ブリコラージュとして弓を再現周囲にある蔓植物を色々調べてみたところ藤の弦は切れやすいことアオツヅラフジは少し乾燥すると切れてしまうキンギンカ、スイカズラが使用に耐えそうなことが分った弓とする木は適当な生木を切り出して使用したとりあえずスイカズラの弦で弓を再現して草の茎シュウメイギクの矢で飛ばしてみた矢の出来が悪いので余り距離は出ないものの何回かの発射には耐えることが分った両端は弦にする蔓を他の蔓で巻いて締め付けた弦にする蔓のみでは、切れてしまい上手く弦を張れない縄文時代の弓の弦再現テスト
金生遺跡は縄文時代の天文台 縄紋土器の突起は太陽暦と太陰暦の完成を示す 金生遺跡では朔旦立春を観測して二十四節気の暦を作成していた
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ブリコラージュとして弓を再現周囲にある蔓植物を色々調べてみたところ藤の弦は切れやすいことアオツヅラフジは少し乾燥すると切れてしまうキンギンカ、スイカズラが使用に耐えそうなことが分った弓とする木は適当な生木を切り出して使用したとりあえずスイカズラの弦で弓を再現して草の茎シュウメイギクの矢で飛ばしてみた矢の出来が悪いので余り距離は出ないものの何回かの発射には耐えることが分った両端は弦にする蔓を他の蔓で巻いて締め付けた弦にする蔓のみでは、切れてしまい上手く弦を張れない縄文時代の弓の弦再現テスト
立夏の日の出を待つ会と信玄棒道散歩案内今年は5月5日が立夏となっています5月7日には笠無山ピークからの日の出です観測会は5月5、6、7日と行います朝の5時頃から6時までです 日の出観測後に続いて遺跡の近くにある信玄棒道の木もれ日のベンチを散策したいと思います。日の出後1時間ほどです。時間のある方はどうぞご参加ください。 笠無山と石棒は、縄文時代は立秋観測点でしたこの日の日の出が石棒の観測点に当たることで観測していました。日の出を待ち、日の出を見てオウ体験をしてみましょう。立夏の日の出を待つ会案内
現代のカレンダーは太陽暦ではないことが縄文時代の暦から証明されるそれは立春と立秋の日付が年により変動している縄文時代の太陽暦観測施設である金生遺跡ではこの二カ所の日の出位置は、それぞれ山のピークに設定されていて、縄文時代以来変化していない。石棒と配石により観測する日の出も、変化していない。今までの天文学でも、縄文時代と現在とで、その変化は0.5度程度で1日にもなるような変化はしていないとしている。現代のカレンダーは、太陽の運動を再現していない。これは表現が間違いで、正確には地球の公転を再現していないことになる。また曜日とは、月例を示すはずなのに、月の朔望周期を再現していない。最優先してベースとすべき地球の公転も月齢も無視して、地球のカレンダーを使い続けている現代文明は、おかしいのでは無いか。シュメール文明...現代のカレンダーは太陽暦ではない
逸見山台地とは八ヶ岳山体崩壊の大地形、それから伸びる七里岩の台地、そのずうっと先に見える富士山富士山手前の山の麓にシミのように見えているのが曽根丘陵、これは山体崩壊の岩屑流が到達した最先端の形成した丘だという。5個くらいの低い丘陵になって微かに見えている、ここまで岩石が流れていったものだという。この丘陵上には後に古墳が作られた。写真は原図をお借りしましたこのような大景観が一目で見えるのは、世界の何処にも無いと思うので、世界遺産になるのでは。 最近の山体崩壊で有名なものはセントへレンズ山の崩壊です、 でも逸見山台地のこのような景観は形成されていないでしょう。写真はお借りしました上が八ヶ岳逸見山台地下は七里岩の楔形 右から富士に向かう緑のうねるような山逸見山から七里岩の楔形うねうねと見えている緑の山脈の台...逸見山台地ルネサンス妄想
360度と24時間の起源については、まだ明確にされていないと思う。そこからこの起源に関してこれまでの研究から想像してみることにした。縄文時代早期にには定住が安定したとする想定がされているようである。日の出位置は、以前から知られていたと思う、それまでの冬至と夏至のように止まるもので無いことが知られたことだろう。朝一番に住居の入り口から差し込む日の光は、定住してみると、毎日少しずつ方向が変わることを知って、不思議だったのではないか。毎年同じように移動することを見て、またそれは季節と共に変わることを知り興味を持ったものでは無いか。そのような移動する日の出を、石棒により観測したことから一年の日数が分ったものと考える。一年廻ってほぼ365日であると知ったものと思う石ころでその日数を数えたとすれば、一年の日数を知るこ...360度と24時間の起源
