岡本天明、出口王仁三郎にも多大な影響を与えた言霊学者・山口志道の水穂伝をベースにカタカムナ80首の解読を追求するブログ。真の言霊によりアシアトウアン ウツシマツル カタカムナを解明していくブログ。
男女のまぐわいによって息の根(へそ)の魂をほどき、女性の魂を男性の意志が操り、万物に憑依させることができる。この秘技を67首でもより鮮明に事細かくうたっている。 また、魂と体の関係、そして男と女の関係も人智を超えた法則が現されている。 魂は輪廻転生し巡り巡る物だということは以前の首でもあったが、その魂の輪廻とは死した場合だけでは無いということだ。 その魂の輪廻を生きながらに可能にするのが男女のまぐわいである。ヒトの魂も自在に操ることができる。 それは森羅万象のことわりを熟知し、使いこなしている者の術なのだ。我々現代人は、自らのことや森羅万象のことをまだ何も理解していなかった。人間とはなんなのか?生命とはなんなのか?魂とはなんなのか?そしてそれを熟知していたのが火水の民であり、カタカムナ人と呼ばれる者で有る。 しかし、カタカムナの実態はこれまで明らかにはなっていなかった。人類の歩み、そしてヒトとは何者なのかという答えがカタカムナには凝縮されている。 カタカムナという言葉には全てが凝縮されている。それは宇宙の全てと等しい言葉がカタカムナにある。 カタカムナを言靈で解いていく中で、言靈の編集者 弘法大使空海はこう残してある。 『天地自然のふみにして、凡眼凡慮の窺(うかが)うべきものに非ず。』 つまり様子をさぐることやのぞきみることはするべきでは無いとしめしている。蓋を開けるのは良いがおかしな解釈で遊んでいるとそれなりのことが現象化してしまう。ここから先は読む側も心して読んでいただきたい。 67首で死以外での輪廻が憑依という形で可能なことが示されている。魂とは操ることができるのだ。 私は、確信している。弘法大使 空海は輪廻転生に成功している。そして今の世にカタカムナの封印を開くためにその鍵を前世で残していたと。壮大な仕組みが周り始めた。新たな世を創造するために。
大麻飾りと高千穂神楽面『坤の金人』 天岩戸神社 奉納記念講演会
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カタカムナ66首を読み解く 無にして有なり。有にして無なり。
女性の魂は水、男性の意志は火が、合わさり天之御中主の御靈の形となり、灵(タマ)となり、その存在は無であり有であり、有であり無であるものとなる。そしてその灵はあらゆる生命体に憑依することができる。 女性の魂を男性の意志が操縦し、天を巡ることが可能になるという秘技。66首ではより鮮明にその手法を説いている。 カタカムナ万物創造の原理は実態の無い灵(タマ)までも生み出すことができる。生命の無限の可能性がこの66首で明らかになった。 人は人である潜在的な能力を存分に引き出した時に万物の霊長となり、時空をも超越してしまう能力を持っている。 狸に化かされた話や、忍者の術や、天狗の術などの由来もこのことでより具体的に理解できるようになった。 かつて、国東の山に棲んでいた鬼に仏僧は法力を学びに山に入ったという。 火水の民が隠れ身になり、森羅万象の理からこうした術を編み出しその後時代の局面で得体の知れない術として残っていたために日本の各地ではおとぎ話のように残っていったのだろう。
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カタカムナ64首を読み解く 【奥義解禁】自らの魂を天を回らせ憑依させる
男性の意志(火)と女性の魂(水)の二つをつかさどり、森羅万象の理(ことわり)を開く。火は水中に入り、形が見えず、形が無い水(魂)の始めの法則。 火は水を動かし、火は物を分離させ、水は物を接着させる。この法則はカタカムナの原則の中で常に中心にある原理だが、この原理で人間の体と魂を分離させ、それを自在に操り、自分以外の生命体に憑依させることができるという。 64首ではその手法と原理が鮮明に描かれていた。その奥義は男女のまぐわいから起きるという。 未だ生命の神秘は解き明かされていない部分が多大にある。特に魂と体の関係については実に奇妙な現象だが、カタカムナではその根本原理から一貫して説明していくのでこの神秘をことごとく解き明かしてくれている。 間違いなくこの内容は公開する内容ではないと思うが、あえて公開に踏み切って前に進んで行きたいと思う。 この文章を読んんでくれている方は間違いなくカタカムナの呼び寄せている世界に反応している人だと理解している。 カタカムナは人智を超越した、いわばカタカムナ自体が天之御中主なのである。天之御中主が今の世に出現してきたからこそ永い隠れ身から姿を現しこうして言葉となっている。この領域では人の凡眼凡慮なども到底及ばないものである。全ては天之御中主に委ねてゆく。 しかし、55首は私の中でもう少し練り上げたいので公開はせずにしかるべき時と場で出現させたい。 しかし、この術も生まれた経緯を見てゆくと、火水の民が新人類に侵略され、それを水となりてめぐり、新たな文化の形を生み出している。その新たな生活文化の中でまたこのような憑依の術を生み出し対応している。近年でもコロナや、戦争、経済危機とさまざまな火が私たちに及んでくる。しかし、この火をもって己が水となり変化してゆくことで新たなる物を創造していく原動力にもできるということである。この原理法則こそ造化三神であり、カタカムナなのではないだろうか。
カタカムナ63首を読み解く おのれのココロを操り、相手に憑依させる
