毛利家臣の益田元祥が所持していた葉茶壺。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」に「小嶋葉茶壺」としてみえる。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩壺であり、現在は益田市東町の萬福寺が所蔵している。
毛利家臣の益田元祥が所持していた葉茶壺。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」に「小嶋葉茶壺」としてみえる。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩壺であり、現在は益田市東町の萬福寺が所蔵している。
益田元祥の時代から益田家に伝来した「諸道具」の一つ。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」にみえる。中央の「呂洞賓図」は徽宗筆とされ、左右の「芦雁図」は牧谿筆とされる。
中世、高津川と益田川が合流してできた潟湖に面する中ノ島(中洲)に形成された港町。同地の中須東原遺跡や中須西原遺跡からは多くの貿易陶磁が出土し、舟着き場跡とみられる礫敷き遺構などが検出されている。
石見国の有力国人益田氏の本拠地。益田川下流域の益田荘益田上本郷。石見国西部の政治・経済・文化の中心として栄え、益田川・高津川河口域の中津(中須)の湊、後に今市を港湾として日本海流通ともつながっていた。
備後北部の三次盆地の出入口に位置する市町。 瀬戸内海と備後北部の山間部をつなぐ交通の要衝として栄えた。中世、備北の有力国人和智氏の本拠となった。
明智光秀が所持していた名物の葉茶壺。その名は平安期の歌人伊勢大輔の歌に因むという。明智光秀の死後、近江坂本城にて焼失したとされる。
若狭国で生産された茶。小浜の明通寺は相当規模の茶園を有し、同じく小浜の西福寺も時の領主から茶園の安堵を受けていた。高浜日置の大成寺の「大成寺文書」からは、若狭国から京都へ茶を送った事例もみることができる。
中世の越前国では、寺社領内の茶園や「後山」などで茶の生産が行われていた。その多くは地域権力者への贈答のほか、寺院や寺庵、領民の日常で利用されいたとみられる。一方で戦国大名である越前朝倉氏は宇治の堀家と関係を結んで宇治茶の供給を確保していた。
青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆 せいじりんかちゃわん めい ばこうはん
緑水色の青磁の茶碗(青磁輪花碗)。高台周りのひび割れをホッチキスのように鎹(かすがい)で留めて修理してある。張りのある曲線を描いて立ち上がる姿の優美さ、わずかに緑をふくんだ青磁釉の美しさを持つ。なお「馬蝗」とはヒルを意味する。
越前朝倉氏重臣の青木景康が所持していた肩衝茶入。別名は式部少輔(式部丞)肩衝。のちに織田家臣明智光秀の手に渡り、茶会で用いられた。光秀死後は徳川家康が所有していたが、大坂の陣後に美作国津山の森忠政に下賜された。
羽柴秀吉が中国攻めの褒美として織田信長から拝領した茶道具の一つ。その名称からかつて越前朝倉氏が所持していたと推定される。
戦国期において「天下無双ノ名物」とうたわれた葉茶壷。三好実休が所持していたが、戦乱の中で六つに割れ、千宗易が継いで修復したことがあるという。後に三好笑岩が降伏する際に織田信長に進上された。信長の時代に焼失したとされる。
戦国期に「天下一の名物」とうたわれた唐物茶入。足利将軍家ゆかりの名物とされる。越前朝倉氏の一族である朝倉宗滴所持の後、越前府中の山本宗左衛門尉(小袖屋)が譲り受けたが、京都で紛失したところ松永久秀が入手。後に久秀から服属の証として織田信長に進上された。
灰被天目に分類される天目茶碗の名物。越前朝倉氏一族の朝倉景紀が所持していたが、後に織田信長の手に渡り京都所司代の村井貞勝に下賜された。貞勝死後は羽柴秀吉が所有した。
中国宋代のものとされる唐物肩衝茶入。その銘は、茶人でもあった能役者の宮王大夫が所持していたことに由来するという(『古名物記』)。織田信長に仕えた松井友閑が所持していたが、後に羽柴秀吉に献上。大坂の陣後に徳川家康から井伊直孝へ下賜され、井伊家の重宝となった。
