chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
ゆるい遊び
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2021/07/23

arrow_drop_down
  • お休み

    本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされてきた方、申し訳ないです。お休み

  • 食事をする「毎回に感謝」をすることを参考にされてください

    日々に思いますのは食事への感謝です。 特にお米と水への感謝です。 これを食事をする「毎回に感謝」をすることを参考にされてください。 なんとか生きて行きましょう。 空腹でも痛くても生かされるときは生かされます。 ありがとうございます。食事をする「毎回に感謝」をすることを参考にされてください

  • 毎日がプレゼントだった

    日々に生活していますと、人生とはプレゼントであったと感じます。嫌なことも悲しいことも辛いことも生かされている上でのことです。逆に美味しい味も楽しいことも幸せも幸運も生かされているから感じられることです。当たり前、有って当然だ、そんな視点だと見逃してしまう人生のプレゼントです。なんとなく過ごしてしまう日もありますし、祈るような日もあります。これも人生のプレゼントです。これでいいのだ、と認めて感謝をするのが日々の感謝です。人生は長くても数十年ですからあわてずに生きていきましょう。こんな本があります。まいにちがプレゼントhttps://amzn.asia/d/ijSW2Wxありがとうございます。毎日がプレゼントだった

  • 先祖供養とはご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です

    自分が被害を感じましたら心中にて被害を最小限にしていただいてありがとうございます。と感謝をするのが良いです。被害を最小限に抑えてくれたのはご先祖様のお蔭だからです。私たちはたくさんのお蔭様で生活をさせていただいているにすぎません。その都度の感謝が無いと二度目の幸運は無いです。苦しくても、辛くても、みじめでも、悲しくても、苦労をしていても良いので感謝が大切です。心中での日頃のご先祖様への感謝の継続も幸運を呼ぶ秘訣です。ただし感謝一辺倒の先祖供養です。ご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です。老子も弱者を忘れた強い者勝ちの社会はいずれ崩壊すると指摘しています。また老子は先祖供養を絶賛しています。いろいろある社会ですが自分の家系の先祖は自分で供養する責任を待つことが大切です。自分ただ先祖の先頭...先祖供養とはご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です

  • 今のままの自分でOKです

    最近は自信について考えます。 心理系の本でも自信の有無の話は良く出てきます。 人生でも最後は自信の有無が大切に感じます。 では、自信の無いと思っている人はどうしたらいいか? ・完璧な自分、完璧な自信で無くていい ・他人と自分と比べる自信でなくていい ・今のままの自分をダメなんだと思い込まなくていい これだと思います。 つまり、今のままの自分でOKであるということです。 今のままの自分でだから愛される価値がある。 今のままの自分だから素晴らしい。 今のままの自分だから許されている。 これだと思います。 心理系の本に良く出てくるのは「自分だからOK」という自信です。 自信を失くときは理由もなく自信が無いような「感じ方」をしますが、自信があるという「感じ方」も理由がないものです。 理由のない自信が「自分だからO...今のままの自分でOKです

  • 雑多な困難な日常だから価値があります

    真我を思い出しても日常生活は続きます。 自分の日常生活を送れているとは、真我の究極の姿です。 それは日常生活の中での感謝の継続があるからです。 真我に目覚めてもすぐにしらふに戻ります。 真我に常駐すると、もったいないくらいの感謝に気づき始めます。 それが自分の日常を送れることです。 他人の人生を進んでもいいことはないです。 自分の人生とは真我の探求です。 景色には色々な誘惑がありますがそれでも真我を探求できるか? これが問われています。 自分を探求する言葉は 「私は誰か?」 「それは私ではない」 です。 雑多な困難な日常だから価値があります。 ありがとうございます。雑多な困難な日常だから価値があります

  • 思い出しても忘れても、これでいいんだよ

    今日に胸に響いてくるのは「忘れるくらいでちょうどいい」です。無意識の力から言っても、軽く希望を思い、その後は「忘れて」目の前のことに集中すると良いと思います。老子の指摘にもあります。余計なことを忘れて忘れて忘れたときに最後に残るもの。こう指摘されています。では、仏であった宮沢賢治はどう遺しているか?よく見聞きし分かりそして忘れずあれ?老子と言っていることが逆です。しかし、世の覚者がいうことは道理がありそうです。つまり、老子は個人と社会全体の最善を指摘し、宮沢賢治は社会全体と個人の最善を指摘したと想定します。老子は、ここに書かずとも人智を超えているので王様でも個人でも全体でも当てはまります。宮沢賢治は、慈悲で話されたと私は考えます。彼の発言にも悲しみ=慈悲があるからです。けっきょく何を言いたいのか?思い出し...思い出しても忘れても、これでいいんだよ