63首を読み解きまさかこんな不思議な内容が現れてくるとは想像もつかなかった。 脅威の存在から居住地を隔ち、住む世界は別れたが常にその動向を監視している。 一つの処に定まらずに姿を隠しながらつかず離れず一定の距離を保つ。山々をめぐり、潜まりつつ流動的に動く。 と、ここまでは理解できたのだが、ここから驚くべき術の内容が現れてきた。 なんと幽体離脱のように靈体を体から分離させ、対象の相手に憑依し操る術を使っていたという驚くべき内容だった。 現実離れした術だが、これまでの森羅万象のことわりに沿った手法だった。 しかし、よくよく考えてみると、昔は“ヒトを化かす”たくさんの動物がいたという話は聞いたこともない話ではなかった。 たとえばキツネ、タヌキ、ムジナ、イタチ……。そのような動物たちがヒトを化かすのは不思議でもなんでもなく、“普通の出来事”として昔は語られていた。 これが実は動物が化かしていたのではなく、山に隠れた火水の民がその後、天狗や鬼や山窩や妖怪などと呼ばれる得体の知れない存在になっていたことと結びついてくるのだ。 この63首の中で、魂や心を相手に憑依させて動かすという内容を読み解く中で、私自身が山で磐座に触れている時の感覚に似ていることを思い出していた。 ある時、磐座の上に座っていると、かつてそこにいた人の想いや感覚と自分が重なっている感覚になった。その時にこの地球の美しさに感動が込み上げてきて、他の意識を感じたことがあった。 山を登っている時にも、意識の気配を感じることが多々あった。 一般常識では理解できない現象だが、この世界は常識では測れない未知の要素に満ち溢れている。 かつて、平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日〈1776年10月6日〉 - 天保14年閏9月11日〈1843年11月2日〉)は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。が、天狗にさらわれた子供、寅吉が神隠しから奇跡の生還を果たしたその生々しい証言をまとめた 異界探訪記・現代語訳 仙境異聞 という本をまとめているが、その中に出てくる天狗のエピソードとも重なり、謎に満ちた日本古来の核心がカタカムナ80首で紐解かれてゆくのかもしれない。
あとがきに言葉にできないくらいの偉大な理(ことわり)を目の当たりにした。かつて古代文明で忽然とその姿を消した人々。 縄文時代から弥生じだいにも忽然と縄文人の姿が消えている。その理由がカタカムナの中に明確に示されていた。 カタカムナの奥義、これはこの先の人類の命を存続させるために今、出るべくして出たとしか思えない。 永い時を経てその隠れ身が姿を現した奇跡。天狗、鬼、忍者、その実態が掴めない理由がここに示されていた。
前章では天之御中主の正中、中庸の偉大さを現していたが、61首では万物想像の原理であるカタカムナの法則をこの場面でも適応させている。 火力を持って侵略してくる敵でさえも和の心をもって対応する。 その心は、水は動かされるもので火は動かすものであり、水は火によって形体を変化させ流動的に列なってゆくという森羅万象の理(ことわり)。 形を固定せずに変化させ形無き循環には終わりがなく、形あるものには必ず終わりが来るという摂理だ。 自らを固定せずに動かすことは軽く、他を動かすことは重い。 この思想はまさにカタカムナから生み出されたという合気道の如くの立ち振る舞いだ。武力を持って侵略してきた相手に武力で衝突するということは火と火をぶつけ合うという森羅万象の理(ことわり)とは合致しないものになってしまう。 自らを水の如くに流動的にすることで変化し、新たなる物を生み出してゆく。カタカムナの原理を持ってすれば、いかなる状況であれ柔軟に変化し対応し永遠に循環を繰り返して行ける宇宙の黄金律ともいうべき人の在り方ではないだろうか。 今、まさに人類は大きな転換点を迎えている。この時代にカタカムナの森羅万象の理(ことわり)を適応させることで終わりに見える状況下でも、それが始まりとして新たな創造を生み出すことができるのではないだろうか。
真の火とは、天之御中主とは、和の國とは、万物を生み出す◯アとは、カタカムナ60首では、その全ての究極の答えが全て凝縮されていた。 自らの生命が脅かされた際に出した答え。 その答えはまさにカタカムナであり、万物を創造する◯であり、穴であり、和であり天之御中主であった。 人智をはるかに超越した和の心。 そこに真の火を見たり。 火水の民の万物創造の奥義天之御中主はまさに正中をつかさどる神なり。 神がかりとはこのことを言わずして他にあるのだろうか。 火水の民の選択によって今の人類が存在していると言っても過言ではない。 全てが八方塞がりになった時に、全て良しの答えを出す奥義こそ天之御中主神になる。 カタカムナとはなんなのか?の答えが見えてきたのではないだろうか。
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この首ではより具体的に新人類の攻撃性、欲望に駆られた行動が表現されている。 やはり本能的欲望に駆られる行動とは、性欲、食欲、睡眠欲の三大欲求を満たすために各地を移動し残虐行為を繰り返していったのだ。 火水の民は物事を取り決める時にも血を流さずに話し合いで平等に解決して行くのが常識だったために相手を殺す武器などは所持していなかったのだ。 そこに攻撃的な武器を持った新人類が押し寄せてくると防衛することを知らない火水の民はされるがままになってしまうのは無理がないのである。 日本人の気質というのはこの頃からあまり変わってはいないのだということが理解できる。 武力による侵略はそもそもの気質的にはあっていないのだ。争いを好まず、和を持って相手と向き合い睦あうという火水の性質が日本人の根底には受け継がれているのだ。 武力に武力をもって戦いを好む種族は神には好まれていないことも察せられる。
55,56首の話は別格の奥義が組み込まれていたが、57首で五色人の話に戻ってきた。 円満の人の世に介入し混乱を招き、離れたところから影に潜み災を起こし、天之御中主を怒らせた。 分離し共に歩むことを拒み、父母なくして天地の氣より生まれたもの(旧人類の末裔ではなく突如発生した新人種)五色人は澄めるココロを失い濁っている。 自己の本能の赴くままに攻撃的に行動する。旧人類は日本から生まれ天の人と地の人も、天之御中主の氣から生まれていた、それも時がたち天の人と地の人は混ざり見分けがつかなくなっていたが、根本は天之御中主の氣にあった。 しかし、新人類の五色人の御靈は天之御中主に由来しておらず、異なった地で自ら氣より生まれ出てきたと云う。そして、その気質は凶暴で睦あうことを拒み独自に広がり始めた。そして、新人類の蛮行は天之御中主を怒らせたと記述されている。
