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昨日は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の進捗状況であったが、画像は市街地からみた開発用地の全域の遠望である。画像中央を横切っているのが西広島バイパスの廿日市高架橋で、画像向こうの左側高い山が中世の星ケ城跡で右側の山に極楽寺がある。平良丘陵開発の今
時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で、宮島サービスエリアの展望所からの遠望である。商業系、準工業系、住居系などの用地が造成されているようであり、それぞれの平地の部分が多くみられるようになってきた。平良丘陵開発の今
時折り紹介している原地区にある伊勢神社に初参りをした。昨年秋に足首を痛めてウォーキングが出来なくなり正月の初参りも出来なかった。リハビリ治療のおかげでぼちぼちとウォーキングを始めたところである。一昨日降った多くの雪も湿雪であったので残雪はわずかであった。伊勢神社参詣
以前にも紹介したが、厳島神社西廻廊の曲がり角から陸地側に架かる反り橋に10ケ所の擬宝珠がありこの内1ケ所廿日市鋳物師が鋳造したものがみられる。刻銘によると安永5年(1776)3月に廿日市鋳物師の山田氏藤原貞利が鋳造している。解体修理前は廻廊側に取り付けられていたが、重要文化財なのに解体修理後はなぜか陸地側に取り付けられているのである。厳島神社反り橋の擬宝珠が!
経納山頂に登ってみると松くい虫で伐採された大きな松の木の切り株がみられる。被害を免れた大きな松の木には松くい虫防除の薬剤が注入されたものとみられ、薬剤名や注入年月日が記された表示が取り付けられていた。松くい虫防除
相当以前に紹介したが、ある施設内にまだ懐かしいレトロなスクーターが置かれていた。銘板から昭和34年(1959)に発売された三菱・シンバーピジョンC110のようである。可動するのかは不明であるが、施設には似付かないようなものがなぜ置かれているのだろうか。レトロスクーターが!
上画像は大元公園にあるみやじま杜の宿であるが樹木が茂って見えにくい。大正期この地には広島産業奨励館(原爆ドーム)設計のヤンレッツルが設計した宮島ホテルが建築されていた。終戦後に宮島ホテルはイギリス連邦占領軍(BCOF)に接収されていた。(下画像-呉の歩みⅡより)昭和28年(1953)に火災に遭い宮島ホテル建築は焼失したが、当ブログ主が小学校遠足で訪れた時に焼け跡があったのを記憶しているのである。みやじま杜の宿の地今昔
上画像は大元神社の鳥居の現在で笠木、柱が丸太で貫が長方形の神明鳥居である。江戸期の厳島図会の絵図をみると明神鳥居が描かれており(中画像)、下画像昭和期の絵葉書をみると鮮明ではないが上部の笠木と島木がみられ、時代とともに鳥居の形式が変わったのであろうか。大元神社の鳥居今昔
上画像は昭和初期であろうか経納山から大元公園方面をみた絵葉書で、手前左手には茅葺の大元旅館がみられ右側の現在宮島水族館のあるところは海であった。遠くには宮島ホテルがみられる。現在経納山の樹木が茂っており瓦葺となっている旧大元旅館と宮島水族館の一部しか見ることが出来ない。大元公園遠望今昔
上画像は1952年発行の岩波写真文庫71からの画像で、厳島神社境内地堺付近から有の浦海岸通りを見た画像である。岩波写真文庫には「海岸通りをふさぐ柵、進駐軍自動車路というのが名目だが、・・・」と記されている。火の見櫓がみられこの場所は昭和49年の地図には消防庫と記されている。有の浦海岸通りの今昔
上画像は1952年発行の岩波写真文庫71からの画像で、連絡船から降りたすぐの参道脇の護岸に長い雁木が設けられていた。小中学生の頃何度も遠足で訪れているのでこの雁木はよく覚えており、松大船がこの雁木に歩み板を架けて乗船客が乗り降りしていたのも記憶している。有の浦長雁木の今昔
上画像の絵葉書は昭和初期ごろだろうか五重塔がある塔の丘からみた有ノ浦の街並みである。向こう側の山が昨日触れた要害山で左側には以前にも触れた商船桟橋がみられる。現在桟橋はなく突堤上に広島経済大学成風館の建物がみられる。宮島街並みの今昔②
