ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
所用をかねてのウォーキング途中、可愛川下流域でアオサギが水中の餌を食んでいた。当方の移動を察知して上流方面に飛んで行った。以前に田んぼの中で餌を食んでいたのを紹介したことがあった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/アオサギが!
一昨日紹介した搬入されていた橋桁が、昨日の昼過ぎ通りがかりにみると可愛川に架けられていた。何本の橋桁が架けられているのか分からないが、画像をみると手前側にまだ数本の橋桁が架けられるのであろうか。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
時折り紹介している市道堂垣内広池山線工事の可愛川に架かる架橋工事の進捗状況で、昨日ウォーキングをしていると現場に鉄骨の橋桁が搬入されていた。もうすぐ架橋の工事が行われるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
久しぶりに通ったウォーキング途中の畑の一部に麦を植えておられた。穂が熟しているようなのでぼちぼち刈り取りを迎える時期ではなかろうか。穂先をみると小麦のようである。この地域で麦畑を見ることは殆どないが、出雲平野では広大な麦畑があちらこちらでみられたことを思い出したのである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/麦秋
昔、親の時代に減反政策で梅の木を植えた所がジャングル状態になっていたので昨日草刈りをした。自然に生えたものか定かでないが大きな桑の木かあり沢山の実が付いていた。もう少しすると熟しておいして実になるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/桑の実
令和6年3月に竣工した南棟上層階の外周に配置されている病室は中画像のように凹凸のある変わった平面とされている。屋上にはヘリポートが設置されており、ドクターヘリ、防災ヘリ、自衛隊ヘリなどの受入ができるようである。駐車場にいるときにドクターヘリが患者さんを緊急搬送されてきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島総合病院②
JA広島総合病院の全景で左側の南棟は令和6年3月に竣工したようで、当病院の前身は昭和22年(1947)12月23日に農業会佐伯病院として開設されたようである。当ブログ主が小学高学年の時に鼻茸治療のために下画像の佐伯病院に通っていたことを思い出した。(下画像-ふるさとの写真集より)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島総合病院
広電宮島線のJA広島病院前駅は平成10年(1998)9月1日に開業された請願駅で、宮内駅-地御前駅間にある広島総合病院前に新規開設された駅である。朝の6時・7時台には当駅始発の7便の折り返し便がある。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/JA広島病院前駅
時折り紹介している市道堂垣内広池山線工事の可愛川に架かる架橋工事の進捗状況で、昨日大きなクレーン車が2台止まっていたが架橋工事は行われていなかった。もうすぐ架橋の工事が行われるものとみられる。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
今年は色々と事情があって通年より10日以上も早く終わることが出来た。広大な田園地帯のような田んぼではなく箱庭みたいな田んぼで、助っ人を得て4条植えの田植え機で植え付けた。親の時代には下画像のような三角枠で印の所に数人の早苗(?)が植付て、手前に回転させ後すだりをして植えていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/田植え
ウォーキング途中、道路脇から河川に向かって繁茂しているウツギの小さな白い花がびっしりと咲いていた。ウツギの茎は小竹のように中空であり子供の頃に笛を作っていたことを思い出して作ってみたがうまく鳴らなかった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ウツギ
ウォーキング途中、歩道脇にある側溝のコンクリート隙間に大きな株を張り小さなピンクの花びらをつけた花があった。Googleレンズで検索するとユウゲショウのようで、原産地は南米から北米南部、帰化植物のようである。どこからか種が飛んできてコンクリートのわずかの隙間に入り込んで成長したようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ユウゲショウ
菩提寺の総会で久しぶりに参詣した。本堂前には石造の天水桶が設置されているが刻銘には露盤とある。この天水桶は大正3年(1914)にこの地からハワイのカウアイ(加哇)島のケカハ、ワイノヤ。リフエ、キャリー、マカウエ、ハナベ、カバア、キャリヤなどに移民した人々の寄進によるものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/西連寺の天水桶