小麦粉などを練って作った皮で餡を包み蒸したもの。中国から伝来し、点心の一つとして日本で普及した。室町期には京都や奈良で饅頭屋や饅頭売りが登場し、市販されるようになっていた。中世の饅頭は餡を野菜などで作る菜饅頭が基本であったとみられるが、砂糖を入れた小豆を餡とする砂糖饅頭も存在していた。
広島湾の東の関門である音戸瀬戸近くに位置する港町。平安末期には呉浦として史料にみえる。中世は呉津とも呼ばれ、大内氏に属す警固衆である呉衆の根拠地となった。
石見国邑智郡久永荘の賀茂神社の門前町。現在の邑南町中野。賀茂神社には鎌倉末期には三重塔が築かれており、戦国期には見世棚55軒が軒を並べる門前市が存在した。
石見国邑智郡阿須那本拠地とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。官途名は民部少輔。その姓から雪田村(島根県邑南町雪田)を拠点としたとみられる。
サマルカンド出身のネストリウス派キリスト教徒。甘味料シャラーブ(舎里八)に精通し、元朝の世祖クビライから舎里八赤に任じられた。のちに鎮江府の副長官となり、同地とその周辺にネストリウス派キリスト教の教会を建立した。マルコ・ポールの『東方見聞録』にも、その事績の一端が記されている。
砂糖や果汁を原料とした甘味飲料。アラビア語で"飲み物"を意味する。薬用としての側面があり、イスラームの医学書に製法が記されている。東アジアにも伝播して普及した。中国の文献には「舎里八」や「攝里白」「砂哩別」などとしてみえる。
砂糖を調味料とした鶏肉や羊肉の煮込み料理。説話集『千夜一夜物語』ではバグダードでの宴会の料理としてみえ、13世紀にバグダードで編纂された料理書にもレシピが記されている。12世紀のエジプトでは病人の滋養食の一つとして知られていた。
イラン高原北端部の都市。標高1400mに位置し、北端はアルボルズ山脈、南端はキャビール砂漠に接する。カスピ海西岸からホラーサーン地方に向かう際の交通の要地に位置した。ティムール朝の時代に発展し、サファヴィー朝期に市壁で囲まれて都市化。18世紀末にガージャール朝が建国されるとその首都となった。
イラン北西部の都市。サバラーン山東麓の標高1400mの高原に位置する。13世紀、サファヴィー教団の教主(シャイフ)サフィー・アッディーンが拠点とした。16世紀にサファヴィー朝が興ると参詣地として多くの巡礼者が訪れ、また絹交易の中継地としても栄えた。
コーネリアンチェリー(コーカサス) Cornelian cherry
ミズキ目ミズキ科の果樹。2~3センチ長の楕円形の赤い実をつける。 中世、コーカサス地方( 黒海とカスピ海の間に東西に延びるカフカス山脈沿いの地帯)ではコーネリアンチェリーの果肉が一般的に食されていたことが遺跡からの出土例により推定されている。
ペルシア(イラン)産の高級絨毯。宮廷工房を中心とする都市の工房で作られた。優れた素材を用い、高度な技術とデザインを持つ職人の手によって織られ、洋の東西で高く評価され、珍重された。
備後国御調郡海裹荘の集落。現在の広島県世羅町宇津戸。中世、「備後国鋳師惣大工職」となった鋳物師丹下氏が根拠地とした。石見国と出雲国に向かう街道の分岐点であり、江戸期は宿場町としても栄えた。
備後国御調郡海裹荘(世羅町宇津戸)の代官。官途名は式部大輔。備後守護代犬橋満泰の被官か。永享十二年(1440)に願主として地頭八幡宮社殿造営に関わった。
邑智郡君谷(島根県美郷町君谷川流域)を本貫とする国人。実清の子で祐忠の父。仮名は三郎二郎。官途名は弾正左衛門尉。出家後は道祐の法名を名乗る。南北朝期、北朝方として軍功を挙げ、邑智郡の上下出羽郷地頭職を得た。
石見国邑智郡阿須那(現島根県邑南町)を本拠とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。文明八年(1476)九月の契約状に署名がみえる。その姓から邑智郡上出羽郷を拠点としていたとみられる。
石見国の国人領主高橋氏の本拠地。現在の島根県邑南町阿須那。石見高橋氏は南北朝期から戦国期にかけて、石見・安芸・備後にまたがって勢力を拡大した。高橋氏滅亡後は毛利氏の支配下となり、同氏の石見・出雲経略の要地となった。
石見国邑智郡阿須那(島根県邑南町阿須那)を本拠地とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。官途名は下野守。
女真族が建てた金朝の初期の都城。金朝五京の一つ上京会寧府。現在も金上京城址が残る。中国黒龍江省ハルビン市阿城地区の南郊外2キロに位置し、東は阿什河の左岸に面する。俗に「白城」と呼ばれた。
