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2021/04/19

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  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(214) 甲越 川中島血戦 41

    この時、すでに甲州勢は越後勢に槍を入れて火花を散らして打って懸かる越後勢、新発田尾張守が甲州勢に横槍を入れれば、小山田、横田勢は崩れ去る柿崎和泉守は飫冨勢に打ち入れば、武田方の討死は増えるばかりであったこれを見た甲州勢の二陣の備え、どっと越後勢に向けて走り出るところ、飫冨、小山田より凡そ五十騎が遮って、軽々と味方を備えに戻したまことに見事な引き際であれば、越後勢殿の長尾政景も甲州勢の振る舞いを見て、軍を止めて静々と引き上げる。話を少しばかり戻す小山田左衛門尉は、板垣弥冶郎の軍と桔梗が原に於いて陣を敷いたが、法福寺の合戦で敗れた小笠原勢引き上げの時、これを挟み撃ちにして滅ぼす千載一遇の機会とみて板垣に出陣を促したが、板垣は病と称して軍を動かさなかった。小山田は仕方なく一手に小笠原勢を討たんとしたが、原加賀守...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(214)甲越川中島血戦41

  • 夏は去り、秋の香り

    日中の最高気温も25度くらいになって夜は寝やすく、エアコンも扇風機も出番がなくなりました。5月生まれの私にとって、春と秋の季節の中間期はもっとも暮らしやすい当然ながら活動も活発化してきます、今年の夏は特に手術入院後だったので猛暑中は家からほとんど出ず、エアコンの部屋で書き物ばかりしていて、運動不足これからそのツケを取り返します。ということで今日から始めたのは、家の中の窓枠などの木工具の塗装がかすれた部分のカラーニス塗装これがうまくいけば、廊下も別のカラーで塗ろうと思いますその後は、風呂場のモルタル壁のペンキ塗装、ここも部分的に薄れているのでカビの除去をした後で塗ろうと思います。風呂の壁は濃いブルーの塗装なので落ち着いた気分で浴槽に入っていられます色合いは海の感じなので、機会があれば富士山とかの風景画を描い...夏は去り、秋の香り

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(213) 甲越 川中島血戦 40

    景虎より、平賀惣助を使者に、明日有無の決戦を遂げるべく由と晴信に申し来る。十一日、越後方先陣、北條丹後守、新発田尾張守、長尾平八郎、諏訪部次郎右衛門第二陣は、柿崎和泉守、甘粕近江守、新津丹波守、高松内膳、旗本の先手は本庄弥二郎、新庄左衛門、中條越前守政景甲州方は、先陣、飫冨兵部、小山田備中守、芦田下野守、相木市兵衛、望月甚八旗本の前備えには、山本勘助、諸角豊後守らの諸将後備えには真田弾正忠、馬場民部少輔ら、両陣既に押し出せば、景虎は卯の花縅の鎧、同毛の冑を着し、黒の馬に金覆輪の鞍を置き、深紅の厚房をかけさせ、近習十人に、宇佐美駿河守を従えて北條の備えに入り、甲州方を斥候した。甲州の大将、武田晴信も紅裳濃の鎧に、法装の冑を着し、粕毛の馬に蒔絵したる鞍を置かせ、山本勘助、内藤修理正を従えて近習十二、三にて小山...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(213)甲越川中島血戦40

  • 人生相談

    妻がプイと家を出て行って、それっきり帰ってこないラインを送っても既読にさえならない「どうすれば妻を帰ってこさせることができるか」知恵を貸してほしいと知人からラインが来た。ラインの既読さえないのだから、そうとう妻は怒っているか、もはや彼など眼中にないかのどちらかだたしかに彼には落ち度があって、それは100対0の落ち度なのも知っている世間では「夫婦喧嘩は犬も食わない」という、私もそうしようと思っている無責任に首を突っ込んだり、口を挟んでよけいこじらせでもしたら、大失策ださりとて困っている知人を無視するのも男気がないそうとう参っていて、これに留まらず悪い方向に傾けば、それも困るもう何か月かたって、事態は一向に進展していないようだもはや望みは無いと言った方が早いくらいだ仲良く見えた夫婦でさえ、近年は夫の退職を待っ...人生相談

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(212) 甲越 川中島血戦 39

    甘利左衛門尉の奮戦により、劣勢の武田方は盛り返し、ついには小笠原勢信濃松本城に逃げ去り、守りを固くして閉じこもったいよいよ小笠原の滅亡の時が来たりと、晴信は全軍に命じて備えを作ったところに「越後勢が佐久に侵攻」との知らせが入り、晴信は小笠原攻めを後日にまわして越後勢に向かって進発した。越中にて、長尾景虎の戦ぶりを見聞した間者の小幡弥三左衛門尉と僧大益が陣中に戻って来て報告した「能登越中と巡って、景虎の戦ぶりを見聞してきましたが、我らとの戦とは格別に異なり、ただただ合戦を大事にして、謀りを用いて敵に勝ち、また埋伏の計を使って追ってくる敵を左右から不意打ちにて殲滅するなど軍勢の駆け引きはわが手を操るに等しく軽快でありますしかも慎み深く、弓矢を取り申され候う」と申せば、山本勘助は手を柏って申すには「景虎の勇知を...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(212)甲越川中島血戦39

  • 間もなく10月 いろいろあった9月まで

    一年を春夏と秋冬に分けてみれば、前半が終わり、後半が始まる今年の9月は異常に暑かったと言えども、過去にもこんな9月はあり、さほど驚くことではないのだそれよりも、今年の3月から9月までの半年の慌ただしかったことまるで夢の中の出来事の感あり自分のことで言えば、何といっても大腸がんの一連の流れ、そして気持ちと生活の変化他人のことで言えば、何といっても大谷と大の里のWーBIG私の心を支配していたのは、この二つと言って良い。昨日は大谷が夢見たワールドシリーズ優勝に一歩近づく地区優勝をドジャースが果したドジャースにしてみれば、この10年で9回目の地区優勝だから珍しくもないだろうが、入団以来弱小エンジェルスで数年を過してきた大谷にとって、初めての経験メジャー屈指のドジャースでさえ10年間で1度しか果たせなかったワールド...間もなく10月いろいろあった9月まで

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(211) 甲越 川中島血戦 38

    「武田勢、下諏訪に向けて進軍中」報せを聞いて、松本の小笠原長時は、これを迎え撃つべく急いで諏訪に向けて兵を進めた。武田軍は佐久に入り海野峠を越えて法福寺に陣を敷いた小笠原は雛倉峠を越えて武田勢の先陣に無二無三の戦いを仕掛けた鉄砲を撃ちかけ、槍を揃えて攻め寄せる。武田勢の先陣は飫冨兵部少輔、小山田備中、芦田下野らの軍勢、兵を励まして挑みかかる小笠原勢に立ち向かったいずれも己の命など塵ほどにも思わず、ただひたすら義を重んじて命投げうち名をこそ残さんと火花を散らして戦うされども小笠原長時は地神、御仏に守られて奮戦すれば、武田勢は総崩れとなって二丁ほども後退したこれに押されて、二陣のあとも総崩れの様となるところに、故甘利備前の嫡子、甘利藤蔵、今年十七歳、去る九日に左衛門尉に任じられ、晴信から晴の諱字を賜り、甘利左...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(211)甲越川中島血戦38

