chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
leetorinnote
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2020/12/06

  • 東京橋巡り 荒川橋梁・新河岸川橋梁

    東京橋巡り荒川橋梁(あらかわきょうりょう)新河岸川橋梁(しんかしがわきょうりょう)東京都北区赤羽と埼玉県川口市舟戸町の間で荒川に架かるJR東日本・東北本線の密接する3本の伏線鉄道橋です。所在地東京都北区ー埼玉県川口市最後に荒川橋梁新河岸川橋梁何度も言っていることですが、鉄子ではないのですが、橋梁を見るとテンションが上がってしまいます⤴︎武骨な鉄骨が何とも言えない。しかも、この橋梁、長くて見応えがあります。東北本線に乗った際、ガタンガタンと言いながら、荒川を越えていたことを思い出し、あれは、この橋梁を渡っていたのだと、感慨深く見つめました。いい橋梁だなぁ、もっと写真を撮っておけばよかった…東京橋巡り荒川橋梁・新河岸川橋梁

  • 名所江戸百景を訪ねて はじめに

    名所江戸百景を訪ねてはじめに関東から関西へと移住を決めたある日のこと。移住する前に、東京の思い出の場所や日本書紀に登場する神様を祀る神社を訪れてみようと思い立ちました。それから、計画通りに数カ所を訪れてみると…あることに気づきました。あれ?この場所って「名所江戸百景」で描かれた場所じゃね?そんな事が重なり、これは、いっそのこと名所江戸百景巡りも一緒にやったらいい思い出になるんじゃね。、と軽い気持ちで始めたのが運の尽き。実際、やってみると…結構な距離を歩く羽目になったとさ〜。でも、いい思い出になりました。というわけで、名所江戸百景巡りを連載していきたいと思います。しかしながら、訪れたのは2021~22年。若干、情報や映像が古い事が多々あるとは思いますが、お付き合い頂けたら幸いです。名所江戸百景(めいしょえど...名所江戸百景を訪ねてはじめに

  • 東京史跡巡り 新吉原

    東京史跡巡り新吉原(しんよしわら)吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊郭です。現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にありました。はじめは江戸日本橋近くにありましたが、明暦の大火の後、浅草寺の裏の日本堤に移転しました。江戸日本橋近くにあった物を元吉原、浅草寺裏日本堤にあった物を新吉原と呼びました。新吉原明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3000人の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には堀がめぐらされ、出入口は吉原大門の一箇所のみだった。新吉原の中央にあった大通りでは、春には桜、秋には紅葉を一時的に移植し、特別な空間を演出していた。浮世絵を見てみると、遊客が名残を惜しんで振り返った位置...東京史跡巡り新吉原

  • 東京公園巡り 足立区立大橋公園

    東京公園巡り足立区立大橋公園足立区千住橋戸町の千住大橋北詰にある公園です。「奥の細道」に旅立つ松尾芭蕉が、深川から船で来て、その一歩を記したといわれる場所にあります。おくのほそ道と千住日光道中と奥州道中の初宿千住宿にある千住大橋は、文禄3年(1594年)に隅田川に架かった最初の橋で、江戸から北関東、東北への出発点でした。元禄2年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曽良とともに千住大橋付近から俳諧紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。その後、千住地域は芭蕉の俳諧を追慕する地となり、文政3年(1820年)には琳派絵師の酒井抱一が願彰したのをはじめ、下図のとおり、現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。所在地東京都足立区千住橋戸町31最後に松尾芭蕉がこの地より、東北へ向かったのですね...東京公園巡り足立区立大橋公園

  • 東京橋巡り 千住大橋

    東京橋巡り千住大橋(せんじゅおおはし)千住大橋は、隅田川の東京都区部に架かる橋で、国道4号を通しています。最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府し手間もない文禄3年(1594)で、隅田川最初の橋です。所在地足立区千住橋戸町ー荒川区南千住六丁目最後に歴史の長い千住大橋。松尾芭蕉もこの場所に立ち、辺りを見渡したのではないかと、感慨深く見つめました。東京橋巡り千住大橋

  • 東京公園巡り 山谷堀公園

    東京公園巡り山谷堀公園(さんやぼりこうえん)かつてあった東京の水路「山谷堀(さんやぼり)」の埋立地に作られた公園です。猪牙舟や今戸焼、山谷堀ヒストリカルツアーなどが展示されており、歴史が学べる公園です。山谷堀公園ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路であったが、経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、東京都により昭和51年(1976)頃から暗渠化された。区がその上部を公園として整備し、昭和52年以降に山谷堀公園として開園した、幅約9メートル、ながさ約740メートルの公園である。平成29年(2017)から令和2年(2020)、老朽化により全面改修工事を実施した。隅田公園から桜の並木が続き、春は桜越しに東京スカイツリーを眺めることのできるビューポイントとなっている。埋め立てられる前の山谷堀には、下流から、今戸...東京公園巡り山谷堀公園

  • 東京史跡巡り 今戸橋跡

    東京史跡巡り今戸橋跡今戸橋は、かつてあった水路「山谷堀」に架けられた山谷堀最下流の橋です。今戸橋跡今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃に架けられた山谷堀最下流の橋です。最初に整備された時期は不明ですが、江戸時代の資料に橋を架け渡すという記載が残っています。この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われています。現存する欄干は、大正15年(1926年)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987年)現在のような形となりました。待乳山・今戸橋待乳山は現在の浅草7丁目にある小高い丘で、真土山・真乳山とも書かれた。聖天様をお祀りする「待乳山」は、地中より突然隆起して現れた霊山で、その時金龍が天より降って守護...東京史跡巡り今戸橋跡

  • 東京史跡巡り 竹屋の渡し跡

    東京史跡巡り竹屋の渡し跡隅田川にあった渡し船の一つです。山谷堀口から向島三囲神社の前あたりを結んでいました。隅田公園内に竹屋の渡し跡碑があります。竹屋の渡し台東区浅草七丁目一番隅田公園隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島二丁目)の前あたりを結んでいた。明治四十年刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」とも呼ばれていたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(一八一八~一八三〇)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわ...東京史跡巡り竹屋の渡し跡

