島根県益田市の曹洞宗妙義寺が所蔵する全十七幅の軸装作品。紙本著色で、寸法は各縦64.0センチメートル、横33.0センチメートル。一幅には釈迦如来を、残りの十六幅には十六羅漢の尊者たちを一人ずつ描く。全幅の画面上部には、「雲甫」あるいは「艮止」の落款を伴う賛が記されている。
マヤではカカオは重要な嗜好品だった。マヤ古典後期(750年頃)の壺には、カカオ飲料(チョコレート)を泡立てるために、一つの器から別の器に注ぎ入れている様子が描かれている。主なカカオ生産地域はタバスコ地方や太平洋沿岸部であったが、交易・貢納などを通じてユカタン半島北部にもカカオが運ばれていたとみられる。
石見国温泉郷の国人領主。官途名は信濃守。初名は隆長か。当初は周防大内氏に属していたが、同氏衰退後は出雲尼子氏に属した。弘治年間から尼子方として毛利氏と戦い、補給基地でもある温泉津をおさえて、尼子氏の石見銀山支配を支えた。永禄五年(1562)六月頃に没落し、尼子氏の富田城籠城戦に加わった。
大内家臣。土佐守。実名の「弘」は大内政弘からの偏諱か。大内氏の分国支配に吏僚として関わった。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身とみられる。
大内氏被官。石見国温泉郷を本拠とした国人温泉氏に関係する人物とみられる。文安元年(1444)十月、温泉次郎に与えられていた邇摩郡井尻村(現在の大田市温泉津町井田)が周布和兼に返還されることになっている。
入り組んだ入江である温泉津湾をに臨む港町。大永七年(1527)に石見銀山の開発が始まると銀山への物資搬入と銀の積み出しのため、各地から多くの船が集まって大いに栄えた。永禄五年(1562)に銀山および温泉津を制圧した毛利氏は、温泉津を重要な戦略拠点と位置づけ、温泉津奉行を配置して直轄支配を行っている。一方で温泉地としても知られ、島津家久が旅の途中で温泉に入っていることが彼の日記にみえる。
石見小笠原氏の重臣小笠原長実の被官。官途名は三郎兵衛尉。実名の「実」は、長実からの偏諱かもしれない。小笠原氏被官として大家東郷の町や大家大宮八幡宮の支配に関与した。
石見国邇摩郡大家東郷を本拠とした国人大家氏の当主。大嶽山城(今西山)に本拠を構えたと伝わる。永正元年(1504)に石見小笠原氏と一揆契約を行い、天文三年(1534)に大家大宮八幡宮を造営した。
石見国邇摩郡大家東郷の中心となった市場町。大家東郷を支配した国人大家氏の本拠地であり、同氏没落後は石見小笠原氏の重要拠点となった。現在の大田市大代町大家地区。交通の要衝でもあり、邑智郡川本方面・大田市大田方面・邇摩郡温泉津方面・江津市方面、これら四者を結ぶ接点に位置していた。
チョコレートの原料となるカカオ(テオブロマ・カカオ)の栽培は、南米エクアドル南端の高地アマゾンにおいて、紀元前3300年には始まっていた。その後、カカオ栽培は品種改良と並行しながら太平洋沿岸地域、さらにはメソアメリカ地域にも伝播していったと考えられている。
御調八幡宮(三原市八幡町宮内)に伝わる神宝。弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)頃のものと推定される青銅製の戈であり、御調八幡宮北方の鉾ヶ峰から出土したものとされる。
メソアメリカ地域では先スペイン期から19世紀まで、様々な文化・地域で藍染料が使用された。特に後世にマヤ・ブルーと呼称される青色顔料は、藍(インディゴ)とある種の粘土鉱物をミックスし、適当な熱を加えることによって造り出された。非常に堅牢な顔料であり、水はもちろんのこと、酸、アルカリおよび他の溶液や熱にも強く、古くから色料として壁画や土器、絵文書や石彫の着色に広く利用されていた。
マ海抜800〜900mの丘の上と山腹に建造されたマヤ古典期の高地性集落。現在のメキシコのチアパス州に位置した。なお「トニナ」は現代の呼称で、古典期には「ポ」または「ポポ」と呼ばれたとみられる。
紀元前から紀元後16世紀まで南米で栄えたアンデス文明では、水や空気を入れると音が鳴る「笛吹ボトル」と呼ばれる土器が数多く使われていた。儀式の際などに神聖な酒「チチャ」を注いで音を鳴らしたともいわれる。その内部構造は複雑で、製法や音の鳴らし方については、いまだ不明な点が多いという。
石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。
