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河は流れる~90代元国鉄マン九州諸所の紹介ブログ https://pikapikaclass.blog.jp/

昭和一桁生まれ男性。九州在住【南向庵】です。趣味パソコン、写真撮影、文章を書く事。ブログ立ち上げと管理は家族が手伝っていますが、文章は全て本人によるものです。

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2022/06/06

1件〜100件

  • 宮崎・油津の伊勢海老

    九月九日、JR九州の勧誘に応じて【伊勢えび会席と日南の旅】に参加した。OB会からの参加四名、その他Y会長の熱心な努力で四名。合わせて八名である。ツアーが成立するのかと心配したが、満席になったとはご同慶の至りではある。日帰りの旅で1万2千円。その結果は充分満足で

  • 配属前実習⑤

    やがて配属のときが来た。もともと地方採用学卒者の初任地は門司か博多の保線区が望ましいのだが、それぞれ先輩達が配属されている。したがって出身地に近い所、という意味で、広島の人は広島へ、山口の人は下関の工事局へ、名工大の人はもともと佐賀出身だから佐賀保線区へ

  • 配属前実習④

    教習所の三か月が終わり、寮を出て北九州市門司区(※1)の社員寮に移る。肩書も総務部勤務から施設部勤務になる。ただ、施設部に腰をおろしたのは数日だけ。門司保線区で話を聞いたり関門トンネルを見学したりする。指導者は高工専の卒業者。実習生は名工大・広島大・山口

  • 配属前実習③

    それはさておき、寮での三か月は社会常識で大いに得るところがあった。まず、言葉。広島弁、というのを初めて聞いた。振り返って我が身のことを考えると、宮崎訛りもどうかと思う。早速修正することにした。次に人間関係。事務・営業部門の諸君は その系統の人間と連れだっ

  • 配属前実習②

    私の場合、修学旅行というのは初めての経験だった。小学時代は戦時中だったし、中学時代は学制改革のさなか。高校は皆さん貧乏で、旅行に携帯しなければならない米の調達が出来ない人が多く、大学は就職先も決まらないのに、という有り様だったから。教習所での旅行先は東宝

  • 配属前実習①

    国鉄には所定の勤務に就く前に教育訓練を、という考えがあった。もともとは本社採用学士を対象にしたもので、そのルールを地方採用者にも準用しようとするものだったが、期間や実習内容に大きな差があった。私たち地方採用の場合、三か月を門司の鉄道教習所で、次の三か月を

  • 就職戦線

    当時就職戦線は厳しかった。就職内定率は10%に達しなかった。ある者は教職に就くべく資格取得の為留学し、ある者は自衛隊に入隊、またある者は中小企業に足を運んだ。四年生の十二月末で採用通知を貰ったのは、九州電力一名、それに私の国鉄西部支社一名、それだけ。私は

  • ドイツ語

    地方大学だったが、私にとっては新しい教育環境であり、新鮮な気持ちにさせられた。その中で尤も興味をそそられたのはドイツ語だった。副読本はシュトルムの自伝的な作品、インメンゼー/みずうみ(※1)である。穏やかな昼下がりの午後、一人の老人が緩やかな坂道を登って

  • 大淀川の畔にて

    8月11日、大淀川の河畔で開催される第69回の花火大会に赴くことにする。先ずは場所の確保。堤防の斜面に座を占めた。カメラは一眼レフも持参したが、主役はコンパクトカメラ。三脚にしっかり固定する。18時半、アトラクションとして踊りと太鼓の演奏。30分の休憩を

  • アルバイト⑤

    小説家・吉川英治氏の自叙伝には息を吞んだ。氏は小学校すら卒業していない。低学年の新聞配達から始まり、20種の業種を転々とした。18歳の時年齢を偽って横浜ドックの船具工になったが、船から転落し腰の骨を折るという経験もしている。参考:忘れ残りの記―四半自叙伝

  • 佐渡の荒波

    最近のお寺さんは大変だ。檀家との密な関係性を築くには説教ばかりでなく、イベントも考えなくてはならない。A寺のご住職の発案でツアーが成立し、佐渡へ行くこととなった。佐渡の外海に点在する小島を巡るのは無理だと思ったが、地元の人は大丈夫だと言う。成程、無事だった

