本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方、申し訳ないです。休み
本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされてきた方、申し訳ないです。お休み
日々に思いますのは食事への感謝です。 特にお米と水への感謝です。 これを食事をする「毎回に感謝」をすることを参考にされてください。 なんとか生きて行きましょう。 空腹でも痛くても生かされるときは生かされます。 ありがとうございます。食事をする「毎回に感謝」をすることを参考にされてください
日々に生活していますと、人生とはプレゼントであったと感じます。嫌なことも悲しいことも辛いことも生かされている上でのことです。逆に美味しい味も楽しいことも幸せも幸運も生かされているから感じられることです。当たり前、有って当然だ、そんな視点だと見逃してしまう人生のプレゼントです。なんとなく過ごしてしまう日もありますし、祈るような日もあります。これも人生のプレゼントです。これでいいのだ、と認めて感謝をするのが日々の感謝です。人生は長くても数十年ですからあわてずに生きていきましょう。こんな本があります。まいにちがプレゼントhttps://amzn.asia/d/ijSW2Wxありがとうございます。毎日がプレゼントだった
先祖供養とはご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です
自分が被害を感じましたら心中にて被害を最小限にしていただいてありがとうございます。と感謝をするのが良いです。被害を最小限に抑えてくれたのはご先祖様のお蔭だからです。私たちはたくさんのお蔭様で生活をさせていただいているにすぎません。その都度の感謝が無いと二度目の幸運は無いです。苦しくても、辛くても、みじめでも、悲しくても、苦労をしていても良いので感謝が大切です。心中での日頃のご先祖様への感謝の継続も幸運を呼ぶ秘訣です。ただし感謝一辺倒の先祖供養です。ご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です。老子も弱者を忘れた強い者勝ちの社会はいずれ崩壊すると指摘しています。また老子は先祖供養を絶賛しています。いろいろある社会ですが自分の家系の先祖は自分で供養する責任を待つことが大切です。自分ただ先祖の先頭...先祖供養とはご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です
最近は自信について考えます。 心理系の本でも自信の有無の話は良く出てきます。 人生でも最後は自信の有無が大切に感じます。 では、自信の無いと思っている人はどうしたらいいか? ・完璧な自分、完璧な自信で無くていい ・他人と自分と比べる自信でなくていい ・今のままの自分をダメなんだと思い込まなくていい これだと思います。 つまり、今のままの自分でOKであるということです。 今のままの自分でだから愛される価値がある。 今のままの自分だから素晴らしい。 今のままの自分だから許されている。 これだと思います。 心理系の本に良く出てくるのは「自分だからOK」という自信です。 自信を失くときは理由もなく自信が無いような「感じ方」をしますが、自信があるという「感じ方」も理由がないものです。 理由のない自信が「自分だからO...今のままの自分でOKです
真我を思い出しても日常生活は続きます。 自分の日常生活を送れているとは、真我の究極の姿です。 それは日常生活の中での感謝の継続があるからです。 真我に目覚めてもすぐにしらふに戻ります。 真我に常駐すると、もったいないくらいの感謝に気づき始めます。 それが自分の日常を送れることです。 他人の人生を進んでもいいことはないです。 自分の人生とは真我の探求です。 景色には色々な誘惑がありますがそれでも真我を探求できるか? これが問われています。 自分を探求する言葉は 「私は誰か?」 「それは私ではない」 です。 雑多な困難な日常だから価値があります。 ありがとうございます。雑多な困難な日常だから価値があります
今日に胸に響いてくるのは「忘れるくらいでちょうどいい」です。無意識の力から言っても、軽く希望を思い、その後は「忘れて」目の前のことに集中すると良いと思います。老子の指摘にもあります。余計なことを忘れて忘れて忘れたときに最後に残るもの。こう指摘されています。では、仏であった宮沢賢治はどう遺しているか?よく見聞きし分かりそして忘れずあれ?老子と言っていることが逆です。しかし、世の覚者がいうことは道理がありそうです。つまり、老子は個人と社会全体の最善を指摘し、宮沢賢治は社会全体と個人の最善を指摘したと想定します。老子は、ここに書かずとも人智を超えているので王様でも個人でも全体でも当てはまります。宮沢賢治は、慈悲で話されたと私は考えます。彼の発言にも悲しみ=慈悲があるからです。けっきょく何を言いたいのか?思い出し...思い出しても忘れても、これでいいんだよ
悟った後に人はどうなるか? 瞑想を続けることでもなく、人里を離れることでもなく、逆に人の中に、社会の中に居ます。 悟った後でも食費も家賃もかかります。 悟ったとしても子育てはできません。 ところで釈尊は、どうだったか? 社会の中にいました。 これを禅を広めた鈴木大拙はなんと言ったか? 逆に苦しみの中に入っていく。 そうです。 喜怒哀楽をして苦しみながら社会で自分の仕事や家事や勉強をする人こそ、悟りの到達点だったのです。 意外でしたか? 自分なんか悟れないと思っても、自覚がないだけで悟っていた。 悟りのど真ん中に居たから悟っていることに気づけなかった。 これが言えそうです。 ありがとうございます。悟りのど真ん中に居たから悟っていることに気づけなかった
今日は音楽を 胎動(NewBirth)https://youtu.be/btqHrVYO3KI?si=7-umzZUB802Dm8A- 参道で思い出すのは、神社参拝の参道です。 参道=産道 これを思います。 神社参拝を計画するときから、すでに神社参拝は始まっています。 神社に参り、参道を歩きます。(礼は省いて書いています) 本殿への参拝を終えて、また参道に参り、帰宅します。 参道の行き帰り(生き返り=ヨミガエリ)で新しい自分を生み出します。 生み出す力=母性の海=真我 自然現象も同じで、早朝に太陽が昇り、夕方から夜にかけて太陽は沈黙します。 そう思いますと神社の参拝とは、理に叶った科学と言えるのかもしれません。 まだ化学が追い付ていないだけかもしれません。 昨日の夜に寝まして、早朝に起きる。 新しい自分の...参道(産道)を通って胎動を成す