  • 新湊を

    今日は一年ぶりに新湊の万葉線に乗って庄川河口まで行って来た去年は高岡の中伏木まで乗って行って、庄川口まで歩いたので、今日は続きで庄川口から中新湊まで歩いた、どちらも駅3つ4つ去年のコースは港と工場地帯みたいな雰囲気ある道路沿いだったが、今日は市内を走る幹線道路沿いの商業地、裏に入ると住宅街と言った場所もちろん、どちらも始めて歩く場所であった。秋めいてきて、気温も下がり日中でも28度くらいだったが風が吹けば涼しく、止めば汗が滲み出ると言った感じ知らない町だから、いつでも万葉線を意識して歩いた、それでもわからなくなるので、たまにスマホのMapを見て歩いたが、充電が切れてしまい万事休すだったが、ちょうど駅が見えて、しかもピッタリ電車がやって来た。帰りは終点の越の海まで乗った、最寄りの海王丸駅より一つ乗り越しだが...新湊を

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(210) 甲越 川中島血戦 37

    北条氏康は今川義元を頼りに、武田晴信の上州進出を思いとどまるようにという願いの使者として、山門伊予守、一色隋巴を駿府に送ったそして頭を低くしてうやうやしく願いの儀を伝えると、義元は快く受けて使者を小田原に帰した。天文十九年九月重九(ちょうく)(ちょうきゅう=陰暦の九月九日=無病息災、邪気払いの良き日)に嘉儀の使者として四宮右近を正使に、庵原弥兵衛尉を副使にして甲州に送ったそして北条氏康の願いを伝えると、武田の老臣たちはいかなる返答をすべきか大いに迷った原加賀守、諸角豊後守は大いに悔やみ、「昨年、上州へ攻め込んだ時に松井田なり安中なりの一城でも攻め落として足場を作っておけば我らも同様に北條に拒むことがっ出来たものを、それが出来なかったために北條などに難癖をつけられてしまった返す返すも、憎きは小笠原、木曽なり...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(210)甲越川中島血戦37

  • バブル期の北陸温泉郷事情

    先日、温泉旅行の備忘録をアップしたけれど、あれは記憶を呼び戻しながら書いたものだった、まあボケ防止の対策の一つだと思っていただければありがたいそれと同時に、当時のことが次々と思い出されてきた。令和になって、私も同級生旅行、友達小グループとの旅行以外ではこうした大規模な温泉旅館へは行かなくなった。同級生旅行も去年から中止になった、70歳を過ぎて自分がガンなどの病気になって、あるいは配偶者が病気になったり、亡くなったりして不参加になる者が増えて来たからだまた事務局長兼会計長を毎年やってくれたY子の突然の死、あれでみんな意気消沈したことも原因だ。以下、軽薄な文になりますので、呆れたらスルーしていただいて結構ですバブルの時代、昭和50年代はたしかに華やかで、よく働き、よく稼ぎ、よく遊んだ、我々より5年、10年早い...バブル期の北陸温泉郷事情

  • 味気なかったドジャースの今日の試合

    正念場のドジャース、パドレス戦、他の地区では次々と地区優勝が決まっているが、ナ・リーグ東地区は1位大谷、山本のドジャース、2位ダルビッシュ、松井のパドレスが残り6試合で3ゲーム差の接戦それが今日から直接対決の3連戦となった、白熱のゲームが予想されたが、あまりにも味気ない試合となった大谷もいきなりの二塁打を打って、今日も複数安打&ホームランを期待したが、そこまでだった大谷は打たない日があると「不調」「どうした」となるが、そうそう毎日ホームランや複数安打を打てるわけではないそれよりも、またしても先発投手が打ち込まれる展開、前回は期待の山本も早い回から打ち込まれKO!、今日もナックが4回4失点で4対1でドジャースは初戦を負けて2ゲーム差となった打線も気が無いのかと言うほど打てなくて、たまのチャンスにも打てないし...味気なかったドジャースの今日の試合

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(209) 甲越 川中島血戦 36

    ここに相州小田原の城主、北條左京大夫平氏康という大将有りその先祖を尋ねれば桓武天皇より七代の後胤、肥前守平惟将五代の孫、北條四郎時政の末流、相模次郎時行という者、暦応元年の春、後醍醐帝の七の宮を供奉し奉り、結城入道道忠と奥州下向の時、伊勢国安濃津の浦にて難風に遭い、ついに伊勢国に蟄居するその妾が男子を産み、伊勢で出生の男子なれば伊勢小次郎時長と名乗らせ、その五代の孫に、伊勢新九郎長氏という豪傑あり。その時、駿州の今川修理大夫氏親の遊客となり手柄を立てて、伊豆国韮山の城を守るこれより先、寛正二年、足利将軍義政公の令弟政知、伊豆国に下向して堀越殿と申す、在国三十三年、明応二年政知公卒去する伊勢新九郎、襲い討って豆州を押領して北條に住み、後に剃髪して北條早雲入道と号した同九年には相州を討って、小田原の城に住す、...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(209)甲越川中島血戦36

  • 温泉覚書

    10代から温泉を覚えて温泉好きになったとはいえ湯もいいが、昭和の時は温泉で泊まっての夜の宴会が楽しみだったと言う方が正しい、90%は魚屋組合とか、旅館組合などの親睦団体旅行だった私は組合では10年以上旅行部長を担当して旅行者の人たちとも顔見知りになって、個人旅行でも便宜を図ってもらったりと役得もあった(バブル時代のいやらしい奴だったのです)仕事でも、関東甲信越の旅行業者の会の担当を任されて営業をしたこともあるフィリピンへ行ったのも、この会の親睦旅行だった当時は、今は廃業された山代温泉百万石の社長さんが会長をされていた。群馬県や長野県の海なし県に、市の観光協会、市観光課、商工会議所のPRキャラバンで何度も出向いた板前稼業のほかにも、こんなこともしていたのでしたっけっ。湯治だとか、秘境の温泉でのんびりと言うの...温泉覚書

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(208) 甲越 川中島血戦 35

    去る四月十一日、川中島での戦いの最中に怪異な現象が起きて、両軍共に引き上げたことについて、山本勘助晴幸は晴信に「景虎、心憎く思えども、彼の軍備えは聞きしに違わず、なかなか容易な敵ではありませぬこの度、幸いなことに景虎は越中に出陣とのこと、景虎の戦の様をぜひとも間者を放って逐一知りたいと思います」と言えば、馬場民部少輔、内藤修理正、前に進み出て「当世の諸大将、智愚剛臆の評を聞くに、抜群の秀でるあり、聞きしより劣るあり景虎の軍略が名高いとはいえ、当家との対陣の様子を見れば、若大将であるからか、それともわが軍を恐れているからなのか、軍立て危うく見えるのは軍慮が足りないのか、深き謀があるからなのか、某らの量り知るところにあらず大敵も怖れぬ、山本氏がかくまで申されるのなら、定めて深き思慮があるのでしょうされども、こ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(208)甲越川中島血戦35

  • 大相撲新時代 大の里大関になり、名大関貴景勝が引退 炎鵬再始動

    この度の大雨災害で甚大な被害に遭われた能登地方、新潟・山形県境の皆様にお見舞い申し上げます。一刻も早い日常生活への復帰をお祈りいたします。***********************************入門当時から大器と注目していた大の里が、予想にたがわず入門9場所(1年半)という新記録で大関を射止めた(のは間違いない)。この3場所で2度の優勝、優勝した場所の横綱照ノ富士にも勝っているし、通算でも照ノ富士に勝ち越している(霧島、豊昇龍が一度も勝てない照ノ富士に)もう大関で留まる力士ではない、ケガさえしなければ横綱も来年には射止めるだろう幕下10枚目付け出しは、数々のアマチュアタイトルを取った証幕下は15枚目付け出しの伯桜鵬の一場所通過には負けたが、二場所で通過十両通過も二場所の伯桜鵬にまたも遅れて三...大相撲新時代大の里大関になり、名大関貴景勝が引退炎鵬再始動

