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2020/12/06

  • 東京名所巡り 日本武道館

    東京名所巡り日本武道館(にっぽんぶどうかん)日本武道館は、東京都千代田区北の丸公園にある武道館です。1964年東京オリンピックの柔道競技会場として建設されました。所在地東京都千代田区北の丸公園2-3最後に日本武道館といえば、”光る玉ねぎ~”ワイ、学生のころ、爆風スランプの大ファンで、日本武道館の擬宝珠を見るとついつい、”大きな玉ねぎの下で”が思い出されます。とはいえ、武道館のコンサートに、一度も足を運んだことがないのですが😅思い出にと日本武道館の写真を数枚撮影しました。しかし、撮影当日のイベントのアーチストが誰なの全くわからず⁇掲載できそうな写真が数枚となってしまいました。ほんま、誰やったのか?東京名所巡り日本武道館

  • 東京史跡巡り 田安門

    東京史跡巡り田安門(たやすもん)東京都千代田区北の丸公園内にある、旧江戸城の門です。国の重要文化財(建造物)に指定されています。重要文化財旧江戸城田安門昭和36年6月7日指定江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。田安門は、北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具から残る刻銘から寛永13年...東京史跡巡り田安門

  • 東京名所巡り 常燈明台

    東京名所巡り常燈明台(じょうとうみょうだい)常燈明台は、東京都千代田区の靖国通りにある塔です。明治4年(1871)に靖国神社の灯籠として奉納されたものです。初めは九段坂をのぼった右側にありましたが、道路改修にあたり昭和5年(1039)に、現在地に移転しました。所在地東京都千代田区九段南2丁目2最後に今は、ビルしか見えませんが😅建てられた当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、東京湾の漁船の目印ともなっていたといいます。設計者などの詳細は不明ですが、下部は日本式、上部は西洋式という和洋折衷で、なかなか味がある建物です。もっと色々な角度から撮影しておくべきだったと後悔です。東京名所巡り常燈明台

  • 東京・駅巡り 原宿駅

    東京・駅巡り原宿駅(はらじゅくえき)原宿駅は、東京都渋谷区神宮前にある、JR東日本の山手線の駅です。竹下改札神宮側出入り口所在地東京都渋谷区神宮前1丁目最後に昔、習い事をしていたことがあり、その教室が原宿にあったことから、何度も訪れた場所原宿。私がよく利用していた頃は、まだ旧駅舎で趣のある姿で気に入っていました。その2代目となる旧駅舎は、1924年に竣工した木造建築で、都内で現存する木造駅舎で最も古いものでした。その木造旧駅舎、一度解体され、新駅舎の横に再現されるとのことです。東京・駅巡り原宿駅

  • 東京史跡巡り 高輪大木戸跡

    東京史跡巡り高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)東京都港区高輪2丁目にある交通遺跡です。史跡高輪大木戸跡所在地港区高輪二丁目十九番指定昭和三年二月七日高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてたられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の構造年には宝永七年説・寛政四年(1792)など諸説がある。江戸の南の入口として、道幅役六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。天和二年(1682)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常磐橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。京登り、東下り・伊勢参りの旅人の送迎もここで行...東京史跡巡り高輪大木戸跡

  • 東京・駅巡り 高輪ゲートウェイ駅

    東京・駅巡り高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイえき)東京都港区港南2丁目にある、JR東日本の駅です。令和2年(2020)に開業しました。所在地東京都港区港南2-1-220最後に私が訪れた時、駅の周りは再開発の真っ最中で、工事現場ばかりでした。そのせいでしょうか、山手線内の駅とは思えないほど閑散としていました。しかし、高輪ゲートウェイ駅って、変な名前ですよね。公募でも人気のなかった、「高輪ゲートウェイ」、何故選ばれたのでしょうか?個人的には、全部漢字の名称の方がいいと思いますがね。東京・駅巡り高輪ゲートウェイ駅

  • 東京坂巡り 汐見坂

    東京坂巡り汐見坂(しおみざか)東京都港区虎ノ門にある坂です。しおみざか江戸時代中期以前には、海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末には川越藩)邸があって、大和坂ともいった。所在地東京都港区虎ノ門最後に東京にいくつかある汐見坂の一つです。江戸時代には海が見えたこの場所ですが、現在は、見渡す限り、ビルばかりとなっていました。東京坂巡り汐見坂

  • 東京坂巡り 本氷川坂

    東京坂巡り本氷川坂(もとひかわざか)本氷川坂は、東京都港区赤坂にある坂です。本氷川坂もとひかわざか坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月、氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。所在地東京都港区赤坂6丁目10-29最後に勝海舟が住んでいた赤坂。勝海舟も歩いたであろう坂を感慨深く散策しました。東京坂巡り本氷川坂

  • 東京名所巡り 東京駅

    東京・駅巡り東京駅(とうきょうえき)東京駅は、JR東日本・JR東海・東京地下鉄の駅です。1日あたりの列車の発着本数は約3000本という日本を代表するターミナル駅の一つです。大正3年(1914)に竣工した赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計しました。国の重要文化財に指定されています。所在地東京都千代田区丸の内1丁目最後に東京大空襲により、レンガ造の壁、コンクリート製の床などの構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内道の大半が失われました。戦後、修復工事を行いましたが、安全性に配慮して一部変更されたそうです。辰野金吾氏が設計した本来の姿を見てみたかったのもです。残念でならない。東京名所巡り東京駅

  • 東京橋巡り 南高橋

    東京橋巡り南高橋(みなみたかばし)南高橋は、東京都中央区を流れる亀島川に架かる橋です。中央区道台416号線を通しています。南高橋この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業の一つとして、昭和7年(1932年)に架けられました。橋の主要部は、明治37年(1904年)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては、最も古い橋です。また構造上の特徴は、トラスの一部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。平成28年(2016年)に、土木学会選奨土木遺産として認定されました。「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降...東京橋巡り南高橋

  • 東京橋巡り 高橋

    東京橋巡り高橋(たかばし)亀島川に架かる橋です。鍛冶橋通りを通しています。所在地東京都中央区八丁堀3丁目・4丁目ー中央区新川2丁目最後に高橋の周辺には、亀島川緑道や亀島公園などがあります。緑道は、綺麗に整えられていて歩きやすく、公園には桜が植えてあり、散策にはもってこいの場所でした。東京橋巡り高橋

  • 東京川巡り 亀島川

    東京川巡り亀島川(かめじまがわ)亀島川は、東京都中央区を流れる荒川水系の一級河川です。日本橋川から分流し、隅田川に合流する1・06㎞の河川です。所在地東京都中央区最後に河川環境の向上を目指し、護岸壁面やテラス部などの水辺空間の緑化を推進しており、近年では魚や底生動物が確認されるなど、水質が改善されつつあるそうです。亀島川沿岸は、船着場があり、リゾート地にいるような気分を味わうことができる場所でした。参考Wikipedia東京都建設局HP東京川巡り亀島川

  • 東京公園巡り 洗足池公園(改訂版)

    東京公園巡り洗足池公園洗足池公園(せんぞくいけこうえん)は、東京都大田区南千束にある公園です。公園内にある洗足池は、北千束の清水窪湧水などを主な水源とする都内屈指の広さを有する淡水池です。東京都指定名勝洗足池公園所在地大田区南千束二丁目1番四号外五三筆指定平成三一年三月一五日区立洗足池公園は、清水窪湧水などを主な水源とする淡水池の佳景で古くからよく知られています。「洗足」の名は日蓮聖人が手足を洗ったという伝承にちなむと言われています。江戸時代には数多くの文芸作品や絵画作品に取り上げられ、浮世絵師・歌川広重が描いた「名所江戸百景・千束の池袈裟懸松」はことに有名です。明治二三頃には、晩年の勝海舟が東岸に別荘「洗足軒」を築き、後に夫婦の墓地も造られました。公園近くの国登録有形文化財「旧清明文庫」は、昭和初期に海...東京公園巡り洗足池公園(改訂版)

  • 東京史跡巡り 聖路加ガーデン

    東京名所巡り聖路加ガーデン(せいるかガーデン)東京都中央区明石町にある2棟(聖路加タワー/聖路加レジデンス)の超高層ビルからなる複合施設です。所在地東京都中央区明石町8-1最後に対岸を歩いている際、カッコイイビルだなぁ、と思い撮影。ちなみに、こちらの聖路加ガーデンも「3月のライオン」で背景で登場していました。そう、自分、ずっと聖路加を「せいろか」と呼んでいたのですが…聖路加の正式な読み方は「せいるか」だったことを、今日知りました。恥ずかし💦東京史跡巡り聖路加ガーデン