ウォーキング途中、里山の山裾に数輪のササユリが咲いていた。山裾にはまだ咲いていない蕾も各所にみられもうすく咲くものとみられる。里山に人の手が入らなくなってササユリも減少しているようであるが、ここの山裾は毎年手を入れておられるので保たれているのである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ササユリ
宮島サービスエリアからみた一昨日の平良丘陵開発の現状で、上画像は展望できる東側部分で尾根筋が掘削されて低くなっている。下画像は西側部分で谷筋が埋め立てられて広大な平地となっている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/平良丘陵開発の今
ウォーキング途中で見かけたことがないような鮮やかな花をみかけた。Googleレンズで検索してみるとカルミア・オスボレットようである。北米やキューバに分布するツツジ科の常緑低木のようで、紅色の濃い蕾がびっしりと付いており開いた花は桃色であった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-カルミア・オスボレット
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞第三区地帯標石は岩根砲台から2250間(4095m)の第三区地帯の区域標石である。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/近代戦争制限区域標石-呉要塞第三区地帯標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港付近には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞地帯区域標石は要塞地帯法に基づいた陸軍・海軍連帯告示によるもので、宮島の紅葉谷道、大元谷道や岩船岳に向かう尾根筋など7ケ所にみられる。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。ttps://ameblo.jp/n3491/近代戦争制限区域標石-呉要塞地帯区域標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。呉要塞地区域は明治36年(1903)5月1日に陸軍・海軍省連帯告示で広島湾要塞区域と改称されており、大野地区高見川上流の地蔵橋脇に広島湾要塞第三地帯標石がある。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp...近代戦争制限区域標石-広島湾要塞第三地帯標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。宮島の腰細浦にある軍港第二(三)区標石は呉鎮守府とあり呉軍港境域の標石である。呉港部分が一区でその他の部分が二区とされたが後に呉港部分に一区、二区が設定されその他が三区とされ、刻字がバランス良くない三となっているのである。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-軍港第二(三)区標石
野貝原山の第53号第54号かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。陸軍輸送港域は2区に分けられており、昨日紹介した第一区は防御営造物から250間(455m)、第二区は750間(1365m)に設定された。廿日市市域では第二区標石が極楽寺・野貝原山系など赤丸ケ所に残されていたが、野貝原山の第53号は造成のため消滅した。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-陸軍輸送港域第二区標石
かつて軍都であった広島市・呉市及び広島港・呉港周辺には色々な制限区域が設けられて、この区域内では色々な規制や制限が定められて産業や住民生活に大きな制約を受けていた。陸軍輸送港域は2区に分けられており、旧廿日市市と旧大野町境の標高108.2mの三角点ケ所に画像の陸軍輸送港域第一区標石があったがふじタウン造成のため所在不明である。※これらの標石詳細は『近代戦争制限区域標石について(上)』(広島県文化財ニュース第168号平成13年3月広島県文化財協会)、『近代戦争制限区域標石について(下)』(広島県文化財ニュース第170号平成13年8月広島県文化財協会)参照。近代戦争制限区域標石-陸軍輸送港域第一区標石
県道247号廿日市港線の串戸陸橋下の交差点脇に建立されている旧平良村・宮内村境の標石で、旧国道脇の村境に明治33年(1900)12月31日に建立された。廿日市港線の整備に伴って当初の場所から現在地に移設された。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/村境標石
市有林の貸付山林で宮内地区(旧宮内村)では講中単位で貸し付けが行われているようである。折敷畠山の山系で的場講、串戸講、宮迫講、明石講、北山講の山林使用境の表示が見られる。もう講中組織はないものと思われるが・・・移転先のAmebaブログでも更新をしていきますのでご来訪お待ちしています。https://ameblo.jp/n3491/市有山林使用山境
