千年の影引く影や姫小松 高山れおな さわらびや何を握りて永き日を 同 玉苗のふるへたふとし水は空 同 地球より溢れ荒川雪の夜を 同 昭和百年源氏千年初鏡 同 我が狐火も霜夜は遊べ狐火と 同 息白き別れは星の匂ひかな 同 時の日の湖光りつつ眠る 同 挽歌降るべし雲雀ほど高きより 同
芭蕉百句の評釈と英訳(漸次更新中) 100 haikus of Basho selected and translated into English by Takatoshi Goto
千年の影引く影や姫小松 高山れおな さわらびや何を握りて永き日を 同 玉苗のふるへたふとし水は空 同 地球より溢れ荒川雪の夜を 同 昭和百年源氏千年初鏡 同 我が狐火も霜夜は遊べ狐火と 同 息白き別れは星の匂ひかな 同 時の日の湖光りつつ眠る 同 挽歌降るべし雲雀ほど高きより 同
鎌倉の人の涼しき胡坐かな 林誠司 母の日や遠くまあるく土星の輪 同 江の島へ向かつて水を打ちにけり 同 人は座し水はいそげり春の山 同 わたつみへ雲かぶせたり富士の秋 同
吃音のあとの静寂に小鳥来る 福本啓介 月朧抱きしめられてゐたりけり 同 昼月と共に過ごせり保健室 同 小春日の昨日に我を置いて来し 同 さくら咲き記憶喪失終はりけり 同
また回り出す年越の換気扇 高野ムツオ 無辺へと千手を垂らし菊枯れる 同 不立文字風に渦巻く落葉こそ 同 天の狼咆哮雪が降り出せり 同 冬の蝿昨日の朝日今日も浴び 同 終末に備え固まる黒海鼠 渡辺誠一郎 数え日や終わらぬ旅の旅衣 同 産声を忘れ宣戦布告かな 同
障子貼りゐていつの間に囲まれし 今瀬剛一 冬の星糸で繋いで贈らむか 同 瀧凍り始める寒さかと思ふ 同 ショール巻いて母が見えなくなりしかな 同 やがて会ふはずの枯野の二人なり 同 瀧深く隠して山の眠るなり 今瀬一博 鮟鱇の腹の白さよ雪催 同 目瞑れば吾も大柚冬至風呂
ペンギンの胸の広さや春隣 大木あまり 霜の花忘るるために歩きけり 同 鎌倉の水羊羹と無常観 同 マスクして逢ふや双子座流星群 同 立ち泳ぎするかに揚羽飛ぶことよ 同 入院も旅と思へば冬うらら 同
くらい水すきとほらせる花火かな 大屋達治 大年の街の音聞く橋のうへ 同 大山に脚をかけたる竈馬かな 同 海に出てしばらく浮かぶ春の川 同 泳ぎより立つとき腕を翼とす 同 日蓮が妙と叫びし初日かな 同 捨てし田を豊葦原へ還しけり 同
薔薇咲くや抜歯のあとのあをぞらを 鈴木総史 とんばうや蝦夷にあをぞらあり余る 同 背広にも晩年のあり漱石忌 同 薬飲むみづのまばゆし風信子 同 実石榴や触れればくづれさうな家 同
山上の雲の厚さや田水張る 藺草慶子 水底のかくも明るく冴返る 同 水渡り来し一蝶や冬隣 同 片雲の遠く光りて夏きざす 同 光陰のなだれ落ちたるさくらかな 同
火柱の見えしと思ふ白雨かな 石田郷子 暗がりに人詰めてをる里祭 同 寄せ合へる椅子のまちまち天の川 同 冬林檎剝けば夕べの月の色 同 万の枝けぶらふバレンタインの日 同
にんげんの回転木馬さくら散る 増田まさみ 何処へも戻らぬひとよ冬花火 同 手花火の手の入れ代わるニルバーナ 同 空蝉にまだ陽の残る浅きゆめ 同 二つ折り厳禁とあり天の川 同
街灯は待針街がずれぬよう 月野ぽぽな 真水汲むように短夜のFM 同 松茸に太古の空の湿りあり 同 まだ人のかたちで桜見ています 同 太陽は遠くて近し芒原 同 手袋に旅立ちの指満たしけり 同
ころがしておけ冬瓜とこのオレと 坪内稔典 長崎に住もう枇杷咲く五、六日 同 リンゴにもオレにも秋の影ひとつ 同 ねじ花が最寄りの駅という日和 同 夕べにはすっかり晴れて栗ご飯 同
友情にイルカが跳ねる時を待つ 十文字潤 夕焼けが捨てた光に救われて 栗原知也 誰が夢を空へ紡ぎて五重塔 星野煌太
地平の目まだ半びらき真葛原 佐怒賀正美 乗るによき父の背いつか天の川 同 地球まだ知られぬ星か磯焚火 同 亀鳴くや天の沖には磁気嵐 同 くねりだす街の石みち鳥渡る 同 青嵐や骨のみで立つ電波塔 同
田中信行・句集『プリムローズの丘』(日経BPコンサルティング)
黒海は波高くして春遠し 田中信行 空白を控へめに埋め冬すみれ 同 夕立に打たれ心の解毒かな 同
覚悟なき死のおびただし核の冬 大井恒行覚めているほかは眠りぬ鈴の風 同ひかりなき光をあつめ枯れる草 同赤い椿 大地の母音として咲けり 同行方わからぬ光放てり手の林檎 同
春満月戦車渋滞していたり 中内亮玄 微笑みの凄まじきこと落椿 同 曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 同
この星の春を盡すや又震ふ 高橋睦郞 踝に雲さやりつぐ川禊 同 變若水や有爲の奥山㝱深く 同 春惜む綾取りの橋壊しては 同 三界は火宅風宅三の酉 同 山や水有情無情や皆目覺む 同 高橋睦郞先生より句集『花や鳥』(ふらんす堂)を頂きました。先生には昔より要所要所で大変お世話になっております。ご上木をお祝い致しますとともに併せて心よりお礼申し上げます。「芭蕉一代の表現行爲を継承しようと志すなら、その爲事を尊敬しつつ、各人自分一代の爲事を志さなければなるまい」と帯文にあり、深く首肯致します。
菜種梅雨パレードにひつような橋 田島健一 山桜なにも言わずについてくる 同 人をさがしてと奉じてゐる遅日 鴇田智哉 菜の花の群れが空気を膨らます 同 つま先に春の闇から届く波 福田若之 ゆく春に折り目があれば分けやすい 同 ほんたうはつばきのなかにあることば 宮﨑莉々香 星ぼしや見えなくなつた手に手を振る 同 こゑが地に届いて枝垂桜かな 宮本佳世乃 ともに夜を生き桜蘂降りつづく 同
何度開けてもないものはない冷蔵庫 高橋亜紀彦 仙人掌の永き夢から醒めて赤 同 曼珠沙華汝もサイコパスかも知れず 同 白梅や詩人は生くるために書く 同 長き夜や使ひみちなき砂時計 同 出目金の泪に誰も気づかざる 同
月に住む時代それでも白子干 仲寒蟬 入口のとなりに出口牡丹園 同 息止めて水着売場を抜けにけり 同 バイナップルすら爆弾に見えてくる 同 出目金の赤は黒より不幸せ 同
雪もよい湯気のにおいのからだかな 越智友亮 気を抜くと雨粒こぼす春の空 同 噴水の水やわらかく水に消ゆ 同 駆け足や宇宙は秋の空の上 同 金木犀両手で握手して別る 同 数学をやめ台風を待っている 同 河童忌の鉄のにおいの掌よ 同 稲咲いて朝をくださる光かな 同 革ジャンの鈍きひかりやうまごやし 同 白玉や今が過ぎては今が来て 同 相槌うって君は話さずオリオン座 同 川幅に橋おさまらず枯葎 同
わだつみの道の遠のく秋入日 加藤哲也 顔見世を出て風となる一と日かな 同 宵闇に紛れ込みたる夏館 同 新涼やロダンの肘のあたりより 同 大人にもこどもにも降る木の実かな 同 蠟梅や知覚過敏を憂ひつつ 同 菜の花や月光菩薩立ち上がり 同
ぶらんこの裏まで見せて跳びにけり 蜂谷一人 心太突いて夜空を滴らす 同 龍骨のかたちに日本南吹く 同 林檎むくまあるくほどけゆく時間 同 もう土へかへる桜でありしもの 同 蒼き灯の底を聖夜の魚となる 同 蛤の舌夕暮に触れてをり 同 馬跳びの最後冬夕焼と遭ふ 同 ひぐらしや波の広がる心字池 同 空蟬を残して声となりにけり 同 昼点いて白熱灯や虚子忌なる 同
噛みてなほ七面鳥の皮の照り 佐藤文香 ぬかるみのあかるみを踏み友なりけり 同 にはとりのはぐれて一羽春の中 同 夏霧を鳥おりてきて馬となる 同 終の住処鉄扉に薔薇を這はせあり 同 こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに 同 音楽のあをく膨らむ熱帯夜 同
事切れてまだ虫籠のなかにいる 福田若之 手に木の葉てんごくにも俳句はあるよ 宮﨑凜々香 木犀の届いてゐたる自動ドア 宮本佳代乃 心地よく浮かぶ月かたむき沈む 田島健一 星あかり豆腐の壁にゆきあたる 鴇田智哉
髙野公一先生よりご著書を頂きました。お手紙では、拙著『芭蕉百句』への温かいご批評を賜り、重ねて心よりお礼申し上げます。先生は「芭蕉の天地」で、ドナルド・キーン賞優秀賞を受賞された碩学にして恐縮至極に存じます。いずれにしましても、現代にあって、芭蕉の俳諧精神を探求する者同士として心強い思いがしました。深謝まで。
冬の蝶まばゆき方へ飛びゆけり 橋本石火 鳶の輪の崩れて小春日和かな 同 父の空母の空あるなづな粥 同
卒業の丘からのぞむガスタンク 小林かんな 来た路を金魚とともに引き返す 同 にんじんの太くて書架にトルストイ 同 大人になってからの友達梅三分 仲田陽子 ピーマンの中へ本音を詰めておく 同 白鳥の遺伝子をもち自由なる 同 灰色の象の背に乗る朧月 中田美子 フラスコに残る触媒昼の月 同 黄落のあちらこちらに庭師立つ 同 少しづつ空気を吐いて百合の花 岡田由季 数へ日の母はさつさと助手席に 同 初旅の関東平野のびてゆく 同
芭蕉百句 100 haikus of Basho 完結 !!
