無の荒野を徹底しよう。無の荒野(自分にとって都合のいいものが与えられることは無い=欲の諦め=欲の否定の打ち消し)を徹底して初めて、目を凝らして(感覚を細部/ディティールまで研ぎ澄まして)、詳細を詰めていけば、小さな緑(善=肯定)を見つけることができる
無の荒野を徹底しよう。無の荒野(自分にとって都合のいいものが与えられることは無い=欲の諦め=欲の否定の打ち消し)を徹底して初めて、目を凝らして(感覚を細部/ディティールまで研ぎ澄まして)、詳細を詰めていけば、小さな緑(善=肯定)を見つけることができる
自分の置かれている現実そのものを否定しないこと(個別事象の認識だけに囚われないこと)。この行為をやることで、自分にとって都合のいいものが与えられることはない、と感じること。自己否定のみがあること。(若いときは、自己否定→自己防衛→他者否定→承認
(0)無を認識する。(1)無を否定するとしても、(2)無を否定せず、無を受け入れる。 無を受け入れて、何も無いことを認めきる。(3)何も無い状態で、それでも、感覚を細部まで研ぎ澄まし、か細い善さが見出せるなら、それがささやかな肯定となる。
頑張ったからといって、結果や評価につながるとは限らない。結果や評価には、他者の運と才能の運が必須だ。そして、運の占める要素は努力の要素より格段に大きい(運が9割、努力が1割)。むしろ頑張らないといけないという『現実を否定する気持ち』が、苦しみを生み、
やす子さんの4/18コメント⬇"何かに対して過剰にアンチしてる人嫌いな人にわざわざ時間使うのもったいなさすぎる。その時間、自分のために使った方が絶対良いと思うんだ〜嫌いな人がいるならミュートなりブロックなりして見なきゃいいのよ😀"について⬇や
自己愛は、『自己否定の苦』と『他者否定の毒』が表面化した『無自覚の呪い』だから、どこに行っても、誰に対しても、無意識に『他責=積極的攻撃により、他者を攻撃したり(例:自慢や悪口)』、『自責=受動的攻撃により、他者に負担をかけてしまう(例:過度な自虐や自己
無意識が(自己に関わる顕示物を)表に出したいと焦る/急かす⬇❌表に出そうとするのは、他責の欲だから、それは止めよう⬇○表に出そうとするのは、行動の善としよう⬇◎自分が(顕示物を)理解するのは、感覚の善としよう⬇◎自分が(顕示物を)理解する
0.認識する⬇1.認識したものを否定する⬇2.認識したもののディティール(認識した他者の心理、自分の心理のディティール)を把握して、仕方がないと受け入れる⬇3.感覚の善→ディティール 行動の善→ディティールを詰めれば、善さも増え(肯定感とな)る
欲(否定と期待)を煽る者が、最も欲(否定と期待)の苦しみを感じている。期待とは、未来への期待=現実の否定である。自己愛の人間と関わらないことができているのは、ひとつの奇跡的幸運である。自己愛と見た目ばかり大きい人間が(中身は自己否定と他者否定
期待とは、未来への期待=現実の否定である。否定(期待)を煽られる者もそうだが、否定(期待)を煽る者が、一番否定に苦しんでいる。
職場において、他者と接すると、他者と自分の関係性を認識してしまい、否定や期待の気持ち(承認欲の理想と現実のギャップの気持ち)が生まれる。(期待とは、期待どおりにならないなら否定に帰着するため、否定の予約である)否定(や期待)は本能で避けられないが、
無意識(自律神経系)の冷静化/沈静化には、セロトニンの回復が重要だとしても、その(受容への)方向性については、意識の(中庸へ向かう)働きが必要になる。
やる気が起きないとき=無意識が否定よりで辛いときは、(理性が考えても、何もできないので)さっさと帰ろう。エネルギー切れなのか、何らか否定の脳内物質が脳髄に溜まるからなのか(セロトニンの欠乏なのか)、それは分からないが、脳内環境が回復するまで=『特別な
①無意識が否定をする ②意識が受容する ③意識が肯定する◇否定についての『新しい見識』がある=特別な他者も無いし、特別な自分も無いことに、毎回改めて気づき続ける→無意識が納得する→受容(受容の冷静の後に)◇肯定についての『新しい見識』があ
人生とは、死ぬまで・帰納と・演繹を繰り返すこと。即ち、葉っぱ(個別事象)から根っこ(一般原則)を説明する(帰納)根っこ(一般原則)から葉っぱ(個別事象)を予測する(演繹)⬇欲望の否定の葉っぱから、受容の根っこを見る(帰納=中庸で受容)
欲望が個別事象を否定する→否定に苦しむ →運があれば欲望の肯定となる→一時的な肯定の嬉しさとなる=肯定のレベルが上がる=運の必要レベルが上がる→欲望の肯定が難しくなる →時間が経てば否定を忘却する→否定の苦しみを忘れる⬇中庸によって、個別事象
『主:帰納』(よく有る既定の)個別事象に対する一般原則の当てはめ(帰納による理由=理論の説明)『副:演繹』一般原則からの(まだ未定の)個別事象の推定(演繹による予測=事象の説明)帰納は、(よく有る否定事例の)受容なので、納得できるが、面白く
①否定することが常であっても、(現実とは、常に、欲望の思うようにならないようにできているので、否定するのは当たり前だ)②いったん、受容すること、そうなるのは仕方がないと受け入れることに専念しよう(受容=中庸の帰納に専念しよう)③善い行いで善さを生