元朝の時代、モンゴル高原南部のダリノール湖南西に築かれた城郭都市。現在の内モンゴル自治区赤峰市ヘシグテン旗に位置する。元朝の有力な姻族だったコンギラト部アルチ・ノヤン家によって造営された。
13世紀のモンゴル兵が用いた鎧甲。ウシなどの革を重ね合わせて作った板状の小札を革紐でとじて成形した皮甲と推定されている。日本に侵攻したモンゴル軍も装備していたとみられ、長崎県鷹島海底遺跡からも革製鎧の残骸が出土している。
13世紀のモンゴル兵が用いた曲刀。柄の端がリング状になっている刀で、「環首刀」ともよばれる。1233年(天福元年)にモンゴル高原を訪れた南宋の彭大雅は、モンゴル軍の優れた武器として弓矢とともに環刀を挙げている。
アルガリ(頑羊)の角を部材として作られるモンゴルの弓。当時のモンゴルの弓は出土資料からみると全長1〜1.2mほどで、いっぱんに「短弓」に分類される。
ヘルレン川流域にあったとされるチンギス・カンの冬季宿営地(大オルド)。後にチンギス・カンの霊廟として祭祀の場となったとみられる。モンゴル国ヘンティ県デリゲルハーン郡のアウラガ遺跡に比定されている。なお「アウラガ」とはモンゴル語で後方支援基地の意であるアウルク(a'uruq)のの転訛であるという。『元朝秘史』271節で"a'uruq"は"yekes ordos"すなわち「大オルド」と同義で用いられている。
中国の明朝から琉球に下賜された海船。その名は『宝案』などの漢籍史料において「◯字号船」として記載されていることによる。明朝は1385年(至徳二年)から15世紀前半にかけて多くの船を琉球に提供。それらは福建の各衛所所属の戦船であったとみられる。
7世紀末〜10世紀にかけて栄えた渤海国の王都。忽汗城の異名でも呼ばれる。都城の遺跡は黒竜江省寧安市渤海鎮に残る。8世紀中頃に、唐の長安城をモデルとして建設されたと推定されている。
伝安閑天皇陵出土円形切子碗 でんあんかんてんのうりょうしゅつどえんけいきりこわん
6世紀頃にメソポタミアのササン朝で製作されたと推定されるカットガラス碗。安閑天皇陵とされる高屋築山古墳(大阪府羽曳野市)から出土したとされる。正倉院蔵の白瑠璃碗と極めて類似していることでも知られる。
ササン朝の版図だったメソポタミア・イラン地域で製作されたガラス製品。ユーフラテス川以東に分布するササンガラスはソーダ源に植物灰を用いてあり、マグネシウムやカリウムに富んだ組成を示す。ユーラシア東西交易により中国、そして日本にももたらされており、日本では古墳からの出土のほか、正倉院に伝世品が所蔵されている。
備前焼の肩衝茶入。天正十五年(1587)の九州陣の際に千利休が筑前箱崎で催した茶会で用いられた。高級な白地金襴の仕覆に入れられており、袋ばかりが立派ということが銘の由来とされる。
備前焼の肩衝茶入。古田織部所持と伝えられており、慶長年間かそれ以前の作と推定されている。寛永十三年(1636)の茶会での使用が史料にみえ、江戸後期には茶人でもあった松平不昧が蒐集した茶道具の名物の一つとして挙げられている。
一重切の竹花入。高さ33.4センチメートル、太さ10.6センチメートル。茶人千利休が羽柴秀吉の小田原遠征に従軍した際に伊豆韮山の竹で作ったとされる。表に大きな割れ目(干割れ)がある。
石見国邑智郡出羽郷を拠点とした刀工。銘に「直綱」あるいは「石州出羽住直綱」と切る。活動時期は南北朝期から室町初期にかけてであり、初代直綱から数代続いたとされる。
備中笠岡の刀工。備後の鞆の刀工貞次の子。15世紀後半、笠岡城主陶山宗兼の招きで笠岡に移住したとみられる。
レモン汁の煮込み料理。12世紀のエジプトではよく知られた料理であり、具材として鶏肉や羊肉などの肉類や、カボチャやホウレンソウ、ナスなどの野菜類が用いられた。また具材や調味料の組み合わせによって効能が変化すると考えられており、アイユーブ朝の宮廷医イブン・ジュマイウは著書に具材別の効能を記している。
レモンがインドから中東にもち込まれ、栽培が開始されたのは9世紀・10世紀のことであり、13世紀になると、中東全域でよく知られた果物として文献資料に記述されるようになる。特にエジプトでは10世紀以降に栽培が普及し、その医学的効能についても重視されていた。
李(すもも)の塩漬け。6世紀の北魏の農書『斉民要術』にその製法がみえる。当時は酒の席で蜂蜜をかけて食べられることもあったらしい。中国明朝の李時珍も『本草綱目』の中で白李を「有益」としている。