何とか芭蕉百句の解説と英訳を終えました。これも陰に陽に支えて下さった皆様のお蔭と心よりお礼申し上げます。不備も多々あると思いますので、お気づきの点はご遠慮なくお申し付け下さい。推敲を重ねた上で、きちんとした形で出版できたらと考えています。深謝まで。 2021年5月5日 五島高資
たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる 元禄7年(1694)10月8日の作。『笈日記』には前書として「病中吟」とある。たしかに芭蕉が最後に詠んだものであり、辞世の句としてよく知られている。 天野桃隣の『陸奥鵆』には、同年5月、江戸を発つ際、芭蕉が「此度は西国にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞ん」と願い、西国行脚の意向を持っていたことが記されている。そうすると、同年秋に大坂に芭蕉が訪れたのは、同地の門人同士の諍いを仲裁する目的もあったが、西国行脚の途次でもあったことになる。 芭蕉は大坂に着いた頃に悪寒と頭痛を催し、いったん恢復するが、9月29日より下痢が続き容態が…
あきふかきとなりはなにをするひとぞ 元禄7年(1694)9月28日の作。大坂を訪れていた芭蕉は、翌29日に催される芝柏亭の句会に招かれていたため、前日に詠んだ掲句を予め送っていた。しかし、当日、芭蕉は体調不良のために欠席している。おそらく前日から何らかの症候があったのだろう。そして、そのまま病の床に就いた芭蕉は再び起き上がることはなかった。 深まり行く秋のなかで、深閑とした隣家に思いを馳せるが、その消息は分からない。別に詮索しているわけではなく、隣人も自分と同じように隠棲しているのだろうかと、むしろ、共感の思いを深めているのである。やはり、俳諧の道は孤独とは言っても、発句は、他者への挨拶であり…
このみちやゆくひとなしにあきのくれ 元禄7年(1694)9月の作か。同年9月23日付の「意專・土芳宛」書簡には、「秋暮」と前書きして「この道を行く人なしに秋の暮」とあり、これでは単なる蕭条とした秋の夕景の描写に留まる嫌いがある。 しかし、『笈日記』によれば、9月26日、大坂にて上五が「此の道や」、前書も「所思」と改められている。そして、芭蕉は、各務支考に対して、掲句とともに「人声や此の道かへる秋の暮」を提示し、その優劣を問うたところ、支考が「此の道や行く人なしに独歩したる所誰か其後に随ひ候はん」と応えて、芭蕉もこれを諒としたという。つまり、芭蕉が晩年に志向した「軽み」の至境に門人らがついてくる…
はすのかをめにかよはすやめんのはな 元禄7年(1694)6月の作。『うき世の北』には「丹野が舞台にあそびて」と前書がある。丹野とは、大津の能太夫・本間主馬の俳号である。掲句は、丹野邸に招かれて能を鑑賞した際に詠まれたものである。 能面は、その目からは外がよく見えないので鼻の孔から見るという。したがって、面をつけて舞っていると、とどこからとなく蓮の花の香りがしてくるので、その鼻の孔から蓮を覗った。そのことを「目に通わす」と表現したのである。ちなみに「目から鼻に抜ける」とは、抜け目がなく賢いことを意味するが、掲句の場合は逆であり、悠然とした趣が漂っている。また、「鼻」で蓮の花を見るというところに俳…
ひやひやとかべをふまへてひるねかな 元禄7年(1694)の作。『芭蕉翁行状記』には「粟津の庵に立ちよりしばらくやすらひ給ひ、残暑の心を」と詞書きがある。『笈日記』では、芭蕉が各務支考に「この句はどう解釈するかね」と尋ねると「残暑の句と思います。きっと蚊帳の釣手などに手を絡ませながら、物思いに耽っている人の様子でしょう」と応えている。すると芭蕉は「この謎は支考に解かれたな」と笑ったと記されている。 おそらく、寝そべったまま足を壁に凭せかけた芭蕉が足裏に冷ややかさを感じたのである。壁はおそらく土壁だったのであろう。元禄時代までは「昼寝」は夏の季題とはされていなかったので、その触感はまさに秋の訪れを…
むぎのほをたよりにつかむわかれかな 元禄7年(1694)5月の作。前書に「五月十一日武府ヲ出て故郷に趣ク。川崎迄人々送りけるに」とある。それに先立つ5月初旬、芭蕉の送別会が催された。その際に芭蕉は「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其所に至りて意味あり」と述べて、門人らに「軽み」を説いている。この旅にて芭蕉が客死したことを思えば、結果的に蕉風俳諧の至境を遺言としたとも言える。 5月11日、江戸を発つにあたり、見送りの門人らに掲句を残して別れを惜しんだ。離別の悲しみに加えて、体力的にも衰えもあり、麦の穂を掴んでやっと身体を支えているといった哀れさが伝わってくる。また、麦…
むめがかにのつとひのでるやまじかな 元禄7年(1694)正月頃の作。早暁、山道を登っていたところ、ちょうど昇ってくる朝日に遭遇したのである。折しも、側には梅が花を咲かせて良い香りを漂わせている。あたかもその芳香に誘われたかのように現れた日輪の場景に「のつと」という口語的なオノマトペによって悠然とした臨場感が巧みに醸し出されている。 ちなみに、以前、気功を極めた老女が舞を舞ったところ、清らかな梅の香りが辺りに広がったということを聞いたことがある。それは天地との交流を介して発せられた氣による現象だったのかもしれない。それ思うと、掲句に詠まれたものは、単なる情景ではなく、芭蕉の詩魂と天地の交流による…
ほうらいにきかばやいせのはつだより 元禄7年(1694)正月、江戸・芭蕉庵での作。蓬莱とは、新年の飾り物で、三方の上に紙、歯朶 、昆布、 楪はを敷き、その上に米、橙 、熨斗鮑、蓬莱、橘 、 勝栗、 野老、穂俵、海老など、山海の幸が盛られた。中国の伝説における「蓬莱」は、東方海上にある、不老不死の三神山(蓬莱、方丈、瀛州)の一つに由来し、新年を縁起物とされた。ちなみに、のちに瀛州が日本と見なされたり、あるいは、日本国内にも仙境とおぼしき各地に蓬莱伝説が残っている。伊勢もまた山海の幸に恵まれた土地柄であり、天照大御神が鎮座する神域として不朽であり、まさに「蓬莱」と言っても良いかもしれない。 掲句は…
いるつきのあとはつくえのよすみかな 元禄6年(1693)の作。同年8月に72歳で他界した榎本東順を追悼する句。東順は、其角の父で膳所藩本多侯の侍医であった。『東順伝』によれば、東順は60歳頃、医業を辞めて隠居し文筆に専念した。『東順伝』には「市店を山居にかへて、樂む處筆をはなさず。机をさらぬ事十とせあまり。其筆のすさみ。車にこぼるゝが如し。湖上に生れて、東野に終りをとる。是かならず大隠朝市の人なるべし。」とある。 東順亡き後に残されたその机の四隅まで見入れば、窓に沈む月の円さと相俟って、「水は方円の器に随う」を思い出させる。そう考えると、その人品は、業にあって良医、筆を持って能書であったのでは…
あさがほやひるはぢやうおろすもんのかき 元禄6年(1693)の作。芭蕉は7月の盆以降、およそ1ヵ月の間、芭蕉庵の門を閉じて世俗との交わりを断った。この頃の心境については「閉関の説」に詳しい。要はそこに書かれた「老若をわすれて閑にならむこそ、老の楽とは云べけれ。」という一文にある。ちょうど、この年、芭蕉は50歳となり、当時では老境の域に入った頃ということになる。孔子によれば「五十にして天命を知る」ということになるが、すでに生涯の大事であった「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉にとって天命は果たされたという思いもあったのであろう。 掲句には、朝顔が凋む昼には門を閉ざして錠を下ろし、庵に籠もって閑寂を好…
しらつゆもこぼさぬはぎのうねりかな 元禄5〜6年(1692〜93)頃の作。『しをり集』には「予間居採荼庵、それが垣根に秋萩をうつし植て、初秋の風ほのかに、露置わたしたる夕べ」と杉山杉風による前書が記されている。 萩は、落葉低木であり、その枝は数条に別れて低く垂れ下がる。風が吹けば容易に撓ってうねる。掲句は、その萩の枝葉に付いている白露を落とすことなく風にゆれている光景をうまく捉えている。 ちなみに「萩」は、本来、中国では蓬の類いを指す字だが、日本では秋に草冠を付けた会意による国字としてハギを指す。『万葉集』でもよく詠まれる植物で、秋の七草の一つとしても知られている。『鳩の水』では「月かげをこぼ…
