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2022/08/03

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  • 俳句は瞬間の感動が最も大切

                       作者の心の艶が具象的に表現されたものが俳句児島庸晃  私達の心には…襞(ひだ)…がある。その襞に多くの物がひっかかる。その時の感触を、私達は…感情…と呼んでいるのではないかとも私は思う。物事に共感するとそれそのものが自分自身の経験と重ね合わさる。そのことによって初めて生まれる感情…それが文芸である。あらゆる文芸の中で最も強く端的に表に出てくるのが短詩系である。その短詩系の中において緊張感を伴うのが俳句である。この5・7・5の定型では無駄な言葉は許されない。ここには臨場感や緊迫感がこめられていなければ読者の心を呼び込むことは出来ないのだ。心の襞に物事が触れた瞬間の新鮮な感動。それが俳句の最も大切な瞬間なのである。多くの俳人は物事に感動する心を忘れている。  感動するって...俳句は瞬間の感動が最も大切

  • 日々の日常生活より心に残る句

    私の句集「風のあり」抜粋児島庸晃    こころの風景①(平成20年6月8日記述)  風音の足音に似て五月くる  この句は仕事と日々の生活に疲れ果てていた平成20年の句である。たまたま休日がとれた。神戸北野町へ心を安らげようと家を出る。阪神電車元町より北へ3キロ。坂を上り途中海を見る。神戸港が一面に。忽然と風が私へ寄ってくる。正に私の心を癒す五月の風。風音はリズムを奏でる。それは私の心を休める5月の風。また、新たな明日への力を貰って一歩一歩北野町の坂を下る。12年も前のことだが今も鮮明に頭に残る句である。  枯野には舟のかたちの風のあり  この句も平成20年の句である。残業が百時間を超える頃だった。とにかく私の身体を休めたくどうにかならないものかと思考する毎日だった。私の職場は神戸市垂水区施設の防災センター...日々の日常生活より心に残る句

  • 人の心を動かす俳句とは‥‥‥寄物陳思の心

              見えているものを使って見えてはいないものを表現児島庸晃  私達が毎日を日々暮らしている世界は目視出来る二次元の世界である。目視出来ている毎日の出来事や日々の生活風景に、何の疑問も持たず生活を繰り返しているのだが、これらは二次元の世界である。俳句を正しく理解しようと思えば、表現されたその一句は二次元の世界だけではないのである。人間の内面を表現しようとすれば二次元の見えている部分だけでは描ききることはできないのである。文芸の大きな用途とは、またどのようなメリットがあるのかをいま私は考える時間が多くなってきた。そこでいろんな文献を集めたのだが、俳句に関する部分では、殆どと言っていいほどないのである。俳句を成していることのメリットは人の暮らしの中における失った心の回復ではないかと思うのが私のメ...人の心を動かす俳句とは‥‥‥寄物陳思の心

  • 俳句を読むとき読者は何に注目するのか

                 人間の心を感じる言葉児島庸晃  そもそもわれわれ個人が本を読もうと思う時とはどんなときなのだろう。日常生活の中で、日々を満足に充たしている人はそのことだけで充分に毎日を過ごせるのだろうと私は思うのだが、だが暮らしの中で、ふあーっと一抹の空虚感を感じることはないだろうか。寂しさやつまらなさが心の何処かに留まってあることはないのだろうか。一個人では日々を満足には暮らせない時代に、いまはある。他人との心のコミニュケーションが上手くなされなければ、日々の生き方に躓く。心を豊かにしていなければ寂しさや悲しみが発生。精神状態が壊れる。そこで生き方を変えなければならないのだが、その精神の安定を保つためには知恵がいる。その源を得るのが読書であり、正常なる日々の感情のコントロールを保っていることが...俳句を読むとき読者は何に注目するのか

