chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
leetorinnote
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2020/12/06

arrow_drop_down
  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十三 ・公卿大夫。百官らを饗応する ・新羅の使者の来日 ・使者を種子島に派遣する

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十三・公卿大夫。百官らを饗応する・新羅の使者の来日・使者を種子島に派遣する九年春正月五日、淨廣貳を皇子舍人に授けました。七日、公卿大夫を內裏で饗(もてな)しました。十五日、御薪(みかまぎ)を進めました。十六日、百官人等を饗(もてな)しました。十七日、射りました。四日でおわりました。閏二月八日、吉野宮に幸しました。十五日、車駕が宮に還りました。三月二日、新羅が、王子の金良琳(きんりょうりん)、補命(ふみょう)の薩飡(さつさん)の朴強国(ぼくごうこく)等、及び、韓奈麻(かんなま)の金周漢(きんしゅうかん)、金忠仙(きんちゅうせん)等を遣わして、請国の政を奏しました。また、調(みつき)を進め、物を献(たてまつ)りました。十二日、吉野宮に幸しました。十五日、天皇は、吉野からかえり...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十三・公卿大夫。百官らを饗応する・新羅の使者の来日・使者を種子島に派遣する

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十二 ・巡察使を諸国に派遣する ・藤原宮に遷居する

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十二・巡察使を諸国に派遣する・藤原宮に遷居する秋七月四日、巡察使を諸国に遣わしました。十五日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。八月十七日、皇女飛鳥のために、沙門・百四口が度しました。九月一日、日蝕がありました。四日、吉野宮に幸しました。二十二日、淨廣肆の三野王(みののおおきみ)を筑紫大宰率(つくしのおおみこともちのかみ)に拝しました。冬十月二十日、進大肆を、白い蝙蝠を獲た者、飛騨国の荒城郡(あらきのこおり)の弟国部弟日(おとくにべのおとひ)に賜りました。あわせて、絁(ふとぎぬ)・四匹、綿・四屯、布・十端を賜りました。その戸の課役は、身に限り、ことごとく免しました。十一月二十六日、殊死より以下を赦しました。 十二月六日、藤原宮に遷居しました。九日、百官...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十二・巡察使を諸国に派遣する・藤原宮に遷居する

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十一 ・河内王らに賻物を与える ・金光明経を諸国に配置する ・白い山鳥

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十一・河内王らに賻物を与える・金光明経を諸国に配置する・白い山鳥夏四月五日、淨大肆を、筑紫大宰率(つくしのおおみこともちのかみ)の河内王(かふちのおおきみ)に贈りました。あわせて、賻物(ふもつ)を賜りました。七日、吉野宮に幸しました。十三日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。丁亥、天皇が、吉野宮からかえりました。十七日、律師道光(りつしどうこう)に賻物(ふもつ)を贈りました。五月六日、公卿・大夫を內裏で饗(もてな)しました。十一日、金光明經・百部を、諸国に送り置きました。必ず毎年、正月の上玄に取って読むこととし、その布施は、国の官物を当てて充すこととしました。六月八日、河內国の更荒郡(さららのこおり)が、白い山鶏(やまどり)を献(たてまつ)りました。更...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十一・河内王らに賻物を与える・金光明経を諸国に配置する・白い山鳥

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五十 ・日蝕 ・鋳銭司の拝命 ・益須寺の醴泉

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十・日蝕・鋳銭司の拝命・益須寺の醴泉三月一日、日蝕がありました。二日、直廣肆の大宅朝臣麻呂(おおやけのあそみまろ)、勤大貳の臺忌寸八嶋(うてなのいみきやしま)、黄書連本実(きふみのむらじほんじつ)等をもって、鋳銭司(ぜにのつかさ)に拝しました。十一日、詔して、「凡そ、位の無い人を、郡司に任するには、進廣貳を大領(こおりのみやつこ)を授け、進大參を小領(すけのみやつこ)を授けるように」といいました。十六日、詔して、「七年の歲次癸巳に、醴泉が近江国の益須郡(やすのこおり)の都賀山(つがやま)に湧き出た。諸々の病人が、益須寺(やすでら)に停まり宿り、療し、癒えた者がおおくいる。故に、水田・四町、布・六十端を入れる。益須郡の今年の調役・雜徭を除する。国司の頭(かみ)から目(さかん...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五十・日蝕・鋳銭司の拝命・益須寺の醴泉

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十九 ・布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行を氏上とする ・漢人と唐人の踏歌 ・大射

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十九・布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行を氏上とする・漢人と唐人の踏歌・大射八年春正月二日、正廣肆を直大壱の布勢朝臣御主人(ふせのあそみみぬし)と大伴宿禰御行(おおとものすくねみゆき)に授けました。封を人ごとに二百戸増やしました。前と通して五百戸。並びに氏上(うじのかみ)としました。七日、公卿等を饗(もてな)しました。十五日、御薪(みかまぎ)を進めました。十六日、百官人等を饗(もてな)しました。十七日、漢人(あやひと)が、蹈歌を奏じました。五位以上が、射しました。十八日、六位以下が射しました。四日でおわりました。十九日、唐人が、蹈歌を奏じました。二十一日、藤原宮に幸しました。卽日、宮に還りました。二十三日、務廣肆等の位を、大唐・七人と肅愼(みしはせ)・二人に授けました。二十四日...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十九・布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行を氏上とする・漢人と唐人の踏歌・大射

