マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。
安芸国安南郡警固屋(現在の呉市警固屋)を本拠とした警固屋氏の一族か。弘治二年(1556)以前に周防国熊毛郡に知行を得ていた。警固屋氏は防芸引分で大内方となり、大内氏の最終局面まで従っている。
ドイツ東部、ザクセン地方の中心的な商業都市。中世以来、大市が開催され、フランクフルトとともにドイツの代表的な大市開催都市として知られた。また周辺地域の鉱業と毛織物業を軸にヨーロッパ各地との交易で繁栄した。
ポーランド南部、小ポーランド地方の都市。ヴィスワ川上流に位置する。14世紀から17世紀初頭までポーランド王国の首都ないし中心都市であり、通商ルートの要衝にあって遠隔地を結ぶ国際貿易で栄えた。
大内家臣。周防国玖珂郡日積村に知行を得た杉氏の一族か。永正・大永年間に安芸国石道本城に入り、厳島神領支配の一角を担った。天文十七年(1548)には、備後国神辺村尾城攻めの検使として弘中隆兼、小原隆言とともにみえる。
大内家臣。官途名は蔵人。周防国大島郡屋代庄の土豪か。大内氏の警固衆として活動した。厳島合戦前後に急死したらしい。
イエス・キリストが磔刑になった際にキリストを刺したとされる槍。この槍を持っていたローマ兵士の名前から、ロンギヌスの槍とも呼ばれた。
神聖ローマ帝国の「帝国宝物」の一つ。穂先の鉄の刃には、縦の孔が穿たれ、そこに釘の形状をした金属が嵌め込まれている。これはキリストを十字架に打ち付ける際に用いられた釘(聖釘)の一つであるとされていた。時に聖マウリティウスの槍とも、コンスタンティヌス大帝の槍とも呼ばれた。
古代末から中世前期にかけて博多で生産されたガラス製品。博多遺跡群からはガラス製品だけでなく、生産に使われた坩堝も出土している。博多に居住した宋人が生産に関わったといわれる。
沼田小早川氏の庶子家である高崎氏の当主か。応仁文明の乱では、東軍方の惣領家に従わず、西軍の周防大内氏の援軍とともに高崎城に立て篭もった。
沼田小早川氏の庶子家である土倉氏の当主か。官途名は民部少輔または民部大輔。15世紀中ごろから後半にかけて、沼田小早川氏の軍事行動で活躍した。
沼田小早川氏の庶子家である大草氏の当主。官途名は駿河守。沼田新荘の大草村(現在の広島県三原市大和町大草)を所領とした。同地の堀城および高城は大草氏の城と伝わる。
沼田小早川氏の居城・高山城の城下町。沼田荘を流れ瀬戸内海に注ぐ沼田川と山陽道(西国街道)の結節点という交通の要衝に位置する。
長門国阿武郡大井郷七重(山口県萩市大井の下七重・上七重の両地区)で生産されていた陶器。同地からは中世にさかのぼる半地下式の登窯が発見されている。古代、陶棺の生産を行っていた形跡もあり、古くから窯業が盛んな地域であったとみられる。
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マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。
石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。
石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。
石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、温泉津と石見銀山をむすぶ輸送業を営んでいたとみられる。銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。
石見国邇摩郡西田を拠点とした大工。仮名は藤五郎。西田に屋敷を構え、天正十七年(1589)の西田八幡宮造営に大工として関わった。
石見国迩摩郡西田の在地領主。官途名は甲斐守。天文十七年(1548)八月、西田村八幡宮の拝殿を建立した。石見国邑智郡川本郷を本拠とする小笠原氏の一族ともされる。