  • 悟りのど真ん中に居たから悟っていることに気づけなかった

    悟った後に人はどうなるか? 瞑想を続けることでもなく、人里を離れることでもなく、逆に人の中に、社会の中に居ます。 悟った後でも食費も家賃もかかります。 悟ったとしても子育てはできません。 ところで釈尊は、どうだったか? 社会の中にいました。 これを禅を広めた鈴木大拙はなんと言ったか? 逆に苦しみの中に入っていく。 そうです。 喜怒哀楽をして苦しみながら社会で自分の仕事や家事や勉強をする人こそ、悟りの到達点だったのです。 意外でしたか? 自分なんか悟れないと思っても、自覚がないだけで悟っていた。 悟りのど真ん中に居たから悟っていることに気づけなかった。 これが言えそうです。 ありがとうございます。悟りのど真ん中に居たから悟っていることに気づけなかった

  • 参道(産道)を通って胎動を成す

    今日は音楽を 胎動(NewBirth)https://youtu.be/btqHrVYO3KI?si=7-umzZUB802Dm8A- 参道で思い出すのは、神社参拝の参道です。 参道=産道 これを思います。 神社参拝を計画するときから、すでに神社参拝は始まっています。 神社に参り、参道を歩きます。(礼は省いて書いています) 本殿への参拝を終えて、また参道に参り、帰宅します。 参道の行き帰り(生き返り=ヨミガエリ)で新しい自分を生み出します。 生み出す力=母性の海=真我 自然現象も同じで、早朝に太陽が昇り、夕方から夜にかけて太陽は沈黙します。 そう思いますと神社の参拝とは、理に叶った科学と言えるのかもしれません。 まだ化学が追い付ていないだけかもしれません。 昨日の夜に寝まして、早朝に起きる。 新しい自分の...参道(産道)を通って胎動を成す

  • 善人とは善行を継続するから善人なのです

    罪を犯して許されるとは幸運です。 一回罪を犯して、それですべてが終わりでないです。 命ある限り人生は続きます。 残された人生で、自分が犯した罪を深く深く泣くほど反省したならば、罪以上の善行を積めば良いのです。 それでも生かされている、これが答えです。 残りの人生をなにに、誰のために使うのか? 感謝を忘れていたころのようにまた罪を犯すのか? それとも感謝を継続して、新しい自分になって善行を積むのか? 一度や二度の善行ではなくて、善行の継続をしていきましょう。 善人とは善行を継続するから善人なのです。 心中で感謝を継続して善行をする人は神から、天から、本当の自分から許されていきます。 ありがとうございます。善人とは善行を継続するから善人なのです

  • 他人の人生を生きているのではなくて、自分は自分の人生を生きています

    犯罪や危険を想定して避ける努力は大切です。 犯罪に遭ってしまった場合は淡々と法的な対応をしていけば良いです。 心中では慈悲を持つのが良いです。 罪人も病人も弱者も将来の自分の姿です。 罪人には、これを思えば再犯に注意しながら、物理的に距離を持って、相手を注意することができます。 病人も弱者も将来の自分の姿だと言えます。 たまたま病人や弱者という役を相手がしてくれているだけです。 カネ持ちなったかと思えば貧乏になる可能性もあります。 安定した生活かと思えばいつでも不安定な生活になります。 その逆に 貧乏ではカネ持ちになることはざらにあります。 不安定な生活でも努力で安定した生活を維持することができます。 ですから、現状だけを見て自分の人生の結論を急がずに、虎視眈々と挑戦すれば良いのです。 他人が自分の人生を...他人の人生を生きているのではなくて、自分は自分の人生を生きています

  • なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい

    現在に良いことがないと思い込んでいる人には、これからの人生生きていればいいことがあると言います。これから先良いことがないと思い込んでいる人には人生は短いから挑戦して行こうと言います。人により言い方や答えが逆なのは、待機説法だからです。人により伝え方や答えが逆に見えましても、自分を生かす生き方には違いはありません。目に見える、耳に聞こえることは違いがありましても長期の視点ではその人が生きます。生かされます。それで良い、これで良いと釈尊のほほ笑みと笑い声が聞こえてきそうです。「なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい」と。予算内で美味しいものを食べて明日の英気をやらないましょう。ありがとうございます。なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい

  • 知識だけでも知っておくと良いこと

    心は永遠ですが目に見える景色は変わって行きます。一時的に目に見える景色にこの世の全てはないのです。景色を発現させている心を含めて真我です。景色も真我ですが、真我を探求するときは、自分の心を見詰めます。心を見詰めた結果、真我=全=禅=allだと直感的に気づく時が来ます。全体で一つで生きていたということです。知識として知っているだけでも真我を意識できると思います。真我は体の中央右胸3cmに在ります。何か皆様の参考になれれば、幸いです。ありがとうございます。知識だけでも知っておくと良いこと

  • 悟りとは遠くにあるのではなくて、自分の右胸にあった

    苦しいとき、辛いときは、自分の心を見詰めるチャンスです。 景色という変わってしまうものではなくて、心という永遠を見詰めます。 ・私を見詰める、私を見ます。 つまり真我を見詰めます。 誰の胸に体の中央の右側3cmに真我が在ります。 真我の発露具合が人により様々なだけです。 意外と近所のあのおじさん、おばさんが。。。ということもあります。 実は自分の真我の発露に気づかないだけで。。。夢があります。 とにかく、今日の言いたいかったことは苦しいとき、辛いときこそ自分の心を見詰めるチャンスなのです。 悟りとは遠くにあるのではなくて、自分の右胸にあった。 これを覚えておいていただければ幸いです。 ありがとうございます。悟りとは遠くにあるのではなくて、自分の右胸にあった

  • ご先祖様が陰からくれた幸運に感謝をしていくことが大切です

    天が人を助けるときは、本人に気づかれずに、圧勝ではなくギリギリで、紙一重で助けます。 助かるときは痛かったり、空腹ではあるけれども、紙一重で助けられて行く。 もし被害があったとしても助けられたならば感謝をすることが大切です。 幸運を授けてくれるのはご先祖様です。 ご先祖様が陰からくれた幸運に感謝をしていくことが大切です。 神社でも同じです。 参拝のたびに「いつもありがとうございます」など自分の言葉で良いので感謝がしていくのが大切です。 神仏がご先祖様が陰からくれた幸運への感謝がないと二度目はないからです。 忘れてしまいやすい感謝ですから良いのです。 ありがとうございます。ご先祖様が陰からくれた幸運に感謝をしていくことが大切です

  • そのままの自分はすでに母性だった

    今日はこの曲から 「home」https://youtu.be/XbCsY4-HV8M?si=3wO86Y0PId-ENhNA 思ってもみれば真我に目覚める、達成する、思い出す、自分を忘れるとは ・本当の自分に帰ること これだと思います。 神社参拝も真我への参拝です。 本当の自分に帰ること、とは ・本当の自分=太陽=母性 ・本当の自分=地球全体=母性 ・本当に自分=無=真我 知識を知っているだけでもいつか思い出すかもしれません。 そのままの自分はすでに母性だった。 自分におかえりなさいと言いたいね。 ありがとうございます。そのままの自分はすでに母性だった

  • 負けない戦い方とは負けるパターンを知っているということです

    ・人生とは苦であるby釈尊 釈尊はこのように一言で人生を表しています。 禅を広めた鈴木大拙も苦しみを ・人は苦しむことができる と遺しています。 なんということでしょう。 人は苦しいのが自然の姿だったのです。 仕事が苦しい、家庭が苦しい、勉強が苦しいとは人間の自然な姿だったのです。 だから、これでいいのです。 もし仕事や家庭や勉強に悩みがなければ人は向上するでしょうか? 仕事=家庭=勉強、悩み=自分がいるから新規の発展があります。 老子も新規を生み出すのは第三の視点だ、と話しています。 仕事=家庭=勉強と自分という二つの間の第三の視点とはなんでしょうか? 負けない戦い方とは負けるパターンを知っているということです。 自分の生活の中で虎視眈々とチャンスをうかがっていましょう。 ありがとうございます。負けない戦い方とは負けるパターンを知っているということです

  • 全体で自分や人をみてあげられたらいいね

    肩の力の抜いても良いですよ。 あせってもいいことないし、深刻になっても物事は良くならないです。 肩に力が入っているときはお笑いです。 ネットで無料の動画や漫画や小説や漫才がありますの参考にされてください。 体が緊張してるとなと思えば、無理のない軽めのストレッチです。 血流の良さが心身のストレスを軽減すると想定します。 冷静になれば目の前のことで起こっていないことを過度に心配しても事態は好転しないことがわかります。 予算内で美味しい食べ物や飲み物をいただいてリラックスした方が良いです。 仕事も家庭も勉強も幸せになるためにあります。 仕事も家庭も幸せも人生の一部です。 一部だけを見て絶望するのでなく、全体を見れば良いです。 これはダメだけどあれは良い、と。 全体で自分や人をみてあげられたらいいね。 肩の力を抜...全体で自分や人をみてあげられたらいいね

  • ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね

    人に何かをあげたくても、カネもない、物もない、かける言葉見つからない。そんな人生の時期が誰にでもあるものです。カネも物も言葉もないならば、相手を慈悲の目で見てあげましょうかける言葉見つからなければ、心中で褒めてあげましょう。できることの少ない自分ですが感謝ができます。現状を認めて、感謝をします。私たちの心から慈悲という仏様をお出しします。仏様とは、他人がいることを期待するのではなくて、自分の心から慈悲の仏様をお出しするのです。慈悲のときの自分は、仏様です。相手を慈悲の目で見てあげている時は、仏様だったのです。ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね。これでいいのです。ありがとうございます。ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね

  • 挑戦した事実が大切

    手強いと思える現実はやってきます。 そこで自分の次のパンチが弱小でも、何もしないよりも弱小パンチを打つことが大事です。 理由は、人生は時間限定だからです。 今という困難もやがて姿を変えていきます。 あとであの時もっと頑張れた、頼む!もう一回やらせてくれ!と言っても二度体験できない貴重な困難です。 他人にみじめでも、憐れでも、可哀そうに見えても良いのです。 自分の人生なのだから、他人の評価で自分の人生は決まりません。 だからヨワヨワな自分で良いのです。 ヨワヨワながらも挑戦できるかです。 つまり挑戦したという事実が大切なのです。 どんなにダメダメでも挑戦したことを真我は見ていてくれます。 自分なりの弱小アンパンチを打ちましょう。 ありがとうございます。挑戦した事実が大切

  • 感謝して日常を送るという究極です

    感謝の継続とは、感謝を真我、ご先祖様、大自然に奉納するということです。 一人だけ悟ってもなにか面白いのだろうか? 一人だけが悟ってもしかたないです。 悟っても、子育てはできませんし、家賃はかかるし、食費もかかります。 釈尊は真ん中の中道が一番美味しいと言いました。 老子も中道と遺しています。 過去の偉人たち、大自然の言葉に、メトテース、中庸、中今とあります。 つまり、喜怒哀楽しながら未来と過去の真ん中の「今」を生きることが一番美味しかったのです。 汗をかいて、泣いて、苦しんで、笑って、感謝する日々。 感謝して日常を送るという究極です。 頑張ること、努力することは大切ですが、これでいいのです。 現状を受け入れて、感謝する。 人生はこの一言です。 ありがとうございます。感謝して日常を送るという究極です

  • 継続には嘘がつけません

    感謝を継続するとはどういうことか?生かされていることがありがたいから感謝をする。これだけだと思います。自分の命の起源とはご先祖様であり、大自然です。ご先祖様と大自然への感謝しますが真我にも感謝をします。心という真我。肉体という家系の先祖の代表。心と肉体を生かしめる大自然。この3点への感謝があれば最高です。感謝や先祖供養が継続するとは、そこに神が宿るからです。継続と生活態度にその人が表れます。継続には嘘がつけません。理由は、継続が本心だからです。始まりは欲心でも10年も続けば本心です。今日も感謝を継続していきましょう。ありがとうございます。継続には嘘がつけません

  • 病気や怪我で布団の上にいてもできること

    心理学の本を読んでいますと共通して出てくるのが ・自分は今のままで素晴らしい ・自分は今のままで価値がある つまり、今のままの自分、現状のままの自分を受け入れて認めるということです。 仏教にもあります通り ・現状を受け入れて、感謝する に心理学も近づいています。 あとは現状への感謝の有無の違いだけです。 しかし、現状のままの自分を認めることが困難な方もおられることでしょう。 その場合、現状への感謝をすることが良いと思います。 私は思いがふつふつと湧いて来るのですが、感謝の継続が最善だという思いが湧いてきます。 最高は、現状を認めて、現状への感謝です。 次は、感謝の継続です。 その次が、現状を認めることです。 現状を認めて、現状へ感謝をすることを挑戦していきましょう。 これは病気や怪我で布団の上にいてもでき...病気や怪我で布団の上にいてもできること

