石見銀山の栃畑谷の住人。仮名は万助。本拠は出雲国秋鹿郡大野荘であり、栃畑では「田辺屋敷」に居住していた。天正年間には同族とみられる小林之久・同吉久も安芸国厳島神社に回廊を寄進している。
アラビア半島東端に位置する港町。現在のオマーン国の首都。ペルシア湾の入口に位置し、ペルシア湾とアラビア海、インドなどを結節する海上交通の要衝。16世紀にポルトガルの拠点となり、後にヤアーリバ朝やブーサイード朝の下、インド洋海域における交易の一大中心地となる。
毛利家臣・楊井武盛の息女。元亀三年(1572)に父から所帯を譲られている。夫は楊井春俊、子は楊井規春か。
大内家臣。幼名は万壽。仮名は彌七。官途名は右京亮、後に但馬守。楊井国久の次男だが、楊井春盛の養子となってその跡を継いだ。主家滅亡後に仕えた毛利家中では、その医術の評価が高かった。
アナトリア南部の都市。現在のトルコ共和国ガズィアンテプ県の県都ガズィアンテプ。その語源はアラビア語の「アイン・タイイブ(良き泉)」が転訛したものとされ、豊富な水と食料があった。マムルーク朝の最北端の都市であり、多くの言語、文化が混在した学問の町でもあった。
鰊(ニシン)の発酵食品。生の鰊を塩水につけた状態で発酵させて作られる。スウェーデン語で「酸っぱい鰊」を意味する。
北ヨーロッパを起源とする1本マスト、1枚横帆の貿易船。全長は約30メートル。コグ cog あるいはコッグとも呼ばれる。13〜14世紀、バルト海や北海の交易で用いられた。14世紀には地中海でも採用され、15世紀に現れるキャラック船の源流の一つとなった。
鰊は冷水域を好む回遊魚。ヨーロッパではバルト海や北海で捕獲され、加工された後、ヨーロッパ各地に流通した。栄養源が限られていた中世から近世にかけてのヨーロッパにおいて、防腐処理を施した魚は当時の一般の人々にとって、とりわけ四旬節の際の貴重なタンパク源であった。
周防東部の街道の要衝に位置した市場町。現在の山口県柳井市日積の鍛冶屋原地区には、大内氏の代官・杉氏が屋敷を構え、鉄材料を加工する鍛冶がいたことが遺跡と史料から分かっている。
ドイツ南部バイエルン地方の都市。ペーグニッツ河の両岸に市街地が形成されている。金属加工業を中心とした手工業が発達し、また国際商業の町としても栄えた。神聖ローマ帝国における重要都市でもあり、15世紀以降、帝国宝物の保管が市参事会に委ねられている。
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石見銀山の栃畑谷の住人。仮名は万助。本拠は出雲国秋鹿郡大野荘であり、栃畑では「田辺屋敷」に居住していた。天正年間には同族とみられる小林之久・同吉久も安芸国厳島神社に回廊を寄進している。
石見銀山の鉱山町。大永七年(1527)に銀山開発が始まると、仙ノ山一帯には鉱山労働従事者や職人、商人らが集まって巨大な都市が形成され、膨大な物資集散が行われた。なお石見銀山自体は戦国期は「佐間(佐摩)銀山」と呼称されていた。
石見国温泉津に居屋敷を持っていた商人。居屋敷は毛利元就から給与されており、元就死後に輝元によって安堵された。その名から、長門国肥中との関係性が指摘されている。
石見国邇摩郡波積郷の地侍。官途名は主税助。毛利氏の警固衆として軍事活動の一翼を担った。平時には船を用いて経済活動を行っており、毛利氏領国の諸関での役料免除特権を与えられている。
石見銀山東方の宿場町。森林資源の豊富な石見国邑智郡や出雲国と石見銀山を結ぶ道筋の要地にあった。銀山の最盛期は荻原千軒ともいわれる栄えた町場であったという。
石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。
マヤ低地南部の西端に立地したマヤの古代都市。メキシコ湾岸低地を一望できるチアパス高地山腹の丘陵上に立地する高地性集落。先古典期後期(前400年~後250年)に居住が開始されたが、最盛期は古典期後期であったと考えられている。
マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。
石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。
石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、温泉津と石見銀山をむすぶ輸送業を営んでいたとみられる。銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。
石見国邇摩郡西田を拠点とした大工。仮名は藤五郎。西田に屋敷を構え、天正十七年(1589)の西田八幡宮造営に大工として関わった。
石見国迩摩郡西田の在地領主。官途名は甲斐守。天文十七年(1548)八月、西田村八幡宮の拝殿を建立した。石見国邑智郡川本郷を本拠とする小笠原氏の一族ともされる。
石見銀山と銀山の外港温泉津を結ぶ街道の中継地点に位置する宿場町。現在の大田市温泉津町西田。銀山と温泉津の間の物資輸送の拠点として栄えた。また16世紀末の史料から、銀山や温泉津周辺で活動する人物が住んでいたことも分かっている。
京都の町人。慶長十五年(1610)、日本使節の長としてヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に渡航した。朱屋隆清と同一人物ともされる。
本阿弥光悦が製作した焼物。茶会記などの記録には「光悦焼」あるいは「光悦茶碗」としてみえる。光悦は刀剣の磨礦(とぎ)・浄拭(ぬぐい)・目利(めきき)を業とした本阿弥家の別家の出身。名筆家としても知られるが、陶芸においても優れた才をみせたという。光悦の陶芸の主流は楽焼の茶碗製作であり、京都の樂家の二代常慶と三代道入らの助けをもって行われた。
炒り大麦粉。焦がし大麦。水に溶かして飲まれることも多かった。解熱の効能があるとされ、中世イスラームの医学者によって熱病や夏季対策に推奨された。16世紀のエジプトのカイロでは、サウィークを溶かした飲料が最も日常に飲まれている滋養飲料であったという。
大麦を水で煮詰めて作られた飲料。イスラーム世界においては解熱の薬効があるとされ、庶民にも広く飲用が普及した。14世紀には蜂蜜や香辛料を加えた甘味飲料として、カイロなどの都市で製造・販売されていた。
インド東岸のコロマンデル海岸中央部の港町。元は小さな漁村だったが、17世紀前半、イギリス東インド会社がセント・ジョージ要塞を建設し、コロマンデル海岸における中心拠点としたことを契機に都市として発展した。周辺地域が戦争の多発などで不安定な政治情勢にあったこともあり、要塞に守られ比較的安全だったマドラスは、職人や商人など多くの移住者を引き付けたといわれる。
インド東岸のコロマンデル海岸北部の港町。13・14世紀、カーカティーヤ朝やレッディ朝の時代、周辺の港町との交易だけでなく、中国やペルシア方面を結ぶ東西貿易の拠点として栄えた。ヴェネツィア人のマルコ・ポーロの旅行記にも、13世紀末のモートゥパッリが記述されている。
巨大なプリカット湖(潟)と海を隔てるシュリーハコータ島の南端部に形成された港町。14世紀頃から多くの商船が集まる商業都市として繁栄した。17世紀にはオランダ東インド会社の商館が置かれ、コロマンデル地方における同社の中心拠点となった。
インド東岸のコロマンデル海岸の港市の一つ。綿布などの輸出港として周辺の商品生産地と連携しながら栄えた。17世紀以降、オランダ人などヨーロッパ勢力が進出した。
マスリパタムを拠点に活動した大商人。ペルシア出身。ベンガル湾沿岸部の交易に関わる一方で、マスリパトナムの有力者の一人としてオランダと総督(ハヴァールダール)の仲介も行っている。後に故郷であるペルシア方面へも交易船を派遣している。