  • 東京橋巡り 厩橋

    東京橋巡り厩橋(うまやばし)隅田川にかかる橋で、東京都道453号本郷亀戸線を通しています。この辺りには、江戸時代から続く「御厩の渡し」がありましたが、転覆事故が相次ぎ、民間の手により1874年(明治7年)に木橋が架けられたと伝えられています。その後、その橋は老朽化により東京府によって鉄橋に架け替えられました。現在の橋は、関東大震災復興事業として1929年(昭和4年)に架橋されたものです。うまやの渡し跡江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、かわりに各所に「渡し船」がありました。この場所には、「うまやの渡し」があり多くの人々を渡しました。春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。所在地東京都台東区蔵前2丁目15最後に隅田川。穏やかな水の流れのように感じましたが…「うまやの渡し」から厩...東京橋巡り厩橋

  • 東京橋巡り 駒形橋

    東京橋巡り駒形橋(こまがたばし)駒形橋は、隅田川に架かる橋で、東京都道463号上野月島線を通しています。関東大震災後の復興計画により、昭和2年(1927)に、それまで駒形の渡しがあった場所に現在の橋がはじめて架橋されました。駒形橋駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。ここは古来、交通の要所で、”駒形の渡し”のあったところである。江戸の巷説に有名な、君はいま駒形あたりほととぎすの句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。関東大震災(一九二三年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(一九二七年)に完成した。歌人、正岡子規の和歌にも、浅草の林...東京橋巡り駒形橋

  • 東京公園巡り 大森貝塚遺跡庭園

    東京公園巡り大森貝塚遺跡庭園アメリカの動物学者E・S・モースによって、発掘された日本考古学上最初の遺跡「大森貝塚」の跡地に、平成8年に開園した公園です。入り口E・S・モース像品川区・ポーランド市姉妹都市提携記念碑貝塚展示ブースミスト噴水所在地東京都品川区大井6丁目21-6アクセスJR大森駅徒歩5分最後に「日本考古学発祥の地」と言われる「大森貝塚」の跡地に作られた公園。貝層の剥離標本や説明の看板などがあり、縄文時代や大森貝塚について学習することでき、大変勉強になりました。縄文時代好きの私には、たまらない場所でした。遊具とかはありませんでしたが、公園内で元気に走り回る子どもたち。彼らを見つめ、縄文時代の子どもたちも、彼らのように遊んでいただろうと、思いを馳せました。参考しながわ観光協会HP東京公園巡り大森貝塚遺跡庭園

  • 東京史跡巡り 大森貝墟

    東京史跡巡り大森貝墟(おおもりかいきょ)大森貝塚は、明治10年(1877)、アメリカの動物学者E・S・モースによって、発掘された日本考古学上最初の遺跡で、縄文時代後期(約3000年前)の遺物が出土しています。その発掘記念碑が、大田、品川の両区にそれぞれ建てられ、大森貝墟の碑は、そのひとつです。入り口大森貝墟の碑<大森貝墟>碑の由来大正14年十二月、大森貝塚を発掘し、江戸・明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース博士の訃報(ふほう)が伝わると、ただちに博士と関係のあった石川千代松・岩川友太郎・臼井米二郎・佐々木忠次郎・松村暸・宮岡恒治郎の六名が発起人となり、大森貝塚の顕彰(けんしょう)とモース博士の偉大なる功績(こうせき)を後世に伝えるため、調査場所に記念碑をたてることにした。その場所は、...東京史跡巡り大森貝墟

  • 東京橋巡り・旧中川に架かる橋

    東京橋巡り旧中川に架かる橋旧中川(きゅうなかがわ)東京都江戸川区と墨田区、江東区の境界を流れる荒川水系の川です。もみじ大橋所在地東京都江東区大島9丁目ー江戸川区小松川1丁目逆井橋所在地東京都江東区亀戸9丁目ー江戸川区小松川3・小松川2最後に旧中川の沿岸には、舗装はされていませんでしたが、小道が川に沿って続いており、散歩しやすい場所でした。川には、ちょっと見づらいですが、魚が泳いでいたり、鳥が寛いでいる姿が見られ、大変癒されたことを思い出します。東京橋巡り・旧中川に架かる橋

  • 東京公演巡り ・聖跡蒲田梅屋敷公園

    東京公演巡り聖跡蒲田梅屋敷公園(せいせきかまたうめやしきこうえん)東京都大田区蒲田にある区立公園です。江戸時代には梅の名所「梅屋敷」として人で賑わっていました。その後、所有者が代わり面積も小さくなりましたが、昭和二十八年より区立公園となりました。約100本の梅の木が植えられています。入り口梅屋敷の由来梅屋敷の由来 梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818~1829)に、梅の木百本をはじめとしてカキツバタなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたらことに始まるといわれています。当時は後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常な賑わいを見せたようでした...東京公演巡り・聖跡蒲田梅屋敷公園

  • 東京橋巡り 古川に架かる橋2

    東京橋巡り古川に架かる橋2古川渋谷川・古川は、東京都渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2・6㎞を渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4・4㎞を古川とよんでいます。四之橋古川に架けられた橋です。昭和6年に架橋されました。土屋相模守下屋敷前にかけられていたことから、相模殿橋とも言われていました。上部は昭和59年に架替えました。所在地東京都港区白金1・3丁目ー南麻布3丁目最後に四之橋の辺りは、名所江戸百景でも描かれた場所だったのですが、現在、古川の上には首都高速都心環状線が建てられ、薄暗い川へと変わってしまいました。しかし、江戸時代にはのどかな風景が広がっていたとは、現在の様子からは想像できませんね。東京橋巡り古川に架かる橋2