  • こころの散歩⑨2022年8月

      本日9号をお届けします。毎号皆様にお読みいただけるだけの温かい内容をとの思いで何時も編集をしています。その都度私の心をお届けしたくての個人誌ですので少しでも、ほーっと心を休ませる瞬間が、皆様にあればとの私の思いです。どうか気軽に読んでお心を休めて下さい。…毎号私の実直な素直心を届けられているのか…。皆様からのお声に励まされています。沢山のご感想と温まる励ましに、私の心中は生きている実感や充実をいただいています。私の真心は皆様の心を温かくしたい思いで一杯です。いま現実社会は何を信じ、何を頼りに生きてゆけばいいのか。社会そのものが混沌、汚れきって真面目に生きるに辛い毎日。政治の中心にいる人たちですら、国民を騙す時代。私の心が壊れないことを願った。あれもこれも人の心が壊れていて人間の価値観が問われる時である...こころの散歩⑨2022年8月

  • 俳句は感覚と言えど実感がなければ…

                  その句に純粋性がなければ実感ではない   児島庸晃    ずーっと考えていて未だに納得の出来ない事がある。感覚は鋭く新しい感覚なのに、その一句に共感出来ない時がある。どう考えてみても心が動かないのだ。そんなある日のことである。もっと単純な形に詩形を置き換えようと思ったときだった。主義主張を考えないで思ったままの心を述べようと気軽に気を抜くと自分自身が愉快に落ち着いた。そして思いついたのが次の句であった。  梅雨風の私語にぎやかに喋り行く庸晃  この私の句は素直な一句である。否、素直と言ううよりも純粋に私自身がなりきれていた心の句かもしれない。私性の強い句かもしれない。純粋な状態の心になりきれていたからこそ実感出来たのだろう。または純粋に心を保持していたから実感したのであろう。 ...俳句は感覚と言えど実感がなければ…

  • 川柳人…時実新子さん逝く

    私個人のメモリアルページ児島庸晃新子さん訃報その午後しぐれ雪庸晃こぼれるような笑顔はついに見られなかった。川柳作家時実新子さんの訃報は文壇を吹き抜け、その訃報のもたらす衝撃は川柳にとどまることはなかった。それは川柳といえども新子さんの作品は文学であったからだ。作家田辺聖子さんはその言葉のなかに真心を込めて語る。「川柳に女性のパワーを取り入れ、句品の高い新たな芸術として実らせた。開拓者として逆風もあったはずだが作品同様いつも明るく毅然としておられた」。川柳は文学なのだとみとめさせるまでの努力、それは「川柳は私です」といつも話して聞かせることを続けた結果なのだと思う。私が何時も語っている短詩形は私性の文学なのだと思うことの改革者でもあった。君は日の子われは月の子顔上げよ足裏に火を踏む恋のまっしぐら10日午前5...川柳人…時実新子さん逝く

  • 正述心緒は俳句ではなくて散文です

               あなたの俳句が正述心緒になってはいませんか児島庸晃  あなたが俳句の形式を選択したのであれば、全ての作品を俳句で書きましょう。最近目立って顕著になってきたのが、俳句を作っているあなたが、俳句作品ではなくなっていること。観念思考が先行して、意味だけが重要視され、説明言葉になっていて散文になってはいませんか。…これを正述心緒と言う。俳句は意味や観念から入ってはならない。あくまでも目視からの思考なのです。ところが面白い句を求め、思考だけが目立つ刺激的な印象の強い句が、俳句だと思い込んでいる俳人が増えてきている危惧を、私は強く思っているのですが…。もう一度俳句の基本に心を戻し寄物陳思にその思いを託さなければならない。私的思考を優先させるのであれば、全てを散文のスタイルで表現すればいいので何も...正述心緒は俳句ではなくて散文です