石見銀山と銀山の外港温泉津を結ぶ街道の中継地点に位置する宿場町。現在の大田市温泉津町西田。銀山と温泉津の間の物資輸送の拠点として栄えた。また16世紀末の史料から、銀山や温泉津周辺で活動する人物が住んでいたことも分かっている。
京都の町人。慶長十五年(1610)、日本使節の長としてヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に渡航した。朱屋隆清と同一人物ともされる。
本阿弥光悦が製作した焼物。茶会記などの記録には「光悦焼」あるいは「光悦茶碗」としてみえる。光悦は刀剣の磨礦(とぎ)・浄拭(ぬぐい)・目利(めきき)を業とした本阿弥家の別家の出身。名筆家としても知られるが、陶芸においても優れた才をみせたという。光悦の陶芸の主流は楽焼の茶碗製作であり、京都の樂家の二代常慶と三代道入らの助けをもって行われた。
炒り大麦粉。焦がし大麦。水に溶かして飲まれることも多かった。解熱の効能があるとされ、中世イスラームの医学者によって熱病や夏季対策に推奨された。16世紀のエジプトのカイロでは、サウィークを溶かした飲料が最も日常に飲まれている滋養飲料であったという。
大麦を水で煮詰めて作られた飲料。イスラーム世界においては解熱の薬効があるとされ、庶民にも広く飲用が普及した。14世紀には蜂蜜や香辛料を加えた甘味飲料として、カイロなどの都市で製造・販売されていた。
大麦を材料としたパン。中東地域では、古くから大麦が基礎食品として利用されていた。大麦パンも9・10世紀の文学作品において、カリフが狩猟などで遠出した先での農民やベドウィンの食物として登場する。10世紀の『ナバティアの農書』は大麦パンを農民に推奨するが、一方で都市部では忌避する考え方もあった。
大麦発芽発酵飲料。10世紀のイラクの農書『ナバティアの農書』に、農民の常飲品として記録されている。疫病の予防に効果があるともされた。
パンを酢と油に浸した料理。パン粥。中世、都市社会で最もよく食べられていた穀物料理の一つとされる。
毛利氏の御用絵師。本名は原治兵衛直治。肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主・原豊後守直家の次男。子に狩野次兵衛(雲谷等益)。
豊前小倉細川家の家臣。宇佐郡の御郡奉行をつとめた上田忠左衛門の弟。当主細川忠利によって召し抱えられた。細川家中では葡萄酒やアヘンの製造を担う一方で、医師としての役割も期待されていた。
江戸初期、豊前小倉の細川家では葡萄酒が製造されていた。材料には山ぶどうの一種であるエビヅルが用いられたとみられる。当時、葡萄酒は薬酒として重宝されており、細川家でも葡萄酒製造を重要視していた。一方で葡萄酒はキリシタンと強く関連付けられる飲み物でもあった。
初夏に実を付けるケシの未熟な果実から出る乳液を乾燥させてつくった茶褐色の粉末。鎮痛、鎮咳、催眠などの効能があった。江戸初期、豊前小倉の細川家ではアヘンの製造が行われていた。
豊後国の漆喰塗り職人。父は陳義明。曽祖父が中国明朝からの渡来した人物であり、祖父の代で豊後国府内に定住している。後に兵火に遭って臼杵に移住。後に京都方広寺の大仏造立の為に上洛し、豊臣秀吉から褒賞を得た。
中国明朝出身の渡来人。明朝では要職に就いていたが、讒言に遭って出奔し、家族とともに日本の肥前国に渡航。弟や息子たちは九州や周防各地に分住していった。子の一人である陳覚明は、豊後府内に移住して仏像の制作を担う仏師として活動。覚明の孫の元明は、仏師として天正末年の京都方広寺大仏造立にも関わっている。
弘治二年(1556)、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。そのまま舟山島定海に滞在していたが、後に来航した大友氏使節が明朝官軍の攻撃を受ける事件が起こり、内陸の四川省茂州の寺院へと流された。
弘治三年(1557)八月、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。倭寇の罪を謝し、朝貢の許可を求めたが、明朝政府に拒絶された。そのまま中国に留まり、翌年二月、明朝官軍の攻撃を受けていた別の大友氏使節救援に奔走した。