上画像の絵葉書は昭和初期ごろだろうか要害山頂からみた有ノ浦の街並みであり、下画像は樹木が茂っているので上画像と同じような場所からは撮影出来なかった。表参道商店街通りに面する建築物は大きく変わっており、伝統的な建築物は見られなくなっている。塔の丘の五重塔の仮囲いが遠望できる。宮島街並みの今昔
久しぶりに宮島を訪れ厳島神社に初参りをした。何と訪日した外国人旅行客の多いこと。現在厳島神社では東回廊の屋根葺替え工事などや五重塔修復工事、多宝塔の屋根葺替え工事などが行われており、しばらくの間チョット絵にならないのである。厳島神社参詣
岩木神社元宮摂社岩木神社速谷神社鳥居前方にある権現山に祀られている岩木神社元宮で、安芸国神名帳に佐西郡十三前、二位五前、石城明神とあるのが岩木神社に相当するものとされている。明治初年に本社境内に移されていたようで大正期造営の際に本殿脇の現在地に祀られたようである。太古の時代「磐座信仰」の磐城が石城明神→岩木神社となったのでは・・・岩木神社元宮
遥か昔に訪れた木曽路や南会津の大内宿などで食べた五平餅をなぜか食べたくなったので取り寄せて懐かしい味を堪能した。ネット検索してみると大内宿で食べたものはしんごろうというもののようであった。他所で同じようなものをみていくと秋田ではみそたんぽ、新潟ではひこぜん、栃木ではばんだい餅などといわれているようである。五平餅
明治11年(1878)に初出版され再版された宮島案内の和綴じの活字冊子で、当ブログが知る限り活字冊子の初期案内書のようである。記事の中に年中定祭日行事式で官祭と私祭があったようで、昨日の2月11日建国記念の日は当時官祭であり遥拝所で紀元節祭礼が催されたようである。厳島宮路之枝折
昨日紹介した昭和10年(1935)版の宮島の紹介パンフレットに醸造元合資会社丸亀商店の広告が掲載されていた。登録商標家納喜(ヤナギ)とあり丸亀商店時代に銘酒家納喜が醸造されていたようである。銘酒家納喜から家納喜酒造の社名とされたのかと思っていたが、大正9年(1920)6月に家納喜酒造株式会社が設立されているので???家納喜
昭和10年(1935)版の宮島観光協会の宮島の紹介パンフレットで、絵図の下部には当時の厳島代表の旅館と商店が掲載されている。栄枯盛衰、今ではみられない旅館名や商店名がみられる。電話番号には一桁、二桁、三桁の番号がみられる。宮島の紹介パンフ
急傾斜地の法面保護工事が行われており、斜面に格子状に鉄筋が組まれていたが型枠もなくどのようにしてコンクリートを打ち込むのだろうか思っていた。昨日小雪の舞う中でコンクリートかモルタルを圧送して吹付をしてコテで角形に仕上げておられた。急傾斜地法面保護工事
若い頃には萩の城下町を度々訪れており、各所に多くの萩焼の窯元がありぶらりと訪れていた。窯元天寵山を訪れて七代兼田三左衛門の茶碗を求めプレゼントしていたものである。この茶碗がなぜか現在手元にあるが・・・抹茶碗で一服⑧-萩焼天寵山
物入れの片隅に大東亜戦争国庫債券・戦時報国債券・報国債券・戦時貯蓄債券・貯蓄債券・福券があった。とお―の昔に時効になっているので換金はできそうにない。これらは戦争資金を調達するために、臨時に債券を売り出し償還期時に利息を付けて返す国債の一つだったようである。戦時報国債券・貯蓄債券
今冬一番の寒さで暖房器具は手放せない日が続いていますが、懐かしい暖房具を紹介しよう。上画像は子供の頃に使用していた陶器製湯たんぽ、中画像は手あぶり火鉢でヤカンを架けていた大火鉢はなくなってしまった。下画像は以前ウォーキング途中で見かけたコタツでコタツ櫓の中に置いて櫓上に布団を掛けたり、直接布団をかけていた。懐かしい暖房具
時折り紹介している市道堂垣内広池山線の可愛川に架かる橋の橋脚工事の進捗状況で、現在橋台立ち上がりの工事が行われているようである。看板表示によると3月末が工期のようである。市道堂垣内広池山線工事の今
上画像は津田地区にある教覚寺の鐘楼門で宝永3年(1706)に建立されたようである。草葺き(茅葺き)屋根で棟部分には馬乗り型の棟飾りが取り付けられている。馬乗り型で神社の千木に似た部材は地方によりカラスオドシ・ホテギ・キンマ・ウマノリなどといわれていたようであるが、津田地区でどのように言われていたかは定かでない。下画像の鐘楼門もよく似た草葺き屋根の鐘楼門で、1984年に撮影したものであるがどこの寺のものか思い出せないのである。草葺き(茅葺き)屋根の鐘楼門
