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2020/12/06

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  • 名所江戸百景を訪ねて 第7景 「大てんま町木綿店」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第7景「大てんま町木綿店」大伝馬町一丁目は木綿問屋が軒を連ねていました。手前から田端屋、升屋、嶋屋です。田端屋の暖簾は短く描かれており、店内の様子を見ることができます。通りを歩く二人の芸妓がお供の小女を連れて歩いています。大伝馬町(おおでんまちょう)東京都中央区の地名です。江戸最古の町の一つで、日光・奥州街道で賑わいを見せた表通りの町です。江戸初期荷物運送の伝馬役が置かれたことから、この地名が生まれました。江戸時代には、呉服問屋、木綿問屋、旅籠屋が軒を連ねており、往時、「木綿店」と称された一角には、江戸時代には木綿問屋が74軒ありました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。最後にかつての大伝馬町一丁目付近で撮影してみました。軒を連ねていた木綿...名所江戸百景を訪ねて第7景「大てんま町木綿店」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十一の2 伊邪那岐神 禊(禊により出現した神)

    古事記上つ巻現代語訳十一の2古事記上つ巻伊邪那岐神禊(禊により出現した神)読み下し文(禊)是に詔りたまひはく、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」とのりたまひて、初め中つ瀬に堕り迦豆伎て、滌ぎたまふ時、成り坐せる神の名は、八十禍津日神。次に大禍津日神。此の二神は、其の穢繁国に到りたまふ時の、汚垢に因りて成れる神なり。次に其の禍を直さむと為て、成れる神の名は、神直毘神。次に大直毘神。次に伊豆能売神。幷せて三の神なり。次に水底に滌きたまふ時に、成れる神の名は、底津綿津見神。次に底筒之男命。中に滌きたまふ時に、成れる神の名は、中津綿津見神。次に中筒之男命。水の上に滌きたまふ時に、成れる神の名は、上津綿津見神。次に上筒之男命。此の三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神と以ち伊都久神なり。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、...古事記上つ巻現代語訳十一の2伊邪那岐神禊(禊により出現した神)

  • 東京史跡巡り 小津和紙

    東京史跡巡り小津和紙(おづわし)小津和紙(おづわし)は、承応2年(西暦1653)年伊勢商人・小津清左衛門長弘が、大伝馬町が創業した、和紙の専門店です。小津の起源伊勢商人、小津清左衛門長弘は、当時江戸随一の商業地であった大伝馬町(現在地)に承応2年(西暦1653)創業しました。爾来、幾多の事業の変遷を経て「紙商小津」として現在に至って居ります。掲示板より引用現在、小津本館ビルでは、和紙店舗だけでなく、小津史料館、小津ギャラリー、小津文化教室など展開しています。所在地東京都中央区日本橋本町3-6-2最後に訪れたのは2022年の春先。店先にはミツマタの花が咲いていました。ミツマタ3月から4月ごろにかけて、三つ叉に分かれた枝の先に黄色い花を咲かせる落葉性の低木です。和樹皮は繊維質が強く、紙や紙幣の原料として栽培も...東京史跡巡り小津和紙

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十一の1 伊邪那岐神 禊(身につけたものより出現した神)

    古事記上つ巻現代語訳十一の1古事記上つ巻伊邪那岐神禊(身につけたものより出現した神)読み下し文(禊)是を以ち伊邪那岐大神詔りたまはく、「吾は伊那志許米志許米岐穢き国に到りて在りけり。故、吾は御身の禊為む」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到り坐して、禊ぎ祓ひたまふ。故投げ棄つる御杖に成れる神の名は、衝立船戸神。次に投げ棄つる御帯に成れる神の名は、道之長乳歯神。次に投げ棄つる御嚢に成れる神の名は、時量師神。次に投げ棄つる御衣に成れる神の名は、和豆良比能宇斯能神。次に投げ棄つる御褌に成れる神の名は、道俣神。次に投げ棄つる御冠に成れる神の名は、飽咋之宇斯能神。次に投げ棄つる左の御手の手纏に成れる神の名は、奥疎神。次に奥津那芸左毘古神。次に奥津甲斐弁羅神。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成れる神の名は...古事記上つ巻現代語訳十一の1伊邪那岐神禊(身につけたものより出現した神)

  • 名所江戸百景を訪ねて 第6景 「馬喰町初音の馬場」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第6景「馬喰町初音の馬場」近景には干された反物が描かれています。中景には芽吹く前の楊が描かれています。遠景には火の見櫓が描かれています。紺屋町では染物の干場の確保が難しく、初音の馬場や火除け会所地などの公共の場を借りて染物を干していました。馬喰町東京都中央区の地名です。奥州街道の裏通りの町として馬場や郡代屋敷が存在していました。江戸初期より馬市が開かれた街で、馬の仲買人である博労(ばくろう)が住んでいたため、当初は博労町と呼ばれていました。やがて「馬喰町」となりました。現在は東京都内屈指の問屋街となっています。初音馬場徳川家が初めて江戸に造営した馬場です。紺屋町藍染を手がける染物屋が軒を連ねていたため、この町名が起こりました。描かれた場所は現在、どのようになっているのでしょ...名所江戸百景を訪ねて第6景「馬喰町初音の馬場」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十の3 伊邪那岐神と伊邪那美神 黄泉の国 三

    古事記上つ巻現代語訳十の3古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神黄泉の国三読み下し文最後に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来つ。尓して千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へ、其の石を中に置き、各対立ちて、事戸を度す時に、伊邪那美命言さく、「愛しき我那勢命、如此為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ。」ともうす。尓して伊邪那岐命、詔りたまはく、「愛しき我那邇妹命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋立てむ」とのりたまふ。是を以ちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号けて黄泉津大神と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯を以ちて、道敷大神と号く。亦其の黄泉の坂に塞りし石は、道反之大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸大神と謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。現代語訳最後に、その妻...古事記上つ巻現代語訳十の3伊邪那岐神と伊邪那美神黄泉の国三

  • 名所江戸百景を訪ねて 第5景「両ごく回向院元柳橋」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第5景「両ごく回向院元柳橋」 描かれた場所は東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗の寺院、回向院です。画面左の櫓は相撲興行のために回向院境内に組まれたもので、櫓から出ているのは梵天です。白地の梵天が掲げられているので、この日は快晴興行とわかります。櫓の上には太鼓の胴が見えます。対岸の橋は薬研掘(やげん)に架かる元柳橋(古名、難波橋)で、隅田川には荷船、屋形船、筏に猪牙船が行き交っています。遠くに富士山が見えます。 回向院回向院は東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗の寺院です。現在の回向院・正門明暦三年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曽有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代...名所江戸百景を訪ねて第5景「両ごく回向院元柳橋」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十の2 伊邪那岐神と伊邪那美神 黄泉の国 二

