■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
どのみち、今無いものを手に入れる・認識する・積むという、本能から逃れられないならば(神経的刺激の生理システム)、・自分の内に知識善を積むこと(知識的徳)・自分の外に貢献善を積むこと(貢献的徳)で、その今に無い「善=価値あるもの」を積めば/認識すれば
否定する(失敗や批判)↓自己否定=苦しさ↓自己防衛=承認欲を満たそうとする(①自責か②他責又は両方)↓①自責:注目の承認欲を満たす・自分を下げて注目されたい =過度な自己卑下、自虐・他人を上げて注目されたい =過度な自己犠牲、ゴマす
■本質(探究という目的)と形(記録という手段)の関係本質は形(言葉など)にすると、形への執着となり、本質(形ではとらえきれなかった概念を含む全体)から離れてしまう。本質は(探究の)目的であり、形は(記録の)手段であって、形にすると、形(記録の手段)
■徳を積むについて自分の時間を差し出して自分の内や外に善を作る(善を作る=徳を積む)与えられることは諦めて(与えられることは無いから・なお、"一方的に"与えることでもない)徳を積む=善を作ること積む徳、作る善を、自己が認めれば、些細な肯
全ては、無を「否定する」ことから始まり(一切皆苦であり)、継続するものなので、意識し、無を「否定せず」、受け入れることだ(無を否定する苦しみを打ち消す方法)自動的に、無を否定するとしても、意識し、無を否定しない→まずは無意識の否定の対消滅無い
無の荒野・与えてくれる(都合のいい)他者は居無い・与えられる(都合のいい)自己の特別性も無い例えば、全くの見返りなしで、新規性もなく、誰かに1万円を渡す/寄付する行為があって(それは行動の善であるが)それに善さ、価値、善い神経的刺激、
自分を(本能的に)特別な存在だと思うことは、特別では無いという現実(現実の無)と常に戦うことになる。そして、(失敗者は当然のごとく、成功者でも時間とともに必然に)いずれ心のエネルギーが尽きて、無の否定とその苦しみに囚われることになる。無の否定と苦
日々のことに、何も無いなら、何も無いことが当たり前で中庸である。日々の行動は知るためだけにあって、知ることにしか価値と肯定はない。
イヌはボールをぶつけられると、ボールを敵と見做して吠える。ボールを自分にぶつけた者やぶつけた原因を見る=知ることはしない。これは、イヌだけでなく(それなりに知能があると思い込んでいるだけの)ヒトにも同じことが起こる。
皆が本能的に感じている否定の苦しみを放置したままにしておくと、自己否定の鬱や自暴自棄、他者否定の攻撃性(からの孤立や孤独)に繋がって、徐々に壊れてい(き、自己否定に起因する鬱病・アル中・薬物依存、他者否定に起因する誹謗中傷、暴言暴力や犯罪行為へエスカレー
他人を責めたり自分を責めたところで現状が変わるわけがないただ承認欲を求めているだけだ自分の内に善(価値)を生まなければ、自己肯定の変化(自己成長・自己変革)もない------否定も刺激であるし受容も刺激であるし肯定も刺激である否
自分は特別だと思うことが、認知の歪み(本当は特別ではないのに、そう思い込んでいる)の根源なんだよこの本能的な(承認欲求に起因する)歪みのせいで人間は苦しむようになっている(特別なはずの自分が、現実では特別扱いされないという承認欲の否定の苦しみ)この自己
究極的には、肯定感は、知性的卓越性(知の善)で得るしかないし、否定感は、倫理的卓越性(中庸)で消すしかない。ただし、否定も日々の行動のトリガーとしては必須。否定と苦しみがなければ、考えることもなく、動くこともしなくなり、受容のカタルシスも得られない
人生はいずれ無に帰すが、無を否定したとしても(無を否定したままにせず)、無を受け入れて、無から「何か」を生み出して肯定することだと思っている。身の回りに有る物や事が、この何か(誰かが残した善さ)から構成されている以上は、その分だけは意味があると捉える
前向きになるんじゃなくて、まずは無になるんだ何も無いのに前向きになれるはずがないだろう無理に前向きになろうとするから、(何も無いことに対して)後ろ向きになるんだよ~~~~~~~~~どうやって何も無いことを受け入れるかどうやって何も無いこ
『意識を仕直すこと』《無意識の否定に対して》①自己否定したとしても、否定したままにせず、②自己受容できること③そのうえで、自己肯定できること《無意識の期待/肯定の期待に対して》①承認欲の期待が生まれたとしても、他者運も無く、才能運も無いか
