「はつかいち」ぶらり(https://ameblo.jp/n3491/)Amebaブログに移転
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市西区草津本町にある浄教寺の鐘楼門に架けられている梵鐘で、狭い鐘楼内で画像が撮りづらかった。刻銘によると享保元年(1716)に山田治右衛門貞能が鋳造しており、中帯下段には唐草文様が抽出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品⑤-浄教寺の梵鐘
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。三原市幸崎能地地区にある善行寺の本堂に架けられている喚鐘で、刻銘によると延享3年(1746)に山田次右衛門貞幹が鋳造している。草の間には唐草のくずし文様が鋳出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品④-善行寺の喚鐘
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市佐伯区湯来町の多田地区にある多田八幡神社の鰐口で、寛保2年(1742)8月に上多田四原総氏子中が寄進している。冶工は廿日市山田氏と鋳出されているので、当時の鋳物師山田次右衛門貞幹が鋳造したものとみられる。廿日市鋳物師の鋳造作品③-多田八幡神社の鰐口
先日、田んぼの防護柵を壊してならず者が田んぼの中を歩き回っていた。まだ稲の穂が出たばかりであり稲の被害はなかったがもう少し実ってくると大変だ。一昨日捕獲檻のセットをして貰いならず者を御用とした。6月以降この場所での捕獲は7匹目であり吉野山には多く生息しているものだ。ならず者御用だ!
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市安佐北区深川2丁目にある善徳寺の鐘楼に架けられている梵鐘で、寛永11年(1634)7月に広島市中区の白神神社の鐘として山田次右衛門尉が鋳造したものである。どのような経緯で当寺に移ったのかは定かでない。梵鐘の中帯上部には仏型座像と中帯下部には蓮弁のくずし文が鋳出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品②-善徳の梵鐘
昨日紹介した辻地蔵がある橋本はかつて石州往還道と山縣道が分岐する交通の要所で賑わっていたところである。辻地蔵はかつて道路向い側にあり、地蔵の基礎石には「是ヨリ右山縣道左石州道」とある。江戸期には『原で橋本田舎で名所、出馬入馬市がたつ』と唄われるほどの賑わいであったようで、昭和中頃まで役場、郵便局、農協、商店、医院、駐在所、理髪店、鍛冶屋などあったが今や商店一軒のみで閑散としている。橋本辻地蔵
昨日は原地区にある橋本辻地蔵の地蔵まつりが近所の人達で行われた。当ブログ主が子供の頃、地蔵まつりは原村の一大イベントで盆踊りや子供相撲などが行われ、一番の楽しみは麦藁クジで、麦藁クジは小さく小切った麦藁の中に当たりクジが入っていたものであった。最終のバスが通った後に道路一杯に麦藁が撒かれ一斉に我先にと搔き集めて当たりクジを探すもので、当たりクジがあれば生活用品が貰えていた。橋本辻地蔵まつり
先日紹介した蓮台寺の境内にレトロな車が置かれて「アンバサダー釈CARしゃ(インドの車)」と表示してあった。Wikipediaによるとヒンドゥスタン・アンバサダーはインドのヒンドゥスタン・モーターズが1958年から2014年まで生産した自動車で、インドの国民車として生産されていたようである。インドの国民車アンバサダーが!
家の周りを見たことがないような小動物がうろついていた。孫が画像を撮って何かと検索してくれたがすぐには分からなかった。夏休みで博多から来ている孫たちは携帯ばっかりいらっており何をしに来たのかと昭和初期人間は・・・しかし、色々と調べてくれ疥癬病を発症しているキツネではなかろうかと教えてくれた。疥癬病発症のキツネか?