    古事記上つ巻現代語訳十の2古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神黄泉の国二読み下し文(黄泉の国)是に伊邪那岐命、見畏みて逃げ還ります時に、其の妹伊邪那美命、言さく、「吾に辱見せつ」とまをす。予母都志許売を遣はし追はしむ。尓して伊邪那岐命、黒御縵を取り、投げ棄つるすなはち蒲子生る。是をひりひ食む間に逃げ行でます。猶追ふ。また其の右の御美豆良に刺せさる湯津津間櫛引き闕きて投げ棄つるすなわち、笋生ふ。是を抜き食む間に、逃げ行でます。また、後には、其の八の雷神に、千五百の黄泉軍を副へ追はしむ。尓して御佩せる十拳劒を抜きて、後手に布伎都都逃げ来。猶追ふ。黄泉比良坂の坂本に到る時に、其の坂本に在る桃子三箇を取り持ち撃てば、悉にひき返りぬ。尓して伊邪那岐命、桃子に告りたまはく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に有らゆる宇都...古事記上つ巻現代語訳十の2伊邪那岐神と伊邪那美神黄泉の国二

  • 猫日記と主のつぶやき いや〜ちょっとまってよ

    今朝のこと…今日はゴミの日。家中のゴミを集めてゴミ捨てをしました。スッキリ〜😆ゴミを捨てて帰宅。すると、綺麗にしたての二つ並んだ猫トイレには…両方とも立派な💩が入っていましたとさ〜。いやいや、ちょっとまって、どうせやるなら、ゴミをすてる前にやってよ〜🥹生理現象だもん。時を選べないよ。したい時にする。それ以外はない。ですよね。再び、トイレ掃除をする主でした〜😅それでは、また。御訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みになります。ポッチっとお願いします。MIX多頭飼いランキングにほんブログ村猫日記と主のつぶやきいや〜ちょっとまってよ

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十 伊邪那岐神と伊邪那美神 黄泉の国

    古事記上つ巻現代語訳十古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神黄泉の国一読み下し文(黄泉の国)是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ほし、黄泉国に追ひ往でます。尓して殿の縢戸より出で向かへたまふ時、伊邪那岐命、語りて詔りたまはく、「愛しき我が那邇妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまふ。尓して伊邪那美命答へ白さく、「悔しきかも、速く来まさず。吾は黄泉戸喫為つ。然あれども愛しき我が那勢の命、入り来坐せる事恐し。故、還らむと欲ふ。且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ」と、かく白して、其の殿の内に還り入る間、甚久し、待ち難たまふ。故、左の御美豆良に刺させる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭し入り見たまふ時に、宇士多加礼許呂呂岐弖、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷...古事記上つ巻現代語訳十伊邪那岐神と伊邪那美神黄泉の国

  • 名所江戸百景 第4景 「永代橋佃しま」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第4景「永代橋佃しま」時は夜明けに近い時刻で、空には半月と星。水平線の辺りにはほんのりと朝日が差し始めています。永代橋は隅田川最下流に架けられた橋です。その橋の下から佃島を望んでいます。左側にある柱は永代橋の橋脚。その橋脚の側に浮かぶ漁船は、篝火を焚き、白魚漁をしています。 永代橋(えいたいばし)永代橋は、隅田川にかかる橋です。東京都道・千葉県道10号東京浦安線を通しています。国の重要文化財となっています。創架は元禄11年(1698年)3月25日で、徳川家康の江戸入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目です。架橋は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の誕生から50歳を祝う記念事業として造られました。「永代橋」の名の由来は、架橋された江戸対岸にあった中洲の永代島...名所江戸百景第4景「永代橋佃しま」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 九 伊邪那岐神と伊邪那美神 火の神を斬る(ゆる~っと訳)

    古事記上つ巻現代語訳九古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神火の神を斬る現代語訳(ゆる~っと)火の神を斬るこうしたことがあり、伊邪那岐命がおっしゃって、「愛しき我が妻の命を、子の一匹に引き替えにできようか!」と仰りました。亡くなられた伊邪那美命の枕元で腹這い、足元で腹這いになられ、声をあげて涙を流し嘆きになられた時に、その御涙から出現した神は、香山のうねっている小高い所の木のもとに鎮座していらっしゃる、名は泣沢女神。・香山(かぐやま) 奈良県橿原市にある天香久山の別表記こういうわけで、黄泉の国に去られた伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との境にある比婆山に葬りまつりました。・出雲国(いずものくに)かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。現在の島根県東部にあたる・伯伎国(ははきのくに)=伯耆国(ほうきのくに)はか...古事記上つ巻現代語訳九伊邪那岐神と伊邪那美神火の神を斬る(ゆる~っと訳)

  • 東京橋巡り 永代橋

    東京橋巡り永代橋永代橋(えいたいばし)隅田川にかかる橋です。東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通しています。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目および江東区永代一丁目です。西岸側東岸側創架は元禄11年(1698年)で、徳川家康の江戸入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうち4番目です。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の誕生から50歳を祝う記念事業として架橋されました。現在の橋は、大正15年12月20日に竣工されたもので、日本初のニューマチックケーソン工法で造られました。中央径間は、下路式スチールアーチ橋。両側は鋼桁橋です。橋の長さは184・7m。幅員は25・0mです。永代橋元禄11年(1698)に架橋された木造の永代橋は、現在の永代橋の場所よりも約150m上流のこの付...東京橋巡り永代橋

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 九 伊邪那岐神と伊邪那美神 火の神を斬る

    古事記上つ巻現代語訳九古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神火の神を斬る読み下し文(火の神を斬る)故しかして伊邪那岐命詔りたまはく、「愛しき我が那邇妹の命を、子の一木に易へむと謂ふや」とのりたまふ。御枕方に匍匐ひ御足方に匍匐ひて哭きたまふ時に、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本に坐す、名は泣沢女神。故其の神避りたまへる伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りまつりき。是に伊邪那岐命、御佩かせる十拳の劒を抜き、其の子迦具土神の頸を斬りたまふ。しかして其の御刀の前に着ける血、湯津石村に走り就き成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。三の神。次に御刀の本に着ける血も、湯津石村に走り就き成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。亦の名は豊布都神。三の神。次に御...古事記上つ巻現代語訳九伊邪那岐神と伊邪那美神火の神を斬る

  • 名所江戸百景を訪ねて 第3景 「山下町日比谷外さくら田」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第3景「山下町日比谷外さくら田」山下町から内山下掘を描いています。作品の正面に白いなまこ壁に赤い正門が描かれています。これは、佐賀鍋島蕃三十五万石の上屋敷です。右側の石垣は、笠間藩松野家八万石の上屋敷。山下町みゆき通り現在の東京都中央区銀座5丁目にある、中央区立泰明小学校(ちゅうおうくりつたいめいしょうがっこう)付近にかつて存在した地名です。日比谷(ひびや)日比谷公園・心字池日比谷の辺りは、東京湾の入江の海岸線でした。神田山の切り崩しや、桜田濠が掘られたりと、その土で日比谷の入江が埋め立てられて行き、その後は、大名屋敷地となりました。日比谷見附跡外桜田(そとさくらだ)日比谷堀、桜田堀と外堀に挟まれた場所です。外桜田は、もともとは東京湾の入江でしたが、文禄年間に埋め立てられ、...名所江戸百景を訪ねて第3景「山下町日比谷外さくら田」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 八ー3 伊邪那岐神と伊邪那美神 神生みと伊邪那美神の神避り 3