罪を犯して許されるとは幸運です。 一回罪を犯して、それですべてが終わりでないです。 命ある限り人生は続きます。 残された人生で、自分が犯した罪を深く深く泣くほど反省したならば、罪以上の善行を積めば良いのです。 それでも生かされている、これが答えです。 残りの人生をなにに、誰のために使うのか? 感謝を忘れていたころのようにまた罪を犯すのか? それとも感謝を継続して、新しい自分になって善行を積むのか? 一度や二度の善行ではなくて、善行の継続をしていきましょう。 善人とは善行を継続するから善人なのです。 心中で感謝を継続して善行をする人は神から、天から、本当の自分から許されていきます。 ありがとうございます。善人とは善行を継続するから善人なのです
他人の人生を生きているのではなくて、自分は自分の人生を生きています
犯罪や危険を想定して避ける努力は大切です。 犯罪に遭ってしまった場合は淡々と法的な対応をしていけば良いです。 心中では慈悲を持つのが良いです。 罪人も病人も弱者も将来の自分の姿です。 罪人には、これを思えば再犯に注意しながら、物理的に距離を持って、相手を注意することができます。 病人も弱者も将来の自分の姿だと言えます。 たまたま病人や弱者という役を相手がしてくれているだけです。 カネ持ちなったかと思えば貧乏になる可能性もあります。 安定した生活かと思えばいつでも不安定な生活になります。 その逆に 貧乏ではカネ持ちになることはざらにあります。 不安定な生活でも努力で安定した生活を維持することができます。 ですから、現状だけを見て自分の人生の結論を急がずに、虎視眈々と挑戦すれば良いのです。 他人が自分の人生を...他人の人生を生きているのではなくて、自分は自分の人生を生きています
なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい
現在に良いことがないと思い込んでいる人には、これからの人生生きていればいいことがあると言います。これから先良いことがないと思い込んでいる人には人生は短いから挑戦して行こうと言います。人により言い方や答えが逆なのは、待機説法だからです。人により伝え方や答えが逆に見えましても、自分を生かす生き方には違いはありません。目に見える、耳に聞こえることは違いがありましても長期の視点ではその人が生きます。生かされます。それで良い、これで良いと釈尊のほほ笑みと笑い声が聞こえてきそうです。「なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい」と。予算内で美味しいものを食べて明日の英気をやらないましょう。ありがとうございます。なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい
心は永遠ですが目に見える景色は変わって行きます。一時的に目に見える景色にこの世の全てはないのです。景色を発現させている心を含めて真我です。景色も真我ですが、真我を探求するときは、自分の心を見詰めます。心を見詰めた結果、真我=全=禅=allだと直感的に気づく時が来ます。全体で一つで生きていたということです。知識として知っているだけでも真我を意識できると思います。真我は体の中央右胸3cmに在ります。何か皆様の参考になれれば、幸いです。ありがとうございます。知識だけでも知っておくと良いこと
苦しいとき、辛いときは、自分の心を見詰めるチャンスです。 景色という変わってしまうものではなくて、心という永遠を見詰めます。 ・私を見詰める、私を見ます。 つまり真我を見詰めます。 誰の胸に体の中央の右側3cmに真我が在ります。 真我の発露具合が人により様々なだけです。 意外と近所のあのおじさん、おばさんが。。。ということもあります。 実は自分の真我の発露に気づかないだけで。。。夢があります。 とにかく、今日の言いたいかったことは苦しいとき、辛いときこそ自分の心を見詰めるチャンスなのです。 悟りとは遠くにあるのではなくて、自分の右胸にあった。 これを覚えておいていただければ幸いです。 ありがとうございます。悟りとは遠くにあるのではなくて、自分の右胸にあった
天が人を助けるときは、本人に気づかれずに、圧勝ではなくギリギリで、紙一重で助けます。 助かるときは痛かったり、空腹ではあるけれども、紙一重で助けられて行く。 もし被害があったとしても助けられたならば感謝をすることが大切です。 幸運を授けてくれるのはご先祖様です。 ご先祖様が陰からくれた幸運に感謝をしていくことが大切です。 神社でも同じです。 参拝のたびに「いつもありがとうございます」など自分の言葉で良いので感謝がしていくのが大切です。 神仏がご先祖様が陰からくれた幸運への感謝がないと二度目はないからです。 忘れてしまいやすい感謝ですから良いのです。 ありがとうございます。ご先祖様が陰からくれた幸運に感謝をしていくことが大切です
今日はこの曲から 「home」https://youtu.be/XbCsY4-HV8M?si=3wO86Y0PId-ENhNA 思ってもみれば真我に目覚める、達成する、思い出す、自分を忘れるとは ・本当の自分に帰ること これだと思います。 神社参拝も真我への参拝です。 本当の自分に帰ること、とは ・本当の自分=太陽=母性 ・本当の自分=地球全体=母性 ・本当に自分=無=真我 知識を知っているだけでもいつか思い出すかもしれません。 そのままの自分はすでに母性だった。 自分におかえりなさいと言いたいね。 ありがとうございます。そのままの自分はすでに母性だった
・人生とは苦であるby釈尊 釈尊はこのように一言で人生を表しています。 禅を広めた鈴木大拙も苦しみを ・人は苦しむことができる と遺しています。 なんということでしょう。 人は苦しいのが自然の姿だったのです。 仕事が苦しい、家庭が苦しい、勉強が苦しいとは人間の自然な姿だったのです。 だから、これでいいのです。 もし仕事や家庭や勉強に悩みがなければ人は向上するでしょうか? 仕事=家庭=勉強、悩み=自分がいるから新規の発展があります。 老子も新規を生み出すのは第三の視点だ、と話しています。 仕事=家庭=勉強と自分という二つの間の第三の視点とはなんでしょうか? 負けない戦い方とは負けるパターンを知っているということです。 自分の生活の中で虎視眈々とチャンスをうかがっていましょう。 ありがとうございます。負けない戦い方とは負けるパターンを知っているということです