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十八 ・醴泉の試飲

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十八・醴泉の試飲十一月五日、吉野宮に幸しました。七日、耽羅(たむら)の王子の佐平等に賜りましたが、各々差がありました。十日、車駕が、宮に還りました。十四日、沙門の法員(ほういん)、善往(ぜんおう)、真義(しんぎ)等を遣わして、試しに、近江国の益須郡(やすのこおり)の醴泉(れいせん)を服飲(ふくいん)させました。二十三日、直大肆を直廣肆の引田朝臣少麻呂(ひけたのあそみすくなまろ)に授けました。かさねて、食封・五十戸を賜りました。十二月二十一日、陣法博士等を遣わして、諸国に教習(きょうしゅう)させました。・耽羅(たむら)済州島・醴泉(れいせん)甘い味の泉。中国で、太平の世にわき出たといわれる・服飲(ふくいん)薬やサプリメントなどを飲むことを意味する表現・教習(きょうしゅう)特...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十八・醴泉の試飲

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十七 ・天武天皇のために無遮大會を設ける ・兵器を観閲する ・仁王經を説く

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十七・天武天皇のために無遮大會を設ける・兵器を観閲する・仁王經を説く八月一日、藤原の宮地に幸しました。十七日、吉野宮に幸しました。二十一日、車駕が、宮に還りました。九月一日、日蝕がありました。五日、多武嶺(とうのみね)に幸しました。六日、車駕が、宮に還りました。十日、淸御原天皇(きよみはらのすめらみこと)のために、無遮大會(かぎりなきおがみ)を內裏で設けました。繋囚(けいしゅう)を悉く原遣(げんけん)しました。十六日、直廣參を蚊屋忌寸木間(かやのいみきこのま)に贈りました。あわせて賻物(ふもつ)を賜りました。壬申の年の役の功を褒めました。冬十月二日、詔して、「今年から、親王から始まり、下の進位に至るまで、儲(たくわ)えた兵(つわもの)を観ようとおもう。淨冠から直冠に至るま...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十七・天武天皇のために無遮大會を設ける・兵器を観閲する・仁王經を説く

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十六 ・内裏で無遮大會を設ける ・福嘉を還俗させる

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十六・内裏で無遮大會を設ける・福嘉を還俗させる五月一日、吉野宮に、幸しました。七日、天皇が、吉野宮からかえりました。十五日、無遮大會(かぎりなきおがみ)を內裏で設けました。六月一日、高麗の沙門の福嘉(ふくか)に詔して、還俗(げんぞく)させました。四日、直廣肆を引田朝臣広目(ひけたのあそみひろめ)、守君苅田(もりのきみかりた)、巨勢朝臣麻呂(こせのあそみまろ)、葛原朝臣臣麻呂(ふじわらのあそみおみまろ)、巨勢朝臣多益須(こせのあそみたやす)、丹比真人池守(たじひのまひといけもり)、紀朝臣麻呂(きのあそみまろ)、七人に授けました。秋七月七日、吉野宮に、幸しました。十二日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。十四日、大夫、謁者を遣わして、諸社を詣でて、祈雨しま...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十六・内裏で無遮大會を設ける・福嘉を還俗させる

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十五 ・雨乞い ・坐贓

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十五・雨乞い・坐贓夏四月十七日、大夫、謁者(えっしゃ)を遣わして、諸々の社に詣でて、祈雨(きう)をしました。また、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。二十二日、詔して、「內藏寮(うちのくらのつかさ)の允の大伴男人(おおとものおひと)が坐贓(さぞう)した。位を二階、降ろし、見任官を解く。典鑰(かぎつかさ)の置始多久(おきそめのおおく)と菟野大伴(うのおおとも)も、また坐贓した。位を一階、降ろし、見任官を解く。監物(けんもつ)の巨勢邑治(こせのおおじ)は、物を己に入れないとしても、その情を知りつつ、盗ませた。故に、位を二階、降ろし、見任官を解く。然るに、置始多久(おきそめのおおく)は、壬申の年の役(えだち)に勤労した、故に赦す。ただし、贓(ぬすみもの)は、律...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十五・雨乞い・坐贓

  • お知らせ よっわ!

    ご訪問ありがとうございます。ワイですが、先日、引越しをいたしました。前回の引越しでは、文句を一切言わず、黙ってキャリーバックに揺られていた二匹ですが…今回は、ず〜っと文句をいいっぱなし。一緒に電車に乗りあった皆様には、多大なるご迷惑をおかけいたしました。駅で休憩中の二匹さて、無事引越しを終えたワイら。前回の引越しでは、タケちゃんが一晩中、徘徊をしていたのですが、今回は、すんなりなじんでくれました。😁(ノブさんは、別室で休憩中)とは言え、まだ作業が途中なんですけどね。収納する場所がなくダンボールが未開封のまま。(引越しの際には、アート引越センターさんには大変お世話になりました。みなさん、作業が手早く、引越しがスムーズに進みました。ありがとうございました)さて、引越しを無事終えたのですが、解決...お知らせよっわ!

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十四 ・新羅王の訃報 ・日蝕 ・桑、紵、梨、栗、蕪菁の推奨

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十四・新羅王の訃報・日蝕・桑、紵、梨、栗、蕪菁の推奨二月三日、新羅が、沙飡(ささん)の金江南(きんこうなん)、韓奈麻(かんなま)の金陽元(きんようがん)等を遣わして、來て赴き、王の喪をしらせました。十日、造京司(ぞうきょうし)の衣縫王(きぬぬいのおおきみ)等に、詔して、掘った尸(かばね)を収めさせました。三十日、流れて来た新羅人の牟自毛礼(むじもれ)等・三十七人を、憶徳(よくとく)等に付けて賜りました。三月一日、日蝕がありました。五日、大學博士の勤廣貳の上村主百済(うえのすぐりくだら)に、食封・三十戸を賜りました。儒道(じゅどう)に優れていたからです。六日、吉野宮に幸しました。十一日、直大貳の葛原朝臣大嶋(ふじわらのあそみおおしま)に賻物を賜りました。十三日、天皇は、吉野...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十四・新羅王の訃報・日蝕・桑、紵、梨、栗、蕪菁の推奨