  • 初めての酒②

    (初めての酒①の続き)運搬具は氷嚢にしよう、輸送方法はリヤカーにしようということで話は纏まった。最大の注意点は交番前をどうやって通り抜けるか、だ。リヤカーに氷嚢を積み、その上に野菜を積み込んで、という方法。グループでリヤカーを囲み、警官に見えないように通

  • 初めての酒①

    思春期は好奇心が強い。未経験の飲食物に酒がある。飲んでみたいが金はない。知恵者がいた。大島部落の闇焼酎を飲んでみよう、というのである。大島は奄美大島の住民たちが戦火を避けて宮崎に疎開してきた集落であるが、仕事がない。※奄美大島↑ 鹿児島市と沖縄本島のほぼ

  • 祖父について

    祖父のことはよく存じ上げない。職業の関係があったのだろうか、高鍋藩高級武士だったN氏の娘である祖母を娶った。祖父・祖母の間には何人かの子が出来た。そして次男である私の父は とりわけ優秀だった。小学校時代の通知表を見ると、図工・体育を除いてクラスのトップ。校

  • アルバイト④

    港湾の場合、遠洋漁業の船主宅に世話になったが、明らかに奥さんの機嫌が悪い。港を整備してくれ、という地元漁民の要望に対して予備調査をしましょう、整備するか否かは調査結果次第です、というのが県の意向。調査期間中、学生の下宿をお願いします、という話があり学生を

  • アルバイト③

    ダム建設予定地の上流には見事な滝があり、【観音滝】(※1)という名称だった。約34万年前に大噴火した加久藤カルデラの火砕流の溶結部を流れる滝で、昭和8年に宮崎県の名勝に指定されている。村人たちは【継子滝】とも呼ぶ。撮影/南向庵なぜそう呼ぶか聞いてみたところ、

  • アルバイト②

    連日の測量だから、技能は確実に上達する。数年後、国鉄の採用試験で成果を披露できたのは無上の喜びだ。ところで、ダム建設の場合、それぞれの家庭事情は異なり深刻でもあった。須木村・綾南川のダム建設予定地の例を述べてみたい。ある農家は恵まれていた。所有する農地の

  • アルバイト①

    宮崎大学の先生方は我々、特に宮崎中学出身者が貧乏であることを充分ご存じだった。「君たち、アルバイトで稼がなくちゃいかんのじゃろう?」「カリキュラムを変えよう。測量を一番にしよう。」四月から夏休みまでの講義は測量学、それも実技中心の講義となる。更に、先生方

  • 進路

    数学の先生は奈良高等師範卒の女性教師だった。宮崎高女からの転任で、常に笑みを絶やさない。懇切丁寧な指導ぶりにも人気があった。因数分解、一次方程式、二次方程式、微分方程式、積分・・・すいすいと頭に入ってゆく。さて 進路はどうする。高校の担任教諭は進学指導懇

  • 修学旅行

    高校三年の時、修学旅行を議題にした生徒集会があった。生徒会長は挙行すべきか見送るべきかを苦渋の色を浮かべながら問いかける。実施するとすれば資金調達はもちろん、「米」を持参しなければならない。家庭事情はいろいろだから全員参加できるかどうか判断がつかない。全

  • 学び②

    (学び①の続き)「龍之介がインドを旅行した時、街頭で蛇使いが籠から蛇の首を出させようとして笛を吹くのだが、首を出さない、その情景を描いたもの。」採点結果を見て驚いた。その部分に横線が引いてあり綜合点・六十点との評価。私にしてみれば屈辱的である。早速抗議せ

  • 学び①

    高校三年にもなると、進学にむけての指導があり、毎週土曜の午後には実力テストがある。その結果は火曜日。通路の壁に上位五十位までが貼り出される。※画像はイメージです。近所の学友で同じ図書部のA君B君も二十位ほどだったろうか。トップは常にO君で、全科目満点か数点減

  • 学制改革②

    A君は熱心なクリスチャンで西洋史に興味がある。B君の父は陸軍のパイロットだったが中国で戦死した。親思いの彼は中国史に関心を持っていた。後日談だが、A君は九州大を出て、某私立大の副学長まで勤めあげた。B君は東京大を出て鹿児島の高校教師となった。さて私の場合、友