天地自然の文章(ふみ)にして、凡眼凡慮の窺(うかが)うべきものに非ず。されども、天地自然の神宝(かんだから)なる、布斗麻邇の御靈(フトマニのミタマ)をもって占へ奉りて、解くこと此如く。上来述る処、更に私なし。唯、天地の水火(イキ)をもって、解くこと此如也。 人々は解けない物を解くことに躍起になり、本当に大切なものが見えなくなっている。天地自然の法則をもちて解かなければ決して解けないものを解く手段にとらわれていても一生解くことは叶わず。根本も知らずに解く事など凡眼凡慮の窺(うかが)うべきものに非ず。真に大切なことは、天地自然の神宝によって解きほぐされた言葉の真意を理解することである。おのれの御靈を磨くと云うことは、火と水を己の内で和すこと。手法、概念、地位名誉、に本質は存在していない。スイチの心で根本を見よ。
カタカムナ55首を読み解く 五音=イネ=稲 すべての道の繋がる処 封印の首
カタカムナ55首を言靈によって読み解き、今までの長い道のりの意味が理解できた五十音を唇舌牙歯喉の五音に配して、アは喉音にして、五音の本也と云う。五音=イネ=稲 まさに究極の奥義のありかを示していた。道開きはここに通じていたのか。この叡智は人に与えられた物であると今までの首で理解した。 森羅万象の理(ことわり)は 天地開闢の時、現象として形になって顕れ、さきわける天地を治め、火(物事に変化を起こす力)と水(物事を現象化させる力)と矛盾を兼ね備え、一つにする。 火(物事に変化を起こす力)と水(物事を現象化させる力)の氣(イキ)の理(ことわり)をよく理解し、実行する者を人と云う。 天地万物が備えたる理(ことわり)を行わざるときは、人もひとに非ざる。 古事記神代の巻の神秘がここには記されていた。つまり、ここは人たる者火(物事に変化を起こす力)と水(物事を現象化させる力)の氣(イキ)の理(ことわり)をよく理解し、実行する者こそが手にすべき奥義で、人に非るものが手にすべきではない神秘の奥義なのだ。よって、この章は鍵をかけることにした。人に非る者がこの奥義を手にすることを防ぐために鍵をかけることにした。これは火(物事に変化を起こす力)と水(物事を現象化させる力)の氣(イキ)の理(ことわり)をよく理解し、実行する者となる人にだけ継承するべきである。それは火水の眼をもって明らかに見極める必要がある。
カタカムナ54首を読み解く 火(物事に変化を起こす力)と水(物事を現象化させる力)の氣(イキ)の理(ことわり)
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この53首では、旧人類と新人類の交差する時代の「人種の違い」を強調して現していた。人類の経緯というものは謎が多くあまりその実態はわかっていないのが現実だが、以下のようにざっくりと考えられている。 人類の発達→直立二足歩行・道具の使用 猿人(アウストラロピテクス) 原人(北京原人・ジャワ原人) 旧人(ネアンデルタール人) 新人(クロマニョン人・上洞人)→洞穴絵画(ラスコー・アルタミラ) 石器時代 旧石器時代→打製石器 新石器時代→磨製石器 しかし、カタカムナでは人類の創生は進化論からではなく草木から生まれているとある。人間だけではなく虫や爬虫類や鳥類なども最初は草木から氣(イキ)が凝り固まり、さまざまな生命体が生み出されたようだ。 人類も進化の過程で原人が変化したのではなく、地球の天変地異などの変化によって生み出された人種が異なっていったということが見えてくる。 そして、明らかに後者に誕生した人種は見た目は人間なのだが気性は依然とは異なっていたという。 攻撃的で欲求が強く分かりやすくいうと野蛮だということになる。進化論的には後者になるにつれて知能も知性も進化していると考えられてしまうが、森羅万象の法則的には、火は澄み軽く速い、水は重く遅く濁るという性質がある。そうすると天地の氣の澄んだものが早く生まれ遅れて生まれる方が濁るという法則が当てはまることになる。このような人類の種族が入り混じる混沌の時代が確かにあり、その中で複雑に入り混じっていって今の人類に繋がっている。
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カタカムナ51首を読み解く 世界の闇夜に平和の日を照らす象徴
カタカムナ51首を読み解き、主上(天皇)の成り立ちと象徴の意味が鮮明に理解できた。天皇とはその眼(マナコ)に火垂(ヒダリ)に月、水極(ミギ)に日を合わせ持ち万物の正中をつかさどり、日本国だけではなく世界の平和の象徴として森羅万象を動かし、そこにとどまる者。世界の闇夜に旭を照らす象徴。まさに旭日旗は其のことを現している。神代(カミヨ)とは火水與(カミヨ)と書く。神とは偉大な力の象徴や血統ではなく、火水を與え和をなすという象徴である。平和の象徴であり、世界に日を照す象徴である天皇の存在意義をカタカムナでは明らかに示していた。
カタカムナ50首を読み解く 人の心は自由にデザインできる縄文土器
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カタカムナ万物創造の原理とは人の心を創造してゆくことにもこの原理を使っている。生命を創造し、国を創造し、世を創造し、心を創造してゆくのもカタカムナ。カタチなき水に真の火を入れることで万物は創造される。 万物を創造する氣とは天地の氣と同じだけれども、そこに情が込められているかいないのかでは大きな違いになるという。人の心を創造していく火にもこの『情』というものがあることで大きく生まれるものが異なってくる。世を創造してゆく時も同じで、『情』があるかないかで大きく生まれ出るものが異なってゆく。なんとも本質的な真理を現している。 この49首は一見言葉が少ないのだが、そこに込められている想いはなんとも奥深く壮大で本質的なものが込められているのだろうか。人の心までも創造してゆく過程を描いているカタカムナ。人々はこうして神に創造され育てられたのだと思うとそこに感動と感謝がこみ上げてくる。