瑜伽大権現は明治期の神仏分離令により由加神社と蓮台寺に分離されているが、山内の広くに蓮台寺の施設が散在しておりその中に由加神社の境内があり、神仏混合の瑜伽大権現時代の名残りである。客殿は本瓦葺裳階付入母屋造の堂々たる建造物で県の重文に指定されているようであり、多宝塔は県内最大の規模のようで県の重文に指定されている。瑜伽大権現―「蓮台寺」・由加神社
以前に権現山頂の廃瑜伽祠について記し、江戸期の地誌に「此祠、備前児島に移すといひ伝ふ」とあったので、児島地区にある瑜伽大権現(由加神社・蓮台寺)まで足を延ばした。由加山は古くから磐座信仰が行われ、瑜伽大権現と呼ばれ神仏習合の山であったようである。由加神社の鳥居は珍しい備前焼の鳥居であり、狛犬も熊野神社と同じような備前焼のものであった。本宮本殿は県の重文に指定されているようであり、本殿脇には磐座信仰が行われていた巨岩がみられる。瑜伽大権現―「由加神社」・蓮台寺
三重塔梵鐘後鳥羽上皇御影塔後庵室五流尊瀧院は修験道の寺院で昨日紹介した熊野神社は明治時代の神仏分離令により十二社権現が熊野神社として祀られたようである。三重塔は文政3年(1820)に建立されたようで県の重文に指定されており、鐘楼に架けられている梵鐘は康正3年(1457)に鋳造されたようで県の重文に指定されている。後鳥羽上皇御影塔は仁治元年(1240)に亡くなった後鳥羽上皇の供養のために建立されたようで国指定重要文化財に指定されている。五流尊瀧院
昨日は孫娘の運転する車に便乗し倉敷美観地区からは車を借りて別行動で、林地区にある熊野神社に久しぶりに参詣した。備前焼に近い地であり備前焼の狛犬に出迎えられた。社殿は第一殿から第六殿まであるが現在第四殿は修復工事中であった。熊野神社
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。呉市吉浦中町にある誓光寺の鐘楼に吊り下げられている梵鐘は貞享5年(1688)に山田貞栄が鋳造している。銘文によると広島金屋町の長安寺に寄進されていたようであるが、どのような経緯で当寺に移されたのかは定かでない。この梵鐘は呉市の有形文化財に指定されている。廿日市鋳物師の鋳造作品①-誓光寺の梵鐘
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。看板表示によると来年4月14日までの工事のようである。工事名は「国際拠点港湾広島港臨港道路廿日市草津線広島はつかいち大橋海上部上部工工事」と表示してあった。広島はつかいち大橋の今
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで、宮島サービスエリアの展望所に行き平良丘陵開発の用地を展望した。西側の用地内では仮設の建物が建築中のようであり、その向こう側では市道堂垣内広池山線の工事が行われていた。工事ケ所北側入口に掲示されている看板によると、どの範囲かは分からないが工期は来年3月末のようである。平良丘陵開発の今
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで、宮島サービスエリアの展望所に行き平良丘陵開発の用地を展望した。用地内では盆休みのために多くの掘削機器や先日紹介した大型ダンプカーなどが勢揃いしていた。掘削機器が勢揃い
陸稲の苗と古代米の陸植2代目黒米の苗を畑に植えてみた現在で、右側は陸稲、左側は陸植2代目黒米である。黒米は本来水田に植えるものなのであるが陸植2代目黒米は画像のような状態であり、籾は取れないかもしれない。手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・陸植2代目黒米の今
取り壊し前先日、上平良地区にある河野原大歳神社の拝殿が取り壊されたことを紹介した。ウォーキング途中に訪れてみると本殿上に仮設的な覆屋が設けられていた。少ない氏子でありこれが存続していく限度のようである。河野原大歳神社の今
取壊し前先日上平良地区にある河野原大歳神社の拝殿が老朽化により取り壊されていたことを紹介した。ウォーキング途中訪れてみると本殿の上に仮設的な覆い屋根が設けられていた。少ない氏子で守っていくのはこれが限度のようである。河野原大歳神社の今
昨日ラムネ瓶を紹介したが懐かしい飲み物で、画像のような肉桂水は今でもあるのだろうか。子供の頃トッピンと言っていたが催し物か町に出た時しか飲むことはなかった。当時瓶の蓋はコルク栓であったが後にアルミ蓋となったようである。左側はハタ鉱泉㈱のニッキ水、中央はオーパイ㈱のニッケ水の空瓶、右側は四国明治飲料㈱のニッキ水である。トッピン―肉桂水