春分の日、なぜ変わる?国立天文台が計算して決めている春分の日、なぜ変わるc毎日新聞提供きょう3月20日は春分の日です。春分の日と秋分の日だけは、普通の祝日とは違う、ある「特徴」があるといいます。どんな特徴で、それはなぜなのでしょうか。Q&Aで解説します。――今年の春分の日は、昨年とは違うんだって?◆今年と来年の春分の日は3月20日ですが、昨年までの2年間は21日でした。春分の日と秋分の日は、普通の祝日とは違い、日にちが法律で決まっているわけではありません。――どうやって決めるの?◆地球と太陽の関係をもとに、国立天文台(こくりつてんもんだい)が計算して決めています。地球は太陽の周りを1年かけて公転(こうてん)しています。一方、地球は公転軸から23・4度傾(かたむ)いて自転(じてん)しています。このため、地球...今年の春分の日は何故20日になったのか
ストーンヘンジの意義は何なのかが今も問われている次のような論文が出されています。ストーン・ヘンジは古代の太陽暦ではなかったとする新たな研究結果ティム・ビノール著ストーンヘンジが古代の太陽暦として機能していたという説が、新たな検証によって覆されたようだ。考古学者のティモシー・ダーヴィル氏は、昨年3月、この長年の説を支持する論文を発表し、大きな話題となりました。この研究は、有名なモニュメントの謎を「解決」したとメディアに紹介されましたが、誰もがその結論に納得していたわけではありません。ダルヴィルの研究に対して、古天文学の専門家であるフアン・アントニオ・ベルモンテとジュリオ・マグリは新しい論文を発表し、その中で「モニュメントの天文学的関連性についての一連の強引な解釈と、議論の余地がある数字論や根拠のない類似性に...ストーンヘンジの意義は何なのか
春分の日観測点探索会のご案内金生遺跡の石棒は八節の暦の観測点を示すことが判明しています。春分点は今の所不明です。これまでもこの時期は曇天が多いので、日の出を見ることはなかなか難しいのですが、春分の日の観測点が配石内に存在するのかを探したいと思います。予報では春分の日は雪が降るとの予想などがあるので、このページでの案内のみで、各会員へのご案内は差し上げません。2024.03.20遺跡現地に5時45分頃にお集まりください。天気が快晴ならです。日の出は6時10分頃です春分の日の出位置は、立春と立秋の中間辺りです 縄文時代は新石器時代であり、新石器時代とは土器に歴史が記録されて遺されているのです。縄文土器には縄文時代、新石器時代の生業開発の歴史が記録されており、太陽暦開発の歴史、弓矢開発の歴史、魚釣り開始の歴史、...春分の日観測点探索会
「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる5000年以上前の粘土板にも記されているピタゴラスの話が出ていたので、縄文時代を考えて見ました。 引用します----ーーーーーーーーーーーー「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる1000年以上前の粘土板にも記されているcGIGAZINE提供「2辺(a、b)上の2つの正方形の面積の和は、斜辺(c)上の正方形の面積に等しくなる」という三平方の定理は、「ピタゴラスの定理」とも呼ばれ、古代ギリシャのピタゴラスが発見したとの逸話が残されています。しかし、ピタゴラスが生まれる1000年以上前にバビロニアで作られたとされる粘土板に、三平方の定理について記されていたことが明らかになっています。Pythagoras:Everyoneknowshisfamoustheorem,b...「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる5000年以上前の粘土板にも記されている!?