石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。
備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。
毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された本城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が本城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かっている。
毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。
石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。
石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。
石見銀山の栃畑谷の住人。仮名は万助。本拠は出雲国秋鹿郡大野荘であり、栃畑では「田辺屋敷」に居住していた。天正年間には同族とみられる小林之久・同吉久も安芸国厳島神社に回廊を寄進している。
石見銀山の鉱山町。大永七年(1527)に銀山開発が始まると、仙ノ山一帯には鉱山労働従事者や職人、商人らが集まって巨大な都市が形成され、膨大な物資集散が行われた。なお石見銀山自体は戦国期は「佐間(佐摩)銀山」と呼称されていた。
石見国温泉津に居屋敷を持っていた商人。居屋敷は毛利元就から給与されており、元就死後に輝元によって安堵された。その名から、長門国肥中との関係性が指摘されている。
石見国邇摩郡波積郷の地侍。官途名は主税助。毛利氏の警固衆として軍事活動の一翼を担った。平時には船を用いて経済活動を行っており、毛利氏領国の諸関での役料免除特権を与えられている。
石見銀山東方の宿場町。森林資源の豊富な石見国邑智郡や出雲国と石見銀山を結ぶ道筋の要地にあった。銀山の最盛期は荻原千軒ともいわれる栄えた町場であったという。
石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。
マヤ低地南部の西端に立地したマヤの古代都市。メキシコ湾岸低地を一望できるチアパス高地山腹の丘陵上に立地する高地性集落。先古典期後期(前400年~後250年)に居住が開始されたが、最盛期は古典期後期であったと考えられている。
イシュ・ツァクブ・アハウ Ix Tz'aka'ab Ajaw
マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。
石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。
石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、温泉津と石見銀山をむすぶ輸送業を営んでいたとみられる。銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。
石見国邇摩郡西田を拠点とした大工。仮名は藤五郎。西田に屋敷を構え、天正十七年(1589)の西田八幡宮造営に大工として関わった。
石見国迩摩郡西田の在地領主。官途名は甲斐守。天文十七年(1548)八月、西田村八幡宮の拝殿を建立した。石見国邑智郡川本郷を本拠とする小笠原氏の一族ともされる。
石見銀山と銀山の外港温泉津を結ぶ街道の中継地点に位置する宿場町。現在の大田市温泉津町西田。銀山と温泉津の間の物資輸送の拠点として栄えた。また16世紀末の史料から、銀山や温泉津周辺で活動する人物が住んでいたことも分かっている。
京都の町人。慶長十五年(1610)、日本使節の長としてヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に渡航した。朱屋隆清と同一人物ともされる。
本阿弥光悦が製作した焼物。茶会記などの記録には「光悦焼」あるいは「光悦茶碗」としてみえる。光悦は刀剣の磨礦(とぎ)・浄拭(ぬぐい)・目利(めきき)を業とした本阿弥家の別家の出身。名筆家としても知られるが、陶芸においても優れた才をみせたという。光悦の陶芸の主流は楽焼の茶碗製作であり、京都の樂家の二代常慶と三代道入らの助けをもって行われた。