  • 京都散策日記・東寺

    京都散策日記東寺の秋の特別拝観に行ってきました。東寺(とうじ)東寺は、京都府京都市南区九条町にある真言宗総本山の寺院です。本尊は薬師如来。真言宗のの根本道場であり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれています。五重塔天長3年(826)、弘法大師の創建着手に始まりますが、雷火などによって、焼失する事4回におよんでいます。現在の塔は、正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。金堂東寺一山の本堂です。文明18年(1486)に焼失し、今のお堂は、豊臣秀頼が発願し、再興させたもので、慶長8年(1603)に竣工しました。講堂講堂は、天長2年(825)弘法大師によって着工され、承和2年(835)ごろには完成しました。食堂南大門慶賀門所在地京都府京都市南区九...京都散策日記・東寺

  • 東京橋巡り 永代橋

    東京橋巡り永代橋(えいたいばし)永代橋は、隅田川にかかる橋です。東京都道・千葉県道10号東京浦安線を通しています。国の重要文化財となっています。創架は元禄11年(1698年)3月25日で、徳川家康の江戸入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目です。架橋は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の誕生から50歳を祝う記念事業として造られました。「永代橋」の名の由来は、架橋された江戸対岸にあった中洲の永代島にちなみます。永代橋元禄11年(1698)に架橋された木造の永代橋は、現在の永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれていたことから名付けられたようですが、一説には五代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名を付けられたとも伝えられて...東京橋巡り永代橋

  • 東京橋巡り 豊海橋

    東京橋巡り豊海橋(とよみばし)豊海橋は、日本橋川に架かる橋で、北岸の東京都中央区日本橋箱崎町と南岸の中央区新川一丁目を結んでいます。1927年(昭和2年)に震災復興橋として架設されました。中央区民文化財豊海橋所在地中央区新川一丁目日本橋箱崎町(日本橋川)現在の豊海橋は、大正15年(1926)五月起工、昭和二年(1927)九月に竣工。日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」がありました。この辺り新掘河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正十二年(1923)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田...東京橋巡り豊海橋

  • 東京橋巡り 八幡橋

    東京橋巡り八幡橋(はちまんばし)八幡橋は、東京都江東区富岡にある八幡堀遊歩道に架かる人道橋です。元々は現在の中央区宝町の楓川に架橋されていた弾正橋(だんじょうばし)でした。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称され人道橋となりました。八幡橋(旧弾正橋)由来旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した国産第1号の鉄橋です。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977)近代橋梁技術史上価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウイップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。所在地東京都江東区富岡...東京橋巡り八幡橋

  • 東京橋巡り 大横川に架かる橋

    東京橋巡り大横川東京都墨田区・江東区を流れる運河です。かつては流域によって亥の堀川や大島川と呼ばれていましたが、1965年の河川法改正により大横川に統一されました。江戸時代に埋立地に造られた運河で、竪川と大川(現在の隅田川)の間の十万坪と呼ばれる葦原を流れていました。大横川に架かる橋平野橋(ひらのばし)木場二丁目から木場一丁目、大横川に架かる橋です。単径間鋼製ガーター橋です。平成27年に架け替えられました。所在地木場二丁目~木場一丁目間大横川東富橋(とうとみばし)富岡二丁目~牡丹三丁目、大横川に架かる橋です。単径間鋼製トラス橋です。昭和5年に関東大震災復興で架橋され、昭和57年に小改修されています。所在地東京都江東区富岡2丁目ー牡丹3丁目新田橋(にったはし)木場五丁目から木場六丁目、大横川に架かる橋です。...東京橋巡り大横川に架かる橋

  • 東京橋巡り 平久川に架かる橋

    東京橋巡り平久川平久川(へいきゅうがわ)江戸時代、右岸側を平井新田、左岸側を久左衛門新田と呼ばれていたことから、両岸の地名をとり平久川と呼ばれました。平久川に架かる橋平久橋(へいきゅうばし)江東区を流れる平久川に架かる橋です。昭和2年に関東大震災復興計画のもと架橋された単径間鋼製トラス橋です。平成5年に改修されています。所在地東京都江東区牡丹3丁目・木場1丁目汐見橋(しおみばし)富岡二丁目から木場二丁目、平久川に架かる橋です。路線名は都道10号・永代通りです。1径間鋼製トラス橋。所在地東京都江東区富岡2丁目13最後に平久橋。鉄橋といえば、緩やかなカーブを描いた物が多いのですが、角ばった鉄橋も中々オツです。しかし、関東大震災復興計画で架橋された橋は、今でも現役で、頑丈ですな。これからもその姿を保っていただき...東京橋巡り平久川に架かる橋

  • 東京散策日記・肥後細川庭園

    東京散策日記肥後細川庭園(ひごほそかわていえん)東京都文京区目白台にある文京区立の公園です。細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園です。入り口回遊式泉水庭園松聲閣(松声閣、しょうせいかく)もと細川家の学問所だった建物で、大正時代の建造物です。肥後細川庭園周辺案内所在地東京都文京区目白台1-1アクセス都電荒川線早稲田駅徒歩7分東京メトロ有楽町線江戸川橋駅徒歩15分最後に神田川散策のおり、ふらりと訪れた肥後細川庭園。門をくぐり抜けると、美しい庭園に目を奪われました。訪れたのが、初秋とあって、紅葉もまばらで、花も余り咲いていませんでしたが、手入れが行き届き、見応えのある素晴らしい庭園でした。参考文京区HP東京散策日記・肥後細川庭園

  • 東京散策日記 東京タワー

    東京散策日記東京タワー東京タワーは、東京都港区芝公園にある総合電波塔です。1958年(昭和33年)に竣工され、東京の観光名所となっています。高さは333メートルとされています。所在地東京都港区芝公園四丁目2番8号最後に関東から関西へ、移住することになったワイ。そこで、子どもに移住する前にどこへ行ってみたいと聞いてみると、東京タワーと返ってきました。そこで、東京タワーを訪れてみました。何度か訪れた事がある東京タワー。いつもとは違う見学にしようと、今回は、トップデッキツアーにも参加してきました。中々面白いツアーでした。景色もメインデッキよりも遠くまで見渡せて中々の眺望でした。展望台からの景色展望台は、地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)にあるのですが、きちん...東京散策日記東京タワー

