毛利家臣の益田元祥が所持していた葉茶壺。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」に「小嶋葉茶壺」としてみえる。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩壺であり、現在は益田市東町の萬福寺が所蔵している。
モンゴル高原東部に居住していた契丹族が、狩猟等に用いた犬。渤海を経由して平安時代の日本にももたらされている。
渤海国の東京竜原府に属する塩州の州城。日本と渤海を結ぶ「日本道」の起点とみられ、日本との通交の玄関口であったと推定される。ポシェット湾北岸に位置するクラスキノ古城に比定されており、現在でもその遺構が残っている。
石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。
日本から渤海に派遣された留学生。渤海楽(渤海の音楽)を学んだとされる。天平宝字七年(763)に海路で帰国の途につくが、日本海で遭難し、妻子らを海に投げ込まれた。本人は隠岐国に漂着するが、以後の消息は不明。一方で彼が学んだ渤海楽は日本に定着し、雅楽の一つとして長く引き継がれていった。
出羽北部を流れる米代川(野代川)河口部に位置する港町。戦国期には檜山安東氏の外港として日本海海運の要衝を占めた。
7世紀末〜10世紀にかけて栄えた渤海国の王都。上京竜泉府。忽汗城の異名でも呼ばれる。都城の遺跡は黒竜江省寧安市渤海鎮に残る。8世紀中頃に、唐の長安城をモデルとして建設されたと推定されている。
伊予国下島(大崎下島)東岸の港町。現在の広島県呉市豊町大長。室町期、竹原小早川氏出身で沼田小早川氏に属した小早川徳平家の本拠地となった。
伊予国下島(大崎下島)北岸の港町。現在の広島県呉市豊町久比。室町期、大三島の善善麻から小早川円春に譲れらた三ヶ浦の一つ。大三島との合戦が起こった際、小早川円春方が城を築いて守りを固めたという。
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毛利家臣の益田元祥が所持していた葉茶壺。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」に「小嶋葉茶壺」としてみえる。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩壺であり、現在は益田市東町の萬福寺が所蔵している。
益田元祥の時代から益田家に伝来した「諸道具」の一つ。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」にみえる。中央の「呂洞賓図」は徽宗筆とされ、左右の「芦雁図」は牧谿筆とされる。
中世、高津川と益田川が合流してできた潟湖に面する中ノ島(中洲)に形成された港町。同地の中須東原遺跡や中須西原遺跡からは多くの貿易陶磁が出土し、舟着き場跡とみられる礫敷き遺構などが検出されている。
石見国の有力国人益田氏の本拠地。益田川下流域の益田荘益田上本郷。石見国西部の政治・経済・文化の中心として栄え、益田川・高津川河口域の中津(中須)の湊、後に今市を港湾として日本海流通ともつながっていた。
備後北部の三次盆地の出入口に位置する市町。 瀬戸内海と備後北部の山間部をつなぐ交通の要衝として栄えた。中世、備北の有力国人和智氏の本拠となった。
明智光秀が所持していた名物の葉茶壺。その名は平安期の歌人伊勢大輔の歌に因むという。明智光秀の死後、近江坂本城にて焼失したとされる。
若狭国で生産された茶。小浜の明通寺は相当規模の茶園を有し、同じく小浜の西福寺も時の領主から茶園の安堵を受けていた。高浜日置の大成寺の「大成寺文書」からは、若狭国から京都へ茶を送った事例もみることができる。
中世の越前国では、寺社領内の茶園や「後山」などで茶の生産が行われていた。その多くは地域権力者への贈答のほか、寺院や寺庵、領民の日常で利用されいたとみられる。一方で戦国大名である越前朝倉氏は宇治の堀家と関係を結んで宇治茶の供給を確保していた。
緑水色の青磁の茶碗(青磁輪花碗)。高台周りのひび割れをホッチキスのように鎹(かすがい)で留めて修理してある。張りのある曲線を描いて立ち上がる姿の優美さ、わずかに緑をふくんだ青磁釉の美しさを持つ。なお「馬蝗」とはヒルを意味する。
越前朝倉氏重臣の青木景康が所持していた肩衝茶入。別名は式部少輔(式部丞)肩衝。のちに織田家臣明智光秀の手に渡り、茶会で用いられた。光秀死後は徳川家康が所有していたが、大坂の陣後に美作国津山の森忠政に下賜された。
羽柴秀吉が中国攻めの褒美として織田信長から拝領した茶道具の一つ。その名称からかつて越前朝倉氏が所持していたと推定される。
戦国期において「天下無双ノ名物」とうたわれた葉茶壷。三好実休が所持していたが、戦乱の中で六つに割れ、千宗易が継いで修復したことがあるという。後に三好笑岩が降伏する際に織田信長に進上された。信長の時代に焼失したとされる。
戦国期に「天下一の名物」とうたわれた唐物茶入。足利将軍家ゆかりの名物とされる。越前朝倉氏の一族である朝倉宗滴所持の後、越前府中の山本宗左衛門尉(小袖屋)が譲り受けたが、京都で紛失したところ松永久秀が入手。後に久秀から服属の証として織田信長に進上された。