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十三 ・百姓に黄色の衣、奴に皁衣を着させる ・80歳以上の者に布を与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十三・百姓に黄色の衣、奴に皁衣を着させる・80歳以上の者に布を与える七年春正月二日、淨廣壹を皇子高市に授けました。淨廣貳を皇子長と皇子弓削に授けました。この日、詔して、天下の百姓に、黃色の衣を、奴には、皁衣(くりぞめのきぬ)をきさせました。七日、公卿、大夫等を饗(もてな)しました。十三日、京師(みやこ)、及び畿內で位があり、年が八十以上に、人ごとに、衾(ふすま)・一領、絁(ふとぎぬ)・二匹、綿・二屯、布・四端を賜りました。十五日、正廣參を百濟王の善光(ぜんこう)に贈りました。あわせて賻物(ふもつ)を賜りました。十六日、京師(みやこ)の男女で年が八十以上、及び困乏(こんぼう)している、窮者(きゅうしゃ)に、布を賜りましたが、各々差がありました。船瀬(ふなせ)の沙門の法鏡(ほ...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十三・百姓に黄色の衣、奴に皁衣を着させる・80歳以上の者に布を与える

  • 参拝日記・修性院

    修性院(しゅうしょういん)概要修性院は、東京都荒川区にある日蓮宗の寺院です。1573年(天正元年)に開山しました。開山当時は、武蔵国豊島郡田中村(現在の東京都練馬区田中)に位置していました。1663年(寛文3年)に現在地に移転しました。 日ぐらしの布袋(修性院)修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年始めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。境内には、江戸時代の...参拝日記・修性院

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十二 ・吉野への行幸

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十二・吉野への行幸冬十月八日、山田史御形(やまだのふびとみかた)に務廣肆を授けました。前に沙門となり、新羅で學問をおさめました。十二日、吉野宮に幸しました。十九日、車駕(しゃが)が宮に還りました。十一月八日、新羅が、級飡(きゅうさん)の朴億徳(ぼくよくとく)、金深薩(きんしんさち)等を遣わして、調(みつき)を進めました。遣新羅使(けんしらぎし)に擬(なぞら)えた、直廣肆の息長真人老(おきながのまひとおゆ)、務大弐の川内忌寸連(かふちのいみきつら)等に祿を賜りましたが、各々差がありました。十一日、新羅の朴憶德を難波館で饗祿(きょうろく)をしました。十二月十四日、音博士(おんはかせ)の続守言(しょくしゅげん)、薩弘恪(さつこうかく)に、水田を賜りました。人ごとに四町。二十四日...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十二・吉野への行幸

  • 参拝日記・湯島聖堂

    湯島聖堂概要東京都文京区湯島一丁目にある史跡です。江戸時代の元禄3年(1960年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって造営された、孔子廟です。後に幕府直轄の学問所となりました。・孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡・現在地東京都文京区湯島一丁目4番25号・敷地面積13,915㎡・国の史跡指定大正11年(1922)3月8日・所管国有財産文化庁・東京都教育員会・文京区教育委員会・管理者公益財団法人斯文会(しぶんかい)■湯島聖堂と孔子孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省済寧市曲阜市)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒教に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690)この地に「湯島聖堂」と創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら『論語』の講釈を行うなど学問を奨励した...参拝日記・湯島聖堂

  • お知らせ

    諸事情よりしばらく、ブログおやすみします。皆さまのブログにも、しばらく、ご訪問できません申し訳ございません🙇お知らせ

  • 参拝日記・井の頭弁才天 大盛寺

    井の頭弁財天大盛寺概要都立井の頭恩賜公園内・井の頭池にあります。創建不詳別名井の頭辨才天本尊弁財天像789年(延暦8年)平安時代の僧・最澄の作と伝えられています。略縁起平安時代の天慶年間(938~947年)に源経基(みなもとのつねもと)が創建したものと伝えられ、その後、源頼朝が1197年(建久8年)に再建し、別当となる坊宿が建てられたと伝えられています。一時、衰退していましたが、江戸時代に入り、江戸幕府三代将軍徳川家光により再興されました。境内弁財堂1923年(大正12年)の関東大震災の被害を受け、現在の堂舎は昭和初期に再建されたものです。 太鼓橋 手水鉢 狛犬 銭洗い弁財天 七井不動尊 宇賀神 住所東京都三鷹市井の頭4丁目26-1アクセスJR中央線・総武線東京メトロ東西線京王井の頭線吉祥寺駅徒歩9分最後...参拝日記・井の頭弁才天大盛寺

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十一 ・飛鳥皇女の田莊への行幸 ・班田大夫を四畿内へ派遣する ・笥飯神の封を増やす

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十一・飛鳥皇女の田莊への行幸・班田大夫を四畿内へ派遣する・笥飯神の封を増やす八月三日、罪を赦しました。十七日、飛鳥皇女の田莊(でんそう)に幸しました。卽日、宮に還りました。九月九日、班田大夫(たたまいのまえつきみ)等を四畿內に遣わしました。十四日、神祇官が奏して、神寶の書四卷、鑰(かぎ)・九箇、木印・一箇を上しました。二十一日、伊勢国司が、嘉禾(かか)・二本を献(たてまつ)りました。越前国司が、白蛾を献りました。二十六日、詔して、「白蛾を角鹿郡(つぬがのこおり)の浦上(うらかみ)の濱で獲た。故に、笥飯神(けひのかみ)に、封を二十戸、増やし、前と通する」といいました。・田莊(でんそう)古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度の一つで、豪族が支配した私有地のことを指す。田所と...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十一・飛鳥皇女の田莊への行幸・班田大夫を四畿内へ派遣する・笥飯神の封を増やす

