ブログ訪問の皆さまへ南向庵「家族」です。本日もこちらに立ち寄って下さったことに感謝申し上げます。さて皆様にお知らせがあります。今回を持ちまして、このブログは長期休止、もしくは最終回にさせて頂きたく存じます。理由は、家族の多忙によるものです。南向庵自身は9
昭和一桁生まれ男性。九州在住【南向庵】です。趣味パソコン、写真撮影、文章を書く事。ブログ立ち上げと管理は家族が手伝っていますが、文章は全て本人によるものです。
「ブログリーダー」を活用して、南向庵さんをフォローしませんか?
ブログ訪問の皆さまへ南向庵「家族」です。本日もこちらに立ち寄って下さったことに感謝申し上げます。さて皆様にお知らせがあります。今回を持ちまして、このブログは長期休止、もしくは最終回にさせて頂きたく存じます。理由は、家族の多忙によるものです。南向庵自身は9
朝より回って 日日 春衣を典す毎日江頭 醉を盡して歸る酒債尋常 行く處に有り人生七十 古來稀なり杜甫は官職を望んで容れられず、放浪を重ねた末に旅先で病み、旅舟のなかでこの世を去った。享年五十八歳。古稀にはほど遠かった。穿花蛺蝶深深見 花を穿つ蛺蝶 深深と
無量寿の国を目指して妻は飛び立った。いま、どうしているだろう。幸せだろうか。ドイツの詩人カール・ブッセの詩に「山のあなた」というのがある。そしてその詩のなかに「あゝ!われ人と尋めゆきて涙さしぐみ帰りきぬ」という言葉がある。そういうことはないだろうか。気が
T君へ合格おめでとう。人生はマラソンのようなもの。今から長い距離を長い時間かけて走り抜かねばならない。良い学校には良き師がいる筈。よき友となる人もいる筈。良き友を見つけて競い給え。検討を祈る。飫肥について詳しくはこちら↓飫肥城下町保存会 宮崎県日南市の飫
平成18年、会社勤めから完全に開放された。歳、74歳。あとは自由に過ごしたい。まず、カメラとパソコン。妻が苦労している義母の介護を手伝うためには料理の勉強も必要だろう。私が死去した際に必要な手順書も作成しておきたい。そう考えているうち、事態は急変した。平
35歳で係長。係長になれば宿舎入居への優先権がある。早速近くの木造宿舎に引っ越しした。やや湿気の多い土地だったが、料金は安い。実質6千円のベースアップ。これを喜ばずにおらりょうか。それから熊本・八代・鹿児島・下関・門司、と転勤転居が続いた。やっぱり気にな
結婚後の新居は豊津駅前、4千円の借家。その後崎山駅前を紹介され移るが、同じく4千円。家賃を引いた残額は8千円。これで暮らすのは大変だった。半年後に門司港に転勤。北九州の借家を探したが、二間の中古住宅が6千円。悩みに悩み、結局妻の実家の二階一間に移る。その
どんな組織にも目的があるし、メンバーに対してその目的や目的遂行のための手段を的確に伝えなければ、その組織はうまく機能しない。企業の場合、その伝達方法のひとつとしてスピーチが取り入れられているのが一般的である。ただ、このスピーチはマンネリ化しやすいのが欠点
2017年の宮崎ランタンナイトは8月4日からの予定だったが、台風5号の影響で8月7日からの開催となった。初日早々、早速出かけてみる。会場であるフローランテ宮崎に着いたのは16時半。日没までには少々時間がある。会場に設けられた出店で生ビールと鶏料理等を買い
時は流れ、技術革新の時代となった。薩摩路にも新幹線がやって来る。昭和48年10月、国鉄・鉄道建設公団は、九州新幹線の調査報告書を提出した。この調査報告書には、ルート選定に際して①八代から肥薩線沿いに人吉を経由して鹿児島に至るルート②八代から現在の鹿児島本線沿
8月22日10時30分、吉松発の上り門司行列車は客車6両・貨車12両の計18両。D51がけん引し、補機として同じくD51が後押しした。列車は客車はもちろん、機関車前部、客貨車の屋根にまで鈴なりの人を乗せて出発したが、蒸気があがらず、25/1000の急勾配の
肥薩線は急峻な山岳線である為、建造物の保守や列車運行上の労苦もたえない。山腹には浮石が多く、従って落石も多いが、昭和44年4月20日には葉木~鎌瀬間で落石による列車脱線事故が発生した。その原因は山中に生息する猪が、浮石周辺の地面を掘り返したため、安定を失