古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとしたという。表とはノーモンと同じと考えるなぜそのような長さに決めているのか八尺の棒は何処から出てきたのかその根拠は何なのだろうか その根拠は金生遺跡の立地と観測施設にある。立春日の出観測の、太陽の出る山は高く、平地から出る日の出とは異なり観測にはある程度の高さのある棒を使うことが必要である。その棒の長さも、日の出位置の一日毎の変化を、集まった多くの人で確定するためには、観測精度を上げる必要があり、日の出位置の一日の変化に対応するためには、それ相応の長さ、高さが必要となる。観測点の石棒がある太さを持つとすれば、その太さで一日の変化に対応する事が必要となる金生遺跡の観測点と配石の現状と、太陽の出る山の地理的条件から見るとき、観測用の石棒が...古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。
日の出位置の観測結果図縄文時代の太陽暦観測点立春の日の出茅が岳から金生遺跡での観測2021年以来の立春観測結果を纏める。日の出の時間に、快晴に恵まれることは希で、日の出が見えた快晴時の日の出位置のデータである。2021.02.04現代カレンダーでは立春の翌日茅が岳の左肩からの日の出2022.02.04現代のカレンダーで立春の日茅が岳のピークから日の出2023.02.04現代のカレンダーで立春茅が岳のピークからの日の出2024.02.03現代のカレンダーで立春の前日茅が岳のピークの右肩から日の出 図2024.02.の日の出位置画像は小寒の日の日の出現代のカレンダーでは、立春の日の日付が、2.4と2.3と日付が変動しているのに縄文時代に設定されていた立春の日の茅が岳からの日の出は、何れもピークからであり変動し...日の出位置の観測結果
立春の日の出観測会を計画しました。 2024.02.07雪の翌日で快晴茅が岳からの日の出 2/3日と2/7日の日の出位置からの2/4日立春の日の出位置の推定 2024.02.06大雪2024.02.05 日の出は見えませんでした。朝焼けが見えて、その後一面灰色の空となってしまいました。 2024.02.04立春曇天雪が降り積りました。 2024.02.03節分の日の出快晴でした、日の出影が石棒の左側にはっきり見えています。明日あさっての天気はどうでしょうか。 縄文遺跡で立春の日の出観測会です北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡の配石は、縄文時代の二十四節気の暦の太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配石立春に集まった縄文人のように日の出を迎えよう」祭り!!日の出を見るこ...立春の日の出観測会の案内
魚釣り漁から網による漁の開始まで 図弓に張る弦から、細く強くと云う弦の開発は、早期初めにはテグスの領域に入ったものと考える。その紐は魚釣り漁をするのに使えるものになった。 図それが撚り糸であり、糸巻きに巻いていたものだろう、それを示すものが撚糸文土器だと考える。その後、網を用いた漁が始まったものと思うものの、それが始まるまでにはかなりの時間が掛かっているものと考える。 図前期になり羽状縄文土器が現れ、網漁の始まりを示すものと考える。魚釣りの糸はそれほど大量に使うものでは無かったでしょう。しかし網を作るためには大量の紐が必要である。それは直ぐには出来なかったでしょう。糸は何から作っていたのか分らないが、大量に作るには、当該植物を畑で栽培することが必要ではなかっただろうか。太陽暦はすでに造られていたものと考え...魚釣り漁から網による漁の開始まで
中部横断自動車道(長坂~八千穂間)の説明コーナーを見てきました。2024.01.19ー28日遺跡周辺の道路計画の現状の図を掲載します。遺跡からの景観がどのようになるのか、まだよく分りません。 ----ーーーーーーーーーーーー初稿2022.09.01高速道路計画について、よく分らないので再度山梨県に問いあわせていました、その後山梨県より回答をいただきました。添付図面からは、遺跡直近1㎞を通る計画のようです。もう少し離して貰いたいものです。メールで「今回頂いたご要望については事業予定者である国土交通省関東地方整備局に対して配慮するよう伝えます。」このように言われていましたので、再度金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設の重要性をPRするためのメールを出しています。以下の図が金生遺跡付近の計画のようです。遺跡付近の...中部縦貫高速道路通過位置の変更依頼