  • 神社参拝日記・明治神宮

    明治神宮(めいじじんぐう)概要東京都渋谷区にある神社です。明治天皇と昭憲皇太后が祀られています。初詣では例年日本一の参拝者数となっています。神紋・社紋御祭神明治天皇(めいじてんのう)昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)創建大正9年(1920年)例祭日11月3日略縁起明治天皇崩御後、内務省が『明治天皇奉祀の神宮創設に関する件』を閣議に提出し、閣議決定されました。東京府内の候補地の内から、「風致」を理由として代々木御料地が決定し、大正9年(1920年)11月1日に鎮座祭が行われ、この日に創建されました。境内外拝殿南神門西神門手水舎大鳥居正参道南参道鳥居西参道社務所夫婦楠住所東京都渋谷区代々木神園町1−1アクセスJR山手線原宿駅徒歩1分東京メトロ千代田線・副都心線明治神宮前駅徒歩1分東京メトロ副都心線北参道駅徒...神社参拝日記・明治神宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十 ・大赦 ・熒惑と歲星

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十・大赦・熒惑と歲星秋七月二日、天下に大赦しました。ただし、十惡(じゅうあく)、盜賊は赦しの例に入れませんでした。相模の国司の布勢朝臣色布智(ふせのあそみしこふち)等、御浦郡少領(みうらのこおりのすけのみやつこ)(姓名は欠けています)と、赤い烏を獲た、鹿嶋臣櫲樟(かしまのおみくす)に、位、及び祿を賜りました。御浦郡(みうらのこおり)の調役(えつき)を二年、免除しました。七日、公卿を饗(もてな)しました。九日、吉野宮に幸しました。十一日、使を遣わして、廣瀬と龍田を祀らせました。二十八日、車駕が宮に還りました。この夜、熒惑(けいこく)と歲星(さいせい)が、一步の內に、たちまち光り、たちまち没しました。互いに近づいたり、避けたりすること四遍。・十惡(じゅうあく)大化前代、国家社...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十・大赦・熒惑と歲星

  • 久しぶりの猫日記と主のつぶやき

    ご無沙汰しておりました。久しぶりの猫日記です。ちょっと、仕事や引越しの準備等で更新が遅れておりましたが、二匹とも元気です。猫ネタがなかったということもありますがね。😅さて、もうすぐ、仮住まいを終えます。二匹には、不便な思いをさせました。今度は、思いっきり追いかけっこできます。引越しの様子は後日ご報告します。それでは、また。御訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みになります。ポッチっとお願いします。MIX多頭飼いランキングにほんブログ村久しぶりの猫日記と主のつぶやき

  • 神社参拝日記・東郷神社

    東郷神社(とうごうじんじゃ)概要東郷神社は、東京都渋谷区神宮前一丁目にある神社です。日露戦争で連合艦隊司令長官として指揮をとり日本海海戦で完勝し、国内外で英雄視された、東郷平八郎が祀られています。神紋・社紋御祭神東郷平八郎命(とうごうへいはちろうみこと)創建昭和15年(1940年)例祭日5月28日略縁起東郷平八郎が昭和9年(1934年)5月30日に亡くなると、全国から東郷を顕彰する神社の創建の要望と献金が相次いつぎ、当時の海軍大臣大角岑生(おおすみみねお)が、財団法人東郷元帥記念会を設立。寄せられた献金によって神社の創建が計画され、昭和15年(1940年)に創建されました。境内社殿神門鳥居階段手水舎東郷蔵境内霊社海の宮御斎神海軍・海事・水産関係者また崇敬者の諸霊住所東京都渋谷区神宮前1-5-3アクセスJR...神社参拝日記・東郷神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十九 ・名のある山、岳、瀆に祈る ・雨乞い ・直丁・8人に官位を与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十九・名のある山、岳、瀆に祈る・雨乞い・直丁・8人に官位を与える六月九日、郡国の長吏(ちょうり)に勅して、各々名のある山、岳、瀆を祈らせました。十一日、大夫、謁者を遣わして、四畿內を詣でて、請雨(しょうう)させました。二十一日、直丁(じきてい)・八人に官位を賜りました。その大内陵(おおちのみさざき)を造った時に、勤めて、怠らなかったことをよしとしました。三十日、天皇は、藤原の宮地を観ました。 ・長吏(ちょうり)県内を主管する長官・請雨(しょうう)日照り続きの時、雨の降ることを神仏に祈ること。雨乞い・直丁(じきてい)律令制で、仕丁(じちょう)のうち、諸司の雑役に奉仕する番に当たった者。立丁(りってい) ・大内陵(おおちのみさざき)天武天皇の陵(感想)(持統天皇6年)6月9日...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十九・名のある山、岳、瀆に祈る・雨乞い・直丁・8人に官位を与える