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(207) 甲越 川中島血戦 34

    甲越の将兵は鬼となって戦場を切って回り、討つ者、討たれる者みな血しぶきをあげて我劣らじと戦えば、馬のいななき、兵の叫ぶ声天にまで届けば、突然、不思議の変起こる。その始まりは、景虎が前日、善光寺山に本陣を構えた時、旗本大熊備前朝秀は本陣より六町ほど離れて陣を構えたが、士卒は今夜の薪を取るために、近辺を走り回り、竹木を伐り、民家を壊し、神領を侵した神官らは驚き、大熊の陣屋に来て「当社明神と申すは、祀る神猿田彦大神にて渡らせ賜い霊験あらたなる御社なり、この神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)天上より降臨したまう時、先駆けまします御神にて、山王にては早尾神と申し、熱田にては源大夫と言い、また道祖神とも申し奉わる船にては船魂、海辺には塩土翁と号し奉わり、軍神を守って幸いを得さし給う冥助も神罰も著しく渡らせたまう霊神の神地...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(207)甲越川中島血戦34

  • 親族と法要のこと

    昨夕は遠い親戚の通夜式に参列した母の父親の、実家の兄の、次男坊Yさんの妻Hさんが亡くなったのだ、81歳だった。この亡くなられたHさんの実家は魚屋さんで、Hさんは長女だったHさんの父親Kさんは魚市場の番頭だったが、父より6歳くらい年上だった、昭和23年に23歳の父が東京上野の車坂の下宿から、この町に流れ着いたときに初めて親しく声をかけてくれて、仕事が無くて途方に暮れていた父に魚の行商の仕事を斡旋してくれた恩人だった。父の人生と私の人生はKさんによって、ほぼ決まったと言って良いだろう。Yさんは私の母の従弟である、先日のブログに書いた病院で会った大腸がんの先輩がこの人である父は、このYさんと恩人の娘であるHさんを引き合わせて仲人をしただから、どちらも縁深いのだ。私から見ると父方と違って、母方は母の兄(伯父さん)...親族と法要のこと

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(206) 甲越 川中島血戦 33

    武田方は孔明の八陣の謀りを仕向けているので、死門を承った日向大和守の軍勢は、しばし長尾勢の先陣を引き受け戦っていたが、次第に切り崩されて敗走した。即ち、敗走する日向勢を追って死門に突入する越後勢を取り込めて殲滅するのが八陣の法であるが、なんと死門に入った越後勢は日向勢を追うことをやめて、前後に勢を入れ替えながら向かったのは飫冨兵部少輔、真田弾正忠、穴山伊豆守の三頭の備えであったこれに越後勢は奇計をもって打ちかかれば、初手の狂いに武田勢は不意を突かれたが、さすがは強者揃う武田勢であれば、一歩たりとも引くことなく、目まぐるしく入れ替わって攻め寄せる越後勢に、必死の戦を挑む武田勢は味方を励まし、両軍の諸士相まみえて猛虎の吠えるがごとく、血煙を空にたなびかせて我劣らじと挑み戦う真田弾正忠は槍を絞って真っ先に突き進...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(206)甲越川中島血戦33

  • 天孫降臨 大谷51-51達成

    大谷が球界の天孫なのか、それとも野球の神様が大谷に乗り移ったのか。20日(日本)の試合は異常であった、最初から最後まで異常な雰囲気で、それはテレビを通じても感じた今朝はちょうど5時に目が覚めて、快適な昨日の目覚めとは違い寝不足感が体をだるくしていた朝だった「そうだ、今日はドジャース戦は5時から中継だった」だが見る気力がない、それくらい不快な朝だった、そこで予約録画にして、またベッドに戻った10時、もう野球は終わっただろう録画を見ようと思い、充電中が済んだスマホを手に階下へ、スマホ画面を見たらラインが入っていたこの時点では、大谷が今日49-49行けるかどうか程度の期待しかなかったラインは友だちからだった、何気に開けてびっくり、ガックリ、何たることニュースも野球に詳しいブログも無視していたのに!「大谷50-5...天孫降臨大谷51-51達成

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(205) 甲越 川中島血戦 32

    天文十九年三月、武田晴信は再び上野国に出陣して松井田城に攻め寄せて松井田越前守と合戦になったこれを知って、信州の小笠原長時は武田晴信が上州にいる間に、かねて奪われた領土を取り返さんと思い、木曽義昌と謀って、小笠原は下諏訪に出張って放火、木曽は鳥居峠まで兵を進めた。これを知った晴信は松井田の戦いをやめて陣払いして、「我らが上諏訪に向かい小笠原を追い崩せば木曽は戦わずして引くであろう」と秋山伯耆、横田十郎兵衛、安間三郎右衛門、市川梅印、同伝五郎に木曽を押さえさせ、小笠原を討たんと勢ぞろいしたところに、越後に潜入していた間者が馳せ帰って申すには「長尾景虎、地蔵峠を越えて佐久郡まで侵入の由」とのこと晴信は「景虎こそ大敵也」と言って、前にある信濃の敵を捨てて、越後勢に向かわんと内藤修理正、馬場民部少輔、日向大和、山...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(205)甲越川中島血戦32

  • 大相撲も12日目終了、優勝争いが面白くなった

    一昨日の夜半から朝までの大雨は1時間当たり50ミリを越えたそうだそれまでの2か月合計で50ミリは降っていないから、久しぶりの大雨に危機感よりも安堵した。この頃は夕食当番の頻度があがったような気がする週に二回は作っているような・・・だけど料理を作るのは好きだから、むしろ出番があって喜んでいる三人分だが、だいたい16時から17時の1時間以内に作り上げる、なぜなら夕食を作る時間帯は大相撲の後半戦の時間とダブるからだ今夜も当番、しばらく刺身類を食べていなかったので、久しぶりに「海鮮丼」スーパーで魚を買い集めて、ふくらぎ、まぐろ、サーモン、タイ、甘えびの5点盛り、一人前の材料費は米別で750円(税込み)で上がったみそ汁はメギスのつみれ汁に、甘えびの頭と卵を入れた大葉と穂紫蘇は今年から我が家で栽培したもの因みに昼は明...大相撲も12日目終了、優勝争いが面白くなった

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(204) 甲越 川中島血戦 31

    さて己の領地である上野国で武田勢に打ち負かされて、安中、和田、松井田ら諸将は穏やかではなかったそこで軍議を開き、今宵武田の陣に夜討ちをかけることとした安中、師岡、上田は間道から武田の陣に焼き討ちをかける、松枝、白倉、長野は逃げる敵を切所(せっしょ=難所の道)に追い詰めて討ち取る和田、松井田、倉ヶ野は正面から攻めかける、とした。おのおの兵糧を準備して、焼き草を集めて準備をしているところに、、安中、倉ヶ野の方に向けて火の光が見えたので、これを怪ぶんだ肥前守は気を集中して、これをじっと見つめた、火の光は次第に数を増して数万の軍勢が押しかかるかのように見えて、あわやと思うところに鉄砲の音、鬨の声が聞こえた安中、倉ヶ野は大いに驚き、「さては晴信め、我らの出陣を知り、手薄になった本城に間道より攻め寄せたのではあるまい...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(204)甲越川中島血戦31