灰被天目に分類される天目茶碗の名物。越前朝倉氏一族の朝倉景紀が所持していたが、後に織田信長の手に渡り京都所司代の村井貞勝に下賜された。貞勝死後は羽柴秀吉が所有した。
中国宋代のものとされる唐物肩衝茶入。その銘は、茶人でもあった能役者の宮王大夫が所持していたことに由来するという(『古名物記』)。織田信長に仕えた松井友閑が所持していたが、後に羽柴秀吉に献上。大坂の陣後に徳川家康から井伊直孝へ下賜され、井伊家の重宝となった。
小麦粉などを練って作った皮で餡を包み蒸したもの。中国から伝来し、点心の一つとして日本で普及した。室町期には京都や奈良で饅頭屋や饅頭売りが登場し、市販されるようになっていた。中世の饅頭は餡を野菜などで作る菜饅頭が基本であったとみられるが、砂糖を入れた小豆を餡とする砂糖饅頭も存在していた。
広島湾の東の関門である音戸瀬戸近くに位置する港町。平安末期には呉浦として史料にみえる。中世は呉津とも呼ばれ、大内氏に属す警固衆である呉衆の根拠地となった。
石見国邑智郡久永荘の賀茂神社の門前町。現在の邑南町中野。賀茂神社には鎌倉末期には三重塔が築かれており、戦国期には見世棚55軒が軒を並べる門前市が存在した。
石見国邑智郡阿須那本拠地とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。官途名は民部少輔。その姓から雪田村(島根県邑南町雪田)を拠点としたとみられる。
サマルカンド出身のネストリウス派キリスト教徒。甘味料シャラーブ(舎里八)に精通し、元朝の世祖クビライから舎里八赤に任じられた。のちに鎮江府の副長官となり、同地とその周辺にネストリウス派キリスト教の教会を建立した。マルコ・ポールの『東方見聞録』にも、その事績の一端が記されている。
紀元前から紀元後16世紀まで南米で栄えたアンデス文明では、水や空気を入れると音が鳴る「笛吹ボトル」と呼ばれる土器が数多く使われていた。儀式の際などに神聖な酒「チチャ」を注いで音を鳴らしたともいわれる。その内部構造は複雑で、製法や音の鳴らし方については、いまだ不明な点が多いという。
石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。
石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。
備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。
毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された本城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が本城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かっている。
毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。
石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。
石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。
石見銀山の栃畑谷の住人。仮名は万助。本拠は出雲国秋鹿郡大野荘であり、栃畑では「田辺屋敷」に居住していた。天正年間には同族とみられる小林之久・同吉久も安芸国厳島神社に回廊を寄進している。
石見銀山の鉱山町。大永七年(1527)に銀山開発が始まると、仙ノ山一帯には鉱山労働従事者や職人、商人らが集まって巨大な都市が形成され、膨大な物資集散が行われた。なお石見銀山自体は戦国期は「佐間(佐摩)銀山」と呼称されていた。
石見国温泉津に居屋敷を持っていた商人。居屋敷は毛利元就から給与されており、元就死後に輝元によって安堵された。その名から、長門国肥中との関係性が指摘されている。
石見国邇摩郡波積郷の地侍。官途名は主税助。毛利氏の警固衆として軍事活動の一翼を担った。平時には船を用いて経済活動を行っており、毛利氏領国の諸関での役料免除特権を与えられている。
石見銀山東方の宿場町。森林資源の豊富な石見国邑智郡や出雲国と石見銀山を結ぶ道筋の要地にあった。銀山の最盛期は荻原千軒ともいわれる栄えた町場であったという。
石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。
マヤ低地南部の西端に立地したマヤの古代都市。メキシコ湾岸低地を一望できるチアパス高地山腹の丘陵上に立地する高地性集落。先古典期後期(前400年~後250年)に居住が開始されたが、最盛期は古典期後期であったと考えられている。
マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。
石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。
石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。