  • 神社参拝日記・小野照崎神社

    小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)概要小野照崎神社は、東京都台東区下谷二丁目にある神社です。「学問・芸能」の神様として有名です。神紋・社紋主祭神小野篁命(おののたかむら)菅原道真命(すがわらみちざね)創建仁寿2年(852年)例祭日5月19日に近い土日略縁起852年(仁寿2年)、小野篁公が御東下の際に住まわれた上野照崎の地に創建されました。寛永寺の建立のために幕府より移転を命じられ、現在の地に遷されました。境内社殿鳥居手水舎授与所神楽殿境内末社富士浅間神社庚申塚稲荷神社・織姫神社住所東京都台東区下谷2-13-14アクセス東京メトロ日比谷線入谷駅徒歩3分JR線鶯谷駅徒歩7分最後に樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出てくる神社です。神社の印象として、残っているのは、猫ちゃんが多い。猫好きにはたまら...神社参拝日記・小野照崎神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十八 ・大雨 ・大隅と阿多に仏教を伝える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十八・大雨・大隅と阿多に仏教を伝える閏五月三日、大水となりました。使を遣わして、郡国を循行(じゅんこう)させました。災害にあい、自ら生きていけないものに、禀貸(ひんたい)をしました。山林池澤で漁や採ることができるようにしました。詔して、京師(みやこ)及び四畿內で、金光明經を講説させました。四日、沙門の観成(かんじょう)に、絁(ふとぎぬ)・十五匹、綿・三十屯、布・五十端を賜りました。その造った鉛粉(えんぷん)を美(ほ)めたのです。十三日、伊勢大神が天皇に奏して、「伊勢国の今年の調役を免(ゆる)しましたが、然るに、その二つの神郡から応え輸(おく)るべき、赤引の絲・三十五斤は、來年に、その代りを折(さだ)めるようにすべきです」といいました。十五日、詔筑紫大宰率の河內王等に詔して...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十八・大雨・大隅と阿多に仏教を伝える

  • 神社参拝日記・赤城神社

    赤城神社(あかぎじんじゃ)(東京都新宿区)概要東京都新宿区赤城元町にある神社です。「赤城神社再生プロジェクト」が行われ、社殿が建て替えられました。神紋・社紋主祭神磐筒雄命(いわつつおのみこと)赤城姫命(あかぎひめのみこと)創建正安2年(1300年)例祭日9月19日略縁起大胡彦太郎重治が上野国赤城山麓から牛込に移住した際、上野国赤城神社から勧請し創建したと伝えられています。弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔により現在地に遷座しました。境内社殿鳥居手水舎狛犬観音菩薩立像・俳人巻阿の碑境内末社蛍雪天神御祭神菅原大神出世稲荷神社・八耳神社・東照宮出世稲荷神社御祭神宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)保食神(うけもちのかみ)八耳神社御祭神上宮之厩戸豊聰八耳命(うえのみやのうまやどのとよとやつみみのみこと・聖徳太子...神社参拝日記・赤城神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十七 ・調役・雜徭の免除 ・赤い鳥の雛

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十七・調役・雜徭の免除・赤い鳥の雛五月六日、阿胡行宮(あごのかりみや)の時、贄を進めた、紀伊国の牟婁郡の人の阿古志海部河瀬麻呂(あこしのあまのかわせまろ)等、兄弟三戸に、十年の調役・雜徭を免しました。また、挾杪(かじとり)八人の、今年の調役を免しました。七日、相摸国司が赤鳥(あかからす)の鶵(ひな)を二隻を献(たてまつ)り、「御浦郡で獲ました」といいました。十二日、吉野宮に幸しました。十六日、車駕が宮に還りました。十七日、大夫・謁者(えっしゃ)を遣わして、名のある山、岳、瀆を祠(まつ)り、請雨(しょうう)しました。二十日、文忌寸智徳(ふみのいみきちとこ)に直大壹を贈りました。あわせて、賻物を賜りました。二十三日、淨廣肆の難波王(なにわのおおきみ)等を遣わして、藤原の宮地を...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十七・調役・雜徭の免除・赤い鳥の雛

  • 神社参拝日記・千束稲荷神社

    千束稲荷神社(せんぞくいなりじんじゃ)概要東京都台東区にある神社です。樋口一葉「たけくらべ」ゆかりの神社です。神紋・社紋主祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)素戔嗚尊(すさのおのみこと)創建不詳例祭日5月第4土曜日別名稲荷神社略縁起創建は不詳ですが、おそらく寛文年間(1661~72)と考えられています。境内社殿鳥居神輿庫樋口一葉像・正面碑文住所東京都台東区竜泉2−19−3アクセス東京メトロ日比谷線三ノ輪駅徒歩5分最後に明治時代、樋口一葉は当社の近くに住んでいました。たけくらべの作品の中で、美登利と長吉が喧嘩する祭りのシーンは、当時の千束稲荷神社の例祭がモデルになっているとされています。樋口一葉の像を眺め、当時の様子を思い浮かべながらの参拝でした。参考Wikipedia東京都神社庁HP台東区HP神社参拝日記・千束稲荷神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十六 ・広瀬と龍田の神を祀る ・難波の大蔵のスキを与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十六・広瀬と龍田の神を祀る・難波の大蔵のスキを与える夏四月二日、大伴宿禰友国(おおとものすくねのともくに)に直大貳を賜りました。あわせて賻物(ふもつ)を賜りました。五日、四畿內の百姓の荷丁(もちよぼろ)の、今年の調役を除きました。十九日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。二十一日、位のある親王以下、進廣肆に至るまでに、難波の大藏の鍫(すき)を賜りましたが、各々差がありました。二十五日、詔して、「凡そ、繋囚(けいしう)、徒刑囚は、皆、放免するように」といいました。・賻物(ふもつ)古代において,位を有する者が死亡した際に支給される葬祭料・荷丁(もちよぼろ)荷物などを運ぶ人夫。もちぶ・鍫(すき)土を掘り起こしたりならしたりする農具・繋囚(けいしう)牢獄につな...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十六・広瀬と龍田の神を祀る・難波の大蔵のスキを与える

  • 神社参拝日記・神楽坂若宮八幡神社

    神楽坂若宮八幡神社(かぐらざかわかみやはちまんじんじゃ)概要東京都新宿区若宮町にある神社です。地名の由来となった神社です。主祭神仁徳天皇(にんとくてんのう)応神天皇(おうじんてんのう)創建文治5年(1189年)例祭日9月15日略縁起右大将源頼朝公が奥州の藤原泰衡を征伐するため出兵した際、当所にて戦勝祈願しました。奥州平治の後、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分霊し勧請しました。境内社殿鳥居手水舎狛犬境内社稲荷社住所東京都新宿区若宮町18アクセスJR総武線東京メトロ東西線・有楽町線・南北線都営大江戸線飯田橋駅徒歩5分最後に小さなお社でしたが、綺麗に整えられていました。地域の方々に愛されている神社なのでしょう。参考Wikipedia東京都神社庁HP神社参拝日記・神楽坂若宮八幡神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十五 ・伊勢への行幸