  • 東京橋巡り 築地大橋

    東京橋巡り築地大橋(つきじおおはし)築地大橋は、東京都中央区にある隅田川に架かる橋です。東京都市計画道路幹線街路環状第2号線を通しています。隅田川でもっとも下流に位置する橋で、平成30年(2018)に開通しました。所在地東京都中央区築地5丁目ー勝どき5丁目最後に鋼3径間連続中路式アーチ橋、築地大橋。徒歩で渡ったのですが、私以外の人影は見当たらず、貸切状態でした。遠くを見渡すと、浜離宮の向こうに東京タワーが見えて、テンションが上がったのを思い出します。「つきじおおはし」の揮毫は、舛添要一前都知事です。東京橋巡り築地大橋

  • 東京橋巡り 勝鬨橋

    東京橋巡り勝鬨橋(かちどきばし)勝鬨橋は、東京都中央区にある隅田川に架かる橋です。東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線を通しています。昭和15年(1940)に竣工しました。日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)ですが、隅田川を航行する船の減少、交通量の増加などによって、昭和45年11月29日の開閉を最後に、現在では開かずの橋となっています。所在地東京都中央区築地6丁目ー勝どき1丁目最後に勝鬨橋。姿がかっこいいよく、何度も撮影したことを思い出します。その勝鬨橋、中央が開閉するのですが、現在は、開かずの橋となっています。再び跳開させようとの運動があるようですが、機械部等の復旧に莫大な費用(試算では約10億円)がかかることや多数の道路交通量があることから、実現のめどは立っていません。跳開する姿を見てみたいもの...東京橋巡り勝鬨橋

  • 東京川巡り 月島川

    東京川巡り月島川月島川は、東京都中央区に流れる川です。隅田川から月島川水門を経て分流し朝潮運河へと注ぐ小さな川です。所在地東京都中央区月島3丁目最後に水門は、流水を制御するとともに高水時には、堤防としての機能をもちます。東日本大震災では、水門操作に駆け付けた消防団員の方々が、津波を防ごうと駆けつけて犠牲になられたそうです。そのため、自動閉鎖式とするシステムが導入されてきているそうです。これ以上犠牲者が出ないよう、このシステムが全国の水門に導入されることを願います。東京川巡り月島川

  • 東京橋巡り 佃大橋

    東京橋巡り佃大橋(つくだおおはし)佃大橋は、隅田川に架かる橋です。東京都道473号新富晴海線を通しています。上流にある永代橋、下流にある勝鬨橋の交通量の増加、および1964年東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、昭和39年隅田川に架橋された橋です。所在地東京都中央区佃1丁目・月島1丁目ー中央区湊3丁目最後に戦後初めて隅田川に架橋された橋、佃大橋。正直、シンプルすぎて、あまり記憶に残っていません😅東京橋巡り佃大橋

  • 東京橋巡り 佃小橋

    東京橋巡り佃小橋(つくだこばし)佃小橋は、佃川支川に架かる橋です。昭和59年(1984)に竣工されました。所在地東京都中央区佃1丁目最後に朱塗りの欄干の柱の上には、擬宝珠が施されています。外観が和風なので、昔からある橋だと思いましたが、意外に昭和59年に架橋されたもの。最近の橋は、シンプルな物が多い中、昔ならではのデザインの物は、嬉しいです。「佃小橋」赤くて可愛い橋で、テンションが上がったことを思い出します。その際、どっかで見たことがあるような、と思いながら撮影したのですが、それもそのはず、この橋も「3月のライオン」で度々登場していました。3月のライオン2(ジェッツコミックス)羽海野チカ白泉社 知らず知らずに、3月のライオンの聖地巡りをしていたのね。東京橋巡り佃小橋

  • 東京史跡巡り 石川島灯台

    東京史跡巡り石川島灯台石川島の灯台は、慶応2年(1866)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田川河口、品川沖を航行する船の安全ために常夜灯を築かせたものです。現在、中央区立佃公園の一角に石川島灯台を復元したものが建っています。所在地東京都中央区佃1丁目11-4最後に月島散策の際見つけた建物。何だか、立派な建物だが、何の建物だろうと撮影したのですが、灯台の復元だったのですね。今の灯台に比べると低い建物で本当に役に立っていたのか?、と疑問に思いましたが、江戸時代、佃島は今より小さく、周りは全て海。そう考えると、十分な高さだったのでしょう。東京史跡巡り石川島灯台

  • 東京橋巡り 中央大橋

    東京橋巡り中央大橋(ちゅうおうおおはし)中央大橋は、隅田川に架かる橋です。東京都道463号上野月島線中央大橋支線を通しています。平成6年(1994)に開通しました。所在地東京都中央区新川2丁目ー中央区佃1丁目最後に月島散策の際、この橋、どっかで見たことがある~、ってテンション上がり気味で撮影したのですが、その時は、何処で見たのか思い出せず⁇後日「3月のライオン」で度々登場していたことを思い出しました。3月のライオン1(ジェッツコミックス)羽海野チカ白泉社 バッチリ、1巻の表紙に出ていたよ〜。「3月のライオン」の聖地ですね。構造は、二径間連続鋼斜張橋で、フランスのデザイン会社の設計だそうです。主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されているそうです。言われてみれば、兜っぽいような。東京橋巡り中央大橋

  • 東京橋巡り 相生橋

    東京橋巡り相生橋(あいおいばし)相生橋は、隅田川派川に架かる橋です。東京都道463号上野月島線を通しています。現在の橋は、昭和63年(1988)に着工し、平成11年(1999)に全通しました。所在地東京都中央区佃ー江東区越中島最後に写真整理をしていて出てきたこの写真。好みの橋なのに…いったいどこの橋なのか?さっぱり思い出せず。地図を見てやっと思い出しました😅改めて地図を眺めると、相生橋の周りには、明治丸など、面白そうな場所がいっぱいあったのに行かなかったことに後悔です。東京橋巡り相生橋

  • 東京橋巡り 大師橋

    東京橋巡り大師橋(だいしばし)大師橋は、多摩川に架かる橋で、東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線を通しています。現在の橋は、平成18年(2006)に架け替えられたものです。所在地東京都大田区羽田2丁目・本羽田3丁目ー神奈川県川崎市川崎区殿町1丁目・大師河原1丁目最後に中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る斜張橋である、大師橋。この細いケーブルで、橋桁を支えているとは、現代の技術に驚きです。しかし、かっこいい橋ですね。東京橋巡り大師橋

  • 東京史跡巡り 品川宿

    東京史跡巡り品川宿(しながわしゅく)品川宿は、東海道五十三次の宿場の一つで、東海道の第一宿です。西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わっていました。「東海道品川宿」「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え宿内の家屋は一六〇〇軒、人口七〇〇〇人規模で賑わっていた。今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かつての宿場町として、活気が息づいている。階段石垣の名残江戸時代の東海道は、品川宿に入ると海に近くなり、宿場通りから海岸通りの方へ行く横丁は、全て坂になっていました。昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていました。江戸時代には、ときどき波浪によってこの石...東京史跡巡り品川宿

  • 東京橋巡り 中川橋

    東京橋巡り中川橋(なかがわはし)中川橋は、中川に架かる橋です。東京都の都市計画道路補助第136号線を通しています。所在地東京都葛飾区亀有2丁目・3丁目ー東京都葛飾区新宿2丁目最後に中川橋。渡った記憶はあるのですが…川岸が緑豊かだなぁ、と言う印象しか残っておらず、コメントできません💦すみません。東京橋巡り中川橋

  • 東京史跡巡り 一里塚跡・亀有

    東京史跡巡り一里塚跡(いちりづかあと)亀有慶長9年(1604)2月、徳川家康は江戸日本橋を起点として全国の主要街道の一里毎に、榎を植えた塚を築かせ、街道の道程の目安としました。一里塚跡所在地葛飾区亀有三丁目12番地先葛飾区亀有一丁目28番地先一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里(約4㎞)ごとに設けられました。塚は道路の両側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割があったようです。一里塚の起源については諸説ありますが、現在では一里塚といえば、慶長9年(1604)に設置が命じられた江戸時代のものをさします。亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋からは三里のところに位置します。現在ではその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。塚の位...東京史跡巡り一里塚跡・亀有

  • 東京川巡り 石神井用水

    東京川巡り石神井用水(しゃくじいようすい)石神井川の水を王子神社と南の飛鳥山で間でせき止め、東へ流した用水です。別名王子川、音無川と言います。所在地東京都最後に以前、音無橋辺りから、石神井川沿岸をテクテクと散歩してみたのですが、舗装され歩きやすく、また紅葉が美しかった事を思い出します。また沿岸には、木々が癒しを与えてくれるさくら緑地や、川のそばまで行くことができるもみじ緑地などあり、飽きることなく散策できました。東京川巡り石神井用水

  • 東京橋巡り 音無橋

    東京橋巡り音無橋 (おとなしばし)東京都北区にある石神井川に架かる橋です。昭和5年(1930)に竣工され、1988年に改修されました。所在地東京都王子本町1丁目ー北区滝野川2丁目最後に長さ約50m、3径間鉄筋コンクリート固定アーチ橋です。欄干は桜の図柄で可愛いく、街頭もレトロで橋に合っています。見れば見るほど、美しいデザインの橋です。鉄筋コンクリートがこのように優美になるとは、もっと色々な角度から見ておけば良かったとちょっと後悔しています。東京橋巡り音無橋