  • 気分快適

    今朝、ついに天が裂けたとても爽やかで、ストレスがない朝が訪れた久しぶりに体も頭も軽い、室温はかわらず28度、湿度も70%あったが涼しさを感じているこんなノーストレスの状態は、何日ぶりだろうか夕べは少し遅い23時に寝た、それから一度も目を覚まさず6時に起きた7時間連続で寝たのは夏以降何度も無い、やはり6時間、しかも夜中に目が覚めるのは健康ではないようだ今日のような状態が最高だと自覚した。徐々に秋の気配を感じてきた、それと同時に動きたい衝動に駆られるこの頃は病気を意識しすぎて消極的になっている自分を感じていた本当は健康なのかもしれない、心だけが気後れして臆病になったのかもしれない都会の空気を吸うのも良いかもしれない、コロナ以後、地方都市の繁華街に行ったのは富山市と金沢市だけで大都会には一度も足を踏み入れていな...気分快適

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(203) 甲越 川中島血戦 30

    同年八月、武田晴信は、長尾景虎が引き上げて越中国に攻め入った間に、上杉民部少輔憲政の領地を掠め取ろうとして、相模国境の神奈川まで攻め寄せて、近郷を放火して引き上げたそれに激怒した上野国安中の城主、安中越前守、同左京進、和田の城主、和田左衛門尉、同兵部丞、箕輪の城主、長野信濃守、倉賀野の城主、倉ヶ野六郎、同淡路守、師岡城主、師岡山城守、松井田城主、松井田越前守、松江、白倉、上田の九将は直ちに兵を興して三千余人、武田勢を引き留めて、是を討たんと三尾寺まで追いかけた。武田晴信は、これを知って「我らを食い止めて戦おうとは、なんとも優しき者の振る舞いである、ただ一息に蹴散らしてやろうぞだが、碓氷峠の切所を越えたなら敵地であるから、深く攻め入ってはならぬ」と諸将に申し伝えたそして諸々の備えは動かさず、内藤修理正、馬場...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(203)甲越川中島血戦30

  • 小さな出来事が の一日

    3日前に、実に久しく一日中の雨が降った、その後3日ほどは急激に秋めいて涼しくなったフーテンの寅ネコが4か月ぶりにやって来たのが、暑さ真っ盛りの8月末だったが、それ以来、毎日早朝からやってくるようになり、ちょうど二週間居たが、15日には再び旅に出て帰ってこなくなった、それが雨の日からであった涼しくなったのを待って、旅に出たのだ、今度来るのは何か月後になるのかまったく不思議な猫なのだ。一昨日は久しぶりに日中30分ほど散歩をして4000歩ほど歩いた北風が涼しく吹いて、汗をあまりかくことも無かった、これで錆びていた体が少しほぐれた。昨日も用事があって、昼過ぎに役所まで歩いて行ったが、昨日は蒸し暑くてすぐに汗ばんだ役所へ行ったのは、理解できない手紙が届いたからで説明を伺いに行った障碍者に対する受給証の話だから、あり...小さな出来事がの一日

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(202) 甲越 川中島血戦 29

    かくして、長尾平三景虎は信州より軍を返して、同年六月越中を討つべしと館四郎兵衛、斉藤下野、北条安芸、杉原常陸介、長尾遠江、甘粕備後、山吉孫治郎、鮎川摂津、元井日向、石川備後、鬼小島弥太郎など諸大将を率いて越中国に打ち入った。遊佐備中守が籠る城に攻め寄せて、無二無三に打ち立てれば、城中から矢を射ること雨の如く、鉄砲はつるべに打ち放ち、必死の防戦をすれども越後の勇兵は少しも怖れず、我先に逆茂木を引き破り、塀下に取りついてエイエイとよじ登る鬼小島弥太郎は一番乗りを心掛けて、塀をよじ登ったところを鉄砲玉が股に当たったけれども、少しも騒がず、槍の柄を四、五か所縄で結び、足掛かりとして塀に立てかけて馳せ上り、先に取りついた足軽の肩に手をかけて「よく立ち応えよ」と言うと、槍を脇に抱えて片手を塀にかけて「エイ」と叫んで一...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(202)甲越川中島血戦29

  • 75歳まじかの現実

    夕べ22時半に寝て、今朝も体内時計で4時半ピッタリに目が開いた、夜中も一度も起きることがなく、グッスリだったベッドの中で、あれこれ思いを巡らせて5時に起きあがる。最近では、暦も日付以外は気にすることが少なくなった、特に国民の休日はほとんど何の日かわからないし、知る気も無いだが昨日は、新聞で「敬老の日」だと知った、来週も月曜日が赤い日だが何だかわからない。高齢者の定義を65歳から75歳に引き上げようと言う動きがあると書いてあったこうなったからと言って、高齢者が若返るわけでもないが、今の時代たしかに65歳が高齢者は現実的ではない自分の65歳を思い返しても現役バリバリだった、何の制限もなく自由に関東甲信越を飛び回っていたし、いろいろなことを楽しんでいたその65歳以上の比率が世界一で、3600万人日本人の3割を越...75歳まじかの現実

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(201) 甲越 川中島血戦 28

    両軍は互いに斥候を出して敵陣の様子を伺ったが、いずれも智勇絶倫の名将であれば少しの隙も無く、軽々しく動くことならず、五月朔日より五日間、矢の一筋も打ちあうことなく備えを固めて睨み合うばかりであった。六日の朝、景虎は鬼小島弥太郎を使者として武田晴信の陣中に遣わした弥太郎が景虎の言を申すには「某は当国に兵を出すのは、信濃国を従えんとする欲心からではなく、村上義清に頼まれ武の一道を守る義戦の為である願わくば、村上に彼の地を返して本領に還して和親あるならば、某の喜びであるもし、この義に同心しないのであれば、景虎はやむを得ず、貴殿の堅陣に馳せ入り。有無の勝敗を一挙にするほかなし我、この頃、信州に出張し、度々貴殿と対陣するが、未だ一戦に及んだことがない、願わくば他国の諸将に向かって武威を振るうように、某に対しても是非...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(201)甲越川中島血戦28

  • 会津と阿賀野川と阿賀町

    阿賀野川(あがのがわ)は福島・栃木県境の南会津から発して阿賀川となり、福島県を南北に縦断して新潟県に入る新潟県境からは南東から北西へと流れを変えて阿賀野川となり、広い新潟平野を通って新潟市の東端から日本海に流れ込む。新潟県には日本一の長さを誇る信濃川も流れている信濃川は長野県の北アルプスのあちらこちらの谷間から発して、犀川でそれらは集まり、長野市の川中島で千曲川に合流する千曲川は長野県の最南部、埼玉県の秩父との県境から流れ出す千曲川は飯山を通り新潟県津南町に入り、そこで信濃川となる深い渓谷を悠々と流れてやがて小千谷(おじや)市あたりで越後平野に出て、長岡市を通り、新潟市の中心部から日本海にそそぐ。信濃川は269km、阿賀野川は210kmの長さがあり、いずれも日本を代表する大河だ阿賀野川の河口は松浜橋あたり...会津と阿賀野川と阿賀町