炒り大麦粉。焦がし大麦。水に溶かして飲まれることも多かった。解熱の効能があるとされ、中世イスラームの医学者によって熱病や夏季対策に推奨された。16世紀のエジプトのカイロでは、サウィークを溶かした飲料が最も日常に飲まれている滋養飲料であったという。
大麦を水で煮詰めて作られた飲料。イスラーム世界においては解熱の薬効があるとされ、庶民にも広く飲用が普及した。14世紀には蜂蜜や香辛料を加えた甘味飲料として、カイロなどの都市で製造・販売されていた。
大麦を材料としたパン。中東地域では、古くから大麦が基礎食品として利用されていた。大麦パンも9・10世紀の文学作品において、カリフが狩猟などで遠出した先での農民やベドウィンの食物として登場する。10世紀の『ナバティアの農書』は大麦パンを農民に推奨するが、一方で都市部では忌避する考え方もあった。
大麦発芽発酵飲料。10世紀のイラクの農書『ナバティアの農書』に、農民の常飲品として記録されている。疫病の予防に効果があるともされた。
パンを酢と油に浸した料理。パン粥。中世、都市社会で最もよく食べられていた穀物料理の一つとされる。
毛利氏の御用絵師。本名は原治兵衛直治。肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主・原豊後守直家の次男。子に狩野次兵衛(雲谷等益)。
豊前小倉細川家の家臣。宇佐郡の御郡奉行をつとめた上田忠左衛門の弟。当主細川忠利によって召し抱えられた。細川家中では葡萄酒やアヘンの製造を担う一方で、医師としての役割も期待されていた。
江戸初期、豊前小倉の細川家では葡萄酒が製造されていた。材料には山ぶどうの一種であるエビヅルが用いられたとみられる。当時、葡萄酒は薬酒として重宝されており、細川家でも葡萄酒製造を重要視していた。一方で葡萄酒はキリシタンと強く関連付けられる飲み物でもあった。
初夏に実を付けるケシの未熟な果実から出る乳液を乾燥させてつくった茶褐色の粉末。鎮痛、鎮咳、催眠などの効能があった。江戸初期、豊前小倉の細川家ではアヘンの製造が行われていた。
ペルシャ(イラン)発祥の菓子。アラビア語に入りファールーザジュと呼ばれた。でんぷんや豆粉に蜜や砂糖を加えに詰めたもの。冷まして大皿に盛り酥脂(バター類)をかけて食べられた。中国にも伝播し「八耳搭」と呼ばれた。
肉と小麦粒を煮込んだ粥。中世のイスラーム世界において宮廷の宴会料理として料理書にみえる。またスーク(市場)でも常設店での出来合い料理として提供されており、都市民のごちそうとして親しまれた。元朝時代の中国にも伝播している。
マグリブ地域で作られた粒状のパスタ。マグリブにはクスクス以外にもいくつかの種類のパスタがあったが、クスクスが最もよく食べられたパスタであったと推定されている。13世紀には東方のマシュリク地域にも伝播した。
細長いパスタ。地域や形状によっては、リシュタとも呼ばれた。10世紀から16世紀にわたってマシュリク、マグリブの文献に記載がある。12世紀にはシチリア島産のイトリヤがイタリア半島や中東各地に輸出されており、菓子や煮込み料理に使用された。
四角形や円形に切った餃子の皮のような小麦麺。あるいはそれを用いた料理を指す。元代の中国では「禿禿麻食」あるいは「禿禿麻失」と表記された。茹でたトゥトゥマージュに、ニンニクとミント入りヨーグルトをかけた料理などが知られる。
メトロポリタン美術館に所蔵される中世大和絵屏風。竹をテーマとし、ナズナや筍、雪などの景物を配して四季を表現している。制作年代は15世紀後半から16世紀前半とみられ、土佐派の絵師、特に土佐光信によって制作されたと推定されている。
メトロポリタン美術館蔵「保元平治合戦図屏風」 ほうげんへいじかっせんずびょうぶ
メトロポリタン美術館に所蔵される金地の六曲一双屏風。右隻に『保元物語』、左隻に『平治物語』の内容を描きこむもので、「合戦図屏風の最優作」とも評価される。作者は不明。制作年代については慶長五年(1600)から慶長十五年(1615)とされるが、寛永七年(1630)を下限とみる説も示されている。
甲斐源氏武田氏の祖である源義光(新羅三郎)から伝来したとされる鎧。安芸武田氏の重物。安芸武田氏滅亡後に大内氏の手に渡り、大内義隆によって厳島神社に寄進された。