酷暑が続いており、呉市の飲料メーカーではラムネの生産が最盛期を迎えていると新聞、テレビで報道されていた。当ブログ主が子供のころはなかなか飲ませて貰えるものではなかった。中に入っているガラス玉が不思議でほしかったのを思い出した。上画像の右側は昔のリサイクル瓶で、左側は「¬吉ラムネ製造所、山崎商店」と浮文字があり専用のリサイクル瓶だったようである。時代が下がると下画像のように上部がプラスチック製となっているのである。ラムネ瓶のいろいろ
ウォーキング途中にあった民家が取り壊されて土蔵に施されていた蔵飾りも消滅した。屋敷側の蔵飾りは牛に袋みたいなものを乗せ金太郎が籠を背負いあぐらを組んでいる像であった。反対側は宝貴祈願の福袋が表されていたのであるが・・・通常は鏝絵と称されているが蔵に施されているものを当ブログ主は蔵飾りと称している。消滅した蔵飾り
ウォーキング途中にある民家の土蔵に施された蔵飾りで、道路側は弓の名手那須の与市が扇の的を射落とす様子を表した像が施されている。屋敷側は見ることが出来ないが以前に拝見させてもらった時の画像で、祝福芸能である萬歳を表しており、太夫が扇をかざして祝言を唱え才蔵が小鼓を打っている像である。通常は鏝絵と称されているが蔵に施されているものを当ブログ主は蔵飾りと称している。蔵飾り―那須の与市
ウォーキング途中にある民家の土蔵に施された蔵飾りで、道路側は鯛乗り恵比寿が表されている。屋敷側は見ることが出来ないが以前に拝見させてもらった時の画像で、犬が福袋を引っ張っている像である。通常は鏝絵と称されているが蔵に施されているものを当ブログ主は蔵飾りと称している。蔵飾り―恵比寿
速谷神社境内の儀式殿前に建立されている石燈籠は、萬治3年(1660)に奉納されたもので境内に建立されている石燈籠の内で一番古いものである。江戸期に奉納された石燈籠はすべて地元の住人によるものであるが、この石燈籠は刻銘に「肥前国松浦平戸住人、谷川助左衛門尉成勝」とある。谷川助左衛門は長年平戸町の町役人や町年寄などを務めていた有力町人であったが、遠く離れた地の住人がどのような経緯で当神社に寄進したものであろうか・・・謎の石燈籠
高松市地域高松市地域高松市地域丸亀市地域丸亀市地域昨日盆燈籠を作ったことを紹介したが、このようなカラフルな盆燈籠の習俗は浄土真宗の安芸門徒を中心に現在は他宗派でも行われている。他地方での盆燈籠の習俗については数年前に訪れた讃岐地方でみかけたもので、上画像は高松市と周辺地域、下画像は丸亀市地域でみられたもので地域によって盆燈籠形状が異なっていた。盆燈籠の習俗
昨日紹介した燈籠の骨組みに張り付けたり、取り付けたりする各パーツを燈籠紙を使って作っていく。燈籠各面に貼る長三角形の燈籠紙、六角形の頂部に取り付ける飾り房などを順次張り付けて完成となるのである。長三角形の燈籠紙は一ケ所だけ下半分は糊付けしないのである。昔は漏斗型の下部にナスやキュウリのへた等を置いてローソクを立てており、ここから火をつけていたのである。盆燈籠作り
盆が近くなったので毎年作っている盆燈籠の下準備で、竹藪から切り取った篠竹の根元部を六つ割にする。六つ割の上部に六角枠を入れ込む割れ目を入れる。竹ひごをロウソクの火で炙り六角に折り曲げて六角枠をつくり、割れ目にはめ込んで燈籠の骨組みが出来上がるのである。盆燈籠作りー骨組み
先日、後畑河内神社の鳥居と天然記念物指定の巨樹を紹介したが、昭和57年(1982)に祠堂調査を行った時に御神体を拝見させて頂いた。神仏習合時代の名残りで薬師如来像と随身像が祀られていた。後畑河内神社
先日来紹介してきた広島はつかいち大橋の橋桁架設には巨大な起重機船によって行われた。起重機船は深田サルベージ建設の「駿河」で、主巻定格荷重2200tのようである。このような巨大な起重機船を見ることはほとんどないが次はどこに行くのであろうか・・・巨大起重機船「駿河」
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。廿日市市側の橋桁第5ブロックの架設は先日紹介したが、昨日の午前中、廿日市市側最後の橋桁第6ブロックが起重機船により橋脚上に吊り降ろされていた。これで全架橋となったのである。広島はつかいち大橋の今
「ブログリーダー」を活用して、hathuさんをフォローしませんか?
