石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。
石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。
マヤ低地南部の西端に立地したマヤの古代都市。メキシコ湾岸低地を一望できるチアパス高地山腹の丘陵上に立地する高地性集落。先古典期後期(前400年~後250年)に居住が開始されたが、最盛期は古典期後期であったと考えられている。
イシュ・ツァクブ・アハウ Ix Tz'aka'ab Ajaw
マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。
石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。
石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、温泉津と石見銀山をむすぶ輸送業を営んでいたとみられる。銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。
石見国邇摩郡西田を拠点とした大工。仮名は藤五郎。西田に屋敷を構え、天正十七年(1589)の西田八幡宮造営に大工として関わった。
石見国迩摩郡西田の在地領主。官途名は甲斐守。天文十七年(1548)八月、西田村八幡宮の拝殿を建立した。石見国邑智郡川本郷を本拠とする小笠原氏の一族ともされる。
石見銀山と銀山の外港温泉津を結ぶ街道の中継地点に位置する宿場町。現在の大田市温泉津町西田。銀山と温泉津の間の物資輸送の拠点として栄えた。また16世紀末の史料から、銀山や温泉津周辺で活動する人物が住んでいたことも分かっている。
京都の町人。慶長十五年(1610)、日本使節の長としてヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に渡航した。朱屋隆清と同一人物ともされる。
本阿弥光悦が製作した焼物。茶会記などの記録には「光悦焼」あるいは「光悦茶碗」としてみえる。光悦は刀剣の磨礦(とぎ)・浄拭(ぬぐい)・目利(めきき)を業とした本阿弥家の別家の出身。名筆家としても知られるが、陶芸においても優れた才をみせたという。光悦の陶芸の主流は楽焼の茶碗製作であり、京都の樂家の二代常慶と三代道入らの助けをもって行われた。
炒り大麦粉。焦がし大麦。水に溶かして飲まれることも多かった。解熱の効能があるとされ、中世イスラームの医学者によって熱病や夏季対策に推奨された。16世紀のエジプトのカイロでは、サウィークを溶かした飲料が最も日常に飲まれている滋養飲料であったという。
大麦を水で煮詰めて作られた飲料。イスラーム世界においては解熱の薬効があるとされ、庶民にも広く飲用が普及した。14世紀には蜂蜜や香辛料を加えた甘味飲料として、カイロなどの都市で製造・販売されていた。
大麦を材料としたパン。中東地域では、古くから大麦が基礎食品として利用されていた。大麦パンも9・10世紀の文学作品において、カリフが狩猟などで遠出した先での農民やベドウィンの食物として登場する。10世紀の『ナバティアの農書』は大麦パンを農民に推奨するが、一方で都市部では忌避する考え方もあった。
大麦発芽発酵飲料。10世紀のイラクの農書『ナバティアの農書』に、農民の常飲品として記録されている。疫病の予防に効果があるともされた。
パンを酢と油に浸した料理。パン粥。中世、都市社会で最もよく食べられていた穀物料理の一つとされる。
毛利氏の御用絵師。本名は原治兵衛直治。肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主・原豊後守直家の次男。子に狩野次兵衛(雲谷等益)。
豊前小倉細川家の家臣。宇佐郡の御郡奉行をつとめた上田忠左衛門の弟。当主細川忠利によって召し抱えられた。細川家中では葡萄酒やアヘンの製造を担う一方で、医師としての役割も期待されていた。