  • あえて心配しながらこれからの世を生きて行きましょう

    消えていくのは肉体という思考の癖です。 だから真我を信じて行けば大丈夫になります。 現状が地獄だとしても、地獄の中で喜びを見つければ良いです。 仏典に釈尊はある人物を聖者だと言いました。 その人物とは、過酷な環境で生まれ育ちました。 地獄で生きてきたから、その場所で喜びを見つけて聖者と成れました。 一般的にいえば、誰もが地獄から逃げ出したいものです。 釈尊繋がりで手塚治虫の書いたブッダという漫画の中に、釈尊が自分の息子が釈尊に付いていきたいとはなす場面があります。 しかし、釈尊は息子の願いを拒絶します。 その場面は、私には、逃げずにその地獄の中で喜びを見つけるんだよ、と言っているように聞こえます。 しかし、現実問題、避けなければいけない人がいるのも事実です。 誰もがブッダ=慈悲なのだから被害に遭えば相手を...あえて心配しながらこれからの世を生きて行きましょう

  • 苦しんでいる私はいない

    因果の昇華のために善悪が生じます。つまり何かが起こるということは、それで良いということです。起こったなら起こったで良いので現状を受け入れて、感謝をします。これでいいのだ。何かが起こって、あとは自分が自分の都合で、勝手に考えて、感じたのです。起こったことを苦しむように「受け取りました」。しかし、苦しんでいる私はいないのです。確かに、痛みや苦しみはありますが、元々そんな私はいません。苦しんでいる私がいる、という想念に実態があると信じています。因果の昇華が起こった時点で、「0」です。執着の深さ具合で苦しみが起こります。けど、痛いものは痛いね。苦しんでいる私はいない。何か皆様の参考になれれば幸いです。ありがとうございます。苦しんでいる私はいない

  • 辛い時、不幸な時、苦労の時も真我は一緒にいてくれます

    誰にでも小なり大なりの罪があります。 気づけない罪がありますだろうし、忘れてしまった罪もあると思います。 償っている罪もあるし、現在に罪を犯してしまったかもしれません。 若い頃のご年配の方への罪を犯してしまうというのは、自分が罪を反省できる年ごろになりますと、もうその頃には罪を犯してしまったご年配の方への謝罪がしたくてもできないものです。 ご年配の方が死んでいるからできないこともあります。 同じように、自分も死んでいきます。 自分が死ぬというのは、この世でのカネ、仕事、家族、異性、肩書き、物をこの世に捨てていきます。 生活に必要なものを所有することは大切ですが、あれほど欲しかったカネも異性も肩書も仕事もやがて捨てていくのです。 今は欲しくとも、やがて捨てていくもののために罪を犯すのは割に合いません。 自殺...辛い時、不幸な時、苦労の時も真我は一緒にいてくれます

  • もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?

    すべての生き物の幸福とは?今日もお日様が登ること。確か、バカボンのセリフだったと思います。人が夢を待つときに自分の個人だけでの夢で終わるのか?それとも家族や社会、人類全体、地球、太陽などの全体への夢を持つことができるのか?もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?太陽さんの幸福。地球さんの幸福。それは太陽さんありがとうございます。地球さんありがとうございます。の感謝の言葉です。自分なりの感謝を言葉を継続しましょう。ありがとうございます。もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?

  • 最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです

    物が有る。人が居る。カネが有る。確かに目の前にこれらのものがあります。これだけ見ると、良いものだから私も欲しい、と思ってしまうものです。しかし、有るとは良い面だけでなくトラブルや苦労や心配が尽きない面もあります。所有したらしたで苦労の連続です。生活するための必要なものは揃えれば良いですが、わざわざ不要なものを所有してトラブルを新たに得るのかは個人で分かれることでしょう。ないならないでないの気楽さを楽しめば良いです。あるならあるであるものを生かせば良いです。所有しても良いが、責任を持ってあるものを生かします。最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです。今あるものを生かしていきましょう。ありがとうございます。最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです

  • なにもない自分でも、なにもできない自分で良いので自信を持っても良いのです

    自信とは子どもにもわかるように考えてみました。 今のままの自分でOK 自分だからOK ということだと思いました。 自意識過剰やナルシストになるという意味ではなくて、今のままの自分でそれでいいんだよ、と自分を認めてあげるということです。 仏教に待機説法というものがあります。 人により言い方も説法も違うということです。 だから、今のままの自分でOKも自分だからOKも人によっては誤解が生まれるということです。 しかし、私は本質の自信というのはこれで良いと思います。 では、これを深めていくとどうなることでしょうか。 私は存在しているだけでOK ということだと思います。 病気や怪我で布団から出られないことも人生にはあります。 心細くて心が消え入りそうな時がありますし貧乏でみじめで自分なんかたいしたことないと思うとき...なにもない自分でも、なにもできない自分で良いので自信を持っても良いのです

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、ゆるい遊びさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ゆるい遊びさん
ブログタイトル
ゆるい遊び
フォロー
ゆるい遊び

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用