  • 東京公園巡り 北区立音無もみじ緑地

    東京公園巡り北区立音無もみじ緑地すり鉢状の護岸構造のため川岸近くまで降りることができます。所在地東京都北区滝野川4丁目2最後にこの辺りは、滝野川と呼ばれ、さらに下流になると音無川と呼ばれていました。また、崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていましたが、像を納めていた岩屋は、石神井川の護岸工事によりその姿を消してしまいました。人々の暮らしを守るためには、護岸工事は必要なこととは思いますが、美しい景色が失われたことは残念に思えます。東京公園巡り北区立音無もみじ緑地

  • 東京公園巡り 北区立音無さくら緑地

    東京公園巡り北区立音無さくら緑地石神井川の旧川を利用して作られたのが音無さくら緑地です。所在地東京都北区王子本町1丁目6-14最後に緑地には木々が多く、また吊り橋があったりと、なかなか面白い緑地でした。秋に訪れたので、木々が寂しい感じでしたが、名前にさくらとあるので、春には美しい緑地になるのでは?と想像しながら緑地を後にしました。東京公園巡り北区立音無さくら緑地

  • 東京公園巡り 音無親水公園

    東京公園巡り音無親水公園音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。音無親水公園音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。「江戸名所花暦」「遊歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りなどもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあた...東京公園巡り音無親水公園

  • 京都散策日記 賀茂別雷神社・賀茂御祖神社・旧三井家下鴨別邸

    ご訪問ありがとうございます。関東から関西へ、移住してから、もうすぐ2年になろうとしています。移住して何の不自由もなかったのですが、しかし、ある禁断症状が…それは、ポポラマーマの生パスタが食べた〜い😭ワイの一家では、外食でパスタを食する時は、ポポラマーマと決まっていました。あの、もっちりとした食感。思い出しただけでヨダレが〜。あ〜食べたい〜。そこで店舗の検索をしてみると.あったよ🤭洛北阪急スクエアにある、ポポラマーマ洛北店。地図を見てみると、あれ?以前から行ってみたかった、下賀茂神社の側じゃん。これは、うちからかなり遠いが、これは行くっきゃない。、というわけで、家族と共に行ってまいりました。まずは、上賀茂神社へ。賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)賀茂別雷神社は、京都市北...京都散策日記賀茂別雷神社・賀茂御祖神社・旧三井家下鴨別邸

  • 東京公園巡り 飛鳥山公園

    東京公園巡り飛鳥山公園(あすかやまこうえん)飛鳥山公園は、東京都北区にある区立公園です。江戸時代享保年間に行楽地として整備され、明治6年(1873)に日本最初の公園の一つに指定されました。東京都内の桜の名所の一つです。所在地東京都北区王子1丁目1-3最後に桜の名所ということですが。私が訪れたのは秋。ご覧の通り、桜は葉を落とし、枝のみとなったおりました。沢山の桜の木々。桜のシーズンには、さぞかし美しいことでしょう。(訪れる時期を間違ってしまったなぁ)駅に近い場所とは思えぬほど、緑豊かな公園でした。東京公園巡り飛鳥山公園

  • 東京川巡り 北十間川

    東京川巡り北十間川(きたじゅっけんがわ)北十間川は、東京都を流れる運河です。墨田区の中央部を旧中川から隅田川まで横断している総延長3.24kmの川です。本所の「北」を流れる、川幅が「十間」の川であることから北十間川と呼ばれるようになりました。明暦の大火後に本所開発の一環として、寛文3年(1663)に農業用水のため開削されました。所在地東京都墨田区最後に東京スカイツリーに隣接されていることから、周辺の再開発に合わせて、親水テラスや船着場などの水辺空間が整備されています。河岸が綺麗に整備されていて、散策しやすい場所でした。参考Wikipedia東京都建設局HP東京川巡り北十間川

  • 東京川巡り 横十間川

    東京川巡り横十間川(よこじゅっけんがわ)横十間川は、東京都墨田区・江東区を流れる運河で、北十間川から大横川までの全長3・66㎞の河川です。江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから横十間川と呼ばれるようになりました。別名、天神川、釜屋堀、横十間堀、横十間堀川とも呼ばれています。万治2年(1659)、徳山重政・山崎重政によって開削されました。所在地東京都墨田区・江東区最後に栗原橋とスカイツリー随分と真っ直ぐ流れる川だなぁ、と思っていましたが、調べてみますと、人工運河だったのですね。江戸時代となると、重機などありませんから、もちろん人力。昔の人々は、本当に屈強だったんだと改めて感じました。最近では、底質中のダイオキシン類が環境基準値を超える底質汚染があり、改善を検討しているそうです。昔のような...東京川巡り横十間川

  • 東京史跡巡り 梅屋敷跡

    東京史跡巡り梅屋敷跡かつてこの場所には、梅の名所、梅屋敷がありました。もとは本所埋掘(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。ここに残る石標柱は、江戸区創立10周年を記念して、建てられたものです。梅屋敷跡亀戸3-40、50~53付近梅屋敷は、江戸時代にはから続く梅の名所でした。もとは本所埋掘(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、八代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りに...東京史跡巡り梅屋敷跡

  • 東京名所巡り 旧朝倉家住宅

    東京名所巡り旧朝倉家住宅(きゅうあさくらけじゅうたく)旧朝倉家住宅は、東京都渋谷区猿楽町にある重要文化財です。東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏によって、大正8年に建てらた邸宅で、二階建ての建物内と回遊式庭園を見学することができます。建物の特徴建物の特徴旧朝倉家住宅は、木造2階建てで、ほぼ全室が畳敷き、屋根は瓦葺、外壁は下見板張、一部が漆喰塗りとなっています。明治時代から昭和30年頃までに建設された大きな邸宅の特徴を顕著にあらわしています。主屋は2階建ての大規模な建築です。1階南側に10畳の仏間、12畳の中の間(居間)、10畳の寝間(現在は一室の会議室に改造されています)、北側に納戸、女中部屋、事務室がそれぞれ並んでいます。2階は15畳、12畳半の二間続きの広間があります。主屋1階は家族...東京名所巡り旧朝倉家住宅

  • 東京名所巡り 下町風俗資料館

    博物館巡り下町風俗資料館(したまちふうぞくしりょうかん)下町風俗資料館は、東京都台東区上野公園内にある台東区立の博物館で、正式名称は、東京都台東区立下町風俗資料館付設展示場です。主に、江戸時代から昭和中期くらいの東京下町の文化的資料を展示しています。一階部分は、大正時代の下町の町並みを再現しています。駄菓子屋店先長屋路地長屋座敷2階部分は、生活道具や玩具などの展示のほか、昭和10~30年代の民家を再現しています。昭和の民家所在地東京都台東区上野桜木2丁目10ー6最後に写真撮影OKということで、たくさんの写真を撮らせていただきました。昭和の民家の再現には、レトロなTV(家にあったよ〜)や黒電話(あったあった)、柱時計(おじいちゃんちにあったよ〜)、懐かしさがこみ上げてくる展示物でした。現在、資料館は、令和5...東京名所巡り下町風俗資料館

  • 東京史跡巡り 曳舟川由来碑

    東京史跡巡り曳舟川由来碑墨田区内の曳舟川通りにある曳舟川由来を記した史跡です。曳舟川(ひきふねがわ)は、東京都葛飾区から墨田区にかけての川筋で、舟に人を乗せて曳いた一種の水上交通機関・曳舟に由来します。昭和4年の荒川放水路の開削による川筋の分断のため自動車道に改修されました。曳船川の由来曳船川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(1659年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曽根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。その後、享保七年(1722年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。この川が「曳舟川」と呼ばれ...東京史跡巡り曳舟川由来碑

  • 東京橋巡り 白鬚橋

    東京橋巡り白鬚橋(しらひげばし)白鬚橋は、隅田川に架かる橋です。東京都道306号王子千住夢の島線を通しています。所在地東京都荒川区南千住3丁目・台東区橋場2丁目ー東京都墨田区堤通1丁目・2丁目最後に創架は大正3年(1914)。近在の人々が資金を募り「白鬚橋株式会社」を設立し、大正2年に木橋を作りました。しかし、維持が難しくなり、大正14年(1925)に東京府が買い取りました。関東大震災の際、被害にあったわけではありませんが、東京都の都市計画事業により昭和6年(1931)、鉄橋に架け替えられました。名前の由来は、東岸にある「白鬚神社」に因みます。ゴツゴツとした親柱、ライトグレーの鉄骨、まさに男性的で。白鬚の名に相応しい姿です。この橋をデザインした方、ナイスです。東京橋巡り白鬚橋