昨日、速谷神社では湯立神事・節分祭が行われた。湯立神事は厳島野坂文書・毛利隆元書状に「早田(速田)社江立願之事、御湯立七年可進之由得其心候、即従今月可遂其節候」とあり、戦国時代に速田社て湯立神事が行われていたようで、平成31年(2019)に天皇陛下の御代替りを記念して復活されたものである。湯立神事の後に鬼遣い神事や年男・年女による豆撒きが行われた。速谷神社-湯立神事・節分祭
若い頃には萩の城下町や大内氏の遺跡のある山口には度々訪れており、各所に多くの萩焼の窯元がありぶらりと訪れていた。萩焼松緑窯は明治期に山口市宮野に移って作陶活動をされている山口萩窯元で、訪れた記念に松緑窯10代の大和正一の萩焼茶碗を求めていた。抹茶碗で一服⑦-山口萩焼松緑窯
若い頃に松江城や菅田庵・明々庵などを見物した際に楽山公園近くにある楽山焼の窯元を訪れて求めたもので、11代長岡空権の得意としていた伊羅保写の茶碗である。長岡空権は平成12年(2000)に島根県指定無形文化財に認定されているようである。※昨日、当ブログを開設してからトータル閲覧数700万PVの大きな節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪閲覧して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。抹茶碗で一服⑥-楽山焼
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gooブログを利用させて頂き昨日丸19年を終えることが出来ました。トータル訪問数1959415UU、トータル閲覧数7210015PVと多くの方々の御来訪、閲覧をして頂きまして大いに励みとなり何とか継続することが出来ました。gooブログ様、御来訪・閲覧者の皆様どうも有難うございました。これからは移転先のAmebaブログ(https://ameblo.jp/n3491/)で更新をしていきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。尚、当gooブログは11月18日の消滅までこのまま残しておきますが、これらすべてAmebaブログに移転されています。Amebaブログに移転しました。
蛇の池極楽寺下池先日紹介した蛇の池廻りを一周していると池畔で1塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。また極楽寺下の登山道脇にある小さな池の廻りの樹木に3塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。※明日が20年目の開設日なので当ブログの更新は本日が最後となります。移転先のAmebaブログでこれからは更新をしていきますので宜敷くお願い致します。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺山-モリアオガエルの卵塊
画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の現在である。橋桁の広島側の第一ブロック(上画像の右端)の架設は終わっており、第二ブロックの工事を進めるべく貯木場沖に起重機船が橋桁を吊り下げて待機しているようである。広島はつかいち大橋の今
ウォーキング途中で見たことがないようなクソナバがあった。Googleレンズで検索するとスミレホコリタケのようである。当ブログ主は食用とならないような不明のキノコをクソナバと称している。スミレホコリタケ?
しめ縄づくりや春の桜などで時折り紹介している河野原大歳神社の拝殿が老朽化のために撤去されていた。昭和15年(1940)に多くの寄進者によって社殿が建てられ境内周囲にはずらりと並んだ玉垣や数多くの石灯籠が建立され整備されたが・・・現在は氏子数も少なく修復費用の捻出が難しいために本殿のみで存続されるようである。河野原大歳神社が!