「はつかいち」ぶらり(https://ameblo.jp/n3491/)Amebaブログに移転
gooブログを利用させて頂き昨日丸19年を終えることが出来ました。トータル訪問数1959415UU、トータル閲覧数7210015PVと多くの方々の御来訪、閲覧をして頂きまして大いに励みとなり何とか継続することが出来ました。gooブログ様、御来訪・閲覧者の皆様どうも有難うございました。これからは移転先のAmebaブログ(https://ameblo.jp/n3491/)で更新をしていきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。尚、当gooブログは11月18日の消滅までこのまま残しておきますが、これらすべてAmebaブログに移転されています。Amebaブログに移転しました。
蛇の池極楽寺下池先日紹介した蛇の池廻りを一周していると池畔で1塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。また極楽寺下の登山道脇にある小さな池の廻りの樹木に3塊のモリアオガエルの卵塊がみられた。※明日が20年目の開設日なので当ブログの更新は本日が最後となります。移転先のAmebaブログでこれからは更新をしていきますので宜敷くお願い致します。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺山-モリアオガエルの卵塊
画像A画像B画像C極楽寺に久しぶりに参詣した。当日は仏事があったようで本堂の外でも参詣者がお参りされていた。画像Aは明治末期頃の絵葉書で裳階部分に腰壁のようなものがみられる。画像Bは昭和初期頃(広島を繞る山の研究より)の画像で本堂の西側に建物がみられ庫裡があったのだろうか。画像Cは昭和後期ごろの画像である。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/極楽寺今昔
極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。池全面に色とりどりのスイレンが咲いておりローズアレー、アトラクション、プリシマ、サルフェリアの品種があるようである。池畔からすべての品種は確認できなかったが、鯉と亀が出迎えてくれた。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/蛇の池のスイレン
ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の現在である。橋桁の広島側の第一ブロック(上画像の右端)の架設は終わっており、第二ブロックの工事を進めるべく貯木場沖に起重機船が橋桁を吊り下げて待機しているようである。広島はつかいち大橋の今
ウォーキング途中で見たことがないようなクソナバがあった。Googleレンズで検索するとスミレホコリタケのようである。当ブログ主は食用とならないような不明のキノコをクソナバと称している。スミレホコリタケ?
しめ縄づくりや春の桜などで時折り紹介している河野原大歳神社の拝殿が老朽化のために撤去されていた。昭和15年(1940)に多くの寄進者によって社殿が建てられ境内周囲にはずらりと並んだ玉垣や数多くの石灯籠が建立され整備されたが・・・現在は氏子数も少なく修復費用の捻出が難しいために本殿のみで存続されるようである。河野原大歳神社が!
極楽寺山に向かう道すがらの各所に白い花が咲いたように見えるマタタビの葉がみられる。花をつける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようであり、葉の裏側は通常の緑のままである。令和元年に漬けたマタタビ酒を飲んでぶらり「又旅」をしようか・・・マタタビの白い葉
極楽寺山に向かう自動車道で、さくらの里分岐手前の斜面に上画像のような氷河礫層があるが、現在は雑木に覆われておりどこにあるか分からない。看板表示も見えにくくなっており氷河礫層があることを気付く人はいないであろう。河原にあるような玉石がなぜこのような山上にあるのだろうか、この氷河礫層については廿日市の文化第11・12集、廿日市町史通史編(上)に詳述されている。極楽寺山の氷河礫層
蛇の池一帯は湿地帯であったものを明治・大正期に農業用溜め池として整備されたものとみられ、田圃灌漑、五穀豊穣など祈念のため堰堤西端の山際に弁財天社が祀られていた。昭和43年(1968)の明治100年記念事業で、道路築造のため弁財天社は周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなって知っている人はもういないであろう。蛇の池弁財天社跡
梅雨の中休みに極楽寺山にある蛇の池のスイレンを見に行った。ピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲いていたが、以前に訪れた時より鮮やかな色合いが少ないようであった。撮影ポイントである展望台が老朽化のために立ち入り制限されており、池端からの望遠撮影となった。蛇の池の睡蓮
雨上がりの井出沿いの小道に直径2cm位の小さい唐傘のようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとサラエノヒトヨタケかクズヒトヨタケのようであるが定かなことは不明である。サラエノヒトヨタケか?