  • 学制改革①

    県立宮崎中学を三年で終了した時、学制改革があった。総員三百五十名のうち、半数は大淀工業改め大淀高校に異動、穴の空いた人数分は宮崎第一高女と宮崎商業から移し替えられた。同時の課題として全員クラブ活動をするように、との事。クラブ活動には運動部と文化部がある。

  • 高原に霧は流れる②【えびの高原】

    十時過ぎ、終着点に到着。周りには土産物店が二軒と展示場、それに簡易宿泊所がある。道路には「ガスが発生しております。有毒ですから登山は禁止します」という看板が立てられていた。女性軍は宿泊所へ。おしゃべり三昧の時を過ごすことになるのだろう。ベンチに腰を下ろし

  • 高原に霧は流れる①【生駒高原】

    宮崎交通のシャトルバスに「りんどう号」というのがある。目的地は【えびの高原】で、その手前にある【生駒高原】は今ポピーが花盛り、とある。花盛りのポピーとは見たことがない。そこに行ってみよう。五月六日運行のそのバスには三十人ばかりの乗客が乗っていた。殆どが中

  • 読書②

    (読書①の続き)その中から 二葉亭四迷・志賀直哉・芥川龍之介・森鴎外・夏目漱石・菊池寛・川端康成その他諸々の作家を選び出し猛スピードで読んでゆく。ふと思った。これは乱読じゃないか?もう少し系統立てて読んだほうがいいんじゃないか?と。そうなればノンフィクシ

  • 読書①

    中学入試に合格したのは嬉しいが、戦況はますます厳しく、物資が無い為教科書は支給されなかった。英語は教師が黒板に書くアルファベットをノートに書き込んでいたが、数学や理科は話を聞くばかりでさっぱり解らない。そうこうしているうちに動員令。さらには八月十二日、校

  • 衣を食を住を⑪

    だが生産性は悪かった。産卵はするのだが、なんとも数が少ない。原因が飼料にありそうだという事は判る。米ぬかの他に多種の飼料を混合しなければならないのだが、そういう飼料を入手する方法を知らないのだ。貝殻を細かく砕いて与える程度では話にならない。あきらめて処分

  • 衣を食を住を⑩

    昭和二十二年、粗末ではあったが我が家が復旧した。次の問題は栄養補給である。誰言うともなく「鶏を飼おう!」ということになった。小屋の設計みたいなものは父が担当した。柱の鉋かけや臍(ほぞ)作りは中学生である私の担当。棟上げと言ったら少々オーバーだが、ともかく

  • 走れ②

    戦後 仮の校舎も建っていない時、珍客があった。昭和十五年ベルリンオリンピックで中距離三種目を走った村社(むらこそ)講平さんである。※1905年8月29日‐1998年7月8日陸上競技選手、指導者、毎日新聞記者、ベルリン五輪代表小柄な身なりで笑みを浮かべ、いろいろと話をし

  • 走れ①

    校内マラソン、というのがあった。学校から 一の鳥居~10号線~芳士~平和台~宮崎神宮、というコース。10号線はマカダム舗装、つまり砂利道で、裸足で走るには足裏が痛かった。先頭を走るものはハチマキをなびかせてカッコ良い。私は中ほどを走っている。順位発表もな

  • 加藤清正④

    時は流れ明治10年、西南の役が起こった。その詳細は司馬遼太郎の小説【飛ぶが如く】に詳しい。参考↓司馬遼太郎「司馬遼太郎を読む」 美しい日本人に会いたい | 特設サイト - 文藝春秋BOOKS (bunshun.jp)要するに薩摩藩は 谷干城(たに たてき/たに かんじょう)が率い

  • 加藤清正③

    清正は朝鮮の役にも出陣している。朝鮮の役とは文禄の役(1592~)と慶長の役(1597~)のことだが、私は清正が辿った慶長の役のコースを辿ってみた。文禄の役・慶長の役要図 ©Shogakukan慶長の役では明国が4万の大軍を送り込んできたので、日本軍は総退却となり、清正が

  • 加藤清正②

    私は城壁の構造に驚嘆する。それは垂直でもなければ直線でもない。微妙な曲線である。提案者はどうやってあの曲線を考案したのであろうか。経験から考え出したのであろうか・・・あの曲線は、後年明治時代の初期にオランダの土質学者ランキンやクーロンが解明した[土圧(※1