現代では明日の天気を祈るのにはてるてる坊主季節は太陽のカレンダーで間違いなく廻ってくる。それは地球の公転によるもので、太陽との関係で決まるから、ここに不思議は少ない。しかしそれでも明日の天気は分らない。 図縄文時代の土偶縄文時代も同じで、今よりも分らないことが多かったから、土偶で祈ることは多かったのではないか。それは土偶を見れば分る。得体の知れないような造形のものが多い。何を考えて作っていたのか、何をそれに見れば良いのか、想像も付かない。現代のてるてる坊主は土偶のようなものでは、顔はへのへのもへじと描いてある。不条理、理不尽は、現代の方が縄文時代よりも多いのではないか。土偶とテルテル坊主
縄文土器はなぜ造られたのかをもう一度整理してみる西アジアのシュメール文明の地域では、土器が造られたのは、農耕が始まるよりもずっと遅れていたようだ。この地域の生業である牧畜や麦作では、必要は発明の母であるとするならば、土器は必要でなかったと考えるしかない。時期的には縄文時代前期にあたる頃、やっと土器が造られるようになったという、大変に遅れた時期である。この地域の作物の形態から見て土器を必要とするものでは無かったと思う。それは主作物の麦類には、種には芒があり、編み籠でも目漏れすることは少なく採集するのに問題は無かったと考える。それに対して東アジアの日本列島では、新石器時代の初めから土器が造られることから始まった。なぜなのか、それは食料とできる植物の形態からと考える。縄文人には麦類のような植物種子でなく植生の特...縄文土器はなぜ造られたのか
土器がメディアとなったのは何時からなのか旧石器時代後期土器開発以前イヌの家畜化土器にその記録は遺されていないようだ引用します----ーーーーーーーーーーーー犬は最初に家畜化された動物であり、少なくとも15,000年前から人間と密接な関係を築いてきました。----ーーーーーーーーーーーー引用終わりこのことから土器は17000年以前から造られているので、イヌの家畜化はそれ以前ではないかと考える。狩猟の道具として、槍から投げ槍が作られていた槍の尖頭器から、有茎尖頭器の投げ槍に変わっていたころ植物性食料の採集に、編み籠が作られて使われていた縄文土器の時代各種生業の獲得時代大型動物の狩りが減少して、小型動物に狩りの対象は変化したが小型動物は動きがすばしこく、投げ槍では狩猟は難しくなっていたそれまで使われてきた編み籠...土器がメディアとなったのは何時か
太陽暦作成の原理を再掲365日のカウント365日/2182日、182日/291日、91日/245日月の周期30日、182日/30日6月+2日30日/215日月の暦に太陽の暦をシンクロさせるには3がキイとなる45日/315日図縄文時代の太陽暦15日刻みの暦で太陽の暦と月の暦はシンクロさせることが出来る太陽暦15日刻みの暦とは二十四節気の暦であるその後のカレンダーの進化は太陽は15日/35日刻みの暦となり、これは七十二候の暦となって365日/573区分、一年の暦が完成する。閏は4年に一回となり、12月に1日増やして調整すれば良い。月の暦は15日/27日、半月が7+7+1となるので、これで月の暦は7日の曜日と、新月と満月で一ヶ月の月齢は表現できる。図月齢と合わせた太陽暦のカレンダー立春を新年初日として曜日を決め...太陽暦作成の原理
最近の書籍で、「万物の黎明」ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』これらの書籍では、先史時代に最重要と思う太陽暦開発の歴史について、何も触れられていない。農耕をするのにも、サケの遡上回帰漁、貝塚を形成するのにも、必要とされる知的技術であり、その暦の開発に関して何ら触れられていないというのは不思議である。これは西アジア以降の歴史記録の中にまともな太陽暦開発の歴史が存在しないのが、その根本的原因では無いだろうかと思う。図世界文明史と縄文文明の歴史経過を対比してみると、縄文早期までの歴史は、世界文明史を遙かに凌駕して古くから発展してきたことが分る。太陽暦開発などは縄文時代早期には確立していたと推測できる。それは世界各地の文明開始より遙かに古かったことが分る。縄文時代は新石器時代のなのか、先史時代なのか縄文時代...今までの縄文観をアンラーニングする