梅雨の合間のウォーキング途中で、紫色の花と朱色の花が重なったような見たことがない花があった。Googleレンズで検索すると上段画像はムラサキルエリアのようであり、下段画像はコエビソウのようである。路傍の花
ブログのネタ切れで・・・当ブログ主は当ブログの他に以下のホームページなどを開設していますのでどうぞご覧になって下さい。『いにしえのロマンの郷「はつかいち」』は市域の歴史を主体に紹介したものである。『鵬程二萬八千浬』は大正9年(1920)に従曽祖父が練習艦隊「浅間」に乗艦して世界一周の練習航海した記録である。『ゼンマイ式8mmカメラ館』は電池式の8mmカメラが登場する以前のゼンマイ式8mmカメラ、9.5mmカメラを紹介する。『絲綢之路・黄土高原点描』は平成2年(1990)から平成6年(1994)にシルクロードや黄土高原を探訪したものを紹介する。『阿多田島灯台資料館』は大竹市阿多田島にあった灯台官舎が平成8年(1996)に阿多田島灯台資料館として整備されたものを紹介する。『はつかいちぶらり-別館』
梅雨の合間で6月の晦日であった昨日、速谷神社において前半年間の過ち穢れを祓う神事が行われ、多くの善男善女が茅の輪を三度くぐって家内安全、無病息災、疫病退散を祈っていた。速谷神社-夏夏越大祓式
大野地区と宮島との間の大野瀬戸に設置されている亀石灯標で上の浜地区護岸からの遠望画像である。大野瀬戸の中央部や北側、また西方には浅礁が広がっているようであり、昭和25年(1950)5月6日に旧亀石灯柱の位置に灯標を設置点燈したようである。亀石灯標
以前に宮浜温泉の駐車場で宮浜温泉3号源泉の掘削準備作業が行われていることを紹介した。それから日にちが随分経過したが昨日所用で訪れてみると駐車場脇に宮浜温泉3号源泉井と思われる囲いがあった。ここから温泉(冷泉)が湧出するのであろうか。宮浜温泉3号源泉
オープン間近であった平良体育館跡に設けられた公園を以前に紹介したが、すでに「平良っ子わいわい広場」として開放されていた。以前にも紹介したがこの地には平良村役場、平良小学校講堂・体育館(平良小移転後平良体育館)などがあった地である。平良っ子わいわい広場
山陽自動車道の宮島サービスエリア展望広場の芝生の中にゴルフボールのようなクソナバが生えていた。Googleレンズで検索するとオニフスベのようである。大きく育つようであるが多くの人が通るところでありどのようになるだろうか。オニフスベか?
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の五庵山東麓にある調整池付近からの遠望画像である。昨日は開発用地の上側からの画像であったが今日は下側西方面からの画像である。以前訪れた時には山林の樹木がみられたが用地内では樹木はほとんどなくなっている。平良丘陵開発の今
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、梅雨の合間の宮島サービスエリアからの遠望画像である。これから梅雨も本格化していくものとみられる。下画像のような土砂流出の防止策は施されているのであろうが・・・平良丘陵開発の今
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋で、下り線側橋脚工事の現在の工事進捗状況である。看板表示には来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。広島はつかいち大橋の今
原地区にある「ふれあいライフ原」後方の山中に中電の高圧線鉄塔がみられるが、早朝ウォーキングをしていると朝日に照らされて鉄塔上部が白く光って見え、少し場所を変えてみると通常の鉄塔となるのである。高圧線鉄塔は鉄骨部材を組み合わせた骨組みであるのだが、なぜ面的に光って見えるのだろうか?高圧線鉄塔の不思議
田んぼの水廻りを兼ての早朝ウォーキングで速谷神社を参詣しているが、夏越祓の茅の輪が設置されていた手前に、風鈴まつりの風鈴棚が設置されていた。鈴がかなでる音色は邪気を払うとのことである。速谷神社の風鈴棚