  • 東京公園巡り 芝公園

    東京公園巡り芝公園(しばこうえん)芝公園(しばこうえん)は、東京都港区にある都市公園です。江戸時代には増上寺の境内であった敷地が、明治6年の公園制定の太政官令によって公園として開放された、日本最古の公園の一つです。園内の碑伊能忠敬測地遺功表大野伴睦句碑「鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺」と刻まれています。所在地東京都港区芝公園最後に芝公園は増上寺を取り囲むように作られています。私が散策したのは、芝東照宮の辺り。事前に調べた時に、この辺りに芝丸山古墳があることを知りました。是非見学したいと思っていたのですが…園内を散策した際、どこにあったのかわからず、そのまま帰宅しました。帰宅後、もっと詳しく調べてみると。どうやら、上記の写真、古墳の上から撮影していたようで。ワイ、古墳の上をズカズカと歩いていたのね~。確かに、...東京公園巡り芝公園

  • 東京史跡巡り 増上寺・大門

    東京史跡巡り増上寺・大門増上寺の旧・総門です。現在の大門は1937年に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のままコンクリート造りで改築したものです。所在地東京都港区芝公園2丁目3-6最後に明治維新以降、増上寺が経済的に困窮し維持できなくなり東京府に寄付された大門。一時は公共の物となった大門ですが、何故か?東京都の財産目録から抜け落ち、所有者が曖昧になってしまったそうです。長い間所有者不明のまま放置された大門。最終的には、東京都から増上寺に無償で譲与され、耐震補強・外観化粧直しが行われ現在の姿となりました。しっかし、財産管理がなっていないなんて、オイオイですね。東京史跡巡り増上寺・大門

  • 東京橋巡り 古川に架かる橋

    東京橋巡り古川に架かる橋古川渋谷川・古川は、東京都渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2・6㎞を渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4・4㎞を古川とよんでいます。赤羽橋(あかばねばし)赤羽橋は、古川に架かる橋です。芝園橋(しばぞのばし)大正15年に古川に架けられた橋です。現在の橋は、昭和59年に架け替えられたものです。金杉橋金杉橋は、古川に架かる橋です。江戸時代に東海道の公儀橋として架橋されました。近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから名付けられました。所在地東京都港区最後に金杉橋辺りは、名所江戸百景でも描かれた場所だったのですが。現在、古川の上には首都高速都心環状線が建てられ、薄暗い川へと変わってしまいました。なんだかなぁ。東京橋巡り古川に架かる橋

  • 東京橋巡り ・浜川橋

    東京橋巡り浜川橋(はまかわばし)立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は、昭和9年(1934)に架け替えられたものです。涙橋の由来慶安四年(1651)、品川にお仕置きば(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸幕府から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれる様になりました。平成十三年三月三十日品川区教育委員会所在地東京都品川区東大井2丁目最後にこの場を訪れた際は、写真を撮影した後、するっと通り過ぎたのですが、帰宅後、写真の整理の際、初めて掲示板を読みこ...東京橋巡り・浜川橋

  • 東京橋巡り 柳橋

    東京橋巡り柳橋(やなぎばし)神田川に架かる橋で、南岸は、東京都中央区東日本橋2丁目。北岸は台東区柳橋一丁目。現在の橋は、関東大震災復興事業として1929年(昭和4年)に架橋されました。所在地東京都中央区東日本橋2丁目2最後に関東大震災復興事業で架橋された柳橋。緩やかなカーブを描く鉄橋。緑色の鉄骨が、名前と合っていていい感じです。柳橋より望んだ神田川柳橋より望んだ神田川。この風景を見るとなんだか、異国に紛れ込んだような、そんな気持ちになります。中々の風景です。東京橋巡り柳橋

  • 東京橋巡り 隅田川橋梁

    東京橋巡り隅田川橋梁(すみだがわきょうりょう)隅田川橋梁は、隅田川にかかる鉄道橋で、JR東日本・中央・総武緩行線を通しています。竣工は、1932年3月(昭和7年)所在地両国駅と浅草橋駅の間最後に鉄子では無いのですが、鉄橋と電車を見ると、思わずシャッターを切りたくなります。隅田川と総武線とスカイツリー。中々の絵図らです。ただ、もう少し粘って、遊覧船とのコラボも目指せば良かったと、ふと思いました。東京橋巡り隅田川橋梁

  • 東京史跡巡り 旧国技館跡

    東京史跡巡り旧国技館跡旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館した、1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館でした。昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されました。旧両国国技館(昭和10年代)大相撲旧国技館跡旧国技館は、天保四年(一八三三)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(一九〇九)に、その境内に建設されました。建築費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後...東京史跡巡り旧国技館跡

  • 東京橋巡り 両国橋

    東京橋巡り両国橋(りょうごくばし)両国橋は、隅田川にかかる橋で、国道14号(靖国通り・京葉道路)を通しています。西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結んでいます。両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、現在の橋は、1932年(昭和7年)に架け替えられました。両国橋と百本杭両国橋と百本杭所在地墨田区両国一丁目~横綱一丁目両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中...東京橋巡り両国橋

  • 東京橋巡り 蔵前橋

    東京橋巡り蔵前橋(くらまえばし)蔵前橋は、隅田川に架かる橋で、西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横綱一丁目。関東大震災復興事業で1927年(昭和2年)11月に新設されました。所在地東京都墨田区横綱2丁目最後に関東大震災復興事業で架橋された橋の一つ、蔵前橋。現在も現役とは、凄いですね。フラットな橋は、ワイの好みではないのですが、橋脚のアーチが美しいです。もっと細部に渡って見学するべきだったと、ちょっと後悔です。東京橋巡り蔵前橋

  • ねこ日記と主のつぶやき 新しいもの

    久しぶりのねこ日記です。ノブさんもタケちゃんも元気です。さて、春先まで使用していたノブさんの猫ベッド。ノブさんがムキムキして捏ねくり回したため、ボロボロに。そういうわけで、冬を迎えるにあたって、新しいものを購入してきました。ただ、荷物が多くて一つしか買って来られなかったんですね。そのせいで、一個のベッドに二匹で入ってギュウギュウ。しかも、ノブさんはみ出し〜結局、ノブさん用に買ってきたのですが、タケちゃんのものになってしまいました。早急にもう一個買ってこないとね。オマケ岩手に帰省してきた時に買ってきた車掌さんの黒ビール。コクがあって美味しかったです。ただ、気になる事が、銀河鉄道999の車掌さんとfinalfantasyの黒魔道士激似ですよね。どっちが先?それでは、また。ご訪問ありがとうございました。ねこ日記と主のつぶやき新しいもの