火水(カミ)の教えとは、すべての隔たり、国境、人種、宗教、などは基(モト)をたどるとすべては一つの根源に行き着くということ。国を分け、住まう人々を分けたがそれは人々がより豊に生きていくことを目的として行ったことだということ。ワレとはおのれにあらず。他を指して云うなりとある。ワレとはおのれだけのことを考えるのではなく他のことを考える事を忘れるべからず。とカタカムナではいっている。人類は決して忘れてはならないものを忘れてしまった。もし、これが封印されたものだとしてもそれは人々の心に留めておかねばならないもので、決して権力者の陰謀のせいではないことがわかる。誰もがわかっていることに目をつぶり、見て見ぬふりをして自己のことだけを考えてしまっているのではないのか。今の世に天の人は世界を回ってはいない。しかし我々の中にはその血が流れている。全ての地球上の人間には天の人の尊い血と真の火が残っているはずだ。カタカムナの言葉に触れているととても崇高な出来事に驚きを隠せないが、反面誰もが理解できる実に素直な心で世の中をつくっていたのではないのかとも思う。決して理解不能な技術や、神がかった精神性ではなく、誰もが素直になれば理解でき、納得できる方法なのではないだろうか。とてもシンプルな真の火を複雑怪奇に解けないくらいに絡ませてしまったのは我々人間自身なのかもしれない。
カタカムナ47首を読み解く アマテラス ツキヨミ タケハヤスサノヲの実態
国家を治める平和の象徴をもった者は、差別なく、信義を貫き平和的に領土を分配した。火と水の中立を見極める眼をもち、国家に安寧を導く者。 それがスメルである。スメルとはそこの地に住める者であり、その地に平和をもたらすものである。平和とは公正、中立、信義を象徴とし、決して自己の権力を振りかざすことのない真の火をもつ者である。 はるか古代にはその地を治めるものはこういう信念のもと人々を導いていった。国家を治めるものは男で、さらに国家を細分化する際には女性がその役職についていた。やはり女性も公正、中立、信義を象徴とし見極める眼を持つ者がその役職に就いた。 いつからか人類はそれを権力と履き違え、平和の象徴である剣で人を殺してしまうという愚かな欲に眼がくらんだ生き物になってしまったのだろう。 国家を治めるもの、都道府県を治める者、町を治める者、村を治める者、家を治める者、組織を治める者、全ての治める者のあり方の手本がカタカムナにはある。 治める者とは権力ではなく、中立であり公正であり、偽ったり欺いたりせずに約束を守り、相手に対する務めを果たす者こそ人々を平和へと導くものだ。幼稚園児の方がわかっていることを永い時間人類は忘れてしまっているのではないだろうか?
カタカムナ46首を読み解く 地球という一つの生命に仕切りを創った
一つの地球に住みわけるために境界線を創っていった。現在での国や県、町、村、家などというように細かく細分化していった。元々は境界線などなく誰の所有物でもない天地から生まれた自然に境界線を創造していったという。この創造もカタカムナによって生み出されていった。そして驚くべきことは天は賤(いや)しさがなく、平等に、そして円満に成し遂げたのだと云う。人類は私たちが知っている歴史の中でこの境界線を奪い合い、侵略しあい賤しさだけの心でお互いを侵略している。カタカムナの時代とは全くの正反対の概念になっている。これは真の火を持ってことを創造しなければ現代の人々のように賤しい奪い合いになってしまうと云うことがおおいに理解できる。人類の全ての信仰がもう一度カタカムナに戻ることこそ再び地上に天国が訪れるということなのだろう。カタカムナとは古代人の謎の文字ではなく、現代の人類が忘れてしまった本当の火水(カミ)の教えなのだ。世界にあらゆる信仰が残っているが、その大本の概念を再び地上に思い出させること、これがカタカムナが今こうして再び真の火を持ってこの世界に現れた意味なのではないだろうか。日本人、世界の人々、それは国境など本当は形なく、ただ自然と一つの地球があるだけ。この根本を思い出すことで人種差別や国境問題など今の人類が克服できない問題が一瞬で解決してしまう。一人でも多く『カタカムナ』を知ってもらうことが大切である。永い永い時を経て再びカタカムナの灯火は世界へと輝いてゆくだろう。
天を鳥に乗って自在に巡航できた天の人は、世界に国境を作り土地をみんなに分け与えていった。円満に土地を分け与え平等に分配した。現在では土地を奪い合い殺し合いになっているが、かつて天の人は平等に皆が満足するように国境を作ったので争いは起きていなかったとある。天の人は火水の教えを基本に世界に文明の種を広げ、人々が平等に暮らせるように国境と個々の家の土地の境界線まで作ったというなんとも偉業を成し遂げていた。想定するに人口も当時はかなり少なかったのだろうが、今の人類のような暗き争いを治めるだけの決定的な力と叡智の差があることがわかる。まさに世界の人々は天からやってくる圧倒的なものたちを神と崇め崇拝し、従うだろう。こうして世界各地に神の伝説が残っていったのだということが見えてきた。
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カタカムナ43首を読み解く 混血 無くしたものと無くならないもの