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十五・伊勢への行幸十七日、過ぎた所の神郡(かみごおり)、及び伊賀・伊勢・志摩の国造等に冠位を賜りました。あわせて、今年の調役を免しました。また供奉(ぐふ)の、騎士、諸司の荷丁(もちよぼろ)、行宮(かりみや)造った丁(ほぼろ)の今年の調役を免しました。天下に大赦しました。ただ、盜賊は、赦しの例に入れませんでした。十九日、過ぎた所の志摩の百姓・男女で年が八十以上に、稻を人ごとに五十束を賜りました。二十日、車駕が宮に還りました。行き到る所ごとに、すなわち、郡縣の吏民(りみん)をあつめ、務めを労り、樂(うたまい)を賜りました。二十九日、詔して、近江、美濃、尾張、參河、遠江等の国に供奉した騎士の戸、及び諸国の荷丁、行宮を造った丁の、今年の調役を免しました。詔して、天下の百姓で、困乏...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十五・伊勢への行幸

  • 神社参拝日記・東京大神宮

    東京大神宮(とうきょうだいじんぐう)概要東京大神宮は、東京都千代田区富士見二丁目にある神社です。縁結びの神社として、女性を中心に参拝者を集めています。神紋・社紋主祭神天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)豊受大神(とようけおおかみ)相殿天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)高御産巣日神(たかみむすびのかみ)神御産巣日神(かみむすひのかみ)倭比売命(やまとひめのみこと)創建明治13年(1880年)例祭日4月17日略縁起明治13年(1880年)、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が当社の起源です。所在地名から日比谷大神宮や、日比谷皇大神宮と呼ばれていました。関東大震災で社殿が焼失し、昭和3年(1928年)に、現在地に再建・遷座されました。そのほか嘉仁親王と節子妃の結婚の儀を基本にして神前結婚の儀式を創...神社参拝日記・東京大神宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十四 ・留守官を決定する ・大三輪朝臣高市麻呂の諌め ・伊勢への行幸

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十四・留守官を決定する・大三輪朝臣高市麻呂の諌め・伊勢への行幸三月三日、淨廣肆の廣瀬王(ひろせのおおきみ)、直廣參の當摩真人智徳(たぎまのまひとちとこ)、直廣肆の紀朝臣弓張(きのあそみゆみはり)等を、留守官(るすかん)としました。ここにおいて、中納言の大三輪朝臣高市麻呂(おおみわのあそみたけちまろ)は、その冠位を脱いで、朝(みかど)に差し上げ、重ねて諌めて、「農作(のうさく)の節に、車駕(しゃが)を動かすべきではありません」といいました。六日、天皇は諌めに従わず、遂に伊勢に幸しました。・留守官(るすかん)令制で、天皇の行幸の時、宮城にとどまり、天皇の代理を務める官。通常は皇太子が代理となるが(皇太子監国)、臣下を任命する時に留守官と称する。留守のつかさ・農作(のうさく)田...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十四・留守官を決定する・大三輪朝臣高市麻呂の諌め・伊勢への行幸

  • 神社参拝日記・豊受神社

    豊受神社(とようけじんじゃ)概要千葉県浦安市猫実にある神社です。浦安市では最古の神社です。神紋・社紋主祭神豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)御利益無病息災、延命長寿、衣食住の守護神創建保元2年(1157年)例祭日6月16日略縁起豊受神社は御祭神に豊受姫大神を祀る神社で、保元二年(1157年)の創建といわれ、浦安市で最古の神社です。境内社殿現在の社殿は1974年(昭和49年)に建てられたものです。授与所神輿庫狛犬鳥居大銀杏大銀杏この大銀杏は、村の人が境川河口を流れていた小さな木を拾いあげ、豊受神社の境内に植えたものといわれています、その後、この木は順調に成長し、数百年を経た今日も枝葉が繁茂しています。平成六年(一九九四)の樹木調査では、明治四十年(一九〇七)頃、外周が三メートルほどの幹が高潮などの塩害によ...神社参拝日記・豊受神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十三 ・天皇、伊勢への行幸を詔をする ・三輪朝臣高市麻呂、天皇に諫爭する

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十三・天皇、伊勢への行幸を詔をする・三輪朝臣高市麻呂、天皇に諫爭する六年春正月四日、皇子高市に封を二千戸を増やしました。前と通して五千戸。七日、公卿等を饗(もてな)しました。かさねて、衣裳を賜りました。十二日、天皇は、新益京(しんやくのみやこ)の路を観ました。十六日、公卿以下、初位以上に至るまでを饗(もてな)しました。二十七日、天皇は、高宮(たかみや)に幸しました。二十八日、天皇は、高宮からかえりました。二月十一日、諸官(しょかん)に詔して、「まさに、三月三日に、伊勢に幸しようと思う。宜しく、この意を知り、諸々の衣物(いぶつ)を備えるべし」といいました。陰陽博士の沙門の法藏(ほうぞう)、道基(どうき)に、銀を人ごとに二十兩、賜りました。十九日、刑部省(ぎょうぶしょう)に詔...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十三・天皇、伊勢への行幸を詔をする・三輪朝臣高市麻呂、天皇に諫爭する