矢岳トンネルがようやく完成し、鹿児島線が全線開通したのは明治42年11月である。着工以来10年3か月の工期と1,582万円の工事費が費やされたのである。鹿児島線の開通を目前にして、鉄道敷設の最も有力な推進母体だった鹿児島市は、祝賀気分に湧いていた。8月7日には、県知事
八代~人吉間の開通で、あとは人吉~吉松間のわずか32kmを残すのみとなったが、この区間が鹿児島線で最大の難工区となった。この工区で最も苦難をきわめたものは矢岳トンネルである。海抜600mの高さの所で、延長2K96mのトンネルを25/1000の片こう配で掘
まもなく日清戦争が起こり、講和後の明治29年に鹿児島線の開さく計画が発表された。これによると、八代~鹿児島間の総予算は721万円で、西薩海岸コースの約3倍の巨費である。工事は、人吉を境に区間を肥後と薩摩に分け、双方から着手することになった。明治32年3月
たまたま鉄道院総裁の後藤新平が視察のため海岸コースを通って鹿児島入りした時は、各地で荷物を満載した荷車に挟まれて立往生したという。西薩一帯の貨物流通がいかに厳しいかを見せつける、大デモストレーションであったのである。調査の結果は「東部路線はこう配が著しく
幕末から明治維新にかけて華々しい活躍をした薩摩隼人は、その後の中央政財界でも大いに幅をきかせた。が、地元鹿児島県では明治10年に起こった西南戦争の余波を受けてか、文明開化の波に取り残された感が強かった。特に鉄道の恩恵については知るものも少なかった。九州に
二位はY君。あばら骨が浮き出るほどに勉強一途だ。「どこを受けるのか?」と聞くと、「九州大学」と云う。「そんなに勉強しなくてもいいのに」と言ったら、「合格は合格でも良い成績で入学したい」という。「兄貴は二人とも九大だが、負けたくない」とも。Y君は後年大企業に
高校三年時の事。毎週土曜日の午後は実力考査。火曜日にはその結果が校舎の壁面に張り出される。考査を受けるかどうかは各人の自由だが、男子生徒180名の殆どは受験した。女子生徒180名はまず受験しない。背景には「女子が進学しようにも学資の提供が期待できない」と
道路案内板に7月29日(土)・30日(日)両日の一定時間、橘通り1丁目~3丁目間は自動車の通行禁止との表示がある。何の行事だろう?行ってみよう。そう思い、出かけてみた。宮崎市内の官公庁・有力企業・各種婦人会等の方々の協力のもと、大規模な盆踊りが披露されて
時は流れ、技術革新の時代となった。薩摩路にも新幹線がやって来る。昭和48年10月、国鉄・鉄道建設公団は、九州新幹線の調査報告書を提出した。この調査報告書には、ルート選定に際して①八代から肥薩線沿いに人吉を経由して鹿児島に至るルート②八代から現在の鹿児島本線沿
8月22日10時30分、吉松発の上り門司行列車は客車6両・貨車12両の計18両。D51がけん引し、補機として同じくD51が後押しした。列車は客車はもちろん、機関車前部、客貨車の屋根にまで鈴なりの人を乗せて出発したが、蒸気があがらず、25/1000の急勾配の
肥薩線は急峻な山岳線である為、建造物の保守や列車運行上の労苦もたえない。山腹には浮石が多く、従って落石も多いが、昭和44年4月20日には葉木~鎌瀬間で落石による列車脱線事故が発生した。その原因は山中に生息する猪が、浮石周辺の地面を掘り返したため、安定を失
矢岳トンネルがようやく完成し、鹿児島線が全線開通したのは明治42年11月である。着工以来10年3か月の工期と1,582万円の工事費が費やされたのである。鹿児島線の開通を目前にして、鉄道敷設の最も有力な推進母体だった鹿児島市は、祝賀気分に湧いていた。8月7日には、県知事
八代~人吉間の開通で、あとは人吉~吉松間のわずか32kmを残すのみとなったが、この区間が鹿児島線で最大の難工区となった。この工区で最も苦難をきわめたものは矢岳トンネルである。海抜600mの高さの所で、延長2K96mのトンネルを25/1000の片こう配で掘
まもなく日清戦争が起こり、講和後の明治29年に鹿児島線の開さく計画が発表された。これによると、八代~鹿児島間の総予算は721万円で、西薩海岸コースの約3倍の巨費である。工事は、人吉を境に区間を肥後と薩摩に分け、双方から着手することになった。明治32年3月