時は流れ・・・43首を読み解く中で、その内容に戸惑いながらその想念を探った。天から生まれし者とは、国東半島の中心にかつてあった扶桑の木、つまり天之御中主から蒸し生まれた天人を指している。そして地上の木から生まれた人々とは見た目にも差異があったようだ。しかし、火水の教えが火と水に分裂し、時が達意ごとにその本質的な取り決めが薄れ忘れられ禁じられていた混血を人々はするようになったということが見えてきた。天人と地人ではかつて血をまじらわせてはいけなかったということがわかる。そして永い時がたち、混血を繰り返す人々は次第に新たな人種として生まれたのだ。それもカタカムナの万物創造の一つである。こうして人は天人と混血を繰り返し、天人の容姿は特徴がなくなってしまったという。果たしてどのような容姿だったのか気になるところだがそこに関しての描写は抽出できなかった。しかし、姿形、そして血、火水の教えは根源の名残を消失してしまったのだが、最後にはそれでも天之御中主から受け継いでいるものはなくなりはしないと結んでいる。
カタカムナ42首を読み解く カタカムナ『別れる正さ、輝きをなくし、盲暗三世にわたる』
時は流れ・・・火水の教えが、火と水に別れ人々に広まってゆく、根源は一つから生まれた火水の教えだが、時が経つにつれて解釈が相違しながら派閥が枝分かれしていった。そして最初に取り決めた血縁をこえた男女のまぐわいがはじまり入り混じっていった。そもそも近年まで皇室も血縁の決まりがあったが一般的には逆に血縁では結婚はしないが、古代では血縁内での配偶が取り決めだったようだが、いつからかそれが破られていったのだという。それは根源の火水の教えが人伝いに徐々に分離して最終的には見る影もないように消滅してしまったのだという。ここで気づいた点がある。カタカムナ42首にきてこのカタカムナは時間を第三者的な視点で捉え永い時間の経緯までも歌にしているということだ。もし、初発の歌だとしたら火水の教えの信仰がこのように消滅してしまったという視点では描けないはずだ。今の段階ではあくまで仮説だが、初発の火水の教えではなく、それをベースに何者かがカタカムナを再編集したのではないかと感じている。今後カタカムナを読み解き進めていくことでその真相も明らかになるのではないだろうか。
時は流れ・・・火水の教えは人々に深く浸透していった。基の教えは一つだったが、時が経ちその教えは水(陰)から説く月読と火(陽)から説く天照へと枝分かれした。 時系列でいうと、カタカムナではスサノヲにあたる者が世界に主の経綸を広め、それから時が流れ主の経綸は水と火に分かれ人々に伝わっていったという流れが見えてきた。全ての根源であるカタカムナからどうやって枝分かれをしたのかの経緯がはっきりと示されている。カタカムナでは全ての発生の原理を事細かく描写しているので、歴史的に見えずらい経緯もしっかりと浮き上がってくる。 大分県国東半島の神仏習合というのも天之御中主の地で集合したことにもつながり、神仏集合の地は神仏発祥の地でもあったということが成り立つ内容でもある。根源を辿ると物事の経緯が鮮明に理解できるので、歴史の暗闇に火が照るごとくに知ることができる。
火水の教えによりものこと育ち、千年、万年の年月経ち、人々の心と真の火(ゝ)を結ぶ。真の火(ゝ)こそ、カタカムナであり、天之御中主である。『火水の教え』とは世界中に広まった信仰の原型になるものだと理解できる。世界に残されている、卍や菊の紋章などは『火水の教え』を象徴した記号だということがわかってくる。世界の信仰はとても永い年月を経て『同じ株から生まれた枝に、形や色が違う花が交じり咲くごとき』別れていったのだが、大本を辿ると全ては火水の教えがその根源になっているということ。今、世界では宗教という枝葉がさまざまなカタチになり、解釈の違いの中で命を奪い合っている。それはこの大本の教えである『火水の教え』を忘れてしまい、全くその存在もなきものにしてしまったが故に世界は混乱を招いている。まさにそれは暗き眼である。カタカムナとは、そんな混沌とした世界の暗き眼に一物の火を差し込む世界平和の灯火でもあるということがわかった。
人々の心に真の火(ゝ)火水(カミ)の教えを伝え広めし者によって、地上の人々は火水(カミ)の教えを理解し、眼(マナコ)となる。そうして新たなる生命の価値観が生まれ人々は家を造り暮らすようになった。神とは火水の教えであり、人類誕生、万物創生の原理である。父母の体に天地の靈(タマ)が宿り、全ての生命はこの原理から生まれる。そのことを理解した人の心にも新たなとても尊い概念が生まれ世界に真の火(ゝ)の平和が訪れた。天之御中主の実態から移写(いしゃ)された火水の教えを広め伝えし者は主(ス)の経綸のヲ(男)ここに、主(ス)サ(さきわける=広め伝える)のヲ(男)が顕れてきた。スサノヲとはまさに人々の心に真の火(ゝ)火水(カミ)の教えを伝え広めし者ということから呼ばれた名だということが理解できる。
夜の暗闇に、朝日が立ち昇ることですべてを生み出す。 旭日旗とは、立ち昇る朝日 すべての人類の魂は、アメノミナカヌシの御分靈からなっている。 人類は忘れてしまった。 しかし、忘れてしまった混沌の暗闇に真の火が照らさせることで、新たなものが心の中で生み出される。 どうか世界の家族たちの心に、真の火がこの朝日と共に照らせ。
皇国の法則が制定され、命の仕組み、万物を起こし、動かし、働く様をカタカムナによって人々の心に深くさせていくには大変な時間と苦労があったということがわかる。人々の心を根底から共鳴させるには、アメノミナカヌシからの大本を理解することから始まる。国土を安寧へと導くのは一人ひとりの心に真のゝ(ホチ)の火を灯し、新たな概念を創造する。まさにカタカムナの仕組みがここでも働いていたということが読み取れた。カタカムナとは、物質や生命を生み出すだけではなく、人々の心、平和な世界を創造する上でもその原理が働いている。まさに全大宇宙にあらゆるものを創造させる原理だといえるのではないだろうか。