そうやって現実を否定する(のは仕方がないとしても、否定したままだ)から、自分は(自己否定で)苦しいし、他人も(他者否定で)苦しくて離れていく。人生が苦しいのは一切皆苦であるし、孤独になるのは因果応報/自業自得なんだ。
犯人の心理を5段階で解説(自己否定の苦しみを抱えている人は現在『非常に多い』ので、今後も事件は発生)する。①現実否定=自己否定で苦しい(生き苦しい)↓②他責思考=苦しいのは周囲や社会のせい↓③他者攻撃=人を攻めて気持ちよくなろうとする(承認欲/
No.0 詳細(無と中庸と善)No.1 全体(否定➡受容➡肯定)No.2 無知の知_知の探究_知の幸福No.3_意識の不連続_No.4_無意識の否定の仕組み_No.5_無の荒野
(自分向けの話)人間は、どんな立場にいても、その立場(現実)から見た欲望の理想(偏見)を欲するから、欲望による(現実の否定の)苦しみが消えることはない。➡自分向けは、否定をしない(否定/期待を煽らない) 平常・冷静さのため。どうでもいい(否定
人間関係のイメージを、(否定性/傾向が高いが)、否定せずに、仕方がないと、諦めて、受け入れよう。認識の否定のスイッチが、毒親の(子供の)否定のせいで、『高め』に設定されてしまっている(認識の歪み/すりこみ)。が、これも(脳神経的に)仕方がないことだ
採用される条件についてこの人となら一緒に働きたいかどうかがポイント=①欲望:他者否定(他責/自責)がないこと=②中庸:受容であること=③善性:善性(行動の善、感覚/知性の善)があることの3つの条件が、言動に揃っていること。いずれかの条件がな
無知の知、知の探究、知の幸福(PDF資料)~~~ー完全自己完結する自己肯定感(自由意志に準ずる肯定感)ー自分の内面/理性・知性の(形而上学的な)範囲において、(苦しみを消したうえで)最低限の(自己)肯定感を保つことを目指している。パワポ
無意識による(欲の)無の否定が消えないときは、どうするか(いつまでもクヨクヨと、起こったことの否定/自己否定/他者否定が続く場合)無を否定しても仕方がないから、否定しない(期待もしない)心の中庸(メソテース)無の荒野・与えられることは無い
欲のためにやるなら(欲のとおりにはならないので)必ず否定となる。(欲するもの/都合のいいもの/理想のものが、何も(与えられ)無いことを、否定しても仕方がないと・認識の否定を上書きして、受け入れること=心の中庸(メソテス)/受容(アクセプタンス)何
無の荒野を徹底しよう。無の荒野(自分にとって都合のいいものが与えられることは無い=欲の諦め=欲の否定の打ち消し)を徹底して初めて、目を凝らして(感覚を細部/ディティールまで研ぎ澄まして)、詳細を詰めていけば、小さな緑(善=肯定)を見つけることができる
自分の置かれている現実そのものを否定しないこと(個別事象の認識だけに囚われないこと)。この行為をやることで、自分にとって都合のいいものが与えられることはない、と感じること。自己否定のみがあること。(若いときは、自己否定→自己防衛→他者否定→承認
(0)無を認識する。(1)無を否定するとしても、(2)無を否定せず、無を受け入れる。 無を受け入れて、何も無いことを認めきる。(3)何も無い状態で、それでも、感覚を細部まで研ぎ澄まし、か細い善さが見出せるなら、それがささやかな肯定となる。
頑張ったからといって、結果や評価につながるとは限らない。結果や評価には、他者の運と才能の運が必須だ。そして、運の占める要素は努力の要素より格段に大きい(運が9割、努力が1割)。むしろ頑張らないといけないという『現実を否定する気持ち』が、苦しみを生み、
やす子さんの4/18コメント⬇"何かに対して過剰にアンチしてる人嫌いな人にわざわざ時間使うのもったいなさすぎる。その時間、自分のために使った方が絶対良いと思うんだ〜嫌いな人がいるならミュートなりブロックなりして見なきゃいいのよ😀"について⬇や
自己愛は、『自己否定の苦』と『他者否定の毒』が表面化した『無自覚の呪い』だから、どこに行っても、誰に対しても、無意識に『他責=積極的攻撃により、他者を攻撃したり(例:自慢や悪口)』、『自責=受動的攻撃により、他者に負担をかけてしまう(例:過度な自虐や自己
無意識が(自己に関わる顕示物を)表に出したいと焦る/急かす⬇❌表に出そうとするのは、他責の欲だから、それは止めよう⬇○表に出そうとするのは、行動の善としよう⬇◎自分が(顕示物を)理解するのは、感覚の善としよう⬇◎自分が(顕示物を)理解する
0.認識する⬇1.認識したものを否定する⬇2.認識したもののディティール(認識した他者の心理、自分の心理のディティール)を把握して、仕方がないと受け入れる⬇3.感覚の善→ディティール 行動の善→ディティールを詰めれば、善さも増え(肯定感とな)る
欲(否定と期待)を煽る者が、最も欲(否定と期待)の苦しみを感じている。期待とは、未来への期待=現実の否定である。自己愛の人間と関わらないことができているのは、ひとつの奇跡的幸運である。自己愛と見た目ばかり大きい人間が(中身は自己否定と他者否定
期待とは、未来への期待=現実の否定である。否定(期待)を煽られる者もそうだが、否定(期待)を煽る者が、一番否定に苦しんでいる。
職場において、他者と接すると、他者と自分の関係性を認識してしまい、否定や期待の気持ち(承認欲の理想と現実のギャップの気持ち)が生まれる。(期待とは、期待どおりにならないなら否定に帰着するため、否定の予約である)否定(や期待)は本能で避けられないが、
無意識(自律神経系)の冷静化/沈静化には、セロトニンの回復が重要だとしても、その(受容への)方向性については、意識の(中庸へ向かう)働きが必要になる。
やる気が起きないとき=無意識が否定よりで辛いときは、(理性が考えても、何もできないので)さっさと帰ろう。エネルギー切れなのか、何らか否定の脳内物質が脳髄に溜まるからなのか(セロトニンの欠乏なのか)、それは分からないが、脳内環境が回復するまで=『特別な
①無意識が否定をする ②意識が受容する ③意識が肯定する◇否定についての『新しい見識』がある=特別な他者も無いし、特別な自分も無いことに、毎回改めて気づき続ける→無意識が納得する→受容(受容の冷静の後に)◇肯定についての『新しい見識』があ
人生とは、死ぬまで・帰納と・演繹を繰り返すこと。即ち、葉っぱ(個別事象)から根っこ(一般原則)を説明する(帰納)根っこ(一般原則)から葉っぱ(個別事象)を予測する(演繹)⬇欲望の否定の葉っぱから、受容の根っこを見る(帰納=中庸で受容)
欲望が個別事象を否定する→否定に苦しむ →運があれば欲望の肯定となる→一時的な肯定の嬉しさとなる=肯定のレベルが上がる=運の必要レベルが上がる→欲望の肯定が難しくなる →時間が経てば否定を忘却する→否定の苦しみを忘れる⬇中庸によって、個別事象
『主:帰納』(よく有る既定の)個別事象に対する一般原則の当てはめ(帰納による理由=理論の説明)『副:演繹』一般原則からの(まだ未定の)個別事象の推定(演繹による予測=事象の説明)帰納は、(よく有る否定事例の)受容なので、納得できるが、面白く
①否定することが常であっても、(現実とは、常に、欲望の思うようにならないようにできているので、否定するのは当たり前だ)②いったん、受容すること、そうなるのは仕方がないと受け入れることに専念しよう(受容=中庸の帰納に専念しよう)③善い行いで善さを生
否定の苦しみを受容するには、より広い概念を把握・イメージして、その広い範囲のことを善いも悪いも言わずに、受け入れるとよく、一旦は、受容に専念しよう。冷静さを取り戻した後に、自分の感覚の善さと行動の善さのみを求めよう欲望の理想を常に求めがちだが、
『問い』自己否定を覚悟してまで、この苦労(※※※※※)をする理由は?苦労によって、自己否定があって、苦労を受け入れて、自己受容して、苦労して善い行いをして、自己肯定することなら、他のことでも実践できるのではないか(他のことをやったほうが、善の形
孤独を悪いものだと捉えて(否定して)耐えるんじゃなくて、孤独は仕方がないと受け入れることだ。この孤独の受け入れをしないと、否定の苦しみ(生きづらさ)でいずれ狂ってしまう(ちなみにこの受け入れは、独身だろうが既婚だろうが関係なくやるべきだ)。孤独とい
否定の苦なくして、受容の楽はあり得ないし、善があってこそ肯定の幸がある。だから心のプロセスとして否定はあってしかるべきで、(心の作用の)最初の工程にあることも当たり前だ。(平坦では、変化=神経的な刺激=脳内物質の放出もまた生まれない)心は、最
心の安定化のための3つのプロセス(PDF資料)
ーー否定→受容→肯定ーー①現実を、無意識が、欲望が否定したり肯定(=期待)したりしてしまうとしても、(たえがたい否定と肯定)現実=客観的事実には悪いも善いもないから、②現実を、意識的に、理性的に、否定も肯定もしないこと現実を受容
【問い】なぜ、人は、「認識した事実」を、(事実自体には善いも悪いもないのにもかかわらず)無意識に、否定してしまうのか※※認識した事実=現実を、悪いものだ、そんなはずが無い、有るべきでない、問題だ、善くないものだ、と捉えてしまうこと【答え】人間(
<自己愛の心理>自己否定(の苦) → 他者否定(の毒)= 自己愛 → ・外向的性格→他責(自慢、悪口:他者攻撃)=優越(承認欲)の自己肯定=障害傾向は高い・内向的性格→自責(自虐、熱愛:自己犠牲)=注目(承認欲)の自己肯定=障害傾向は低い(が注目が
トランプはドル高は嫌なので、円高にするはず。一般的には、円高=株安だから、下がるまで待てばいい(下げの叫喚が聞こえなくなる=株式は怖いものだ・手を出すべきでないという雰囲気/株には手を出しにくい感がある/株式をやる人が変わり者扱いされるまでね)。
キャリーしてる側=動きいいけど(味方のフォローが弱いので)負けやすい。→自分よりも強い味方はいないから、頑張らないとだし、(エースである)自分のミスは直ちに負け筋になるキャリーされてる側=沼ってるけど(味方が強くて)勝てるってことだろう。→
帰納により、一般原則を考察し、結論を考え続けるのが哲学(=結論に疑問を抱き続け、イデアという究極の答え・原理に至るまで永遠に考え知り続けること)帰納により、一般原則を考察した結果、全てを神様のせい(思し召し)だと結論づけたのが宗教(=考えるのを辞めた
異世界転生は、(全てではないとしても)大抵は、現実世界ではパッとしない平凡or無能で評価されない主人公が、異世界転生して、・実は自分は特別であるとか・実は自分には隠れた才能がある・実は自分は特殊な能力があることを表現し(て、それを同じようにパッとし
一度下がったものは(人間の心の否定の作用の方が強いから=ネガティビティバイアス)、元へ上がるのは時間がかかるだろう。下がるのは(否定の作用によって)容易い(ので上がるのはゆっくりだが、暴落はすぐだ)。トランプの関税戦争は一過性ではない(はずな)の
現実の否定・自己否定→自分が感じる苦 =生き苦しさ・他者否定→他者に与える毒 =他者攻撃 =優越の肯定感の欲求と 注目の肯定感の欲求 →承認欲求を満たす行為 =他責的行為(優越) ・自分を上げる行為 =自慢、ギャ
客観的事実には「悪い」も「善い」もない。「悪い(否定)」、「善い(肯定)」、「何とも思わない(平常)」の、いずれかを選ぶのは、主観的感想(心の作用)に過ぎない。そして、心の作用には「欲望」と「理性」の2つの要素ある。 《①欲望により必ず「否定」を選択してしまい
自己愛があると、その承認欲求の肯定感を求めるが故の他責性と自責性により、周囲から孤立するのは仕方がない。自己愛(性パーソナリティ障害)とは、自己否定が強いあまりに、他者を否定することで、相対的に自己肯定をしようとする病気のこと。自己愛に関わると
哲学とは、他人の考え方を見て面白いと感じるものではなく、自分で考えることで初めて面白くなるものなので、他者の考え方を見る者がいない(少ない)のは当たり前だ(他人の考え方は、自分が考える際の材料に過ぎない)哲学とは、自分で考えることだけで面白いから、
○○(=SNSでリア充・幸せアピール、誹謗中傷などをして、閲覧数を稼ごうとしている人の名前)は、自己否定感が強くて、その(生き)苦しさを、(自分を上げるリア充アピールや他者を下げる悪口※で注目を浴びて)承認欲求を満たして誤魔化そうとしているところが、他責的
勝つことも負けることも、強いことも弱いことも、皆同じ。否定することも肯定することもない。ただ、そういう(客観的な)事実であるだけだ。その中で肯定を見出すのは、善いことをすることと、その善さのみである善く見ることができれば嬉しいし、善く分かれば
万事(現象)を一事(理論)にするのが帰納 →学習一事(理論)を万事(現象)にするのが演繹 →実践【演繹法と帰納法の違い】帰納法は個別事例から一般原則を導きだすのに対して、演繹法は一般原則や理論から個別の結論を導きだす
「どうでもいい」という言葉には、2つの種類(否定的なものと受容的なもの)があり、「否定のどうでもいい」ではなく、「受容のどうでもいい」としよう。「受容のどうでもいい」=どう(なって)でも(それは、自分の意識でコントロールできるものではないので
収入の低い業種や安いサービスなどのお金の出入りが少ない&安定していない業界というのは、欲望(金銭欲)の思うようにならない現実の否定に紐付く「自己否定(とその苦しみ)に囚われた人」が多いので、「安易に他者否定をする攻撃的な危うい人」に出くわす可能性も高くなる
日本人は「同情心が低い」 困っているのは「自業自得」と考える心理https://www.asahi.com/sp/articles/AST3V20ZRT3VULLI004M.html-----現代日本の人間は、幼少期から(学歴や容姿などで)他者との競争に曝され過ぎた結果、自己否定感が強く、常に生き苦しさを
嫌われてもいいと考えるのではなく、(結果として)嫌われるのは当たり前の事実だから仕方がないと受け入れることだ。嫌われてもいいという言葉は、表現上は同じに見えても、心の内面では2種類の考え方があって、①嫌われる現実を、思いどおりにならないのは嫌だから、
自己否定の穴は、そこら中にあって、加えてこの穴には底がない。穴にはまって、底闇に囚われる前に(自己を否定しないことで)抜け出そう。善く生きて、生じた善さによって自己肯定の丘を築こう。
哲学とは、物事の原理(イデア)を考察し、イメージ(イデアのコピー)として描き出すことでもある(そして、善(イデア)に意識を向かわせる教化のイメージを描き作ること)。物事のイメージが、深い考察によって、描ければ、そのためには[格物致知]が必要であるし
認識を善くして、(生じた善さで)自己を肯定するのみであって、その(認識を善くして、善さで自己を肯定した後の)結果として、(何らかの他者運や才能運が揃ったおかげで、善さが評価されるという)高みの状態になるのであれば問題はないが、高みを目指すべき、という
何でも嫉妬、批判、マウント、中傷、ハラスメントして、他者否定する人・他罰的な人は、そのうち他者から避けられて、孤立して、居場所がなくなって、姿を消す(か、消えなくても、独りでは身動きが取れなくなる)ので、(脅威にはなりえないから)放っておきましょう
YouTubeは、欲望の病苦(欲望と反中庸を煽るコンテンツ)の見本市だから、無意識に見ていると、心の中庸を失って、否定の苦しみに囚われたままになりやすい。無意識的にだらだら見ていると、どんどん自己肯定感が下がってしまうので止めよう。逆に、中庸を意識して見
自殺とは、究極の自己否定である。自己否定とは、自分のいる現実の否定であって、現実にいる他者の否定でもある。よって、自殺とは、究極の(自分に近しい)他者への否定となる。自殺によって一番ダメージがあるのは、自殺した人が大切だと思っていた(好意を持って
①何でも無意識的に否定から入るからといって、そのまま否定していると、生き苦しく、進歩もなく、相対的な退化となるだろう。②何でも意識的に(否定せずに)受容して、③何でも善く利用するのが、(自分の肯定感のためには)一番善いことだ。全ての新しい物事の
①帰納・・・現象(個別事例・結果)から、理論(普遍法則・原因)を導出する・・・・(現象)となるのは(理論)だからだろう→欲望の万事(否定の事例)から、中庸(受容の手順)と善(肯定の手順)の一理を導く②演繹・・・理論(普遍法則・原因)から、現象(個別
若い女性は、・若さ(年齢と経験での優位が取れる期待=承認欲が満たせる期待)と・性(性欲を満たせる期待)が有るから、惹かれる人が多くなる(特に欲望に従ったままの危うい人が集まる)のは、当たり前。おじさん(おばさん)は、・若さも・性も無いから
謙虚とは、現実の自分への過剰な期待を、自ら落として、中庸に従って、現実に合わせ、否定(自己否定や他者否定)を生ま(せず、苦を生ま)ないようにする振る舞いをいう現実の自分を、自ら過剰に落とすことは、中庸に反しており、ただの自己否定であって、否定による
肯定の幸となる確実な方法は・無と中庸による平常心の実践と、・善による肯定感の実践のみしかない。全ては、主体の、主観の、心の、無意識と意識の、欲望と理性の、人心と道心の、認識した事実の受け取り方=事実認識によって、「事実認識→否定の苦→無→肯定
心(人心と道心)の認識についての考察。 [定義] 心 =人間の精神、心理 人心=欲望、無意識 道心=理性、意識《人心は必ず否定から入る》①否定⬇ ②⬆中庸 ③⬆善人心は、必ずまず否定から入り、道心は、中庸をして、善をする↑
ただ(欲望に従って)生きるのではなく、=中庸により平常心とすること=欲望の作用を理性の作用で打ち消すこと=欲望の無意識の作用・結果を期待する(否定と苦を予約すること)・結果を否定する(苦を生むこと)を理性の作用によって、意識して・結
『大学』第三章ー身を修むるはその心を正すに在りー(怒りや恐れや執着や不安が無く)心がしっかり正常に落ちついていないと、何かを視てもはっきりとは見えず、何かを聞いてもはっきりとは聞こえず、何かを食べてもその味が分からない。(これでは身の修めようがな
自己愛て、障害者本人の持つ『自己否定』の強さの裏返しなんよ。自己否定感が強くて苦しいから、自分自身を守ることに必死(で脳のリソースの大部分を使っているから、話が通じない)んだわ。だから、自己否定の苦しみを和らげるために、自分の話(自己肯定できる自