安芸国の有力国人・毛利弘元が厳島神社に奉納した太刀。備前長船の刀工・国真の作。刀長106.6センチメートル。文献では野太刀と称される大太刀に該当する。
小早川隆景が厳島神社に寄進した太刀。「劔来太郎源国俊」の銘をもつ。刃長は74.6センチメートル。
鎌倉後期から南北朝初期の山城国の来派刀工。仮名は孫太郎。来国行の子とされ、生年は延応二年(1240)頃に比定される。長命であり、少なくとも81歳頃まで作刀を続けていることが確認できる。
イスパニョーラ島の南岸、オサマ川河口部に形成された植民都市。クリストバル・コロン(コロンブス)の次弟バルトレメオ・コロンが建設した拠点ヌエヴァ・イザベラの壊滅後、新総督ニコラス・デ・オヴァンドによって都市建設が開始された。
後古典期後期(1200年~16世紀)におけるカクチケル・マヤ人の要塞都市。現在のグアテマラ共和国チマルテナンゴ県北東端のミシュコ・ビエホ遺跡がその跡地。カクチケル・マヤ語の遺跡名は「チュワ・ニマ・アバフ」であり、「大きな石の前」を意味する。
後古典期後期(1200年~16世紀)のマム・マヤ人の主都。グアテマラ共和国ウェウェテナンゴ県に位置するサクレウ遺跡がその跡地とされる。遺跡名はマム・マヤ語で「白い土地」を意味する。
後古典期後期(1200年~16世紀)のカクチケル・マヤ人の主要都市。現在のグアテマラ共和国チマルテナンゴ県にあるイシムチェ遺跡がその跡地。メキシコ中央部のナワトル語で「クアウテマラン」の名称で呼ばれた。この「クアウテマラン」がスペイン語の地名グアテマラの語源であるという。
後古典期後期に高地マヤで強勢となったキチェ・マヤ人の主都。現在のグアテマラ共和国キチェ県に位置するクマルカフ遺跡がその跡地とされる。遺跡名の「クマルカフ」はキチェ・マヤ語で「古い葦の場所」を意味し、別名のウタトランは、ナワトル語で「豊富な葦」を表す。
メキシコ、ユカタン半島東部(キンタナロー州)のカリブ海沿岸にあったマヤ都市。1200年頃から16世紀のスペイン人征服期まで交易港として栄えた。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの後古典期前期にあたる1150年(久安六年)ごろに勃興した。後古典期後期(1200~1539)におけるマヤ低地北部最大の都市であり、ユカタン半島北部の広範な地方に及ぶ政治同盟の首都であった。
安芸国倉橋島の最南端の港町。かつては島であった高見山との間に形成された陸繋砂州上に作られた。芸予海峡のほぼ中間に位置し、16世紀後半頃から活発化しはじめた沖乗り航路の潮待ちの停泊地として利用されるようになったとみられる。
美濃焼の一種。長石を釉薬とした白いやきもの。慶長五年(1600)までには生産が始まっていたとみられる。器種は大きく分けて、白磁や染付といった中国陶磁器を意識した丸皿などの量産品と、茶碗・鉢・水指などの茶陶製品がある。初めて筆による絵付けがなされたやきものとしても知られる。
美濃焼の一種。黄瀬戸と同様、瀬戸の黒色の茶碗という意味からその名で呼ばれる。器種はほぼ茶碗に限定されている。美濃国の東濃地域(可児、土岐、恵那の3郡にまたがる地域)における大窯で、天正年間末期頃から17世紀初頭にかけて黄瀬戸、志野などとともに生産された。
美濃焼の一種。天正末年頃から慶長十年(1605)頃まで生産された。名称は「瀬戸より来たる黄色のやきもの」という意味。当初の黄瀬戸は中国の青磁をモデルとしたとみられるが、後に華南三彩の影響を受けたといわれる。
美濃焼の一種。慶長十年(1605)頃から元和年間頃まで生産された。多様な色彩やモチーフ、器形が特徴。その名は、同時代の茶人古田織部助重然に由来するとされるが、具体的な関係はよく分かっていない。
中世、独立した島嶼であった児島(現・児島半島)の南西端に位置した港町。瀬戸内海の喉首を占める地勢上、瀬戸内海航路の重要な寄港地として、また水運の拠点としても栄えた。
備前国の香登荘、伊部周辺で生産された無釉の陶器。壺、擂鉢、大甕の三器種を中心に生産され、西日本を中心に貯蔵用や調理用の生活雑器として広く使用された。16世紀ごろから茶陶としても用いられるようになった。
マヤ文明が栄えたメソアメリカ南東部で生産されたトウモロコシ。トウモロコシはメソアメリカに野生していたテオシンテを起源とするとされ、マヤでは先古典期前期(前1800~前1000)頃から栽培が始まったとみられている。