否定の苦しみを受容するには、より広い概念を把握・イメージして、その広い範囲のことを善いも悪いも言わずに、受け入れるとよく、一旦は、受容に専念しよう。冷静さを取り戻した後に、自分の感覚の善さと行動の善さのみを求めよう欲望の理想を常に求めがちだが、
『問い』自己否定を覚悟してまで、この苦労(※※※※※)をする理由は?苦労によって、自己否定があって、苦労を受け入れて、自己受容して、苦労して善い行いをして、自己肯定することなら、他のことでも実践できるのではないか(他のことをやったほうが、善の形
孤独を悪いものだと捉えて(否定して)耐えるんじゃなくて、孤独は仕方がないと受け入れることだ。この孤独の受け入れをしないと、否定の苦しみ(生きづらさ)でいずれ狂ってしまう(ちなみにこの受け入れは、独身だろうが既婚だろうが関係なくやるべきだ)。孤独とい
否定の苦なくして、受容の楽はあり得ないし、善があってこそ肯定の幸がある。だから心のプロセスとして否定はあってしかるべきで、(心の作用の)最初の工程にあることも当たり前だ。(平坦では、変化=神経的な刺激=脳内物質の放出もまた生まれない)心は、最
心の安定化のための3つのプロセス(PDF資料)
ーー否定→受容→肯定ーー①現実を、無意識が、欲望が否定したり肯定(=期待)したりしてしまうとしても、(たえがたい否定と肯定)現実=客観的事実には悪いも善いもないから、②現実を、意識的に、理性的に、否定も肯定もしないこと現実を受容
【問い】なぜ、人は、「認識した事実」を、(事実自体には善いも悪いもないのにもかかわらず)無意識に、否定してしまうのか※※認識した事実=現実を、悪いものだ、そんなはずが無い、有るべきでない、問題だ、善くないものだ、と捉えてしまうこと【答え】人間(
<自己愛の心理>自己否定(の苦) → 他者否定(の毒)= 自己愛 → ・外向的性格→他責(自慢、悪口:他者攻撃)=優越(承認欲)の自己肯定=障害傾向は高い・内向的性格→自責(自虐、熱愛:自己犠牲)=注目(承認欲)の自己肯定=障害傾向は低い(が注目が
トランプはドル高は嫌なので、円高にするはず。一般的には、円高=株安だから、下がるまで待てばいい(下げの叫喚が聞こえなくなる=株式は怖いものだ・手を出すべきでないという雰囲気/株には手を出しにくい感がある/株式をやる人が変わり者扱いされるまでね)。
キャリーしてる側=動きいいけど(味方のフォローが弱いので)負けやすい。→自分よりも強い味方はいないから、頑張らないとだし、(エースである)自分のミスは直ちに負け筋になるキャリーされてる側=沼ってるけど(味方が強くて)勝てるってことだろう。→
帰納により、一般原則を考察し、結論を考え続けるのが哲学(=結論に疑問を抱き続け、イデアという究極の答え・原理に至るまで永遠に考え知り続けること)帰納により、一般原則を考察した結果、全てを神様のせい(思し召し)だと結論づけたのが宗教(=考えるのを辞めた
異世界転生は、(全てではないとしても)大抵は、現実世界ではパッとしない平凡or無能で評価されない主人公が、異世界転生して、・実は自分は特別であるとか・実は自分には隠れた才能がある・実は自分は特殊な能力があることを表現し(て、それを同じようにパッとし
一度下がったものは(人間の心の否定の作用の方が強いから=ネガティビティバイアス)、元へ上がるのは時間がかかるだろう。下がるのは(否定の作用によって)容易い(ので上がるのはゆっくりだが、暴落はすぐだ)。トランプの関税戦争は一過性ではない(はずな)の
現実の否定・自己否定→自分が感じる苦 =生き苦しさ・他者否定→他者に与える毒 =他者攻撃 =優越の肯定感の欲求と 注目の肯定感の欲求 →承認欲求を満たす行為 =他責的行為(優越) ・自分を上げる行為 =自慢、ギャ
客観的事実には「悪い」も「善い」もない。「悪い(否定)」、「善い(肯定)」、「何とも思わない(平常)」の、いずれかを選ぶのは、主観的感想(心の作用)に過ぎない。そして、心の作用には「欲望」と「理性」の2つの要素ある。 《①欲望により必ず「否定」を選択してしまい
自己愛があると、その承認欲求の肯定感を求めるが故の他責性と自責性により、周囲から孤立するのは仕方がない。自己愛(性パーソナリティ障害)とは、自己否定が強いあまりに、他者を否定することで、相対的に自己肯定をしようとする病気のこと。自己愛に関わると
哲学とは、他人の考え方を見て面白いと感じるものではなく、自分で考えることで初めて面白くなるものなので、他者の考え方を見る者がいない(少ない)のは当たり前だ(他人の考え方は、自分が考える際の材料に過ぎない)哲学とは、自分で考えることだけで面白いから、
○○(=SNSでリア充・幸せアピール、誹謗中傷などをして、閲覧数を稼ごうとしている人の名前)は、自己否定感が強くて、その(生き)苦しさを、(自分を上げるリア充アピールや他者を下げる悪口※で注目を浴びて)承認欲求を満たして誤魔化そうとしているところが、他責的
勝つことも負けることも、強いことも弱いことも、皆同じ。否定することも肯定することもない。ただ、そういう(客観的な)事実であるだけだ。その中で肯定を見出すのは、善いことをすることと、その善さのみである善く見ることができれば嬉しいし、善く分かれば