    古事記上つ巻現代語訳八ー3古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神神生みと伊邪那美神の神避り3読み下し文次に生みたまへる神の名は、鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船と謂ふ。次に大宜都比売を生みたまひ、次に火之夜藝速男神を生みたまふ。亦の名は火之炫毘古神と謂ひ、亦の名は火之迦具土神と謂ふ。此の子を生みたまひしに因りて、美蕃登炙かえりて病み臥せり。多具理に生れませる神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神。次に屎に成りませる神の名は、波邇夜須毘古神、。次に波邇夜須毘売。次に尿に成りませる神の名は、弥都波能売神。次に和久産巣日神。此の神の子は、富宇気毘売神と謂ふ。故、伊邪那美神は、火の神を生みたまひしに因りて、遂に神避り坐しぬ。 天鳥船より富宇気毘売神に至るまで幷せて八の神。おほよそ伊邪那岐、伊邪那美の二の神、共に生みたまへる...古事記上つ巻現代語訳八ー3伊邪那岐神と伊邪那美神神生みと伊邪那美神の神避り3

  • 東京史跡巡り 日比谷見附跡

    東京史跡巡り日比谷見附跡江戸城には36見附があったといわれ、日比谷見附はその一つです。見附とは、枡形(ますがた)を有する城門で、城の最も外側にあり、番兵が見張りをする場所です。日比谷見附跡この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。城の外側から順に、高麗門・枡形・渡櫓・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。当時、石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池としました。日比谷公園の心字池所在地東京都千代田区有楽町1丁目6−4最後に心字池を眺め、江戸時代のお濠を思い浮かべました。しかし、石垣を間近で見ますと、江戸時代の道具で良くぞまぁ、隙間なく組み上げたものだ、と感心しました。東京史跡巡り日比谷見附跡

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 八ー2 伊邪那岐神と伊邪那美神 神生みと伊邪那美神の神避り 2

    古事記上つ巻現代語訳八ー2古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神神生みと伊邪那美神の神避り2読み下し文次に風の神、名は志那都比古神を生みたまふ。次に木の神、名は久久能智神を生みたまひ、次に山の神、名は大山津見神を生みたまひ、次に野の神、名は鹿屋野比売神を生みたまふ。亦の名は野椎神と謂ふ。志那都比古神より野椎神に至るまで幷せて四の神。此の大山津見神、野椎神の二の神、山野に因りて持ち別けて生める神の名は、天之狭土神。次に国之狭土神。次に天之狭霧神。次に国之狭霧神。次に天之闇戸神。次に国之闇戸神。次に大戸惑子神。次に大戸惑女神。天之狭土神より大戸惑女神に至るまで幷せて八の神なり。現代語訳伊邪那岐神と伊邪那美神は、次に風の神、名は志那都比古神(しなつひこのかみ)をお生みになられました。次に木の神、名は久久能智神(くく...古事記上つ巻現代語訳八ー2伊邪那岐神と伊邪那美神神生みと伊邪那美神の神避り2

  • 猫日記と主のつぶやき 最近の

    タケちゃんの最近のお気に入りの場所は…座椅子の背もたれの上。そこってね、バランスが悪いと、座椅子が後ろに倒れちゃうんだよ〜。主は後ろに倒れた経験あり。ああ、恥ずかしい🫣さて、最近主は、以上に眠いです。体が疲れたと言っているのでしょう。ここは、流れに逆らわず、休日は猫と一緒に昼寝を貪る主でした。それでは、また。御訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みになります。ポッチっとお願いします。MIX多頭飼いランキングにほんブログ村猫日記と主のつぶやき最近の

  • 東京史跡巡り 外桜田門

    東京史跡巡り外桜田門(そとさくらだもん)外桜田門(そとさくらだもん)は、江戸城の内堀に作られた門の一つです。江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在しますが、内桜田門は桔梗門、外桜田門を桜田門と指すことが多いです。外桜田門国指定重要文化財1961年(昭和36年)6月7日指定桜田の名は、この地が古代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し、江戸の主要道が通過する場所でした。徳川家康入国直後の絵図には「小田原口」と記載されています。門周辺の石垣は、1614年(慶長19年)真壁藩(現在の茨城県)藩主浅野長重によって築かれ、寛永年間(1624~1644)に門が建築されました。門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多くありました。1860年(万延元年)桜田門外の変は、彦根藩(現在の滋賀県)の藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城...東京史跡巡り外桜田門

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 八ー1 伊邪那岐神と伊邪那美神 神生み

    古事記上つ巻現代語訳八ー1古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神神生み速秋津日子神、速秋津比売神の子読み下し文(神生みと伊邪那美神の神避り)既に国を生み竟へ、更に神を生みたまふ。故、生みたまへる神の名は、大事忍男神。次に石土毘古神を生みたまふ。次に石巣比売神を生みたまひ、次に大戸日別神を生みたまひ、次に天之吹男神を生みたまひ、次に大屋毘古神を生みたまふ。次に風木津別之忍男神を生みたまひ、次に海の神、名は大綿津見神を生みたまひ、次に水戸神、名は速秋津日子神、次に妹速秋津比売神を生みたまふ。大事忍男神より速秋津比売神に至るまで幷せて十の神。此の速秋津日子神、速秋津比売神の二柱の神、河海に因り持ち別けて、生める神の名は、沫那芸神。次に沫那美神。次に頬那芸神、次に頬那美神。次に天之水分神。次に国之水分神。次に天之久比...古事記上つ巻現代語訳八ー1伊邪那岐神と伊邪那美神神生み

  • 名所江戸百景を訪ねて 第2景 「霞かせき」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第2景「霞かせき」出典・Wikipedia門松、空高く舞い上がる凧。正月の風景を描いた作品です。作品は、霞が関坂の坂上から、東の海を望んで描いています。遠景の町並みで、飛びぬけて高い建物は、築地本願寺。凧に書かれている「魚」とは、版元の「魚栄」のことです。右側のなまこ壁は、福岡藩黒田家五十二万石の上屋敷。左側は広島藩浅野家です。霞ヶ関坂霞ヶ関坂(かすみがせきざか)は、霞が関二丁目の人事院と外務省の間を西から東へ下る坂です。 江戸時代には広壮な大名屋敷が建ち並んでいました。築地本願寺築地本願寺(つきじほんがんじ)は、東京都中央区築地3丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院です。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。最後に霞ヶ関二丁目の交差点辺りで撮影し...名所江戸百景を訪ねて第2景「霞かせき」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 七 伊邪那岐神と伊邪那美神 国生み (ゆる~っと訳)

    古事記上つ巻現代語訳七古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神国生み現代語訳(ゆる~っと)国生みこういうわけで、二神は返り降って、もう一度、先のように、天の御柱を往き廻りました。今度は、先に伊邪那岐命が、「ああ、素晴らしい、いい乙女よ」といいました。その後に、妹伊邪那美命が言って、「ああ、素晴らしい、いい男よ」といいました。このように終えて、結婚なさり、生んだ子は、淡道之穂之狭別島です。・淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)淡路島次に、伊予之二名島を生みました。この島は、身体が一つにして顔が4つありました。顔のごとに名前がありました。・伊予之二名島(いよのふたなのしま)現在の四国こういうわけで、伊予国は愛比売といい、讃岐国は飯依比古といい、粟国は大宜都比売といい、土佐国は建依別といいます。・伊予国(いよ...古事記上つ巻現代語訳七伊邪那岐神と伊邪那美神国生み(ゆる~っと訳)