昨日紹介した境木は個人の山の境界を示すものであったが、極楽寺参道の30丁碑手前には旧上平良村・原村・佐方村の山境に古い時代の石塚がみられる。(上画像)下画像は極楽寺山頂にみられる石塚で旧原村・白砂村の山境とみられる。※gooブログのサービス終了に伴って当ブログはAmebaブログに移転することに致しましたが、老ブロガー故にてこずっています。6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも試行錯誤しながら更新をしていきますので今後とも宜しくご来訪お待ちしています。https://ameblo.jp/n3491/山境の石塚
先日紹介した平良丘陵開発で極楽寺参道が途切れたすぐ上手に画像のような山の境木と隣接して現在のプラスチック杭がみられる。昔はコンクリート杭やプラスチック杭がなかったので山の境を表すために木の芯を止めて画像のような樹形にしたり、貝殻を埋めていたりしていたが知っている人は少ないであろう。山の境木
5月の第一日曜日は当ブログ主の田んぼに関係する水路の井手セキであり、水田を作らなくなった人達も参加しての水路清掃をした。現在水路はコンクリート溝となっているので作業をすることは少なくなったが久しぶりの顔合わせとなった。この井手は昭和16年(1941)に田んぼの面積に応じて出資し築造した河野原溜池から流れる川から取水している井手である。井手セキ(堰き)
先日、平良丘陵開発のために極楽寺参道が消滅したことを紹介したが、上側の途切れた極楽寺参道から見た平良丘陵開発用地の画像である。この場所では宮島サービスエリア展望所からのように広範囲の展望は出来なかった。平良丘陵開発の今
ゴールデンウイークで平良丘陵開発地内の掘削や運搬などの重機類が勢揃いしていた。このような大型の重機類はどのようにして現地に運搬してきたのだろうか。平良丘陵開発地内の重機勢揃い
昨日の中国新聞の天風録欄に日露戦争時にロシア兵が萩市の見島に漂着して島民が救護したことなどが掲載されていた。漂着した見島の宇津地区には露兵漂着地の碑が建立されていた。(2018.4.10探訪)また隠岐の島大城地区にある墓地には漂着したロシア兵遺体を葬った露国軍人戦没者墓地があった。(2018.5.14探訪)露兵漂着地の碑・墓地
上画像は宮島サービスエリア展望所からみた平良丘陵開発用地の現在で、中画像・下画像は宮島サービスエリアの西側付近からの画像である。山や谷部分が無くなって平地部分が大きく広がっている。平良丘陵開発の今
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ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
所用を兼てのウォーキング途中、壁面に本業敷瓦とみられるものが張ってある民家があったが近寄って見ることは出来なかった。本業敷瓦は日本のタイルの源流で、明治時代に焼き物の産地愛知県瀬戸で焼かれた陶製タイルである。参考画像は当ブログ主が所持しているもので、大きさは24cm×24cm厚さは1.8cmのものと15cm×15cm厚さ1.8cmのものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/本業敷瓦(タイル)
昨日紹介した地御前漁港には築港時代の石積みの防波堤が残されている。大正5年(1916)頃に南北の新開が築調されそれぞれの地先に石積みの防波堤が築造された。防波堤の先端部は海側にL型に折れ曲がって築造されて堤頂部には繋船石柱が設けられている。(地御前漁港築港についてー広島県の近代化遺産参照)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港の防波堤
上・中画像は平成8年(1996)頃の地御前漁港で、護岸には多くの雁木(石階段)がみられ漁船から漁獲物の荷揚げがされていたものであろう。現在、地御前漁港は艇置施設(プレジャ-ボート係留施設)となってプレジャ-ボートがびっしりと係留されている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港今昔
所用をかねてのウォーキング途中、可愛川下流域でアオサギが水中の餌を食んでいた。当方の移動を察知して上流方面に飛んで行った。以前に田んぼの中で餌を食んでいたのを紹介したことがあった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/アオサギが!
一昨日紹介した搬入されていた橋桁が、昨日の昼過ぎ通りがかりにみると可愛川に架けられていた。何本の橋桁が架けられているのか分からないが、画像をみると手前側にまだ数本の橋桁が架けられるのであろうか。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
以前にも紹介したが、佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中で8割方工事が終わっているようにみえる。完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中
吉野山にある中電の高圧線鉄塔が場所を変えて建て替えられることを以前に紹介した。現在、藤戸の谷の作業用地から山上の鉄塔までの工事部分の山林が伐採されていた。また資材などを運搬する索道の準備作業が行われているようである。吉野山の高圧線鉄塔
以前紹介した吉野山に生息しているイノシシによって、山裾の畑で被害があったことを聞いていた。当ブログ主の田んぼの近くに以前から捕獲檻が設置されており、一昨日親子のイノシシが捕獲されていた。一昨年は田んぼをイノシシに荒らされたことがあったなぁ・・・ならず者御用だ!