江戸初期、豊前小倉の細川家では葡萄酒が製造されていた。材料には山ぶどうの一種であるエビヅルが用いられたとみられる。当時、葡萄酒は薬酒として重宝されており、細川家でも葡萄酒製造を重要視していた。一方で葡萄酒はキリシタンと強く関連付けられる飲み物でもあった。
初夏に実を付けるケシの未熟な果実から出る乳液を乾燥させてつくった茶褐色の粉末。鎮痛、鎮咳、催眠などの効能があった。江戸初期、豊前小倉の細川家ではアヘンの製造が行われていた。
ペルシャ(イラン)発祥の菓子。アラビア語に入りファールーザジュと呼ばれた。でんぷんや豆粉に蜜や砂糖を加えに詰めたもの。冷まして大皿に盛り酥脂(バター類)をかけて食べられた。中国にも伝播し「八耳搭」と呼ばれた。
肉と小麦粒を煮込んだ粥。中世のイスラーム世界において宮廷の宴会料理として料理書にみえる。またスーク(市場)でも常設店での出来合い料理として提供されており、都市民のごちそうとして親しまれた。元朝時代の中国にも伝播している。
マグリブ地域で作られた粒状のパスタ。マグリブにはクスクス以外にもいくつかの種類のパスタがあったが、クスクスが最もよく食べられたパスタであったと推定されている。13世紀には東方のマシュリク地域にも伝播した。
細長いパスタ。地域や形状によっては、リシュタとも呼ばれた。10世紀から16世紀にわたってマシュリク、マグリブの文献に記載がある。12世紀にはシチリア島産のイトリヤがイタリア半島や中東各地に輸出されており、菓子や煮込み料理に使用された。
四角形や円形に切った餃子の皮のような小麦麺。あるいはそれを用いた料理を指す。元代の中国では「禿禿麻食」あるいは「禿禿麻失」と表記された。茹でたトゥトゥマージュに、ニンニクとミント入りヨーグルトをかけた料理などが知られる。
メトロポリタン美術館に所蔵される中世大和絵屏風。竹をテーマとし、ナズナや筍、雪などの景物を配して四季を表現している。制作年代は15世紀後半から16世紀前半とみられ、土佐派の絵師、特に土佐光信によって制作されたと推定されている。
メトロポリタン美術館蔵「保元平治合戦図屏風」 ほうげんへいじかっせんずびょうぶ
メトロポリタン美術館に所蔵される金地の六曲一双屏風。右隻に『保元物語』、左隻に『平治物語』の内容を描きこむもので、「合戦図屏風の最優作」とも評価される。作者は不明。制作年代については慶長五年(1600)から慶長十五年(1615)とされるが、寛永七年(1630)を下限とみる説も示されている。
甲斐源氏武田氏の祖である源義光(新羅三郎)から伝来したとされる鎧。安芸武田氏の重物。安芸武田氏滅亡後に大内氏の手に渡り、大内義隆によって厳島神社に寄進された。
安芸国の有力国人・毛利弘元が厳島神社に奉納した太刀。備前長船の刀工・国真の作。刀長106.6センチメートル。文献では野太刀と称される大太刀に該当する。
小早川隆景が厳島神社に寄進した太刀。「劔来太郎源国俊」の銘をもつ。刃長は74.6センチメートル。
鎌倉後期から南北朝初期の山城国の来派刀工。仮名は孫太郎。来国行の子とされ、生年は延応二年(1240)頃に比定される。長命であり、少なくとも81歳頃まで作刀を続けていることが確認できる。
イスパニョーラ島の南岸、オサマ川河口部に形成された植民都市。クリストバル・コロン(コロンブス)の次弟バルトレメオ・コロンが建設した拠点ヌエヴァ・イザベラの壊滅後、新総督ニコラス・デ・オヴァンドによって都市建設が開始された。
後古典期後期(1200年~16世紀)におけるカクチケル・マヤ人の要塞都市。現在のグアテマラ共和国チマルテナンゴ県北東端のミシュコ・ビエホ遺跡がその跡地。カクチケル・マヤ語の遺跡名は「チュワ・ニマ・アバフ」であり、「大きな石の前」を意味する。
後古典期後期(1200年~16世紀)のマム・マヤ人の主都。グアテマラ共和国ウェウェテナンゴ県に位置するサクレウ遺跡がその跡地とされる。遺跡名はマム・マヤ語で「白い土地」を意味する。
後古典期後期(1200年~16世紀)のカクチケル・マヤ人の主要都市。現在のグアテマラ共和国チマルテナンゴ県にあるイシムチェ遺跡がその跡地。メキシコ中央部のナワトル語で「クアウテマラン」の名称で呼ばれた。この「クアウテマラン」がスペイン語の地名グアテマラの語源であるという。