  • 俳句は瞬間の感動が最も大切

            作者の心の艶が具象的に表現されたものが俳句児島庸晃  私達の心には…襞(ひだ)…がある。その襞に多くの物がひっかかる。その時の感触を、私達は…感情…と呼んでいるのではないかとも私は思う。物事に共感するとそれそのものが自分自身の経験と重ね合わさる。そのことによって初めて生まれる感情…それが文芸である。あらゆる文芸の中で最も強く端的に表に出てくるのが短詩系である。その短詩系の中において緊張感を伴うのが俳句である。この5・7・5の定型では無駄な言葉は許されない。ここには臨場感や緊迫感がこめられていなければ読者の心を呼び込むことは出来ないのだ。心の襞に物事が触れた瞬間の新鮮な感動。それが俳句の最も大切な瞬間なのである。多くの俳人は物事に感動する心を忘れている。  感動するって…どんなことなのか?日...俳句は瞬間の感動が最も大切

  • ○前衛作品俳句考

    前衛俳句の意味するもの児島庸晃前衛俳句を論考するに及びよく聞かれることがある。その俳句たるやもう亡び去ってどこにもないではないかと、よく聞かれる。確かに…そのように正面切って詰められると答えに困ってしまうことがある。答えと言っても理論らしく説明したところで解ってもらえるような単純なものでないのが前衛だと思っているので別に気にはならない。ただ言えることは誰にでも作れるものではない句。過去より現在までにおいて誰も作ってはいない句、その人のみの独特の発想なり感受で、その人でなければ絶対作れない句が前衛俳句だと、私は思っているから現在も前衛俳句は人それぞれにいっぱいあると思いたい。ところで当時、物議をかもした前衛俳句と呼称された作品が如何なるものであったかを紹介することから論考に入りたいと思う。雨をひかる義眼の都...○前衛作品俳句考

  • 「物」俳句と「事」俳句‥‥俳句には二つの形

                 それぞれの句会における選句の違い児島庸晃  俳句を作っている人の殆どが、自作の句をどのようにみなさんは評価していただけるのかとの思いに日々苦心を重ねているのが、いま一つの大きな悩みになっているのではないだろうかとも私は思うようになってきた。‥‥と言うのも、その作者が作った同じ句を句会の座が異なると、入選したり、落選したり、と全く違う評価を受ける、このような体験はないだろうか。私はこの経験を60年以上も体験してきた。その心を満たさない体験に何時も心が折れる日々を経験してきた。一時は句作を辞めようかとも思う日もあった。  こんな私に心を満足させる出来事が発生するのである。「國文學」(學燈社1997年7月号)を開いた時だった。俳句には良し悪しは別にして二つ形があると言う内容の文章であっ...「物」俳句と「事」俳句‥‥俳句には二つの形

  • 俳句は「私」を表現する文芸である

                     「青玄」青春俳句をふりかえって    児島庸晃  俳句に関わり俳句に興味をもつ読者は俳句の何に興味があり、何に注目すのだろうか。連日、私の疑問はどんどん思考の深淵に嵌まりこんでいた。作っても作っても出来上がった私の俳句が、私に向かって、私から離れて行こうとするように、よそよそしく私に寄り付こうとはしないのだ。どれもこれも私を除け者にしようとするかにも私には思える日々。これをスランプと言うのかもしれない。俳句は作れるのだが、どれもこれまでの私の句ではないように思える。  ずーっと過去に遡り、私が俳句と接し始めた十代中期から二十代初めを思い出していた。この頃は出来上がった句が全て私自身であった。俳句イコール私であった。何が私の俳句の心を動かしていたのか、ふーっといまをふりかえ...俳句は「私」を表現する文芸である

  • 俳句の新しさとは何なのか…

              その一句の発想は作者の思考そのものなのだが             児島庸晃  最近になってしきりに考えるのは、俳句総合誌や結社誌、同人誌を拝見しても、どれもみんな横並びで心へ飛び込んでくる句の少ないのには驚く。…特にそんなふうに思って見ているのではないが、ここ5年ほど前から顕著になっているようにも私には思える。これは私も含めてではあるが、俳句を基本的に思考して何かが足りていないのではないかと私自身も思うようになった。何なのだろう。何故なのだろう。より多くの句を過去へ遡り読んでみた。だが、難しくてその理由はわからないが。悶々とする日々。過去へ振り返り俳句の歴史を辿ると、それなりに何かの変革が起こっていることがわかった。伝統俳句から現代俳句へ、その後は社会性俳句へ、前衛俳句へ、そして今は...俳句の新しさとは何なのか…