  • 猫日記と主のつぶやき そうよね〜

    暑くなってきた今日この頃。流石にコタツは片付けるべきだろうと思い、ついでに模様替えをすることにしました。せっかくだから、外を眺めながらくつろぎたい、と座椅子を並べて〜すると、オットマンがわりに置いた座布団の上にタケちゃんが…いや、座椅子は確保できている。外を眺めながらくつろぐぞ〜しかし、すでに、座椅子にノブさんが…そうよね〜ここは、特等席だもんね。何か、問題でも?いえ、ございません。主は部屋の隅っこに座らせていただきます。特等席を奪われた主でした。それでは、また。御訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みになります。ポッチっとお願いします。MIX多頭飼いランキングにほんブログ村猫日記と主のつぶやきそうよね〜

  • 名所江戸百景を訪ねて 第1景 「日本橋雪晴」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第1景「日本橋雪晴」出典・Wikipedia作中で、流れる川は日本橋川です。画面中央に描かれた橋が「日本橋」。江戸時代、日本橋は、五つの陸上交通路の起点であり、全国への出発点でした。その先に見える橋が「一石橋」です。前景に描かれているのは魚河岸です。遠景左端には、江戸城。そして、雪に覆われた富士山が描かれています。日本橋日本橋日本橋は、東京都中央区にある、日本橋川に架かる橋です。重要文化財日本橋附東京市道路元標(一基)所在地中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋川)日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市...名所江戸百景を訪ねて第1景「日本橋雪晴」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 七 伊邪那岐神と伊邪那美神 国生み

    古事記上つ巻現代語訳七古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神国生み読み下し文(国生み)故尓して、返り降り、更に其の天の御柱を往き廻りたまふこと、先の如し。是に伊邪那岐命、先に言りたまはく、「阿那邇夜志愛袁登売袁」とのりたまひ、後に妹伊邪那美命言りたまはく、「阿那邇夜志愛袁登古袁」とのりたまふ。かく言ひ竟へて、御合ひたまひ、生める子は、淡道之穂之狭別島。次に伊予之二名島を生む。此の島は、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国は愛比売と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宜都比売と謂ひ、土佐国は建依別と謂ふ。次に隠伎之三子島を生みたまふ。亦の名は天之忍許呂別。次に筑紫島を生みたまふ。此の島も、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫国は白日別と謂ひ、豊国を豊日別と謂ひ、肥国を建日向日豊久士比泥別...古事記上つ巻現代語訳七伊邪那岐神と伊邪那美神国生み

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 六 伊邪那岐神と伊邪那美神 二神の結婚

    古事記上つ巻現代語訳六古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神二神の結婚現代語訳(ゆる~っと)二神の結婚ここに、その妻、伊邪那美命に問いて、「お前の体は、どのようにできている?」といいました。伊邪那美命が答えて、「私の体は、完成しましたが、完成してもなお、くっついていないところが、一ヶ所あります」といいました。 そうして、伊邪那岐命が、「私の体も、完成したが、完成してもなお、余ったところが、一ヶ所ある。こういうわけで、この私の体の余ったところを、お前の体のくっついていないところに、刺し入れて塞ぎ、国土を生みつくりたいと思うのだが。どうだろうか?」といいました。伊邪那美命が答えて、「それは良いことです」いいました。そうして、伊邪那岐命が、「それでは、私とお前とで、この天の御柱をぐるっと回り、出会ったところで、交わ...古事記上つ巻現代語訳六伊邪那岐神と伊邪那美神二神の結婚

  • 東京史跡巡り 霞ヶ関跡

    東京史跡巡り霞が関跡霞ヶ関跡霞が関は、奥州街道の関門で、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)にあったと伝えられています。その場所は、西に高台があり、東に水辺を望むといわれますが、正確な場所は分かっていません。江戸時代には、武家屋敷が立ち並び、武家屋敷の場所を示す通称地名として使われました。明治時代になり、東京府の町名として正式に決定されています。掲示板より引用最後にかつて、武家屋敷が立ち並んでいた場所、霞ヶ関。現在では、ビルが建ち並び当時の面影がありません。しかし、東京は、あちらこちらに史跡があって、ウッカリ見落としたり、新たな発見があったりと、散策をしていて面白いです。東京史跡巡り霞ヶ関跡

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 六 伊邪那岐神と伊邪那美神 二神の結婚

    古事記上つ巻現代語訳六古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神二神の結婚読み下し文(伊邪那岐神と伊邪那美神)(二神の結婚)是に其の妹伊邪那美命を問ひて曰りたまはく、「汝が身は如何にか成れる」とのたまふ。答へて白さく、「吾が身は、成り成りて、成り合はぬ処一処あり」とまをす。しかして伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて、成り余れる処一処あり。故此の吾が身の成り余れる処を以ち、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむと以為ふ。生むこと奈何」とのりたまふ。伊邪那美命へて曰さく、「然善けむ」とまをす。しかして伊邪那岐命詔りたまはく、「然らば吾と汝と、是の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比為む」と詔りたまひき。如此期りて、詔りたまはく、「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ」とのりたまふ。約り...古事記上つ巻現代語訳六伊邪那岐神と伊邪那美神二神の結婚

  • 東京史跡巡り 日本橋魚河岸跡

    東京史跡巡り日本橋魚河岸跡(にほんばしうおがしあと)日本橋魚河岸跡かつて、日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。日本橋魚河岸跡所在地中央区日本橋室町一丁目八番地域日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市場は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり...東京史跡巡り日本橋魚河岸跡

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 五 伊邪那岐神と伊邪那美神 おのごろ島

    古事記上つ巻現代語訳五古事記上つ巻伊邪那岐神と伊邪那美神おのごろ島読み下し文(伊邪那岐神と伊邪那美神)(淤能碁呂嶋)是に天つ神諸の命以ち、伊邪那岐命、伊邪那美命の、二柱の神に、詔りたまはく、「是のただよへる国を修理め固め成せ」とのりたまひ、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ふ。故、二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして画かせば、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上ぐる時に、其の矛の末より垂り落つる塩の累積り嶋と成る。是れ、淤能碁呂島なり。其の嶋に天降り坐して、天の御柱を見立て八尋殿を見立てたまふ。現代語訳伊邪那岐神と伊邪那美神おのごろ島ここに天つ神諸の命をもち、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の、二柱の神に、詔りして、「このただよえる国をおさめ固め成せ」と仰せになり、天...古事記上つ巻現代語訳五伊邪那岐神と伊邪那美神おのごろ島

  • 東京史跡巡り 日本橋

    東京史跡巡り日本橋(にほんばし)日本橋日本橋(にほんばし)は、東京都中央区にある、日本橋川に架かる橋です。徳川家康が江戸大普請で江戸の町割を新たに行った際、新しく架橋され、その後何代にもわたり架け替えられ、現在に至っています。慶長9年(1604年)までに、日本橋を基点として、五畿七道が整備され一里塚が築かれました。現在のものは、1911年に架けられたもので、設計は米元普一、装飾は妻木頼黄が担当しました。石造りの2連アーチ橋で、橋長49メートル、橋幅28メートル、アーチ径間が21メートル。装飾用材は青銅で、橋の中央及び橋台部の4隅に「花形ランプ付方錘柱」を建て、各柱座に麒麟の像を配置しています。花形ランプ付方錘柱麒麟像重要文化財日本橋附東京市道路元標(一基)所在地中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋...東京史跡巡り日本橋