蜂蜜で漬けた梅。3世紀の三国時代の呉国の宮廷にはすでに蜜漬梅が貯蔵されていたことが史料にみえる。6世紀の『斉民要術』にその製法が記されている。当時は蜜漬けが果実の一般的な加工方法だったらしい。16世紀の『本草綱目』にも梅の保存方法として糖蔵がみえる。
毛利家臣。官途名は宮内少輔。毛利氏の重臣の一人であり、大永三年(1523)七月二十六日、毛利元就の家督相続を要請する連署状に名を連ねた。由緒書によれば、中村氏は安芸武田氏に属する土師(安芸高田市八千代町土師)の領主だったが、元明は兄繁勝を謀殺して毛利弘元(元就の父)に仕えたのだという。
安芸国大山を拠点とした刀工。大山鍛冶は筑前の左文字派出身の守安を初代とする。宗重は15世紀中頃の応永・康正年間から16世紀末の文禄年間まで活動が確認したといわれ、同名の人物が3〜4代続いたと考えられている。
日本には古くから羊が持ち込まれていたが、家畜として利用されることは少なかった。江戸期では、公家など一部の日本人が飼育していたほか、長崎出島のオランダ商館で放し飼いにされていたことが記録にみえる。特に長崎では、来航する中国人やオランダ人により羊料理や羊乳の乳製品が食されていたらしい。
小豆と小麦粉または葛粉と混ぜたものを蒸して作られたお菓子。いわゆる蒸し羊羹に近いものだったといわれる。室町期ごろから、点心の一つとしてみえ、御成・饗応の席などでしばしばお菓子として用いられた。
16世紀末の日本ではヤギは、野牛(ヤギウ)と呼ばれていた。来航するヨーロッパ人の需要に応じて、肥前の平戸や長崎では販売が行われるようになったとみられる。江戸期、長崎周辺ではヤギが飼育され市販されており、長崎の住人にもヤギ料理が普及していた。
日本では猪と豚を明確に区別しておらず、豚を食べることも少なかったという。そんな中、16世紀にポルトガルなどヨーロッパ人が来航したことを契機に、平戸や長崎では豚肉を食べる文化が普及。江戸時代においても、長崎ではオランダや中国の影響を受けて豚肉を含む肉類が食べられた。
アナツバメ(海燕)の巣。アナツバメの分泌物で作られている。ベトナム中部沖のチャム諸島(クーラオチャム)などの海島で採取された。高級食材として知られ、少なくとも江戸初期までには日本にも輸入されていた。
周防国で漁獲された鯖。平安期には周防国からの貢納品に指定されており、中世には「周防鯖」として全国の特産品の一つに挙げられている。その背腸で作られる塩辛も、長門・周防両国の産物として知られた。
南蛮から渡来した酒の一種。文禄五年(1596)七月、藤原惺窩が大隅国波見で中国人商人から振舞われている。江戸期の本草書には、焼酒を二次的蒸留した酒であると紹介されている。暹羅酒(シャム王国の酒)のことを指す名称ともされる。
邇摩郡福光郷の国人領主福光氏の一族。官途名は将監。永正十四年(1517)七月二十三日、京都の中御門宣胤のもとを訪れ、石見への下国を告げている。
邇摩郡福光郷の国人である福光氏の一族。官途名は民部丞。天文末年頃、山吹城での軍役や長門国での社役がおぼつかない窮状に陥る。石見吉川氏の合力で公役を果たし、その「御礼」として領地を譲っている。
石見国邇摩郡の福光川河口の港町。現在の大田市温泉津町福光字湊。邇摩郡福光郷の内にあり、同時代史料には「湊」としてみえる。16世紀後半、石見国人である周布氏や石見吉川氏が進出した。
石見国温泉郷を本拠とした国人温泉氏の被官。官途名は源左衛門尉。出雲尼子氏からも「海陸諸役」の免除特権を与えられ、海上活動を通じて主家に馳走した。鉄炮や鉛、火薬も保有しており、軍事面でも活躍している。
江戸期の日本で使われた中型の廻船。船首が太い一本水押(みよし)であり、他の廻船と比べて凌波性に優れたといわれる。17世紀後半から帆走船化等がはかられた結果、少ない水主で運用できるようになった。18世紀には大型化し、江戸期日本の海運における主要な廻船となった。
日本で用いられた中型の軍用船。元は海賊船を意味する名称であったともされる。機動力に優れ、海関(多くは海賊の拠点)周辺において航行する他の船舶から通行料を徴収するのに適していた。江戸期、幕府が大型軍船の所有を禁止したため、諸大名の代表的な軍船となった。