  • 神社参拝日記・赤坂氷川神社

    赤坂氷川神社概要氷川神社は、東京都港区赤坂にある神社です。港区には白金、元麻布、赤坂に氷川神社が鎮座しているため、区別するためにそれぞれ、白金氷川神社、麻布氷川神社、赤坂氷川神社と呼ばれています。東京十社の一つです。神紋・社紋主祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)大己貴命(おおなむぢのみこと)創建天暦5年(951年)例祭日9月16日略縁起天暦5年(951年)、蓮林僧正が東国を遊行していた際、一ツ木村(現・赤坂4丁目付近)で一夜を明かすと、夢の中で御祭神のお告げがあり、この地に社殿を建てお祭りしたことが伝えられています。御利益厄除縁結び家内安全商売繁昌境内社殿徳川吉宗が建立した社殿は、幾多の震災・戦災を免れ建立当時の姿を現在に伝えています。鳥居一の鳥居一の鳥居(南側)二の鳥居...神社参拝日記・赤坂氷川神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十二 ・大嘗祭 ・宅地を与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十二・大嘗祭・宅地を与える十一月一日、大嘗(おおにえ)をしました。神祗伯の中臣朝臣大(なかとみのあそみおおしま)が、天神壽詞(あまつかみのよごと)を読みました。二十五日、公卿に食と衾(ふすま)を賜りました。二十八日、公卿以下、主典に至るまでを饗(もてな)しました。あわせて、絹等を賜りましたが、各々差がありました。三十日、神祗官の長上(ちょうじょう)以下、神部等に至るまで、及び供奉(ぐふ)した、播磨・因幡の国の郡司以下、百姓男女に至るまでを、饗(もてな)しました。あわせて、絹等を賜りましたが、各々差がありました。十二月二日、医博士(いはかせ)の務大參の徳自珍(とくじちん)、呪禁博士(じゅごんはかせ)の木素丁武(もくそちょうむ)、沙宅萬首(さたくまんしゅ)に、銀を人二十兩、賜...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十二・大嘗祭・宅地を与える

  • 神社参拝日記・金刀比羅宮

    金刀比羅宮(ことひらぐう)(東京都港区)概要東京都港区虎ノ門1丁目にある神社です。神紋・社紋主祭神大物主神(おおものぬしのかみ)崇徳天皇(すとくてんのう)御神徳海上安全商売繁盛創建万治3年(1660年)例祭日大祭10月9・10日初こんぴら1月10日月次祭毎月10日別名虎ノ門金刀比羅宮略縁起万治3年(1660年)、讃岐丸亀藩の藩主・京極高和が芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請したのが始まりです。丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座しました。境内拝殿一の鳥居参道手水舎神楽殿境内社結神社喜代住稲荷神社住所東京都港区虎ノ門1−2−7アクセス東京メトロ銀座線虎ノ門駅徒歩1分最後に近代的な建物と伝統的な建物がうまく融合した神社でした。一の鳥居と琴平タワー参考Wikipedia東京都神社庁HP虎ノ門金刀...神社参拝日記・金刀比羅宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十一 ・日蝕 ・陵戸についての詔 ・禁漁区の設置 ・新益京での鎮祭

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十一・日蝕・陵戸についての詔・禁漁区の設置・新益京での鎮祭冬十月一日、日蝕がありました。八日、詔して、「凡そ、先皇の陵戸(りょうこ)は、五戸以上置くように。それ以外の王等で、功のあった者は、三戸、置くように。もし陵戸が不足なら、百姓を充て、その徭役(ようえき)を免すように。三年に一回、替るように」といいました。十三日、畿內、及び諸国に、長生地(ちょうせいち)を、各々一千步、置きました。この日、天皇は吉野宮に幸しました。二十日、天皇は吉野から帰りました。二十七日、使者を遣わして、新益京(あらましのみやこ)で鎮祭(ちんさい)をしました。・陵戸(りょうこ)律令制下の賎民の一。天皇・皇族の陵墓を守ることを世襲的な任とした・徭役(ようえき)古代の律令制において,成年男子に課せられた...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十一・日蝕・陵戸についての詔・禁漁区の設置・新益京での鎮祭

  • 神社参拝日記・愛宕神社

    愛宕神社(あたごじんじゃ)(東京都港区)概要東京都港区愛宕1丁目にある神社です。自然に形成された山である愛宕山の山頂にあります。参道の石段は、曲垣平九郎誉れの出世石段として有名です。神紋・社紋三つ葉葵主祭神火産霊命(ほむすびのみこと)配祀罔象女命(みずはのめのみこと)大山祇命(おおやまづみのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)勝軍地地蔵(しょうぐんじぞうぼさつ)普賢大菩薩(ふげんだいぼさつ)創建慶長8年(1603年)例祭日9月22~24日略縁起慶長8年(1603年)、徳川家康が幕府を開く際、防火の総鎮守として幕命をもって創建されました。御利益火に関するもの、防火、防災印刷・コンピューター関係商売繁昌恋愛・結婚・縁結び境内社殿勝軍梅朱塗りの門一の鳥居手水社出世の石段(男坂)女坂大鳥居社務所愛宕西参道池勝...神社参拝日記・愛宕神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十 ・持統天皇5年9月の出来事

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十・持統天皇5年9月の出来事九月四日、音博士(おんはかせ)の大唐の続守言(しょくしゅげん)、薩弘恪(さつこうかく)、書博士(しょはかせ)の百濟の末士善信(ばっしぜんしん)に、銀を、人二十兩、賜りました。九日、淨大參の皇子川嶋が薨(みまか)りました。二十三日、直大貳を佐伯宿禰大目(さえきのすくねおおめ)に贈りました。あわせて、賻物(ふもつ)を賜りました。・音博士(おんはかせ/こえのはかせ)日本の律令制において置かれた博士の1つ。大学寮に属して、明経道の学生に経書の白読(中国語(漢音)による音読)を教えた・書博士(しょはかせ)令制で、大学寮の官人。定員二人。書学生に書道・書法を教えた。従七位上相当。ふみのはかせ。てのはかせ・賻物(ふもつ)死者をとむらうために喪家におくる財貨。...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十・持統天皇5年9月の出来事