後古典期後期に高地マヤで強勢となったキチェ・マヤ人の主都。現在のグアテマラ共和国キチェ県に位置するクマルカフ遺跡がその跡地とされる。遺跡名の「クマルカフ」はキチェ・マヤ語で「古い葦の場所」を意味し、別名のウタトランは、ナワトル語で「豊富な葦」を表す。
メキシコ、ユカタン半島東部(キンタナロー州)のカリブ海沿岸にあったマヤ都市。1200年頃から16世紀のスペイン人征服期まで交易港として栄えた。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの後古典期前期にあたる1150年(久安六年)ごろに勃興した。後古典期後期(1200~1539)におけるマヤ低地北部最大の都市であり、ユカタン半島北部の広範な地方に及ぶ政治同盟の首都であった。
安芸国倉橋島の最南端の港町。かつては島であった高見山との間に形成された陸繋砂州上に作られた。芸予海峡のほぼ中間に位置し、16世紀後半頃から活発化しはじめた沖乗り航路の潮待ちの停泊地として利用されるようになったとみられる。
美濃焼の一種。長石を釉薬とした白いやきもの。慶長五年(1600)までには生産が始まっていたとみられる。器種は大きく分けて、白磁や染付といった中国陶磁器を意識した丸皿などの量産品と、茶碗・鉢・水指などの茶陶製品がある。初めて筆による絵付けがなされたやきものとしても知られる。
美濃焼の一種。黄瀬戸と同様、瀬戸の黒色の茶碗という意味からその名で呼ばれる。器種はほぼ茶碗に限定されている。美濃国の東濃地域(可児、土岐、恵那の3郡にまたがる地域)における大窯で、天正年間末期頃から17世紀初頭にかけて黄瀬戸、志野などとともに生産された。
美濃焼の一種。天正末年頃から慶長十年(1605)頃まで生産された。名称は「瀬戸より来たる黄色のやきもの」という意味。当初の黄瀬戸は中国の青磁をモデルとしたとみられるが、後に華南三彩の影響を受けたといわれる。
美濃焼の一種。慶長十年(1605)頃から元和年間頃まで生産された。多様な色彩やモチーフ、器形が特徴。その名は、同時代の茶人古田織部助重然に由来するとされるが、具体的な関係はよく分かっていない。
中世、独立した島嶼であった児島(現・児島半島)の南西端に位置した港町。瀬戸内海の喉首を占める地勢上、瀬戸内海航路の重要な寄港地として、また水運の拠点としても栄えた。
備前国の香登荘、伊部周辺で生産された無釉の陶器。壺、擂鉢、大甕の三器種を中心に生産され、西日本を中心に貯蔵用や調理用の生活雑器として広く使用された。16世紀ごろから茶陶としても用いられるようになった。
マヤ文明が栄えたメソアメリカ南東部で生産されたトウモロコシ。トウモロコシはメソアメリカに野生していたテオシンテを起源とするとされ、マヤでは先古典期前期(前1800~前1000)頃から栽培が始まったとみられている。
アステカなどメキシコ中央高地で生産されたトウモロコシ。トウモロコシはアステカにおける主食であり、同国では支配下に置いた国にトウモロコシ等の貢納を要求する一方で、チナンパと呼ばれる灌漑農業を展開した。
中部ベトナムのチャンパ王国で生産された陶磁器の総称。15世紀には国外に輸出されており、東南アジアや中東、日本の大宰府でもみつかっている。日本には17世紀初頭の朱印船貿易によってもチャンパ陶磁が運ばれた可能性がある。
ベトナム中部、トゥーボン川の河口に形成された港町。紀元前から遺跡が形成され、13世紀ごろまでチャンパ王国のもとで栄えた。16世紀中ごろに広南阮氏の支配下となり、対外貿易港として発展。17世紀初頭には日本町も形成された。
ベトナム北部で生産された陶磁器の総称。ベトナムにおける施釉陶磁の歴史は古く、二千年以上前から始まっていたとされる。11世紀に興った李朝の時代から独自の陶磁が生産されるようになり、東南アジア諸国だけでなく琉球や日本にも輸出された。西方にも輸出されており、オスマン朝には「大和八年」(1450年)銘の青花天球壺が伝わっている。
