島根県益田市の曹洞宗妙義寺が所蔵する全十七幅の軸装作品。紙本著色で、寸法は各縦64.0センチメートル、横33.0センチメートル。一幅には釈迦如来を、残りの十六幅には十六羅漢の尊者たちを一人ずつ描く。全幅の画面上部には、「雲甫」あるいは「艮止」の落款を伴う賛が記されている。
毛利家臣。官途名は宮内少輔。毛利氏の重臣の一人であり、大永三年(1523)七月二十六日、毛利元就の家督相続を要請する連署状に名を連ねた。由緒書によれば、中村氏は安芸武田氏に属する土師(安芸高田市八千代町土師)の領主だったが、元明は兄繁勝を謀殺して毛利弘元(元就の父)に仕えたのだという。
安芸国大山を拠点とした刀工。大山鍛冶は筑前の左文字派出身の守安を初代とする。宗重は15世紀中頃の応永・康正年間から16世紀末の文禄年間まで活動が確認したといわれ、同名の人物が3〜4代続いたと考えられている。
日本には古くから羊が持ち込まれていたが、家畜として利用されることは少なかった。江戸期では、公家など一部の日本人が飼育していたほか、長崎出島のオランダ商館で放し飼いにされていたことが記録にみえる。特に長崎では、来航する中国人やオランダ人により羊料理や羊乳の乳製品が食されていたらしい。
小豆と小麦粉または葛粉と混ぜたものを蒸して作られたお菓子。いわゆる蒸し羊羹に近いものだったといわれる。室町期ごろから、点心の一つとしてみえ、御成・饗応の席などでしばしばお菓子として用いられた。
16世紀末の日本ではヤギは、野牛(ヤギウ)と呼ばれていた。来航するヨーロッパ人の需要に応じて、肥前の平戸や長崎では販売が行われるようになったとみられる。江戸期、長崎周辺ではヤギが飼育され市販されており、長崎の住人にもヤギ料理が普及していた。
日本では猪と豚を明確に区別しておらず、豚を食べることも少なかったという。そんな中、16世紀にポルトガルなどヨーロッパ人が来航したことを契機に、平戸や長崎では豚肉を食べる文化が普及。江戸時代においても、長崎ではオランダや中国の影響を受けて豚肉を含む肉類が食べられた。
アナツバメ(海燕)の巣。アナツバメの分泌物で作られている。ベトナム中部沖のチャム諸島(クーラオチャム)などの海島で採取された。高級食材として知られ、少なくとも江戸初期までには日本にも輸入されていた。
周防国で漁獲された鯖。平安期には周防国からの貢納品に指定されており、中世には「周防鯖」として全国の特産品の一つに挙げられている。その背腸で作られる塩辛も、長門・周防両国の産物として知られた。
南蛮から渡来した酒の一種。文禄五年(1596)七月、藤原惺窩が大隅国波見で中国人商人から振舞われている。江戸期の本草書には、焼酒を二次的蒸留した酒であると紹介されている。暹羅酒(シャム王国の酒)のことを指す名称ともされる。
邇摩郡福光郷の国人領主福光氏の一族。官途名は将監。永正十四年(1517)七月二十三日、京都の中御門宣胤のもとを訪れ、石見への下国を告げている。
邇摩郡福光郷の国人である福光氏の一族。官途名は民部丞。天文末年頃、山吹城での軍役や長門国での社役がおぼつかない窮状に陥る。石見吉川氏の合力で公役を果たし、その「御礼」として領地を譲っている。
石見国邇摩郡の福光川河口の港町。現在の大田市温泉津町福光字湊。邇摩郡福光郷の内にあり、同時代史料には「湊」としてみえる。16世紀後半、石見国人である周布氏や石見吉川氏が進出した。
石見国温泉郷を本拠とした国人温泉氏の被官。官途名は源左衛門尉。出雲尼子氏からも「海陸諸役」の免除特権を与えられ、海上活動を通じて主家に馳走した。鉄炮や鉛、火薬も保有しており、軍事面でも活躍している。
江戸期の日本で使われた中型の廻船。船首が太い一本水押(みよし)であり、他の廻船と比べて凌波性に優れたといわれる。17世紀後半から帆走船化等がはかられた結果、少ない水主で運用できるようになった。18世紀には大型化し、江戸期日本の海運における主要な廻船となった。
日本で用いられた中型の軍用船。元は海賊船を意味する名称であったともされる。機動力に優れ、海関(多くは海賊の拠点)周辺において航行する他の船舶から通行料を徴収するのに適していた。江戸期、幕府が大型軍船の所有を禁止したため、諸大名の代表的な軍船となった。
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島根県益田市の曹洞宗妙義寺が所蔵する全十七幅の軸装作品。紙本著色で、寸法は各縦64.0センチメートル、横33.0センチメートル。一幅には釈迦如来を、残りの十六幅には十六羅漢の尊者たちを一人ずつ描く。全幅の画面上部には、「雲甫」あるいは「艮止」の落款を伴う賛が記されている。
益田宗兼が将軍足利義稙から拝領したという画軸。益田家に伝来した「諸道具」の一つで、寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」にみえる。三幅一対であり、中尊に中国の神仙を描いた「呂洞賓図」、左右が「芦雁図」二幅の組み合わせとなっている。