可愛川の西側流域で広電廿日市市役所前駅のロータリと旧国道の間、住宅に囲まれた中にある田んぼが最下流の田んぼである。用水は薬師井手か新宮川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ--2
可愛川の東側流域で平良保育所脇に見られる田んぼが最下流の田んぼである。用水は柳庵川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ
ウオーキング途中に赤い実がびっしりと付いた植物があった。ヒペリカムと教えて頂き、挿し木するとつきやすいとのことで、枝を分けてもらった。挿し木した枝は大きく育ち、黄色の花が咲いて赤い実となりつつある。ヒペリカム
ウォーキング途中にカヤがあったので、久しぶりにバッタを作ってみた。当ブログの最初はウォーキング途中カヤでバッタを作っていたバッタおじさんから習ったバッタ画像であった。カヤのバッタ
水稲育苗箱で陸稲(左側)と黒米苗(右側)が育っている。陸稲は昨年秋に収穫した籾であり、黒米は昨年陸植した籾で陸植2代目となる予定の黒米苗である。陸植した赤米は育ちが悪く籾が採れなかったのである。遊びの菜園ー陸稲・黒米苗
宮園団地の高い法面下の擁壁から赤褐色の水「赤水」「かなけ水」などと呼ばれる水が湧出している。擁壁下にある田んぼはこの水が使用されており既に田植えがされていた。かなけ水を使用した田んぼと通常の川水を使用した田んぼの米の出来ぐわいが異なるのであろうか。かなけ水の田んぼ
玖島上大町地区のとある谷筋(谷名分からず)を入った所に小さな溜め池があり、その上に張り出した樹木の枝に「モリアオガエル」の産卵の泡である卵塊が数多くみられた。ここの場所では梅雨時期に近いこの頃になると毎年見ることができるのであるが、今年は卵塊の数が少ないようである。モリアオガエルの卵塊
「引き回転定木」引き回転定木は引っ張っていき円板で筋を付け十の字跡を付けていくものである。上画像と中画像は吉和地区でみたもので、下画像は佐伯歴史民俗資料館に展示されているものである。このような民具は吉和地区と佐伯地区で使用されていたようである。田植えに関する民具⑤
「六角枠」六角枠は前に転がして碁盤の目のような跡を付けていくもので、交点に前向きで植えて行くため効率的である。植え筋が縦列と横列が揃った植え方となるのである。田植えに関する民具④
「スジツケ」上画像は前に向かって植え筋を付けていくもので、下画像は引いて植え筋を付けていくものである。隠岐郷土館に展示してあるスジツケ(下画像)には「ババ」と表示してあり、出雲地方では筋を引くことをババヒキと言っているようである。筋の上に前に向かって植えて行くので効率的であるが植え手によって間隔はバラバラとなるのである。田植えに関する民具③
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで速谷神社に参詣したら社殿前に茅で作った茅の輪が設置されていた。6月の晦日には酷暑の真夏をひかえ、人々の健康と厄除け無病息災を願う夏越の大祓神事が斎行される。速谷神社「茅の輪」
「三角枠」上画像は親の時代に使用していたもので、4~5人で印の付いた所に植えて手前に回していくものである。植え手のスピードや後すだりのため効率はあまりよくないものであった。下画像の「タウエワク」は廿日市町史通史編に掲載されていたものであるが、三角枠と同じように印の付いた所に植えて手前に回していたもののようである。田植えに関する民具②
当ブログ主の田植は何とか終わったので、過去にみかけた田植えに関する民具を紹介する。原地区で以前にみかけた「マグワ」2基であるが現在は無くなっている。マグワは馬や牛に曳かせて代掻きをする器具で「ホ・コ(爪の部分の呼称)」が木製のものと金属製のものがある。「エブリ」は当ブログ主が使用しているもので代掻きをして田んぼの不陸を均すものである。(中画像-日原民具志)田植えに関する民具①
昨日、田植えの二便が助っ人2(田植え2年生)により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。四角な田んぼであるが植えた列は湾曲していたが片目をつぶってみておこう。田植え②
当ブログ主の畑に隣接して大きな桑の木がある。昔、養蚕の名残りの桑の木がそのまま大きく育ったものとみられ現在沢山の実を付けている。白い実から赤みが付いて赤黒くなって熟したものは美味しいものである。若い頃、中国トルファン(吐魯番)郊外のヤールフー千仏洞近くで見た桑の実は2cm位の大きな実で白いままで熟しており、美味しかったのを今でも覚えているのである。桑の実
昨日紹介した廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の種を昨日採取した。以前に近接して植えていたことがあったので切葉松本地大根は桜島大根と交配したものとみられ同じような形状の大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の実が実っておりもうすぐ種を採取しなければ・・・来シーズンには廿日市20代目桜島大根と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今