ピンホール現象を応用して投影像を得る装置。17世紀初頭、オランダ人によって携帯型のカメラ・オブスクラが発明され、市販されるようになった。江戸初期の日本にも移入されており、日本ではオランダ語の音写として「トンクルカームル」、あるいは日本語訳して暗室鏡、暗室写真機、写真鏡と呼ばれた。
望遠鏡は17世紀初頭のオランダで発明された。その後まもなくヨーロッパ中に普及し、日本にもイギリス東インド会社によって持ち込まれた。江戸幕府とオランダとの貿易が本格化すると、オランダは対日の高級貿易品として望遠鏡を輸入。日本では軍事や天体観測に用いられた。
中国明朝の華南地方で製作された「華南三彩陶」の一器種。名称は1627年(寛永四年)に没したイギリスの収集家ジョン・トラディスカントの名前に由来する。東南アジア地域中心に伝世品、出土例があるが、日本でも博多や豊後府内、肥後天草、石見益田などで確認されている。豊後大友氏や石見益田氏は茶壷として使用したらしい。
9世紀にアッバース朝支配下のイラクで生まれた白濁釉陶器。ガラス器製作の技術を応用し、金属器の光沢を放つことが特徴。中近東において長らく最高級陶器としての地位を占めた。またムスリム商人によって東アジア・東南アジアにまでもたらされた可能性がある。
ミャンマー南部の港マルタバン(モッタマ)から輸出された黒褐釉陶器の壺(あるいは甕)。中には1メートルほどのものもあり、東南アジアからインド洋沿岸地域で確認される施釉甕のなかでは最も大きい。貯蔵の為の容器として航海用に用いられることも多く、戦国期の日本にも持ち込まれている。
アナトリア西部の都市。サカルヤ川上流のポルスク・チャイ平原の南西端に位置する。中世、ゲルミヤン君侯国の中心都市として栄え、後にオスマン朝の支配がおよんだ。同じアナトリア西部のイズニクとならんで窯業が盛んであった。
アナトリア西部のキュタヒヤで作られた陶器。遅くとも15世紀末までには生産が始まっていたとみられる。同じくアナトリア西部のイズニクと競合しながら発展し、18世紀初頭までに陶器タイルの分野でイズニクのシェアを奪うに至る。
アナトリア西部の都市。古名はニカイア。13世紀前半のイスラムの地理学者ヤークートの著作にはアズニークとしてみえる。紀元前4世紀には存在し、ローマ帝国の都市としても長い歴史を持つ。14世紀に初期オスマン朝の拠点となり、16世紀にはイズニク陶器の生産地としても知られた。
アナトリア西部のイズニクで作られた陶器。15世紀から生産がはじまったとみられ、16世紀中頃までには、宮廷の嗜好を反映するかのように華麗な作品が作られている。また同世紀後半からは建造物に使用する陶器タイルに生産の比重が移った。江戸初期には日本にも移入されており、東京都の加賀藩本郷邸跡からイズニク陶器の皿が出土している。
毛抜形太刀 銘備州尾道五阿弥長行 けぬきがたたち めいびしゅうおのみちごあみながゆき
備後一宮吉備津神社に伝えられた太刀。尾道で活動した刀工・五阿弥長行が制作し、天文二十四年(1555)に寄進された。毛抜形太刀と呼ばれる平安期の様式の模古作とみられ、舞楽の際に使用されたと考えられている。
備後一宮吉備津宮の門前町。吉備津宮は12世紀には史料にみえ、中世を通じて備後国内で広く信仰を集めた。江戸初期の境内図には、門前に町場が形成され、大工や鍛冶などの職人が住んでいたことが描かれている。
東北アフリカに生息した羊。中世、ザイラゥなどの港から対岸のイエメンに輸出されていた。イエメンでは現地の羊より高額で取引されており、ラスール朝は下賜品としても用いた。
ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木から滲み出る樹脂。アラビア語ではルバーン(lubān)と呼ばれる。その生育地は、南アラビアや対岸のソマリア、ソコトラ島にほぼ限られる。香料や薬として広く用いられた。
ギーとはヒンディー語で、牛や羊、山羊の乳から作られるバターを熱して不純物を取り除き、冷ますことで得られる純度の高い油脂を指す。現代では清澄バター、澄ましバター、あるいは単に調理用バター、バター油脂とも呼ばれる。
