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五島高資
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2021/03/15

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  • ほとゝぎす今は俳諧師なき世かな

    ほととぎすいまははいかいしなきよかな 延宝末年〜貞享初年の作(推定)。ホトトギスは古来より和歌に詠まれてきたが、今、この声を聞いてもそれを句にすべき真の俳諧師はもはやいない世であると嘆いているのである。 延宝年間(1673年〜1681年)には、貞門俳諧を抑えて談林俳諧が隆盛していたことが背景にあるのかもしれない。両者とも和歌の伝統的な措辞に拠りながらも、前者ではあくまでも形式主義に拘泥し、後者では、「軽口」「無心所着」といった言語遊戯的な趣向に傾斜していくことになる。 当初、貞門派であった芭蕉も、「上に宗因なくんば,我々が俳諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」(『去来抄』…

  • 蓮池や折らで其まゝ玉まつり

    はすいけやおらでそのままたままつり 貞享5年(1688)7月、尾張・鳴海の下里知足邸での作。折しも下里家では精霊会が行われており、その庭の池には蓮の葉が繁っていたのであろう。それは折り取られることもなく、先祖へそのまま手向けられているのである。そうした自然をそのまま愛する主の優しい心根に感銘したのであろう。蓮は泥土より生じて清らかな茎を伸ばして葉を広げて花を咲かせる。それは開悟や仏の智慧や慈悲を象徴するものであり、まさに精霊会に相応しい。中七から下五へ連なるa音も快い響きを添えている。 季語 : 玉まつり(秋) 出典 : 『千鳥掛』(『風の前』) Lotus pond —leaving the…

  • はつ穐や海も青田の一みどり

    はつあきやうみもあをたのひとみどり 貞享5年(1688)初秋の作。前書に「鳴海眺望」とある。鳴海は東海道五十三次四〇番目の宿場であったが、現在では埋め立てにより、歌枕の鳴海潟は消失し、海を見ることはできない。掲句は、当時、そこにあった児玉重辰亭で詠まれた発句であり、おそらくその席上から見える青田の先に海が見渡せたのであろう。遠く青田と海の接するあたりでは両者の色合いも近く、あたかも、海が青田の一部として同化しているように捉えたのが「一みどり」という措辞に表れている。 ちなみに、「みどりの黒髪」「みどり児」などの言葉があるように、本来、「みどり」とは、「緑」や「青」という色彩ではなく「瑞々しさ」…

  • おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉

    おもしろうてやがてかなしきうぶねかな 貞享5年(1688)、岐阜長良川で鵜飼を見ての作。『笈日記』には「稲葉山の木かげに席をまうけ盃をあげて」とあり、芭蕉は闇夜に篝火が灯る鵜舟を河畔から眺めた。初めは、その珍しい漁に興味が湧いて酒も進むが、やがて漁が終わり篝火も消えて舟も去り、もとの暗い静寂に包まれる。古来からの漁法とはいえ、捕らえられる魚はもちろん、「疲れ鵜」という傍題季語があるように鵜にとっても難儀なことであろう。そう考えると、「面白さ」から「悲しさ」へと変わる心境に人生の辛さや儚さも重なってくる。もっとも、芭蕉には謡曲『鵜飼』における仏教的無常観が掲句の下地にあったことは多く指摘されてい…

  • 此あたり目に見ゆるものは皆涼し

    このあたりめにみゆるものはみなすずし 貞享5年(1688)5月、美濃長良川河畔での作。『笈日記』には、この前文として「十八楼ノ記」と題した次のような記載がある。 みのゝ国ながら川に望て水楼あり。あるじを賀嶋氏といふ。いなば山後にたかく、乱山兩に重なりて、ちかゝらず遠からず。(中略)暮がたき夏の日もわするゝ計(ばかり)、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるゝかゞり火の影もやゝちかく、高欄のもとに鵜飼するなど、誠にめざましき見もの也けらし。かの瀟湘の八つのながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひためたり。若此楼に名をいはむとならば、十八楼ともいはまほしや。 つまり、『笈の小文』の旅からの帰…

  • 蛸壺やはかなき夢を夏の月

    たこつぼやはかなきゆめをなつのつき 貞享5年(1688)4月、明石での作。蛸壺は、蛸を捕らえるための素焼の壺で、浮標をつけて海に沈めて、そこに入った蛸を引き揚げる。潮目が変わる際に天敵から身を守るために蛸が穴に隠れ潜む習性を利用したもので、多くは夜に仕掛けて朝に引き上げて蛸を捕らえる。 蛸は明石の名産であり、海岸には蛸壺が多く見られたのであろう。そして、今まさに海底で蛸壺に入った蛸に思いを寄せれば、その一夜かぎりの命はもちろん、芭蕉自らも含めた有情の一生は、下天のうちを比べれば夢幻のようなものであることが今さらながら思い知られる。折しも、暑苦しい浮世にあって一服の涼をもたらす夏の月が、真如の月…

  • 若葉して御めの雫ぬぐはゞや

    わかばしておんめのしづくぬぐはばや 貞享5年(1688)4月、奈良での作。『笈の小文』の前書に「招提寺鑑眞和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して」とある。また「灌仏の日(旧暦4月8日)は奈良にて爰かしこ詣侍る」とあるので、和歌浦から奈良に着いた頃には季節はすでに夏となっていた。 唐招提寺は南都六宗の一つである律宗の総本山で、天平宝字3年(759)、鑑眞和上の私寺として創建された古刹である。鑑眞は、聖武天皇の招聘を受け、度重なる様々な艱難を乗り越えた末に、伝戒師として唐から来朝した高僧である。芭蕉は船中七十余度の難と記しているが、実際に…