肩の力の抜いても良いですよ。 あせってもいいことないし、深刻になっても物事は良くならないです。 肩に力が入っているときはお笑いです。 ネットで無料の動画や漫画や小説や漫才がありますの参考にされてください。 体が緊張してるとなと思えば、無理のない軽めのストレッチです。 血流の良さが心身のストレスを軽減すると想定します。 冷静になれば目の前のことで起こっていないことを過度に心配しても事態は好転しないことがわかります。 予算内で美味しい食べ物や飲み物をいただいてリラックスした方が良いです。 仕事も家庭も勉強も幸せになるためにあります。 仕事も家庭も幸せも人生の一部です。 一部だけを見て絶望するのでなく、全体を見れば良いです。 これはダメだけどあれは良い、と。 全体で自分や人をみてあげられたらいいね。 肩の力を抜...全体で自分や人をみてあげられたらいいね
ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね
人に何かをあげたくても、カネもない、物もない、かける言葉見つからない。そんな人生の時期が誰にでもあるものです。カネも物も言葉もないならば、相手を慈悲の目で見てあげましょうかける言葉見つからなければ、心中で褒めてあげましょう。できることの少ない自分ですが感謝ができます。現状を認めて、感謝をします。私たちの心から慈悲という仏様をお出しします。仏様とは、他人がいることを期待するのではなくて、自分の心から慈悲の仏様をお出しするのです。慈悲のときの自分は、仏様です。相手を慈悲の目で見てあげている時は、仏様だったのです。ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね。これでいいのです。ありがとうございます。ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね
手強いと思える現実はやってきます。 そこで自分の次のパンチが弱小でも、何もしないよりも弱小パンチを打つことが大事です。 理由は、人生は時間限定だからです。 今という困難もやがて姿を変えていきます。 あとであの時もっと頑張れた、頼む!もう一回やらせてくれ!と言っても二度体験できない貴重な困難です。 他人にみじめでも、憐れでも、可哀そうに見えても良いのです。 自分の人生なのだから、他人の評価で自分の人生は決まりません。 だからヨワヨワな自分で良いのです。 ヨワヨワながらも挑戦できるかです。 つまり挑戦したという事実が大切なのです。 どんなにダメダメでも挑戦したことを真我は見ていてくれます。 自分なりの弱小アンパンチを打ちましょう。 ありがとうございます。挑戦した事実が大切
感謝の継続とは、感謝を真我、ご先祖様、大自然に奉納するということです。 一人だけ悟ってもなにか面白いのだろうか? 一人だけが悟ってもしかたないです。 悟っても、子育てはできませんし、家賃はかかるし、食費もかかります。 釈尊は真ん中の中道が一番美味しいと言いました。 老子も中道と遺しています。 過去の偉人たち、大自然の言葉に、メトテース、中庸、中今とあります。 つまり、喜怒哀楽しながら未来と過去の真ん中の「今」を生きることが一番美味しかったのです。 汗をかいて、泣いて、苦しんで、笑って、感謝する日々。 感謝して日常を送るという究極です。 頑張ること、努力することは大切ですが、これでいいのです。 現状を受け入れて、感謝する。 人生はこの一言です。 ありがとうございます。感謝して日常を送るという究極です
感謝を継続するとはどういうことか?生かされていることがありがたいから感謝をする。これだけだと思います。自分の命の起源とはご先祖様であり、大自然です。ご先祖様と大自然への感謝しますが真我にも感謝をします。心という真我。肉体という家系の先祖の代表。心と肉体を生かしめる大自然。この3点への感謝があれば最高です。感謝や先祖供養が継続するとは、そこに神が宿るからです。継続と生活態度にその人が表れます。継続には嘘がつけません。理由は、継続が本心だからです。始まりは欲心でも10年も続けば本心です。今日も感謝を継続していきましょう。ありがとうございます。継続には嘘がつけません
心理学の本を読んでいますと共通して出てくるのが ・自分は今のままで素晴らしい ・自分は今のままで価値がある つまり、今のままの自分、現状のままの自分を受け入れて認めるということです。 仏教にもあります通り ・現状を受け入れて、感謝する に心理学も近づいています。 あとは現状への感謝の有無の違いだけです。 しかし、現状のままの自分を認めることが困難な方もおられることでしょう。 その場合、現状への感謝をすることが良いと思います。 私は思いがふつふつと湧いて来るのですが、感謝の継続が最善だという思いが湧いてきます。 最高は、現状を認めて、現状への感謝です。 次は、感謝の継続です。 その次が、現状を認めることです。 現状を認めて、現状へ感謝をすることを挑戦していきましょう。 これは病気や怪我で布団の上にいてもでき...病気や怪我で布団の上にいてもできること
消えていくのは肉体という思考の癖です。 だから真我を信じて行けば大丈夫になります。 現状が地獄だとしても、地獄の中で喜びを見つければ良いです。 仏典に釈尊はある人物を聖者だと言いました。 その人物とは、過酷な環境で生まれ育ちました。 地獄で生きてきたから、その場所で喜びを見つけて聖者と成れました。 一般的にいえば、誰もが地獄から逃げ出したいものです。 釈尊繋がりで手塚治虫の書いたブッダという漫画の中に、釈尊が自分の息子が釈尊に付いていきたいとはなす場面があります。 しかし、釈尊は息子の願いを拒絶します。 その場面は、私には、逃げずにその地獄の中で喜びを見つけるんだよ、と言っているように聞こえます。 しかし、現実問題、避けなければいけない人がいるのも事実です。 誰もがブッダ=慈悲なのだから被害に遭えば相手を...あえて心配しながらこれからの世を生きて行きましょう