インド東岸のほぼ中央に位置する港市。コロマンデル海岸の北部の中心として16世紀後半から18世紀にかけて栄えた。特に17世紀には、ベンガル湾沿岸各地の港のみならず、紅海、ペルシア湾の諸港との間にも交易関係を持ちつつ、一大国際交易港として繁栄した。
唐人の衣装。天文年間に大友義鑑が将軍足利義晴への贈答品としている。また日明貿易に深く関わった楠葉西忍も、中国から輸入すべき品目の一つに印金を施した「道士ノ古衣」を挙げている。
戦国期の豊後府内に住んでいた渡来系中国人。絵画技術を持ち、大友氏のもとで貴重な顔料の調達に関わることもあった。天正末年頃、府内唐人町や隣の稲荷町の住人と伊勢参詣を行っている。
戦国期の豊後府内に住んでいた渡来人。中国明朝の浙江省台州府出身。元亀二年(1571)七月、同じく明朝の温州府平陽県出身の陽愛有とともに府内の称名寺に梵鐘を寄進した。
豊後国の漆喰塗り職人。父は陳義明。曽祖父が中国明朝からの渡来した人物であり、祖父の代で豊後国府内に定住している。後に兵火に遭って臼杵に移住。後に京都方広寺の大仏造立の為に上洛し、豊臣秀吉から褒賞を得た。
中国明朝出身の渡来人。明朝では要職に就いていたが、讒言に遭って出奔し、家族とともに日本の肥前国に渡航。弟や息子たちは九州や周防各地に分住していった。子の一人である陳覚明は、豊後府内に移住して仏像の制作を担う仏師として活動。覚明の孫の元明は、仏師として天正末年の京都方広寺大仏造立にも関わっている。
弘治二年(1556)、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。そのまま舟山島定海に滞在していたが、後に来航した大友氏使節が明朝官軍の攻撃を受ける事件が起こり、内陸の四川省茂州の寺院へと流された。
弘治三年(1557)八月、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。倭寇の罪を謝し、朝貢の許可を求めたが、明朝政府に拒絶された。そのまま中国に留まり、翌年二月、明朝官軍の攻撃を受けていた別の大友氏使節救援に奔走した。
弘治三年(1557)に豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。一方で中国明朝の記録には「夷目」あるいは「倭目」とみえ、明朝からは倭寇の頭目と認識されている。明朝に帰順しようとする倭寇首領・王直とともに浙江沖の舟山島に至ったが、同地で明軍と交戦することとなった。
筑前博多の商人。官途名は主計頭。父は潤屋永富。子に次郎太郎、養子に神屋長秀(太郎左衛門)、婿に孫八郎がいる。なお、系図によっては神屋寿禎の兄とされるが、甥である可能性も指摘されている。
筑前博多の商人。子に弥五郎。神屋寿禎の代官として石見銀山に派遣され、石見銀の買い付けを行った。後に天文十六年度遣明使節の一号船の船頭として入明したが、寧波にて死去した。
筑前博多の商人。石見銀山の開発と石見銀の貿易に関わったといわれる。妻は妙栄。子に三正(聖福寺龍華庵の庵主)、小四郎、宗浙、宗白らがいる。戦国末期の博多の豪商・神屋宗湛は寿禎の曽孫にあたる。
現在の東京都区部から南南東約1000キロメートルの太平洋上にある島嶼。江戸期の17世紀後半、漂流船の帰還を契機として日本で存在が知られるようになった。延宝三年(1675)、幕府は大型の「唐船造之御船」を派遣して調査を行い、調査隊により様々な鳥や植物の生息が報告された。
中国明朝の浙江出身の人物。対馬の時羅が浙江を襲撃した際に夫の符旭とともに掠われ、時羅の妻とされたという。時羅が朝鮮を訪れた際に、同国の官人に救出され、明朝に送還された。
応永二十七年(1420)に朝鮮の日本回礼使・宋希璟が対馬で出会った僧体の人物。希璟は詩の中で彼を「被虜唐僧」と呼んでいる。中国(明朝)台州の軍官であったという。倭寇の捕虜となり、対馬の海民のもとで使役されていた。