戦国期日本における最大級の戦艦。小型で500石、大型では2000石にも及ぶ積載量をもち、盾板(装甲用の硬く厚い板)で装甲し、甲板上には2層ないし4層の楼閣(矢倉)を備えていたといわれる。その巨大な積載量を生かして鉄炮や大筒(石火矢)などの大小の火器を搭載して、海戦や拠点攻略に絶大な威力を発揮した。
六枚櫂の中型船。近世の史料には「羽賀瀬」「羽風」「波働」「羽海艘」「羽翰」などと書かれ、ハガセ、ハカゼ、ハガイソウ、ハガイなどと呼ばれていたと推定されている。船底は平らで堅牢であったが、ムシロ帆による帆走の性能は低かった。主として櫂走であり、そのため波の荒い日本海においても航行が可能で、日本海沿岸を広く活動したという。
戦国期の関東で活躍した絵師の興悦が溌墨技法で描いた山水図。幻庵(伊勢宗瑞の子の幻庵宗哲)が賛文を附している。現在は東京国立博物館の所蔵。
雪舟等楊が美濃国伊自良の楊岐庵を描いたとされる山水図。雪舟は文明十三年(1481)秋に美濃国の正法寺を訪れており、同寺の春蘭寿崇に招かれて楊岐庵にも赴いたとみられる。
江戸初期の絵師俵屋宗達が描いたとみられる総金地の二曲屏風。左右一組(二曲一双)の構成。向かって右の屏風に白い風袋を抱えた緑色の風神が、左の屏風には連鼓を背負った白色の雷神が描かれている。現在は建仁寺所蔵。
景初三年銘三角縁神獣鏡 けいしょさんねんめい さんかくぶちしんじゅうきょう
神原神社古墳(島根県雲南市加茂町神原)の木棺から出土した銅鏡。中国古代の神仙説話に登場する西王母や東王公などの神仙と、神仙界を守護する霊獣とを表現した神獣鏡であり、中国の魏の「景初三年」(239年)の紀年銘を持っている。
藤原定家の筆道を説く一巻を、江戸初期の茶人小堀遠州(政一)が書写したもの。現在は東京国立博物館蔵。その内容は、平安末期から鎌倉初期の歌人藤原定家による印象的な文字造形「定家様」を書くためのマニュアルとなっている。「定家卿筆道」自体は歌人藤原定家への崇拝の中で生まれた偽書と考えられており、小堀遠州が書写した時代に作られたものとされる。
平安末期から鎌倉初期の歌人藤原定家が、古来の歌人の歌を一首ずつ色紙形に書いたもの。名称は京都小倉山の山荘の障子に貼ったという伝承にちなむ。戦国期の武野紹鴎が茶の湯に用いて以降、床の掛物として珍重された。
三国時代の烏桓(烏丸)の有力者。三郡烏桓の一つである右北平烏桓の単于。魏の幽州刺史である毌丘倹が遼東の公孫淵を攻めた際に、魏に降って朝貢した。
高句麗は三国時代の呉や、南北朝時代の東晋や南朝宋に対してたびたび馬を献上している。『太平御覧』や『宋書』には、高句麗が献じた馬が「千里馬」「赭白馬」と記されており、名馬であったことがうかがえる。
高句麗の「別種」とされる小水貊で作られた弓。良い弓として、西晋時代の中国にも知られた。以後も高句麗を象徴する武器であったとみられ、最後の高句麗王である宝蔵王は、唐に投降する際に貊弓を献じている。
高句麗の王都。鴨緑江と通溝江の合流地点の北岸に位置し、平地城(国内城)と山城(丸都山城)がセットとなった構造をしている。中国の三国時代、魏の幽州刺史毌丘倹の侵攻を受けた。5世紀前半、長寿王の時代に南の平壌へと遷都された。
モンゴル高原東部に居住していた契丹族が、狩猟等に用いた犬。渤海を経由して平安時代の日本にももたらされている。
渤海国の東京竜原府に属する塩州の州城。日本と渤海を結ぶ「日本道」の起点とみられ、日本との通交の玄関口であったと推定される。ポシェット湾北岸に位置するクラスキノ古城に比定されており、現在でもその遺構が残っている。
石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。
日本から渤海に派遣された留学生。渤海楽(渤海の音楽)を学んだとされる。天平宝字七年(763)に海路で帰国の途につくが、日本海で遭難し、妻子らを海に投げ込まれた。本人は隠岐国に漂着するが、以後の消息は不明。一方で彼が学んだ渤海楽は日本に定着し、雅楽の一つとして長く引き継がれていった。
出羽北部を流れる米代川(野代川)河口部に位置する港町。戦国期には檜山安東氏の外港として日本海海運の要衝を占めた。
7世紀末〜10世紀にかけて栄えた渤海国の王都。上京竜泉府。忽汗城の異名でも呼ばれる。都城の遺跡は黒竜江省寧安市渤海鎮に残る。8世紀中頃に、唐の長安城をモデルとして建設されたと推定されている。
伊予国下島(大崎下島)東岸の港町。現在の広島県呉市豊町大長。室町期、竹原小早川氏出身で沼田小早川氏に属した小早川徳平家の本拠地となった。