安芸吉川氏の本拠・日山城東麓の城下市町。吉川元春が日山城に入城したころから大きく発展したとみられ、市に定住する市衆や吉川氏が任じた目代(代官)もいた。江戸期の屋号からは、周辺および遠隔地の流通を担う商人や、木綿や皮革・染料を扱う商職人もいたと推定されている。
広島県安芸太田町戸河内の大歳神社に所蔵されている胴丸甲冑。中世、戸河内を支配した栗栖氏が寄進したものと推定されている。製作時期は室町期とみられ、全て本小札仕立ての高級品に対する普及型であった可能性が指摘されている。
石見国益田荘の国人領主でのちに毛利家臣となった益田家の伝来品。益田宗兼が将軍足利義稙から拝領したと伝わる絹製の小袖。五七桐紋と五枚笹、小さく渦巻く唐草紋が織り出されている。丈は128.8センチメートル。
平安中期の陸奥国の刀工舞草房安が製作したとされる刀。畠山重保がこの刀で猫又を切り殺したとの伝承を持つ。室町期、石見国益田荘を本拠とした国人領主益田氏が足利義政より拝領したとして、家宝としていた。
源頼朝が御家人の伊東祐時(童名犬坊丸)に与えたとされる太刀。犬房太刀とも。平安末期から鎌倉初期にかけての古備前の刀工「成高」の銘がある。祐時の子孫を称する内田氏に伝わり、後に内田氏一族の豊田氏重代の太刀となった。戦国期、豊田氏が益田氏に服属した際に益田藤兼に献上され、20世紀に至るまで益田家に受け継がれた。
毛利家臣の益田元祥が所持していた刀。鎌倉末期から南北朝初期ごろに京都来派の刀工来国光によって作られた。もとは長寸の太刀であったが、江戸初期に短く磨り上げて刀としている。
石見国益田を本拠とする益田氏が所持していた茶壺。千利休から高く評価され、東山御物に認定されたという。益田元祥から毛利輝元に進上されたが、後に輝元が石田三成に進上したため、関ヶ原合戦の際に佐和山城で失われたとされる。
瀧蔵権現(染羽天石勝神社)の別当寺だった勝達寺に所蔵されていたという壺。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩系の壺であり、製作年代は17世紀前半と推定されている。
毛利家臣の益田元祥が所持していた葉茶壺。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」に「小嶋葉茶壺」としてみえる。中国明朝の華南地方で製作された華南三彩壺であり、現在は益田市東町の萬福寺が所蔵している。
益田元祥の時代から益田家に伝来した「諸道具」の一つ。寛永二十一年(1644)の「益田元堯諸道具譲渡目録」にみえる。中央の「呂洞賓図」は徽宗筆とされ、左右の「芦雁図」は牧谿筆とされる。
中世、高津川と益田川が合流してできた潟湖に面する中ノ島(中洲)に形成された港町。同地の中須東原遺跡や中須西原遺跡からは多くの貿易陶磁が出土し、舟着き場跡とみられる礫敷き遺構などが検出されている。
石見国の有力国人益田氏の本拠地。益田川下流域の益田荘益田上本郷。石見国西部の政治・経済・文化の中心として栄え、益田川・高津川河口域の中津(中須)の湊、後に今市を港湾として日本海流通ともつながっていた。
備後北部の三次盆地の出入口に位置する市町。 瀬戸内海と備後北部の山間部をつなぐ交通の要衝として栄えた。中世、備北の有力国人和智氏の本拠となった。
明智光秀が所持していた名物の葉茶壺。その名は平安期の歌人伊勢大輔の歌に因むという。明智光秀の死後、近江坂本城にて焼失したとされる。
若狭国で生産された茶。小浜の明通寺は相当規模の茶園を有し、同じく小浜の西福寺も時の領主から茶園の安堵を受けていた。高浜日置の大成寺の「大成寺文書」からは、若狭国から京都へ茶を送った事例もみることができる。
中世の越前国では、寺社領内の茶園や「後山」などで茶の生産が行われていた。その多くは地域権力者への贈答のほか、寺院や寺庵、領民の日常で利用されいたとみられる。一方で戦国大名である越前朝倉氏は宇治の堀家と関係を結んで宇治茶の供給を確保していた。
緑水色の青磁の茶碗(青磁輪花碗)。高台周りのひび割れをホッチキスのように鎹(かすがい)で留めて修理してある。張りのある曲線を描いて立ち上がる姿の優美さ、わずかに緑をふくんだ青磁釉の美しさを持つ。なお「馬蝗」とはヒルを意味する。
越前朝倉氏重臣の青木景康が所持していた肩衝茶入。別名は式部少輔(式部丞)肩衝。のちに織田家臣明智光秀の手に渡り、茶会で用いられた。光秀死後は徳川家康が所有していたが、大坂の陣後に美作国津山の森忠政に下賜された。
マヤではカカオは重要な嗜好品だった。マヤ古典後期(750年頃)の壺には、カカオ飲料(チョコレート)を泡立てるために、一つの器から別の器に注ぎ入れている様子が描かれている。主なカカオ生産地域はタバスコ地方や太平洋沿岸部であったが、交易・貢納などを通じてユカタン半島北部にもカカオが運ばれていたとみられる。