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 四 天地の創成

    古事記上つ巻現代語訳四古事記上つ巻天地の創成読み下し文(天地の創成)天地初めて發くる時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隱したまふ。次に国稚く、浮ける脂の如くして、海月なす漂えるときに、葦牙の如く萌え騰る物によりて、成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神。次に天之常立神。この二柱の神も、みな獨神と成りまして、身を隱したまふ。 上の件、五柱の神は、別天つ神。次に成りませる神の名は、国之常立神。次に豊雲野神。この二柱の神も、獨神と成りまして、身を隱したまる。次に成りませる神の名は、宇比地迩神。次に妹須比智迩神。次に角杙神。次に妹活杙神。次に意富斗能地神。次に妹大斗乃辨神。次に淤母陀流神。次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐...古事記上つ巻現代語訳四天地の創成

  • 猫日記と主のつぶやき まいったな

    久しぶりの猫日記です。何だか、色々と忙しくて、ネタがありながらも更新が滞り気味。申し訳ないです💦さて、主らが新居に引っ越して、1ヶ月経ちました。すっかり、新居になれた二匹。しかし、主はと言うと…全く荷物が片付かず、とうとう開かずの間を作ってしまいました😅いつになったら、片付くのやら〜。まぁ、毎日、少しづつ、片付けていったなら、いつか片付くであろう🙂頑張ります。それでは、また。御訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みになります。ポッチっとお願いします。MIX多頭飼いランキングにほんブログ村猫日記と主のつぶやきまいったな

  • 参拝日記・手児奈霊神堂

    手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)概要手児奈霊神堂は、千葉県市川市真間にある霊堂です。伝説上の女性手児奈を祀る霊堂です。創建天平9年(737年)別名手児奈霊堂略縁起奈良時代の天平9年(737年)行基菩薩がこの地を訪れ、手児奈の悲話を聞いて、痛くその心情を哀れと思い、「求法寺」を建立したのが始まりです。手児奈霊堂(てこなれいどう)手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人びとが争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ...参拝日記・手児奈霊神堂

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 三 ゆる~っと訳 古事記の成立

    古事記上つ巻現代語訳三ゆる~っと訳古事記上つ巻古事記の成立現代語訳(ゆる~っと)古事記の成立伏して思うに、今上陛下・元明天皇は、天命を受けて国を治め、天・地・人の三つを通じて、民をそだて養っておられます。また、宮中にいらっしゃりながら、その徳は、馬が行ける果てまでも覆い、玄扈(げんこ)に座っていらっしゃりながら、教化は、船の先が行けるところまでも、照らしておられます。・玄扈(げんこ)ネットで調べてみますと、読みは出てくるのですが、意味に関しては検索できませんでした。私が思うに、高御座のことではないかと思います。日が昇っては、陽光が重なり、雲が風に散って跡形もなく消えましたが、煙ではない。(ブロッケン現象、日本でいう御来光でしょうか?)枝がひとつに合わさる、木連理(もくれんり)、・木連理(もくれんり)根や幹...古事記上つ巻現代語訳三ゆる~っと訳古事記の成立

  • 参拝日記・弘法寺

    弘法寺(ぐほうじ)概要弘法寺は、千葉県市川市真間四丁目にある日蓮宗の本山です。御本尊三宝尊創建天平9年(737年)正式名真間山弘法寺略縁起伝えによりますと、奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされています。境内祖師堂仁王門鐘楼堂伏姫桜住所千葉県市川市真間4−9−1アクセスJR東日本総武線市川駅徒歩15分京成電鉄京成本線国府台駅・市川真間駅徒歩10分最後に長い階段の参道を登った先にある弘法寺。こちらの場所は、2019年放映のNHK大河ドラマ「いだてん」で五りん役の神木隆之介さんが、愛宕神社の石段を駆け上るシーンは弘法寺で撮影されたそうです。確かに、愛宕神社の石段に匹敵する、階段でした。階段を登り疲労困憊となった主。正面の建物が本堂だと思って撮影し、帰宅後写真整理すると、...参拝日記・弘法寺

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 3 古事記の成立

    古事記上つ巻現代語訳三古事記上つ巻古事記の成立読み下し文(古事記の成立)伏して惟うに、皇帝陛下、一つを得て光宅し、三つを通ひて亭育ひたまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被り、玄扈に坐して化は船頭の逮る所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散りて烟に非ず。柯を連ね穗を并す瑞、史書すことを絶たず、烽を列ね、訳を重ぬる貢、府に空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙よりも冠れりと謂ひつべし。ここに、舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯ふるを正さむと、和銅四年九月十八日を以ち、臣安萬侶に詔りたまはく、「稗田阿禮が誦める勅語の舊辭を撰び録して、獻上れ」とのりたまへば、謹みて詔の旨のまにまに、子細に採り摭ひつ。然れども、上古の時、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字には難し。已に訓により述ぶれば...古事記上つ巻現代語訳3古事記の成立

  • 参拝日記・妙福寺

    妙福寺(みょうふくじ)概要妙福寺は、東京都大田区南千束にある日蓮宗の寺院です。洗足池の由来となった日蓮が袈裟をかけたとされる松があります。本尊三宝祖師創建寛永年間正式名星頂山妙福寺別名御松庵略縁起日蓮が池上にある池上宗仲の館に向かう途中、近隣の大池(現在の洗足池)で休憩をとり、傍にあった松の木に法衣をかけて、池の水で手足を洗いました。その際、池から七面天女が現れたといいます。その後、このことを記念しようと、七面天女を安置するお堂を建てたのが御松庵の由来です。境内本堂山門袈裟掛けの松現在の松は三代目です。日蓮上人袈裟懸けの松由来弘安5年9月(1282)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足...参拝日記・妙福寺

  • 古事記 上つ巻 古事記の企画 ゆる~っと訳

    古事記・現代語訳古事記上つ巻古事記の企画現代語訳(ゆる~っと)古事記の企画飛鳥清原大宮で、日本を統治なさった天武天皇の御世に至ります。天に昇る前の、水に潜れる龍の徳をお持ちになり、しきりに鳴る雷のように、天子になる時に答えようとなされました。夢の中で歌を聞き、天皇の位を受け継ぐ神託と判断し、夜の川に行き占い、天皇の位を承けつぐ立場であることを感じとりました。しかしながら、天命の時には至っていないと、南の山・吉野で、蝉が殻を脱ぐように、衣を脱いで法衣をまとい、出家なされました。天命と人の事が共に備わると、東の国に虎の勢いで進みました。天皇の輿は、たちまちに進軍し、山を越え、川を渡り、天皇の率いる軍隊は、雷鳴轟くように進撃し、将軍が率いる三軍は、雷光のように先行しました。天皇が矛を杖つくと、威勢が挙がり、猛き...古事記上つ巻古事記の企画ゆる~っと訳