能島村上家臣。忽那島(愛媛県松山市中島)俊成名を本領とする俊成氏出身か。天正年間、忽那島や岩城島、越智郡桜井などに所領を得た。周防国秋穂の浦銭も知行していた可能性がある。
能島村上家臣。天正十年(1582)四月の来島村上氏の毛利方離反以降、能島村上氏と小早川氏との間を使者として頻繁に往来した。史料には「久修」として見えることが多い。
能島村上氏の一族。官途名は豊前守。子に吉重、吉次。能島東丸に住んでいたとされる。
能島村上氏家臣。天正十年(1582)の来島村上氏の離反後、能島村上氏の使者として毛利氏・小早川氏との交渉を担当した。関ケ原合戦後は、主家を離れたらしい。
能島村上氏家臣。天正十三年(1585)二月、村上元吉から河野通直のもとに使者として派遣され、元吉が進めていた伊予国越智郡国分山での城普請について説明したとみられる。
伊予国の今治平野南端に位置する港町。中世には隣接して広い潟が存在していたと推定されている。時宗開祖の一遍が遊行に出発した地としても知られる。16世紀末には国分山城の城下町としての性格も帯びたとみられる。
牛乳を濃縮して作られた乳製品。全粉乳のようなものだったと推定されている。古代から中世前期に生産され、薬、あるいは仏教儀式における施物等として用いられた。
日本の「パン」の語源はポルトガル語のpão、あるいはスペイン語のpanとされる。16世紀後半、日本に来航したポルトガル人あるいはスペイン人らによって、パンはその製法とともに伝わったと考えられる。
乳製品の一種。いわゆるバターのこと。16世紀末にポルトガル人により日本にもたらされたとみられる。当時の日本人は乳製品を嫌っていたが、一方で薬としての需要があった。
16世紀、ポルトガルなどヨーロッパ人の来航により、日本では牛肉や豚肉を食べる文化が広がっていった。17世紀初頭に長崎で刊行された『日葡辞書』には、「Guiunicu(牛肉)」という単語が収録されている。「Vxino nicu(牛の肉)」と説明されており、牛肉食の定着がうかがえる。特に16世紀末の長崎では多くの住民が牛肉を食べていたという。
豊後国や豊前国に伝来した南蛮料理。ポルトガル人宣教師らがもたらしたパエリア様の料理がもとになっていると考えられ、サフランではなく梔(くちなし)を使って米を黄色く染める。
ポルトガル・スペインから日本に伝来した南蛮料理。魚肉や鶏肉、牛肉などとともに煮込む。長崎では鯨肉で代用したという。ポルトガル・スペインのコジートやコシードと呼ばれる煮込み料理が原型であるとみられる。
ポルトガルから伝来した南蛮菓子の一つ。砂糖と卵白を煮つめて泡立たせ、冷まして凝固させた菓子。16世紀、ポルトガル人の宣教師らによって日本にもたらされたとみられる。
ポルトガルから伝来した南蛮菓子の一つ。16世紀、ポルトガル人の宣教師らによって日本にもたらされたとみられる。当時のポルトガルでは、アーモンド入りの菓子であったらしい。日本では「はるていす」とも呼ばれた。
備後国世羅郡吉原(現在の広島県東広島市豊栄町吉原)の国人領主。仮名は次郎五郎。永正年間、毛利興元ら周辺の国人と盟約を結んだ。
沼田小早川氏の一族。官途名は民部丞、民部大夫。忠義の子で茂遠の孫。兄に清忠がいる。惣領家とは異なる立場をとっており、元弘の乱では兄とともに後醍醐天皇に味方し、建武の乱以後は南朝方として戦った。
南北朝初期の小早川一族。美作五郎。左衛門尉。東寺領であった伊予国弓削島荘に他の小早川庶子家とともに進出し、同荘の鯨浦に代官をおいて支配した。その姓から、本拠は安芸国豊田郡安宿郷であったと推定される。
沼田小早川氏庶子家・浦氏の初代当主。左衛門太郎。小早川宣平の子。兄弟に小早川貞平、猪熊資平、小坂将平、小泉氏平、生口惟平、末弘明平、応庵祖璿らがいる。伊予国弓削島荘に他の庶子家とともに進出した。
小早川氏の庶子家・小早川生口氏の初代。幼名は道祖鶴丸。官途名は弾正左衛門尉。惣領家である沼田小早川氏当主・小早川宣平の子。公実の父。兄弟に小早川貞平、猪熊資平、小坂将平、小泉氏平、浦氏実、末弘明平、応庵祖璿らがいる。