  • 物事がよく見えてくる時それはまさしく自分が純粋になれたときであろう。

    私個人のメモリアルページたとえれば寒の最中の海白し庸晃二四時間勤務のためJR甲子園口駅を朝6時に乗る。何時もと同じようにきまった時間にきまった仕草をする。そしてそのことを別に不思議とも考えない日々が続いていた。私達が生活している、その一日の出来事の中で心の中に飛び込んでくるような感動の一瞬はいったい一生のうちに何回あるのだろうか考えてみた。心をときめかして現実にぶつかっていった純粋さは、もう私の心の中にはないのかもしれない。…そう思いつつ最近話題になっているアニメーション監督の言葉を思い出していた。神山健治氏(40才)。「精霊の守り人」のアニメーションを作った監督である。「刃物の錆は砥石で落とす。人の錆は対話で落とす」。氏のデスクの傍に格言のように張られている言葉である。対話することによって人間の垢や毒を...物事がよく見えてくる時それはまさしく自分が純粋になれたときであろう。

  • わが思い出の神戸…北野坂

    私個人のメモリアルページ神戸は坂の街である。元町より下山手通り、中山手通り、山本通りを斜めに横切るとこのあたりより坂の道に出る。更に先へと坂を上ると北野町に出る。洋風建築のテラスがまぶしく輝く。風見鶏のある館が目に届く。かって私はここへ何回も鬱を棄てに来た。はるかぜにとびのる構え風見鶏庸晃人間関係に疲れ果て現実の社会にもついて行けず、身も心もボロボロになったとき一人きりの時間を求めて佇んでいた。20代後半の青春期をこの坂道を歩くことによって心を癒していたのだった。この思い出の坂道を今ゆっくりと上り、眼前の海原を見ている。今しがたまで覆われていた霧はいつか姿を消していた。青い海が、そして坂の上に暖かくある春林が私をかっての青春へと誘う。死んでもいいなど云い合う霧笛のおおんおん芙民子坂口芙民子。この人の俳句が...わが思い出の神戸…北野坂

  • 俳句の感情表現とは…現代の俳句表現を考える

                心を無にするこころの大切さ児島庸晃  日常語は物事を遂行する言語で、ニュアンスは含まない。従って詩語にはなりぬくいのである。日常の生活は会話を正確に伝えなければ物事が前へと進まない。だが、このことが、詩情を深めるのには邪魔になる。心の在りよう、つまり人の感情を阻害してしまう。多くの人々は物事を伝達するのに誰にでも理解出来る言葉を選ぶ。これは感情や雰囲気の含まない言葉。だから社会の中で行き違いや衝突が起こる。例えばだが物事を処理するのに人間性を排除するかの如きマイナンバーカードを国民に義務付けようとする、このような数字で物事を処理、感情を無視する行為。だから人々は何かの救いを求めて心を広げようとする。この時に心を広げることの出来る感情が欲しくなる。それは文章やエッセイを一つにした一冊...俳句の感情表現とは…現代の俳句表現を考える

  • 俳句における発想とは何なのか

            書き手と読み手のコミニュケーションギャップとは児島庸晃  よく聞く言葉に、発想が新しい、とか、発想が良い、とか、俳人は批評をするが、この考えは正しくはないのである。私は偏った思考であまりにも一元的であるようにも思う。書き手と読み手のコミニュケーションギャップと言う事を考えていて、ふと思ったのが俳句の思考方法には、必ずと言っていいほど発想における作者と読者の基本にポイントのずれが起こっているのではないかとの疑問を感じる或る日の私がいた。発想にはもともと個人差があって似たものや同じものはないのである。だからどの句も新しい発想の句なのである。それは“似ている物が少ない”ということだ。俳句に限らず、絵画でも音楽でも映画でも、似ている物が少ない。あるいはまったく新しいものに出会った時に人は、“発想が...俳句における発想とは何なのか