因果の昇華のために善悪が生じます。つまり何かが起こるということは、それで良いということです。起こったなら起こったで良いので現状を受け入れて、感謝をします。これでいいのだ。何かが起こって、あとは自分が自分の都合で、勝手に考えて、感じたのです。起こったことを苦しむように「受け取りました」。しかし、苦しんでいる私はいないのです。確かに、痛みや苦しみはありますが、元々そんな私はいません。苦しんでいる私がいる、という想念に実態があると信じています。因果の昇華が起こった時点で、「0」です。執着の深さ具合で苦しみが起こります。けど、痛いものは痛いね。苦しんでいる私はいない。何か皆様の参考になれれば幸いです。ありがとうございます。苦しんでいる私はいない
誰にでも小なり大なりの罪があります。 気づけない罪がありますだろうし、忘れてしまった罪もあると思います。 償っている罪もあるし、現在に罪を犯してしまったかもしれません。 若い頃のご年配の方への罪を犯してしまうというのは、自分が罪を反省できる年ごろになりますと、もうその頃には罪を犯してしまったご年配の方への謝罪がしたくてもできないものです。 ご年配の方が死んでいるからできないこともあります。 同じように、自分も死んでいきます。 自分が死ぬというのは、この世でのカネ、仕事、家族、異性、肩書き、物をこの世に捨てていきます。 生活に必要なものを所有することは大切ですが、あれほど欲しかったカネも異性も肩書も仕事もやがて捨てていくのです。 今は欲しくとも、やがて捨てていくもののために罪を犯すのは割に合いません。 自殺...辛い時、不幸な時、苦労の時も真我は一緒にいてくれます
もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?
すべての生き物の幸福とは?今日もお日様が登ること。確か、バカボンのセリフだったと思います。人が夢を待つときに自分の個人だけでの夢で終わるのか?それとも家族や社会、人類全体、地球、太陽などの全体への夢を持つことができるのか?もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?太陽さんの幸福。地球さんの幸福。それは太陽さんありがとうございます。地球さんありがとうございます。の感謝の言葉です。自分なりの感謝を言葉を継続しましょう。ありがとうございます。もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?
最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです
物が有る。人が居る。カネが有る。確かに目の前にこれらのものがあります。これだけ見ると、良いものだから私も欲しい、と思ってしまうものです。しかし、有るとは良い面だけでなくトラブルや苦労や心配が尽きない面もあります。所有したらしたで苦労の連続です。生活するための必要なものは揃えれば良いですが、わざわざ不要なものを所有してトラブルを新たに得るのかは個人で分かれることでしょう。ないならないでないの気楽さを楽しめば良いです。あるならあるであるものを生かせば良いです。所有しても良いが、責任を持ってあるものを生かします。最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです。今あるものを生かしていきましょう。ありがとうございます。最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです
なにもない自分でも、なにもできない自分で良いので自信を持っても良いのです
自信とは子どもにもわかるように考えてみました。 今のままの自分でOK 自分だからOK ということだと思いました。 自意識過剰やナルシストになるという意味ではなくて、今のままの自分でそれでいいんだよ、と自分を認めてあげるということです。 仏教に待機説法というものがあります。 人により言い方も説法も違うということです。 だから、今のままの自分でOKも自分だからOKも人によっては誤解が生まれるということです。 しかし、私は本質の自信というのはこれで良いと思います。 では、これを深めていくとどうなることでしょうか。 私は存在しているだけでOK ということだと思います。 病気や怪我で布団から出られないことも人生にはあります。 心細くて心が消え入りそうな時がありますし貧乏でみじめで自分なんかたいしたことないと思うとき...なにもない自分でも、なにもできない自分で良いので自信を持っても良いのです
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人生の法則として、自分がしたことが自分に帰ることです。よく言われるのが因果の法則です。自分がした良いことも悪いことも自分に返るということです。今日は、これを応用します。生活するときも勝ちを相手に譲ってあげたら、やがて自分が勝つ縁を作っていた。自分が真剣に戦って負けてあげたとき、やがて自分が祝福される縁を作っていた。自分が他人を褒めたからいつかの世で自分が祝福を受ける縁を作っていた。自分から愛したから将来に自分が愛される縁、豊かになる縁を作っていた。この全ての共通点は、求める前に、自分から提供したことです。何か皆様の参考になれれば、幸いです。ありがとうございます。負けても良いよ。勝ちを譲ってあげても良いよ
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生きるとは苦しみであるby釈尊 幸福になっても幸福が消えていく苦しみがあります。 物を手に入れても失くしたり盗られる苦しみがつきまといます。 異性と付き合えてもけんか別れや死別の苦しみがあります。 つまり、いいことがあったとしてもいいことがなくなっていく苦しみがあるのです。 では、必ず苦しみが来るいいこととは本当にいいことだろうか? 初めから持っていないとは幸福かもしれない。 それならば、プラスとマイナスの相殺の上である日常とはありがたいではないですか。 喜怒哀楽があり、それでも生活できること。 究極の下から目線の生かされている上で起こる喜怒哀楽。 生かされている原点への感謝とは、それだけでOKということです。 罪があるけど生かされている、これが答えです。 自分が罪を犯したとしても、生きている限り、罪を償...生きているからブログも読めるし、甘いおやつも食べられるし、スマホやPCで動画も見れるし、お昼寝をすることもできます