石見国温泉郷の国人領主。官途名は信濃守。初名は隆長か。当初は周防大内氏に属していたが、同氏衰退後は出雲尼子氏に属した。弘治年間から尼子方として毛利氏と戦い、補給基地でもある温泉津をおさえて、尼子氏の石見銀山支配を支えた。永禄五年(1562)六月頃に没落し、尼子氏の富田城籠城戦に加わった。
大内家臣。土佐守。実名の「弘」は大内政弘からの偏諱か。大内氏の分国支配に吏僚として関わった。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身とみられる。
大内氏被官。石見国温泉郷を本拠とした国人温泉氏に関係する人物とみられる。文安元年(1444)十月、温泉次郎に与えられていた邇摩郡井尻村(現在の大田市温泉津町井田)が周布和兼に返還されることになっている。
入り組んだ入江である温泉津湾をに臨む港町。大永七年(1527)に石見銀山の開発が始まると銀山への物資搬入と銀の積み出しのため、各地から多くの船が集まって大いに栄えた。永禄五年(1562)に銀山および温泉津を制圧した毛利氏は、温泉津を重要な戦略拠点と位置づけ、温泉津奉行を配置して直轄支配を行っている。一方で温泉地としても知られ、島津家久が旅の途中で温泉に入っていることが彼の日記にみえる。
石見小笠原氏の重臣小笠原長実の被官。官途名は三郎兵衛尉。実名の「実」は、長実からの偏諱かもしれない。小笠原氏被官として大家東郷の町や大家大宮八幡宮の支配に関与した。
石見国邇摩郡大家東郷を本拠とした国人大家氏の当主。大嶽山城(今西山)に本拠を構えたと伝わる。永正元年(1504)に石見小笠原氏と一揆契約を行い、天文三年(1534)に大家大宮八幡宮を造営した。
石見国邇摩郡大家東郷の中心となった市場町。大家東郷を支配した国人大家氏の本拠地であり、同氏没落後は石見小笠原氏の重要拠点となった。現在の大田市大代町大家地区。交通の要衝でもあり、邑智郡川本方面・大田市大田方面・邇摩郡温泉津方面・江津市方面、これら四者を結ぶ接点に位置していた。
チョコレートの原料となるカカオ(テオブロマ・カカオ)の栽培は、南米エクアドル南端の高地アマゾンにおいて、紀元前3300年には始まっていた。その後、カカオ栽培は品種改良と並行しながら太平洋沿岸地域、さらにはメソアメリカ地域にも伝播していったと考えられている。
御調八幡宮(三原市八幡町宮内)に伝わる神宝。弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)頃のものと推定される青銅製の戈であり、御調八幡宮北方の鉾ヶ峰から出土したものとされる。
メソアメリカ地域では先スペイン期から19世紀まで、様々な文化・地域で藍染料が使用された。特に後世にマヤ・ブルーと呼称される青色顔料は、藍(インディゴ)とある種の粘土鉱物をミックスし、適当な熱を加えることによって造り出された。非常に堅牢な顔料であり、水はもちろんのこと、酸、アルカリおよび他の溶液や熱にも強く、古くから色料として壁画や土器、絵文書や石彫の着色に広く利用されていた。
マ海抜800〜900mの丘の上と山腹に建造されたマヤ古典期の高地性集落。現在のメキシコのチアパス州に位置した。なお「トニナ」は現代の呼称で、古典期には「ポ」または「ポポ」と呼ばれたとみられる。
紀元前から紀元後16世紀まで南米で栄えたアンデス文明では、水や空気を入れると音が鳴る「笛吹ボトル」と呼ばれる土器が数多く使われていた。儀式の際などに神聖な酒「チチャ」を注いで音を鳴らしたともいわれる。その内部構造は複雑で、製法や音の鳴らし方については、いまだ不明な点が多いという。
石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。
石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。
備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。
毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された本城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が本城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かっている。
毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。
石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。
石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。