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河は流れる~90代元国鉄マン九州諸所の紹介ブログ https://pikapikaclass.blog.jp/

昭和一桁生まれ男性。九州在住【南向庵】です。趣味パソコン、写真撮影、文章を書く事。ブログ立ち上げと管理は家族が手伝っていますが、文章は全て本人によるものです。

南向庵
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2022/06/06

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  • 衣を食を住を⑤

    それにしても環境は悪いし、生活は苦しい。ある日私は父に申し出た。「学校を辞めたい。働きたい。」父はボソリと言う。「学校だけは出ておけよ。」父は三十才代で助役の任にあったが、小学校卒という学歴、庫内手という最下級の労務職から這い上がった人間である。多くの苦

  • 衣を食を住を④

    宮崎の何処に住居を定めるか。結論として祖母が住む敷地内にある厩で、ということになる。厩に床をしつらえ畳を敷く。畳は本家の兄が三枚を提供してくれた。それしか敷けないのである。畳三枚のスペースに六人。私は河川敷に放置してあった新聞用紙を切り裂いて持ってきた。

  • 衣を食を住を③

    さて状況判断。父は説明する。この戦争はもうすぐ終わるとの情報がある。一方で米軍は日向灘で上陸作戦を展開するとの情報もある。情報は混沌としている。安全策を取って海岸から離れたところに疎開させたい。手は打ってある、と。翌日早朝、私達五名は荷馬車に乗って三財村

  • 衣を食を住を②

    暫くして父が帰ってきた。昼過ぎのことである。誰かが報せたのであろう。仕事が片付いたら夕方また帰ってくる、それまで待て、とのこと。炎が下火になったので 家屋に近づいて炊事場だった付近を見ると、ジャガイモが炭になって転がっている。貴重な食材だったのに、と改め

  • 衣を食を住を①

    昭和二十年六月頃になると米軍の空襲は一段と厳しくなる。動員は一旦休止、自宅待機の指示が出る。空を見上げるとB29から投下される爆弾や焼夷弾がゴマを撒いたように落ちてくる。グラマン戦闘機は低飛行で屋根すれすれ。パイロットの顔が見えた時は銃が欲しい、反撃したい

  • 中学へ⑤

    級友から「こちらの農家にこないか?」と誘われた。「食事が出るよ、肉もあるよ。」と言うのでそちらに行ってみた。そこは刑務所の近くで牛の屠殺場の近くでもある。異臭がする。牽かれてきた牛はその近くまで来ると足を踏ん張り動こうとしない。本能がそうさせるのであろう

  • 中学へ④

    新しい動員先は宮崎市内の農家。農作業の手伝いをせよ、農家の選定は各自にまかせるという。まことに杜撰な指示ではある。私は宮崎駅の東にある農家を選んだ。中年の夫婦に十七~十八の娘がひとり。この娘さん、不器用で勤労意欲もない。いつも親父さんから怒られていた。そ

  • 中学へ③

    ところでわが軍の戦闘機は飛び発たない。中年のパイロットに「なぜですか?」と聞いてみた。「ガソリンがないからだよ。見せようか?」と言ってタンクの蓋を開け、見せてくれたが、そこには青い燃料が僅かばかりしか入っていなかった。これでは燃料切れで墜落するだろう。そ

  • 中学へ②

    だが間もなく教科書不要の時が来た。動員令である。入学した時、三年生以上は延岡の旭化成などの工場に動員されていたが、我々は自宅から通える所で働いて貰おうということらしい。指示されたところは宮崎市郊外の赤江飛行場の滑走路だった。砂利舗装だったので航空機が発着

  • 中学へ①

    四月、宮崎中学へ入学。※画像はイメージです。その頃宮崎県内の中学は延岡・妻・宮崎・都城・小林・飫肥、全部で六校。学校が少ないから先生も生徒も選抜された優秀な人材揃いだろうと思ったが、そうとも言えるし、そうでもない、とも言えるようだった。配席、窓際に座る者

  • 高鍋温泉

    ゴールデンウイークに長男がやってきた。どこかに行こう、どこが良いかと尋ねたら高鍋の【めいりんの湯】が良いとのこと。翌朝、宮崎交通のバスに乗り込んだ。撮影:南向庵【めいりんの湯】は少々不思議な温泉である。開湯は平成の世になってから。効能書きはなく、水温もや

  • 再び付属小学校へ

    昭和二十年一月、父の転勤に伴い、再び宮崎の付属小学校に転校した。だが教師の態度がおかしい。仕事が増えるのが面倒、という感じである。机が与えられないので欠席者を見つけてはそこに座っていたが、一週間目、全員出席という日に床に土下座した時は涙を流した。その後よ

  • 鍛えなければ⑤

    軍事では連絡・通信法の取得も重要だ。モールス通信を学び、手旗信号も習得する。毎週月曜日には学童のなかから誰かが選ばれ、その日のニュースを手旗信号で送る。皆はそれを解読するのが常だった。新聞配達員が居なくなった。六年生は新聞を配達せよとの指示がある。一人あ