いつの世でもあるのは男女の恋愛関係の問題です。 男女の問題も根っ子を見て行けば性欲というサガ(性)です。 では、なぜ性欲が起こるのか? ラマナマハルシはこれを、お互いの形(性器など)の形が違うから性欲が起こると話しています。 なんということでしょう。 性欲とはお互いの体の形の違いから起こっていたのでした。 しかし、これは厳密にいえば性欲はあっても良いのです。 理由は、性欲がないと子孫が残らないからです。 子孫が残るから人類は存続してきました。 男女の恋愛問題からなにをいいたのかと言うと、性欲もほどほどで良いのです。 極端になりすぎるから問題が起こるものです。 人は極端になりやすいサガ(性)なのです。 いつの時代も男女の問題はあるものです。 問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょ...問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょう
最近は、若者言葉で「すぐにキレる」人が多いです。 生活する上では「すぐにキレる人」を想定していることが大切です。 同じように自分も怒ったり、すぐにイライラしないことがより大切です。 イライラが怒りの火種になることはよくあることです。 では、釈尊は怒りについてどう話しているか? 怒りを制する者は輪廻転生を終わらせることができると話しています。 怒りの根っこの部分とは自分の妄想である可能性です。 修行をして悟らなくても怒りを制するだけでもよかったのです。 やはり釈尊の言葉には、大自然に溶け込むような気持ちになるものばかりです。 自分の怒りを水に流して行きましょう。 ありがとうございます。自分の怒りを水に流して行きましょう
長所も短所も良いもの悪いも時代や国や立場が変わっていけばその内容も変わっていきます。そんな時は淡々と自分のやるべきことをしていけば良いです。仕事に合わせながら真我をお守りすれば良いです。大切は自分の真我の思いです。真面目に生きていれば大丈夫になります。生きるという期間だけではなく、長い死後の世界もあります。死後を忘れない、いつか自分他人も死んでしまう存在なのを忘れなければ大きな罪は起こしにくいものです。恐れるは真我です。死後に公平な視点から見られるのが真我です。ダメダメでも失敗ばかりでも大丈夫です。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です。今日も感謝して努力を続けて行きましょう。ありがとうございます。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です
仕事をしていればうまくいかないことがあります。いえ、仕事でなくても家庭でも勉強でもうまくいかないことがあります。つまり、仕事も家庭も勉強もうまくいかないのが自然な姿なのです。だから、慌てずに努力をすれば良いと思います。努力してうまくいくわけではないです。けど、努力を続けます。脱力しながら結果はおまかせで良いです。死ぬときに全てを置いてこの世を去るのですから、うまくいったことうまくいかないことも捨てて逝きます。だからうまくいってもうまくいかなくても問題はないです。最後には捨てていくことだからです。大切は、努力していることです。病気で布団の上にいても感謝できることを探したり療養する努力をする。治療努力する。これならば布団の上で動けなくても努力できます。うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう...うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう
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真我をお守りするのは? 日々の生活への注意。 食事への配慮。 防犯への注意です。 ところで近年は凶悪犯罪もありますから、女性の一人暮らしには注意です。 いろんな趣向の人がいますから、女性の一人暮らしは監視されていると思っても間違いではないと思います。 けど、心配過多になってはいけないです。 おおいに心配したら防犯を意識しながら自分の生活を楽しめば良いです。 帰宅時にドアを開けて、そのまま不審者に突進されてそのまま〇イプもある話なので注意です。 帰宅のときは、周囲に人がいないかの確認が良いです。 日中でもです。 これからは自分の身は自分で守ることが大切だと思います。 真我をお守りしましょう。 女性は男性以上に警戒心が大切です。 ありがとうございます。女性は男性以上に警戒心が大切です
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人生も河の流れのようです。 上流では水は清いが生き物が少ないです。 中流になり河の曲がり角が多く、水は角にぶつかりながら、緩急つけて、時には停滞して母性の海を目指します。 下流の海になるといろいろな多くの生物がおり、魚(人)豊富です。 もし、社会から、家庭から、逃げようと思えばそれは海にいる豊富な魚がいるところから逃げるということです。 海があるから幸運があります。 海があるから幸福がります。 どこに逃げても同じような苦しみが来るものです。 それならば今いる場所の苦しみの真ん中で安心して楽しめば良いです。 けど暴力や逃げなければいけない場合もあるから臨機応変に対応です。 苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか。 いっそ苦しいならば、苦しみのど真ん中で安心して居よう、楽しんで居よう。...苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか
押してダメなら引いてみな。人生にもこれくらいのゆとりがあるといいものです。しかし、渦中ではどうしても押す一方になりがちです。そんな時は、それが「必要な期間」だったと言えそうです。では、押しても引いてもダメな場合はどうしたらいいのか?自分が出来る努力を継続しながら、忘れていることです。無駄に力が入っているよりも脱力している方が、無意識の力も働きやすいです。押してダメなら引いてみな、心に力を入れてダメなら脱力してみな、にも言えそうです。これならば努力にも言えそうです。努力してもダメなら脱力してみな。今日も最高の努力を真我に見せていきましょう。ありがとうございます。努力してもダメなら脱力してみな