たまたま鉄道院総裁の後藤新平が視察のため海岸コースを通って鹿児島入りした時は、各地で荷物を満載した荷車に挟まれて立往生したという。西薩一帯の貨物流通がいかに厳しいかを見せつける、大デモストレーションであったのである。調査の結果は「東部路線はこう配が著しく
幕末から明治維新にかけて華々しい活躍をした薩摩隼人は、その後の中央政財界でも大いに幅をきかせた。が、地元鹿児島県では明治10年に起こった西南戦争の余波を受けてか、文明開化の波に取り残された感が強かった。特に鉄道の恩恵については知るものも少なかった。九州に
二位はY君。あばら骨が浮き出るほどに勉強一途だ。「どこを受けるのか?」と聞くと、「九州大学」と云う。「そんなに勉強しなくてもいいのに」と言ったら、「合格は合格でも良い成績で入学したい」という。「兄貴は二人とも九大だが、負けたくない」とも。Y君は後年大企業に
高校三年時の事。毎週土曜日の午後は実力考査。火曜日にはその結果が校舎の壁面に張り出される。考査を受けるかどうかは各人の自由だが、男子生徒180名の殆どは受験した。女子生徒180名はまず受験しない。背景には「女子が進学しようにも学資の提供が期待できない」と
道路案内板に7月29日(土)・30日(日)両日の一定時間、橘通り1丁目~3丁目間は自動車の通行禁止との表示がある。何の行事だろう?行ってみよう。そう思い、出かけてみた。宮崎市内の官公庁・有力企業・各種婦人会等の方々の協力のもと、大規模な盆踊りが披露されて
彼は付属小学校時代の同級生である。用件を聞いたところ、「宮崎の県北で林道整備工事の施工中、作業員の転落事故が発生した。」「会社の責任・経営者としての自分に刑法上の罪が問われるのではないかと心配したが、それがなくなったので各所に挨拶回りをしている。」とのこ
大学時代の事としてこのブログで以前記した内容と一部被るが、詳細を再記する。測量の仕事がない時は建設業・志多組の土木工事現場で人夫として働いた。当時は土木用の諸機械は導入されていなかったから、殆どが人力作業である。たとえばコンクリート打ち。まず材料運搬。倉
2018年記バスーツアーで「あじさい園」に行く。途中「黒之瀬戸だんだん市場」という市場に立ち寄った。いわば「道の駅」である。都城から乗車した参加者達は、海産物を中心にせっせと買い込んでいる。都城は海から離れた盆地である。「海産物が少ないからだろう」と、ひ
作詞:藤田まさと作曲:平川浪竜唄:菊池章子1 母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た 届かぬ願いと 知りながら もしやもしやに もしやもしやに ひかされて2 呼んでください おがみます ああ おっかさん よく来たと 海山千里と 云う
今年の夏は酷暑が続いたせいで紅葉が遅れているようだ。それでも麓城址の紅葉は見事だったのでシャッターを切り続けたけれども、出来栄えは落第だ。殆どの作品がぶれている。ここはかつてこの地を治めた豪族上村氏の居城跡である。城跡一帯が秋色に彩られ、美しい。折角三脚
2013年の秋。今年の最後になるだろうバスツアーに参加する。行先は明示されていないから判らないが、ヒントはある。大隅半島の福山黒酢本舗から、加治木町の龍門滝あたりだろうと推察したのだが、的中したのは福山黒酢だけ。予想外の展開となる。結果は観音滝公園から伊
2013年記6月5日、宮交観光の日帰りバスツアー【あじさい祭りと見返りの滝】に参加する。出発は宮崎駅東口から。途中、バスセンター・都城・小林に立ち寄り参加者41名。八割が中年女性で、そのお喋りはまことにかしましい。女性にとってのお喋りは活力の素ではあろう
その後紆余曲折を重ねながらダイエーは大企業になるのですが、功氏の「思ったことを思った通りに実行する」個人主義的な傾向は、功罪相半ばしたと言えるかもしれません。価格破壊を掲げチェーン展開を成功させる一方「私とコンピューターとパートがいればいい」と社員を大量
【2004年1月・会社年初のスピーチより抜粋】我が社には社訓というものがありません。ただ、こういう会社でありたいというコンセプトは持ち続けております。「信頼関係の構築」、これがなければおかしな事になります。ゼロ細企業から日本を代表する大企業に成長した会社