新石器時代とは粘土から土器が造られた時代である図文明の比較年表土器は草創期の始から造られていた縄文時代は土器の特性を生かして、初めからその歴史記録が残された、それが縄文土器と呼ばれるものである土器とは、・想念通りに造形できるもの、・造形したものが永遠に残せるもの、・それは情報伝達のメディアである。縄文時代10000年間に造られていた火焔土器、突起付き土器、マメ類練り込み土器などはその典型的姿を示している。縄文模様を持つ土器は新石器時代の始まりを示すものである。図弓の弦の開発からの始まり土器には弓の弦の開発から、鏃の開発、魚釣り漁の開始、網による漁撈の開始などの一連の生業開発の画期的歴史が記録されていた。図マメ類の栽培化の記録縄文時代草創期のマメ類の採取を始め、栽培開始、前期半ばの栽培種の成立が記録されてい...縄文時代の豊かな文化
縄文時代の太陽暦縄文時代には太陽観測が石棒を立てて標識点として、ノーモンにより立春が観測されていた。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設がそれを示している。金生遺跡での日の出観測には、茅が岳の嶺から出る太陽を観測するため、立春を一日の精度で観測するには22メートル程の距離と高さ2.4メートル程のノーモンが必要である。これはチャイナのノーモン表の高さ8尺に一致するものである。暦は縄文早期には開発されていたようだ、それは世界の何処の文明にも無い突起土器により数字が記録されていた。突起土器に記録されていた数字は、時代を経るに従い次のように変化していた。縄文時代早期2,4、6前期8、12中期3後期以後5、7土器の年表年表 図はお借りしました引用しますーーーーーーーーーーーーーー二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では...中国チャイナの太陽暦
ソーラーカレンダーと農耕の世界史1.月の満ち欠けは、そこの地形にかかわらず、何処でも簡単にその周期をしることができた。2.太陽の冬至~夏至まで、または夏至~冬至までの日数を数えることは、日の出位置を知ることの出来る適切な地形の無い平地では難しい仕事だった。エジプトではナイル川の洪水からシリウスの出に合うことを知り、それが夏至に当たることを知ったようだ。シュメール文明では春分をカペラから知ったとされるが、そのことを何時どのようにして知ったのか明らかになっていない。チャイナでは立春を知っていたとされるものの、それをどのようにして知ったのか詳らかになっていない。マヤ・チチェンイッツアーの春分の知識も、それをどのような方法で見出していたのか知られていない。このようにこれまで知られている文明は何れも二至、夏至、冬至...ソーラーカレンダーと農耕の世界史
1200年前からの思想これからの思想【主要国の2021年名目GDP・政府支出対2001年比(倍)】政府が支出しないと国民の富は増えない民間はお金の取り合いをして、利子を銀行に返さなくてはならない利子分だけ民間のお金は減ってしまう。インフレで投資が次々に出来てパイが大きくなるときなら良いが、デフレでは投資しないから・・・政府が発行しない限り国富であるお金は増えない、政府の赤字は民間の黒字国がお金を出さなければ、お金は消えて、国富が減ってしまう。お金を作り出せるのは国だけ。 このグラフは立て横軸が逆なので、軸を変えてみます。同じデータではありませんが、これが正しい変数関係です。 政府支出無しにデフレは解消しない。金融と財政生産投資は出来ないが、金融商品への投資はいくらでもお金が余っている、金融緩和。開発投資は...デフレを何とかして欲しい
縄文時代の特筆出来るもの1.縄文土器は旧石器時代後期のまだ寒冷な時期に早くから造られ新石器時代の生業開発の歴史を土器に記録として残していた。土器の起源は最初の土器がマメ粒文土器なので、マメ類の採集や栽培のために造られたものと考える。西アジアの麦類の農耕地域では土器の出現は縄文時代より数千年遅れて造られるようになっていた。2.土器の記録から縄文時代Earlyには太陽暦は完成していたこの時期にはマメ類やヒエなどの栽培種が出来ているので太陽暦を必要とする農耕開始の時期に合っている石棒がこの時期から造られていることと、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設で石棒が太陽暦観測点の標識となっていることから、石棒の起源がこれまで分っていなかったが、それは太陽観測の標識として使用されたことから始まったものと考える。同時にノー...縄文時代の特筆出来るもの