伊予国の今治平野北部にあったラグーンに面した港町。伊予府中の外港の一つだったとみられ、少なくとも鎌倉期から海上輸送の拠点として利用されていた。江戸初期、藤堂高虎により今治城が築かれ、その城下町として再編された。
ブドウやナツメヤシから作られた発酵飲料、あるいは酒。イエメン・ラスール朝では砂糖や蜂蜜などの甘味料も加えられた。イスラームにおいては忌避されていたが、中世のイエメン(南西アラビア)では広く普及していたらしい。
小麦粉から作られる発酵飲料。酒に分類される場合もあった。また米や米粉から作るスービヤーもあった。イエメンのラスール朝では、甘味や香味が加えられたものが宮廷で飲用されていた。
大麦から作られる発泡した発酵飲料。発酵作用により、わずかながらアルコールを含有していた可能性がある。イエメンのラスール朝では宮廷でも飲用されていた。
沼田小早川氏庶子家の上山氏の当主。官途名は安芸守。出家して聖玖を号した。本家にあたる椋梨子氏を盟主とした一揆に加わり、惣領家に対抗した。
沼田小早川氏庶子家の上山氏の当主。官途名は掃部助。父は上山信平、祖父は和木為平。系図によると彦平という兄がいた。南北朝期、後醍醐天皇方(南朝方)となり、備後国や安芸国で足利尊氏方(北朝方)と戦った。
竹原小早川氏の家臣。15世紀末頃の同氏の正月儀礼を記した史料にその名がみえる。安芸国風早浦の領主とみられ、大きな経済力を有していた可能性がある。
備中国で生産された紙。備中国は平安期以前から紙の産地だったが、15世紀中頃から特に檀紙類の産地として知られるようになる。備中国内では新見荘など北部地域で生産が盛んであった。
備中国北部の荘園である新見荘で生産された紙。備中国は『看聞日記』永享十三年(1441)正月十二日条に「備中檀帋」がみえるなど、高級檀紙の産地として京都でも知られていた。
備中国で産出した鉄。中世、同国の鉄は全国的な名産品であった。室町期、摂津国の商人が新見荘で「くろかね(鉄)」を質物としており、畿内の商人が鉄の買付に訪れていたことが知られる。
備中国新見荘の惣追捕使・福本盛吉の兄弟。女性ともされる。新見荘代官祐清の死後、その遺品の形見分けを望む書状を東寺に書き送ったことが知られる。
東寺の僧侶。寛正三年(1462)に備中国新見荘の代官として現地に下向し、支配にあたった。東寺としては久々の直務代官であったが、その支配は困難を極め、最期は現地で横死することとなった。
備中国北部の荘園である新見荘にあった市庭町。領家方と地頭方の両地域にそれぞれ市庭在家をもつ市庭が形成されていたが、領家方の市庭が規模が大きかったと推定されている。荘園領主である東寺に多くの文書が残されていることも特徴。
インドやその周辺国で食べられている香辛料とお肉の炊き込みご飯。ペルシア(イラン)料理のプラオ、あるいはプラオが元となった中央アジアのポロなどが源流ではないかとされている。1641年(寛永十八年)、ポルトガル人がパキスタン北部の都市ラホールの市場でビリヤニらしき料理を目にしている。
20世紀前半、イタリアの僧院で発見された書物。15世紀から16世紀ごろに作成されたとみられるが、未知の文字で記述されており、挿図には未知の植物などが描かれている。神聖ローマ皇帝の蔵書となった後、17世紀に入って錬金術師や学者たちがその解読に挑んだことが知られる。
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石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。
マヤ低地南部の西端に立地したマヤの古代都市。メキシコ湾岸低地を一望できるチアパス高地山腹の丘陵上に立地する高地性集落。先古典期後期(前400年~後250年)に居住が開始されたが、最盛期は古典期後期であったと考えられている。
マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。
石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。