  • 加藤清正①

    古今 勇将・名将と言われる人物は多いが、その中で私はまず加藤清正を挙げたい。その取り組み方や仕事ぶりは熊本城に表されよう。城の概念は「守る」為にある。清正がその概念を心に留めていたとしても、築城の技法を知っていたとは思えない。築城の為に彼が選んだ手法とは

  • 衣を食を住を⑨

    部屋は三つ。そのうち二つは畳が敷かれたが、私が起居する部屋には畳がなく、板敷のままだった。水は井戸から。炊事場はカマド。風呂は五右衛門風呂。井戸と便所が近いのは嫌だったなあ!それでも牛小屋よりは良かったが。衣・食・住、それぞれに改善されたが、未だまだだ。

  • 衣を食を住を⑧

    さて住のこと。ある日父が絞り出すような声で「このままじゃいかん。家を建てよう。」と言った。衣も食も不十分だったが、住はそれ以上に劣悪な状態だった。牛一頭飼っていた場所だから、そのスペースは三畳半。そこに伯父から貰った古畳三枚敷いて親子六人が横になる。電気

  • 衣を食を住を⑦

    祖母が耕作している畑からの食材は甘藷しかない。甘藷の蔓を摘み取り、皮を毟って味噌汁の具に供したりするが、それだけでは全然足りる筈がない。主たるものは母の実家から頂くことにする。ただ無償で戴くというわけにはいかない。せっせと農作業を手伝い、その報酬として野

  • 衣を食を住を⑥

    空襲で我が家が全焼した時、私の着衣は半袖のシャツに半ズボンだった。これでは秋・冬は過ごせない、どうしようと案じているとき、行政機関から支給品がありホッとする。上下の服は陸軍の歩兵用、カバンは海軍の雑嚢(ざつのう)、そのバランスは何とも珍妙だったが 無いよ

  • 糾弾

    中学では諸々の事件が起こった。終戦後 教員の資格を持った人物が教壇に立ったが、授業に行き詰まり生徒から苦情が出て姿を消すケースもあった。2年生になったある時、級主任から「明日は双石山に行くから準備をしておくように」との言葉。我々はそれなりに準備し 清武駅に

  • 1945年

    8月12日の朝。母校・宮崎中学からは焼け落ちる校舎の音と 生徒たちの悲鳴が聞こえた。8月15日終戦。前述のように(※【衣を食を住を】に記載)自宅も燃えた為 狭い牛小屋で親子6人が暮らした。電灯はない。水は祖母宅の井戸から。庭隅には竈(かまど)をしつらえた。校舎は

  • 鹿児島・大隅路をゆく

    SL愛好会からお誘いがあり、大隅半島の東部をめぐるバスツアーに参加した。目的地は柏原海岸のルーピン畑・宇宙空間観測所・二階堂家。良い写真が撮れるだろうか。ルーピンは か細い花がパラパラと三分咲き。まだ作品にならない。※参考:満開時黄色いじゅうたんのように咲

  • 衣を食を住を⑤

    それにしても環境は悪いし、生活は苦しい。ある日私は父に申し出た。「学校を辞めたい。働きたい。」父はボソリと言う。「学校だけは出ておけよ。」父は三十才代で助役の任にあったが、小学校卒という学歴、庫内手という最下級の労務職から這い上がった人間である。多くの苦

  • 衣を食を住を④

    宮崎の何処に住居を定めるか。結論として祖母が住む敷地内にある厩で、ということになる。厩に床をしつらえ畳を敷く。畳は本家の兄が三枚を提供してくれた。それしか敷けないのである。畳三枚のスペースに六人。私は河川敷に放置してあった新聞用紙を切り裂いて持ってきた。

  • 衣を食を住を③

    さて状況判断。父は説明する。この戦争はもうすぐ終わるとの情報がある。一方で米軍は日向灘で上陸作戦を展開するとの情報もある。情報は混沌としている。安全策を取って海岸から離れたところに疎開させたい。手は打ってある、と。翌日早朝、私達五名は荷馬車に乗って三財村

  • 衣を食を住を②

    暫くして父が帰ってきた。昼過ぎのことである。誰かが報せたのであろう。仕事が片付いたら夕方また帰ってくる、それまで待て、とのこと。炎が下火になったので 家屋に近づいて炊事場だった付近を見ると、ジャガイモが炭になって転がっている。貴重な食材だったのに、と改め