縄文時代の太陽暦開発の経過は 各地の文明と縄文時代の対比エジプトの太陽暦の起源についてAIビングに聞きました。エジプトの太陽暦開発の歴史経過を教えてください回答エジプトでは紀元前3000年頃、毎年初夏の雨季の頃にナイル川が氾濫して大洪水をもたらす事を、その時期の前に決まって東の空に明るいシリウスが輝き始めることから察して、1年の周期をシリウスが見え出す夏至の日を始まりとして、そこからまた見え出す前日までを1年365日とする、太陽暦の起源となる「シリウス暦(エジプト暦)」を作ったようです3。このような太陽暦は、エジプト人がナイル川の定期的な氾濫を利用して灌漑農業を営むようになったことから、紀元前5000年頃に移行したとされています2。詳しい情報が必要でしたら、お知らせください。ソース:Bingとの会話202...縄文時代に開発された太陽暦はどのように各地の文明を生んだか
追加しました2023.04.18初稿2022.09.23次のように云われているようだ---文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農産物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期は紀元前5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、紀元前3200年ごろには楔形文字が発明さ...文明とは何か定義
縄文前期諸磯式土器の時期に、これまで無かった全く新しい土器形式が生まれたようだ土器の形そのものが変化していた。それを必要とする社会に変わった何が原因なのか狩猟漁労採集社会から農耕社会に変化したこの変化はそれ以外にないのでは その後の歴史で、弥生人が入ってきた際に、アイヌやインディのように土地を奪われずに、縄文人は弥生人と共存して、同化していったような話のようだから、そうだとすれば、農耕を既に行っており、土地所有の観念が成立していたのだろうと考える。有孔鍔付土器とは胴体には動物意匠文をはじめさまざまな装飾文様が施され、両肩部には把手が設けられている。出土数は極端に少なく、胎土も精選されており出土状況も特異であり、口縁部に把手の付いた釣手土器とともに祭祀に関わる土器であると考えられている。小孔が空けられる理由...有孔鍔付土器と農耕
初稿2023.03.2縄文時代は現在、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期という風に区分されている。これは日本国内では通用しても、世界的にはどうなのか。特に、前期までの区分は、前期として、その中で1、2,3と区分するのが良いのでは無いだろうか。前期は縄文時代の文化の基礎が形成された時代として理解しやすくなる。Early1st狩猟、漁労、植物栽培の開発Early2nd太陽暦、太陰暦などの暦開発Early3rd農耕開始の技術開発土器形式の変化と生業開発弓矢開発と魚釣り、漁撈、栽培開始の経過粘土、土器は記録材として生業開発の経過が記録されていた 暦開発の経過記録土器は記録材として暦開発の過程が土器口縁に造られた突起で数字が記録されていた 農耕栽培種成立までの記録追加2023.04.13図はお借りしました縄文時代の区分方法提案
太陽暦の開発進展波状突起口縁の土器の数の経緯太陽暦縄文前期石棒が作られる中期石棒が巨大化、形もキノコないし男根型に成形される農耕開始諸磯式土器の頃、模様が縄文からマメ粒文に変化縄文中期勝坂式土器の頃にはマメ類が栽培種に大型化前期末土偶が作られる中期始め立体型土偶が作られる 図はお借りしました太陽暦を基準として縄文時代の文化進展を比較する
Title:ValidationofSolarCalendarObservationatKinseiRuinsAbstractLocatedinHokutoCity,YamanashiPrefecture,Japan.TheKinseisite,aJomon-erasite,hasthe40-metrebigstonearrangment withastonepoleserectedinit,whichhasbeenfoundtobeasolarcalendarobservationfacility.TheobservationpointswerefoundtobeattheeightsolartermsofthecalendardatesofRisshun,RisshuandWinterSolstice...ValidationofSolarCalendarObservationatKinseiRuins
