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2020/12/27

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  • シャバーニュ紀行

    シャンパーニュの歴史とワインについて話しています

  • ワインと地中海#52/スースの葡萄模様なモザイク#02

    館内は静謐だった。何もかも止まっているようだった。来館者はまばらだった。古いカスバを改装した美術館だった。 「ここのモザイクはチュニスのバルド国立博物館に継いで世界で二番目にコレクションが豊富なんです」Jが言った。「古いものはフランスのPierre Cintasが集めたものが中心です」 「ピエール・シンタス?」知らない人の名前だった。 「Jean Cintasと一緒で、兄弟そろってチュニジアの考古学者です。どちらかというとアマチュア色の強い学者です。フランスには多いタイプの考古学者です。Tebourbaの発掘なんかで有名な人です。ここにあるコレクションはシンタスがスースのトフェットとバ

  • ワインと地中海#51/スースの葡萄模様なモザイク#01

    30年前・・ そのとき、パリにいた。ハードネゴだったから一緒にいたのは通訳のフランス人と僕、そしてコーディネーターだった。仕事が思いのほか順調に片付いて時間に余裕ができた。いつもなら次の仕事に向けて、さっさとシンガポールへ戻る。でもその時にコーディネータが、最後の晩の会食の席で「マイクさんは西洋史に造詣が深いと伺っているのですが」と言われたのだ。 「いや気紛れに色々観て歩いてるだけだよ」と僕が返事すると、彼が笑った。「もしよろしければ、今回のお礼ということで、どちらか行かれてみたい場所がございましたら、弊行で手配いたしますが・・いかがですか?」 僕は即答した「スース博物館」彼は戸惑っ

  • ワインと地中海#50/マグナ・グラエキア#06

    「南イタリアに葡萄とオリーブを持ち込んだのはフェニキア人だ。そしてそれを大きく育てたのはギリシャ人たちだった。フェニキア人は通商の人だからな。自分で作るより買ってきて仲買いで売り捌く人たちだ。実はこの分化が、フェニキア人の中でも起きて、互いに確執しあうという事件がカルタゴ側で多々起きるんだが、ここではその話をしない」 「そうね。いつものように話が取っ散らかるからね」 「フェニキア人たちは、北アフリカから島伝いに地中海を上がっていった。だから伝搬ルートはシチリアから南イタリア テレニア海側だった。マルタ島もエオリエ諸島もこの時期に持ち込まれている」 「エオリエ諸島のワインなんてあるの!」

  • シャンパーニュ歴史散歩03

    シャンパーニュ歴史散歩03

  • ワインと地中海#49/マグナ・グラエキア#06

    「東ローマ帝国のマグナ・グラエキア統治は500年以上続いた」 「安定政権だったのね」 「ん~でもない。ペルシャに襲われたりスペインに襲われたり、揺籃を繰り返した。ローマはテマ制の総督領Catepanate of Italyだったからね、自国領と言っても脆弱に部分はあった」 「テマ制ってなに?」 「派遣された治政管が全て軍民すべてを統治するやり方だ。東ローマの属領はこの方法が多かった。しかし本体の東ローマが弱体化すると、テマ制はさらに脆弱に歪(いびつ)になっていった。そこにノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドが攻め込んだのは11世紀後半。ローマ総督領は脆くも崩れた。ノルマン人はここに

  • シャンパーニュ紀行02

    シャンパニューを歩きながら、ワインとシャンパーニュの話をしています。旅行用の参考としてご使用ください。

  • ワインと地中海#48/マグナ・グラエキア#05

    「ポエニ戦争でフェニキアが滅びると、シチリアもマルタもサルディーニアもコルスもすべてローマのものになったが、ローマ中央部から移植する人たちは殆どいなかった。敢えて言うなら、退役軍人と傭兵たちがそのまま残ることは有ったが、地域の住民は先住部族とギリシャ人が中心のままになった」 「言葉は?」 「公用語は俗ラテン語だったが、供用語は相変わらずギリシャ語だ。とは言っても今のギリシャ語じゃない。コイネーKoinēだ」 「コイネーって古いギリシア語でしょ?」 「ん。 ギリシア語のアッティカ方言だ。 アッティカはアテナイあたりが有った地域だ。云って見れば東京弁な。これがギリシャ語共通語になった。黒海