  • 参拝日記・浄閑寺

    浄閑寺(じょうかんじ)概要浄閑寺(じょうかんじ)は東京都荒川区南千住にある浄土宗の寺院です。本尊阿弥陀如来創建明暦元年(1655年)正式名栄法山清光院浄閑寺別名三ノ輪の浄閑寺投込寺略縁起明暦元年に、天蓮社晴誉順波和尚により開山しました。そのほか投込寺投込寺(浄閑寺)浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(一七四三)から大正十五年(一九二六)にいたる、十冊の過去帳が現存する。遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れ...参拝日記・浄閑寺

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 2 古事記の企画

    古事記上つ巻現代語訳二古事記上つ巻古事記の企画(古事記の企画)読み下し文飛鳥清原大宮に、大八洲しめしし天皇の御世に曁る。濳れる龍元に体ひ、洊る雷期に応ふ。夢の歌を聞きて業を纂がむことを相ほし、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまふ。然れども、天の時臻らず、南の山に蝉のごとく蛻け、人の事共給はり、東の国に虎のごとく歩みたまひき。皇輿たちまちに駕し、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。矛を杖き威を挙げ、猛き士烟のごとく起こり、絳き旗兵を耀かし、凶き徒瓦のごとく解けぬ。今だ浹辰も移らずして、氣殄自づから清まりぬ。牛を放ち馬を息へ、愷悌して華夏に帰り。旌を巻き戈を戢め、舞ひ詠ひ都邑に停まりたまふ。歳は大梁に次り、月は侠鍾に踵たり、清原の大宮に、昇りて天位即しめしき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王...古事記上つ巻現代語訳2古事記の企画

  • 参拝日記・増上寺

    増上寺(ぞうじょうじ) 概要増上寺は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院です。浄土宗の七大本山の一つです。将軍徳川家の菩提寺です。本尊阿弥陀如来創建明徳4年(1393年)正式名三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)略縁起9世紀、空海の弟子・宗叡(しゅうえい)が武蔵国貝塚(現・千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身と言われています。室町時代の明徳4年(1393年)に、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めました。貝塚から、一時、日比谷に移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)に徳川家康により、現在地の芝へ移されました。風水的に江戸の鬼門に寛永寺を配し、裏鬼門である芝に増上寺を移したと考えられています。 増上寺掲示板増上寺沿革浄土宗の七大本...参拝日記・増上寺

  • 古事記 上つ巻 序文 過去の回顧 ゆる〜っと訳

    古事記・現代語訳古事記・上つ巻序文過去の回顧現代語訳(ゆる~っと)古事記上つ巻(かみつまき)序文をつけてあります。序文過去の回顧臣下である安万侶が申し上げます。そもそも、天地が一つに分けれていない、初めの状態が、やっと凝り固まりましたが、気も形もいまだに現れていませんでした。ですから、名づけようにもすべもなく、誰もその形を知りませんでした。しかし、初めて天と地が分かれ、三柱の神が、天神の始まりとなりました。造化の三神天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)高御産巣日神(たかみむすびのかみ)神産巣日神(かみむすひのかみ)ここに、陰陽が分かれて、二柱の神が万物の祖神となられました。二柱伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美命(いざなみのかみ)こういうわけで、伊邪那岐神と伊邪那美命は、黄泉の国と現世に出で入りしまし...古事記上つ巻序文過去の回顧ゆる〜っと訳

  • 参拝日記・正受院

    思惟山正受院浄業三昧寺概要正受院(しょうじゅいん)は、東京都北区滝野川二丁目にある浄土宗の寺院です。水こや赤ちゃんを供養する納骨堂があることから、「赤ちゃん寺」とも呼ばれています。本尊阿弥陀如来創建弘治年間別名正受院は赤ん坊の納骨や供養をしていることから「赤ちゃん寺」と呼ばれています。略縁起伝承によりますと、室町時代の弘治年間(1555~1558)に、大和国(現・奈良県)で修行をしていた学仙房という僧が、霊夢によって同地を訪れ、正受院を開いたと言われています。境内本堂 山門 不動堂 石造近藤守重坐像石造近藤守重坐像正受院本堂前所在坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府」という標柱をたてた近藤守重の肖像です。守重は、明和八(一七七一)年、江戸町奉行所与力の次男とし...参拝日記・正受院

  • 古事記 上つ巻 序を幷せつ 序文 過去の回顧

    古事記上つ巻序を幷せつ(序文)(過去の回顧)読み下し文上つ巻序を幷せつ(序文)(過去の回顧)臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象效れず、名も無く為も無く、誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分れて、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊羣品の祖と為れり。所以に幽と顕に出で入り、日と月と目を洗ふに彰れ、海水に浮き沈みて、神と祗身を漱ぐに呈る。故、太素は杳冥なれども、本つ教へに因りて土を孕み嶋を産みし時を識り、元始は綿邈けれども、先聖に頼りて、神を生み人を立てし世を察れり。寔に知る、鏡を懸け、珠を吐きて、百の王相續ぎ、劔を喫み虵を切りて、萬の神蕃息りしことを。安河に議りて天の下を平け、小濱に論ひて国土を清めたまひき。是を以ち番仁岐命。初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津嶋に經歴りたまふ。熊と化れるもの川を...古事記上つ巻序を幷せつ序文過去の回顧

  • 参拝日記・金剛寺

    瀧河山松橋院金剛寺概要金剛寺(こんごうじ)は、東京都北区滝野川3丁目にある真言宗豊山派の寺院です。源頼朝の布陣伝承の地です。本尊不動明王創建弘法大師の時代別名紅葉寺徳川八代将軍吉宗の命により、カエデが植樹され、金剛寺も「紅葉寺」として今も親しまれています。略縁起寺伝によりますと、弘法大師・空海がこの地を遊歴し自ら不動明王像を掘ったといわれています。境内本堂 山門 弁天堂 石像群 そのほか源頼朝の布陣伝承源頼朝の布陣伝承地滝野川三ー八八ー一七金剛寺境内治承四年(一一八〇)八月、源義朝の三男頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも石橋山の合戦で敗れて安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、隅田川を渡ります。滝野川・板橋を経て、府中六所明神へ向かい、さらにそこから鎌倉を目指します...参拝日記・金剛寺

  • 古事記・はじめに

    古事記奈良初期に編纂された、天地開闢から推古天皇までの歴史を記した書で、日本現存最古の史書です。蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変・いっしのへん)に、憤慨した蘇我蝦夷は、邸宅に火をかけて自害しました。その際、朝廷に保管されていた書庫までもが炎上し、「天皇紀」などの多くの歴史書が失われました。天武天皇の命で、稗田阿礼が読み覚えていた『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し編纂し、和銅5年(712年)に、元明天皇に献上したことで成立しました。日本書紀を読み終えたので、今度は古事記を読んでいきたいと思います。古事記を現代語訳している方は、たくさんいらっしゃるので、サラ~っと、ゆる~っと訳していきたいと思っています。(タブンネ)再び、お付き合いいただけたら幸いです。よろしくお願いします。明日に続く古事記・はじめに