アステカなどメキシコ中央高地で生産されたトウモロコシ。トウモロコシはアステカにおける主食であり、同国では支配下に置いた国にトウモロコシ等の貢納を要求する一方で、チナンパと呼ばれる灌漑農業を展開した。
中部ベトナムのチャンパ王国で生産された陶磁器の総称。15世紀には国外に輸出されており、東南アジアや中東、日本の大宰府でもみつかっている。日本には17世紀初頭の朱印船貿易によってもチャンパ陶磁が運ばれた可能性がある。
ベトナム中部、トゥーボン川の河口に形成された港町。紀元前から遺跡が形成され、13世紀ごろまでチャンパ王国のもとで栄えた。16世紀中ごろに広南阮氏の支配下となり、対外貿易港として発展。17世紀初頭には日本町も形成された。
ベトナム北部で生産された陶磁器の総称。ベトナムにおける施釉陶磁の歴史は古く、二千年以上前から始まっていたとされる。11世紀に興った李朝の時代から独自の陶磁が生産されるようになり、東南アジア諸国だけでなく琉球や日本にも輸出された。西方にも輸出されており、オスマン朝には「大和八年」(1450年)銘の青花天球壺が伝わっている。
ピンホール現象を応用して投影像を得る装置。17世紀初頭、オランダ人によって携帯型のカメラ・オブスクラが発明され、市販されるようになった。江戸初期の日本にも移入されており、日本ではオランダ語の音写として「トンクルカームル」、あるいは日本語訳して暗室鏡、暗室写真機、写真鏡と呼ばれた。
望遠鏡は17世紀初頭のオランダで発明された。その後まもなくヨーロッパ中に普及し、日本にもイギリス東インド会社によって持ち込まれた。江戸幕府とオランダとの貿易が本格化すると、オランダは対日の高級貿易品として望遠鏡を輸入。日本では軍事や天体観測に用いられた。
中国明朝の華南地方で製作された「華南三彩陶」の一器種。名称は1627年(寛永四年)に没したイギリスの収集家ジョン・トラディスカントの名前に由来する。東南アジア地域中心に伝世品、出土例があるが、日本でも博多や豊後府内、肥後天草、石見益田などで確認されている。豊後大友氏や石見益田氏は茶壷として使用したらしい。
9世紀にアッバース朝支配下のイラクで生まれた白濁釉陶器。ガラス器製作の技術を応用し、金属器の光沢を放つことが特徴。中近東において長らく最高級陶器としての地位を占めた。またムスリム商人によって東アジア・東南アジアにまでもたらされた可能性がある。
ミャンマー南部の港マルタバン(モッタマ)から輸出された黒褐釉陶器の壺(あるいは甕)。中には1メートルほどのものもあり、東南アジアからインド洋沿岸地域で確認される施釉甕のなかでは最も大きい。貯蔵の為の容器として航海用に用いられることも多く、戦国期の日本にも持ち込まれている。
アナトリア西部の都市。サカルヤ川上流のポルスク・チャイ平原の南西端に位置する。中世、ゲルミヤン君侯国の中心都市として栄え、後にオスマン朝の支配がおよんだ。同じアナトリア西部のイズニクとならんで窯業が盛んであった。
アナトリア西部のキュタヒヤで作られた陶器。遅くとも15世紀末までには生産が始まっていたとみられる。同じくアナトリア西部のイズニクと競合しながら発展し、18世紀初頭までに陶器タイルの分野でイズニクのシェアを奪うに至る。
アナトリア西部の都市。古名はニカイア。13世紀前半のイスラムの地理学者ヤークートの著作にはアズニークとしてみえる。紀元前4世紀には存在し、ローマ帝国の都市としても長い歴史を持つ。14世紀に初期オスマン朝の拠点となり、16世紀にはイズニク陶器の生産地としても知られた。
アナトリア西部のイズニクで作られた陶器。15世紀から生産がはじまったとみられ、16世紀中頃までには、宮廷の嗜好を反映するかのように華麗な作品が作られている。また同世紀後半からは建造物に使用する陶器タイルに生産の比重が移った。江戸初期には日本にも移入されており、東京都の加賀藩本郷邸跡からイズニク陶器の皿が出土している。
毛抜形太刀 銘備州尾道五阿弥長行 けぬきがたたち めいびしゅうおのみちごあみながゆき
備後一宮吉備津神社に伝えられた太刀。尾道で活動した刀工・五阿弥長行が制作し、天文二十四年(1555)に寄進された。毛抜形太刀と呼ばれる平安期の様式の模古作とみられ、舞楽の際に使用されたと考えられている。
備後一宮吉備津宮の門前町。吉備津宮は12世紀には史料にみえ、中世を通じて備後国内で広く信仰を集めた。江戸初期の境内図には、門前に町場が形成され、大工や鍛冶などの職人が住んでいたことが描かれている。