  • ヌーベルバーグ時代の俳句…ふたたび

        俳句を詠むに意味で読まないこと児島庸晃  目視して物を受け取る時、その感覚は意味で受け取っているのではなかろうか、と思う時がある。それらは頭で判断していると思われているのだろうか。だが、実際は情感で物を見ているのである。俳句が意味の句の表現になってしまうのは、その意味が頭の中に残ってしまっているからである。俳句は情感の支えがしっかりしていなければ、ただの言葉でしかなくなる。俳句は意味で作ってはならないのである。俳句が説明になってしまう理由でもある。私の二〇代初めの頃、映画の世界にヌーベルバーグ(新しい波)と言う新しい表現の実感直感のフランス映画が、日本の若者の心を捉えていた。その代表的映画は、「勝手にしやがれ」。ジャン=リュック・ゴダール監督。ジャン=ポール・ベルモンド主演。その映画とは町の中をた...ヌーベルバーグ時代の俳句…ふたたび

  • 俳句その心表現の基本とは何なのか…

            目視より始まる寄物陳思考児島庸晃  そこにあるのだけれど見ようとしなければ見えてはこないもの…それを不可視という。人の心は不可視の中にこそ潜むもの。日常の出来事だけが五・七・五の定形であってはならない。   …つぼみの中を表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いて  はいない花の中までわかるように表現しなければならんのや。俳句  で表現出きるかね。  上記の文言は今は亡き現代俳人伊丹三樹彦の私への問い掛けだった。当時「青玄」大阪支部句会帰りの電車内での会話である。私は一瞬とまどった。びっくりしたというよりも考えるところがあってのことであった。見えていないものまで見えるように表現する。これは批判的リアリズムの基本理念ではなかったか。見方を変えれば、俳句の基本とされている寄物陳思なのではな...俳句その心表現の基本とは何なのか…

  • 現実社会の中で俳句は何故必要なの

    俳句的思考は日常生活を快適にする児島庸晃いつしか人に生まれていたわアナタも?池田澄子上記の句を一般の生活人はどのように受けとるであろうか。この句を依光陽子さん(屋根)は総合誌「俳壇」2005年8月号で次のように書いている共生的な存在意識の投げかけは口語文体ゆえにストンと読み手の心に落ちる。「俳壇」の特集号、「時代をとらえた俳句表現」での発言記事である。この発言記事。よく考えてみると、私たちは共生的な存在意識のもとに生存し生活をしているのである。一般的に普通に生活していて誰もが思うことは、俳句など全く生活とは関りはないのだろうと、誰もが思う。そして生きてゆくのには俳句は全く関係ないと思うのが普通だろう。だが、一般生活をしているのに、或いは日々の暮らしの中では俳句的思考は必要なのである。それは何故にそうなのか...現実社会の中で俳句は何故必要なの

  • こころの散歩 ⑧ 2022年6月

    本日8号をお届けします。毎号皆様にお読みいただけるだけの温かい内容をとの思いで何時も編集をしています。その都度私の心をお届けしたくての個人誌ですので少しでも、ほーっと心を休ませる瞬間が、皆様にあればとの私の思いです。どうか気軽に読んでお心を休めて下さい。…毎号私の実直な素直心を届けられているのか…。皆様からのお声に励まされています。沢山のご感想と温まる励ましに、私の心中は生きている実感や充実をいただいています。私の真心は皆様の心を温かくしたい思いで一杯です。今回は私のブログ特集としました。…いまの時代はアメリカ資本主義が世界へ浸透しようとする時代。世界は人間の勝手により心が壊れてゆく社会。日々の生活の中で本来の人間の心を真に維持してゆくのがどれほど大変なことなのか。日差しが私に囁きかけてくる部屋の隅でその...こころの散歩⑧2022年6月

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