日本天文学会投稿原稿案日本語版図は省略しました概要日本国山梨県北杜市にある縄文時代の遺跡・金生遺跡には、40メートルの大配石遺構があります、その中に石棒が立てられてあり、太陽暦観測施設となっていることが分ってきた。観測点は八節の暦の立春、立秋、冬至であることが判明した。また各観測点にはランドスケープとして対応する山が設定されている。遺跡の立地については、太陽運行を表示するアナレンマ解析によってもシミュレーションされて、同様な結果となっている。遺跡の立地からも遺構からも太陽暦が示されているので、縄文時代後期には太陽暦が確立していたものと推測できる。このことからは、縄文時代のかなり早い時期から太陽暦の開発が進められていたものと推定出来る。立春、立秋の暦日2点が観測されていた理由は、太陽暦と太陰暦をシンクロさせ...日本天文学会投稿原稿案
初稿2023.3.25男根を模したと見なされている石製品としては、千葉県大網白里市升形遺跡出土の旧石器時代後期(約24000年前)のものまで遡れるという。しかしいわゆる大型石棒は、縄文時代中期に中部高地で出現したと考えられていて、その後近畿地方以東を中心に広がったとされている。いわゆる石棒とされているものは、縄文時代中期に何らかの画期があったものと考える。それは前期に引き続いての太陽暦の完成であり、その際太陽観測に石棒が使われていたことから、農耕進展と共に、季節の変化を知り、太陽の力を受け取るものと云うことから、石棒の霊力というようなものが想像されて、その後の石棒信仰のようなことが行われるようになったものと推察する。石棒の始まりは最初は自然石で棒状のものが使われていたものから、加工した石棒へと変化発展した...石棒とは何か
旧暦と立春立春は旧暦1月1日というのは、ほとんどの場合は正しくない。旧暦1日は必ず朔(新月)だが、立春は朔に関係なく定められる太陽暦であるため、多くの年は1日にならない。旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)という。古代中国夏王朝の正月という意である。平気法ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)とする。定気法での月名の定義はやや複雑だが、結果はやはり、雨水を含む月が正月となる。という節切りにあっては立春が年初となる。四柱推命や風水などの占いでは、節分までは前年に属し、立春をもって年が改まるとしているものが多い。節分の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣...メソポタミアで何故占星術が発展したのか
追加します2023.03.27最新のAIの説明をついかします。問い1.古代バビロニアやエジプトの天文学による太陽暦が、古代ローマ時代などで、その後季節が狂ってしまったのは何故ですか。ThenewBingpreviewwillbeavailabledirectlyfromtheWindowstaskbarExternalLinkiconLearnMore‘古代ローマの暦季節ずれ’を検索しています回答を生成しています…古代ローマ時代に、季節が狂ってしまったのは、ローマ暦の不備が原因です12。最初のローマ暦は、10か月で304日しかなく、太陽年と大きくずれていました1。その後、ユリウス・カエサルがエジプト暦を参考にして、4年に一度閏日を入れるユリウス暦を作りましたが、それでも平均365.25日と太陽年の365....世界のノーモンの発明者は誰か
縄文時代には粘土、土器は記録材料として利用されていた。生業開発の歴史記録土器太陽暦開発の歴史記録土器、波状突起口縁の土器、数の記録土器への数の記録の歴史は2,4,6、8、12、3、5、7となっている。365日/2182日182/291日半年4分割の暦182/306回の朔望91/245日八節の暦45/315日二十四節気の暦15/35日七十二候のカレンダー 記録は現代までペーパーにされてきた。ソーラーパネルは今発電装置として使用されている。縄文時代の石棒はソーラー石棒だった。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設では、石棒が太陽暦の標識として使用されていた。立春標識は、自然石をそのまま利用していると思われる石棒が使われていた。冬至日の入りも自然石石棒。これが石棒使用の始まりでは無いだろうか。石棒の起源は太陽暦を...ソーラー○○