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人が誕生し、崇高な神(火水)の教えや理(ことわり)を伝え広めようとしても、なかなか人は理解できずに否定したり、忘れてしまう。それでは草や虫と同じであり、暗き道を歩んでしまう。この36首を読み解いてく中で私は、正直なところ、躊躇した。こんなネガティブなことが書かれているということに読み解き直したが、どうしてもしっくりこない。やはりこのような戒めの読み解き方の方が直感的に全体の内容がつながってくるのだ。しかし、固定概念をなくして向き合ってみるとまさに人という生き物は迷い、忘れ、道に暗く、いくら崇高な教えであろうとなかなか理解できない者であるということは現代の人間を見ても明らかである。争いは止まず、摂取しあい、嘘をつき、まさにこの36首に出てくる人間は現在の人類にも当てはまってしまうではないのか。そう思うと、なんと率直な目線から人という存在を観察しているのだとリアリティさえ感じる。国土を平和に治めようと取り決めを作ってもそれを人が守らなければ取り決めの効力は発揮できない。神もそんな人間を見て苦労し、悩んだのかと思うとその苦労がうかがい知れる。さて、これからどのようにカタカムナが展開していくのかがとても気になってくる。
人が誕生し、まだ国土に秩序が存在していなかった混沌の時代に国土に和平をもたらすために人に上下の関係、夫婦、兄弟、明友、父子の関係を明らかにし、火水(カミ)の教えを人々に認識してもらい平定していったと云う。まさしく人類に文明の基礎となる教えを広めたと云うことがカタカムナの中から読み取れた。人の秩序を教え広めるためにカタカムナはウタヒとしてまとめられていった経緯がわかる。これは、生命の経緯、社会秩序、そして信仰全てが統一された主からの啓示に他ならない。まさにスサノヲはこの経綸を広めし者と云うことに繋がってくるのではないだろうか。35首でこのような展開になるとは正直思ってもみなかった。 カム ナカラ オホト ヒワケ ノ カタ カムナ カタカムナとは、人間に秩序をもたらすことまでも内包する万物創造の言葉なのだ。
太陽と月が絡まりあい、幾度も繰り返され永い年月日時が流れている。太陽と月の運行により時というものが年月日時を隔てる仕切りとなっている。カタカムナには人間の学ぶべき自然の理が凝縮されている。時の仕組みをあるがままに表現し、真理として時と命の関係性を説いていることが読み解けたのだが、カタカムナを天然自然から移写した存在の高度で崇高な感覚と表現力、そして精神性に触れているとそこには人智を超えたものの存在を感じてならない。これから先の首を読み解いていく上で、探究心と畏敬の念さえ感じてしまう。カタカムナウタヒは首を進むにつれて螺旋状に人の魂と靈性も上昇させてゆくのを肌で感じている。このブログを読んでいただいているあなたも、カタカムナとは人智を超えた大いなる天然自然の理がそのまま言靈として魂に響かせているので、心して読み進めていただきたいと切に願う。 追伸・・・カタカムナを言靈をもって読み解いているが、ここに至るまでにとてもとても永い時を経て携わった数多くの偉人により解けている。奇跡的につながりが途絶えなかったことからもまさしく大いなる何かによって仕組まれているとしか思えないのである。なぜ今カタカムナの封印が解かれてゆくのかを各々が感じ心に留めていてほしい。
時の流れは過去現在未来に枝分かれ、進むにつれて枝葉花実のように鮮明になってゆく。カタチあるものは必ず限りがあるが、その命はつながってゆく。始まりなければ終わりなし。終わりなければ始まりなし。カタカムナでは、時の流れもカタチが隠れているが氣(イキ)のほぐれで物事を鮮明にわかつものだと表現してる。命とはカタチに依存しているのではなくそれはめぐりめぐっているというゆったりとして壮大な世界観を時の流れで示してくれている。カタチははかなきものだが命は脈々と繋がっている。
カタカムナ32首を読み解く 時とは『與む氣なり。割別れて息を與む。』
カタカムナの万物創生の理(ことわり)によって、時(とき)も生み出されている。 時とは『與む氣なり。割別れて息を與む。』とある。カタカムナ人にとっての時とは、万物が生まれる原理と同じように氣(イキ)が息(イキ)に與むことで自然とやわらかにめくりめくもの、そして時が経つことで、一粒万倍にもなるしひらき散ってゆくと表現している。尊き靈(タマ)を氣(イキ)に與むとは、人は生まれてから死ぬまでの時の中で限られた息を与られている。その限られた尊き息も時が経てば散理ゆく物。そして、散って躰から離れた氣(イキ)は空中の水へと戻りめくりめく再び新たな生命へと宿ってゆく。それが子々孫々続き、永きをを経てゆくと示している。
カタカムナ31首を読み解く イハトヒラキ、万物創造、こそカタカムナ
カタカムナとはなんなのか? 31首ではカタカムナとは万物創造の仕組みのことを現している。 水の万物創造の母に一物のゝ(ホチ)火が與むことで天地の氣(イキ)がひらきすべてが生み出されている。これをイハトヒラキと云う。 これは、タカミムスヒ、カムミムスヒが搦み睦むことで氣が開き、アメノミナカヌシが誕生する造化三神の仕組みと同意語になる。 このイハトヒラキ、万物創造、こそカタカムナであると云うことが読み解けたのである。
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カタカムナ29首を読み解く 天地をアヤなせる万物の霊長なる人
人の魂、躰、心をつかさどる天之御中主神から発せられる氣(イキ)は澄むものは天に昇り、濁るものは地へと降る。 人から言靈が発せられ、吐くいきと言靈の火によりできる影が天地の水と與み塊り現象化を起こす。天地の理(ことわり)に潜んでいる法則である。 この法則こそカタカムナであり、高皇産霊神、神皇産霊神がからまり天之御中主神たる万物の創造の根源の仕組みである。 天地が動きカタチが顕れるとき、降る火に水氣の交わるとき。水と火が交わらねければカタチが出現することはない。万物創造のはじめの真の火が暉くとき、言靈の火の働きにして、必ず水に與む。天をめぐる水に言靈の火が搦み舫うとき全大宇宙の氣(イキ)が降りそそぐ。 全ての虚空(想念)は水であり、ここに火を與むまではカタチを隠している。火水を動かすときは、水中にまず火を入れれば動く。それは水に火を当てることで気体になり、雲になり、雨となり、川となり、海となるように、水の循環が日によって起こされる。 火とは、天之御中主のゝ(ホチ)こそ正火のヒなり。 天地をアヤなせる万物の霊長なる人は、天地と向かい対し、マヒマフ(舞い舞う)、スイチに向き合う(ハタカノコトモのように向き合う)なり。動くものは水にして、動かすものは火也。 火の為に水動かされて、はじめて形を顕して昇りはじめ、一滴のタマ、サキワカレて天地万物となり、永世尽きることなし。 故に大いなるものは、水中の火靈の一滴にすきたるものなし。
