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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 当ブログ開設2周年 解説と分析~その② 急に増えたXからのアクセス 「黒人奴隷・弥助」騒動

    さて少し前の24年7月16日に、1日あたり230くらいの突出したアクセスがありました。これまでの最高値だったので、なんだろうと調べてみたら、Xからのリンクが急増していました。どなたかにXで記事のリンクを貼っていただいたようです。どの記事のリンクであったか調べてみたら、下記の記事でした。 Xからのリンクは普段はほぼゼロなのに、この日だけ急に増えています。リンク先は「晩期倭寇」シリーズにある、2つの記事でした。リンク先は下記です。 はてな?なぜだろうと思っていたら、思い至りました。日大准教授のトーマス・ロックリー氏の研究や著作が炎上した件ですね。これはどういう炎上案件かというと、実は世界を巻き込ん…

  • 当ブログ開設2周年 解説と分析~その① 1年前と比べた分析

    ブログを開設してから2年4か月が経ちました。タイトルは2周年となっており、この記事は7月にUPする予定でいたのですが、継続中の仏教シリーズの腰を折るのもなんなので、ひと段落したところで記事をUPした次第です。 さて細々と続けている当ブログですが、おかげさまでようやく、トータルで3万近いPV数に達しました。吹けば飛ぶようなPV数ですが、1日あたりのPV数は増えています。1年前の記事を見てみると、1日当たりPVは平均20がいいところでしたが、今では平均して60~70ほど、100を越える日も珍しくありません。分析してみると、明らかに検索サイトからの数が増えているのが分かります。下記は当ブログのアクセ…

  • 日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑩ 撃退された元寇 予言が当たらず困惑する日蓮

    なお服部氏は、1回目の侵攻「文永の役」に関しても、独自の説を唱えている。まず元軍の数に関してであるが、池内説3万以上に対して、服部氏は1万6500人ほど(高麗史による)としている。そして池内説では「博多に上陸した10月20日に戦いが行われ、その日のうちに撤退した」ことになっている。この撤退も「大風によって艦隊がダメージを負ったのが原因」としているのだが、服部氏はこの「1日で撤退した」というのも間違いであると主述べている。 そもそもこの「1日撤退説」と「大風説」の由来は、「八幡愚童訓」に書かれている「白装束の神の使いが現れて、艦隊に弓を放つと海が炎上した。日本の神の怒りを恐れた蒙古軍は一夜で姿を…

  • 鎌倉後期の法華宗・真言律宗(新義律宗)、そして元寇~その⑨ 「弘安の役」に関する、服部氏の新説

    この記事では、前回紹介した服部英夫氏による著作「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」の内容に基づいて、弘安の役の戦いの推移について紹介していく。 まず服部氏は、東路軍の進撃タイミングと進撃路に対して、以下のような説を唱えている――「通説では東路軍が合浦を出たのが5月3日、対馬占領は5月26日以前、志賀島占領は6月6日となっている。しかし実際には、対馬占領は5月8日、15日に壱岐を占領、続いて博多の志賀島占領は5月26日なのである。また通説によると、武士団の反撃があった結果、東路軍は志賀島を放棄したとされているが、実際には元軍は持ちこたえ、志賀島の橋頭堡は維持したままであった」というものだ。 …

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉖ 引き籠る日蓮 「弘安の役」で大勝する日本

    甲斐国身延山に引きこもり、著作に励む日蓮。この間、彼は大量の手紙を弟子や信者たちに送っており、断片的なものも含めると現存するものは600点にも及ぶとも言われている(ただし偽物も多いようだ)。一次史料が大量に残っているということは、その人物像が具体的に分かるということである。中世自社勢力の研究者である伊藤正敏氏は「中世ではその人となりまで分かる人は少ないが、日蓮はそのひとりである」と述べている。 見延山での彼は「ただひとりの弟子を相手に、ひたすら法華経の研究に打ち込みたい」という願いを持っていたようだ。だが彼の下には次第に人が集まってくるようになる。最終的には、この地で100人ほどの教団が結成さ…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉕ 鎌倉武士団 vs 元軍 「文永の役」戦いの様相

    元は日本に対して、都合6回の使者を送っている(うち2回は本土までたどりつけず)。当初はガン無視を決め込んでいた鎌倉幕府であったが、さすがにそういうわけにもいかなくなった。こちらからも使者を送るなどの動きも見せているし、祈祷以外にもちゃんとした対策を講じている。具体的には「異国警固番役」の設置である。九州に所領を持つ東国御家人を鎮西に下向させ(これを契機として、九州に所領を持つ御家人の在地化が進むようになる。肥前千葉氏や薩摩島津氏など)、少弐資能・大友頼泰の2名を沿岸警備の総指揮官としているのだ。 次に北条得宗家内における、中央集権化の動き。これにまつわる騒動が1272年に発生した「二月騒動」で…

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