  • 衣を食を住を①

    昭和二十年六月頃になると米軍の空襲は一段と厳しくなる。動員は一旦休止、自宅待機の指示が出る。空を見上げるとB29から投下される爆弾や焼夷弾がゴマを撒いたように落ちてくる。グラマン戦闘機は低飛行で屋根すれすれ。パイロットの顔が見えた時は銃が欲しい、反撃したい

  • 中学へ⑤

    級友から「こちらの農家にこないか?」と誘われた。「食事が出るよ、肉もあるよ。」と言うのでそちらに行ってみた。そこは刑務所の近くで牛の屠殺場の近くでもある。異臭がする。牽かれてきた牛はその近くまで来ると足を踏ん張り動こうとしない。本能がそうさせるのであろう

  • 中学へ④

    新しい動員先は宮崎市内の農家。農作業の手伝いをせよ、農家の選定は各自にまかせるという。まことに杜撰な指示ではある。私は宮崎駅の東にある農家を選んだ。中年の夫婦に十七~十八の娘がひとり。この娘さん、不器用で勤労意欲もない。いつも親父さんから怒られていた。そ

  • 中学へ③

    ところでわが軍の戦闘機は飛び発たない。中年のパイロットに「なぜですか?」と聞いてみた。「ガソリンがないからだよ。見せようか?」と言ってタンクの蓋を開け、見せてくれたが、そこには青い燃料が僅かばかりしか入っていなかった。これでは燃料切れで墜落するだろう。そ

  • 中学へ②

    だが間もなく教科書不要の時が来た。動員令である。入学した時、三年生以上は延岡の旭化成などの工場に動員されていたが、我々は自宅から通える所で働いて貰おうということらしい。指示されたところは宮崎市郊外の赤江飛行場の滑走路だった。砂利舗装だったので航空機が発着

  • 中学へ①

    四月、宮崎中学へ入学。※画像はイメージです。その頃宮崎県内の中学は延岡・妻・宮崎・都城・小林・飫肥、全部で六校。学校が少ないから先生も生徒も選抜された優秀な人材揃いだろうと思ったが、そうとも言えるし、そうでもない、とも言えるようだった。配席、窓際に座る者

  • 高鍋温泉

    ゴールデンウイークに長男がやってきた。どこかに行こう、どこが良いかと尋ねたら高鍋の【めいりんの湯】が良いとのこと。翌朝、宮崎交通のバスに乗り込んだ。撮影:南向庵【めいりんの湯】は少々不思議な温泉である。開湯は平成の世になってから。効能書きはなく、水温もや

  • 再び付属小学校へ

    昭和二十年一月、父の転勤に伴い、再び宮崎の付属小学校に転校した。だが教師の態度がおかしい。仕事が増えるのが面倒、という感じである。机が与えられないので欠席者を見つけてはそこに座っていたが、一週間目、全員出席という日に床に土下座した時は涙を流した。その後よ

  • 鍛えなければ⑤

    軍事では連絡・通信法の取得も重要だ。モールス通信を学び、手旗信号も習得する。毎週月曜日には学童のなかから誰かが選ばれ、その日のニュースを手旗信号で送る。皆はそれを解読するのが常だった。新聞配達員が居なくなった。六年生は新聞を配達せよとの指示がある。一人あ

  • 鍛えなければ④

    桜島にも登った。麓はさほどでもないが、中腹から上は大変だ。緩い砂質土が延々と続いている。勾配はきつい。二歩進んで一歩ずり落ちるという有り様。人生とはこんなものかと子供ながらに思ったりする。それでも、噴火口を見下ろす場所までのぼりつめた時の感慨は忘れられな

  • 鍛えなければ③

    妙円寺にもお詣りした。関ケ原の戦いで西軍の立場をとった薩摩藩は 島津豊久が千名足らずの軍勢を送ったのだが、敗戦濃厚となった時、敵前突破を試み辛うじて帰還した。帰還兵は数十名だったという。写真協力:公益社団法人 鹿児島観光連盟その時の辛苦を記念しての行事【

  • 鍛えなければ②

    示現流とは薩摩藩を中心に伝わった古流剣術で 流祖は東郷重位。立木打ちが基本だが、経費節約のことも考えねばならない。私たちは横木打ちが中心だった。横木打ちとは枝木を長さ二メートルばかりに切り植え直径三十センチの束にしたものを、木刀で気合もろとも打ち下ろす訓