  • 東京史跡巡り・浅草御蔵跡

    東京史跡巡り浅草御蔵跡浅草御蔵跡碑台東区蔵前二丁目一番浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。元和六年(一六二〇)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米倉は、享和(一七一六ー三六)頃までに浅草御蔵に吸収された。江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現...東京史跡巡り・浅草御蔵跡

  • 名所江戸百景を訪ねて 第119景 「王子装束ゑの木大晦日の狐火」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第119景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」この作品は、王子装束榎の伝説を描いています。 王子稲荷社王子稲荷神社(おうじいなりじんじゃ)は、東京都北区岸町にある神社です。大晦日、稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあります。 装束稲荷神社装束稲荷神社(しょうぞくいなりじんじゃ)は、東京都北区王子にある神社です。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあります。 王子装束榎榎王子の狐火と装束榎北区王子二ー三〇ー一四装束稲荷神社かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて...名所江戸百景を訪ねて第119景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第118景 「湯しま天神坂上眺望」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第118景「湯しま天神坂上眺望」湯島天神の女坂から、上野方面を望んだ作品です。雪がやんだあとの一コマを描いています。近景、右側には男坂の石段がわずかに見えています。女坂から見下ろす中景には、池之端の町並み、その奥には不忍池と中島が描かれています。 湯島天満宮湯島天満宮は、東京都文京区湯島三丁目にある神社です。学問の神様として全国的に有名な神社です。 女坂湯島天満宮、北方にある勾配緩やかな33段の石段坂です。 男坂湯島天満宮、東方にある急な38段の石段坂です。 不忍池東京都台東区西部にある、上野公園内にある池です。上野台地と本郷台地の間の谷にできた海跡湖の名残です。1965年(寛永2年)天海が寛永寺建立の際、この池を琵琶湖になぞらえて、池中の島に弁財天を祀り、竹生島を模しまし...名所江戸百景を訪ねて第118景「湯しま天神坂上眺望」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第117景 「高田姿見のはし俤の橋砂利場」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第117景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」画面の手前に流れているのは神田上水です。その神田上水に架けられ、大きく描かれている橋に関しては、諸説あります。手前が「梯の橋」で、その奥の橋は、「姿見のはし」という説と、その逆、手前が「姿見のはし」、奥が「梯の橋」という説があります。橋を渡り進んだ左側の杉木立の森に氷川神社があり、その反対、右側には南蔵院の大屋根が見えます。そのあたりが砂利場主と呼ばれていました。 面影橋(おもかげばし)東京都を流れる神田川に架かる橋です。面影橋の由来目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけ...名所江戸百景を訪ねて第117景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第116景 「高田の馬場」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第116景「高田の馬場」近景の左側には、馬場の北側にあった松が大きく描かれています。その側にある的の前には複数の矢が地面に落ちています。馬場には馬術の練習中の武士、手前には弓の練習をしている武士の姿が描かれています。遠景、馬場の向こうには、下戸塚村の集落と雑木林、冬枯れの田圃が、その向こうには、雪で覆われた富士山が描かれています。 高田馬場現西早稲田一丁目、および三丁目にあった馬場です。1636年、徳川三代将軍家光の命により、旗本太刀の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営されました。広さは、東西へ約650m、南北へ55mありました。旧跡高田馬場跡所在地新宿区西早稲田三丁目一・二・十二・十四番西早稲田三丁目一・二・十二・十四番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡であ...名所江戸百景を訪ねて第116景「高田の馬場」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第115景 「びくにはし雪中」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第115景「びくにはし雪中」中央に描かれた橋は比丘尼橋です。左側に描かれた「山くじら」は獣肉を提供した「尾張屋」という店です。右側の看板にある「〇やき」とはサツマ芋の丸焼きです。「十三里」と書かれているのは、「栗(九里)より四里うまい」という洒落です。比丘尼橋京橋川が外堀に出る河口に架かっていた橋です。尾張屋この店は牛鳥西洋料理とバーの営業で昭和の初めまで営業していたといいます。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。比丘尼橋のあった場所にて撮影してみました。最後に江戸時代には、美しい夜空を見渡せたこの場所。現在はというと…東京高速道路が建てられ空が見えない状況に。名所江戸百景の描かれた場所をしみじみと眺めたいのだが、いつも首都高速が邪魔をする。...名所江戸百景を訪ねて第115景「びくにはし雪中」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第114景 「虎の門外あふひ坂」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第114景「虎の門外あふひ坂」右側の丘の上に灯りの点った屋敷が内藤右近将監の上屋敷です。画面の手前の路を右に行くと丸亀藩京極家の上屋敷で、邸内に金比羅宮がありました。作品に描かれている屋台は、二八そば、手前には太平しっぽくの屋台です。葵坂赤坂溜池の北側へ上る坂で、明治期までは存在していましたが、開発により姿を消しました。金刀比羅宮(ことひらぐう)虎ノ門金刀比羅宮は、東京都港区虎ノ門1丁目にある神社です。虎の門江戸城の外堀にあった城門の名前です。現在の虎ノ門交差点付近にありました。丸亀藩丸亀藩(まるがめはん)は、讃岐国(現・香川県)の西部を領し、丸亀城(現・丸亀市)を本城とした藩です。金刀比羅宮(ことひらぐう)への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした...名所江戸百景を訪ねて第114景「虎の門外あふひ坂」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第113景 「愛宕下藪小路」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第113景「愛宕下藪小路」正面に見える山は愛宕山です。左には伊勢薦野藩土方備中守の上屋敷です。正面奥の赤い門は真福寺の山門です。愛宕山東京都港区愛宕にある標高25・7mの丘陵です。天然の山としては東京23区内最高峰です。真福寺(しんぷくじ)東京都港区にある真言宗智山派の寺院です。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。西新橋にて撮影してみました。最後に江戸時代には、武家屋敷が立ち並んでいた場所には、現在、高層ビルが建ち並んでいました。ほんの数百年でこのように変わるとは、当時の人々も想像つかなかったのではないでしょうか。参考Wikipedia太陽の地図帖広重「名所江戸百景」の旅名所江戸百景を訪ねて第113景「愛宕下藪小路」