石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、温泉津と石見銀山をむすぶ輸送業を営んでいたとみられる。銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。
石見国邇摩郡西田を拠点とした大工。仮名は藤五郎。西田に屋敷を構え、天正十七年(1589)の西田八幡宮造営に大工として関わった。
石見国迩摩郡西田の在地領主。官途名は甲斐守。天文十七年(1548)八月、西田村八幡宮の拝殿を建立した。石見国邑智郡川本郷を本拠とする小笠原氏の一族ともされる。
石見銀山と銀山の外港温泉津を結ぶ街道の中継地点に位置する宿場町。現在の大田市温泉津町西田。銀山と温泉津の間の物資輸送の拠点として栄えた。また16世紀末の史料から、銀山や温泉津周辺で活動する人物が住んでいたことも分かっている。
京都の町人。慶長十五年(1610)、日本使節の長としてヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に渡航した。朱屋隆清と同一人物ともされる。
本阿弥光悦が製作した焼物。茶会記などの記録には「光悦焼」あるいは「光悦茶碗」としてみえる。光悦は刀剣の磨礦(とぎ)・浄拭(ぬぐい)・目利(めきき)を業とした本阿弥家の別家の出身。名筆家としても知られるが、陶芸においても優れた才をみせたという。光悦の陶芸の主流は楽焼の茶碗製作であり、京都の樂家の二代常慶と三代道入らの助けをもって行われた。
炒り大麦粉。焦がし大麦。水に溶かして飲まれることも多かった。解熱の効能があるとされ、中世イスラームの医学者によって熱病や夏季対策に推奨された。16世紀のエジプトのカイロでは、サウィークを溶かした飲料が最も日常に飲まれている滋養飲料であったという。
大麦を水で煮詰めて作られた飲料。イスラーム世界においては解熱の薬効があるとされ、庶民にも広く飲用が普及した。14世紀には蜂蜜や香辛料を加えた甘味飲料として、カイロなどの都市で製造・販売されていた。
大麦を材料としたパン。中東地域では、古くから大麦が基礎食品として利用されていた。大麦パンも9・10世紀の文学作品において、カリフが狩猟などで遠出した先での農民やベドウィンの食物として登場する。10世紀の『ナバティアの農書』は大麦パンを農民に推奨するが、一方で都市部では忌避する考え方もあった。
大麦発芽発酵飲料。10世紀のイラクの農書『ナバティアの農書』に、農民の常飲品として記録されている。疫病の予防に効果があるともされた。
パンを酢と油に浸した料理。パン粥。中世、都市社会で最もよく食べられていた穀物料理の一つとされる。
毛利氏の御用絵師。本名は原治兵衛直治。肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主・原豊後守直家の次男。子に狩野次兵衛(雲谷等益)。
豊前小倉細川家の家臣。宇佐郡の御郡奉行をつとめた上田忠左衛門の弟。当主細川忠利によって召し抱えられた。細川家中では葡萄酒やアヘンの製造を担う一方で、医師としての役割も期待されていた。
唐人の衣装。天文年間に大友義鑑が将軍足利義晴への贈答品としている。また日明貿易に深く関わった楠葉西忍も、中国から輸入すべき品目の一つに印金を施した「道士ノ古衣」を挙げている。
戦国期の豊後府内に住んでいた渡来系中国人。絵画技術を持ち、大友氏のもとで貴重な顔料の調達に関わることもあった。天正末年頃、府内唐人町や隣の稲荷町の住人と伊勢参詣を行っている。
戦国期の豊後府内に住んでいた渡来人。中国明朝の浙江省台州府出身。元亀二年(1571)七月、同じく明朝の温州府平陽県出身の陽愛有とともに府内の称名寺に梵鐘を寄進した。
豊後国の漆喰塗り職人。父は陳義明。曽祖父が中国明朝からの渡来した人物であり、祖父の代で豊後国府内に定住している。後に兵火に遭って臼杵に移住。後に京都方広寺の大仏造立の為に上洛し、豊臣秀吉から褒賞を得た。