下から目線で生きる、つまり生かされているだけでもありがたいという視点です。 生かされている=幸福だから=幸運だから嫌なことも不運なことも苦しいこともある。 だから今のままの自分で幸福であり幸運であった。 では、なぜ自分はもっと満たされないのか?なぜ不幸なのか?と思うのか。 それは今ある幸福と幸運に感謝をせずに「もっともっと」と求めているからだと思います。 けど、確かに生き地獄もあるのが事実です。 では、幸福、幸運を感じるにはどうしたら良いのか? ・それでも生活できることを感謝すること。 ・感謝の先祖供養をすること。 ・月に一度でいいから感謝のみの奉納する神社参拝をすること。 以上を参考にされてください。 幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます。 あわてないあわてない。 一...幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます
本日の記事の更新は、お休みです。 楽しみにされていた方、申し訳ないです。お休み
義務でやっていると息が詰まるものです。やらされているよりも「やっている」「楽しんでいる」視点があれば最高です。せっかく生きているのですから、仕事も勉強も家事も楽しめたら良いですね。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです。一度きりの人生を楽しんで行きましょう。ありがとうございます。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです
下から目線でいれば、人生は感謝することばかりです。生かされているから心配、苦しみ、不安も体験できるのです。そう思うと心配も苦しみも不安も人生の一部であり、人生からのプレゼントだと思えませんか?うまくいかないことも不幸も不運も人生の一部です。生かされているから体験できることです。これも人生の一部なんだと明るく諦めたら良いです。人生に苦しいこともありますが、苦しみを深くしているのは、もっともっとと言う欲心です。なにがなんでも手に入れようとか、絶対になくてはならないと思うと苦しいものです。仕事では厳しく言われるかもしれませんが、厳しく言われるのも仕事の内だと思い、自分なりに努力をすれば良いです。明るく諦めて脱力している方がいい仕事ができるものです。もっともっとと欲しいときも体に余計な力が入っているものです。軽く...日常での感謝の継続は最強です
最近は、肌や体内の常在菌が気になります。 腸内細菌=免疫 これが気になります。 肌や体内の菌を育てることに私は興味があります。 南方熊楠も粘菌への積極的な姿勢がありました。 熊楠は粘菌を守る=日本の森林を守るという活動をされていました。 つまり神社を守る活動をされていました。 肌や体内の常在菌とは宇宙とも言えそうです。 少し前には脳内フローラと言って脳内にも善玉菌のフローラ=菌のお花畑のような絨毯があるとも言われていました。 話はそれましたがこれからは腸内細菌が重要だと思います。 乳酸菌のサプリもありますから臨機応変に飲んでいけたら良いと思います。 食品から摂る乳酸菌も参考にしたいものです。 寝る前の乳酸菌の歯磨き粉も参考にしちあものです。 つまり、今日の言いたいことは、寝ても覚めても菌だ~~ と言うこと...これからは腸内細菌が重要だと思います
努力すること、頑張ることは大切です。しかし、苦しむほどしなくて良いと思います。そうではなくて、脱力していれば良いです。結果だけにこだわらずに、最高の努力をしたら結果は自然な流れにまかせれば良いです。そんなにすごいことをしなくて良いよ。今のままの自分の努力や頑張りを認めてあげたら自然と肩の力が抜けるものです。すごい人にならなくても、今のままですごい私です。私は、今のままですごい、と思って良いよ。自信とはあると思えるかないと思ったままかと言うことです。自分にはあると思って良いですよ。外側でなく内側のあるからです。ありがとうございます。自信とはあると思えるかないと思ったままかと言うことです
過去の自分や未来の自分に、「もう大丈夫だよ。安心していいよ」と心中で思うことは大切です。今を起点として、自分が過去と未来の自分に大丈夫だよ、安心していいよと心中で思うことにより、過去から未来から今の自分に安心の思いが届きます。「今は苦しいかもしれないけど、未来はああなってこうなって今は安心だよ」と心中で過去の自分に声をかけます。これを何度かしますと、過去の不安だった自分が癒やされて嫌な過去を思い出さなくなることもあります。過去=今=未来だとも言えます。ありがとうございます。過去=今=未来
今日は、親戚一同が自宅に集まっていました。子供の頃から親戚が集まるのが子供時代の私の楽しみ出した。しかし、大人の中ではいろいろあったみたいです。それでも今年もこうやって親戚一同なんとか集まれたことに感謝します。もし、それぞれに都合やなにかありましても一同が会えないものです。家系の深い繋がりを思います。お昼に一緒に食事をしました。いろいろと話で盛り上がりました。食事をいただけるご縁と歓談で笑顔になれる幸運に感謝しました。近代の聖者ラマナマハルシも叔父を自分の住まいに呼んで一緒に生活していたと思います。私の叔父は数年前に亡くなりました。優しい叔父でした。亡くなった叔父は穏やか性格の人でした。大切な叔父であり今でも感謝しています。私は家庭的な愛情は薄いですが人に恵まれてました。今日は書きたいことがあるというより...これからは若い人の時代
釈尊、老子、ラマナマハルシ、マハラジ。 彼らは自己への探究で覚醒しました。 ですから釈尊は自灯明と発言し、マハルシは「私は誰か?」と探究し、マハラジも老子も同じです。 正しい自己への探究は物も他人も必要ありません。 自分一人でできます。 だから私のブログも本来は不要なのです。 けどこれからも書かせてね笑 書かなければいけないような気がするのです。 自己への探究は、自分の家系の先祖に向かうのも正しいです。 日々の先祖供養と感謝の継続が覚醒へ導きます。 物や他人に依存することはないです。 身一つで十分です。 今日も感謝を継続して行きましょう。 ありがとうございます。真我に目覚めるとは自分の身一つで十分です。