万事(現象)を一事(理論)にするのが帰納 →学習一事(理論)を万事(現象)にするのが演繹 →実践【演繹法と帰納法の違い】帰納法は個別事例から一般原則を導きだすのに対して、演繹法は一般原則や理論から個別の結論を導きだす
「どうでもいい」という言葉には、2つの種類(否定的なものと受容的なもの)があり、「否定のどうでもいい」ではなく、「受容のどうでもいい」としよう。「受容のどうでもいい」=どう(なって)でも(それは、自分の意識でコントロールできるものではないので
収入の低い業種や安いサービスなどのお金の出入りが少ない&安定していない業界というのは、欲望(金銭欲)の思うようにならない現実の否定に紐付く「自己否定(とその苦しみ)に囚われた人」が多いので、「安易に他者否定をする攻撃的な危うい人」に出くわす可能性も高くなる
日本人は「同情心が低い」 困っているのは「自業自得」と考える心理https://www.asahi.com/sp/articles/AST3V20ZRT3VULLI004M.html-----現代日本の人間は、幼少期から(学歴や容姿などで)他者との競争に曝され過ぎた結果、自己否定感が強く、常に生き苦しさを
嫌われてもいいと考えるのではなく、(結果として)嫌われるのは当たり前の事実だから仕方がないと受け入れることだ。嫌われてもいいという言葉は、表現上は同じに見えても、心の内面では2種類の考え方があって、①嫌われる現実を、思いどおりにならないのは嫌だから、
自己否定の穴は、そこら中にあって、加えてこの穴には底がない。穴にはまって、底闇に囚われる前に(自己を否定しないことで)抜け出そう。善く生きて、生じた善さによって自己肯定の丘を築こう。
哲学とは、物事の原理(イデア)を考察し、イメージ(イデアのコピー)として描き出すことでもある(そして、善(イデア)に意識を向かわせる教化のイメージを描き作ること)。物事のイメージが、深い考察によって、描ければ、そのためには[格物致知]が必要であるし
認識を善くして、(生じた善さで)自己を肯定するのみであって、その(認識を善くして、善さで自己を肯定した後の)結果として、(何らかの他者運や才能運が揃ったおかげで、善さが評価されるという)高みの状態になるのであれば問題はないが、高みを目指すべき、という
何でも嫉妬、批判、マウント、中傷、ハラスメントして、他者否定する人・他罰的な人は、そのうち他者から避けられて、孤立して、居場所がなくなって、姿を消す(か、消えなくても、独りでは身動きが取れなくなる)ので、(脅威にはなりえないから)放っておきましょう
YouTubeは、欲望の病苦(欲望と反中庸を煽るコンテンツ)の見本市だから、無意識に見ていると、心の中庸を失って、否定の苦しみに囚われたままになりやすい。無意識的にだらだら見ていると、どんどん自己肯定感が下がってしまうので止めよう。逆に、中庸を意識して見
自殺とは、究極の自己否定である。自己否定とは、自分のいる現実の否定であって、現実にいる他者の否定でもある。よって、自殺とは、究極の(自分に近しい)他者への否定となる。自殺によって一番ダメージがあるのは、自殺した人が大切だと思っていた(好意を持って
①何でも無意識的に否定から入るからといって、そのまま否定していると、生き苦しく、進歩もなく、相対的な退化となるだろう。②何でも意識的に(否定せずに)受容して、③何でも善く利用するのが、(自分の肯定感のためには)一番善いことだ。全ての新しい物事の
①帰納・・・現象(個別事例・結果)から、理論(普遍法則・原因)を導出する・・・・(現象)となるのは(理論)だからだろう→欲望の万事(否定の事例)から、中庸(受容の手順)と善(肯定の手順)の一理を導く②演繹・・・理論(普遍法則・原因)から、現象(個別
若い女性は、・若さ(年齢と経験での優位が取れる期待=承認欲が満たせる期待)と・性(性欲を満たせる期待)が有るから、惹かれる人が多くなる(特に欲望に従ったままの危うい人が集まる)のは、当たり前。おじさん(おばさん)は、・若さも・性も無いから
謙虚とは、現実の自分への過剰な期待を、自ら落として、中庸に従って、現実に合わせ、否定(自己否定や他者否定)を生ま(せず、苦を生ま)ないようにする振る舞いをいう現実の自分を、自ら過剰に落とすことは、中庸に反しており、ただの自己否定であって、否定による
肯定の幸となる確実な方法は・無と中庸による平常心の実践と、・善による肯定感の実践のみしかない。全ては、主体の、主観の、心の、無意識と意識の、欲望と理性の、人心と道心の、認識した事実の受け取り方=事実認識によって、「事実認識→否定の苦→無→肯定
心(人心と道心)の認識についての考察。 [定義] 心 =人間の精神、心理 人心=欲望、無意識 道心=理性、意識《人心は必ず否定から入る》①否定⬇ ②⬆中庸 ③⬆善人心は、必ずまず否定から入り、道心は、中庸をして、善をする↑
ただ(欲望に従って)生きるのではなく、=中庸により平常心とすること=欲望の作用を理性の作用で打ち消すこと=欲望の無意識の作用・結果を期待する(否定と苦を予約すること)・結果を否定する(苦を生むこと)を理性の作用によって、意識して・結