  • 鍛えなければ①

    宮崎から鹿児島に転校したのは、良かったとは思うが、虚弱体質傾向が改良されたとは言い難い。振り返ってみる。昭和十六年十二月八日の朝、校庭に軍艦マーチが響きわたった。続いて大本営発表「本八日未明、帝国陸海軍は西太平洋方面において米・英軍と戦闘状態に・・・」続

  • 小学時代あれこれ⑤

    小学五年と六年の担任はM先生だった。戦況は日に日に厳しく、我々小学生は駅頭で遺骨を迎えることが多かった。そんなある日の帰路、誰かが「あっ!金魚だ!」と叫んだ。その排水路は専売工場からの汚水が流れる水路で、金魚が住むようなところではない。隊列が乱れたのは自然

  • 【炭水手】について

    前回の記事の補足です。戦前の国鉄には、歴然とした身分制度があった。大多数を占める下級職員は、傭人と雇員に分けられていて、傭人は手がつく職名の駅手、連結手、線路工手、踏切警手、機関区では炭水手、合図手、庫内手、手はつかないが技工なども「手職」といった。その

  • 小学時代あれこれ④

    二人は帰宅してからも上機嫌だった。もちろん五十銭の残金は返納する。それから暫くして祖父がやってきた。宮崎に帰るという日に教室の廊下に呼び出された私は、祖父から五十銭を手渡されたのだが、その旨を母に伝えたところ、母は私が預かっておくと言いながら財布の中にし

  • 小学時代あれこれ③

    昭和17年、四年生の時、宮崎から祖母と大叔母がやってきた。父の発案があり、母が呼び寄せたらしいのだが、家に籠ってばかりでは芸がない。市内観光という話になったが母は市内の街路に疎いので、私が案内することとした。写真協力:公益社団法人 鹿児島観光連盟まず磯庭

  • 小学時代あれこれ②

    元来身体が弱いから【武】の修練に励むのが自然の流れであり、そうしたのであるが、私の個性からいえば【文】系統であり、それを捨て去ることは難しい。土曜の午後には県立図書館に通うことにした。写真協力:公益社団法人 鹿児島観光連盟西郷隆盛像の近くにあるその施設は

  • 小学時代あれこれ①

    薩摩は元来、武の国である。縁あって、私はその地で暮らすことになった。私の体を鍛えるには 格好の土地だったろう。まず示現流の稽古。この稽古には立木打ちと横木打ちがある。立木打ちは剣の技法、横木打ちは体力増強を目的としている。それにしても 早朝から掛け声をあ

  • 宮崎今昔一場面

    いま、宮崎市の人口は40万人である。それなりの人口だが、その内容は旧市内のほかに住吉村・高岡町・清武町などの周辺町村を合併したこと、県内各地の農漁村から移住してきた家族でそうなったのであり、決して繁栄しているのではない。それは県内の人口が戦後百四十万だっ

  • 父の気配り②

    私が大学に進むとき、父は入学金と初回の授業料を払ってくれた。これが父から頂いた最後のお金である。あとの必要経費は奨学資金とアルバイトで稼いだのだが、そのことで父には、いろいろな思いがあったように思う。就職するとき、父は背広と鉄道職員用の制服、それに靴をあ

  • 父の気配り①

    小学一年、単身で列車で赴いた際小学一年生①小学一年生②、駅頭には父の姿があり、その表情には優しさが満ちていた。半年ぶりだったこともあり、私も幸福感でいっぱいだった。翌年の夏、父の休みの日、魚釣りに連れて行って貰った。私は未だ釣ることができないので岩に腰を

  • 追憶【小学一年生②】

    私が希望して置いて戴いているのではないから 異論はない。二学期終了後に 父の働く県へ転校することになる。撮影/南向庵問題は私が行く際、誰が付き添うかということ。祖母に戸惑いの表情があった。行きはふたりだが、帰りはひとり。夜も遅くなる。母は弟が生まれて間も

  • 追憶【小学一年生①】

    宮崎女子師範学校附属小学校の入学試験を受験した。私が希望したのではなく父の希望だった。父としては良い学校に入学させたい。師範学校には男子と女子があるけれども、女子のほうが穏やかだろうと考えたらしい。どちらが良いのか私には判らない。試験はまず国語の読み方。

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