  • ワインと地中海#47/シチリアを巡って#01

    「一番最初にシチリアに入ったのはギリシャ人じゃなくてフェニキア人だったのよね」と嫁さんが言った。 「ん。北アフリカ側から島伝いに渡ったろうな。サントリーニの大爆発以降だ」 「無人島だったの?} 「いや、先住民がいた。エリミア人Elymians/Sicaniシカニ人/Sicelsシケル人という部族が島を三つに分けていた。イタリア本土から渡ってきた先住民だが、印欧語族だからラテン人より早く西アジアからイタリア半島へ流れ込んだ人々だろう。いわゆる原住民ではなかった。フェニキア人は彼らと交易するためにシチリアに入ったんだ。占領目的ではない。だからフェニキア人はいつものように海岸沿いに小さい交易

  • シャンパニュー歴史散歩01

    シャンパニューを歩きながら、ワインとシャンパニューの話をしています。旅行用の参考としてご使用ください。

  • シャンパニュー歴史散歩/はじまり

    シャンパニューを歩きながら、ワインとシャンパニューの話をしています。旅行用の参考としてご使用ください。

  • ワインと地中海#46/マグナ・グラエキア#03

    「イタリア半島南側に出来たギリシャ植民都市は、先住者であるカルタゴのエァニキア人たちと小競り合いは有ったが、通商関係は続いた。そしてフェニキアから借りた"軒先"は次第に母屋へと勢力を伸ばした。当時、次第に村から町へ、町から都市へ替わったのはカプエKapuê/ネアポリスNeapolis(ナポリ/シラクサSyracuse/アクラガスAkragas/スバリスSubarisなど。ほかにターレスTaras/ロクロイ・エピゼフィリオイEpizephyrioi Lokroi/レギオンRhegion/クロトンKroton/トリオイThurii(トゥリ/エレアElea(ノーヴィ・ヴェーリア/アンコンAn

  • ワインと地中海#45/マグナ・グラエキア#02

    「ギリシャ人のイタリアへの移植が始まったのはBC750年ころだ・・といったろ?同じころにレラントスLēlantos平野の領有をめぐってアテナイ側で大きな戦争が有った。都市カルキスとエレトリアの戦いだ。レラントス戦争Lelantine Warというんだが、これに周囲の幾つもの都市が巻き込まれていく。カルキス側についたのがサモス/エリュトライ/コリントス/スパルタ/テッサリアだ。エレトリア側にはミレトス/キオス/メガラなどが参戦した。戦いはカルキス側の勝利に終わった。エレトリアは焼き尽くされて廃墟になっている。敵に捕まればそのまま奴隷にされてしまう。このとき、大量の敗残者/逃亡者が出て散逸

  • ワインと地中海#44/マグナ・グラエキア#01

    「マグナ・グラエキアMagna Graeciaって、いまいち場所がわからないわ」 「イタリア半島南側だ。アドリア海側はプーリアの州境あたり。ティレニア海側だとサレルノSalerno辺りまでだ。アドリア海側は全体にLongobardiaと呼ばれてる。ティレニア海側は四つに分かれていてSalerno/Lucania/CalabriaそしてSiclly島だ。 Magna Graeciaという呼称はローマ人のものだ。移植してきたギリシャ人たちはMegalê Hellasと呼んでいたそうだ。ギリシャ人たちは自分をヘラスHellasと言ってたからな。いまでも正式国名はHellenic Republ

  • ワインと地中海#43/ローマとワイン#03

    ワインの持つ薬事という機能は、そのまま呪術/邪教に繋がった。キリスト教のベースになったミトラ教は、こうした酒宴をしばしば開いた。そして泥酔しながら秘儀を行った。ワインの酩酊感が日々の苦しみからの解放であり、非日常的な快楽をもたらしたからだ。ワインに様々な薬草を混ぜて、トランス状態になり踊り狂い交合した。 「ミトラ教は奴隷たちの宗教だ。北側から伝搬した。だから当初はおそらく幻覚性のある薬草/毒草を使っていたかもしれない。これにワインが混合していくのは、イタリア半島南側マグナ・グラエキアMagna Graeciaからの影響だろう」 「ワインと一緒に怪しげな宗教も南から渡ってきたのね」 「ん

  • ワインと地中海#42/ローマとワイン#02

    「原イタリック人/ラテン人はエトルリア人・ギリシャ人たちをとりこみ、彼らの宗教を取り込むことでワイン文化も受け入れた。ワイン神はディオニュソスに挿げ替えられた。そしてディオニュソスはバッカスになっていく。しかしそれでも・・ラテン人にとって、飲酒は低俗なこと/田舎者のすること、という気風が根強く残ったと僕は思うな。ディオニュソスは決して人々を導く神ではない。乱れた神/謂わば悪神・・それ以上にはならなかったんだ。 たしかに原イタリック人/ラテン人は、エトルリア人・ギリシャ人と混交することで、次第に自分たちもワインを飲むようになっていった。彼らは希釈したワインを飲んだ。ギリシャ人の知識人の方

  • ワインと地中海#41/ローマとワイン#01

    「ヴィティス・ヴィニフェラとイタリア半島の邂逅は衝撃的だった」 「あら、イタリアワインを称賛するの?珍しい」嫁さんが笑った。 「称賛ではない。事実だ。アララト山から、ワインのための葡萄を携えて人々は3000km以上の旅をした。4000年以上の時をかけて、ヴィティス・ヴィニフェラとイタリア半島に出会ったんだよ。この出会いが以降のワインの道を決めたんだ。ワインラッシュはローマから始まった」 「ゴールド・ラッシュじゃなくてワインラッシュ?」 「製造法も貯蔵法も運搬法も、ローマで工夫されてローマで確立した。フェニキア人の技法もアッシリアの技法も、ローマでソフティケーションされた。そして絶対的な

  • ワインと地中海・欄外#40/ギリシャ人がかけた撲滅の呪い

    「ところで・・アメリカンネイティブって300万人位はいた。これがほぼ100年で3万人くらいになった。彼らは、ありとあらゆる方法で297万人殺されてしまった。いまは10万人位に増えているが、インディアンは相変わらず米社会底辺に蹲ったままでいる」 「あら・・なぜいま、西部開拓史の悲劇になるの?」 「パンとサーカスpanem et circensesだよ。ローマの詩人ユウェナリスDecimus Junius Juvenalisの言葉だ。パンとサーカスさえ与えておけば、人々は批判するだけで、それ以上何もしない。当面の危機が無ければ、民は諦めに染まる。そして支配者は肥大化し饐えていく。いまの日本

  • ワインと地中海#39/ギリシャ人とアドリア海

    https://www.youtube.com/watch?v=2SHLdqbW4HY 「ギリシャ人がイタリア半島へ移植したルートは、このフェニキア人の開拓した航路を擦ってというわけだ。 その移植したギリシャ人をローマはマグナ・グラエキアMagna Graeciaと呼んだ。その移植はBC700年代から始まったと云われている。この時期、ギリシャ人は広く拡散している。黒海周辺やアナトリア半島海岸部を東まで広がっているんだ。イタリア半島への移植はその一環だ」 「そこでローマ人と出会ったわけね」 「ん。イタリア半島内の対抗勢力としてローマと対峙した。しかし・・ギリシャ人はイタリア半島でも

  • ワインと地中海#38/フェニキア人とアドリア海

    https://www.youtube.com/watch?v=rj7EtffJPPI コルフ国際空港をでた飛行機は一度地中海に向かって飛び、ヴラチェルナ修道院Vracellona Monasteryの上あたりから大きく右へUターンし島を跨いでアドリア海へ向かった。 席を左側にしたのは、空からヴラチェルナ修道院が見えるかもしれないと思ったからだ。嫁さんには窓側に座ってもらった。 「岬から突出している白い教会。あれがギリシャ正教の教会・ヴラチェルナ修道院だ。ヴェネツィアの時代に作られたものらしい。建立が何時なのかは不明だ。でも15世紀の資料には名前が有る。1980年までは尼僧院だっ

  • ワインと地中海#37/エーゲ海沿いのワインたち

    https://www.youtube.com/watch?v=QGiCWPMFxoo コルフ最後の夜はホテルのオーナーだった/Aristotle Onassisの名前に因んだアリストスARISTOSに予約した。さすがにワインはフレンチがきちんと揃えられていた。 「オナシスって有名な人なの?」嫁さんが言った。 「1975年に亡くなった。世界一の船舶王だった。ケネディ夫人ジャクリーンの再婚相手だよ」 「あ!思い出した。ジャクリーンさん、再婚相手が亡くなったとき、葬儀に行かなかったこと」 「ん。そのオナシスだ。この店の名前は彼のことだ。オナシスは何もかもが超一流志向でね、女房も元ファ