伊予国下島(大崎下島)北岸の港町。現在の広島県呉市豊町久比。室町期、大三島の善善麻から小早川円春に譲れらた三ヶ浦の一つ。大三島との合戦が起こった際、小早川円春方が城を築いて守りを固めたという。
伊予国下島(大崎下島)南岸の港町。現在の広島県呉市豊町沖友。室町期、大三島の善善麻から小早川円春に譲れらた三ヶ浦の一つ。その位置から、瀬戸内海の沖乗り航路の港であったと推定される。
出雲中海南岸の港町。現在の島根県安来市安来町。出雲国の東端、伯耆への玄関口に位置し、中海を通じて日本海水運にも繋がることから、中世、水陸交通の要衝として栄えた。
飯梨川(富田川)中下流域にあった富田城の城下町。中世、出雲守護京極佐々木氏やその守護代で後の戦国大名・尼子氏の本拠が置かれ、出雲国の政治的中心の一つとして栄えた。飯梨川(富田川)の水運により、北に中海、日本海、南は山陽路に通じ、また陸路により東の伯耆国、西の松江にも通じる軍事・交通の要衝でもあった。
出雲国神門郡塩冶郷の市町。塩冶郷は出雲山間部から出雲平野を貫流する斐伊川・神戸川の両河川が通過する要地であり、中世、出雲西部に大きな勢力をもった塩冶氏のもとで河川水運・流通の拠点として栄えたとみられる。
杵築大社大工職をつとめた神門氏の当主。官途名は次郎左衛門尉。子に神門慶清。本拠地は塩冶郷であり、同地を流れる神戸川の上流にある笈神社や須佐大明神の造営にも大工として関わった。
メキシコ盆地のテツココ湖上の島(メシコ)に築かれた都市。メシーカ人の都市国家。同じくメシーカ人が島の北部に築いた都市トラテロルコとあわせてメシコ(メヒコ)とも呼ばれる。15世紀、テツココおよびトラコパンと三都市同盟(エシュカン・トラトヤン)を形成し、メキシコ盆地だけでなくその外側にも勢力を拡大。16世紀初頭には、人口20万人とも推定される世界有数の大都市となった。
マゲイ(リュウゼツランの一種)などの樹液を発酵させて作られた飲料。酩酊を禁じるアステカにおいては飲用には制限があった。のちにスペイン人によって「プルケ」と呼称された。
広島湾東岸の市町。現在の広島県安芸郡府中町。奈良期には安芸国の駅家が設置されていたとみられ、平安期は国府として田所氏ら在庁官人が活動した。室町・戦国期は安芸武田氏被官の白井氏が府中および仁保島を拠点としており、府中城(出張城)に籠城して周防大内氏の侵攻を防ぐこともあった。また戦国期の府中には町が形成されており、16世紀末ごろまでには出張市とも呼ばれていた。
スペインの副王領であるヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)で普及したチョコレートは、17世紀前半までにはスペイン本国でも上流階級を中心に多くの人々を魅了する嗜好品となった。飲用には背の高いチョコレートカップが用いられ、中国製あるいは日本の肥前磁器のチョコレートカップも輸入されていたとみられる。
1521年(大永元年)にエルナン・コルテス率いるスペイン人によってアステカ王国が滅ぼされると、スペインの副王領であるヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)が設立された。同地に進出したヨーロッパ人たちは当初、カカオ飲料(チョコレート)を「人間のためというより豚のための飲物」などと嫌っていたが、やがて常飲するほど生活に欠かせないものになっていった。17世紀後半には、日本の肥前磁器がチョコレートカップ(チョコレートを飲む際に用いられる背の高いカップ)として用いられていたことが出土遺物から分かっている。
15世紀から栄えたメキシコ高原で栄えたアステカ王国でも、カカオは重要な嗜好品であった。同国には、太平洋沿岸のチョコノチコ(ソコヌスコ)地方やメキシコ湾沿岸のシカランコなどのカカオ産地から貢納や交易によって大量のカカオがもたらされていた。アステカでは様々なカカオ飲料が作られて、王や貴族などの特権階級がこれを飲用するとともに、貨幣としても流通していた。
マヤではカカオは重要な嗜好品だった。マヤ古典後期(750年頃)の壺には、カカオ飲料(チョコレート)を泡立てるために、一つの器から別の器に注ぎ入れている様子が描かれている。主なカカオ生産地域はタバスコ地方や太平洋沿岸部であったが、交易・貢納などを通じてユカタン半島北部にもカカオが運ばれていたとみられる。