中国明朝出身の渡来人。明朝では要職に就いていたが、讒言に遭って出奔し、家族とともに日本の肥前国に渡航。弟や息子たちは九州や周防各地に分住していった。子の一人である陳覚明は、豊後府内に移住して仏像の制作を担う仏師として活動。覚明の孫の元明は、仏師として天正末年の京都方広寺大仏造立にも関わっている。
弘治二年(1556)、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。そのまま舟山島定海に滞在していたが、後に来航した大友氏使節が明朝官軍の攻撃を受ける事件が起こり、内陸の四川省茂州の寺院へと流された。
弘治三年(1557)八月、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。倭寇の罪を謝し、朝貢の許可を求めたが、明朝政府に拒絶された。そのまま中国に留まり、翌年二月、明朝官軍の攻撃を受けていた別の大友氏使節救援に奔走した。
弘治三年(1557)に豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。一方で中国明朝の記録には「夷目」あるいは「倭目」とみえ、明朝からは倭寇の頭目と認識されている。明朝に帰順しようとする倭寇首領・王直とともに浙江沖の舟山島に至ったが、同地で明軍と交戦することとなった。
筑前博多の商人。官途名は主計頭。父は潤屋永富。子に次郎太郎、養子に神屋長秀(太郎左衛門)、婿に孫八郎がいる。なお、系図によっては神屋寿禎の兄とされるが、甥である可能性も指摘されている。
筑前博多の商人。子に弥五郎。神屋寿禎の代官として石見銀山に派遣され、石見銀の買い付けを行った。後に天文十六年度遣明使節の一号船の船頭として入明したが、寧波にて死去した。
筑前博多の商人。石見銀山の開発と石見銀の貿易に関わったといわれる。妻は妙栄。子に三正(聖福寺龍華庵の庵主)、小四郎、宗浙、宗白らがいる。戦国末期の博多の豪商・神屋宗湛は寿禎の曽孫にあたる。
現在の東京都区部から南南東約1000キロメートルの太平洋上にある島嶼。江戸期の17世紀後半、漂流船の帰還を契機として日本で存在が知られるようになった。延宝三年(1675)、幕府は大型の「唐船造之御船」を派遣して調査を行い、調査隊により様々な鳥や植物の生息が報告された。
中国明朝の浙江出身の人物。対馬の時羅が浙江を襲撃した際に夫の符旭とともに掠われ、時羅の妻とされたという。時羅が朝鮮を訪れた際に、同国の官人に救出され、明朝に送還された。
応永二十七年(1420)に朝鮮の日本回礼使・宋希璟が対馬で出会った僧体の人物。希璟は詩の中で彼を「被虜唐僧」と呼んでいる。中国(明朝)台州の軍官であったという。倭寇の捕虜となり、対馬の海民のもとで使役されていた。
対馬島北部東岸の早留浦の百姓。応永十一年(1404)、「かきつめ」(海女)であったことが「対馬番家文書」にみえる。海女もまた、公事を納める百姓(公事足百姓)として対馬島主・宗氏に掌握されていたと考えられている。
中世の対馬国の海域では、イルカなどの「大物」は、島主である宗氏への上納が義務付けられていた。一方で宗氏は海士に浦々でのイルカ漁を免許。対馬では海士を主体としたイルカ漁が近世初頭まで続いたという。
安芸国豊田郡安宿の住人。小早川被官か。天正九年(1581)に伊勢御師に献納したことが史料にみえる。国弘氏は安宿、清武に拠点があったとみられ、室町期から存在が知られる。
日本(対馬)から朝鮮に渡航した使節が乗り込んだ船。朝鮮は通交(外交)と貿易を一体のものとして扱ったため、使送船もまた貿易船としての性格を持った。また船の規模は、朝鮮側によって規定されていた。
ハンガリー中央部のドナウ川西岸の都市。13世紀、ハンガリー国王ベーラ四世によって築かれた。19世紀、北方の都市オーブダおよびドナウ川対岸の都市ペシュトと合併し、「ブダペシュト(ブダペスト)」となる。
対馬宗氏が朝鮮への緊急連絡の際に用いた船。小早に分類される櫓漕ぎの帆船であり、風待ちをすることなく、海峡を渡って朝鮮半島へ渡航することができた。「おしふね」や「渡口の船」とも呼ばれたとみられる。