たかみづにほしもたびねやいはのうへ 元禄6年(1693)年7月7日夜の作。『芭蕉庵小文庫』には、「吊初秋七日雨星」と題した次のような前文が記されている。 元禄六、文月七日の夜、風雲天にみち、白浪銀河の岸をひたして、烏鵲も橋杭をながし、一葉梶をふきをるけしき、二星も屋形をうしなふべし。今宵なほ只に過さむも残りおほしと、一燈かゝげ添る折ふし、遍照・小町が哥を吟ずる人あり。是によつて此二首を探て、雨星の心をなぐさめむとす つまり、七夕の夜は、あいにくの雨天で庵の側を流れる隅田川と小名木川の水嵩も増しており、当然、星も見えないが、あえて芭蕉は杉山杉風らと星祭りを行ったのである。その際、ある寺に泊まるこ…
ほととぎすこゑよこたふやみづのうへ 元禄6年(1693)4月の作。水辺におけるホトトギスの題詠による句。蘇軾『前赤壁賦』の「白露横江、水光接天」という詩句が念頭にあったことや、同じく芭蕉詠の「一声の江に横ふやほとゝぎす」よりも水間沾徳や山口素堂らが掲句を良しとしたことなどが、四月廿九日付「宮崎荊口宛書簡」に記されている。 江に横たわる白露(霧あるいは靄)よりも、ホトトギスの声が横切る方がダイナミックな感興に優れ、また、「江」よりも「水の上」とした方がスケールの大きな場景となることが、掲句に落ち着いた要因であろう。もっとも、中国における「江」には、例えば、長江のように大河の趣があり、私個人として…
にわはきてゆきをわするるははきかな 元禄5年(1691)の作か。『蕉影餘韻』「寒山画讃」(芭蕉真蹟)に、箒を持った寒山の後ろ姿と共に、掲句が添えられている。 掲句には、庭の雪を掃きながらも、雪を忘れている寒山の融通無碍なる閑身自在心が詠まれている。もっとも、実際の雪は掃かれているのだが、その刹那に忘れられているのは「雪」という、記号としての言葉である。それに付随する様々な固定観念を掃き捨てるのが寒山の帚である。そうして初めて、天然造化の雪は物自体へと還元され「物の見えたる光」として、その本性を現す。それは恍惚の瞬間であり、まさに禅機とも言えよう。 季語 : 雪(冬) 出典 : 『篇突』(『蕉影…
ものいへばくちびるさむしあきのかぜ 元禄4年(1691)年頃の作か。芭蕉は、元禄5年(1691)に新築された芭蕉庵に座右の銘として掲句を書き付けている。『芭蕉庵小文庫』では、「物いへば唇寒し穐の風」の前書として「座右之銘/人の短をいふ事なかれ/己が長をとく事なかれ」とある。 言葉を発すれば、秋風が唇にしみて寒いという句意だが、前書を考慮すれば、もちろん、それだけではなく、他人の悪口を言えば心に毒だし、自慢話をすればおこがましいという自戒の念が込められている。いわゆる「口は禍いの門」あるいは「沈黙は金」ということも含まれていよう。いずれにしても、剛毅木訥の仁を重んじる芭蕉らしい句と言える。 ちな…
めいげつやかどにさしくるしほがしら 元禄5年(1692)8月15日の作。江戸深川・芭蕉庵で月見を催した際の句。同年5月から、芭蕉は旧庵の近くに新築された芭蕉庵で過ごし、そこで仲秋の名月を眺めた。旧庵と同じく、新庵も隅田川に小名木川が合流する北の角地にあり江戸湾にも近い。ちょうど仲秋の頃は大潮で海面が高くなっており、川へ面した芭蕉庵の門へも波が打ち寄せるほどであったのだろう。しかも、水面に映る名月の光が帯のように波に揺られながら庵の門口まで迫ってくる。その光の帯は名月と芭蕉庵を結ぶ一本の道のようでもあり、あたかも、波を越えて月からの使者がやって来るような幻想的な光景が想像される。まさに「天人合一…
かまくらをいきていでけむはつがつを 元禄5年(1692)4月の作か。『徒然草』の第119段にも、鎌倉の海で獲れる鰹が賞されている。江戸時代になると、物資の運送も発達して鎌倉あたりの魚介は新鮮なまま江戸へ運ばれた。掲句には、鎌倉で水揚げされた初鰹が活きの良いまま、その日のうちに届けられて、それを味わう江戸っ子の自慢が察せられる。 ただ、私は、それと同時に、鎌倉を脱出して渡宋しようとした右大臣実朝のことが思い浮かばれる。結局、実朝はそれに失敗して、その二年後、鶴岡八幡宮にて公暁に暗殺される。そののち、鎌倉幕府滅亡の際に、新田義貞に攻められて鎌倉で切腹した北条高時ら、あるいは、二階堂ヶ谷に幽閉されて…
うぐひすやもちにふんするえんのさき 元禄5年(1692)正月頃の作か。鴬と言えば、古来、春告鳥とも呼ばれ、めでたく雅なものとして詠まれては来た。ところが、掲句では、その糞が餅に落ちるという卑俗な場景を詠んで、雅俗という二項対立の超克に詩的昇華を求めている。これまで固定観念化されてきた鴬のイメージを打破すること、つまり、鴬という言葉によって隠蔽されてきた「鴬」の本性に迫ることが可能になり、俳諧的な新しい詩性が開かれたと言ってようだろう。当然と言えばそうかもしれないが、それだけ和歌が長らく伝統的な固定観念に囚われて鴬が詠まれてきたということだろう。 鴬も我々人間も同じく糞をする動物に変わりはない。…
ひともみぬかがみのうらのうめ 元禄5年(1692)の作。芭蕉は、前年の10月29日に江戸へ戻り、日本橋橘町の借家で越年しており、元禄5年5月に新築された深川の芭蕉庵に入っている。したがって、掲句は掲句は借家住まいの折に詠まれたものと思われる。 江戸時代の手鏡には白銅境がよく用いられており、鏡面の裏には花鳥などの装飾が鋳付けられている。そこに密かに咲く梅をあまり人が見ないように、隠棲する芭蕉も人とあまり接することのない春を過ごしていることが掲句から覗える。つまり、春爛漫の世間とは裏腹にある鏡の梅と芭蕉が同化している。 ちなみに、鏡に映されるものは、たしかにこの世であるが、それは自分から見れば左右…
ほとゝぎすおおたけやぶをもるつきよ 元禄4年(1691)4月20日の作か。芭蕉は、同年4月18日から5月4日まで京・嵯峨野にある向井去来の別邸である落柿舎に滞在している。今でも嵯峨野と言えば、特に竹林の道が有名であるが、当時はもっと竹林あるいは竹藪が多かったと思われ、落柿舎あたりも例外ではなかったのであろう。 大きな竹藪から月の光が漏れているところに、時鳥の声が聞こえてくるという句意であるが、天に伸びる竹の林を一条の月影が貫いているだけでも幽玄な世界を彷彿させる。さらに、そこに時鳥の甲高い一声が響き渡れば、そのあとの静寂もいっそう深まる。「光と声との交錯が、一種凄味を帯びた幽玄寂境を作り出す」…
ゐのししもともにふかるるのわきかな 元禄3年(1690)8月4日付、『千那宛書簡』に掲句が初見される。ちょうど芭蕉が幻住庵に隠棲していた頃に当たる。幻住庵のある国分山には猪や兎が出ると里人から聞かされていたことが『幻住庵記』に記されているが、芭蕉がそれらを見たかどうかは定かでない。しかし、幻住庵の近くに猪が生息していたことは間違いない。 ちょうど野分の風が吹き荒れると、山中の粗末な庵に一人住まいの芭蕉にとっては心細いことであったろう。それは近くの塒で過ごす猪にとっても尋常なことではない。外の様子が気になって、庵を出た際に、猪と遭遇したのかもしれない。いずれにしても、野分の強風にさらされているも…
きやうにてもきやうなつかしやほととぎす 元禄3年(1690)6月20日付の書簡に掲句の原句が見える。ちょうど4月初旬から7月下旬まで「幻住庵」に隠棲していた時期に当たるから、一時的に京へ出向いた際の句と思われる。 京にいながらにして、時鳥の鳴き声を聞けば、かつての京が懐かしく思い出されるという句意。上五の「京」は、芭蕉が今いる現在の「京」であり、中七の「京」は昔の「京」ということになる。平安時代頃から時鳥は「黄泉の国へ通う鳥」というイメージがあったり、別名「不如帰」は「帰るに如しかず」つまり「帰りたい」という意味があることから、その鳴き声は、帰れない過去への追慕を催させるのかもしれない。 一方…
やがてしぬけしきはみえずせみのこゑ 元禄3年(1690)、加賀の門人・秋之坊が幻住庵を訪ねた際に、芭蕉が彼に与えた句という。蝉は羽化すると間もなく死ぬが、今を盛りに鳴く蝉にはそんな気色など微塵も感じさせないという句意である。 ところで、秋之坊の素性は詳らかではないが、かつて前田藩士だったが、のちに士分を捨てて出家し、貧しい生活を送っていたらしい。その秋之坊が、芭蕉を尋ねて幻住庵に一泊する。もっとも、芭蕉も伊賀上野藩を脱藩し、士分を捨てた経緯もあり、秋之坊とは胸襟を開いて語り合ったであろうことが想像される。 『卯辰集』には「無常迅速」と前書がある。下天のうちを比べれば短い生命だからこそ、日々それ…
まづたのむしひのきもありなつこだち 元禄3年(1690)4月の作か。『おくのほそ道』の旅を終えて、芭蕉は、近江膳所の義仲寺無名庵に滞在していたが、門人の菅沼曲水から勧められて、4月6日から4ヶ月間を山中の小庵で過ごした。この庵は、もともと曲水の伯父である菅沼定知(幻住老人)の別荘であったことから「幻住庵」と呼ばれる。国分山の中腹にあり、巷の喧騒からは離れた閑寂な環境にあったと思われる。掲句はこの小庵に入ったときに詠まれたものである。その際の芭蕉の心境が『幻住庵記』に記されているが、掲句の前文ともなっている最後の件を以下に示す。 倩(つらつら)年月の移(うつり)こし拙き身の科(とが)をおもふに、…
くさのはをおつるよりとぶほたるかな 元禄3年(1690)の作。近江瀬田での作か。句意は明良で、蛍が草の葉から落ちる瞬間に飛び立った光景を詠んだものである。あくまでも客観的な表現に徹しながらも、そこに一抹の愛しみも滲ませている。それには決して平坦ではなかった芭蕉の人生経験が影響していることは間違いない。それらこそがその鋭い観察眼を養ってきたとも言えよう。 おそらく暗がりの中で、芭蕉には、草の葉や蛍そのものというよりも、蛍が発する光の微妙な軌跡のみが心を動かしたのは言うまでもない。和泉式部の「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる」 (『後拾遺和歌集』)に通じるものを感じさせる。も…
ゆくはるをあふみのひととおしみける 元禄3年(1690)、の作。当初『堅田集』では、「行春やあふみの人とおしみける」と記されおり、「志賀辛崎に舟をうかべて、人々春の名残をいひけるに」と前書がある。一方、『猿蓑』では、前書きに「望湖水惜春」とある。いずれにしても、琵琶湖湖畔、あるいは湖上の舟で詠まれたものと思われるが、掲句では、同行の人々と近江の行く春を惜しんだという単純な解釈だけでなく、「や」を「を」に変えたことにより、去りゆく春をあたかも近江に関わる古人と見なして惜しんでいるような芭蕉の心地も覚えられる。 たしかに、大津京で漢詩を詠んだ大友皇子をはじめ、近江荒都を詠んだ柿本人麻呂、近江国粟津…
きのもとにしるもなますもさくらかな 元禄3年(1690)3月2日、伊賀上野での作。掲句は、藤堂藩士・小川風麦亭で巻かれた歌仙の発句であり、その後、近江膳所での歌仙でも用いられている。それだけ芭蕉にとって掲句が重要な意味を持っていたことの証左と言えよう。 句意は、桜の木の下で花見をしていたら、様々な料理に花片が散り敷いて、汁も膾もそれに覆われて、一面、花の衾を着せたようになったということである。これは、西行の「木のもとに旅寝をすればよしの山花のふすまをきする春風」(『山家集』)を換骨奪胎したものという批判もある。しかし、芭蕉はあえてそれを踏まえた上で、当時、何もかもという意味で慣用されていた「汁…
つきさびよあけちがつまのはなしせむ 元禄2年(1689)秋、伊勢山田での作。『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉は、その足で伊勢神社の御遷宮を拝するために伊勢を訪れたが、その際、伊勢神宮の神職で俳人でもある島崎又幻(いうげん)宅に逗留した。もっとも、貞亨5年(1688)2月にも『笈の小文』の旅でも又幻宅に世話になっていることから、気心が知れた間柄だったのであろう。 しかし、今回は又幻が神職間の権力争いに負けて、生活にも困るほどの貧しさの中にあった。それでも、又幻夫婦は手厚く芭蕉をもてなしてくれた。そのことに感謝して芭蕉は掲句を認めた真蹟懐紙を又幻に贈ったが、そこに前書として以下のような「明智が妻」…
はまぐりのふたみにわかれゆくあきぞ 元禄2年(1689)8月6日、美濃・大垣での作。芭蕉は、同年7月14日には敦賀に至り、そこで大垣から出迎えてくれた八十村露通と共に、同月21日に『おくのほそ道』の旅の終着地である大垣に入った。山中温泉で別れて伊勢・長島で養生していた曾良も9月3日には大垣で芭蕉と再会する。命がけで臨んだ長旅も無事に終わり、よく知る大垣の地には門人も多く、芭蕉はゆっくりと旅の疲れを癒やすことができたのであろう。「したしき人々、日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且、悦び、且、いたはる。」という記述からも、『おくのほそ道』の旅における俳諧精神の「蘇り」によって蕉風俳諧の確立…
いしやまのいしよりしろしあきのかぜ 元禄2年(1689)8月5日、加賀・那谷寺(なたでら)での作。当日は、昼時分に芭蕉は北枝と共に山中温泉を発ち、那谷寺へ向かった。曾良はそれを見送ったあと、体調不良のこともあり、親戚のいる伊勢・長島へ向かった。江戸より芭蕉とずっと同行していたが、ここでしばしの別れとなった。芭蕉は「今日よりや書付消さん笠の露」と詠んで、その別れを惜しんでいる。 那谷寺は、養老元年(717)に泰澄神融禅師により開創され、白山を拝し、九頭竜王の本地仏である十一面千手観世音菩薩、白山比咩神が洞窟に祀られている。その洞窟は本殿・大悲閣にあり、背後の岩山と繋がっており、白山信仰の聖地とな…
やまなかやきくはたをらぬゆのにほひ 元禄2年(1689)7月27日の夕刻、芭蕉は山中温泉に着き、8月5日まで和泉屋という湯宿に逗留する。山中温泉の歴史は古く、奈良時代に行基によって開湯説もあるが、平安時代に、白鷺が足の傷を癒やしていた小川を能登の地頭・長谷部信連が見付け、そこを掘ると薬師如来像が現れて温泉が湧き出たのが始まりとも云われる。 和泉屋の主人は、久米之助という、まだ十四歳の少年であった。この際に芭蕉に入門して桃妖の号を貰っている。掲句は、桃妖に授けたもので、真蹟懐紙に次のような前文が認められている。「北海の磯つたひして加州やまなかの湧湯に浴ス。里人の曰、このところは扶桑三の名湯の其一…
むざんやなかぶとのしたのきりぎりす 元禄2年(1689)7月27日、加賀・小松での作。芭蕉は、太田神社(現・多太神社)を参詣し、斎藤実盛の兜と錦の直垂を拝している。前者は源義朝より、後者は平宗盛より下賜されたものである。 実盛は、越前の出身であるが、のちに武蔵の幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とした武将である。大蔵合戦にて義朝に討たれた旧主・源義賢の遺児・駒王丸を預かり、その乳母を娶って信濃にいた中原兼遠のもとに送り届けたが、この駒王丸こそがのちの旭将軍・木曾義仲であった。 平治の乱によって義朝が倒れると、武蔵に落ち延び、その後は平維盛の後見役となって平氏に仕えることとなる。のちに平氏一門に…
つかもうごけわがなくこゑはあきのかぜ 元禄2年(1689)7月22日、加賀・金沢での作。芭蕉は、倶利伽羅が谷の古戦場跡を経て7月15日に金沢城下に入っている。 ちなみに、その谷は倶利伽羅峠の南斜面にあり、寿永2年(1183)、木曾義仲が火牛の計で平家の大軍を打ち負かしたところだが、その義仲も寿永3年(1184年)1月6日に近江の粟津(現・滋賀県大津市)で討ち死にし短い一生を終えている。義仲贔屓だった芭蕉にとっては感慨深い場所であったことだろう。 さて、金沢で芭蕉が待ち望んでいたのは、小杉一生という門人との出会いであった。彼は、茶商を営みながら俳諧を嗜み、貞門、談林の門を経てやがて芭蕉に傾倒する…
あかあかとひはつれなくもあきのかぜ 元禄2年(1689)7月17日、金沢での作。この日、芭蕉は立花北枝の源意庵に招かれて掲句を詠んだという。ここから見えた夕日かもしれないが、おそらく、日本海の夕日が見えた旅路での着想のような気もする。いずれにしても、暦の上では秋ではあるが、それとは構わず、夕日は赫赫と夏の気色を示している。一方、折しも吹き渡る風は秋の爽やかさを肌に感じるという、季節の変わり目の微妙な感覚を捉えた句と言えよう。 一説には、芭蕉が、掲句の「秋の風」を「秋の山」として、北枝に問うたところ、「山といふ字すはり過て、けしきの広からねば」と批判されて、「秋の風」に落ち着いたとされる。たしか…
ひとつやにいうぢょもねたりはぎとつき 元禄2年(1689)7月12日、市振での作。北陸道を西に向かった芭蕉は「親不知・子不知」の難所を越えて、市振の宿で一泊する。掲句における「一家」とは、桔梗屋という旅籠のことである。そこで、一間隔てた部屋から若い女性二人と付き添いらしき年配の男性が話す声が聞こえてくる。どうやら新潟から伊勢参りに向かう遊女と彼女らを見送りに来た男のようである。いずれにしても、遊女と漂泊の俳諧師が同じ屋根の下で夜を過ごすことになった奇遇に芭蕉は詩興をそそられる。前者は、様々な理由で身を売らざるを得なかった薄幸な女性、後者は、世を厭う漂泊の詩人であり、ともに、士農工商という社会構…
ふみづきやむいかもつねのよにはにず 元禄2年(1689)7月6日、越後・直江津での作。『おくのほそ道』では、越後路での吟であることは分かるが、句の背景は不詳である。『雪満呂気』では「直江津にて」と前書きがあり、『曽良随行日記』では、直江津今町(現・上越市内)の条に「発句有」とあり、掲句のことと推測される。古くから日本海沿岸の湊町であった直江津今町は、江戸時代から北前船の寄港地、高田藩の外港として栄えていた。 当日は、今町の宿に一泊するが、その夜、地元の俳人らと掲句を発句として連句を巻いた。6月6日の夜は、7月7日つまり七夕の前夜に当たる。七夕は中国の牽牛・織女の伝説と乞巧奠の行事が重なって伝来…
あらうみやさどによこたふあまのがは 元禄2年(1689)7月4日、越後・出雲崎での作か。芭蕉は午後3時過ぎに出雲崎に到着した。しかし、『おくのほそ道』には、越後路の段に掲句が記されているが、当地のことが一切触れられていない。おそらく、前段に「病おこりて事を記さず」とあることから、体調不良によるものと思われる。そこで、のちに当時の詳細を芭蕉が別に記した『本朝文選』の「銀河の序」を以下に示す。 北陸道に行脚して、越後の国出雲崎といふ所に泊る。彼佐渡が島は、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に横折り伏したり。峰の嶮難谷の隈々まで、さすがに手にとるばかりあざやかに見わたさる。むべ此島は、黄金多く出…
きさかたやあめにせいしがねぶのはな 元禄2年(1689)6月17日、象潟での作。今から約2600年前、鳥海山の噴火による岩なだれは日本海に至り、海を浅くして幾つもの小島(流れ山)ができた。やがてその辺りが、海岸砂丘によって塞がれて、東西20町(約2200m)、南北30町(約3300m)ほどの汽水湖が形成された。その中にある数十の小島には松などが茂り、九十九島・八十八潟と呼ばれる景勝地として古くより和歌に詠まれることになった。江戸時代には「東の松島・西の象潟」と並び称され、歌枕の双璧としてよく知られていた。 『曽良随行日記』によれば、芭蕉が象潟を訪れた16日から17日の朝にかけて雨が降っていたが…
あつきひをうみにいれたりもがみがは 元禄2年(1689)6月14日、酒田での作。前日の13日、出羽三山を発った芭蕉は、鶴ヶ岡城下を経て、そこより再び最上川を舟で下って酒田へ向かった。酒田は、最上川の水運を介して紅花などの物産が集積する港町で、日本海に面しており、特に北前船によって、瀬戸内海を経由して、上方(大坂)、さらには江戸を結ぶ西廻り航路の要所として繁栄していた。さて、芭蕉が酒田に到着した頃はすでに夕刻となっていた。その日は旅籠に一泊し、翌日14日、酒井候の御殿医だった淵庵不玉邸(のちに蕉門に入る)に招かれた際に、掲句が詠まれた。 おそらく、芭蕉は、前日の川下りで酒田の港あたりで、ちょうど…
くものみねいくつくづれてつきのやま 元禄2年(1689)6月6日、芭蕉は、朝、羽黒山を発って、約32キロの行程で月山に登った。途中にある幾つもの難所を越えて、午後3時過ぎには頂上に到着して月山権現を参詣している。掲句からは、ゆっくりと流れる「雲の峯」がやがて月山にぶつかっては壊れる雄大な景色が目に浮かぶ。そして、気がつけばもう夕月が空に浮かんでいる。その日、芭蕉は角兵衛小屋という山小屋に泊まり、翌朝、湯殿山へ向かうことになる。 「雲の峯」は「入道雲」でもあり、そこにおける自然現象の人格化に鑑みれば、その崩壊は「死」を連想される。しかし、「崩(れ)て月の山」は「崩れて築きの山」の意味が掛けられて…
すずしさやほのみかづきのはぐろさん 元禄2年(1689)6月5日、羽黒権現(現・出羽三山神社)に参詣した際の作。陽暦では7月21日にあたり、江戸では夏の暑さも本格的になり始める頃であるが、奥州では夜の涼しさが心地よい時季であったろう。空に浮かぶ三日月の陰の部分が羽黒山の「黒」とも共鳴し、この聖地で仰ぐ三日月の仄かな影に妙なる心地が掲句から覗える。中七と下五のh子音による頭韻も快い。 ちょうど、この日の月齢は11日にあたり、やがて上弦の月を経て満月へと向かう三日月を芭蕉は眺めていたことになる。出羽三山神社の御由緒によれば、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)…
ありがたやゆきをかをらすみなみだに 元禄2年(1689)6月4日、羽黒山での作。芭蕉は、前日の3日に修験道羽黒派の本山を訪れている。その南谷の別院に逗留し、翌4日に本坊にて別当代会覚阿闍梨に謁し、そこで厚遇を受ける。羽黒山は神仏習合の地で、仏教関連の建物や旧跡は、羽黒山神社のある所より低い谷間に多い。平将門の創建と伝わる国宝・羽黒山五重塔、御本坊跡、南谷別院跡も例外ではなく、周囲には古木が林立しており、初夏でも根雪が残る地勢をなしている。 掲句には、会覚阿闍梨に対する恩義は当然のことながら、素晴らしい環境に恵まれた有り難さが素直に表現されている。また、雪に漂う清気と芳しい青葉の風が醸し出す羽黒…
さみだれをあつめてはやしもがみがは 元禄2年(1689)5月の作。最上川は山形県と福島県の境にあたる吾妻山付近より発して、山形県の中央を北上し、尾花沢市あたりで北西に向かって、酒田市で日本海に至る、日本三大急流の一つである。芭蕉は本合海から古口までの約10キロを舟に乗って下った。特に古口あたりで川幅が狭く急流をなしている。五月雨の時季でもあり、水量も増しており、ダイナミックな舟下りを体験したものと思われる。 山々に降った多くの雨水によって川の水位のみならず速さをも増していたのであろう。もちろん、「早し」とは川の速さを指しているのだが、それと同時に、五月雨の一滴一滴がせせらぎとなり、沢となり、や…
しづかさやいはにしみいるせみのこゑ 元禄2年(1689)5月27日、立石寺での作。前文から掲句が詠まれた場景がよく分かる。「山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ 。」(『おくのほそ道』) 境内は雨呼山の尾根筋にある天狗岩という険しい岩山に続いており、諸堂はその崖の上に…
すずしさをわがやどにしてねまるなり 元禄2年(1689)5月17日、出羽・尾花沢に着き、同月27日まで門人の鈴木清風邸に逗留する。清風は、紅花問屋を営み、江戸との往来もあり、芭蕉の門に入る。掲句の前文には、「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比(ひごろ)とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。」とある。当時も、大商人といえば、強欲で吝嗇家が少なくなかったのであろう。しかし、清風は遠路はるばる訪ねてきた芭蕉を厚くもてなしたのである。もちろん、芭蕉が俳諧の師であることにもよると思うが、ただそれだけでなく、…
のみしらみうまのばりするまくらもと 元禄2年(1689)5月15日、芭蕉は尿前の関を越えて、新庄の堺田に至るが、あいにくの大雨にて山中の宿に二泊する。小さな集落ということもあり、ほぼ民家に近い宿だったのだろう。夜は蚤や虱に悩まされ、枕もとでは、馬が小便する音が聞こえる。そうした状況を自虐も込めて赤裸々に詠んだのが掲句であろう。 当時、大きな宿場以外で逗留する際は、民家を借りることも少なくなかった。鄙びた山中であればなおさらである。しかし、こうした難儀な体験も一句に詠めば、観念化されて諧謔という形でユーモアともなる。これも俳諧の一つの効用である。 ちなみに、江戸時代では、「尿」を「しと」と読むの…
さみだれのふりのこしてやひかりだう 元禄2年(1689)5月13日、平泉中尊寺を参詣しての作。前文を示す。「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、玉の扉風に破れ、金の柱霜雪(さうせつ)に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念(かたみ)とはなれり。」光堂は正式には金色堂と呼ばれ、天治元年(1124年)の建立とされ、内外ともに総金箔で装飾された、まさに光り輝く堂宇である。東北地方で産出する金を背景とした往時の奥州藤原氏の権勢が偲ばれる。ちなみに、その須弥壇内…
なつくさやつはものどもがゆめのあと 元禄2年(1689)5月13日、平泉高館での作。平泉では、高館、衣川、衣ノ関、中尊寺、光堂などを訪れている。まず源九郎判官義経の居館があった高館から巡ったのも、やはり、彼の悲劇的な最期を悼む思いが強かったからと思われる。高館は北上川に面した小さな丘陵であり、藤原秀衡より庇護された義経の居館があったところである。そこからの眺望などが『おくのほそ道』に記され、掲句の前文ともなっているため、そのまま以下に引用する。 三代(藤原清衡、基衡、秀衡)の栄耀一睡の中にして、大門(平泉館の南大門)の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登…