石見国温泉郷の国人領主。官途名は信濃守。初名は隆長か。当初は周防大内氏に属していたが、同氏衰退後は出雲尼子氏に属した。弘治年間から尼子方として毛利氏と戦い、補給基地でもある温泉津をおさえて、尼子氏の石見銀山支配を支えた。永禄五年(1562)六月頃に没落し、尼子氏の富田城籠城戦に加わった。
大内家臣。土佐守。実名の「弘」は大内政弘からの偏諱か。大内氏の分国支配に吏僚として関わった。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身とみられる。
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毛利家臣の益田元祥が所持していた葉茶壺。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」に「小嶋葉茶壺」としてみえる。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩壺であり、現在は益田市東町の萬福寺が所蔵している。
益田元祥の時代から益田家に伝来した「諸道具」の一つ。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」にみえる。中央の「呂洞賓図」は徽宗筆とされ、左右の「芦雁図」は牧谿筆とされる。
中世、高津川と益田川が合流してできた潟湖に面する中ノ島(中洲)に形成された港町。同地の中須東原遺跡や中須西原遺跡からは多くの貿易陶磁が出土し、舟着き場跡とみられる礫敷き遺構などが検出されている。
石見国の有力国人益田氏の本拠地。益田川下流域の益田荘益田上本郷。石見国西部の政治・経済・文化の中心として栄え、益田川・高津川河口域の中津(中須)の湊、後に今市を港湾として日本海流通ともつながっていた。
備後北部の三次盆地の出入口に位置する市町。 瀬戸内海と備後北部の山間部をつなぐ交通の要衝として栄えた。中世、備北の有力国人和智氏の本拠となった。
明智光秀が所持していた名物の葉茶壺。その名は平安期の歌人伊勢大輔の歌に因むという。明智光秀の死後、近江坂本城にて焼失したとされる。
若狭国で生産された茶。小浜の明通寺は相当規模の茶園を有し、同じく小浜の西福寺も時の領主から茶園の安堵を受けていた。高浜日置の大成寺の「大成寺文書」からは、若狭国から京都へ茶を送った事例もみることができる。
中世の越前国では、寺社領内の茶園や「後山」などで茶の生産が行われていた。その多くは地域権力者への贈答のほか、寺院や寺庵、領民の日常で利用されいたとみられる。一方で戦国大名である越前朝倉氏は宇治の堀家と関係を結んで宇治茶の供給を確保していた。
緑水色の青磁の茶碗(青磁輪花碗)。高台周りのひび割れをホッチキスのように鎹(かすがい)で留めて修理してある。張りのある曲線を描いて立ち上がる姿の優美さ、わずかに緑をふくんだ青磁釉の美しさを持つ。なお「馬蝗」とはヒルを意味する。
越前朝倉氏重臣の青木景康が所持していた肩衝茶入。別名は式部少輔(式部丞)肩衝。のちに織田家臣明智光秀の手に渡り、茶会で用いられた。光秀死後は徳川家康が所有していたが、大坂の陣後に美作国津山の森忠政に下賜された。
羽柴秀吉が中国攻めの褒美として織田信長から拝領した茶道具の一つ。その名称からかつて越前朝倉氏が所持していたと推定される。
戦国期において「天下無双ノ名物」とうたわれた葉茶壷。三好実休が所持していたが、戦乱の中で六つに割れ、千宗易が継いで修復したことがあるという。後に三好笑岩が降伏する際に織田信長に進上された。信長の時代に焼失したとされる。
戦国期に「天下一の名物」とうたわれた唐物茶入。足利将軍家ゆかりの名物とされる。越前朝倉氏の一族である朝倉宗滴所持の後、越前府中の山本宗左衛門尉(小袖屋)が譲り受けたが、京都で紛失したところ松永久秀が入手。後に久秀から服属の証として織田信長に進上された。
灰被天目に分類される天目茶碗の名物。越前朝倉氏一族の朝倉景紀が所持していたが、後に織田信長の手に渡り京都所司代の村井貞勝に下賜された。貞勝死後は羽柴秀吉が所有した。
中国宋代のものとされる唐物肩衝茶入。その銘は、茶人でもあった能役者の宮王大夫が所持していたことに由来するという(『古名物記』)。織田信長に仕えた松井友閑が所持していたが、後に羽柴秀吉に献上。大坂の陣後に徳川家康から井伊直孝へ下賜され、井伊家の重宝となった。