人生に答えない。 しかし、真我を思い出し、感謝を継続するという答えがあります。 この答えは、全ての人に共通することだと思います。 「私」という夢を見ています。 私とは=時間の経過、空間の拡大 です。 私という夢はいつ始まるのか? これを探求してみたいと思います。 大人になった今、大人になるまでの御蔭様がありました。 誰もに共通するのは、自分が赤ちゃんの頃です。 赤ちゃんの頃は完全に周りの環境の流れに身をまかせています。 母乳(粉ミルク)をいただきました。 オムツを替えていただきました。 入浴をして心身を生活にしていただきました。 泣いたときにはあやしていただきました。 一緒に遊んでいただきました。 数えればまだまだありそうです。 これらをしてくれた大人がいるのです。 赤ちゃんの頃の自分が求めればしてくれた...御蔭様のおかげで今まで生きてくることができました。
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私は食事をいただく時には、食前に食材と神様と先祖への感謝が日課です。 今では日課ですが私は忘れっぽいのでいただきますとご馳走様です、が定着するまで数年かかりました。 御蔭様で外食するといただきますとご馳走様をするのは私くらいなものです笑 それだけ無意識にしてしまうくらいに定着していました。 私は継続に神を見ます。 感謝をすると何も起きませんが、「無言」だから良いのです。 もし感謝をして自分と会話する存在があればそれは注意です。 奇異がないのが神がかりです。 ですから私は祈願、占い、霊能にはノータッチです。 この話が皆様の参考になれば幸いです。 ありがとうございます。食事をいただけるご縁に感謝です。
人生を楽しむということを考えてみました。 誰にでもあって、どんな時にも楽しめるもの。 それは感情や、他人を喜ばせるために使っている行動、時間。 人を思い遣っている行動、時間。 などだと思いました。 苦しい時間もあれば安らぎの時間もあります。 心配している時間もあれば不安な時間もあります。 怖がっている時間もあれば安心している時間もあります。 苦しい感情のときもあれば安らぎの感情のときもあります。 心配している感情の時間もあれば不安な感情のときもあります。 怖がっている感情のときもあれば安心しているときの感情のときもあります。 これらの時間を、感情をプレゼントしていただいています。 これを楽しめば良いのだと思います。 怖いときは怖がれば良いのです。 心配しているときは心配すれば良いのです。 楽しいときは楽し...時間を、感情を、それらは人生からのプレゼントだからです。
自分や他人へのイメージというのはコロコロ変わるものです。 自分へのイメージが変わるということは、他人にならなおさらです。 自分が自他にする善悪の評価もコロコロ変わるものです。 だから自分が変わるときは一瞬です。 きっと前触れもなく一瞬で変わることでしょう。 真我への目覚めも同じです。 いつの間にか一瞬で真我に目覚めているものです。 今日は、自分が人から悪い評価をつけられることを必要以上に怖がらなくていいよということを書きたいと思います。 他人は自分への善悪の評価を「その時の気分」で付けて、変えていくものです。 自分が気にしている他人から得た善悪の評価も、他人は評価したことを忘れているものです。 つまり、評価とはそれだけ曖昧なものなのです。 子供の頃に欲しかったおもちゃは欲しいおもちゃですが、大人になってか...自分が変わるときは一瞬です。
明日捨ててしまう生ゴミなのに誰が前日に生ゴミの中身を確認するでしょうか?そう発言する聖者が過去におられました。生ゴミとは自我(エゴ)のことです。つまり、対象の私のことです。私も人類は最後にはみな自我を明け渡して、真我に気づくと信じています。ところで私と言う対象とは誰のことでしょうか?それは真我が私という個性を想像したときに出来上がる「私とは〇〇である」という自分像です。夢の私です。このイメージは簡変わります。子供の頃に思っていた自分というイメージは、大人になった今の自分イメージは違います。今、流行りの自己評価や自己肯定感は変わりやすくあり、自分で変えて良いのです。周りからの評価はコロコロ変わるし、変わっていって良いので自分への評価を肯定して良いのです。つまり、自分を信じるということです。自分は、価値ある評...自分というイメージはすぐに変わります。だから自分を信じて上げましょう。
人生の喜びと苦しみもプレゼントだと私は思っています。これが深くわかりだしますと、人は黙るのではないでしょうか?地獄を見ても人は黙ります。あれ?喜びも苦しみもいただいても地獄を見ても黙るのです。行き着く先は同じだったのです。これでいい、ちょうどいいというのがわかるのです。そんなに人生をあせらなくても今の自分にちょうどよいのです。ならば、この地獄に肩までつかっていればよいのです。地獄まで共に参ります、で良いのです。意外とこの方が早く地獄から抜け出せるかもしれませんよ?喜びにも苦しみにも感謝していましょう。行き着く先はみな感謝です。ありがとうございます。行き着く先は同じだったのです
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ここ数年間ほぼ毎日ある男性の意識に変わります。 良い思いならば良いのですが、嫌な印象が残る意識なのです笑 相手の方は、事情のある方なので相手が死ぬまで続くと思っています。 しかし、よくよく考えてみますと、人類も大自然もせっかく地球が作って残してくれたものです。 生きているから体験できることを思えば感謝ができそうなものです。 「いや、あの人はとんでもない人で私は感謝できないです」 という人もおられると思います。 私は、それでも良いと思います。 感謝をするか、しないかは個人の自由に思うからです。 感謝できなくても良いので相手の悲しい背景、寂しい生活環境を思いやってはどうでしょうか? 物理的な距離は置くけれども心は相手への慈悲を向けます。 私は、勉強をするのも、当たり前の感謝に気づくためだと考えています。 同じ...今日という日常を一緒に頑張りましょう
たまには音楽を聞いてみてもいいね。 動画サイトで無料の音楽があるので、自分に合った音楽もいいね。 私は日常的に音楽を聞きますが、音楽を聞くのが日々の楽しみです。 ショパン、バッハ、モーツァルトを聞きます。 その時の気分に合わせて洋楽、邦楽、アニソンなども聞きます。 特に最近聞くのがライアーとシタールの楽器の曲です。 これは心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます。 本来の静寂を思い出させます。 あわてないあわてない。一休み一休み。 ありがとうございます。音楽は、心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます
最近に思いますのは、幸福にせよ、不幸にせよ現在の体験が2度と来ないことを私たちは知っているのではないでしょう。 だから幸福には感謝して喜びます。 不幸には因果の精算がこれで済んだと泣いて喜ぶのでしょう。 物質的に恵まれても、心が安心していても、いつも考えているのは地球のことであり他人のことです。 この世には自分一人だけしかいないのが真実です。 しかし、それでも地球や他人のことを考えてしまうのです。 あれほど自分のことばっかりだったのに欲望の対象が変わるだけで人はころっと変わってしまいます。 その人にはその人の人生のテーマがあると思います。 感謝をするテーマだったり、素直になることだったり、謝ることだったり、因果を精算のするテーマだったり。 私はすべてに共通する人生のテーマが感謝の継続だと思っています。 仕...2度とない現在を転げ回って生きてやりましょう。
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どんなことも思い出になります。 苦しみは、渦中は苦しいですがやがて思い出になります。喜びは、最中は嬉しいですがやがて思い出になります。 つまり、現在、苦しいということは、喜んでいるということは、思い出になることが決まっているのです。 喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。 けど、苦しみはすぐには忘れないし、時間の経過と共にただの苦しみに色がついて余計苦しくなることがあります。 けど、いつか思い出になることが決まっています。 ですから、受け取ってしまった苦しみならば、苦しみを体験できることに感謝すれば良いのだと思います。 せっかく受け取ってしまった苦しみが「有る」のですから感謝していただきましょう。 有るものだから体験して行きましょう。 この世は、苦しみと言います。 喜びもやがて苦...喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。
人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。 歴史の教科書では、人類の初期はほら穴での生活でした。 寿命で死ぬのも30代頃だと推測されています。 つまり、悲しめるのも苦しめるのも損したり、失っているように感じますが、逆に悲しみも、苦しみも得ているといえないでしょうか? 悲しみも苦しみも逆の感情を知っているからこその悲しみであり苦しみです。 つまり私たちは自分なりの幸福を知っているのです。 あの人のような幸福でなくても自分なりの幸せがあります。 それは悲しみを体験する人生かもしれませんし、苦しみを体験する人生かもしれません。 楽しい人生もあるかもしませんが、楽しみの裏では幸運を使って減らしているかもしません。 今が楽しい人は、感謝の継続です。 これが幸運を減らさない生き方です。 今が不幸だ、苦しい人は、現在に幸...人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。
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渦中の最中は、辛く、苦しくて、余裕もなく感じることもあるものです。渦中を過ぎて、何年も立つとあの時まだまだ頑張れたな、もっと頑張ればよかったな、と思う時があります。これは死後に誰も思うことだと思います。家族のためや、会社のため、友達のため、人類のためにいろいろ頑張るけど結果が良くないこともあります。そんな時は「〜ために」ではなく自分でやりたいからやっているという、自分の行動の見返りを求めない、相手の反応を期待しない心の態度が良いと思います。人は受け取ると心が弱くなります。ですから、与える一方で良いのです。お喜びいただけるだけで十分です。お喜びいただけるとは、相手が笑顔になるだけではないです。中には感情のはけ口として、ひどいことを言われることもあります。けど、それで良いのです。人の嫌な部分も含めてお喜びいた...逃げられない、、、それならば今日も善意も悪意も受け切ってやりましょう。
執着はするな、とは釈尊の御言葉です。 私も同意します。 けど、自分の人生は簡単に諦めてはいけないと思います。 自分とは真我を預かることで人生を生きることが可能であり、真我をお守りすることも大切だからです。 つまり、 ・結果に執着はしないけれど、最高の努力をします・病気で布団から出られない時は布団の中で養生という最高の努力をします と言うことだと思います。 あの人のように努力できないものだし、思うほど成果が上がらないかもしれません。 けど、不自由な世界に生きているのですから、うまくいかないのが自然だからこれで良いのです。 昔の人も、未来の人も、現在の人もうまくいかない中を生きています。 私たちもうまくいかない中を感謝して生きれればそれで良いのです。 この現実を右往左往しながら生き抜いてやりましょう。 うまく...結果に執着はしないけど、最高の努力をします。
考えてもみましても、自分の体験とは、2度とできない体験なのでしょう。 笑うことも、泣くことも、怒ることも、悲しむことも2度とない体験です。 それを思うと今のうちから、もっと体験してやろうと思えるかもしれません。 老子は、全ては逆であるとします。 ・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです ・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです これが言えると思います。 では、幸運を無くさない、不運を幸運にして貯めるにはどうしたら良いか? 私は感謝の継続だと思います。 気づかない幸運を取りこぼしてしまうこともありますが、ご先祖様への感謝で良いと思います。 ご先祖様への感謝の継続=幸運の継続 が言えると思います。 ならば、もうちょっと苦労して感謝してやりましょう。 ありがとうございます。・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです