側流域で広電廿日市市役所前駅のロータリと旧国道の間、住宅に囲まれた中にある田んぼが最下流の田んぼである。用水は薬師井手か新宮川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ--2
可愛川の東側流域で平良保育所脇に見られる田んぼが最下流の田んぼである。用水は柳庵川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ
ウオーキング途中に赤い実がびっしりと付いた植物があった。ヒペリカムと教えて頂き、挿し木するとつきやすいとのことで、枝を分けてもらった。挿し木した枝は大きく育ち、黄色の花が咲いて赤い実となりつつある。ヒペリカム
ウォーキング途中にカヤがあったので、久しぶりにバッタを作ってみた。当ブログの最初はウォーキング途中カヤでバッタを作っていたバッタおじさんから習ったバッタ画像であった。カヤのバッタ
水稲育苗箱で陸稲(左側)と黒米苗(右側)が育っている。陸稲は昨年秋に収穫した籾であり、黒米は昨年陸植した籾で陸植2代目となる予定の黒米苗である。陸植した赤米は育ちが悪く籾が採れなかったのである。遊びの菜園ー陸稲・黒米苗
宮園団地の高い法面下の擁壁から赤褐色の水「赤水」「かなけ水」などと呼ばれる水が湧出している。擁壁下にある田んぼはこの水が使用されており既に田植えがされていた。かなけ水を使用した田んぼと通常の川水を使用した田んぼの米の出来ぐわいが異なるのであろうか。かなけ水の田んぼ
玖島上大町地区のとある谷筋(谷名分からず)を入った所に小さな溜め池があり、その上に張り出した樹木の枝に「モリアオガエル」の産卵の泡である卵塊が数多くみられた。ここの場所では梅雨時期に近いこの頃になると毎年見ることができるのであるが、今年は卵塊の数が少ないようである。モリアオガエルの卵塊
「引き回転定木」引き回転定木は引っ張っていき円板で筋を付け十の字跡を付けていくものである。上画像と中画像は吉和地区でみたもので、下画像は佐伯歴史民俗資料館に展示されているものである。このような民具は吉和地区と佐伯地区で使用されていたようである。田植えに関する民具⑤
「六角枠」六角枠は前に転がして碁盤の目のような跡を付けていくもので、交点に前向きで植えて行くため効率的である。植え筋が縦列と横列が揃った植え方となるのである。田植えに関する民具④
「スジツケ」上画像は前に向かって植え筋を付けていくもので、下画像は引いて植え筋を付けていくものである。隠岐郷土館に展示してあるスジツケ(下画像)には「ババ」と表示してあり、出雲地方では筋を引くことをババヒキと言っているようである。筋の上に前に向かって植えて行くので効率的であるが植え手によって間隔はバラバラとなるのである。田植えに関する民具③
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで速谷神社に参詣したら社殿前に茅で作った茅の輪が設置されていた。6月の晦日には酷暑の真夏をひかえ、人々の健康と厄除け無病息災を願う夏越の大祓神事が斎行される。速谷神社「茅の輪」
「三角枠」上画像は親の時代に使用していたもので、4~5人で印の付いた所に植えて手前に回していくものである。植え手のスピードや後すだりのため効率はあまりよくないものであった。下画像の「タウエワク」は廿日市町史通史編に掲載されていたものであるが、三角枠と同じように印の付いた所に植えて手前に回していたもののようである。田植えに関する民具②
当ブログ主の田植は何とか終わったので、過去にみかけた田植えに関する民具を紹介する。原地区で以前にみかけた「マグワ」2基であるが現在は無くなっている。マグワは馬や牛に曳かせて代掻きをする器具で「ホ・コ(爪の部分の呼称)」が木製のものと金属製のものがある。「エブリ」は当ブログ主が使用しているもので代掻きをして田んぼの不陸を均すものである。(中画像-日原民具志)田植えに関する民具①
昨日、田植えの二便が助っ人2(田植え2年生)により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。四角な田んぼであるが植えた列は湾曲していたが片目をつぶってみておこう。田植え②
当ブログ主の畑に隣接して大きな桑の木がある。昔、養蚕の名残りの桑の木がそのまま大きく育ったものとみられ現在沢山の実を付けている。白い実から赤みが付いて赤黒くなって熟したものは美味しいものである。若い頃、中国トルファン(吐魯番)郊外のヤールフー千仏洞近くで見た桑の実は2cm位の大きな実で白いままで熟しており、美味しかったのを今でも覚えているのである。桑の実
昨日紹介した廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の種を昨日採取した。以前に近接して植えていたことがあったので切葉松本地大根は桜島大根と交配したものとみられ同じような形状の大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の実が実っておりもうすぐ種を採取しなければ・・・来シーズンには廿日市20代目桜島大根と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今