カタカムナ28首では、ヒトの発する言靈に天地の氣(イキ)を吐く息に搦み、息の根であるヘソをひらくことで、言葉は万物を現象化させる呼水となるという事をうたっている。其の言葉は真の素直な心、すなわち命の源から発することでゆっくりと現象化を起こしてゆくとある。言葉は神であるという事を裏付ける言靈の究極奥義ではないだろうか。言葉は意思の疎通の道具ではなく、ヒトが万物の創造主になりうる大いなる力ということが理解できる。
ヒトが誕生し、ゆるやかに成長した人は、言葉を発するようになる。言葉とは無から有に現象化を起こすものであるとカタカムナでは説いている。その言靈は生命の息の根である天之御中主から出る息と共に発せられている。言靈とは素の命の根源から発せられるものが万物を生み出す力を出すというように理解できる。そして言葉はさまざまに與みあい人々の間を行き交っている。
ヒトの性交があり、男性の火と女性の水が與み塊り生命が生まれる。性交とは子々孫々と受け継がれる大いなる天之御中主、高皇産霊神、神皇産霊神の相似象であるヒトを生み出すための生命の起源であり、崇高な男女の交わりを描写している。生命と性交は直結であり、生命と性交と天然自然の理(ことわり)とは神を信仰するが如くに尊いことだったのだと理解することができる。火と水の凝りによって万物は生まれ、島、虫、草木、人も同じ法則で創造されている。
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カタカムナ24首を読み解く 地球上にヒトが誕生したときの経緯
天地の氣(イキ)の凝りが塊り大きくなり、島ができ、草木が芽吹き、虫がわき、そして火と水のイキがやわらかく與るんで、呼吸(イキ)をするヒトが割別れできた。ヒトの誕生は天然自然の理(ことわり)によって創生された。天を回る氣(イキ)を発(ひらく)一物のゝ(ホチ)が水火に與んで血が流れ人のカタチとして顕れた。その一物のゝ(ホチ)とは天之御中主のゝ(ホチ)であり、一粒で万倍へと子々孫々に分かれてゆく。 カタカムナ24首では、ヒトがヒトのカタチになってどうやって地球上に生まれたのかを歌っている。人は、それぞれの島の木から蒸し生まれ、御靈は全て天之御中主よりわけ与えられているという。人類の根源的な信仰の対象が世界中で天之御中主だったということに繋がる驚くべき内容だ。
カタカムナ23首を読み解く 天然自然の大いなる理(ことわり)
島ができることによって、そこに草木が天地の氣(イキ)から生み出され、草はあっという間に生い茂てゆく。草の生命力は万物の中でも一番天地の氣(イキ)を受けやすい。そして、天を回る氣(イキ)は次に虫を生み出してゆく。 島ができ、草木が芽生え繁り、虫が生まれるという天然自然の大いなる理が幾度も繰り返されている。
カタカムナ22首から島ができるまでの経緯に切り替わっている。島は天地の水火(イキ)が凝り固まり、円形の島が浮かび上がり列なる様子を現している。島のモトとなるものも天地のゝ(ホチ)に氣(イキ)が集まりめぐりおのずから(自然の理で)形を形成してゆくと理解できる。古事記にある島うみの話はこの流れを比喩して表現していたのではないだろうか。『ツクシシマ』などの島の名前もカタカムナウタヒの中の言葉から九州に名が付けられた流れで、本来の意味は島の形ができるまでの様子であったのだと理解できる。
カタカムナ21首を読み解く 命の根源は、天之御中主神の御靈より代々継々ている。
天をめぐる氣(イキ)は生命として生まれるためにカラダとひとつに搦みあう。一粒が万倍にも広がる命、ヒトが天から宿される命の根源は、天之御中主神の御靈より代々継々ている。
【八幡 を 言靈で読み解く】
【秘蔵宝鑰 を 言靈で読み解く】
ヤハウヱ を 言靈で読み解く
カタカムナ20首を読み解く ついにヒトが完成し、命がひらき誕生する
天然自然の理(ことわり)を移写(いしゃ)している 天を回り、タマシイとカラダが與みあい、いよいよをもってヒトのカタチとなりこの世界に繋がる 時と処が定まり胎内に宿る。 天を回りカタチが現れた氣(イキ)により、まだカタチになっていない生命に與み渦巻きひとつになる。 からみあうカラダとタマシイが渦巻きやわらかな命がはじまる。 ついにヒトが完成し、命がひらき誕生する。
カタカムナ19首を読み解く アメノウヅメ 眼には見えなくとも魂は廻る
循環しながら宿り搦まる氣(イキ)と体は生命誕生を繰り返している。 体、魂、心は三つ巴で命となり繰り返し繰り返し誕生する。 搦みあう体と魂と心は自然の流れに沿ってめぐり生まれる 眼には見えなくとも常に回り、胎内の命と舫いで胎児となり誕生するのは宇宙に満ち満ちている氣(イキ) 眼には見えなくとも、万物の氣(イキ)は廻り、生まれては死にを繰り返している。
魂、靈は氣(イキ)と呼ぶ。氣(イキ)とは呼吸であり、火水(カミ)であり、氣(イキ)はこの世を循環しているありとあらゆる生命の源である。森羅万象の生命の氣(イキ)は形状を変化させ巡り巡っている。生命として生まれくるものには皆氣(イキ)が天から宿されている。身体と氣(イキ)が一つに搦みあい組み合うことで一つの生命体としてこの世に誕生することができる。カタカムナ18首では巡りめく氣(イキ)であり、魂であるものの循環に焦点をあてたウタになっている。
カタカムナ17首を読み解く 人の魂は天地を巡りめく天より分け与えられたもの。魂は循環している。