  • ワインと地中海#36/キルケアの旧市街を歩く#04

    水曜日、早起きしてスターバックスへ出かけた。PCを持って行ったのは少しだけ書き物をしようと思ったからだ。CityMagを買ってドリップのグランデを頼んだ。もちろん支払いはスターバックスカードで。一時間ほどでホテルに戻った。嫁さんは起きてチェックインのためのパッキングをしていた。 朝食の後チェックインしたとき、夕方にTAXIの手配をロビーで頼んだ。今夜はグレコテル コルフ インペリアル ホテルGrecotel Corfu Imperial(Tzavros - Kommeno, Kerkira 490 83)へ戻り、明日はESYJETSでヴェネツィアへ戻る予定でいた。荷物はTAXIが車でホ

  • ワインと地中海#35/キルケアの旧市街を歩く#03

    旧市街、あまり奥まで入らないまま港まで戻った。予約していたOra Restaurant(Agoniston Politechniou, Kerkira 491 00)は波止場沿いにテーブルを並べていた。案内をしてくれたガルソンがきびきびして品の良さを感じた。 https://orarestaurant.gr/ ワインは土地のオレンジワインである。料理は典型的な地中海料理である。僕の好みで中々嬉しかった。テーブルの向うに要塞跡Πύργος της Θάλασσαςが見えた。 「コルフ旧市街は二つの要塞に挟まれた町なんだよ。南にあるのが、あの新要塞。北にあるのが旧要塞。新要塞は、この島が英

  • ワインと地中海#34/キルケアの旧市街を歩く#02

    https://www.youtube.com/watch?v=CX7yE0vwcbg 火曜日。朝食後にGrecotel Corfu Imperialをチェックアウト。荷物は殆ど預かってもらった。 「今夜は旧市街のホテルに泊まるんだ。明後日に帰ってくるよ」とロビーに言ったら「何処に泊まる?」と聞かれた。 「カラリヴァル・ホテルCavalieri Hotel(Kapodistriou 4, Corfu Greek)」と応えたら「エクセレント!」と言われた。それと「タクシーだと此処からは30分くらい南へ進むと旧市街になる」と言われた。 フロントで頼んだTAXIは、海岸沿いを走ったが海

  • ワインと地中海#33/キルケアの旧市街を歩く#01

    https://www.youtube.com/watch?v=x2kXYqGbwv8 思い立ってキルケア(コルフ)に出た。毎週月曜と木曜日はEasyJet空港がヴェネツィアとキルケアを繫いでいる。所要時間は1時間45分。エアバスだ。ホテルはグレコテル コルフ インペリアル ホテルGrecotel Corfu Imperial(Tzavros - Kommeno, Kerkira 490 83) https://www.corfuimperial.com/ レストランのグレードは此処が好いとダニエリのコンシェルジェご推薦だった。ホテルは"今っぽい"個性は感じなかったが設備はきちん

  • ワインと地中海#32/クレタ島のワイン

    https://www.youtube.com/watch?v=WiR3SJXEQ8g 「僕がクレタ島に行ったのは、フィロキセラ真っ只中の時だったから殆どのワイナリーが閉鎖していた」 「フィロキセラ?だって大流行は19世紀の後半でしょ? あなた、そんなに昔から隠れて生きてたの?」 「そはいかない。エーゲ海にフィロキセラが入ったのは100年近く経ってからなんだ。もともと塩分の高い地域だからフィロキセラは根付かなかった。クレタ島に発生したのは1980年くらいからだ。僕が訪ねたのがチェルノブィリ1985年の後だから、ほぼどこも全滅状態だった。今あるワイナリーは大半がこの後に立ち上がって

  • ワインと地中海#31/フェニキア人とエーゲ海#03

    「地中海へ拠点を移したフェニキア人が最重要拠点としたのがロードスRhodes島から始まるドデカネス諸島ta DōdekanēsaとクレタCrete島だ。キプロス島から西は、此処がフェニキア人の地になった。BC2000年ころだ。上記2島とともにコス島とパトモス島の名前が歴史の中に出てくる」 「無人島じゃなかったんでしょ?」 「ん。先史時代からヒトはいた。考古学者はドデカニサ族と呼ぶ。これをフェニキア人が制覇した。BC2000年ころだ。ここに葡萄畑を起こしたのはフェニキア人だった。極めて先進的な文明を、彼らはここで立ち上げたんだ。・・もちろんレヴァント海岸側にも主要拠点は有った。何れも高い