東北アフリカに生息した羊。中世、ザイラゥなどの港から対岸のイエメンに輸出されていた。イエメンでは現地の羊より高額で取引されており、ラスール朝は下賜品としても用いた。
ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木から滲み出る樹脂。アラビア語ではルバーン(lubān)と呼ばれる。その生育地は、南アラビアや対岸のソマリア、ソコトラ島にほぼ限られる。香料や薬として広く用いられた。
ギーとはヒンディー語で、牛や羊、山羊の乳から作られるバターを熱して不純物を取り除き、冷ますことで得られる純度の高い油脂を指す。現代では清澄バター、澄ましバター、あるいは単に調理用バター、バター油脂とも呼ばれる。
能島村上家臣。忽那島(愛媛県松山市中島)俊成名を本領とする俊成氏出身か。天正年間、忽那島や岩城島、越智郡桜井などに所領を得た。周防国秋穂の浦銭も知行していた可能性がある。
能島村上家臣。天正十年(1582)四月の来島村上氏の毛利方離反以降、能島村上氏と小早川氏との間を使者として頻繁に往来した。史料には「久修」として見えることが多い。
能島村上氏の一族。官途名は豊前守。子に吉重、吉次。能島東丸に住んでいたとされる。
能島村上氏家臣。天正十年(1582)の来島村上氏の離反後、能島村上氏の使者として毛利氏・小早川氏との交渉を担当した。関ケ原合戦後は、主家を離れたらしい。
能島村上氏家臣。天正十三年(1585)二月、村上元吉から河野通直のもとに使者として派遣され、元吉が進めていた伊予国越智郡国分山での城普請について説明したとみられる。
伊予国の今治平野南端に位置する港町。中世には隣接して広い潟が存在していたと推定されている。時宗開祖の一遍が遊行に出発した地としても知られる。16世紀末には国分山城の城下町としての性格も帯びたとみられる。
牛乳を濃縮して作られた乳製品。全粉乳のようなものだったと推定されている。古代から中世前期に生産され、薬、あるいは仏教儀式における施物等として用いられた。
日本の「パン」の語源はポルトガル語のpão、あるいはスペイン語のpanとされる。16世紀後半、日本に来航したポルトガル人あるいはスペイン人らによって、パンはその製法とともに伝わったと考えられる。
乳製品の一種。いわゆるバターのこと。16世紀末にポルトガル人により日本にもたらされたとみられる。当時の日本人は乳製品を嫌っていたが、一方で薬としての需要があった。
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島根県益田市の曹洞宗妙義寺が所蔵する全十七幅の軸装作品。紙本著色で、寸法は各縦64.0センチメートル、横33.0センチメートル。一幅には釈迦如来を、残りの十六幅には十六羅漢の尊者たちを一人ずつ描く。全幅の画面上部には、「雲甫」あるいは「艮止」の落款を伴う賛が記されている。
益田宗兼が将軍足利義稙から拝領したという画軸。益田家に伝来した「諸道具」の一つで、寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」にみえる。三幅一対であり、中尊に中国の神仙を描いた「呂洞賓図」、左右が「芦雁図」二幅の組み合わせとなっている。
安芸吉川氏の本拠・日山城東麓の城下市町。吉川元春が日山城に入城したころから大きく発展したとみられ、市に定住する市衆や吉川氏が任じた目代(代官)もいた。江戸期の屋号からは、周辺および遠隔地の流通を担う商人や、木綿や皮革・染料を扱う商職人もいたと推定されている。
広島県安芸太田町戸河内の大歳神社に所蔵されている胴丸甲冑。中世、戸河内を支配した栗栖氏が寄進したものと推定されている。製作時期は室町期とみられ、全て本小札仕立ての高級品に対する普及型であった可能性が指摘されている。
石見国益田荘の国人領主でのちに毛利家臣となった益田家の伝来品。益田宗兼が将軍足利義稙から拝領したと伝わる絹製の小袖。五七桐紋と五枚笹、小さく渦巻く唐草紋が織り出されている。丈は128.8センチメートル。
平安中期の陸奥国の刀工舞草房安が製作したとされる刀。畠山重保がこの刀で猫又を切り殺したとの伝承を持つ。室町期、石見国益田荘を本拠とした国人領主益田氏が足利義政より拝領したとして、家宝としていた。