弘治三年(1557)に豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。一方で中国明朝の記録には「夷目」あるいは「倭目」とみえ、明朝からは倭寇の頭目と認識されている。明朝に帰順しようとする倭寇首領・王直とともに浙江沖の舟山島に至ったが、同地で明軍と交戦することとなった。
筑前博多の商人。官途名は主計頭。父は潤屋永富。子に次郎太郎、養子に神屋長秀(太郎左衛門)、婿に孫八郎がいる。なお、系図によっては神屋寿禎の兄とされるが、甥である可能性も指摘されている。
筑前博多の商人。子に弥五郎。神屋寿禎の代官として石見銀山に派遣され、石見銀の買い付けを行った。後に天文十六年度遣明使節の一号船の船頭として入明したが、寧波にて死去した。
筑前博多の商人。石見銀山の開発と石見銀の貿易に関わったといわれる。妻は妙栄。子に三正(聖福寺龍華庵の庵主)、小四郎、宗浙、宗白らがいる。戦国末期の博多の豪商・神屋宗湛は寿禎の曽孫にあたる。
現在の東京都区部から南南東約1000キロメートルの太平洋上にある島嶼。江戸期の17世紀後半、漂流船の帰還を契機として日本で存在が知られるようになった。延宝三年(1675)、幕府は大型の「唐船造之御船」を派遣して調査を行い、調査隊により様々な鳥や植物の生息が報告された。
中国明朝の浙江出身の人物。対馬の時羅が浙江を襲撃した際に夫の符旭とともに掠われ、時羅の妻とされたという。時羅が朝鮮を訪れた際に、同国の官人に救出され、明朝に送還された。
応永二十七年(1420)に朝鮮の日本回礼使・宋希璟が対馬で出会った僧体の人物。希璟は詩の中で彼を「被虜唐僧」と呼んでいる。中国(明朝)台州の軍官であったという。倭寇の捕虜となり、対馬の海民のもとで使役されていた。
対馬島北部東岸の早留浦の百姓。応永十一年(1404)、「かきつめ」(海女)であったことが「対馬番家文書」にみえる。海女もまた、公事を納める百姓(公事足百姓)として対馬島主・宗氏に掌握されていたと考えられている。
中世の対馬国の海域では、イルカなどの「大物」は、島主である宗氏への上納が義務付けられていた。一方で宗氏は海士に浦々でのイルカ漁を免許。対馬では海士を主体としたイルカ漁が近世初頭まで続いたという。
安芸国豊田郡安宿の住人。小早川被官か。天正九年(1581)に伊勢御師に献納したことが史料にみえる。国弘氏は安宿、清武に拠点があったとみられ、室町期から存在が知られる。
日本(対馬)から朝鮮に渡航した使節が乗り込んだ船。朝鮮は通交(外交)と貿易を一体のものとして扱ったため、使送船もまた貿易船としての性格を持った。また船の規模は、朝鮮側によって規定されていた。
ハンガリー中央部のドナウ川西岸の都市。13世紀、ハンガリー国王ベーラ四世によって築かれた。19世紀、北方の都市オーブダおよびドナウ川対岸の都市ペシュトと合併し、「ブダペシュト(ブダペスト)」となる。
対馬宗氏が朝鮮への緊急連絡の際に用いた船。小早に分類される櫓漕ぎの帆船であり、風待ちをすることなく、海峡を渡って朝鮮半島へ渡航することができた。「おしふね」や「渡口の船」とも呼ばれたとみられる。
ボルネオ島(カリマンタン島)北西部の港市。南シナ海に面した天然の良港に恵まれ、高価な竜脳を代表とするボルネオ島産物の積出港として知られた。ルソン島やモルッカ(マルク)諸島とマラッカを結びつける中継港としても栄えた。
ハンガリー中央部のドナウ川東岸の都市。13世紀に作られた対岸の新都市「ブダ」と並立し、ハンガリー王国の主要都市の一つとして存在した。19世紀、北方の都市オーブダおよびドナウ川対岸の都市ブダと合併し、「ブダペシュト(ブダペスト)」となった。
戦国期、薩摩国には米を原料とする焼酎(焼酒・蒸留酒)が存在していた。16世紀に薩摩に滞在したポルトガル人の報告資料にみえる。薩摩国は焼酎を作っていた中国や琉球と交流があり、そこから生産技術が移入された可能性がある。