  • ワインと地中海#30/フェニキア人とエーゲ海#02

    「地中海へ拠点を移したフェニキア人が最重要拠点としたのがロードスRhodes島から始まるドデカネス諸島ta DōdekanēsaとクレタCrete島だ。キプロス島から西は、此処がフェニキア人の地になった。BC2000年ころだ。上記2島とともにコス島とパトモス島の名前が歴史の中に出てくる」 「無人島じゃなかったんでしょ?」 「ん。先史時代からヒトはいた。考古学者はドデカニサ族と呼ぶ。これをフェニキア人が制覇した。BC2000年ころだ。ここに葡萄畑を起こしたのはフェニキア人だった。極めて先進的な文明を彼らはここで立ち上げたんだ。・・もちろんレヴァント海岸側にも主要拠点は有った。何れも高い山

  • ワインと地中海#29/フェニキア人とエーゲ海#01

    フェニキア人たちはクレタ島を中心に、エウビア島、エーゲ海諸島(Samos/Lemnos)、キクラデス諸島(Palos/Santorini)、トデカネス諸島(Rhodes)、イオニア諸島(Corfu/Zanta/Lefcas/Cephallonia)に葡萄畑を起こした。もちろん使った葡萄はヴィニフェラ・ポンティカ Vitis vinifera ponticaだ。 エウビアEubee島は、サヴァティアーノSavatianoという白ワイン用の葡萄が有名だ。瓶詰されるのもあるが店舗向けに樽詰めされたものが中心で、アテネ当たりのタベルナTavernaで飲むレチーナRetsinaはだいたい此処のだ

  • ワインと地中海・番外/都市・王・資本家

    「つい最近、ギリシャのテッサロニキ・アリストテレス大学考古学教授ヴァラモティ氏が、ディキリ タシュ遺跡でワインを作った葡萄の絞り粕を発見した。6500年くらい前のものだった。これは衝撃的な発見で業界を震撼させたよ。アララトから西進した葡萄なんだが、それを運んだ人々の一部はかなり早い時期にアナトリアへ辿り着いていたんだ。 https://www.megalithic.co.uk/article.php?sid=2146412958 もちろんワインのための葡萄を運んだ人々が複数いたのは間違いない。それにしても数百年程度で3000km以上も運ばれていたというのはびっくりだな」 「トルコやギリ

  • ワインと地中海#28/フェニキア人とギリシャを繫ぐもの#02

    「アッシリアは、ワインを生産していた。新バクダットもレヴァント海岸を制覇した後はワイン生産地を手に入れている」 「ワインは王族と神官たちのものでなくなりつつあったのね」 「遅々だが生産技術も醸造法も進化して、ビールほどではないが極希少のものではなくなったんだろうな。アララトの麓から西進したワイン用葡萄は少しずつ絶対的な生産量を2000年ほどかけて増やしてきたんだと思う。 アッシリアは葡萄伝搬ルートの真ん中だったからね、当然葡萄栽培は生食用・ワイン用とも行われていたんだ。生産地の中心はニネベ山脈周辺なことが判っている。黒海東北から下りてきたヒッタイトは、当初ワインはフェニキア人から買って

  • ワインと地中海#27/フェニキア人とギリシャを繫ぐもの

    ORTO WINEのオーナーから、ボトルを海中に沈めて熟成させているという話を聞いた。それをぜひ買いたいとお願いしたら「明日の昼に取りにおいで、朝陸揚げしておくよ」と言われた。これにはびっくりした。というわけで翌日もサン・テラズモ島へお邪魔することになった。 昼食を近くの店で済ませてからフェリーの船着き場Capannoneまで歩いた。 「ラグーンの中にワイナリーって他にあるの?」 「いまはない。古い時代にはあったらしい。しかしラグーンは屡々氾濫するからなぁ。葡萄は潮にやられればひとたまりもない。いまはORTO WINEだけだよ。ベニスの商人たちは、アドリア海沿いで栽培された葡萄のワイン

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