  • 鍛えなければ④

    桜島にも登った。麓はさほどでもないが、中腹から上は大変だ。緩い砂質土が延々と続いている。勾配はきつい。二歩進んで一歩ずり落ちるという有り様。人生とはこんなものかと子供ながらに思ったりする。それでも、噴火口を見下ろす場所までのぼりつめた時の感慨は忘れられな

  • 鍛えなければ③

    妙円寺にもお詣りした。関ケ原の戦いで西軍の立場をとった薩摩藩は 島津豊久が千名足らずの軍勢を送ったのだが、敗戦濃厚となった時、敵前突破を試み辛うじて帰還した。帰還兵は数十名だったという。写真協力:公益社団法人 鹿児島観光連盟その時の辛苦を記念しての行事【

  • 鍛えなければ②

    示現流とは薩摩藩を中心に伝わった古流剣術で 流祖は東郷重位。立木打ちが基本だが、経費節約のことも考えねばならない。私たちは横木打ちが中心だった。横木打ちとは枝木を長さ二メートルばかりに切り植え直径三十センチの束にしたものを、木刀で気合もろとも打ち下ろす訓

  • 鍛えなければ①

    宮崎から鹿児島に転校したのは、良かったとは思うが、虚弱体質傾向が改良されたとは言い難い。振り返ってみる。昭和十六年十二月八日の朝、校庭に軍艦マーチが響きわたった。続いて大本営発表「本八日未明、帝国陸海軍は西太平洋方面において米・英軍と戦闘状態に・・・」続

  • 小学時代あれこれ⑤

    小学五年と六年の担任はM先生だった。戦況は日に日に厳しく、我々小学生は駅頭で遺骨を迎えることが多かった。そんなある日の帰路、誰かが「あっ!金魚だ!」と叫んだ。その排水路は専売工場からの汚水が流れる水路で、金魚が住むようなところではない。隊列が乱れたのは自然

  • 【炭水手】について

    前回の記事の補足です。戦前の国鉄には、歴然とした身分制度があった。大多数を占める下級職員は、傭人と雇員に分けられていて、傭人は手がつく職名の駅手、連結手、線路工手、踏切警手、機関区では炭水手、合図手、庫内手、手はつかないが技工なども「手職」といった。その

  • 小学時代あれこれ④

    二人は帰宅してからも上機嫌だった。もちろん五十銭の残金は返納する。それから暫くして祖父がやってきた。宮崎に帰るという日に教室の廊下に呼び出された私は、祖父から五十銭を手渡されたのだが、その旨を母に伝えたところ、母は私が預かっておくと言いながら財布の中にし

  • 小学時代あれこれ③

    昭和17年、四年生の時、宮崎から祖母と大叔母がやってきた。父の発案があり、母が呼び寄せたらしいのだが、家に籠ってばかりでは芸がない。市内観光という話になったが母は市内の街路に疎いので、私が案内することとした。写真協力:公益社団法人 鹿児島観光連盟まず磯庭

  • 小学時代あれこれ②

    元来身体が弱いから【武】の修練に励むのが自然の流れであり、そうしたのであるが、私の個性からいえば【文】系統であり、それを捨て去ることは難しい。土曜の午後には県立図書館に通うことにした。写真協力:公益社団法人 鹿児島観光連盟西郷隆盛像の近くにあるその施設は

  • 小学時代あれこれ①

    薩摩は元来、武の国である。縁あって、私はその地で暮らすことになった。私の体を鍛えるには 格好の土地だったろう。まず示現流の稽古。この稽古には立木打ちと横木打ちがある。立木打ちは剣の技法、横木打ちは体力増強を目的としている。それにしても 早朝から掛け声をあ

  • 宮崎今昔一場面

    いま、宮崎市の人口は40万人である。それなりの人口だが、その内容は旧市内のほかに住吉村・高岡町・清武町などの周辺町村を合併したこと、県内各地の農漁村から移住してきた家族でそうなったのであり、決して繁栄しているのではない。それは県内の人口が戦後百四十万だっ

  • 父の気配り②

    私が大学に進むとき、父は入学金と初回の授業料を払ってくれた。これが父から頂いた最後のお金である。あとの必要経費は奨学資金とアルバイトで稼いだのだが、そのことで父には、いろいろな思いがあったように思う。就職するとき、父は背広と鉄道職員用の制服、それに靴をあ

  • 父の気配り①

    小学一年、単身で列車で赴いた際小学一年生①小学一年生②、駅頭には父の姿があり、その表情には優しさが満ちていた。半年ぶりだったこともあり、私も幸福感でいっぱいだった。翌年の夏、父の休みの日、魚釣りに連れて行って貰った。私は未だ釣ることができないので岩に腰を

  • 追憶【小学一年生②】

    私が希望して置いて戴いているのではないから 異論はない。二学期終了後に 父の働く県へ転校することになる。撮影/南向庵問題は私が行く際、誰が付き添うかということ。祖母に戸惑いの表情があった。行きはふたりだが、帰りはひとり。夜も遅くなる。母は弟が生まれて間も

  • 追憶【小学一年生①】

    宮崎女子師範学校附属小学校の入学試験を受験した。私が希望したのではなく父の希望だった。父としては良い学校に入学させたい。師範学校には男子と女子があるけれども、女子のほうが穏やかだろうと考えたらしい。どちらが良いのか私には判らない。試験はまず国語の読み方。

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