  • もしも猫展に行ってきました

    先日、京都文化博物館に行ってきました。京都文化博物館は、京都府京都市中京区にある博物館です。京都文化博物館・別館別館・室内本館の方は、近代的な建物ですが、別館は重要文化財に指定されている建物です。煉瓦造りで、明治中期の体表的洋風建築で、設計は辰野金吾と弟子・長野宇平治。昭和40年まで日本銀行京都支店として使用されていました。辰野金吾が設計した建物は、どれも美しいですね。今回の目的は、「もしも猫展」135点にも及ぶ、動物、主に猫を描いた作品が展示されています。写真撮影OKとのことで数点ご紹介します。浮世絵、猫と言ったら歌川国芳ですよね〜国芳塾は、猫だらけ〜国芳の懐には、もちろん猫〜国芳とは、話が合いそうです。歌川国芳流行猫の曲手まり国芳の描く猫は、表情がなんとも言えないですよね。いい味出しています。今回の猫...もしも猫展に行ってきました

  • 名所江戸百景を訪ねて 第112景 「目黒太鼓橋夕日の岡」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第112景「目黒太鼓橋夕日の岡」画面に流れる川は目黒川です。その目黒川に架かる江戸時代には珍しい石橋は「太鼓橋」です。その太鼓橋を渡った先にある坂は「行人坂」。左側の斜面は「夕日の岡」で、紅葉の名所でした。画面右下の屋根は、「正月屋」という「しるこ餅」の茶屋です。目黒川(めぐろがわ)日本の南関東の、東京都世田谷区・目黒区および品川区を流れて東京湾に注ぐ河川です。二級水系の本流です。 目黒太鼓橋太鼓橋は、目黒川の橋で、行人坂の西端にあります。1769年(明和6年)に完成した橋で、当時としては珍しい石造りでした。長さ8間3尺(約15・3m)、幅2間(約3.6m)あり、「太鼓橋」の形状をしていました。太鼓橋を造った人物には諸説あります。西運上人が造ったという伝説。木喰上人...名所江戸百景を訪ねて第112景「目黒太鼓橋夕日の岡」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第111景 「千束の池袈裟懸松」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第111景「千束の池袈裟懸松」作品に描かれている池は千束池です。近景に描かれている街道は、中原街道。中景右に描かれている松は、日蓮が袈裟を架けたと伝えられる松です。遠景の左側に描かれている社は千束八幡神社です。 洗足池(せんぞくいけ)洗足池は、東京都大田区南千束にある池です。湧水池で、流れ込む河はありませんが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水があり、用水路を通して池に流れ込んでいました。この地域の古い地名は「千束(せんぞく)でした。のちに身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となりました。妙福寺妙福寺は、東京都大田区南千束2丁目にある日蓮宗の寺院です。当寺院は、...名所江戸百景を訪ねて第111景「千束の池袈裟懸松」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第110景 「南品川鮫洲海岸」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第110景「南品川鮫洲海岸」左側の沿岸には東海道沿いの町並みが描かれています。その左にある森は海晏寺と思われます。遠景にある山は筑波山です。 鮫洲海岸南品川から南大森にかけての海岸を鮫洲海岸といい、海苔の養殖が盛んな場所でした。ここで採れた海苔は浅草に運ばれ加工され、浅草海苔として販売されていました。 勝島運河1939年(昭和14年)京浜弟一区埋立地として東京都により埋め立てが開始されました。1949年に勝島ができ、その後1987年に運河の一部を埋め立てて、勝島西側は勝島運河、南側は勝島南運河となりました。水際には柵がなく、水面間近まで行くことができます。春には、桜が満開となります。 海晏寺(かいあんじ)東京都品川区南品川5丁目にある曹洞宗の寺院です。建長3年(12...名所江戸百景を訪ねて第110景「南品川鮫洲海岸」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第109景 「芝うらの風景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第109景「芝うらの風景」浜御殿の海岸を北側から望んだ作品です。近景に描かれている鳥は、冬の渡り鳥ゆりかもめの群れ。左近景に描かれているのは船の航行安全を助ける水路標識の澪標(みおつくし)です。沖の向こうには複数の御台場が描かれています。高輪、品川、羽田に至る海岸線が延びています。芝浦芝浦(しばうら)は、東京都港区の地名です。現在の芝浦一帯は、かつては東京湾の海底でした。江戸時代には芝の雑魚馬と呼ばれ栄えていました。浜御殿江戸時代から明治時代にかけての、浜離宮の別称です。元々は将軍家の鷹狩りの場所でしたが、甲府藩下屋敷の庭園として造成され、徳川将軍家の別荘浜御殿となりました。現在は、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として解放。浜離宮恩賜庭園(はまりき...名所江戸百景を訪ねて第109景「芝うらの風景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第108景 「深川洲崎十万坪」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第108景「深川洲崎十万坪」洲崎上、空からの鳥瞰図です。眼下に広がる一面雪に覆われた平地は、一橋徳川家が譲り受けた十万坪と呼ばれた埋立地です。画面左端には丸太が建ち並ぶのが見えるので、そのあたりが木場です。遠景に見える山は筑波山です。 洲崎十万坪洲崎(すさき)は、東京都江東区東陽一丁目の旧町名です。元禄年間(1688~1704)に埋め立てられた土地で、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を景勝地でした。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。小名木川橋の南岸より撮影してみました。最後に何処で描かれたのか? 上記の写真は、参考にさせて頂いている広重ー「名所江戸百景」めぐり東京シティガイド江戸百景グループさんの説ですと、小名木川橋の南岸辺り...名所江戸百景を訪ねて第108景「深川洲崎十万坪」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第107景 「深川木場」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第107景「深川木場」絵がいた場所の特定は困難ですが、深川木場、貯木場の冬景色を描いています。左側近景には垂直に立てられた木材と斜めに立てられた木材。その材木の側には、二匹の犬が描かれています。川面には材木が浮かび、その上には、二人の川並鳶の姿が見られます。雪が舞う、灰色の空には、二羽の雀の姿。遠景には材木群が見られます。近景中央の傘には版元・魚栄の魚の文字が記されています。 深川木場木場は、東京都江東区一丁目から六丁目の地名です。江戸時代、材木商は日本橋付近に集まり材木河岸を形成していましたが、1657年の明暦の大火の被害が甚大であったことから、江戸幕府は江戸の町を大改造する計画を立てました。この中で、材木河岸を深川に移転させることになりました。明治維新以降、木場...