極楽寺山に向かう道すがらの各所に白い花が咲いたように見えるマタタビの葉がみられる。花をつける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようであり、葉の裏側は通常の緑のままである。令和元年に漬けたマタタビ酒を飲んでぶらり「又旅」をしようか・・・マタタビの白い葉
極楽寺山に向かう自動車道で、さくらの里分岐手前の斜面に上画像のような氷河礫層があるが、現在は雑木に覆われておりどこにあるか分からない。看板表示も見えにくくなっており氷河礫層があることを気付く人はいないであろう。河原にあるような玉石がなぜこのような山上にあるのだろうか、この氷河礫層については廿日市の文化第11・12集、廿日市町史通史編(上)に詳述されている。極楽寺山の氷河礫層
蛇の池一帯は湿地帯であったものを明治・大正期に農業用溜め池として整備されたものとみられ、田圃灌漑、五穀豊穣など祈念のため堰堤西端の山際に弁財天社が祀られていた。昭和43年(1968)の明治100年記念事業で、道路築造のため弁財天社は周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなって知っている人はもういないであろう。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みに極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。ピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲いていたが、以前に訪れた時より鮮やかな色合いが少ないようであった。撮影ポイントである展望台が老朽化のために立ち入り制限されており、池端からの望遠撮影となった。蛇の池の睡蓮
雨上がりの井出沿いの小道に直径2cm位の小さい唐傘のようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとサラエノヒトヨタケかクズヒトヨタケのようであるが定かなことは不明である。サラエノヒトヨタケか?
梅雨の合間のウォーキング途中で、紫色の花と朱色の花が重なったような見たことがない花があった。Googleレンズで検索すると上段画像はムラサキルエリアのようであり、下段画像はコエビソウのようである。路傍の花
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
梅雨の合間で6月の晦日であった昨日、速谷神社において前半年間の過ち穢れを祓う神事が行われ、多くの善男善女が茅の輪を三度くぐって家内安全、無病息災、疫病退散を祈っていた。速谷神社-夏夏越大祓式
大野地区と宮島との間の大野瀬戸に設置されている亀石灯標で上の浜地区護岸からの遠望画像である。大野瀬戸の中央部や北側、また西方には浅礁が広がっているようであり、昭和25年(1950)5月6日に旧亀石灯柱の位置に灯標を設置点燈したようである。亀石灯標
以前に宮浜温泉の駐車場で宮浜温泉3号源泉の掘削準備作業が行われていることを紹介した。それから日にちが随分経過したが昨日所用で訪れてみると駐車場脇に宮浜温泉3号源泉井と思われる囲いがあった。ここから温泉(冷泉)が湧出するのであろうか。宮浜温泉3号源泉
オープン間近であった平良体育館跡に設けられた公園を以前に紹介したが、すでに「平良っ子わいわい広場」として開放されていた。以前にも紹介したがこの地には平良村役場、平良小学校講堂・体育館(平良小移転後平良体育館)などがあった地である。平良っ子わいわい広場
山陽自動車道の宮島サービスエリア展望広場の芝生の中にゴルフボールのようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとオニフスベのようである。大きく育つようであるが多くの人が通るところでありどのようになるだろうか。オニフスベか?
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の五庵山東麓にある調整池付近からの遠望画像である。昨日は開発用地の上側からの画像であったが今日は下側西方面からの画像である。以前訪れた時には山林の樹木がみられたが用地内では樹木はほとんどなくなっている。平良丘陵開発の今
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の宮島サービスエリアからの遠望画像である。これから梅雨も本格化していくものとみられる。下画像のような土砂流出の防止策は施されているのであろうが・・・平良丘陵開発の今
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋で、下り線側橋脚工事の現在の工事進捗状況である。看板表示には来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。広島はつかいち大橋の今
原地区にある「ふれあいライフ原」後方の山中に中電の高圧線鉄塔がみられるが、早朝ウォーキングをしていると朝日に照らされて鉄塔上部が白く光って見え、少し場所を変えてみると通常の鉄塔となるのである。高圧線鉄塔は鉄骨部材を組み合わせた骨組みであるのだが、なぜ面的に光って見えるのだろうか?高圧線鉄塔の不思議
田んぼの水廻りを兼ての早朝ウォーキングで速谷神社を参詣しているが、夏越祓の茅の輪が設置されていた手前に、風鈴まつりの風鈴棚が設置されていた。鈴がかなでる音色は邪気を払うとのことである。速谷神社の風鈴棚