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(200) 甲越 川中島血戦 27

    飫富兵部少輔が申すには「敵は数を頼んで強勢に攻め寄せるが、それゆえただただ前に攻めるばかりの様子であるそれゆえに、備えは油断が見える、このときを逃さず切り崩すか、首を敵に授けるか死生いずれかの合戦をすべし」飫冨は配下の将士十数将に八百余人の兵を預けて、三段に構え、小姓に命じて焼き飯を用意させて、自らそれを食し「汝らも食せよ」と勧めたが、誰一人取って食う者はいなかったそんな中から、森住勝左衛門、川尻但馬、波多野求馬のみ「ご相伴仕る」と、それを食してから「しからば快く戦わん」と門を八文字に開かせて、龍の波が起こるように真一文字に、黒備えの越後勢の中にまっしぐらに攻め込んだ森住等は四角八面に戦えば越後勢は、この猛勢に打ち崩されて、さっと引いた代わって、安田上総介、柴田入道、萬願寺源蔵らが入れ替わって飫冨勢を打ち...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(200)甲越川中島血戦27

  • 食い意地が張るとろくなことがない

    ここ三日間は珍しく体調不良に陥っている何といっても、この暑さがいけないので、畑に設置した温度計は日中は連日35度以上でさらに湿度も高いと来ているから、病闘病中の身にはこたえる。とてもじゃないが外に出る気にもならず、まして散歩や畑仕事は論外結局、家の中でテレビを見たり、ブログを書いたり、チェックしたり、あとは寝ているだけと言うお粗末。体調不良の原因は多分食事からだろう手術が終わって三か月半たって、少し油断したか、なんでも食べてよい気になって週一ラーメン、肉類も週二、豆類も増えて来たし、控えるべき海藻やキノコも食べ始めた御飯も普通の状態で食べているし、一番悪かったのは先日サムゲタンを初めて作ってみたのだが、もちろん正式なものではなく、チキンスティックの肉づきの良いものと、もち米が主材料でやってみたもちろんニン...食い意地が張るとろくなことがない

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(199) 甲越 川中島血戦 26

    晴信は直ちに動いた「勘介の軍略を悪しきように言うのは、ひとえに軍事に暗き故である」と言って長坂左衛門尉、石黒豊前守、五味新右衛門に命じて、三か条の書付を示して南部下野守を改易とした。その一は、山本勘助が小身の身で城取、陣取りを語るなど信用ならぬと申す事それは下野が武に疎いからである、周の文王が尊敬した太公望は大身の身であったか?その二は、山本が兵法家と言うのに手傷を負うのは武術に未熟だからだと申したことそれは下野が真の武道を知らぬから言う言葉である、兵法家が手傷を負わぬと言うことは無い、手傷を負っても相手を討ち果たすのが兵法なり此度は勘助は咄嗟に石井藤三郎に棒をもって立ち向かい、これを組み倒したたとえ、勘助がこの時、討たれたとしても誉なるべきを、そしるとは許せぬ所業なりその三は、其の方は数々の手柄を申し立...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(199)甲越川中島血戦26

  • 大相撲天地創造 大和の反撃

    相撲界は20年にわたってモンゴリアンに支配された大和最後の王、若貴兄弟が去ったあと、次々と強力無比のモンゴリアンが日本海を渡って相撲界に上陸した朝青龍、日馬富士、白鵬、鶴竜、不屈の巨人照ノ富士という無敵の五大モンゴリアンが相撲界を支配し、更に怪物逸ノ城、超人玉鷲、千代翔馬、霧島、豊昇龍なども大暴れした。これらの無敵のモンゴリアンに挑む大和の戦士たち、琴奨菊、豪栄道、高安、貴景勝、朝乃山、正代、御嶽海、しかし情け容赦ない騎馬民族の血は、心優しい大和の戦士を凌駕した次々と大和の戦士はモンゴリアンの前に倒れて行ったのであるそんな中に一筋の光、稀勢の里が現れた稀勢の里は高安と共に孤軍奮闘、モンゴリアンの軍団に攻め入って一矢を報いたが、力尽きて短い栄光は閉じて、再びモンゴリアンが支配する相撲界に戻った。もはや相撲界...大相撲天地創造大和の反撃

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(198) 甲越 川中島血戦 25

    石井藤三郎は以後、南部をつけ狙うが、流石の南部は隙が無く、むなしく日々が過ぎていった。そんなおり、今年四月、武田晴信は信州に発向した南部下野守の手勢組下には、駒林佐渡、石井藤三郎、倉部、草間、渡邊、今福ら七十騎、諏訪に到着した。翌日のこと、長坂左衛門尉の馬が突然暴れ出して、綱を切って逃げ出した歩卒がこれを追うが、馬はいよいよ驚いて八方を逃げ回るたまたま、ここへ藤三郎が通りかかって、ようやく疲れて大人しくなった馬を取り押さえて陣中に戻ったが、受け取りに来た長坂に渡さず、南部が見とがめて、返すように言ったが、それでも返さない南部は命令に従わぬ藤三郎に腹を立てた、藤三郎を陣所に呼びつけて散々に罵れば、藤三郎は春路が言っていた言葉を思い出して(やはり春路が言ったことは間違いない、我に無理難題を押し付けて、腹を切ら...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(198)甲越川中島血戦25

  • 江戸っ子? エドマン2日で4ホーマー ドジャース打撃戦制す!

    どうにも最近のドジャースの先発陣はパッとしない早い回から点を取られる、昨日は山本が好投してして1点で抑えたけれども、今日はまたミラーが1回にフォアボール2つ出して2点を取られてしまった2アウトまで取ってもそこから連打されて点を取られるパターンが最近は多い。打撃陣も少し落ち込んでいるので取り返すのがなかなか大変だカブスにはこのカード2連敗して今日負ければスイープを食らうカブスはワイルドカード争いで少し苦戦しているので本気でかかってきているドジャースには地区優勝確実ということで少し油断があるのではないだろうか、大谷は好調なのか不振なのかよくわからないが、普通の選手の感覚で考えてはいけない怪物君だ昨日は全然だめで、少し当たりが止まってしまった今日は47号是非とも打ってもらいたいなどと言っていたらいきなり、先頭打...江戸っ子?エドマン2日で4ホーマードジャース打撃戦制す!

  • 旅行プラン

    地元の小グループに頼まれて旅行プランを作っている、去年も作ってあげたら評判が良かった。とはいえ、相当な時間と労力を要する、三つの候補地を上げて、それぞれの見学どころ、入場料、駐車場、宿も候補を三つほど上げて選別するそのほか、コーススケジュール、到着時間、区間距離と時間、高速料金、ルート、名物なども探す。そして資料をデーターに上げてプリント、総合料金も計算する。もちろん趣味でやっているので、びた一文もらうわけでないし、コピー代、用紙代も自分持ちだが、喜んでもらえばそれが嬉しい。小学生の時から地理が好きで、小学校高学年では地理部に入っていた商売屋の子に生まれなければ、旅行業も一つの選択肢だったくらい旅行計画を立てるのが好きだだから全然違う仕事をやって来たが、お客様に料理を提供する料理人、観光旅館でもやっていた...旅行プラン

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(197) 甲越 川中島血戦 24

    さて、此度の三方面同時の信濃侵攻は成功して、信濃の三将はみな持ち城に引きこもった。天文十八年四月、武田晴信は「この上は、儂が自ら発向して、松本筋の諸城を攻め落とし、小笠原長時の深志城をせめるべし、木曽筋へは南部下野守、馬場民部少輔、真田弾正忠、甘利藤蔵、内藤修理正、力を合わせて木曽左頭守義昌の御岳の城を攻めよ」と命じた。将たちは各々準備に取り掛かったが、にわかに南部下野守の出陣が取りやめられて追放の処分となったその趣旨を尋ねると、南部下野は武田の一類にして、諸士の尊敬重く、武辺は甘利備前、板垣駿河、小山田備中、飫富兵部少輔に次ぐ覚えの人であったしかし、その性質は己を誇り、人の功を妬み、人の善は聞き流し、悪を聞けば心地よしの人なり。去年五月に信州に於いて保科が持つ沼大隅守の砦を攻め落とし、沼を討ちその妻と娘...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(197)甲越川中島血戦24