小麦粉などを練って作った皮で餡を包み蒸したもの。中国から伝来し、点心の一つとして日本で普及した。室町期には京都や奈良で饅頭屋や饅頭売りが登場し、市販されるようになっていた。中世の饅頭は餡を野菜などで作る菜饅頭が基本であったとみられるが、砂糖を入れた小豆を餡とする砂糖饅頭も存在していた。
広島湾の東の関門である音戸瀬戸近くに位置する港町。平安末期には呉浦として史料にみえる。中世は呉津とも呼ばれ、大内氏に属す警固衆である呉衆の根拠地となった。
石見国邑智郡久永荘の賀茂神社の門前町。現在の邑南町中野。賀茂神社には鎌倉末期には三重塔が築かれており、戦国期には見世棚55軒が軒を並べる門前市が存在した。
石見国邑智郡阿須那本拠地とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。官途名は民部少輔。その姓から雪田村(島根県邑南町雪田)を拠点としたとみられる。
サマルカンド出身のネストリウス派キリスト教徒。甘味料シャラーブ(舎里八)に精通し、元朝の世祖クビライから舎里八赤に任じられた。のちに鎮江府の副長官となり、同地とその周辺にネストリウス派キリスト教の教会を建立した。マルコ・ポールの『東方見聞録』にも、その事績の一端が記されている。
石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。
石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。
備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。
毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された本城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が本城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かっている。
毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。
石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。
石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。
石見銀山の栃畑谷の住人。仮名は万助。本拠は出雲国秋鹿郡大野荘であり、栃畑では「田辺屋敷」に居住していた。天正年間には同族とみられる小林之久・同吉久も安芸国厳島神社に回廊を寄進している。
石見銀山の鉱山町。大永七年(1527)に銀山開発が始まると、仙ノ山一帯には鉱山労働従事者や職人、商人らが集まって巨大な都市が形成され、膨大な物資集散が行われた。なお石見銀山自体は戦国期は「佐間(佐摩)銀山」と呼称されていた。
石見国温泉津に居屋敷を持っていた商人。居屋敷は毛利元就から給与されており、元就死後に輝元によって安堵された。その名から、長門国肥中との関係性が指摘されている。
石見国邇摩郡波積郷の地侍。官途名は主税助。毛利氏の警固衆として軍事活動の一翼を担った。平時には船を用いて経済活動を行っており、毛利氏領国の諸関での役料免除特権を与えられている。
石見銀山東方の宿場町。森林資源の豊富な石見国邑智郡や出雲国と石見銀山を結ぶ道筋の要地にあった。銀山の最盛期は荻原千軒ともいわれる栄えた町場であったという。
石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。
マヤ低地南部の西端に立地したマヤの古代都市。メキシコ湾岸低地を一望できるチアパス高地山腹の丘陵上に立地する高地性集落。先古典期後期(前400年~後250年)に居住が開始されたが、最盛期は古典期後期であったと考えられている。
マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。
石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。
石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、温泉津と石見銀山をむすぶ輸送業を営んでいたとみられる。銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。