名所江戸百景を訪ねて第107景「深川木場」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第106景 「御厩河岸」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第106景「御厩河岸」隅田川、御厩河原の渡しを描いています。左端の舳先に立っているのは二人の夜鷹の女性です。 御厩河岸現在の厩橋西詰周辺には、幕府の馬を飼っていた厩があり、「御厩河岸」と呼ばれていました。御厩河岸の渡し江戸時代、幕府の馬を飼っていた「御厩河岸」と対岸、本所石原町を結んでいた渡しです。うまやの渡し跡江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、かわりに各所に「渡し船」がありました。ここには「うまやの渡し」があり多くの人々を渡しました。春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。看板より引用 夜鷹江戸時代の街娼の一種で、夜になると現れ、野天、もしくは夜だけの仮小屋で売春をしていた女性たちのことです。描かれた場所は現在どのようになっているの...名所江戸百景を訪ねて第106景「御厩河岸」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第105景 「小梅堤」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第105景「小梅堤」本所の北、隅田川東岸にあった小梅村の風景を描いています。曳舟川の始点近くの堤から北を望んでいます。近景には色づいた葉をつけた榛の木(はんのき)が描かれています。その下では子どもたちと犬がじゃれ合って遊んでいます。描かれている橋は手前から八反目橋、庚申橋、七本松橋です。 曳舟川曳船川由来碑曳船川の由来曳船川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(1659年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曽根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。その後、享保七年(1722年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に...名所江戸百景を訪ねて第105景「小梅堤」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第104景 「千住の大はし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第104景「千住の大はし」画面に描かれている川は隅田川です。その川に架けられている橋は、千住大橋。江戸の北の玄関で、奥州街道を旅する人々が利用してきた橋です。作品でも多くの旅人が橋を渡る姿が描かれています。この作品は、南側(荒川区側)の岸から北西の上流側を望んで描かれています。遠景の山は、秩父連山の武甲山との説があります。 千住大橋千住大橋(せんじゅおおはし)は、隅田川に架かる橋です。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目です。徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月、隅田川に架けられた最初の橋です。当初の橋は現在より上流200mほどのところにありました。現在の橋は、昭和2年に架橋されたもので、タイドアーチ橋としては日本最古のものです...名所江戸百景を訪ねて第104景「千住の大はし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第103景 「箕輪金杉三河しま」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第103景「箕輪金杉三河しま」大空を羽ばたく鶴と水辺のほとりで立つ鶴の姿が描かれています。中景には田んぼが広がっていています。 三河島江戸時代、三河島には徳川家康が遷都の際、開墾のため三河から連れてきた伊藤氏などの農家が居住して稲作を行なっていました。江戸時代、三河島付近は、鶴の飛来地で、農閑期には鶴の餌付けが行われていました。将軍によって鶴御成(つるおなり)と呼ばれる、ツルを捉える鷹狩りが行われ、捕らえられた鶴は、天皇に献上する慣わしでした。現在では駅名や保育園の名前などに残るのみとなっています。 浄閑寺浄閑寺(じょうかんじ)は、東京都荒川区南千住にある浄土宗の寺院です。投込寺(浄閑寺)浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際...名所江戸百景を訪ねて第103景「箕輪金杉三河しま」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第102景 「浅草田圃酉の町詣」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第102景「浅草田圃酉の町詣」猫が遊女屋の格子窓から鷲神社詣での人々を見下ろしている様子を描いています。外の浅草田圃には大勢の人々がシルエットで描かれています。その中には、大きな熊手を担いでいる人の姿もあります。鷲神社は障子の右の影にあたります。遠景に描かれた富士山は、すでに雪をかぶっています。 吉原遊廓吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊郭です。はじめは江戸日本橋近くにありましたが、明暦の大火の後、浅草寺の裏の日本堤に移転しました。江戸日本橋近くにあった物を元吉原、浅草寺裏日本堤にあった物を新吉原と呼びました。新吉原明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期に...名所江戸百景を訪ねて第102景「浅草田圃酉の町詣」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第101景 「よし原日本堤」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第101景「よし原日本堤」作品では吉原に行く道「日本堤」が描かれています。その日本堤には葭簀(よしず)張りの茶屋が軒を連ねていました。作品にはその様子が描かれています。中景の右側の堤の先に見返り柳が描かれています。その奥に見える屋根が吉原遊郭です。 吉原遊廓吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊郭です。はじめは江戸日本橋近くにありましたが、明暦の大火の後、浅草寺の裏の日本堤に移転しました。江戸日本橋近くにあった物を元吉原、浅草寺裏日本堤にあった物を新吉原と呼びました。新吉原明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3000人の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には...名所江戸百景を訪ねて第101景「よし原日本堤」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第100景 「浅草金龍山」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第100景「浅草金龍山」雷門から奥にある仁王門と右側の五重塔を望んだ作品です。雷門に掛けられている大提灯には「(志)ん橋」と書かれています。雪景色の白と朱塗りの赤は、安政地震からの復興を紅白の吉祥で祝うとの意味が込められているとされています。 浅草金龍山金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある寺院です。