『大学』第三章ー身を修むるはその心を正すに在りー(怒りや恐れや執着や不安が無く)心がしっかり正常に落ちついていないと、何かを視てもはっきりとは見えず、何かを聞いてもはっきりとは聞こえず、何かを食べてもその味が分からない。(これでは身の修めようがな
自己愛て、障害者本人の持つ『自己否定』の強さの裏返しなんよ。自己否定感が強くて苦しいから、自分自身を守ることに必死(で脳のリソースの大部分を使っているから、話が通じない)んだわ。だから、自己否定の苦しみを和らげるために、自分の話(自己肯定できる自
勝って気持ち良くなりたいではなく、平常心を保ち、(昨日よりも)善くなるために/善さを認識するために行う。『中庸(平常心)の実践と、善の実践が目的』このことは、中庸への挑戦でもあるし、(平常心への挑戦)善への挑戦でもある意識して、
『平常心:心の過不及がないこと(心の中庸)』欲望が・結果を期待する・結果を否定するとしても、理性は・結果を期待しない・結果を否定しないとして平常心を得る。『善の考察』理性は①主体が、善く捉えて、(昨日よりも)善さが捉え
求めるものではない意識して、(主体が認識する力を、主体が客体へ働きかける力=貢献する力を)善くするだけだ求めるものがある結果を期待すれば求めるものがない結果を否定して苦が生じ、平常心ではいられなくなる何かしら良い成果があったとしても
朱子の『中庸章句序 第三節』に云われる、(一句)人心(二句)道心(三句)これ精これ一(精密に考え純一につとめる)(四句)中を執れとは、どんな知者でも愚者でも心には(一句)人心(欲望:偏りのある、危険なもの、情)と(二句)道心(理性:
(1)都合の良いいことがあると(欲望が満たされると:良いものが与えられると)・欲望の肯定感が生じる ↓・欲望の水準が上がる(期待する) ↓現実の水準は元のままなので・欲望の水準と比べて、現実の水準が低いから、無意識の否定感が生じる(否
《退屈:面白いことがない》欲望は無意識に、面白いものが・有ることを期待する・無いことを否定する理性は意識して、面白いものが・有ることを期待しない・無いことを否定しない面白いことがなくとも、これを受け入れて、苦を予防し、苦を消して、
自分の精神(無意識・意識)の中に、反対の作用を、意識して認識させるだけでも、平常心に近づき、苦しみが和らぐ。《欲望の作用:無意識》(1)良いものが ・有ることを期待する ・無いことを否定する(2)悪いものが ・無いことを期待する ・有ること
勝負をすると、勝利を期待して敗北を否定して、中庸が乱れて、情緒が不安定になる。《欲望による否定と苦(他者否定の毒、自己否定の辛)》欲望の作用によって、・勝利を期待する(苦の予約)・敗北を否定する(苦の発生)となり、否定の苦となる(他者否定でイ
意識は期待しない、意識は否定しない(受容する)、意識の善で肯定する<無(無常と無我)のイメージ> 客体 → 〇〇(欲しいもの) → 主体 欲望・・〇〇が欲しい(与えられたい)と思う本能◇欲しい〇〇が客体(他者)から主体(自分)に対して与えら
中庸の、・期待せずとは、欲の苦(否定)の予防であり、・否定せずとは、欲の苦(否定)の治療である善とは、理の楽(肯定)の増進である欲の苦:否定、不幸、自己否定の痛、他者否定の毒↕ ↕ ↕ ↕ ↕理の楽:肯定、幸福、自己肯定の快、他者肯
無意識との対話というのは、・無意識に刺さった小骨(自己否定の痛みの原因)を、・意識との対話で探り当てて(万事に充てるため)、・自己否定の痛みを取り除く(中庸の一理:無いを否定しない・有るを期待しない)ことだ。体が痛いときに、痛い箇所を探して、
《苦しさの理由》朝目覚めると必ず苦しさを感じるのは、寝た状態(無意識の状態)で、無意識(欲望の作用)で、欲望が、勝手に、・(都合のいいことが有ることを)期待して、・(都合のいいことが無いことを)否定しているから。寝ると理性(意識)が働かず
認識の善(六根清浄)と肯定の幸六根とは、自分の理性が御せる6つの感覚のこと。眼・耳・鼻・舌・身・意。①眼:眼で善く見えると、今まで見えていなかったモノが見えて、嬉しい=肯定感②耳:耳で善く聞けると、今まで聞こえていなかったモノが聞こえて、嬉しい
自分が、誰かに対し、そのような善くないことをした、ということは、自分が、誰かから、そうような善くないことをされるかもしれない、という不安の呪い(因果応報の呪い)にかかり、永劫苦しむことになります。闇を覗き苦しみを与えたら、闇からも覗かれ苦しみを与え
毒(反中庸の自己否定と他者否定)の多い世の中で、毒のないもの(自己否定と他者否定がない)を表現しましょう。だれでも、常に、欲望の毒(自己否定・他者否定&その苦しみ)は持つので、常に、理性で、意識して、中庸の期待せず・否定せずによって、欲望を中和する
ヤフコメは、弱者に厳しいコトを書くとうーん(=共感しない)が多くなり、強者に厳しいコトを書くと共感したが増えますつまりはそういうこと(ヤフコメは「自分が社会的弱者であると意識している又は無意識にそう思っている人が多数派である」ということ)なんです...