2.22.05.25追加補足しました縄文時代早期には太陽暦は二至二分には到達していたものと考えられるのでシュメールの暦はこの春分冬至から91日を暦の起点とするものと考える。その後縄文時代前期には八節の暦に進展、立春を暦の起点としていたと考える暦作りは起点が春分から立春に45日早まったものと考える。金生遺跡・大配石から、立春と立秋を観測していた施設が分かり、半年一年暦の起点として立春、立秋を観測していたのだろうとの推定が可能となった。また太陰暦についても二至に基づく半年6回の月の相の周期の暦が作られていたものと推定できるので、こうした縄文時代早期の暦の知識がシュメールに伝わっていたものと考える。 最新のAIの説明から追加しました2023.03.21ThenewBingpreviewwillbeavailab...シュメールの暦は春分が元旦である
世界暦というものが提案されているブログ--下に引用しています--があるようです。それに対して縄文時代の暦は、縄文時代早期から金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設建造まで、直接太陽観測を基にしていたという記録も残されていたと考えるので、狂うことは無かったはずです。縄文時代の太陽暦を示す、土器に残された記録による数字の列です、2,4、8、3、5、32です3,5,32の数列は縄文中期以後に残されていたものです。石棒とノーモン表による金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設現代の太陽暦とも一致する暦が作れるでしょう。縄文時代には早くからノーモンが利用され、二十四節気の暦の立春、立秋を観測し、月相を観測して太陰暦との並行使用を行い、朔旦立春を観測していたものと考えています。現代の暦の利用活用は、このレベルにまだ至っていない...縄文時代の暦と世界暦
初稿2022.12.30縄文時代はこれまでの遺跡発掘調査報告書から1.縄文時代草創期にはマメ類を採集して、食料とするために、籠に代わる容器として土器を開発した無文土器2.マメ類の栽培を始めた、その驚きを粘土で造形して供献土器を造り記録した豆粒文土器3.縄文時代早期には、農耕のための栽培暦を開発した太陽暦を開発したことを4波状突起口縁の土器を造り供献土器として記録した4.縄文前期には、原種ツルマメ類から大豆、ヤブツルアズキ類からアズキ等が栽培種となった栽培種の成立はマメを粘土に加えて土器を造った粘土に練り込まれた大豆が、痕として残る諸磯式土器 このようにして縄文時代草創期には、マメ類の栽培は開始されていたしかし家畜が無いことからシュメール文明に繋がる新石器時代の定義に合わないとされてきたなぜ縄文時代には畜産...縄文時代は新石器時代である
これまで縄文人が使った道具は、二種類に分けることができるとされていて一つは、生業生活において直接役立つものです。弓矢、石斧、石皿などが挙げられます。こうした道具を、小林達雄先生(考古学者・國學院大學文学部名誉教授)は「第一の道具」と呼びました。それに対して、生業には直接役立つわけではないが、土偶や石棒など呪術や祭祀に使用されるものを「第二の道具」と呼びました。という第一の道具は直接生産に関わるものです。第二の道具は、基本的には精神文化に関わる祈りの道具です。土偶は、第二の道具の典型例です。石棒も第二の道具の典型例です。この第二の道具を詳しく見ていきましょう。石棒はいわばファロス、男性器の象徴です。対して土偶は、基本的には女性です。関東から中部高地にかけて出てくる中期の土偶の多くは基本的にお腹が大きく、妊産...土器粘土は第三の道具
初稿2023.03.072023.03.19AIの説明まとめを追加しました。石棒が作られ始めた時期の経緯を纏めてみました。巨大石棒は中期中葉の勝坂期(約5000年前)のものでした。という 後葉の加曾利E3式期(4700~4500年前)の無頭石棒は、巨大石棒(勝坂4式期)から300年程度を経ているこの時期に太陽暦、24節気の暦が完成しているので、太陽暦観測との関係では無いだろうか。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設では、観測点に石棒が設置されていた。中期後葉の終末期(加曽利E4式期)は約4500年前と判定されています。中期中葉・勝坂期は、縄文海進によって山の幸、海の幸に恵まれた豊かな生活を保証されていました中期後葉・加曾利E3式期になると次第に寒冷化し、次第に海が引いて行って(縄文海退)、自然環境が悪化し、...石棒は何のために作られたのか