しまじまやちぢにくだけてなつのうみ 元禄2年(1689)5月9日、芭蕉は、朝に塩竃神社に参詣したあと、船に乗って千賀の浦、籬島、都島を巡って、正午頃に松島に到着している。瑞巌寺を参詣したのち、雄島に渡り、八幡社、五大堂を見て、松島の宿に帰っている。そもそも『おくのほそ道』冒頭に「松島の月まづ心にかかりて」と述べており、まさにここは芭蕉が最も憧憬した景勝の地である。しかし、あまりの絶景に圧倒されて、発句を詠むどころではなかったようである。さすがの芭蕉もその景色をあらん限りの言葉で賛美したが、ついに「造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ」と諦めて、言葉を超えた物自体の奥深い神妙さに降参…
かさしまはいづこさつきのぬかりみち 元禄2年(1689)5月4日、名取市愛島での作。芭蕉は、藤中将実方(藤原朝臣左近衛中将実方)の塚を尋ね歩き、村人から「是より遥か右に見ゆる山際の里を、箕輪・笠島と云ひ、道祖神の社 ・形見の薄今にあり」と教えられるも、折からの五月雨で道も悪く、また、疲労も重なり、ついにその塚に辿り着くことなく後ろ髪を引かれる思いでその場を過ぎ去ったのである。 実方は和歌に優れ、中古三十六歌仙の一人に選ばれている。一説には『源氏物語』における光源氏のモデルともされている。 実方は藤原行成との些細な諍いから、一条天皇より勅勘を被り陸奥国へ左遷させられた。 ある時、任国の笠島道祖神…
さなへとるてもとやむかししのぶずり 元禄2年(1689)5月2日、信夫の里(福島市山口文字摺)での作。芭蕉は、しのぶもぢ摺りの石(信夫文知摺石)を尋ねて当地を訪れたが、その石は下半分を土に埋もれて放置されていた。里の子供が言うには「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と。「しのぶもぢ摺」は「摺り衣」を作る際に石の上に布を置き、忍草(シダの一種)の葉や茎を摺りつけて乱れた模様を出した染色技法をいう。その文知摺石がある信夫の里は古来よく知られ歌枕でもあった。 「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに」(『古…
さみだれはたきふりうづむみかさかな 元禄2年(1689)4月29日の作か。芭蕉は、須賀川を発つ日は快晴であり、近くの玉村龍崎にある乙字ヶ滝(古くは石河の滝とも)に立ち寄ったと『曾良随行日記』に記されている。那須連峰に源を発す阿武隈川は龍崎あたりで滝となる。その手前で川筋が大きく湾曲して「乙」の形をなすことから乙字ヶ滝と名付けられたという。滝の落差は数メートルほどだが、幅は280mほどまで広がっており壮観である。芭蕉が訪れた際は、五月雨による増水により、却って水かさが増して滝が埋められてしまったように見えたのであろう。 ちなみに、河畔にある「滝見不動堂」の傍らには、芭蕉の句碑が建っており、「五月…
よのひとのみつけぬはなやのきのくり 元禄2年(1689)4月24日の作。須賀川の相楽等躬の邸内に矢内弥三郎(可伸)という僧が草庵(可伸庵)を結んで寄寓していた。そこに大きな栗の木があり、ちょうど花を咲かせていた。その静かな佇まいに芭蕉は「山深み岩にしただる水とめんかつがつ落つる橡拾ふほど」 と西行が詠んだ深山を思い出したと『おくのほそ道』に記している。また、掲句の前書には「栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用ゐ給ふとかや 。」とある。 可伸は俳人でもあり、栗斎と号しており、可伸庵で歌仙が巻かれ際に芭蕉が詠んだ初案(発句)は「かくれ家や目だゝぬ花を軒…
ふうりうのはじめやおくのたうゑうた 元禄2年(1689)4月22日、須賀川の相楽伊左衛門(等躬)邸での作。その一昨日の4月20日に芭蕉は白河の関を越えている。『おくのほそ道』では「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」と記されている。白河の関は、鼠ヶ関(ねずがせき)や勿来関(なこそのせき)と共に、奥州三関の一つに数えられる関所であり、歌枕の地でもある。「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」(平兼盛)、「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白川の関」(能因)、「白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり」(西行)など、そこで詠まれた名歌は枚挙に暇がない。…
たいちまいうゑてたちさるやなぎかな 元禄2年(1689)4月20日、那須蘆野での作。芭蕉が訪れた頃の蘆野領主は、三千余石の交代寄合旗本・蘆野民部資俊であり、神田の江戸屋敷に住んでいた際に芭蕉の門人となり、「桃酔」と号していた。芭蕉は桃酔から故郷にある「遊行柳」のことを度々聞かされていたらしい。 この柳には古くから「遊行柳伝説」があり、一説には、室町時代に遊行十四代太空上人が当地を通りかかった際、柳の精が女人として現れて救いを求めたため、太空が念仏を唱えて済度したという。もともとこの柳は平安時代から、幾度か枯れては植え直されてきたらしく、観世信光の謡曲『遊行柳』では、ここで西行法師が詠んだとされ…
なつやまにあしだををがむかどでかな 元禄2年(1689)4月の作。前書に「修験光明寺(しゆげんくわうみやうじ)と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。」とある。もともと光明寺は文治2年(1186)に那須与一資隆が阿弥陀仏をここに勧進して即成山光明寺を建立したことに始まる。山城国伏見の光明山即成院の阿弥陀仏に祈願して、『平家物語』に記される、扇の的を射抜くことができたことがその所以である。その後、荒廃するも、永正年間(1504〜1521)に那須資実によって天台修験道の寺として再建され、芭蕉が訪れた時には行者堂に役行者が履いたと伝わる一本歯の高足駄が祀られていた。現在は、残念ながら廃寺となっており、…
きつつきもいほはやぶらずなつこだち 元禄2年(1689)4月5日の作。芭蕉は、黒羽城から十二キロほど東にある臨済宗妙心寺派の東山雲巌寺を参詣した。雲巌寺は、大治年間(1126〜1131)叟元和尚の開基で、その後、弘安6年(1286)に仏国国師(後嵯峨天皇第三皇子)が再興し、併せて、北条時宗の庇護もあり、千人余の雲水が修行する大寺院となり、筑前・聖福寺、越前・永平寺、紀伊・興福寺と並ぶ日本四大禅宗道場の一つとして隆盛した名刹である。雲巌寺は後ろに八溝山が控え、前には武茂川が流れ、佳景寂寞とした境内には十景と呼ばれる景勝などもあり、禅宗道場として素晴らしい環境にある。現在でも仏道修行の法統が受け継…
やまもにわもうごきいるるやなつざしき 元禄2年(1689)4月4日の作。同年4月3日、芭蕉は下野那須の余瀬に鹿子畑善大夫豊明(俳号 : 翠桃)を訪ねた。その兄・高勝(俳号 : 桃雪)は浄法寺家の養子となり、当時、黒羽藩城代家老であったこともあり、翌日、芭蕉は黒羽城三の丸にある浄法寺図所高勝邸に招かれた。掲句はその際に詠まれたものである。 顧みれば、桃雪と翠桃の父・鹿子畑左内高明も家老職にあったが、「給人騒動」という内紛の責任を取って江戸に隠棲していた時期があり、その際に桃雪と翠桃は江戸にあった芭蕉の門人となった。それぞれ十六、十五歳の頃である。 それから十二年後、鹿子畑家は帰藩し一族は藩の要職…
しばらくはたきにこもるやげのはじめ 元禄2年(1689)4月2日の作。前文に「二十余町山を登つて滝有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて、 滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝へはべるなり。」とある。この滝は大谷川の支流である荒沢川にあり、滝の裏側からも飛瀑を見ることができたために裏見滝(うらみたき)と名付けられた。華厳滝、霧降の滝と共に日光三名瀑の一つに数えられている。 ところで、仏道修行である夏安居(げあんご)や夏籠(げごもり)は、略して夏(げ)という。芭蕉もこの滝の裏側の岩窟に籠もって滝を見ながら涼を取っているうちに、あたかも夏を修しているかのような心…