源頼朝が御家人の伊東祐時(童名犬坊丸)に与えたとされる太刀。犬房太刀とも。平安末期から鎌倉初期にかけての古備前の刀工「成高」の銘がある。祐時の子孫を称する内田氏に伝わり、後に内田氏一族の豊田氏重代の太刀となった。戦国期、豊田氏が益田氏に服属した際に益田藤兼に献上され、20世紀に至るまで益田家に受け継がれた。
毛利家臣の益田元祥が所持していた刀。鎌倉末期から南北朝初期ごろに京都来派の刀工来国光によって作られた。もとは長寸の太刀であったが、江戸初期に短く磨り上げて刀としている。
石見国益田を本拠とする益田氏が所持していた茶壺。千利休から高く評価され、東山御物に認定されたという。益田元祥から毛利輝元に進上されたが、後に輝元が石田三成に進上したため、関ヶ原合戦の際に佐和山城で失われたとされる。
瀧蔵権現(染羽天石勝神社)の別当寺だった勝達寺に所蔵されていたという壺。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩系の壺であり、製作年代は17世紀前半と推定されている。
毛利家臣の益田元祥が所持していた葉茶壺。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」に「小嶋葉茶壺」としてみえる。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩壺であり、現在は益田市東町の萬福寺が所蔵している。
益田元祥の時代から益田家に伝来した「諸道具」の一つ。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」にみえる。中央の「呂洞賓図」は徽宗筆とされ、左右の「芦雁図」は牧谿筆とされる。
中世、高津川と益田川が合流してできた潟湖に面する中ノ島(中洲)に形成された港町。同地の中須東原遺跡や中須西原遺跡からは多くの貿易陶磁が出土し、舟着き場跡とみられる礫敷き遺構などが検出されている。
石見国の有力国人益田氏の本拠地。益田川下流域の益田荘益田上本郷。石見国西部の政治・経済・文化の中心として栄え、益田川・高津川河口域の中津(中須)の湊、後に今市を港湾として日本海流通ともつながっていた。
備後北部の三次盆地の出入口に位置する市町。 瀬戸内海と備後北部の山間部をつなぐ交通の要衝として栄えた。中世、備北の有力国人和智氏の本拠となった。
明智光秀が所持していた名物の葉茶壺。その名は平安期の歌人伊勢大輔の歌に因むという。明智光秀の死後、近江坂本城にて焼失したとされる。
若狭国で生産された茶。小浜の明通寺は相当規模の茶園を有し、同じく小浜の西福寺も時の領主から茶園の安堵を受けていた。高浜日置の大成寺の「大成寺文書」からは、若狭国から京都へ茶を送った事例もみることができる。
中世の越前国では、寺社領内の茶園や「後山」などで茶の生産が行われていた。その多くは地域権力者への贈答のほか、寺院や寺庵、領民の日常で利用されいたとみられる。一方で戦国大名である越前朝倉氏は宇治の堀家と関係を結んで宇治茶の供給を確保していた。
緑水色の青磁の茶碗(青磁輪花碗)。高台周りのひび割れをホッチキスのように鎹(かすがい)で留めて修理してある。張りのある曲線を描いて立ち上がる姿の優美さ、わずかに緑をふくんだ青磁釉の美しさを持つ。なお「馬蝗」とはヒルを意味する。
越前朝倉氏重臣の青木景康が所持していた肩衝茶入。別名は式部少輔(式部丞)肩衝。のちに織田家臣明智光秀の手に渡り、茶会で用いられた。光秀死後は徳川家康が所有していたが、大坂の陣後に美作国津山の森忠政に下賜された。
マヤではカカオは重要な嗜好品だった。マヤ古典後期(750年頃)の壺には、カカオ飲料(チョコレート)を泡立てるために、一つの器から別の器に注ぎ入れている様子が描かれている。主なカカオ生産地域はタバスコ地方や太平洋沿岸部であったが、交易・貢納などを通じてユカタン半島北部にもカカオが運ばれていたとみられる。
石見国温泉郷の国人領主。官途名は信濃守。初名は隆長か。当初は周防大内氏に属していたが、同氏衰退後は出雲尼子氏に属した。弘治年間から尼子方として毛利氏と戦い、補給基地でもある温泉津をおさえて、尼子氏の石見銀山支配を支えた。永禄五年(1562)六月頃に没落し、尼子氏の富田城籠城戦に加わった。