  • 行春にわかの浦にて追付たり

    ゆくはるにわかのうらにておいついたり 貞享5年(1688)の作。『笈の小文』旅にて、吉野、高野山と山路を経て、ようやく3月末に和歌浦に着いた際に詠まれたもの。紀伊山地ですでに春を見送ったと思ったが、大海に開けた和歌浦における暮春の佳景に巡り会った喜びが「追付たり」にうまく表現されている。 和歌浦は、古くから景勝の地であり「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして 鶴(たづ)鳴きわたる」(『万葉集』919)と山部赤人が詠んで以来、歌枕の地として広く知れ渡ることとなる。ちなみに、近くに鎮座する玉津島神社は、住吉大社、柿本神社と並んで「和歌三神」を祀る社として崇敬されている。もっと、和歌浦はかつて「…

  • 父母のしきりに恋し雉子の声

    ちちははのしきりにこひしきじのこゑ 貞享5年(1688)春、高野山での作。長くなるが、『枇杷園随筆』に記された掲句の前文を次に示す。 高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして法の燈消る時なく、坊舍地をしめ仏閣甍をならべ、一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、御庿を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たゝずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬂髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、 顧みれば、5年前に母を亡くし、この…

  • しばらくは花の上なる月夜かな

    しばらくははなのうえなるつきよかな 貞享5年(1688)、吉野での作とされている。(『蕉翁句集』)咲き誇る桜の上に、朧に花を照らす春の月が輝いている。そして、やがて月は西に傾いて、この花月の照応による佳景も消え去ることが「しばらく」という措辞から覗われる。儚いから風雅も極まるのであり、このことは生生流転における「さび」の美意識に繋がっている。もっとも、「しばらく」は月の運行や花の時期のみならず、月へと羽化登仙するかのような芭蕉の心境にもかかっているのではないだろうか。このことは、まさに芭蕉が喝破した「発句の事は行きて帰る心の味ひなり」ということと深く関わっていると思われる。 余談であるが、以前…

  • ほろほろと山吹ちるか滝の音

    ほろほろとやまぶきちるかたきのをと 貞享5年(1688)の作。『笈の小文』では「西河(にしかう)」と前書がある。そこは、音無川が吉野川に合流するあたりの地域であり、「滝」は、川の激流や早瀬も指すことから、そのいずれかの河畔で詠まれたものと思われる。『笈の小文』では、掲句の直後に、「蜻蛉が滝」という前書らしき記述があるが、発句は見当たらず、「布留の滝は布留の宮(石上神宮)より二十五丁の奥也 布引の滝 箕面の滝、勝尾寺へ越る道に有」という文章が続いている。従って、『笈の小文』は未定稿である可能性も指摘されている。 『日本古典文学大系-芭蕉句集』では、吉野川の激流となって岩の間を滾り落ちる瀬音につれ…

  • 雲雀より空にやすらふ峠哉

    ひばりよりそらにやすらふたうげかな 貞享5年(1688)、『笈の小文』の旅での作。同年2月、伊賀上野で父の三十三回忌法要を済ませた芭蕉は、3月19日、伊勢で再会した杜国を伴い、吉野を経て、父母の菩提を弔うために高野山へ向かった。「臍峠 多武峰ヨリ龍門ヘ越道也」の前書があり、談山神社のある多武峰(桜井市)から龍門(吉野郡吉野町)へ抜ける険峻な山道にある細峠(臍峠)で詠まれたと考えられ、同所に掲句が刻まれた芭蕉の句碑がある。ちなみに当時からこの峠は細峠と呼ばれていたことから、「臍峠」とはその別称か、あるいは芭蕉の誤記もしくは改作した表記かもしれない。亡き母の菩提がある高野山と芭蕉の生地である伊賀上…

  • さまざまの事おもひ出す桜かな

    さまざまのことおもひだすさくらかな 貞享5年(1688)3月の作。『笈日記』には「同じ年の春にや侍らむ、故主君蟬吟公の庭前にて」と前文があり、伊賀上野へ帰郷した際に藤堂良忠(蟬吟)の嫡男・良長(探丸)に招かれて、その別邸(下屋敷)で詠まれた句である。ちなみに、頴原退藏は次のように述べている。「芭蕉は脱藩の罪を犯した身だから、正式に藤堂家に出入りすることは許されなかった。『笈の小文』の本文に、芭蕉がこの句について何も語っていないのも、やはり憚った為であると思われる」(『芭蕉俳句新講』)と。しかし、芭蕉は、良忠の死後、その弟に仕えることを潔しとせず、脱藩したのだから、すでに二十余年を経て、五千石の…

  • 何の木の花とはしらず匂哉

    なんのきのはなとはしらずにほひかな 貞享5年(1688)2月の作。『笈の小文』には「伊勢山田」、『真蹟集覧』には「外宮に詣ける時」とそれぞれ前書があり、伊勢神宮参拝の時に詠まれたものと思われる。もちろん、西行の「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(『西行法師家集』)が踏まえられている。 神域から溢れる清気を花の香に重ねながら、そこに分別や名前(言葉)を超えた万物の化育を司る神の恩沢を感じ取っている。西行の歌がやや観念的なのに対して、芭蕉の句では、「花」の香に「物の微」を求めて「情の誠」に通じるものがあり、そこに神の気吹も伝わってくる。まさに「造化随順」による詩境がそこに立…

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芭蕉百句 100 haikus of Basho
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