  • 神社参拝日記・日枝神社

    日枝神社(ひえじんじゃ)概要東京都千代田区永田町にある神社です。江戸三大祭のひとつ、山王祭りが有名です。神紋・社紋双葉葵主祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)相殿神国常立神(くにのとこたちのかみ)伊弉冉神(いざなみのかみ)足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)御神徳万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護厄除け、安産、縁結び、商売繁盛、社運隆昌創建不詳例祭日6月15日別名日吉山王社日吉山王大権現社江戸山王大権現麹町山王山王社山王さま略縁起御祭神大山咋神は須佐之男神の御孫神で山末之大主神とも称えられ山水を司り、萬物の生成発展を守護する神である。日枝神社の歴史は鎌倉初期、秩父重継が江戸貫主を名乗り居館を山王社を勧請したことに始まる。文明年間には太田道灌が江戸城築城にあたり川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入幕以降...神社参拝日記・日枝神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十九 ・18氏族に墓記を献上させる

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十九・18氏族に墓記を献上させる秋七月三日、天皇は吉野宮に幸しました。この日、伊豫国司の田中朝臣法麻呂(たなかあそみのりまろ)等が、宇和郡(うわのこおり)の御馬山(みまのやま)の白銀・三斤八兩、アラカネ一籠を献(たてまつ)りました。七日、公卿と宴(とよのあかり)をしました。かさねて、朝服を賜りました。十二日、天皇は吉野から帰りました。十五日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祭らせました。八月十三日、十八の氏に詔して、大三輪(おおみわ)、雀部(さざきべ)、石上(いそのかみ)、藤原(ふじわら)、石川(いしかわ)、巨勢(こせ)、膳部(かしわで)、春日(かすが)、上毛野(かみつけの)、大伴(おおとも)、紀伊(き)、平群(へぐり)、羽田(はた)、阿倍(あへ)、佐伯(さえき...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十九・18氏族に墓記を献上させる

  • 亀戸天神社・菊まつり(2021)

    亀戸天神社・菊まつり(2021)写真を整理していましたら、2021年の亀戸天神社・菊まつりの写真が出てきました。このままお蔵入りさせるのは、忍びない。こういうわけで、古い写真ですが、記事にしたいと思います。亀戸天神社では、菅原道真公が16歳のときに詠んだ『残菊詩』にちなんで毎年秋に菊まつりを開催しています。境内には、丹精込めて育てられた菊の花々が美しく咲き誇っていました。美しい菊たち。これは、関係者の皆様の努力の賜物。花々に癒しをいただきました。ありがとうございます。これからも、頑張ってください。御訪問ありがとうございました。亀戸天神社・菊まつり(2021)

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十八 ・降り続く雨

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十八・降り続く雨五月二十一日、百濟の淳武微子(じゅんむみし)の、壬申の年の功を褒美して、直大參を賜りました。かさねて、絁(ふとぎぬ)、布を賜りました。六月、京師(みやこ)、及び郡国四十に、雨水がふりました。戊子(つちのえね)、詔して、「この夏は、陰雨(いんう)が、節を過ぎた。懼(おそ)らく、必ず稼(みの)りを傷(そこ)なうだろう。夕までおそれ、朝まで憂懼(ゆうく)している。その愆(けん)を思うに。それ、公卿、百寮人等は、酒と宍を禁断し、摂心(せっしん)し、悔過(けか)をするように。京、及び畿內の諸々の寺の、梵衆(ぼんしゅう)もまた、五日に当たり誦經(じゅきょう)するように。庶(こいねが)う、ここに、補(たす)けがありますように」といいました。四月から雨がふり、この月に至り...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十八・降り続く雨

  • 亀戸天神社・梅まつり(2022)

    亀戸天神社・梅まつり(2022)写真を整理していましたら、去年の亀戸天神社・梅まつりの写真が出てきました。美しい梅の花。このままお蔵入りさせるのは、忍びない。こういうわけで、古い写真ですが、記事にしたいと思います。菅原道真公は、梅の花を梅を好んでいたことにちなみ、亀戸天神社の境内には、300本を越す梅が植えられています。白加賀や豊後梅など様々な品種を一堂に見ることができます。芳しい香り。可愛らしい花。道真公が愛して止まなかったのがよくわかります。来年もまた、美しい梅を愛でたい。切に願います。御訪問ありがとうございました。亀戸天神社・梅まつり(2022)

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十七 ・仏法についての詔 ・売られた者への処遇

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十七・仏法についての詔・売られた者への処遇二月一日、天皇は、公卿等に詔して、「卿等よ。天皇の世に、佛殿、經藏を作り、月に六齋(ろくさい)を行った。天皇は、時々、大舍を遣わして、問訊(もんじん)した。朕の世にもまた、これの如くしよう。故に、當勤(ねんごろ)な心で、佛法を奉るように」といいました。この日、宮人に位記を授けました。三月三日、公卿と西の庁で宴(とよのあかり)をしました。五日、天皇は、公私の馬を御苑で観ました。二十二日、詔して、「もし、百姓の弟が、兄のために売られることがあったなら、良に従うように。もし、子が父母のために売られることがあったなら、賤に従うように。もし、貸倍(かりもののこ)によって、賤にしずんだなら、良に従うように。その子は、たとえ奴婢を配して生まれた...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十七・仏法についての詔・売られた者への処遇

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、leetorinnoteさんをフォローしませんか?

ハンドル名
leetorinnoteさん
ブログタイトル
リートリンの覚書
フォロー
リートリンの覚書

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用