親が毒だと、子も毒となるし、子が毒でやられることになる。(注釈)・毒・・・自己否定と他者否定(反中庸、不善)の毒、その苦しみ(承認欲、自己否定=自責、他者否定=他責・他者攻撃・他者負担、プライド)・毒でやられる・・・自己否定と他者否定により自
自分の心の万事の不善を、中庸と善(誠)とするまで、不善の苦しみは死ぬまで続くだろう。《中庸》負けることを否定しない(勝つことを期待しない)⇒否定して、どうでもいいと諦めない(逃避しない、逃げない)《誠、善》善く見る 見る工夫は∞にある
理性の善(幸せ)のみであること□欲望の幸せは、もう手に入りません。 欲望により「無意識に」ただ生きるのは諦めましょう。「都合のよい客体」も「無く」、「特別な主体」も「無く」、「欲望の対象物(モノ)」も「無い状態(コト)」が当たり前の事実なので
理性の善(幸せ)のみであること□欲望の幸せは、もう手に入りません。 欲望は諦めましょう。「都合のよい客体」も「無く」、「特別な主体」も「無く」、「欲望の対象物(モノ)」も「無い状態(コト)」が当たり前の事実なので、①(無いと確定した)モノ
《中庸》欲望(無意識:○○を求める本能)がある限り、欲望は、・現実に○○が有ることを期待(超過)して・現実に○○が無いことを否定(不足)して(思いどおりにならず)否定してしまうから、価値がないと思い、苦しむ。理性(意識)で《無(思いどおりの他
無(客体の無と主体の無)と中庸(期待せず・否定せず)=苦を避け・苦を消す最高善(理性の善の肯定感)=幸となる理性の善認識の善(六根の善=善く見れる、善く聞ける、善く捉える、善く分かる)の肯定感・善く分かれば、こういうことだったんだと面白
無(客体と主体の無)と中庸(無意識-欲望と意識-理性の期待-超過、否定-不足のバランス)の結びつけ「(無いから)期待しない」とは、《無意識が、○○が有ることを『期待した』としても、都合のいい『他者の運も自分の才能の運も無い』ので、○○は無いから、
無意識(欲望)のままだと※、「運に頼り」、思いどおりにいかないから「現実を否定する」こととなり、自己肯定感が低くなって、苦しむので、意識(理性)によって※、「自分にできる」「善いことをする」ことへ目的を修正して、与えた善さ(価値)により、自己肯定感を
幸せを目指すと不幸になるのは「周りとの比較」のせいではなかったー川勝康弘ーhttps://nazology.kusuguru.co.jp/archives/172392「読んだ感想」そもそも幸せには2種類あるという(古代ギリシャのソクラテスの時代から言われている)視点が欠けていると思う。
ヤフコメの評価は、自分の価値観にあう(共感した)、自分の価値観にあう新たな気づきがあった(なるほど)、自分の価値観にあわない(うーん)、のどれかという意味だ加えて、悲しいことに、自分の価値観が「自分と違う者を攻めたり、自分よりも弱い者(経済的弱者、立場
①苦しいのは、現実を否定しているからだ。一切皆苦とは、現実の否定の苦しみである。欲望(=100点)から見た現実(の無=0点)の否定(=マイナスの自己評価)であるから、(自分には価値がないと思い)苦しい。※現実は、欲望から常に離れているから、これ以上
善さを与えられるために参加するなら、そんな(思いどおりの)ものは(存在し)無いので、思いどおりに与えられない現実を否定して苦しむことになる。善さを与えるために参加するなら、善いことをした場合に限り、善さで現実を肯定して幸福を感じることができる。
気の合わない人とは、縁を切ってしまえばいいという、現実を否定する考え方では、否定の苦しみが生じてしまいます。また、(現実を否定したままですと)逆に自分もそういう風に周りに扱われているという自責(疑心暗鬼や被害妄想)になってしまいます。嫌な人とは縁
会話も他責の一種(他者の注目を自分に引かせる行為=他者の時間や労力の負担になる行為)となる。よって、他者の負担をカバーできるような、善さや善いことのみを言う・行う(善い言い方も含む)必要がある。善さや善いものが無いなら(善さを与えないなら)黙って
現実を否定する苦しみを消して、現実を善さで肯定する幸福の方法(ただ生きるのではなく、善く生きること)①現実の都合が悪いではなく(現実の無を否定するのではなく)②現実に都合が良いものは無いとする(現実の無を受容する)③現実には善さが有るし、
人は、悩み苦しみ抜いた後にやっと気づくんだよこの世には(自分の思いどおりになるものなんて全て)無いんだとね無いことが分かって始めて、この世に有るものの善さに気づく。だから善さに笑えるようになるそれに気づくまでに、悩みと苦しみのあまり、おかしくな