  • 東京橋巡り 水神大橋

    東京橋巡り水神大橋(すいじんおおはし)水神大橋は、隅田川に架かる橋です。汐入公園、東白鬚公園等の防災拠点を繋ぐ連絡橋として千住汐入大橋とともに計画されました。所在地東京都荒川区南千住8丁目ー東京都墨田区堤通2丁目最後に名前の由来は、東岸にある「隅田川神社」に因みます。水色のアーチが優雅で美しく、水神という名にふさわしいフォルムです。(逆光で、橋の美しさが伝わらないのが残念〜)東京橋巡り水神大橋

  • 東京史跡巡り 隅田宿跡

    東京史跡巡り隅田宿跡隅田宿跡現在地墨田区堤通二丁目二番都立東白鬚公園当地は古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は治承四年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(「吾妻鏡」)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊して賑わう様子が描かれています。(「夫木和歌抄」)また、室町時代成立の「義経記」には「墨田の渡り両所」と見え、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代に地誌...東京史跡巡り隅田宿跡

  • 東京公園巡り 東白鬚公園

    東京公園巡り東白鬚公園(ひがししらひげこうえん)東白鬚公園は、東京都墨田区堤通二丁目にある東京都立の公園です。墨田区の北端、隅田川に沿うように南北に細長い公園です。公園の東側には、高層住宅が並んでいます。もしも災害が起きた時は、避難広場となります。墨田区の北端、隅田川に沿うような南北に細長い公園で、緑とレクリエーションの場です。公園の東側には、13階建の高層住宅が並びます。公園と住宅、そしてリハビリ専門病院等をあわせ、この区域一帯は、江東デルタ地区の防災拠点。もし大地震や火災が起きた時には、公園は避難広場となります。開園年月日昭和61年6月1日施設小野球場兼競技場テニスコート所在地東京都墨田区堤通2丁目最後に隅田川に沿う南北に細長い公園、東白鬚公園。こちらの公園は、緑豊かなうえに、球場やテニスコートもあり...東京公園巡り東白鬚公園

  • 東京公園巡り 汐入公園

    東京公園巡り汐入公園(しおいりこうえん)南千住八丁目の白鬚西地区市街地再開発事業で整備され、平成18年(2006)4月に開園した都立公園です。複合遊具や芝生広場、バーベキューが出来る広場などがあります。所在地東京都荒川区南千住八丁目13番1号最後に明治末期から大正期にかけて大規模工場(現・ユニチカ、現・クラシエ)が進出していましたが、昭和46年~51年にかけて工場が移転すると、東京都が跡地を買収し、昭和63年から市街地再開発事業に着手しました。対岸の東白鬚公園とともに江東地区の防災拠点として計画され、防災上重要な役割を担っています。(臨時ヘリポート、非常用トイレ、備蓄倉庫、応急給水槽他)時間がなかったので公園内を散策しなかったのですが、大規模工場の跡地にできた公園とあって、広大でした。周りを歩くだけでもか...東京公園巡り汐入公園

  • 猫日記と主のつぶやき その後

    特発性膀胱炎になってしまったノブさん。その後ですが、病院に行って、点滴を受けると症状が一時的に治まるのですが、少し経つと、再びオシッコの出が悪くなる。特発性膀胱炎は、原因が分からないし、再発しやすいので厄介です。病院のオススメフードに切り替えてみたのですが、ノブさんの口に合わないようで、食べてくれない。そこで、ドライフードの量を減らし、生タイプの量を増やして、その生タイプに、フレーバー水(肉や魚のだし汁)をトッピングしたところ。症状が治まり、毎日、ジャ〜っといいシッコするように。しばらくこの水分をたっぷりとる方法で様子を見ていこうと思います。治るとイイな。シンクロ中の二匹ギュウギュウ。ベッドもう一個あるのにね。仲良しな二匹。ノブさん、タケちゃん。癒しをありがとう、来年もよろしくね。皆様も、今年一年間ありが...猫日記と主のつぶやきその後

  • 東京橋巡り 千住汐入大橋

    東京橋巡り千住汐入大橋(せんじゅしおいりおおはし)千住汐入大橋は、隅田川に架かる橋で、東京都道314号言問大谷田線を通しています。平成18年(2006)に開通しました。所在地東京都荒川区南千住8丁目最後に隅田川に架かる橋の中で、比較的に新しく架橋された千住汐入大橋。災害時の防災拠点として整備されている白鬚西地区とを主要結ぶ連絡路となっています。直線的な橋で、美しい姿だったのですが、全体を撮影し忘れてしまいました。失敗したなぁ😔東京橋巡り千住汐入大橋

  • 伊勢神宮に参拝へ行ってきました

    今日は、家族と伊勢神宮へ参拝に行ってきました。昨年は、12月30日に参拝したのですが、剣祓・角祓を購入するのにかなりの時間を要したので、今年は一日早く行くことにしました。まず最初に、理想的な順番ではないのですが、伊雑宮に参拝。伊雑宮鳥居境内の陽だまりで佇んでいると、上着がいらないのでは、と思えるくらい、暖かい気に包まれました。何度訪れてもいい神社です。伊雑宮・神田神田を眺めていると、伊雑宮の鎮守の杜から鳥たちの声が。集まった鳥たちの様子が一望できました。大変微笑ましかったです。さて次は、外宮に参拝しました。外宮鳥居去年より参拝客が多い。ワイらは、混雑を避けるため、正面を避け、横から参拝させていただきました。やはり、外宮はキリリとした気が流れ、心が引き締まります。参拝客が、昨年より多くいらっしゃりましたが、...伊勢神宮に参拝へ行ってきました

  • 東京橋巡り 綾瀬橋

    東京橋巡り綾瀬橋(あやせばし)綾瀬橋は、旧綾瀬川に架かる橋です。墨堤通り(都道461号)を通しています。現在の橋は、昭和36年(1962)に竣工されました。所在地東京都足立区千住曙町ー東京都墨田区隅田5丁目最後に綾瀬橋は、隅田川と荒川の間を流れる、450mと短い旧綾瀬川に架かる橋です。橋自体は、水色の鉄骨、下路式1径間アーチ橋で、すっきりとした美しい姿をしているのですが…頭上に首都高速6号が走っていて、遠くから見ると、全体的にゴチャゴチャとした印象を受けます。首都高速。ないと困る道路ですが、絵図ら的には、地下を走って欲しい、なんて思ってしまいます。東京橋巡り綾瀬橋

  • 東京名所巡り ニコライ堂

    東京名所巡りニコライ堂ニコライ堂は東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂です。「ニコライ堂」は通称で、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭聖ニコライに由来します。正式名称は「東京復活大聖堂」です。所在地東京都千代田区神田駿河台4丁目1-3最後に現在の建物は、関東大震災で被災した後、1929年に修復された物だそうです。1891年に竣工した、東京復活大聖堂。駿河台の高台に建てられ、当時は、周りに高い建物もなく、さぞかし荘厳に見えたことでしょう。東京名所巡りニコライ堂

  • 神社参拝日記 一口太田姫神社元宮

    一口太田姫神社元宮太田姫稲荷神社はもともとこの場所にあり、昭和六年(1931年)に、御茶ノ水駅の総武線拡張により、遷座されました。主祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)略縁起室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘を患い生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁(おののたかむら)にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したといいます。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457)に一口稲荷神社を勧請し、旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされています。所在地東京都千代田区神田駿河台2丁目最後に最初は、旧江戸城内に、その後、徳川家康の江戸入府後、江戸城の改築により、神田川の辺りに遷座されました。明治5年(1872)に、太田姫稲荷神社と...神社参拝日記一口太田姫神社元宮

  • 東京橋巡り 万世橋

    東京橋巡り万世橋(まんせいばし)万世橋は、東京都千代田区にある、神田川に架かる橋です。初めは、明治17年(1884)に架橋された木橋で、「昌平橋」と呼ばれていましたが、その後、「新万世橋」、「万世橋」と名称を変えました。万世橋現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門がありました。1872年(明治5年)に門が撤去されその石材を用いて架けられたのが万世橋(萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。1903年(明治36年)、現在の位置に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は1906年に撤去されました。現在の橋は関東大震災後1930年(昭和5年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が1912年(明治45年)に開業す...東京橋巡り万世橋

  • 東京橋巡り 昌平橋

    東京橋巡り昌平橋(しょうへいばし)東京都千代田区にある、神田川に架かる橋です。最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624~1645年)と伝えられています。所在地東京都千代田区1丁目最後に昌平橋ですが、松住町架道橋の印象が強くて、あまり覚えていないんです。しかし、写真を整理しながら、昌平橋の全体の姿を見てみると、赤茶色の橋脚が渋くて、なかなか良い橋だったと気付きました。神田川橋梁と松住町架道橋と昌平橋が並ぶ姿は、絵になりますね。東京橋巡り昌平橋

  • 東京橋巡り 松住町架道橋

    東京橋巡り松住町架道橋(まつずみちょうかどうきょう)松住町架道橋は、東京都千代田区外神田1丁目・2丁目にある鉄道橋です。JR東日本総武本線と通しています。関東大震災の震災復興事業として計画され、のちに帝都に於ける失業救済事業の一環で、1932年(昭和7年)い総武本線が両国駅から御茶ノ水駅まで延伸された際、交差点に架けられた橋梁です。所在地東京都千代田区最後に総武線に乗っていると、秋葉原駅と御茶ノ水駅との間で、ガタンガタンと音を立てる場所があります。あ~鉄橋を渡っているのか~、と思ってはいたのですが、神田川ではなく交差点を渡っていたのですね。しかも、総武線の線路、結構高い場所を通っていたのですね。総武線の車窓から、緑色の鉄骨が見えていたのですが、地上から眺めてみると、緑色のトラス構造による二重アーチが印象的...東京橋巡り松住町架道橋

  • 東京橋巡り 神田川橋梁

    東京橋巡り神田川橋梁(かんだがわきょうりょう)神田川橋梁は、東京都千代田区外神田1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道橋です。JR東日本・総武線を通しています。御茶ノ水駅と秋葉原駅間の神田川に架けられた橋梁です。所在地東京都千代田区外神田1丁目・神田淡路町2丁目最後に八の字形のラーメン形式の橋脚。たった二本の脚で重い線路と電車を支えているのですね。しかも、数々の災害を乗り越えて来たとは、すごいとしか言いようが無いです。東京橋巡り神田川橋梁

  • 東京橋巡り 桜橋

    東京橋巡り桜橋(さくらばし)桜橋は、東京都の隅田川に架かる橋です。1985年(昭和55年)に竣工しました。隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持ちます。所在地東京都墨田区向島2丁目・5丁目ー東京都台東区今戸1丁目最後に頭上から見るとXの形をしている桜橋。連続鋼X形曲線箱桁橋と初めてみた形式の橋です。面白い形ですね。(出典・Wikipedia)ただ、気になる点は、桜橋と名前なのに、何で黄色なんだろうと。近くに桜餅で有名な長命寺もあるし、いっそのこと薄紅色とお抹茶色の塗装でも良いのでは無いかと思っちゃいました。桜並木と桜色の橋、可愛いと思うんだけどなぁ。東京橋巡り桜橋

  • 東京橋巡り 言問橋

    東京橋巡り言問橋(ことといばし)言問橋は、隅田川に架かる橋です。国道6号を通しています。関東大震災の復興事業として1928年(昭和3年)に竣工されました。所在地東京都墨田区向島1丁目~台東区浅草6丁目最後に両国橋と大阪の天満橋と並び三大ゲルバー橋と呼ばれた言問橋。川端康成は、小説の中で、「清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ。」と記しています。なるほど~訪れた際には、普通の橋だと思っていたのですが、よくよく見ると美しい橋ですね。清洲橋二つの橋を見比べると、川端康成氏の表現にも頷けます。東京橋巡り言問橋

  • 東京橋巡り すみだリバーウォーク

    東京橋巡りすみだリバーウォーク2020年に開通した、隅田川に架かる連絡歩道橋です。7時から22時まで開門しており、浅草から東京スカイツリーまで最短で行くことができます。所在地東京都墨田区向島1丁目最後に7時から22時まで開門しており、浅草から東京スカイツリーまで最短で行くことができるすみだリバーウォーク。通行料は無料とのこと。全長160mの遊歩道内にあるガラス床からは、隅田川の水面や船を除くことができ、さらに、東武鉄道の隅田川橋梁の下流側に添架されているので、橋を渡る電車を間近で見ることができるそうです。散策の際、時間がなくて渡ることを諦めたのですが、無料なら渡ってみるべきだったと後悔。東京橋巡りすみだリバーウォーク

  • 東京史跡巡り 高田馬場跡

    東京史跡巡り高田馬場跡現西早稲田一丁目、および三丁目にあった馬場です。1636年、徳川三代将軍家光の命により、旗本太刀の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営し、名称を高田馬場としました。広さは、東西へ約650m、南北へ55mありました。旧跡高田馬場跡所在地新宿区西早稲田三丁目一・二・十二・十四番西早稲田三丁目一・二・十二・十四番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。馬場は寛永十三年(一六三六)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。享保年間(一七一六~一七五三)には馬場の北側に松並木が作られ、八軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。ま...東京史跡巡り高田馬場跡

  • 東京橋巡り 面影橋

    東京橋巡り面影橋(おもかげばし)面影橋は、東京都を流れる神田川に架かる橋です。面影橋ー郷土愛をはぐくむ文化財ー文京区教育委員会平成10年3月面影橋の由来目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。所在地東京都豊島区高田2丁目最後に現在は、何の変哲もないコンクリートの橋ですが、太田...東京橋巡り面影橋

  • 東京坂巡り 胸突坂

    東京坂巡り胸突坂(むなつきざか)胸突坂は、東京都文京区目白台1丁目にある坂です。急な坂で、胸を突くようにして登らなくてはならないことからこの名前がついたと言われています。別名・水神坂(すいじんざか)とも呼ばれています。胸突坂(むなつき)文京区関口2-11と目白台1-1の間目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。所在地文京区関口2-11と目白台1-1の間最後に傾斜は...東京坂巡り胸突坂

  • 東京橋巡り 吾妻橋・改訂版

    東京橋巡り吾妻橋(あづまばし)吾妻橋は、隅田川に架かる橋で、東京都道463号上野月島線吾妻橋支線(雷門通り)を通しています。徳川家康の入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうちの最後の橋で、1774年(安永3年)に、それまで「竹町の渡し」があった場所に創架されました。はじめは、「大川橋」と呼ばれていましたが、江戸の東にあるため町民たちには「東橋」と呼ばれ、のちに慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面に「吾嬬神社」に通ずる道であったことから「吾妻」となった説があります。現在の橋は、昭和6年(1931)6月に、関東大震災の復興事業で東京市が架け替えました。鬼平情景吾妻橋(大川橋)江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三(一七七四)年、長谷川平蔵二十九才...東京橋巡り吾妻橋・改訂版

  • 東京史跡巡り 小名木川五本松跡

    東京史跡巡り小名木川五本松跡(おなぎがわごほんまつあと)江戸時代、小名木川北岸の丹波綾部藩九鬼家の屋敷に良い老松があり、名所となりました。明治の末にこの松は枯死しましたが、昭和63年(1988)に、現在の場所に復活しました。所在地東京都江東区猿江2丁目16最後に松尾芭蕉がこの場所に舟を止め、「川上とこの川しもや月の友」の句を詠んだそうです。また、歌川広重もこの場所を描いています。江戸の名所を訪れると、松尾芭蕉と歌川広重が作品にかいている場所を訪れることになることが多いです。江戸で美しい場所は、江戸初期と後期でも変わらなかったということですね。しかし、現在その場所を訪れると江戸の姿が、全くなくなっていることが多いです。東京史跡巡り小名木川五本松跡

  • 東京橋巡り 小名木川橋

    東京橋巡り小名木川橋(おなぎかわばし)東京都江東区の小名木川に架かる橋です。所在地東京都江東区扇橋2丁目ー江東区猿江2丁目最後にこの写真では見づらいのですが、優雅に緩やかなカーブを描く欄干、その欄干に施されたモチーフのデザインが美しい橋でした。東京橋巡り小名木川橋

  • 東京橋巡り 小松橋

    東京橋巡り小松橋(こまつばし)小松橋は、東京都江東区にある小名木川に架かる橋です。昭和56年に架設されました。所在地東京都江東区猿江1・2丁目ー扇橋1・2丁目最後に単径間鋼製トラス橋で、渋い色合いの鉄骨、武骨な感じがいいですね。また、補強材のギザギザがいいデザインになっています。あまりにもカッコイイ橋なので、様々な角度から何枚も撮影したことを思い出しました。東京橋巡り小松橋

  • 東京橋巡り 市ヶ谷橋

    東京橋巡り市ヶ谷橋(いちがやばし)JR市ヶ谷駅前から新宿区に通じる靖国通りの橋です。江戸時代の寛永13年(1636)に外濠開削と同時期に江戸城の外郭門として市ヶ谷御門が作られ、見附橋である市ヶ谷橋が架設されました。現在の橋は、昭和2年(1927)に架設されたものです。所在地千代田区九段北四丁目ー市ヶ谷八幡町6最後に江戸時代の寛永13年(1636)に外濠開削と同時期に架橋された市ヶ谷橋。見附橋だったことを今回知りました。訪ねた場所を調べ、新たに知ることは楽しいものです。参考千代田区観光協会HP東京橋巡り市ヶ谷橋

  • 東京公園巡り 千代田区立外濠公園

    東京公園巡り千代田区立外濠公園(そとぼりこうえん)外濠公園は、東京都千代田区にある公園です。江戸城の外濠の土手や濠の跡を利用として作られており、濠に沿って約2㎞にわたって続く、細長い公園です。所在地東京都千代田区最後に江戸城の外濠の土手や濠の跡を利用して作られた公園、外濠公園。濠に沿って2㎞にわたって続く細長い公園は、緑豊かで散歩にはもってこいの公園でした。東京公園巡り千代田区立外濠公園

  • 東京史跡巡り 四谷大木戸・下諏訪宿 道標

    東京史跡巡り四谷大木戸・下諏訪宿道標四谷大木戸と下諏訪宿の道標です。四谷大木戸(よつやおおきど)は、江戸時代に四谷に設けられていた、甲州街道の大木戸です。下諏訪宿(しもすわしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十九番目、かつ甲州街道の終点にあたる宿場です。所在地東京都新宿区四谷4丁目最後に四谷四丁目の交差点、周りとは明らかに異なる一角がありました。何だろうと近づいてみると、四谷大木戸と下諏訪宿の文字が。どうやら江戸時代の道標が、いまだにその姿を残しているようです。東京史跡巡り四谷大木戸・下諏訪宿道標

  • 東京史跡巡り 四谷大木戸跡

    東京史跡巡り四谷大木戸跡四谷大木戸(よつやおおきど)は、江戸時代に四谷に設けられていた、甲州街道の大木戸です。明治維新後、石畳や石垣は交通の障害になったため、明治9年(1876)に撤去されました。四谷大木戸跡碑四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約八○メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。平成二十四年六月新宿区教育委員会所在地東京都新宿区内藤町4丁目9-12最後に街道を利用して江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まっていた関所である大木戸。明治維新後は撤去され、石碑がポツンと建てられているだけ。現在は何も残っていませんでした。東京史跡巡り四谷大木戸跡

  • 東京史跡巡り 内藤新宿開設三百年記念碑

    東京史跡巡り内藤新宿開設三百年記念碑内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つで、甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でした。その内藤新宿の開設300年を記念として建てられた記念碑です。内藤新宿開設三百年記念碑元禄十一年(一六九八)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衞(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三丁目交差点付近までの約一kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。この宿場は、享保三年(一七一八)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、平成十年(一九九八)、開設三百年を迎えること...東京史跡巡り内藤新宿開設三百年記念碑

  • 名所江戸百景 図絵 冬の部

    名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が製作した全119枚の浮世絵名所絵です。広重の晩年の作品で、死の直前まで製作が続けられましたが、最終的には完成せず、2代目広重の補筆が加わりました。版元は魚屋栄吉。作品は江戸の人々を魅了し、ベストセラーとなりました。その魅力は、国内のみならず、ゴッホなど海外の画家に多大な影響を与えました。(参考・出典・Wikipedia)図絵冬の部第100景「浅草金龍山」第101景「よし原日本堤」第102景「浅草田圃酉の町詣」第103景「箕輪金杉三河しま」第104景「千住の大はし」第105景「小梅堤」第106景「御厩河岸」第107景「深川木場」第108景「深川洲崎十万坪」第109景「芝うらの風景」第110景「南品川鮫洲海岸」...名所江戸百景図絵冬の部

  • 名所江戸百景 図絵 秋の部

    名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が製作した全119枚の浮世絵名所絵です。広重の晩年の作品で、死の直前まで製作が続けられましたが、最終的には完成せず、2代目広重の補筆が加わりました。版元は魚屋栄吉。作品は江戸の人々を魅了し、ベストセラーとなりました。その魅力は、国内のみならず、ゴッホなど海外の画家に多大な影響を与えました。(参考・出典・Wikipedia)図絵秋の部第74景 「市中繁栄七夕祭」第75景 「大伝馬町こふく店」第76景「神田紺屋町」第77景 「京橋竹がし」第78景 「鉄炮洲稲荷橋湊神社」第79景「鉄炮洲築地門跡」第80景「芝神明増上寺」第81景「金杉橋芝浦」第82景 「高輪うしまち」第83景 「月の岬」第84景「品川すさき」第85...名所江戸百景図絵秋の部

  • 名所江戸百景 図絵 夏の部

    名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が製作した全119枚の浮世絵名所絵です。広重の晩年の作品で、死の直前まで製作が続けられましたが、最終的には完成せず、2代目広重の補筆が加わりました。版元は魚屋栄吉。作品は江戸の人々を魅了し、ベストセラーとなりました。その魅力は、国内のみならず、ゴッホなど海外の画家に多大な影響を与えました。(参考・出典・Wikipedia)図絵夏の部第43景 「日本橋江戸ばし」第44景 「日本橋通一丁目略図」第45景 「鎧の渡し小網町」第46景 「昌平橋聖堂神田川」第47景 「王子不動之滝」第48景「赤坂桐畑」第49景「赤坂桐畑雨中夕けい」第50景「増上寺塔赤羽根」第51景 「佃しま住吉の祭」第52景「深川萬年橋」第53景 「...名所江戸百景図絵夏の部

  • 名所江戸百景 図絵 春の部

    名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が製作した全119枚の浮世絵名所絵です。広重の晩年の作品で、死の直前まで製作が続けられましたが、最終的には完成せず、2代目広重の補筆が加わりました。版元は魚屋栄吉。作品は江戸の人々を魅了し、ベストセラーとなりました。その魅力は、国内のみならず、ゴッホなど海外の画家に多大な影響を与えました。図絵春の部第1景 「日本橋雪晴」第2景 「霞かせき」第3景「山下町日比谷外さくら田」第4景「永代橋佃しま」第5景「両ごく回向院元柳橋」第6景「馬喰町初音の馬場」第7景 「大てんま町木綿店」第8景 「する賀てふ」第9景 「筋違内八ツ小路」第10景 「神田明神曙之景」第11景 「上野清水堂不忍ノ池」第12景 「上野山した」第13...名所江戸百景図絵春の部

  • ねこ日記と主のつぶやき 危ない奴

    ご訪問ありがとうございます。12月のあたま、下痢ピ〜と特発性膀胱炎を患ってしまったノブさん。獣医さんから薬、そして点滴を処方され療養しておりました。薬を一週間分処方されたのですが、ちょうど飲みきるあたりで無事完治しました。獣医さんの予想、凄いです。さて、今回の騒動でわかったことですが、コイツ、改めて、危ない奴だと判明しました。そもそも下痢ピ〜の原因とは?昔からの読者さまはご存知と思いますが、ノブさん幼少時、ヘヤゴム、マスクの紐を食べて大変な目にあっております。その悪食治ったかというと…今回の原因は、ウンコから出てきた糸くず(結構な太さのもの)だと思われます。最近では、糸くずだけでなくワイらの髪の毛すら食べてしまう。(キモっ)俺は、キモくない。掃除機を1日に2回もしているのに、何処からともなく髪の毛を探して...ねこ日記と主のつぶやき危ない奴

  • 東京公園巡り 玉川上水内藤新宿分水散歩道

    東京公園巡り玉川上水内藤新宿分水散歩道新宿御苑の脇にある遊歩道です。散歩道入口新宿区では、玉川上水の歴史的価値を次世代に継承していくために、「玉川上水・内藤新宿分水散播道」をかつての流れに沿って新宿御苑散策路に整備しました。全長540mあります。所在地東京都新宿区内藤町最後に新宿御苑の隣にある、玉川上水・内藤新宿分水散播道のかつての流れに沿って作られた新宿御苑散策路。細長く続く遊歩道。緑豊かで、静けさが漂い、都会にいることを忘れてしまうような、そんな遊歩道です。新宿御苑は有料ですが、こちらの遊歩道は無料。ちょっと得した気分で歩いたことを思い出します。東京公園巡り玉川上水内藤新宿分水散歩道

  • 東京史跡巡り 玉川上水水番所跡

    東京史跡巡り玉川上水水番所跡(たまがわじょうすいみずばんしょあと)江戸時代に玉川上水の水量や水質を管理した水番所があった所に、明治28年(1895)に建てられた石碑です。史跡玉川上水水番所跡所在地新宿区内藤町八十七番地玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。定一、此上水道において魚を取水をあびちり芥捨てべからず何にても物あらひ申問敷並両側三間通に往来候並木下草其外草刈取申間敷候事右之通相背輩あらば可為曲事者也元文四巳未年十二月奉行東京都指定有形文化財(古文書)水道碑記...東京史跡巡り玉川上水水番所跡

  • 東京名所巡り 伊勢丹 新宿店 アイ・ガーデン

    東京名所巡り伊勢丹新宿店株式会社三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店です。1933年に神田店を閉店し新宿本店を開店しました。伊勢丹は全国に関連会社を含め12店舗を展開しており、新宿店が売り上げの6割を占めています。本館の施工は現在の清水建設。外装はアール・デコ様式で、東京都の歴史的建造物に指定されています。アイ・ガーデン2006年に屋上にオープンした、芝生広場と、桜や紅葉などの雑木林が植えられた屋上庭園です。朝日弁財天伊勢丹新宿店屋上にある神社です。朝日弁財天の由来太田道灌が江戸城築城の際、鬼門よけに弁財天を祭った故事にちなんだものです。ある僧侶から霊験あらかな弁財天を、伊勢丹の守護神として祭るようにすすめられ、明治三十年頃から市ヶ谷支店(あまさけや呉服店)に鎮座されていたものを、昭和八...東京名所巡り伊勢丹新宿店アイ・ガーデン

  • 東京名所巡り 東京都庁舎

    東京名所巡り東京都庁舎(とうきょうとちょうしゃ)東京都新宿区西新宿にある東京都庁の庁舎です。現在の都庁舎は1991年に完成しました。所在地東京都新宿区西新宿2-8ー1最後に調べてみますと、東京都庁は、一般行政職員だけでも約2万人、また学校部門や警察部門、消防部門のなど他の職員を含めると総計17・4万人もの職員がいらっしゃるそうです。凄い、巨大な組織なのですね。そりゃ、庁舎もデカいはずです。第一本庁舎の高さは243m。展望室が、第一本庁舎45階(地上202m)にあり、「南展望室」と「北展望室」の分かれています。入室料はいずれも無料とのこと。バーや喫茶店やお土産店も併設されているそうです。都庁舎を調べていると、庁舎が新しくなった頃、友人の付き添いで訪れたことを思い出しました。その際は、手続きしてすぐに帰ってし...東京名所巡り東京都庁舎

  • 東京公園巡り 新宿区立新宿中央公園

    東京公園巡り新宿区立新宿中央公園東京都新宿区西新宿二丁目にある新宿区立の都市計画公園です。新宿区立の公園としては最大の面積を誇る公園です。当地はもともと、隣接する熊野神社の敷地の一部で、戦前は小西六写真工業(現・コニカミノルタ)の工場敷地などでした。戦後に新宿副都心計画の一環として淀橋浄水場の跡地と合わせて公園として整備されました。所在地東京都新宿区西新宿2丁目11最後に都会のど真ん中にいるとは思えないほど、広々として緑豊かな公園です。木々の緑、空の青そして高層ビルとの面白い共演が見ることができ、楽しい気分になりました。東京公園巡り新宿区立新宿中央公園

  • ねこ日記と主のつぶやき 参ったなぁ

    久しぶりのねこ日記です。仲良くお昼寝中の二匹。元気そうに見えるのですが、ノブさんは、ちょっと病気になってしまいました😔最初の症状は、下痢ぴ〜から始まり、久しぶりに病院のやっかいに。下痢止めと抗生剤を処方され、下痢ぴ〜は治ってきたのですが…次第にオシッコの出が悪くなり、ついには、あちこちできばっては、ちびって歩く始末。その頻度があまりに多いので、またまた病院に。家では検尿できる量を採取できなかったので、病院でカテーテルによる採尿になりました。嫌がるノブさん。検査結果。結石や細菌の数値は低く、ただ尿の濃度が異常に濃かったため特発性膀胱炎になったようです。下痢ぴ〜になってから水をあまり飲まなかったからなぁ。尿の出を良くするために、点滴を受けることになったノブさん。そりゃもう、暴れてジャンプしまく...ねこ日記と主のつぶやき参ったなぁ

  • 東京駅巡り 都庁前駅

    東京駅巡り都庁前駅東京都新宿区西新宿二丁目にある、1997年に開業した都営地下鉄「大江戸線」の駅です。東京都庁舎の最寄り駅となっています所在地東京都新宿区西新宿2丁目8-1最後にワイが東京に住んでいた頃にはなかった路線「大江戸線」。今回の散策の際、初めて利用しました。綺麗な駅で、駅を出るとすぐさま中央公園の緑が出迎えてくれました。清々しい気分になったことを思い出します。東京駅巡り都庁前駅

  • 東京橋巡り 萬年橋

    東京橋巡り萬年橋(まんねんばし)萬年橋は、小名木川に架かる橋です。江東区道第3124号線を通しています。所在地東京都江東区常盤1丁目ー江東区清澄1・2丁目最後に渋い色合いの鉄骨に、緩やかなダブルアーチが美しい橋です。もっと様々な角度から写真に収めておきたかったのですが、車が多数停まっていて撮影しづらく断念したことを思い出しました。東京橋巡り萬年橋

  • 東京橋巡り 清洲橋

    東京橋巡り清洲橋(きよすばし)清洲橋は、隅田川に架かる橋で、東京都道474号浜町北砂町線を通しています。関東大震災の震災復興事業として計画され、昭和3年に竣工しました。所在地東京都中央区日本橋中洲ー江東区清澄1丁目最後に私が、鉄橋好きになったきっかけが「清洲橋」です。優美なデザインでどの角度から見ても美しい橋です。また、萬年橋の袂から眺める清洲橋は、ケルンの眺めといわれています。ケルンの眺めここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。この場所からの眺めが一番美しいといわれています。萬年橋からの清洲橋その清洲橋のモデルとなったケルン市に架けられたライン河の吊橋は、第二次世界大戦で破壊されたため、別の橋が架けられています。その吊橋はどのような姿だったのでしょ...東京橋巡り清洲橋

  • 東京橋巡り 新大橋

    東京橋巡り新大橋(しんおおはし)新大橋は、隅田川にかかる橋です。東京都道・千葉県道50号東京市川線を通しています。最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693)で、隅田川3番目の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名付けられました。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側にありました。現在の橋は昭和52年(1977)に架け替えられたものです。所在地東京都中央区日本橋浜町2・3丁目ー江東区新大橋1丁目最後に名所江戸百景で、描かれた新大橋。歴史を調べると、新大橋は、20回以上も破損や流出、焼落しました。そのため江戸幕府は維持管理を諦め廃橋を決めましたが、民衆の嘆願により諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許されたそうです。町民に支えらた新大橋、明治18年(1885)に西洋式の木橋と...東京橋巡り新大橋

  • 東京史跡巡り 五百羅漢跡・五百羅漢道標

    東京史跡巡り五百羅漢跡五百羅漢跡大島4-5五百羅漢は、元禄八年(一六九五)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(一六八四~八八)に江戸へ出て、元禄四年(一六九一)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄八年、将軍徳川綱吉から天恩山五百阿羅漢寺の寺号と六千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など五三六体を安置しました。当時の三匝堂は、廊下がらせん状に三階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、また三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が二基現存しています。羅漢寺は明治20年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに同42年(1909)現在地(目黒区)へ移転しまし...東京史跡巡り五百羅漢跡・五百羅漢道標

  • 東京坂巡り 団子坂

    東京坂巡り団子坂東京都文京区千駄木にある坂です。団子坂文京区千駄木2丁目と3丁目の境潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。『千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々』(御府内備考)「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。ー郷土愛をはぐくむ文化財ー文京区教育委員会団子坂下団子坂上所在地東京都文京区千駄木2丁目と3丁目の境最後に数多くの文...東京坂巡り団子坂

  • 東京坂巡り 富士見坂

    東京坂巡り富士見坂(ふじみざか)東京都荒川区西日暮里にある坂です。都内各地に残る、「富士見」を冠する地名の中で、最近まで富士山を望むことができた坂です。富士見坂(ふじみざか)坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称さた。都内各地に残る、「富士見」を冠する地名の中で、現在でも富士山を望むことができる坂である。都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。荒川区教育委員会関東の富士見100景富士山の見えるまちづくり地点名東京富士見坂平成16年11月国土交通省関東地方整備局寄贈(社)関東建設弘済会所在地東京都荒川区西日暮里3丁目7番付近最後に富士見坂と言...東京坂巡り富士見坂

  • 東京坂巡り 地蔵坂

    東京坂巡り地蔵坂東京都荒川区西日暮里にある諏方神社の境内からJR西日暮里駅の西わきへと屈折して下る坂です。地蔵坂JR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂です。坂の名前の由来は、別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵が安置されていたことにちなみます。荒川区教育委員会境内掲示板より引用所在地東京都荒川区西日暮里3-4-8最後に古くから人々に利用されてきた地蔵坂。江戸時代には、この場所から筑波山の双耳峰や日光連山が見えたと言います。現在は、高い建物が建ち、遠くまで見渡すことができませんが、電車や線路を見下ろすことができ、これはこれで中々の景色となっています。東京坂巡り地蔵坂

  • 東京公園巡り 西日暮里公園

    東京公園巡り西日暮里公園西日暮里駅から坂を上がった高台にあります。昭和48年4月1日に開園しました。クスノキやケヤキなどの樹木が立ち並んでいます。所在地東京都荒川区西日暮里3丁目5-5最後にJR西日暮里駅のすぐ上にある公園。駅のすぐそばにいるとは思えないほど緑豊かな公園でした。この公園からは、JR西日暮里のホームや線路を眺めることができます。電車好きにはたまらない公園ですね。西日暮里公園看板道灌山の説明書きが多々あり、撮影したのですが…逆光、さらに木々の影が写り込んで全く読めませんでした。がっくし。東京公園巡り西日暮里公園

  • 東京駅巡り 西日暮里駅

    東京駅巡り西日暮里駅(にしにっぽりえき)JR西日暮里駅西日暮里駅は、東京都荒川区西日暮里五丁目にある駅です。東京メトロ・千代田線、JR東日本・京浜東北線および山手線、東京都交通局・日暮里・舎人ライナーの三路線が乗り入れている、相互間の接続駅となっています。1969年12月20日に営団地下鉄・千代田線の駅が開業。1971年4月20日、国鉄(JR東日本)の駅が開業。2008年3月30日、東京都交通局日暮里・舎人ライナーの駅が開業。所在地東京都荒川区西日暮里5丁目最後に西日暮里駅を調べてみますと、歴史の長い駅だと思っていましたら、半世紀ちょっとしか経っていないのですね。意外です。東京駅巡り西日暮里駅

  • 東京史跡巡り 岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑

    東京史跡巡り岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑日光御成道(にっこうおなりみち)日光御成道(=岩渕街道)とは、江戸時代に五街道と同様に整備された脇往還(わきおうかん)の一つです。日光御成道は、江戸時代将軍の日光社参専用道路でした。寛永期(1624~1644年)以降、日光社参にこの道を利用するのが慣例となり将軍御成り道ということで「日光御成道」と称されるようになりました。御成道は中山道の本郷追分を起点として、岩淵宿・荒川・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経て、幸手で日光街道に合流するおよそ12里30丁(約43㎞)の脇往還でした。江戸時代初期には、この街道筋は岩槻を通ることから日光道中岩槻通りや岩槻道とも呼ばれていました。岩槻宿(いわつきじゅく)岩槻宿は、中山道の本郷追分を起点とした日光御成道の4番目の宿場町です。岩槻街道岩...東京史跡巡り岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑

  • 東京橋巡り 新荒川大橋

    東京橋巡り新荒川大橋(しんあらかわおおはし)新荒川大橋は、埼玉県川口氏舟戸町と東京都北区岩淵町との間で、荒川および新河岸川に架かる橋です荒川新河岸川新荒川大橋が開通する以前は、「川口の渡し」が対岸を結んでいました。所在地埼玉県川口市舟戸町ー東京都北区岩淵町最後に荒川と新河岸川に架かる橋、新荒川大橋。橋長は旧橋である下り線が総延長が809.917メートル、一方の新橋である上り線は橋長792メートルです。徒歩で橋を渡るとかなりの距離。私がこの橋を渡った時、徒歩で歩く人の姿はなく、車道を車がブンブン走っていました。初冬に訪れたので、冷たい風が吹き抜け、かなり寒かったです。しかし、広い河原、そして東京の街並みと川口の街並みを遠くまで見渡すことができ、清々しい気分になったことを思い出します。東京橋巡り新荒川大橋

  • 東京橋巡り 荒川橋梁・新河岸川橋梁

    東京橋巡り荒川橋梁(あらかわきょうりょう)新河岸川橋梁(しんかしがわきょうりょう)東京都北区赤羽と埼玉県川口市舟戸町の間で荒川に架かるJR東日本・東北本線の密接する3本の伏線鉄道橋です。所在地東京都北区ー埼玉県川口市最後に荒川橋梁新河岸川橋梁何度も言っていることですが、鉄子ではないのですが、橋梁を見るとテンションが上がってしまいます⤴︎武骨な鉄骨が何とも言えない。しかも、この橋梁、長くて見応えがあります。東北本線に乗った際、ガタンガタンと言いながら、荒川を越えていたことを思い出し、あれは、この橋梁を渡っていたのだと、感慨深く見つめました。いい橋梁だなぁ、もっと写真を撮っておけばよかった…東京橋巡り荒川橋梁・新河岸川橋梁

  • 名所江戸百景を訪ねて はじめに

    名所江戸百景を訪ねてはじめに関東から関西へと移住を決めたある日のこと。移住する前に、東京の思い出の場所や日本書紀に登場する神様を祀る神社を訪れてみようと思い立ちました。それから、計画通りに数カ所を訪れてみると…あることに気づきました。あれ?この場所って「名所江戸百景」で描かれた場所じゃね?そんな事が重なり、これは、いっそのこと名所江戸百景巡りも一緒にやったらいい思い出になるんじゃね。、と軽い気持ちで始めたのが運の尽き。実際、やってみると…結構な距離を歩く羽目になったとさ〜。でも、いい思い出になりました。というわけで、名所江戸百景巡りを連載していきたいと思います。しかしながら、訪れたのは2021~22年。若干、情報や映像が古い事が多々あるとは思いますが、お付き合い頂けたら幸いです。名所江戸百景(めいしょえど...名所江戸百景を訪ねてはじめに

  • 東京史跡巡り 新吉原

    東京史跡巡り新吉原(しんよしわら)吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊郭です。現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にありました。はじめは江戸日本橋近くにありましたが、明暦の大火の後、浅草寺の裏の日本堤に移転しました。江戸日本橋近くにあった物を元吉原、浅草寺裏日本堤にあった物を新吉原と呼びました。新吉原明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3000人の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には堀がめぐらされ、出入口は吉原大門の一箇所のみだった。新吉原の中央にあった大通りでは、春には桜、秋には紅葉を一時的に移植し、特別な空間を演出していた。浮世絵を見てみると、遊客が名残を惜しんで振り返った位置...東京史跡巡り新吉原

  • 東京公園巡り 足立区立大橋公園

    東京公園巡り足立区立大橋公園足立区千住橋戸町の千住大橋北詰にある公園です。「奥の細道」に旅立つ松尾芭蕉が、深川から船で来て、その一歩を記したといわれる場所にあります。おくのほそ道と千住日光道中と奥州道中の初宿千住宿にある千住大橋は、文禄3年(1594年)に隅田川に架かった最初の橋で、江戸から北関東、東北への出発点でした。元禄2年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曽良とともに千住大橋付近から俳諧紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。その後、千住地域は芭蕉の俳諧を追慕する地となり、文政3年(1820年)には琳派絵師の酒井抱一が願彰したのをはじめ、下図のとおり、現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。所在地東京都足立区千住橋戸町31最後に松尾芭蕉がこの地より、東北へ向かったのですね...東京公園巡り足立区立大橋公園

  • 東京橋巡り 千住大橋

    東京橋巡り千住大橋(せんじゅおおはし)千住大橋は、隅田川の東京都区部に架かる橋で、国道4号を通しています。最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府し手間もない文禄3年(1594)で、隅田川最初の橋です。所在地足立区千住橋戸町ー荒川区南千住六丁目最後に歴史の長い千住大橋。松尾芭蕉もこの場所に立ち、辺りを見渡したのではないかと、感慨深く見つめました。東京橋巡り千住大橋

  • 東京公園巡り 山谷堀公園

    東京公園巡り山谷堀公園(さんやぼりこうえん)かつてあった東京の水路「山谷堀(さんやぼり)」の埋立地に作られた公園です。猪牙舟や今戸焼、山谷堀ヒストリカルツアーなどが展示されており、歴史が学べる公園です。山谷堀公園ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路であったが、経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、東京都により昭和51年(1976)頃から暗渠化された。区がその上部を公園として整備し、昭和52年以降に山谷堀公園として開園した、幅約9メートル、ながさ約740メートルの公園である。平成29年(2017)から令和2年(2020)、老朽化により全面改修工事を実施した。隅田公園から桜の並木が続き、春は桜越しに東京スカイツリーを眺めることのできるビューポイントとなっている。埋め立てられる前の山谷堀には、下流から、今戸...東京公園巡り山谷堀公園

  • 東京史跡巡り 今戸橋跡

    東京史跡巡り今戸橋跡今戸橋は、かつてあった水路「山谷堀」に架けられた山谷堀最下流の橋です。今戸橋跡今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃に架けられた山谷堀最下流の橋です。最初に整備された時期は不明ですが、江戸時代の資料に橋を架け渡すという記載が残っています。この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われています。現存する欄干は、大正15年(1926年)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987年)現在のような形となりました。待乳山・今戸橋待乳山は現在の浅草7丁目にある小高い丘で、真土山・真乳山とも書かれた。聖天様をお祀りする「待乳山」は、地中より突然隆起して現れた霊山で、その時金龍が天より降って守護...東京史跡巡り今戸橋跡

  • 東京史跡巡り 竹屋の渡し跡

    東京史跡巡り竹屋の渡し跡隅田川にあった渡し船の一つです。山谷堀口から向島三囲神社の前あたりを結んでいました。隅田公園内に竹屋の渡し跡碑があります。竹屋の渡し台東区浅草七丁目一番隅田公園隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島二丁目)の前あたりを結んでいた。明治四十年刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」とも呼ばれていたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(一八一八~一八三〇)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわ...東京史跡巡り竹屋の渡し跡

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