  • 大相撲秋場所

    今日は我が家の畑に設置した温度計は、昼過ぎに37度を記録したとても外仕事なんかできない。まだ4日目が終わったばかりで、今の成績が千秋楽まで繁栄するわけではないが、見つけた傾向だけ記しておこう。現在4連勝は大関琴櫻、関脇大の里、関脇霧島、前頭正代の上位4人だけ、これまでの場所とは違って、番付通りの成績である上位に力のある力士が集まり始めたと言うことであろう新進気鋭の新小結平戸海も3勝1敗だし、三役が安定しているそんな中で大関豊昇龍と小結大栄翔、前頭筆頭隆の勝、二枚目の熱海富士、王鵬が1勝3敗苦戦している前半戦で小結、幕内上位が三役を破るから、先場所まで荒れる場所が続いたが、最初に書いた通り、下にいた強い力士が三役に入って安定した。このまま、大の里、琴桜には横綱になってもらいたい貴景勝は大関再挑戦場所だったが...大相撲秋場所

  • 時間の合間に

    抗がん剤点滴のあと、三日間は頭もボ~として、目も時々霞んだりするそんなに深刻ではないけどね、今日も好調とは言えない状況なので、「甲越軍記」は一日休みますね。新聞を読んでいると、少し世間が賑やかになりだした気がするまずは自民党総裁選&立憲民主党代表選がつぎの選挙に向けて動き出したそれよりもアメリカではトランプの共和党、ハリスの民主党が五分五分の勢力で大統領選を争っている。日本にとってはアメリカの大統領選は、安全保障、軍事、貿易経済に大きく影響する共和党と民主党、トランプとハリスでは対日政策は違ったものになるだろうトランプは一度やっているから前例がある、あの時は安倍総理がかなりプライドをもって毅然とトランプと友好的にやっていたのは、小泉元総理の姿を見て来たからではないだろうかポチ外交であることは変わりないが、...時間の合間に

  • 暑い中を抗がん剤治療

    今日は朝6時半には外の温度計は26度くらいで涼しかった、それでいつものルーティンをやってから、畑に水を撒いた。種をまいてから、まだ3日くらいなのに一斉に発芽した、それも日陰が多いところが早い、日中ずっと陽があたっているところより温度が低いのだろう。8時半には病院へ行って抗がん剤治療だ三回目なのだが、三週間前には白血球、好中球が正常の最低ラインを20%も割っていたので抗がん剤治療は中止された。待合の廊下に座っていたら、ベレー帽をかぶった小柄なおばあさんがいた前回の時は、少し年上の高齢者だと思ったのが同級生女子だったことは書いてが、今回は完全なおばあさんだった。「あんたは何ガンかね」と聞くから「大腸がんのS字結腸ガン」と答えたら「切ったんかね」とまた聞いた「切りましたよ」それとなく話の中でどうやら、おばあさん...暑い中を抗がん剤治療

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(196) 甲越 川中島血戦 23

    小幡孫治郎、齢は十六歳馬を走らせ丸山から弓長十丈(約23m)ばかりで馬を降り、槍をとって大音声にて「小幡織部正虎盛が一子、小幡孫治郎なり、丸山殿の勇猛はかねてより耳に聞こえるところである、潔く勝負を決し、敵味方の人に見物させん」と、遮二無二突いてかかった丸山はせせら笑って「くちばしの黄色い小僧がさかしき振る舞いなり」と言いながら、槍をしごいて孫治郎の槍先を軽く反らした勇猛の丸山、壮士の小幡、徒歩立ちの勝負であれば飛び上がり、潜り込んで上段下段と突き合わす。小幡の家来、遠藤弥市に歩卒五人は、孫治郎に力合わせんと懸かれば、丸山の家来、保原源左衛門に歩卒五人は道を遮り、遠藤に渡り合う丸山、小幡は丘の上にて芝を踏み、火花散らして戦えど、丸山の猛勢はややもすれば孫治郎を圧倒して、はやる孫治郎を圧倒する。孫治郎は突き...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(196)甲越川中島血戦23

  • 手相 ラッキーM線 かな?

    退屈だったので、急に自分の手相を見てみようと思った生命線くらいしか知らないので、ネットで調べたら、幸運な手相というのがいくつか紹介されていた一つ一つ照らし合わせたら、「ラッキーM」らしき線があるのに気づいた右手にも左手にもある、特に左手はくっきりしているネットによれば片手だけだと1000人に1人、両手は3、4000人に1人くらいではないかとかどんな意味かと言えば、強運の持ち主で、幸運を呼び寄せる手相、目標をもって努力すれば大きな幸運を得ることができる手相だとか両手だと生涯を通じて幸運を招く手相だそうだ、但し幸運を欲する意思が無ければ普通の運でしかないそうだ。ラッキーMでも、運命線が手首から中指付け根まで伸びているものが、最上級だと言う、私のを見れば左は、中指付け根から伸びて手の下の方で生命線と交わっている...手相ラッキーM線かな?

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(195) 甲越 川中島血戦 22

    曲淵庄左衛門が野木備前守を見事に討ち取ると、武田勢は「したりやしたりや」と大歓声を上げて、勇を振るって松本勢に襲い掛かった松本勢は是により、大江、山住、遠山、諏訪部、鈴木、小野、深須など三十二人が討ち死にした。武田勢の市川梅印は間道より松本勢の左に回り、在家二十余軒に火をかけて鬨を上げて攻め立てれば、松本勢は後ろをとられてはたまらぬと、崩れて三十余町も引き下がって陣を敷き、小笠原の深志城に援兵を請う使者を走らせた。これを追って敵前にて陣営を張った武田勢は軍議を開いた小幡織部正が申すには「我らは初戦を勝利したが、ここは敵地である一方の松本勢は敗れたと言えども、地理に明るく、敵情を伺うに既に深志の小笠原に援兵を求めたことは明白であるここは直ちに攻め寄せて、援兵が来る前に一揉みに揉みつぶすのが上策である」と言え...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(195)甲越川中島血戦22

  • ムーミンの戦争と平和と愛

    原作者トーベ・ヤンソン(1914-2001)の、ムーミンの本を買った「ムーミン」と言えば、お子様向けの童話か小学生向けのアニメだと思っていたが、テレビ番組「アナザーストーリーズ」で見て、大人へのメッセージであることを知った。「ムーミン」のベースがヤンソンの母国「フィンランド」とレーニンのソビエトとの戦争であったことも知った。全部で9巻あって、1945年の第一巻「小さなトロールと大きな洪水」から1970年発行の第九巻まで25年間かけて書いている。第二巻(1946年)の彗星衝突の話は、日本では敗戦の翌年昭和21年であり、長崎、広島の原爆投下を、彗星の地球衝突で表しているとのことしかも長崎に原爆が落とされた日はヤンソンの誕生日でもあった1巻、2巻は戦争を非難しているのは明らかで、事実ヒットラーやスターリンの風刺...ムーミンの戦争と平和と愛

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(194) 甲越 川中島血戦 21

    坂道での上下の合戦は二か所に及び、山や谷に鳴り響き、樹木は震えて動き、今にも崩れ落ちるかと思うほどである上の道では、板垣、小幡、横田、市川の甲州勢と、小笠原勢の野木、丸山兄弟の勢が互いに一歩も引かず挑み合うその中から野木備前守の働きは鬼人の如く、これに当たる者は全て命を絶たれる武田勢は野木備前ただ一人に切り立てられて足並み乱れたそこに曲淵庄左衛門が兵卒を押し分けてあらわれて野木に向かい「敵ながら天晴なる豪勇の強者、御大将の名を承らん」と言えば、野木はにっこりと笑い「某は野木備前守にて候、貴殿の名を承らん」と問えば曲淵は馬を進めて、「某は板垣弥治郎の組頭、曲淵庄左衛門と申す者なり、いざ一手仕らん」と槍をしごいて突きかかる備前守も槍をりゅうりゅうとしごいて、これに対する近づいては槍を突き合わせ、飛び違えて突か...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(194)甲越川中島血戦21

  • 令和の時代に米騒動とは

    富山県魚津市の海岸道路を走っていると目に付くのは「蜃気楼道路」の看板5月の連休ごろ、”ぼわ~”とした晴れた日に蜃気楼は発生する私は蜃気楼は2回しか見たことがないが、高速道路か新幹線の高架橋のようなのが、海上に出てきて、それは少しずつ伸びていった富山市の工場の景色が水蒸気や大気のスクリーンに写ってできるらしいこれは余談同じ道路に「魚津米騒動の発生地」みたいな看板が立っている前に、この件は書いたことがあるから、詳し事は書かないが、大正7年に起こった事件で、米不足で毎日米の値段が上がるのに、米商人の蔵には米があり、それを北海道で売れば魚津で売るよりはるかに大儲けできるため、商人は船で北海道に転売するそれを知った、魚津の漁師のおっかちゃんらを中心に米の積み出しを阻止した事件だ。私はスーパーに米が無いと聞いて驚いた...令和の時代に米騒動とは

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(193) 甲越 川中島血戦 20

    武田晴信は信濃で一気に勝負をつけようと小笠原、木曽、伊奈の三方面へ同時に攻めかける陣立てを決めた。松本の小笠原には、板垣弥冶郎、日向大和、原加賀守、小幡織部正、その子小幡孫冶郎など七頭の軍団を充て伊奈郡には、浅利式部、馬場民部少輔、山本勘助、安間三郎右衛門の四頭で大将は山本勘助木曽へは、甘利藤蔵、内藤修理、原美濃守、曽根七郎兵衛尉の四頭、大将は原美濃守総大将武田晴信は諏訪に本陣を立てて、三方からの報告を待つ。甘利、内藤は木曽に向けて発向して、鳥居峠から進んで、在家を放火して習井峠を越すところに、木曽方の兵、八百騎が現れた木曽方は中腹より矢を射かけて来たので、武田勢も鉄砲で応戦する上から鉄砲を撃ちかける武田勢が有利となり、木曽勢色めき立つところに、武田勢はどっと攻め下りる甘利、内藤の勇者、米倉丹後、畠野加賀...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(193)甲越川中島血戦20

  • 相変わらずの真夏日と健康の事

    今日の日差しの強さは真夏の浜辺のようだ、いったい九月というのに、どうしたことだろうか手元の気象情報を見れば、今は30度というが33度はありそうな暑さだ、じりじりと焼けてくるような暑さだ。今年は特別な年で、生まれて初めて病身となった記念すべき年その割には元気に動き回ったり、畑をかまったりしているから自分自身病身とはあまり感じないのだ。食欲は手術前よりも手術後の方が増して、退院時61㎏まで減った体重も65㎏まで回復した、これは健康時の体重と同じしかも腹囲が8cmくらい減って同じ体重だから、密度が増したということか?抗がん剤治療は白血球減少で1クール21日遅れてしまった、そして10日に再挑戦となるが、その前にまた血液検査の結果、それと前回やったMRIの結果を担当医師から聞くことになるその結果次第で点滴をやるか、...相変わらずの真夏日と健康の事

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(192) 甲越 川中島血戦 19

    景虎の越中侵攻を聞いた越中の諸将は、この頃は能登国の守護、畠山修理大夫義則に属し、去る天文十一年、長尾為景が越中にて討死したことについて、いずれ景虎が弔い合戦に越中を訪れることを予測していた。「景虎は、いかに武勇に達したと言えども、まだ乳臭い若造ではないか、何ほどのことがあろうか」と口々に言い「我が国に来れば、一同にこれを取り込めて四方から攻め立て、越後の者ども一人残らず討ち取ってやろう」と神保安芸守、同左京進、椎名肥前守、同甚左衛門尉、土肥大膳亮、唐人兵庫、松岡長門守、江波五郎、遊佐、土屋等を始め、越中国中の大将らが一同に組んで盟約を結び、各々が居城に立てこもり、要害を賢固に構えて備え、長尾勢遅しと待っていた。越後の先将は、直江大和守實綱、千坂対馬守憲清、大崎筑前守高清、大川駿河守、鮎川摂津守、すでに越...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(192)甲越川中島血戦19

  • 大地震を考える

    気温は夜になれば30度を切って気分的に涼しくなったのだが、蒸し暑さは相変わらずで、21時近い今も窓を開けて風が吹いていても、体は汗ばんでいく日中など30度を遥かに越えて、今日も新湊で過ごしたが日陰に居ないと、とてもじゃないが体がもたない。今日の北日本放送(富山市)は能登地震の特集番組を午前中ずっとやっていた北陸地方のラジオ局の共同番組だった富山県では氷見市や高岡市が能登半島の付け根にあって、震度5強の揺れでかなりの被害を被ったそのために家が壊れて、ある地域では30軒くらい家をあきらめて移住していった言う、商店も後継者がいないところに地震災害で、廃業の後押しになったという、町が寂れていくのが悔しいというそれでも石川県の穴水町を見てきたら、「われわれの町の被害の比ではない、能登の災害は、あまりにも大きすぎる」...大地震を考える

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(191) 甲越 川中島血戦 18

    景虎の越中侵攻を聞いた越中の諸将は、この頃は能登国の守護、畠山修理大夫義則に属し、去る天文十一年、長尾為景が越中にて討死したことについて、いずれ景虎が弔い合戦に越中を訪れることを予測していた。「景虎は、いかに武勇に達したと言えども、まだ乳臭い若造ではないか、何ほどのことがあろうか」と口々に言い「我が国に来れば、一同にこれを取り込めて四方から攻め立て、越後の者ども一人残らず討ち取ってやろう」と神保安芸守、同左京進、椎名肥前守、同甚左衛門尉、土肥大膳亮、唐人兵庫、松岡長門守、江波五郎、遊佐、土屋等を始め、越中国中の大将らが一同に組んで盟約を結び、各々が居城に立てこもり、要害を賢固に構えて備え、長尾勢遅しと待っていた。越後の先将は、直江大和守實綱、千坂対馬守憲清、大崎筑前守高清、大川駿河守、鮎川摂津守、すでに越...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(191)甲越川中島血戦18