◇現実を否定するから苦しむ◇現実を否定しているから(現実の自分を否定しているから=自己肯定感が低い・マイナスであるから)=現実を受け入れていないから、苦しむ。現実とは:客観的事実(個人の好みに関係せずに決まること)否定とは:主観的感想(個人の好み
酔うと脳機能が麻痺し(低下し)て、本能的な苦しみの機能(旧皮質・脳髄)も鈍くなる、から苦しみを忘れることができる(=陽気になる)。酔いが覚めれば(脳機能が復活して)苦しみも戻るので、苦しみを忘れるために酒(=脳神経系に麻痺作用のある広義の薬物)を摂取
ーロシアが戦争と経済制裁があるのに好景気だと報道されていることについてー戦争って、無能を(金銭で釣って)戦場送りにして合法的に処分できるし、戦時下だからという理由で経済的弱者への社会福祉や支援を減ら(して、軍事事業を始めとした公共投資にまわ)すことが
メンタルをケアする(苦しみを消す)ために、無意識を納得させるには、無意識に善さを気づかせる必要がある。無意識に気づかせるは、時間はかかるが、問題となる現実の(ひとつでもいいので深い)理由を・主観的感想(好き嫌い)を抜きにして・客観的事実(現実に起
苦しみ(心の痛み)があると、辛い(ストレス)ので、生活や行動に支障が出ることがないように苦しみ(心の痛み)消すことが必要になる苦しみの原因は、思いどおりにいかない現実を否定している=自分を否定している=自己肯定感がマイナスになっている、から。
善いことのみを行うのが(自分の幸せにとって)いいことです。 人生の結果は(みんないずれ死ぬので)無ですが、(人生の過程において)善いことした場合に限り、善さ(価値)が残(り、自己の価値=自己肯定感をプラスにできる=幸せになることができ)るからです。
ただ(結果のために)生きるのではなく、(人生の過程において)善く生きること人生は原則として無であるが(すべていずれは死ぬから)、善く生きれば、善さ・価値が残るから、人生は無駄ではない(無ではあるが駄目ではない)善く生きれば、善さ・価値が生まれ
《善いこと》知性の善さ:未知を既知とする活動(善の目的を伴う研究や調査)が、知性の善さである認識できていないことを、認識する活動(善の目的を伴う哲学的な思索)、が知性にとって善いことである肉体の善さ:運動する、体を鍛える、睡眠を取る、栄養を取る
ーゲームと苦しみーこのゲームは苦しみを煽ることばかりだ。なぜなら、勝負に負けた結果、負ければ無どころかマイナスだから、・他者評価の無と負の苦しみ(負けると無点どころか減点される)・他者の無の苦しみ(相手運と味方運が無い)・自分の無の苦しみ(自分
ただ生きるのではなく、善く生きること〈人生の目的〉人生の目的は、幸福である=幸福とは、自分に善さ・価値があると感じている状態=自己肯定感が有る=善さ・価値に気づいている 善さ・価値を与えている=善く生きる=善い行いをする:活動による善
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無の荒野を徹底しよう。無の荒野(自分にとって都合のいいものが与えられることは無い=欲の諦め=欲の否定の打ち消し)を徹底して初めて、目を凝らして(感覚を細部/ディティールまで研ぎ澄まして)、詳細を詰めていけば、小さな緑(善=肯定)を見つけることができる
自分の置かれている現実そのものを否定しないこと(個別事象の認識だけに囚われないこと)。この行為をやることで、自分にとって都合のいいものが与えられることはない、と感じること。自己否定のみがあること。(若いときは、自己否定→自己防衛→他者否定→承認
(0)無を認識する。(1)無を否定するとしても、(2)無を否定せず、無を受け入れる。 無を受け入れて、何も無いことを認めきる。(3)何も無い状態で、それでも、感覚を細部まで研ぎ澄まし、か細い善さが見出せるなら、それがささやかな肯定となる。
頑張ったからといって、結果や評価につながるとは限らない。結果や評価には、他者の運と才能の運が必須だ。そして、運の占める要素は努力の要素より格段に大きい(運が9割、努力が1割)。むしろ頑張らないといけないという『現実を否定する気持ち』が、苦しみを生み、
やす子さんの4/18コメント⬇"何かに対して過剰にアンチしてる人嫌いな人にわざわざ時間使うのもったいなさすぎる。その時間、自分のために使った方が絶対良いと思うんだ〜嫌いな人がいるならミュートなりブロックなりして見なきゃいいのよ😀"について⬇や
自己愛は、『自己否定の苦』と『他者否定の毒』が表面化した『無自覚の呪い』だから、どこに行っても、誰に対しても、無意識に『他責=積極的攻撃により、他者を攻撃したり(例:自慢や悪口)』、『自責=受動的攻撃により、他者に負担をかけてしまう(例:過度な自虐や自己
無意識が(自己に関わる顕示物を)表に出したいと焦る/急かす⬇❌表に出そうとするのは、他責の欲だから、それは止めよう⬇○表に出そうとするのは、行動の善としよう⬇◎自分が(顕示物を)理解するのは、感覚の善としよう⬇◎自分が(顕示物を)理解する
0.認識する⬇1.認識したものを否定する⬇2.認識したもののディティール(認識した他者の心理、自分の心理のディティール)を把握して、仕方がないと受け入れる⬇3.感覚の善→ディティール 行動の善→ディティールを詰めれば、善さも増え(肯定感とな)る
欲(否定と期待)を煽る者が、最も欲(否定と期待)の苦しみを感じている。期待とは、未来への期待=現実の否定である。自己愛の人間と関わらないことができているのは、ひとつの奇跡的幸運である。自己愛と見た目ばかり大きい人間が(中身は自己否定と他者否定
期待とは、未来への期待=現実の否定である。否定(期待)を煽られる者もそうだが、否定(期待)を煽る者が、一番否定に苦しんでいる。
職場において、他者と接すると、他者と自分の関係性を認識してしまい、否定や期待の気持ち(承認欲の理想と現実のギャップの気持ち)が生まれる。(期待とは、期待どおりにならないなら否定に帰着するため、否定の予約である)否定(や期待)は本能で避けられないが、
無意識(自律神経系)の冷静化/沈静化には、セロトニンの回復が重要だとしても、その(受容への)方向性については、意識の(中庸へ向かう)働きが必要になる。
やる気が起きないとき=無意識が否定よりで辛いときは、(理性が考えても、何もできないので)さっさと帰ろう。エネルギー切れなのか、何らか否定の脳内物質が脳髄に溜まるからなのか(セロトニンの欠乏なのか)、それは分からないが、脳内環境が回復するまで=『特別な
①無意識が否定をする ②意識が受容する ③意識が肯定する◇否定についての『新しい見識』がある=特別な他者も無いし、特別な自分も無いことに、毎回改めて気づき続ける→無意識が納得する→受容(受容の冷静の後に)◇肯定についての『新しい見識』があ
人生とは、死ぬまで・帰納と・演繹を繰り返すこと。即ち、葉っぱ(個別事象)から根っこ(一般原則)を説明する(帰納)根っこ(一般原則)から葉っぱ(個別事象)を予測する(演繹)⬇欲望の否定の葉っぱから、受容の根っこを見る(帰納=中庸で受容)
欲望が個別事象を否定する→否定に苦しむ →運があれば欲望の肯定となる→一時的な肯定の嬉しさとなる=肯定のレベルが上がる=運の必要レベルが上がる→欲望の肯定が難しくなる →時間が経てば否定を忘却する→否定の苦しみを忘れる⬇中庸によって、個別事象
『主:帰納』(よく有る既定の)個別事象に対する一般原則の当てはめ(帰納による理由=理論の説明)『副:演繹』一般原則からの(まだ未定の)個別事象の推定(演繹による予測=事象の説明)帰納は、(よく有る否定事例の)受容なので、納得できるが、面白く
①否定することが常であっても、(現実とは、常に、欲望の思うようにならないようにできているので、否定するのは当たり前だ)②いったん、受容すること、そうなるのは仕方がないと受け入れることに専念しよう(受容=中庸の帰納に専念しよう)③善い行いで善さを生
否定の苦しみを受容するには、より広い概念を把握・イメージして、その広い範囲のことを善いも悪いも言わずに、受け入れるとよく、一旦は、受容に専念しよう。冷静さを取り戻した後に、自分の感覚の善さと行動の善さのみを求めよう欲望の理想を常に求めがちだが、
『問い』自己否定を覚悟してまで、この苦労(※※※※※)をする理由は?苦労によって、自己否定があって、苦労を受け入れて、自己受容して、苦労して善い行いをして、自己肯定することなら、他のことでも実践できるのではないか(他のことをやったほうが、善の形
おそらくあなたは、人から優しくされないから、自己肯定感が下がり、自分には価値がない、面白いことがない、何もいいことがない、居場所がない、と思い気持ちが沈んで辛いと感じているのです。対処法としては、まず、人が優しくしてくれないのは当たり前だと思い
レールから落っこちたら、レールから落っこちたことは事実として認め、そのような現実を当たり前のこととして受け入れよう。 落っこちたことを自分が責めても、周りから責められても、レールから落っこちた事実は変わらないからだ。大事なのはレールから落っこちた
悪口を言う人は、自分も同じように悪口を言われる存在であることを想定していないから、平気で悪口を言うのだ。どうして人を殺してはいけないのかと問う人は、(もし殺人が許されたなら)自分も人から殺されることを想定していないから、そのように問うのだ。人を責
弱者男性が救われない現実は、確かに存在するし、個人の力ではどうしようもないことだ。そもそも個人には弱者男性の持つ考え方すら変える力はない。それは他人の思考であり、他者課題なのだから。弱者男性とは、愛や優しさを与えられたいのに、(容姿、収入、地位、
当たり前でないもの、変わったもの(目新しいもの)は、それだけで現実化した理想であるから、(与えられる)幸せとなっており、語ることはあまりないのだ。与えられた快感(自己肯定感)だけだ。当たり前でないことがあったら、素直に、運良く(有り難く)与えられた
スルーすることとは、諦めることであるスルーすることとは、自分の力ではどうしようもないこと(他者課題、運)を、諦めることであるスルーすることとは、欲(欲望の理想、上下関係、優劣、与えられる、愛される、優しくされる)を捨てて、諦めて、(与えられないと
浅田真央さんは、愛したから(スケートを愛し、スケートを見る人に感動(愛)を与えたから)、(見る人に愛を与えた分だけ)愛されている。愛を人に与えずに、人から愛されることはない。もっと云うと人に愛を「与える」ことが第一で人から愛を「与えられる」こ
自分で、手足を使って、何かをやるとよい。勉強とは、自分の頭を使って、人にまつわる物事(貢献、役に立つこと、善)を知ってあげることだ。人を理解してあげることだ。リアルでやってこそ、以下の理想と現実のギャップが明確化されて、 理想:人の関係でうまく
幸福とはどのようなものだと思いますか幸福とは自分には価値があると思うことで、心の平穏を得ること、だ。①人から与えられたい欲は捨て(与えられなくていいと、過程を放棄するのでなく 与えられないのが当たり前だと、結果は運なのでうまくいかないのは仕
質問:ネットで不快なコメントを繰り返す人がいて、ついつい言い返してしまいます。どうしたら無視できるでしょうか。回答:基本的に現実社会では、特に匿名のネット上では、人の(些細であっても)ミスや解釈の違いにこだわって、マウントを(無意識的にでも)とろう
(自分が)評価されなくていいじゃなくて(人から)評価されないのが当たり前ということ勝たなくていいじゃなくて勝てない(こともある)のが当たり前ということ(負けることもあるのが当たり前ということ) 勝つかどうかは運だから 勝ち負けにこだわらなくていい
知ることとは、ある対象について知り、考察し、深く理解し続けてあげることである(愛をもって、対象に理解と認識を与えることである)それが理性的な意味での知ることだ。雑多な記事(情報)を広く読むことではない。そういう雑多記事を入り口として、その記事の
ゲームなどをプレイして、1回でも勝って、与えられてしまうと、その欲望の欲求を満たした快感(与えられたことで得られる快感)は非常に強いものなので、理性の欲求による快感(与えることで得られる快感)は、かすんで、物足りなくなってしまうのだ。そして、欲望の
一つの言葉(物事)にはすべて必ず2つの性質(相対する2元論というよりは、言葉から派生して2つに分かれる2側面の性質)がある。良い性質・悪い性質、理想・現実などだ。理想にも2つあり、欲望の理想と理性の理想だ。自己肯定感にも2種類ある①欲望の自己肯定感
前提として、運動による肉体的なしんどさは、精神的な苦しみではない。精神的な苦しみは、欲望が生まれている証拠だ。肉体的なしんどさで、精神的な苦しみを和らげることができる(気血水で脳のフレームレートを上げる(血液・体液の巡りをもって気を改善する)、精
人間の幸せ(幸福)には2つある①欲望を満たす幸せ・与えられる・知られる、理解される・愛される・優しくしてもらう・見てもらう・受動的与えられた分だけ、利己の分だけ、自分には価値があると思う快感の幸せ利己(欲望)の理想に現実が近づいた
欲望の問いは、すべて・今の私に-(理想)が与えられないのはどうしてか、となり、その答えは、すべて・今の私にー(理想)が与えられないのは当たり前(不快でない)である、となるだろう。そして、善のために、・今の私がー(理想)を与えればよいとなる。(自明
人や社会が優しくないのは当たり前です。なぜなら、社会にいる人は皆『(周りから自分に対して)優しくしてほしい』と思っているからです。この思いを承認欲といいます。本能なので誰でも持っています。みんな、優しさというベクトルが外から自分に向いているのです
夢を見るな、現実を見よ人に優しさを期待するな、優しくない現実に苦しくなる、優しくないのが当たり前、誰も人に優しくする余裕はない自分の優しさに期待しろ、優しい理想に嬉しくなれる、優しいのは特別で、人に優しくしたら喜びとなる
欲望を生まれさせるのに長けた人の発言は、あなたの心の中に、与えられたいという欲望を生み、焦りや苦しみを生み出す。こういう人たち(こういう人が発した情報も含む)は、世の中にはたくさんいて、お前の現実はこういう点で全く足りていないから、理想はこうだから