勝って気持ち良くなりたいではなく、平常心を保ち、(昨日よりも)善くなるために/善さを認識するために行う。『中庸(平常心)の実践と、善の実践が目的』このことは、中庸への挑戦でもあるし、(平常心への挑戦)善への挑戦でもある意識して、
『平常心:心の過不及がないこと(心の中庸)』欲望が・結果を期待する・結果を否定するとしても、理性は・結果を期待しない・結果を否定しないとして平常心を得る。『善の考察』理性は①主体が、善く捉えて、(昨日よりも)善さが捉え
求めるものではない意識して、(主体が認識する力を、主体が客体へ働きかける力=貢献する力を)善くするだけだ求めるものがある結果を期待すれば求めるものがない結果を否定して苦が生じ、平常心ではいられなくなる何かしら良い成果があったとしても
朱子の『中庸章句序 第三節』に云われる、(一句)人心(二句)道心(三句)これ精これ一(精密に考え純一につとめる)(四句)中を執れとは、どんな知者でも愚者でも心には(一句)人心(欲望:偏りのある、危険なもの、情)と(二句)道心(理性:
(1)都合の良いいことがあると(欲望が満たされると:良いものが与えられると)・欲望の肯定感が生じる ↓・欲望の水準が上がる(期待する) ↓現実の水準は元のままなので・欲望の水準と比べて、現実の水準が低いから、無意識の否定感が生じる(否
《退屈:面白いことがない》欲望は無意識に、面白いものが・有ることを期待する・無いことを否定する理性は意識して、面白いものが・有ることを期待しない・無いことを否定しない面白いことがなくとも、これを受け入れて、苦を予防し、苦を消して、
自分の精神(無意識・意識)の中に、反対の作用を、意識して認識させるだけでも、平常心に近づき、苦しみが和らぐ。《欲望の作用:無意識》(1)良いものが ・有ることを期待する ・無いことを否定する(2)悪いものが ・無いことを期待する ・有ること
勝負をすると、勝利を期待して敗北を否定して、中庸が乱れて、情緒が不安定になる。《欲望による否定と苦(他者否定の毒、自己否定の辛)》欲望の作用によって、・勝利を期待する(苦の予約)・敗北を否定する(苦の発生)となり、否定の苦となる(他者否定でイ
意識は期待しない、意識は否定しない(受容する)、意識の善で肯定する<無(無常と無我)のイメージ> 客体 → 〇〇(欲しいもの) → 主体 欲望・・〇〇が欲しい(与えられたい)と思う本能◇欲しい〇〇が客体(他者)から主体(自分)に対して与えら
中庸の、・期待せずとは、欲の苦(否定)の予防であり、・否定せずとは、欲の苦(否定)の治療である善とは、理の楽(肯定)の増進である欲の苦:否定、不幸、自己否定の痛、他者否定の毒↕ ↕ ↕ ↕ ↕理の楽:肯定、幸福、自己肯定の快、他者肯
無意識との対話というのは、・無意識に刺さった小骨(自己否定の痛みの原因)を、・意識との対話で探り当てて(万事に充てるため)、・自己否定の痛みを取り除く(中庸の一理:無いを否定しない・有るを期待しない)ことだ。体が痛いときに、痛い箇所を探して、
《苦しさの理由》朝目覚めると必ず苦しさを感じるのは、寝た状態(無意識の状態)で、無意識(欲望の作用)で、欲望が、勝手に、・(都合のいいことが有ることを)期待して、・(都合のいいことが無いことを)否定しているから。寝ると理性(意識)が働かず
認識の善(六根清浄)と肯定の幸六根とは、自分の理性が御せる6つの感覚のこと。眼・耳・鼻・舌・身・意。①眼:眼で善く見えると、今まで見えていなかったモノが見えて、嬉しい=肯定感②耳:耳で善く聞けると、今まで聞こえていなかったモノが聞こえて、嬉しい
自分が、誰かに対し、そのような善くないことをした、ということは、自分が、誰かから、そうような善くないことをされるかもしれない、という不安の呪い(因果応報の呪い)にかかり、永劫苦しむことになります。闇を覗き苦しみを与えたら、闇からも覗かれ苦しみを与え
毒(反中庸の自己否定と他者否定)の多い世の中で、毒のないもの(自己否定と他者否定がない)を表現しましょう。だれでも、常に、欲望の毒(自己否定・他者否定&その苦しみ)は持つので、常に、理性で、意識して、中庸の期待せず・否定せずによって、欲望を中和する
ヤフコメは、弱者に厳しいコトを書くとうーん(=共感しない)が多くなり、強者に厳しいコトを書くと共感したが増えますつまりはそういうこと(ヤフコメは「自分が社会的弱者であると意識している又は無意識にそう思っている人が多数派である」ということ)なんです...
「ブログリーダー」を活用して、Ya suさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
どのみち、今無いものを手に入れる・認識する・積むという、本能から逃れられないならば(神経的刺激の生理システム)、・自分の内に知識善を積むこと(知識的徳)・自分の外に貢献善を積むこと(貢献的徳)で、その今に無い「善=価値あるもの」を積めば/認識すれば
否定する(失敗や批判)↓自己否定=苦しさ↓自己防衛=承認欲を満たそうとする(①自責か②他責又は両方)↓①自責:注目の承認欲を満たす・自分を下げて注目されたい =過度な自己卑下、自虐・他人を上げて注目されたい =過度な自己犠牲、ゴマす
■本質(探究という目的)と形(記録という手段)の関係本質は形(言葉など)にすると、形への執着となり、本質(形ではとらえきれなかった概念を含む全体)から離れてしまう。本質は(探究の)目的であり、形は(記録の)手段であって、形にすると、形(記録の手段)
■徳を積むについて自分の時間を差し出して自分の内や外に善を作る(善を作る=徳を積む)与えられることは諦めて(与えられることは無いから・なお、"一方的に"与えることでもない)徳を積む=善を作ること積む徳、作る善を、自己が認めれば、些細な肯
全ては、無を「否定する」ことから始まり(一切皆苦であり)、継続するものなので、意識し、無を「否定せず」、受け入れることだ(無を否定する苦しみを打ち消す方法)自動的に、無を否定するとしても、意識し、無を否定しない→まずは無意識の否定の対消滅無い
無の荒野・与えてくれる(都合のいい)他者は居無い・与えられる(都合のいい)自己の特別性も無い例えば、全くの見返りなしで、新規性もなく、誰かに1万円を渡す/寄付する行為があって(それは行動の善であるが)それに善さ、価値、善い神経的刺激、
自分を(本能的に)特別な存在だと思うことは、特別では無いという現実(現実の無)と常に戦うことになる。そして、(失敗者は当然のごとく、成功者でも時間とともに必然に)いずれ心のエネルギーが尽きて、無の否定とその苦しみに囚われることになる。無の否定と苦
日々のことに、何も無いなら、何も無いことが当たり前で中庸である。日々の行動は知るためだけにあって、知ることにしか価値と肯定はない。
イヌはボールをぶつけられると、ボールを敵と見做して吠える。ボールを自分にぶつけた者やぶつけた原因を見る=知ることはしない。これは、イヌだけでなく(それなりに知能があると思い込んでいるだけの)ヒトにも同じことが起こる。
皆が本能的に感じている否定の苦しみを放置したままにしておくと、自己否定の鬱や自暴自棄、他者否定の攻撃性(からの孤立や孤独)に繋がって、徐々に壊れてい(き、自己否定に起因する鬱病・アル中・薬物依存、他者否定に起因する誹謗中傷、暴言暴力や犯罪行為へエスカレー
他人を責めたり自分を責めたところで現状が変わるわけがないただ承認欲を求めているだけだ自分の内に善(価値)を生まなければ、自己肯定の変化(自己成長・自己変革)もない------否定も刺激であるし受容も刺激であるし肯定も刺激である否
自分は特別だと思うことが、認知の歪み(本当は特別ではないのに、そう思い込んでいる)の根源なんだよこの本能的な(承認欲求に起因する)歪みのせいで人間は苦しむようになっている(特別なはずの自分が、現実では特別扱いされないという承認欲の否定の苦しみ)この自己
究極的には、肯定感は、知性的卓越性(知の善)で得るしかないし、否定感は、倫理的卓越性(中庸)で消すしかない。ただし、否定も日々の行動のトリガーとしては必須。否定と苦しみがなければ、考えることもなく、動くこともしなくなり、受容のカタルシスも得られない
人生はいずれ無に帰すが、無を否定したとしても(無を否定したままにせず)、無を受け入れて、無から「何か」を生み出して肯定することだと思っている。身の回りに有る物や事が、この何か(誰かが残した善さ)から構成されている以上は、その分だけは意味があると捉える
前向きになるんじゃなくて、まずは無になるんだ何も無いのに前向きになれるはずがないだろう無理に前向きになろうとするから、(何も無いことに対して)後ろ向きになるんだよ~~~~~~~~~どうやって何も無いことを受け入れるかどうやって何も無いこ
『意識を仕直すこと』《無意識の否定に対して》①自己否定したとしても、否定したままにせず、②自己受容できること③そのうえで、自己肯定できること《無意識の期待/肯定の期待に対して》①承認欲の期待が生まれたとしても、他者運も無く、才能運も無いか
そうやって現実を否定する(のは仕方がないとしても、否定したままだ)から、自分は(自己否定で)苦しいし、他人も(他者否定で)苦しくて離れていく。人生が苦しいのは一切皆苦であるし、孤独になるのは因果応報/自業自得なんだ。
犯人の心理を5段階で解説(自己否定の苦しみを抱えている人は現在『非常に多い』ので、今後も事件は発生)する。①現実否定=自己否定で苦しい(生き苦しい)↓②他責思考=苦しいのは周囲や社会のせい↓③他者攻撃=人を攻めて気持ちよくなろうとする(承認欲/
No.0 詳細(無と中庸と善)No.1 全体(否定➡受容➡肯定)No.2 無知の知_知の探究_知の幸福No.3_意識の不連続_No.4_無意識の否定の仕組み_No.5_無の荒野
①外から与えられたものはすべて喜ぶ、感謝する・空即是色(自分の外には何も無く空であるなら、すべてのものは奇跡的な幸運の産物であり、よって、すべての物欲はすでに満たされている)・欲望の幸福(外から与えられる幸福)の『幸運に』感謝する・幸運とはなかな