大内家臣。土佐守。実名の「弘」は大内政弘からの偏諱か。大内氏の分国支配に吏僚として関わった。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身とみられる。
大内氏被官。石見国温泉郷を本拠とした国人温泉氏に関係する人物とみられる。文安元年(1444)十月、温泉次郎に与えられていた邇摩郡井尻村(現在の大田市温泉津町井田)が周布和兼に返還されることになっている。
入り組んだ入江である温泉津湾をに臨む港町。大永七年(1527)に石見銀山の開発が始まると銀山への物資搬入と銀の積み出しのため、各地から多くの船が集まって大いに栄えた。永禄五年(1562)に銀山および温泉津を制圧した毛利氏は、温泉津を重要な戦略拠点と位置づけ、温泉津奉行を配置して直轄支配を行っている。一方で温泉地としても知られ、島津家久が旅の途中で温泉に入っていることが彼の日記にみえる。
石見小笠原氏の重臣小笠原長実の被官。官途名は三郎兵衛尉。実名の「実」は、長実からの偏諱かもしれない。小笠原氏被官として大家東郷の町や大家大宮八幡宮の支配に関与した。
石見国邇摩郡大家東郷を本拠とした国人大家氏の当主。大嶽山城(今西山)に本拠を構えたと伝わる。永正元年(1504)に石見小笠原氏と一揆契約を行い、天文三年(1534)に大家大宮八幡宮を造営した。
石見国邇摩郡大家東郷の中心となった市場町。大家東郷を支配した国人大家氏の本拠地であり、同氏没落後は石見小笠原氏の重要拠点となった。現在の大田市大代町大家地区。交通の要衝でもあり、邑智郡川本方面・大田市大田方面・邇摩郡温泉津方面・江津市方面、これら四者を結ぶ接点に位置していた。
チョコレートの原料となるカカオ(テオブロマ・カカオ)の栽培は、南米エクアドル南端の高地アマゾンにおいて、紀元前3300年には始まっていた。その後、カカオ栽培は品種改良と並行しながら太平洋沿岸地域、さらにはメソアメリカ地域にも伝播していったと考えられている。
御調八幡宮(三原市八幡町宮内)に伝わる神宝。弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)頃のものと推定される青銅製の戈であり、御調八幡宮北方の鉾ヶ峰から出土したものとされる。
メソアメリカ地域では先スペイン期から19世紀まで、様々な文化・地域で藍染料が使用された。特に後世にマヤ・ブルーと呼称される青色顔料は、藍(インディゴ)とある種の粘土鉱物をミックスし、適当な熱を加えることによって造り出された。非常に堅牢な顔料であり、水はもちろんのこと、酸、アルカリおよび他の溶液や熱にも強く、古くから色料として壁画や土器、絵文書や石彫の着色に広く利用されていた。
マ海抜800〜900mの丘の上と山腹に建造されたマヤ古典期の高地性集落。現在のメキシコのチアパス州に位置した。なお「トニナ」は現代の呼称で、古典期には「ポ」または「ポポ」と呼ばれたとみられる。
紀元前から紀元後16世紀まで南米で栄えたアンデス文明では、水や空気を入れると音が鳴る「笛吹ボトル」と呼ばれる土器が数多く使われていた。儀式の際などに神聖な酒「チチャ」を注いで音を鳴らしたともいわれる。その内部構造は複雑で、製法や音の鳴らし方については、いまだ不明な点が多いという。
石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。
石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。
備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。
毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された本城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が本城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かっている。
毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。
石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。
石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。