  • 夏とも言えず、秋とも言えず

    台風10号が消滅してから気候が変わった一気に秋が来たようで、夜には一斉に虫の声が聞こえてくる、それも何種類かのオーケストラ我が家は南北は我が家の庭と隣家の庭がつながって、遮るものがなく、西は一面の草むら(廃田)なので虫にとっては良いねぐらになっているだが安心はしていられない、スズメやカラスなども草むらにもぐりこんで、虫探しをするからだ。夜はこのように秋めいて、それでもまだ晩夏と初秋がせめぎ合っているが、夜中から早朝にかけては、もはや寒い当然ながらエアコンも扇風機もいらず、うす掛けをかけて寝るしかし日中は相変わらず30度超えだから蒸し暑い不快さは継続しているこんな風に、日中と深夜ではまったく季節が違うので、体がついていくのがたいへんだ。今日もまた病院で、歯科に行って来たなんせ抗がん剤治療との兼ね合いがあるか...夏とも言えず、秋とも言えず

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(190) 甲越 川中島血戦 17

    武田晴信は敵の調略をくじき、勢いのままに小笠原、木曽、伊奈を一挙に攻め滅ぼす機会であったが、三か所の手傷を負い、ここに越後より長尾景虎が攻め寄せれば心もとなしと、早々に甲州へ引き戻った。そして手傷の養生の為、島の温泉に入浴して十余日の後に全快すると、八月八日には再び、信州川中島に出陣して、村上の残党らの領地を攻め立てて放火したさらに敵地の稲を刈り取らせて、味方の城、砦へと運んだ。そして越後の動静を探らせたところ、景虎が信州に出陣する気配がまったく見られないので、甲州に戻り、此度の塩尻峠の合戦の論功行賞をおこなった。特に晴信の危地を救った、小山田平冶左衛門の働きは格別と、感状に太刀一振りを添えて与えたこの小山田は、小山田備中守の一族で、父を小山田平ニという豪勇にして信虎の代には度々戦功をあげて覚えめでたくあ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(190)甲越川中島血戦17

  • 今日の出来事

    今日は1か月半ぶりに病院の皮膚科に行って来た、3週間目でようやく担当医に会えたが、僅か30秒で退出「きれいに治っているね」と一目見てすぐに言って「薬出しておくから念のため、しばらく続けて、無くなったらまた来てください」なんとも呆気なくて唖然としたが、薬は前回は3つだったのが7つに増えていたこれが無くなるには3か月くらいかかりそう、「それまで来ないでね」ってか?明日は歯科の三回目、明後日はドライブ、ちょっと退屈から解放されそうだ。昨日は散歩したが、今日はまた暑さが少しぶり返して体感で3度高いのでちょっと出る気がしない、今も陽がさしているので西日が暑い。早朝からドジャースの試合を見ていたので、何となく眠い気もするがそれにしてもドジャースの強さに圧倒されながら、朝から良い気分大谷もヒット2本に四球が2、それに盗...今日の出来事

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(189) 甲越 川中島血戦 16

    伊那の侍大将、深沢平六左衛門尉は、黒革に黒糸縅の鎧を身に着け、鹿毛の馬に乗り、雑兵などには目もくれず、ただただ大将首を求めて乱戦の戦場を往来していた。このとき武田勢の旗本の多数が前線に出でて戦っていたので、武田晴信本陣には僅か3、40騎の旗本しかいなかった晴信は紫縅の鎧の上に、錦の陣羽織を着て、法性の冑を小姓に持たせて床几に腰を下ろして采配を握り、戦の成り行きを睨んでいた。遠くで、これを見た深沢は「これぞ天の助け、大将を討たん事、この時を失うべからず」と叫び、疾風の如く馬を走らせて陣幕に至った槍を引きしごくと、晴信めがけて突きかかる晴信はすかさず采配で、この一撃をはねのけると槍は空を突いた無念なりと深沢は槍を構えなおして、なおも第二撃、三撃を繰り出す見事槍先は、晴信の右股に二度突き刺ささったが、晴信は少し...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(189)甲越川中島血戦16

  • スロースターター

    朝5時と言えども薄暗く、いかにも「夏は終わった」感どうにも今年は散歩のタイミングがつかめない友だちのつーくんは、毎朝5時と言えば散歩をしている、そして畑作業も朝飯前にする私はといえば、その時間に起きているから、同じように散歩をすれば良さそうなものだが、そこがスロースターターの所以。今日は17時から散歩をした、少し雨模様なので傘を持って出たが、一度だけさしたきりだった急に涼しくなって、歩いていても気持ちが良い、汗ばんだのは家に着くころになってやっと、歩数も久しぶりに5000歩まで伸ばした。高校生くらいまでは貧血症で、朝なかなか起きるのが苦手だった今は、そんな気がないほど早起きになった、けれども起きたと同時に散歩したり、畑をやるほど元気でもないのだ体も頭もハードな行動についていけない、だから私の早朝はブログ書...スロースターター

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(188) 甲越 川中島血戦 15

    武田勢は塩尻峠につくやいなや、敵の陣立てが今だ定まらぬを見て一気に攻め立てて、鉄砲を放てば、信州勢は驚き「なぜ武田勢がここにいるのだ」と慌てふためくしかし信州勢もさるもので「我らの大将が到着前に、晴信の首を得れば大手柄なり」と逆襲に移った信州勢一万、武田方六千と倍の勢力に勇気づけられて「敵は小勢ぞ、一気に揉みつぶせ」と鬨を上げて攻め寄せた。これを向えて武田晴信の下知は激しさを増し、信州勢も四角八面に攻め寄せれば、たちまち血しぶき上がる戦場と化した武田勢は切れども切れども押し寄せてくる信州勢に手を焼く小幡、秋山は手先を回して突き立てれば、小笠原の勇士、小笠原掃部大夫、江間治部少輔、同刑部少輔、太田、種村が矛先を閃かして立ち向かう真田、小宮山勢は伊奈衆に向かって攻め寄せる、これを受けて保科弾正、溝口、小田切、...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(188)甲越川中島血戦15

  • 夏の終わり

    昨夜は医者の奥さんに頂いた「明日葉茶」を飲んで寝たやはり昨夜も蒸し暑くてエアコンで除湿した後、エアコンは止めて扇風機3時間タイマーで膝までうす掛けして寝た朝4時に寒くて目が覚めた、室温25度だった、うす掛けを全身にかけて寝なおした、夕べは一度も夜中に目が覚めずぐっすり寝ることが出来た6時起床、窓の外は晴れ、早朝の寒さも消えて今日も暑かった。気まぐれな台風10号も消え去った、本当は我が地方を通過した後に消えれば、一気に涼しくなると思ったが、その前に消えて暑さが戻って来たのだった。今日から九月、新暦でも夏はもう終わりだ(の筈だが、一週間予報はまだ日中30度が並んでいる)#日本の童謡♫さだまさし~🍁里の秋#日本のうた夏の終わり

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(187) 甲越 川中島血戦 14

    越後の長尾景虎が、信州村上義清を匿い、さらに村上の旧領を武田より取り返すと、信濃に二度にわたって出陣したことは、武田に次第に追い詰められた小笠原、木曽にとっては朗報であった。これに勇気づけられた小笠原、木曽は滅んだ諏訪家の遺臣や村上の与力、残党、伊奈に隠れ忍ぶ遺臣らを誘い、越後の長尾景虎に使者を送り「われら兵を起こし一万余騎にて、諏訪にある武田家郡代板垣を攻めることと相成った、ついては義の心ある智勇の御大将、長尾景虎公にも信濃に御出馬いただき、武田勢を挟み撃ちにしていただきたい」と願い出た。これを聞いた、高島城の板垣弥二郎信里は驚き、急ぎ甲府へ馬を走らせ「小笠原、木曽、一万有余にて高島城に既に向かい、追って越後勢も進発とのこと、敵は主戦、我らは客戦なれば一度に多方面の敵と交えること不可なり、ついては至急援...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(187)甲越川中島血戦14

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