この世の全てが「 」(無や空)であるならば、この世の全ての物が有ることは全て奇跡(幸運)の産物であり、愛情の対象となる。有ることが難しい奇跡的な物への(有り難うという言葉のとおりの)感謝や慈しみとなる。物欲(客体への欲望)も、無や空がベース(本来の、根
①色即是空:物(色)への欲(物欲)は苦痛しか生まないため、物欲が生まれたら、これを、自分より外から与えられるものは無く、すべてが空であるとして捨て去る。すべての物(色)が無いとすれば、(理想や願望も空であり、現実(もまた空であるから)とのギャップも生
□欲望を捨て去るために欲望を完全に捨て去るなら、自分の外から入ってくるものは、全くないものと思い(外には何も無い)、自分の内から外へ出ていくものしかない(自分のみが確実に有る)、と思うほかない。ゲームだって、無から考えれば、ゲームがあって、
■承認欲の強い人は必ず苦痛を感じ不幸になる人から認めてもらいたい欲求(承認欲求)を持ってしまうと、自分の力で自分のことを認めることができなくなって、自分だけでは、自分に価値があると思えること(自己肯定感を得ること)ができなくなってしまう。代わりに、
真面目な人が、ストレスのせいで問題行動を起こして転落するのではなくて、(承認欲求が強いせいで、外面が良くて)真面目な(ように見える)人が、承認欲求の苦痛のせいで問題行動を起こして転落していくのだ。しかし、本当に真面目に会社のために頑張って貢献しようと
承認欲求とは、子供が生き延びるための本能であるから(自活できない子供が、親や周りの他者から、可愛い子供であると認知されて、食べる物などを与えられて生き残るための欲望であるから)、自活できる(ようになる代わりに子供の持つ可愛さを失う)大人がいつまでも持つよ
気分の浮き沈みがあるとしたら、それは、・欲望が満たされたから一時的に気分が良くなっているか(自己肯定感がある・高い)、・欲望が満たされなかったから気分が悪くなっているか(自己肯定感がない・低い)、のどちらかの心理状態を、日常生活の中で揺れ動いている
点を取りたいから勉強をするのではなくて(点を取って他者よりも上に立ちたいという欲望ではなくて)、この世の中の仕組みを理解し(てあげ)たいから勉強をする(理解をしてあげる、知識を身につけて役に立てるという理性である)ことだ。点数がとれるかどうかは、そ
日本を含む先進国で精神疾患が多い理由は、欲望(承認欲、金銭欲、名誉欲など)を満たすことが人生の幸福である、という価値観が推奨され広く浸透しているからです。しかし、幸運に恵まれ(続け)ない限りは、欲望を満たし続けることはできないので、欲望の幸福の屋台骨
○行為だって、自分の欲望を満たすからではなく、□の役に立つという理性を満たす気持ちでやることだ。□を理解する・□に優しくする・□に興味を持つ・□に愛を感じてもらう・□にひとりではないと感じてもらう。○欲は、欲望なので苦痛と不幸にしかならない。
欲望は苦痛しか生まないから捨て続けること。この世の全て(外界から自分に入ってくるものは)利己的・欲望的なものだ。よって幸運や他者課題に恵まれなければ、欲望の不満の苦痛により不幸(欲望を満たせない自分には価値がないと思う状態)となる。利他的・理性的
欲望とは、欲望の苦痛を自分に与えて、欲望の理想へ向かう行動を強制させ続ける仕組みである。そして、欲望の理想を獲得するには、幸運や他者の評価・人脈などの他者課題が必要となる。よって、人間は、生きている限り、欲望の苦痛に苛まれ続ける。生まれながらに
!欲望は苦痛になるので、勝ち負けは考えない。負け続けることもあるのが当たり前の事実だと現実を受け入れる。苦しみたくなくば欲望を捨てよ。!自分の技量を実行すること、技量を確認することだけを快感とする。技量が行えれば(行えなければ)、その結果で勝とうが
この世の全て(外界から自分に入ってくるもの)は利己的なもので溢れている。よって幸運がなければ、欲望の不満の苦痛により不幸となる。利他的なものとは、自分から外界に対して出していくものだけだ。自分の意志と善の活動により、役に立てる、理解してあげる、優
現代社会で各種ハラスメントやうつ病患者が増えている理由について、そのメカニズムを以下に記載しておく。■人は不満があれば簡単に他責や自責をしてしまう他者からの関心、注目、評価をもらえず、承認欲求が満たされないと、人から注目されない自分には価値がな
幸福になるというのに、愛嬌やコミュ力が必要だと考えていると、運悪く自分より愛嬌や能力がある他者が出てきたり、運良く理解者があらわれなかったり、自分が愛嬌や能力を保てなくなったら、幸福の屋台骨が崩れて、すぐに不幸の沼に沈むというのに、そんな(承認欲求という
円安も増税も貧困も、自分では制御できない外的要因である。自分の力が及ばない運要素に頼るものについて悩んでも仕方がないし、不満をためるだけ思考と時間の損だ。①利己の幸運があったことに感謝する②利己は捨てる(幸運がある理想の諦め、幸運がない現実の受
■他責他者を責めて(下げて)、自分の方が特別に優れていると思い、他者の関心(尊敬、恐れ)を引こうとする承認欲求の表れ■自責自分を責めて(下げて)、自分のことを特別に悲劇的だと思い、他者の関心(同情、憐れみ)を引こうとする承認欲求の表れ■他責と
自己肯定感が低くなると、■他責として、他者を責めて、他者にマウントを取ろうとする。これは、他者の上に立って、優位者として、特別な注目や承認(尊敬、恐れ)を得たい、という承認欲求の表れである。■自責として、自分を責めて、他者から関心を引こうとする。