あらたうとあおばわかばのひのひかり 元禄2年(1689)4月、日光での作。前文には次のように記されている。 卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。 御山とは日光山のことであり、8世紀後半、勝道上人がここを修験道場として開基した。「空海大師開基」とは芭蕉も筆の誤りである。もっとも、勝道の要請で空海が日光山についての文章を書いており、それは「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑并びに序」として『遍照発揮性霊集』に記されている。その文章は…
いとゆふにむすびつきたるけふりかな 元禄2年(1689)3月29日の作。前書に「室八島」とある。ここは『おくのほそ道』に記された、芭蕉が最初に訪れた神域であり歌枕の地である。周知のように古来「室の八島」を詠む場合、「けふり(煙)」を詠み込む慣わしがある。その由来については、境内の泉水から立ち上る水蒸気であると言われてきた。しかし、『おくのほそ道』においては、ここでの芭蕉の句は見当たらず、曽良が、「けふり」の縁起として、一夜にして懐妊した木花咲耶姫が身の潔白を立てるため燃える無戸室のなかで彦火火出見尊を産んだ故事などを記しているのみである。また、貝原益軒の『日光名勝記』(1714年刊)によれば、…
ゆくはるやとりなきうをのめはなみだ 元禄2年(1689)3月27日、芭蕉と河合曽良は、早暁に深川から舟で隅田川を北上して千住にて上陸し、日光街道へ入った。舟に乗って同行してきた親しい人々とは、千住で別れることとなる。掲句の前文に「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに別離の泪をそゝく」(『おくのほそ道』)とある。今回の旅は長い行程となるため、客死も覚悟とはいえ、深川での生活や親しい人々との離別はやはり辛いものである。もっとも、それが儚い仮の世との別れだと分かっていても涙が溢れてくる。そうした悲しみの中では、鳥の声も嘆きに聞こえ、魚までもが泪しているように感じられる。ましてや春も過ぎゆく…
くさのともすみかはるよぞひなのいへ 元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は「みちのく」を目指して『奥の細道』の旅に出立する。その直前、江戸・深川の芭蕉庵を人に譲り、近くにある杉山杉風の別荘・採荼庵に移り、旅支度に勤しむことになる。その際、今まで侘び住まいで閑散とした草庵も、新しい住人のもとで華やかに飾られた雛を見て時の移ろいに感慨を深くしたのである。 『奥の細道』の旅は、ちょうど西行の五百回忌にあたる年に、「みちのく」へ発つことになるが、全行程が約600里(2400キロメートル)、日数で約150日間と、これまでにない長い旅程である。掲句のあとに、「上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし」と述べら…
おもしろやことしのはるもたびのそら 元禄2年(1689)の作か。『甲子吟行(野ざらし紀行)』や『笈の小文』の旅など、貞享年間はまさに「漂泊」の生活が続いたが、今年の春も旅の空を仰ぐことになりそうで、それもまた楽しみなことであるといった句意。『去来文』の「よとぎの詞」は、長崎への旅に思いを馳せた向井去来の文章であるが、その中に掲句が記されている。ちなみに『奥の細道』の旅のあとに芭蕉は長崎への旅を予定していたとされるが、これは大坂における芭蕉の客死によって幻に終わる。 かくして、同年の暮春、芭蕉は『奥の細道』の旅へと出発することになる。深川の芭蕉庵で少時の休息を取ったあと、芭蕉は「みちのく」の空の…
ほととぎすいまははいかいしなきよかな 延宝末年〜貞享初年の作(推定)。ホトトギスは古来より和歌に詠まれてきたが、今、この声を聞いてもそれを句にすべき真の俳諧師はもはやいない世であると嘆いているのである。 延宝年間(1673年〜1681年)には、貞門俳諧を抑えて談林俳諧が隆盛していたことが背景にあるのかもしれない。両者とも和歌の伝統的な措辞に拠りながらも、前者ではあくまでも形式主義に拘泥し、後者では、「軽口」「無心所着」といった言語遊戯的な趣向に傾斜していくことになる。 当初、貞門派であった芭蕉も、「上に宗因なくんば,我々が俳諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」(『去来抄』…
はすいけやおらでそのままたままつり 貞享5年(1688)7月、尾張・鳴海の下里知足邸での作。折しも下里家では精霊会が行われており、その庭の池には蓮の葉が繁っていたのであろう。それは折り取られることもなく、先祖へそのまま手向けられているのである。そうした自然をそのまま愛する主の優しい心根に感銘したのであろう。蓮は泥土より生じて清らかな茎を伸ばして葉を広げて花を咲かせる。それは開悟や仏の智慧や慈悲を象徴するものであり、まさに精霊会に相応しい。中七から下五へ連なるa音も快い響きを添えている。 季語 : 玉まつり(秋) 出典 : 『千鳥掛』(『風の前』) Lotus pond —leaving the…
はつあきやうみもあをたのひとみどり 貞享5年(1688)初秋の作。前書に「鳴海眺望」とある。鳴海は東海道五十三次四〇番目の宿場であったが、現在では埋め立てにより、歌枕の鳴海潟は消失し、海を見ることはできない。掲句は、当時、そこにあった児玉重辰亭で詠まれた発句であり、おそらくその席上から見える青田の先に海が見渡せたのであろう。遠く青田と海の接するあたりでは両者の色合いも近く、あたかも、海が青田の一部として同化しているように捉えたのが「一みどり」という措辞に表れている。 ちなみに、「みどりの黒髪」「みどり児」などの言葉があるように、本来、「みどり」とは、「緑」や「青」という色彩ではなく「瑞々しさ」…
おもしろうてやがてかなしきうぶねかな 貞享5年(1688)、岐阜長良川で鵜飼を見ての作。『笈日記』には「稲葉山の木かげに席をまうけ盃をあげて」とあり、芭蕉は闇夜に篝火が灯る鵜舟を河畔から眺めた。初めは、その珍しい漁に興味が湧いて酒も進むが、やがて漁が終わり篝火も消えて舟も去り、もとの暗い静寂に包まれる。古来からの漁法とはいえ、捕らえられる魚はもちろん、「疲れ鵜」という傍題季語があるように鵜にとっても難儀なことであろう。そう考えると、「面白さ」から「悲しさ」へと変わる心境に人生の辛さや儚さも重なってくる。もっとも、芭蕉には謡曲『鵜飼』における仏教的無常観が掲句の下地にあったことは多く指摘されてい…
このあたりめにみゆるものはみなすずし 貞享5年(1688)5月、美濃長良川河畔での作。『笈日記』には、この前文として「十八楼ノ記」と題した次のような記載がある。 みのゝ国ながら川に望て水楼あり。あるじを賀嶋氏といふ。いなば山後にたかく、乱山兩に重なりて、ちかゝらず遠からず。(中略)暮がたき夏の日もわするゝ計(ばかり)、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるゝかゞり火の影もやゝちかく、高欄のもとに鵜飼するなど、誠にめざましき見もの也けらし。かの瀟湘の八つのながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひためたり。若此楼に名をいはむとならば、十八楼ともいはまほしや。 つまり、『笈の小文』の旅からの帰…
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千年の影引く影や姫小松 高山れおな さわらびや何を握りて永き日を 同 玉苗のふるへたふとし水は空 同 地球より溢れ荒川雪の夜を 同 昭和百年源氏千年初鏡 同 我が狐火も霜夜は遊べ狐火と 同 息白き別れは星の匂ひかな 同 時の日の湖光りつつ眠る 同 挽歌降るべし雲雀ほど高きより 同
鎌倉の人の涼しき胡坐かな 林誠司 母の日や遠くまあるく土星の輪 同 江の島へ向かつて水を打ちにけり 同 人は座し水はいそげり春の山 同 わたつみへ雲かぶせたり富士の秋 同
吃音のあとの静寂に小鳥来る 福本啓介 月朧抱きしめられてゐたりけり 同 昼月と共に過ごせり保健室 同 小春日の昨日に我を置いて来し 同 さくら咲き記憶喪失終はりけり 同
また回り出す年越の換気扇 高野ムツオ 無辺へと千手を垂らし菊枯れる 同 不立文字風に渦巻く落葉こそ 同 天の狼咆哮雪が降り出せり 同 冬の蝿昨日の朝日今日も浴び 同 終末に備え固まる黒海鼠 渡辺誠一郎 数え日や終わらぬ旅の旅衣 同 産声を忘れ宣戦布告かな 同