からみむつみ、火と水は二つ並び、絡まり合い渦巻き、そして生命がはじまる。 くみくみて、命のもとは絡まり合いそれが心と体と魂として一人のヒトの人生がはじまる。 自然の道理にしたがって、生まれ生まれ生まれ死に死に死に、それは連続し、生まれると同時に死を備え一物のゝ(ホチ)を天より分け与えられたもの。 天地、父母、魂、体、心がくみくみて、めぐり廻る水のように緩やかに続いてゆく生命。 父と母、天と地のふたつが交わることで新たなる生命が芽吹く 生命が誕生し、吸う息と吐くいきで呼吸を循環させ 全ての生命活動の要素がかみあい 一人の人間として成立し生きてゆく 円滑に繰り返される呼吸の根源には 母から産まれてきた臍のしるしがある 父母、天地が体と魂として搦みあいむつまじく一つになる 空中の水のように天をめぐり、尽きることなく 命は生まれる時に肉体へと宿り 幾度となく形ある体に宿ることを繰り返す 万物を生み出す生命の種子は幾度となく氣(イキ)となり循環しメクル。
カタカムナ16首を読み解く 「胎児原基」は、どちらの性にも発育できる特徴を持っている
男女の性は、受精によって決定するわけではありません。受精によってつくられた「胎児原基」は、どちらの性にも発育できる特徴を持っています。男女の性が決定するには、性染色体の遺伝子に始まり、思春期あるいは青年期まで続く性分化の過程があります。これらすべてが、女性なら女性、男性なら男性と一致して初めて、男女が決定されます。カタカムナ16首では「胎児原基」は、どちらの性にも発育できる特徴を持っていることをまさに記していることが言靈によって読み解毛ました。
カタカムナ 15首では、人体の血液が生命活動においてどのような重要な機能を持っているかを現している。 カタカムナ15首を言霊で読み解く。
天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神 天地間の一切はこの三柱の神の中心・遠心・求心の三徳の作用によって、生成化育、産靈(ムスビ)出されて尽きることがない。 神道とは産靈(ムスビ)の道であると云う。 「産ムス」と云う字は、何も無いところから有を蒸しだすとの意である。古歌に「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とあるが、この「むす」も同じ意味であり、息子・娘等の語義はここに由来する。 この産靈(ムスビ)の御徳によって大虚空に云うに云われぬ形をした一物が浮脂のように漂っている中に。葦が芽を吹くように立ち昇るものがあり、そして出現された神を宇麻志阿志詞備比古遅神と称し奉り、その萌え上がって天となったところに天之常立神、萌え上った根の処から垂れ下がったところに国之常立神、次いで豊雲野神が出現した・・・ そしていよいよ人間万物の祖である伊邪那岐・伊邪那美の陰陽二柱が出現した。 樹が苔むすことによって産まれたヒト。日本の古伝ではそう云い伝えられている。
天孫降臨後に天地をアヤなして生まれた祖がハヤト族という読み解きになる。 ハヤトのタテは 高皇産霊神、神皇産霊神が搦む天之御中主神を現しているものと解釈できる。 産靈 ハヤトのタテの渦巻き模様は、造化三神を表現しており、これは胎児と胞衣を結ぶへその緒も表現していると読み解くことができる。 縄文時代の信仰とは天之御中主神であり、それは人の生命をつなぐへその緒として縄として表現されたり、こうした渦巻きにも投影されていたと繋がる。 まさに生命の根源である造化三神であり、『ア』と『ワ』の二音舫て『ヤ』となり、アヤとなる。 ハ ヤ ト 西郷隆盛の語録にカタカムナを感じる理由はここに繋がる。
カタカムナ14首を読み解く 生命を維持するために、血液は常に循環している
カタカムナ14首では、人体を造る基となり、呼吸の酸素を全身にめぐらせる生命の原理をうたっていると読み解いた。 全身を動脈(火)と静脈(水)、心臓の機能、躰をつくる源の血液の仕組みを現している。
日本語の言霊ではないけれども、人間の集合意識、想念から生み出される奇跡というものは本当に実現している。 この動画を見て最初、驚いたのだが、日本も古来よりこのように人々が集まり、祈祷や雨乞いなどもしていたのだろう。 私たち現代人は忘れてしまっている力は本当はあらゆる現象さえも動かしてしまうものではないのかと思える。
カタカムナ13首を読み解く 生命原理の根幹 伊邪那岐・伊邪那美の呼吸
天地自然の呼吸より、息の発するにしたがいて、自ずから水火(カミ)の氣(イキ)舫塊舫塊(モロモロ)の水火與(ミコト)と云うことにして、天之御中主神の水火(カミ)のイキの御形より、阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)の人体の完備を神格化した法則のことを現している。 伊邪那岐・伊邪那美、二柱の「クニヲツクリカタメナス」とは、クニのつづまりキにして、氣なり、イキなり。ツクリカタメナスとは、造り固めることになり、呼吸(息)を自ずから循環させることこそ生命原理の根幹であり、伊邪那岐・伊邪那美はまさにこの呼吸の綾のことを云っているのである。 そして、息の根とは臍(へそ)になり、臍こそ天之御中主神坐す処と云うように繋がるのである。
『古事記』では「幽の幽」の神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、宇麻志阿志詞備比古遅神、天之常立神、国之常立神、豊雲野神、宇比地根神、須比地根神、角杭神、妹活杭神、大戸地神、妹大戸辺神、面足神、妹根神等である。
古代の言語観念は、必ずしも現在の我々の言葉に対するそれと同じではなかった。古代では、言は事であり神であり、言葉は言葉を発するものの息、或いは天地の間を繋ぐ風、森羅万象の音、響きと密接な繋がりを持ち、これら総てがほとんど一体化していた。従って、言葉は我々の意思や協定を超越し、それ自体が確固たる存在と考えられ、事実其のように作用した。言葉は我々が統御しうる存在ではなく、逆に言葉によって我々が統御されたのである。言葉を使って我々が考えるのではなく、むしろその時我々を使って言葉が天地の間を自在に活動していたのである。
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