  • 参拝日記・善光寺

    善光寺(ぜんこうじ)概要善光寺(ぜんこうじ)は、埼玉県川口市にある真言宗智山派の寺院です。江戸時代には、「日本三大善光寺」の一つとされ、大いに賑わいました。本尊善光寺式阿弥陀三尊創建建久8年(1197年)別名舟戸善光寺略縁起建久8年(1197年)、定尊が信濃の善光寺の阿弥陀三尊を模造して安置し開創しました。境内本堂住所埼玉県川口市舟戸町1-29アクセスJR京浜東北線川口駅徒歩15分最後に江戸時代には、「日本三大善光寺」の一つとされ、善光寺と同じご利益がいただけると、大いに賑わったといいます。私が訪れた時には、静かな佇まいのお寺でした。荒川対岸からの善光寺参考Wikipedia平等山善光寺HP参拝日記・善光寺

  • 日本書紀・現代語訳・あとがき

    長い間、お付き合いいただいた日本書紀。やっと読み終えることができました。これも読んでくださる方々がいてくださったからこそ。読み始めたのは、日本書紀が編纂されてから1300年に当たる、2020年1月1日から、読み終えたのは2023年5月7日。2023年は、天武天皇即位1350年の節目の年です。※奈良県観光公式サイトよりお借りしました。イベントは全て終了しております。何か、ご縁を感じます。さて、足掛け三年。本当に長かったです。最初の、天地開闢や神産み・国産み、天照大神・素戔嗚尊の誓約や天孫降臨・神武天皇の条あたりは、楽しんで読むことが出来たのですが…中盤、他国とのやり取りが出てきた辺りから。同じことの繰り返しで、読むのが辛かったことを思い出します。もう、俺、何でこんなことを始めてしまったのか!やめたい。と後悔...日本書紀・現代語訳・あとがき

  • 参拝日記・駒形堂

    駒形堂(こまかたどう)概要駒形堂は、東京都台東区雷門二丁目にある堂です。馬頭観音を祀っています。本尊馬頭観世音菩薩創建天慶5年(942)大祭四月十九日略縁起天慶五年(942)、平公雅(たいらのきんまさ)が浅草寺(せんそうじ)造営の際、浅草観音示現の地に建立したといわれています。馬頭観音を祀っています。江戸時代には川に面して東側を向いて建てられていましたが、現在は川を背にして西側を向いて建てられています。ご本尊ご示現の聖地駒形堂駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かった。このお堂のご本...参拝日記・駒形堂

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇六十 ・雨乞い

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇六十・雨乞い・開眼会・譲位五月八日、大夫・謁者を遣わして、諸々の社を詣でさせ、請雨(しょうう)しました。六月二日、罪人を赦しました。六日、詔して、經を京畿(みやこうちつくに)の諸々の寺で読ませました。十六日、五位以上を遣わして、京の寺を掃い清めさせました。十九日、幣を神祇に班しました。二十六日、公卿、百寮が、始めて、天皇の病のために願うための佛像を造りました。癸卯(5月8日)、大夫、謁者を遣わして、諸々の社を詣でさせ、請雨しました。秋七月七日夜半、足枷・首枷の盜賊・百九人を赦しました。かさねて、布を人ごとに四常、賜りました。ただし、外国者には稻を人ごとに二十束。十二日、使者を遣わして、廣瀬と龍田を祀りました。二十九日、公卿、百寮が、佛の眼を開く会を藥師寺で設けました。八月一...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇六十・雨乞い

  • 参拝日記・金龍山浅草寺

    金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)概要金龍山浅草寺は、東京都台東区浅草二丁目にある寺院です。聖観世音菩薩を本尊としています。本尊聖観世音菩薩創建推古天皇36年別名浅草観音浅草寺略縁起寺伝によりますと、宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟は、投網の中に一躰の像を発見しました。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて漁をしました。しかし、そのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れませんでした。そこで、兄弟はこの尊像を持ち帰りました。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養しました。これが浅草寺の始まりといいます。浅草寺縁起縁起(由来)時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(六二八)...参拝日記・金龍山浅草寺

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十九 ・無遮大會

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十九・無遮大會十一年春正月七日、公卿大夫等を饗(もてな)しました。十一日、天下の鰥寡(やもめ)、孤獨、篤癃(あつえひと)、貧しくて自ら生きていけない者に、稻を賜りましたが、各々差がありました。十六日、公卿、百寮を饗(もてな)しました。二月二十八日、直廣壹の当麻真人国見(たぎまのまひとくにみ)を東宮大傅(とうぐうのたいふ)としました。直廣參の路真人跡見(みちのまひととみ)を春宮大夫(しゅんぐうのかみ)とし、直大肆の巨勢朝臣粟持(こせのあそみあわもち)を亮(すけ)としました。三月八日、無遮大會(かぎりなきおがみ)を春宮で設けました。 夏四月四日、満選者(かうぶりたまわるべきひと)に、淨位から直位に至るまでを授けましたが、各々差がありました。七日、吉野宮に幸しました。十四日、使...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十九・無遮大會

  • 参拝日記・待乳山聖天

    待乳山聖天(まつちやましょうでん)概要本龍院(ほんりゅういん)は、東京都台東区浅草にあるにある聖観音宗の寺院です。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音です。待乳山聖天(まつちやましょうでん)とも称されます。例年一月に行われる「大根まつり」でも知られています。また、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られています。本尊歓喜天(聖天)・十一面観音創建推古天皇三年別名待乳山聖天(まつちやましょうでん)しょうでんさま略縁起隅田川沿いの小高い丘(待乳山)は、推古天皇三年九月に出現し、龍が守護したと伝えられています。推古天皇九年にこの地方が旱魃に見舞われた時、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えらています。境内本堂待乳山聖天台東区浅草七丁目四番一号本龍院待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建...参拝日記・待乳山聖天

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十八 ・資人を与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十八・資人を与える九月十五日、直大壹を若桜部朝臣五百瀬(わかさくらべのあそみいほせ)に贈りました。あわせて、賻物を賜りました。元から従った功をあらわしたのです。冬十月十七日、右大臣の丹比真人(たじひのまひと)に輿(こし)と杖を賜りました。致を哀しんだのです。二十二日、仮に、正廣參の位の右大臣の丹比真人に、資人(しじん)・百二十人を賜りました。正廣肆の大納言の阿倍朝臣御主人(あへのあそみみぬし)、大伴宿禰御行(おおとものすくねみゆき)には、並びに八十人。直廣壹の石上朝臣麻呂(いそのかみのあそみまろ)、直廣貳の藤原朝臣不比等(ふじわらのあそみふひと)には、並びに五十人。 十一月十日、大官大寺の沙門の弁通(べんつう)に、食封・四十戸を賜りました。十二月一日、勅旨して、金光明經を...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十八・資人を与える

  • 参拝日記・真福寺

    真福寺(しんぷくじ)概要東京都港区にある真言宗智山派の寺院です。御本尊薬師如来創建慶長十年(1605)略縁起慶長十年(1605年)、中興照海上人(しょうかいしょうにん)によって開山されました。元々は鉄炮洲にあった小庵を現在地に移転して寺院化したものです。住所東京都港区愛宕1−3−8アクセス東京メトロ日比谷線虎ノ門ヒルズ駅徒歩3分参考Wikipedia別院真福寺HP参拝日記・真福寺

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十七 ・吉野宮への行幸 ・高市皇子の死

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十七・吉野宮への行幸・高市皇子の死五月三日、詔して、大錦上の秦造綱手(はだのみやつこつなて)に、姓を賜り、忌寸(いみき)としました。四日、吉野からかえりました。八日、直廣肆を尾張宿禰大隅(おわりのすくねおおすみ)に授けました。あわせて、水田・四十町を賜りました。十三日、直廣肆を大狛連百枝(おおこまのむらじももえ)に贈りました。あわせて、賻物を賜りました。六月十八日、吉野宮に幸しました。二十六日、吉野からかえりました。秋七月一日、日蝕がありました。二日、罪人を赦しました。八日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。十日、後皇子尊(のちのみこのみこと)が薨(みまか)りました。八月二十五日、直廣壹を多臣品治(おおのおみほむじ)に授けました。あわせて、物を賜りまし...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十七・吉野宮への行幸・高市皇子の死

  • 参拝日記・築地本願寺

    築地本願寺(つきじほんがんじ)概要東京都中央区築地3丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院です。御本尊阿弥陀如来立像創建元和三年(1617年)正式名称浄土真宗本願寺派築地本願寺略縁起江戸時代の元和三年(1617年)に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町に建立されました。しかし、明暦の大火により本堂が焼失しました。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地に再建が認められず、其の代替地として八丁堀沖の海上が下付され、佃島の門徒が中心となり海を埋め立てて土地を築き、1679年に再建されました。重要文化財築地本願寺本堂一棟附正門・北門・南門(各一所)、石塀(五基)所在地中央区築地三丁目一五番一号浄土真宗本願寺派(京都西本願寺)の直轄寺院・築地本願寺は、江戸時代初期の元和三年(一六一七)、浅草近くの横山町に創建されまし...参拝日記・築地本願寺

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十六 ・公卿大夫らを饗応

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十六・公卿大夫らを饗応十年春正月七日、公卿大夫を饗(もてな)しました。十一日、直大肆を百濟王の南典(なんでん)に授けました。十五日、御薪を進めました。十六日、公卿百寮人等を饗しました。十八日、公卿百寮が、南門で射りました。二月三日、吉野宮に幸しました。十三日、吉野からかえりました。 三月三日、二槻宮(ふたつきのみや)に幸しました。十二日、越の度嶋の蝦夷の伊奈理武志(いなりむし)と肅愼(みしはせ)の志良守叡草(しらすえそう)に、錦袍袴、緋、紺の絁、斧等を賜りました。夏四月十日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。二十七日、追大貳を伊豫国の風速郡(かぜはやのこおり)の物部薬(もののべのくすり)と肥後国の皮石郡(かわしのこおり)の人の壬生諸石(みぶのもろし)に...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十六・公卿大夫らを饗応

  • 猫日記と主のつぶやき あわわわ〜

    久しぶりの猫日記です。引っ越ししてから2週間ほど経ちました。二匹もだいぶ慣れた様子。くつろぎモード。さて、引っ越しする前に、ネット回線工事やエアコン設置工事などなどをしておきたかったのですが…そこは、繁盛期。なかなか、予約が取れず。引っ越し後の工事となりました。工事当日。猫ちゃんたちは、一つの部屋に籠っていただき、工事開始。何とか工事は終わったのですが…ストレス溜まりまくりの奴らがガリガリガリ〜あわわわわ〜😖新築の壁が😭泣き寝入りするしかない主でした。それでは、また。御訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みになります。ポッチっとお願いします。MIX多頭飼いランキングにほんブログ村猫日記と主のつぶやきあわわわ〜

  • 参拝日記・不忍池辯天堂

    不忍池辯天堂概要上野公園南側にある不忍池の弁天島(中之島)に、天海が竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請して建立しました。御本尊辯才天創建寛永年間略縁起江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。天海は寛永2年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、江戸城の鬼門の守りとして、「東叡山寛永寺」を開きました。そして、比叡山や京都の寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しました。天然の池だった不忍池を琵琶湖に見立てて、もともとあった小さな島を弁天島(中之島)に見立てて、天海が竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請して建立しました。島は常陸下館主水谷勝隆が築いたもので、当初は橋がなく、船で参詣していましたが、江戸時代に参拝客が増えると、橋が架けられ...参拝日記・不忍池辯天堂

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十五 ・徒刑囚を放免する ・小野朝臣毛野らが新羅に出発する

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十五・徒刑囚を放免する・小野朝臣毛野らが新羅に出発する秋七月二十三日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。二十六日、遣新羅使に擬えた、直廣肆の小野朝臣毛野(おののあそみけの)、務大貳の伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)等に物を賜りましたが、各々差がありました。八月二十四日、吉野に幸しました。三十日、吉野からかえりました。九月四日、行獄徒繋を原放(げんほう)しました。六日、小野朝臣毛野(おののあそみけの)等が、新羅に向けて発しました。十月十一日、菟田の吉隱(よなばり)に行幸しました。十二日、吉隱からかえりました。十二月五日、吉野宮に幸しました。十三日、吉野からかえりました。淨大肆の泊瀬王(はつせのおおきみ)に賻物(ふもつ)を賜りました。・原放(げんほう)放...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十五・徒刑囚を放免する・小野朝臣毛野らが新羅に出発する

  • 参拝日記・清水観音堂

    清水観音堂概要上野公園内にあり、千手観音を祀っています。寛永8年(1631年)の建立されました。京都の清水寺本堂と同様の懸造建築です。御本尊千手観音創建寛永8年(1631)略縁起清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。天海は寛永2年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、江戸城の鬼門の守りとして、「東叡山寛永寺」を開きました。そして、比叡山や京都の寺院になぞらえた堂舎を次々と建立。清水観音堂は京都の清水寺を見立てて作られたお堂です。境内本堂 手水舎 月の松参道時の鐘秋色桜住所東京都台東区上野公園1丁目29アクセスJR・京成・東京メトロ上野駅徒歩3~10分参考Wikipedia清水観音堂HP参拝日記・清水観音堂

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十四 ・賀茂朝臣蝦夷らに賻物を与える ・雨乞い

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十四・賀茂朝臣蝦夷らに賻物を与える・雨乞い夏四月九日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。十七日、直廣參を賀茂朝臣蝦夷(かものあそみえみし)に贈りました。あわせて、賻物(ふもつ)を賜りました。(本の位は、勤大壹です)直大肆を文忌寸赤麻呂(ふみのいみきあかまろ)に贈りました。あわせて、賻物を賜りました。(本の位は、大山中です)五月十三日、隼人大隅を饗(もてな)しました。二十一日、隼人の相撲を、西の槻(つき)の下で観ました。六月三日、大夫と謁者を遣わして、京師(みやこ)、及び、四畿內の諸社を詣でて、請雨(しょうう)をしました。十六日、諸臣で年が八十以上、及び痼疾(こしつ)の者に、ものを賜りましたが、各々差がありました。十八日、吉野宮に幸しました。二十六日、吉...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十四・賀茂朝臣蝦夷らに賻物を与える・雨乞い

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