障子貼りゐていつの間に囲まれし 今瀬剛一 冬の星糸で繋いで贈らむか 同 瀧凍り始める寒さかと思ふ 同 ショール巻いて母が見えなくなりしかな 同 やがて会ふはずの枯野の二人なり 同 瀧深く隠して山の眠るなり 今瀬一博 鮟鱇の腹の白さよ雪催 同 目瞑れば吾も大柚冬至風呂
ペンギンの胸の広さや春隣 大木あまり 霜の花忘るるために歩きけり 同 鎌倉の水羊羹と無常観 同 マスクして逢ふや双子座流星群 同 立ち泳ぎするかに揚羽飛ぶことよ 同 入院も旅と思へば冬うらら 同
くらい水すきとほらせる花火かな 大屋達治 大年の街の音聞く橋のうへ 同 大山に脚をかけたる竈馬かな 同 海に出てしばらく浮かぶ春の川 同 泳ぎより立つとき腕を翼とす 同 日蓮が妙と叫びし初日かな 同 捨てし田を豊葦原へ還しけり 同
薔薇咲くや抜歯のあとのあをぞらを 鈴木総史 とんばうや蝦夷にあをぞらあり余る 同 背広にも晩年のあり漱石忌 同 薬飲むみづのまばゆし風信子 同 実石榴や触れればくづれさうな家 同
山上の雲の厚さや田水張る 藺草慶子 水底のかくも明るく冴返る 同 水渡り来し一蝶や冬隣 同 片雲の遠く光りて夏きざす 同 光陰のなだれ落ちたるさくらかな 同
火柱の見えしと思ふ白雨かな 石田郷子 暗がりに人詰めてをる里祭 同 寄せ合へる椅子のまちまち天の川 同 冬林檎剝けば夕べの月の色 同 万の枝けぶらふバレンタインの日 同
にんげんの回転木馬さくら散る 増田まさみ 何処へも戻らぬひとよ冬花火 同 手花火の手の入れ代わるニルバーナ 同 空蝉にまだ陽の残る浅きゆめ 同 二つ折り厳禁とあり天の川 同
街灯は待針街がずれぬよう 月野ぽぽな 真水汲むように短夜のFM 同 松茸に太古の空の湿りあり 同 まだ人のかたちで桜見ています 同 太陽は遠くて近し芒原 同 手袋に旅立ちの指満たしけり 同
ころがしておけ冬瓜とこのオレと 坪内稔典 長崎に住もう枇杷咲く五、六日 同 リンゴにもオレにも秋の影ひとつ 同 ねじ花が最寄りの駅という日和 同 夕べにはすっかり晴れて栗ご飯 同
友情にイルカが跳ねる時を待つ 十文字潤 夕焼けが捨てた光に救われて 栗原知也 誰が夢を空へ紡ぎて五重塔 星野煌太
地平の目まだ半びらき真葛原 佐怒賀正美 乗るによき父の背いつか天の川 同 地球まだ知られぬ星か磯焚火 同 亀鳴くや天の沖には磁気嵐 同 くねりだす街の石みち鳥渡る 同 青嵐や骨のみで立つ電波塔 同
黒海は波高くして春遠し 田中信行 空白を控へめに埋め冬すみれ 同 夕立に打たれ心の解毒かな 同
覚悟なき死のおびただし核の冬 大井恒行覚めているほかは眠りぬ鈴の風 同ひかりなき光をあつめ枯れる草 同赤い椿 大地の母音として咲けり 同行方わからぬ光放てり手の林檎 同
春満月戦車渋滞していたり 中内亮玄 微笑みの凄まじきこと落椿 同 曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 同
この星の春を盡すや又震ふ 高橋睦郞 踝に雲さやりつぐ川禊 同 變若水や有爲の奥山㝱深く 同 春惜む綾取りの橋壊しては 同 三界は火宅風宅三の酉 同 山や水有情無情や皆目覺む 同 高橋睦郞先生より句集『花や鳥』(ふらんす堂)を頂きました。先生には昔より要所要所で大変お世話になっております。ご上木をお祝い致しますとともに併せて心よりお礼申し上げます。「芭蕉一代の表現行爲を継承しようと志すなら、その爲事を尊敬しつつ、各人自分一代の爲事を志さなければなるまい」と帯文にあり、深く首肯致します。
菜種梅雨パレードにひつような橋 田島健一 山桜なにも言わずについてくる 同 人をさがしてと奉じてゐる遅日 鴇田智哉 菜の花の群れが空気を膨らます 同 つま先に春の闇から届く波 福田若之 ゆく春に折り目があれば分けやすい 同 ほんたうはつばきのなかにあることば 宮﨑莉々香 星ぼしや見えなくなつた手に手を振る 同 こゑが地に届いて枝垂桜かな 宮本佳世乃 ともに夜を生き桜蘂降りつづく 同
覚悟なき死のおびただし核の冬 大井恒行覚めているほかは眠りぬ鈴の風 同ひかりなき光をあつめ枯れる草 同赤い椿 大地の母音として咲けり 同行方わからぬ光放てり手の林檎 同
春満月戦車渋滞していたり 中内亮玄 微笑みの凄まじきこと落椿 同 曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 同
この星の春を盡すや又震ふ 高橋睦郞 踝に雲さやりつぐ川禊 同 變若水や有爲の奥山㝱深く 同 春惜む綾取りの橋壊しては 同 三界は火宅風宅三の酉 同 山や水有情無情や皆目覺む 同 高橋睦郞先生より句集『花や鳥』(ふらんす堂)を頂きました。先生には昔より要所要所で大変お世話になっております。ご上木をお祝い致しますとともに併せて心よりお礼申し上げます。「芭蕉一代の表現行爲を継承しようと志すなら、その爲事を尊敬しつつ、各人自分一代の爲事を志さなければなるまい」と帯文にあり、深く首肯致します。
菜種梅雨パレードにひつような橋 田島健一 山桜なにも言わずについてくる 同 人をさがしてと奉じてゐる遅日 鴇田智哉 菜の花の群れが空気を膨らます 同 つま先に春の闇から届く波 福田若之 ゆく春に折り目があれば分けやすい 同 ほんたうはつばきのなかにあることば 宮﨑莉々香 星ぼしや見えなくなつた手に手を振る 同 こゑが地に届いて枝垂桜かな 宮本佳世乃 ともに夜を生き桜蘂降りつづく 同
何度開けてもないものはない冷蔵庫 高橋亜紀彦 仙人掌の永き夢から醒めて赤 同 曼珠沙華汝もサイコパスかも知れず 同 白梅や詩人は生くるために書く 同 長き夜や使ひみちなき砂時計 同 出目金の泪に誰も気づかざる 同
月に住む時代それでも白子干 仲寒蟬 入口のとなりに出口牡丹園 同 息止めて水着売場を抜けにけり 同 バイナップルすら爆弾に見えてくる 同 出目金の赤は黒より不幸せ 同
雪もよい湯気のにおいのからだかな 越智友亮 気を抜くと雨粒こぼす春の空 同 噴水の水やわらかく水に消ゆ 同 駆け足や宇宙は秋の空の上 同 金木犀両手で握手して別る 同 数学をやめ台風を待っている 同 河童忌の鉄のにおいの掌よ 同 稲咲いて朝をくださる光かな 同 革ジャンの鈍きひかりやうまごやし 同 白玉や今が過ぎては今が来て 同 相槌うって君は話さずオリオン座 同 川幅に橋おさまらず枯葎 同
わだつみの道の遠のく秋入日 加藤哲也 顔見世を出て風となる一と日かな 同 宵闇に紛れ込みたる夏館 同 新涼やロダンの肘のあたりより 同 大人にもこどもにも降る木の実かな 同 蠟梅や知覚過敏を憂ひつつ 同 菜の花や月光菩薩立ち上がり 同
ぶらんこの裏まで見せて跳びにけり 蜂谷一人 心太突いて夜空を滴らす 同 龍骨のかたちに日本南吹く 同 林檎むくまあるくほどけゆく時間 同 もう土へかへる桜でありしもの 同 蒼き灯の底を聖夜の魚となる 同 蛤の舌夕暮に触れてをり 同 馬跳びの最後冬夕焼と遭ふ 同 ひぐらしや波の広がる心字池 同 空蟬を残して声となりにけり 同 昼点いて白熱灯や虚子忌なる 同
噛みてなほ七面鳥の皮の照り 佐藤文香 ぬかるみのあかるみを踏み友なりけり 同 にはとりのはぐれて一羽春の中 同 夏霧を鳥おりてきて馬となる 同 終の住処鉄扉に薔薇を這はせあり 同 こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに 同 音楽のあをく膨らむ熱帯夜 同
事切れてまだ虫籠のなかにいる 福田若之 手に木の葉てんごくにも俳句はあるよ 宮﨑凜々香 木犀の届いてゐたる自動ドア 宮本佳代乃 心地よく浮かぶ月かたむき沈む 田島健一 星あかり豆腐の壁にゆきあたる 鴇田智哉
髙野公一先生よりご著書を頂きました。お手紙では、拙著『芭蕉百句』への温かいご批評を賜り、重ねて心よりお礼申し上げます。先生は「芭蕉の天地」で、ドナルド・キーン賞優秀賞を受賞された碩学にして恐縮至極に存じます。いずれにしましても、現代にあって、芭蕉の俳諧精神を探求する者同士として心強い思いがしました。深謝まで。
冬の蝶まばゆき方へ飛びゆけり 橋本石火 鳶の輪の崩れて小春日和かな 同 父の空母の空あるなづな粥 同
卒業の丘からのぞむガスタンク 小林かんな 来た路を金魚とともに引き返す 同 にんじんの太くて書架にトルストイ 同 大人になってからの友達梅三分 仲田陽子 ピーマンの中へ本音を詰めておく 同 白鳥の遺伝子をもち自由なる 同 灰色の象の背に乗る朧月 中田美子 フラスコに残る触媒昼の月 同 黄落のあちらこちらに庭師立つ 同 少しづつ空気を吐いて百合の花 岡田由季 数へ日の母はさつさと助手席に 同 初旅の関東平野のびてゆく 同