聖観世音菩薩を本尊としています。 大提灯作品に描かれている雷門は、明和4年(1767)の焼失後、寛政7年(1795)に再建されました。「(志)ん橋」と書かれた大提灯は、復旧に参加した新橋の屋根職人、屋根屋三左衛門が奉納したものです。現在の大提灯は、2020年にパナソニック株式会社より寄進されたものです。 五重塔浅草金龍山の五重塔の始まり...名所江戸百景を訪ねて第100景「浅草金龍山」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第99景 「両国花火」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第99景「両国花火」柳橋方面から両国橋を描いています。広重の遺作の一つ江戸名所「両国納涼」は料亭内からの眺望を描いていて、視点が同じことから、柳橋にある万八楼の座敷から眺めた図と考えられます。両国の花火を担当したのは、両国橋より上流(画面手前)が玉屋、下流は鍵屋です。手前に提灯を五つ掲げた屋台船が描かれ、その周囲に屋台船が浮かんでいます。舳先(へさき)に行灯(あんどん)を置いているのは、飲食物を売る煮売船です。江戸時代の人はこうした船で涼を取るか、柳橋の料亭に行きました。両国橋を歩いて涼をとる人も描かれています。 両国の花火の起源毎年夏に開催されている隅田川花火大会は、隅田川の夏の風物詩として多くの人々に親しまれています。その起源は古く、8代将軍・徳川吉宗の時代、享...名所江戸百景を訪ねて第99景「両国花火」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第98景 「小奈木川五本まつ」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第98景「小奈木川五本まつ」小名木川北岸には五本松と呼ばれた名木が並んでいました。しかし、四本は枯れてしまい一本だけが残っていたといいます。作品は、その五本松と呼ばれた一本松から、大きく川に張り出している枝を描き、小名木川を遠くまで望んでいます。実際の小名木川は直線ですが、緩やかなカーブを描くデフォルメがされています。描かれた乗合船は、深川から行徳の間を往来していました。 五本松跡小名木川橋の北側のたもとに五本松跡があります。小名木川北岸には五本松と呼ばれた名木が並んでいましたが、4本は枯れてしまい1本だけが残っていたとされています。 描かれた場所は、現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。広重が描い小奈木川五本まつの小名木川は緩やかなカーブを描いてい...名所江戸百景を訪ねて第98景「小奈木川五本まつ」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第97景 「堀江ねこざね」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第97景「堀江ねこざね」作品の中央を流れる川は「境川」。その左側の集落が堀江村、右側が猫実村です。木々に囲まれた建物は、豊受神社。川に架かる橋。手前の橋は境橋です。奥に架かる橋は、新橋と思われます。その奥に見える船の帆柱は、河岸場(船着き場)辺りです。遠景の山は富士山と丹沢山塊。近景には無双網の猟の様子が描かれています。堀江村現在の千葉県浦安市堀江です。江戸川河口左岸の三角州、境川以南の先端部までを領域とし、さらに右岸側の中州も村内に組み込んで「堀江新田」として開発されました。鎌倉時代に、地内に小さな港が作られたことから「堀江」となったといわれています。猫実村現在の千葉県浦安市猫実です。室町時代より下総国八幡荘の「猫実」としての当地の名前が見られます。江戸時代に「猫...名所江戸百景を訪ねて第97景「堀江ねこざね」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第96景「鴻の臺とね川風景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて 第96景「鴻の臺とね川風景」崖の下に流れる川は、利根川の分流です。国府台(こうのだい) 千葉県市川市の地名です。古くは「鴻の台」とも書かれていました。国府台は下総台地の西端にあたり、江戸川に面した台地です。ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。その後、ここ一帯は永禄年間(1558年~1569年)に小田原の北条氏と安房の里見氏が激戦した古戦場となりました。江戸時代になり徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。当時は、富士山を一望できる景勝地であり、鴻の台は古城や古跡も多くあったので江戸東郊の行楽地の一つでした。江戸川(えどがわ)関東地方を流れる一級河川です。利根川水系で利根川の分流です。里見公園里見公園(さとみ...名所江戸百景を訪ねて第96景「鴻の臺とね川風景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第95景 「眞間の紅葉手古那の社継はし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第95景「眞間の紅葉手古那の社継はし」弘法寺の境内にあった楓の木を前景におき二股になった幹と幹の間から、手児奈の社を見下ろしています。小川に掛かっているのが継橋です。弘法寺弘法寺は、千葉県市川市真間四丁目にある日蓮宗の本山です。手児奈霊堂(てこなれいどう)手児奈霊堂は、伝説上の女性・手児奈を祀る霊堂です。手児奈霊堂は奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたと言います。手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のた...名所江戸百景を訪ねて第95景「眞間の紅葉手古那の社継はし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第94景 「にい宿のわたし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第94景「にい宿のわたし」描かれた場所は、現在の葛飾区新宿付近にあった中川の渡しです。旧中川を挟んで、亀有側から描いた説。新宿側から描いた説の二説があります。近景に描かれた二階屋の料理屋ですが。亀有側には千馬田屋(ちばたや)・ふじみ屋という川魚料理屋がありました。また、新宿にも二階屋の料理屋が二軒あり、描いた場所を特定するのが難しい理由の一つです。亀有から描いたのであるなら、遠景の山は日光連山の男体山となります。また新宿側から描いたのであるなら、遠景の山は秩父と陣馬・高尾の二説があります。 新宿(にいじゅく)新宿(にいじゅく)は、東京都葛飾区にある町名です。江戸時代には水戸街道の宿場町で、成田街道(佐倉街道)との分岐点がありました。  描かれた場所は現在どのようにな...名所江戸百景を訪ねて第94景「にい宿のわたし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第93景 「木母寺内川御前栽畑」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第93景「木母寺内川御前栽畑」隅田川を背に木母寺方向を望んでいます。当時、木母寺境内には料理屋が数軒ありました。その中の一つが右側中央に描かれている建物、「植半(うえはん)」です。作品の縦に流れる川は内川で、二人の芸妓が座敷船から降り立ち料理屋へ向かう姿が描かれています。内川の左側は幕府の御前栽畑です。 木母寺(出典・Wikipedia)寺伝によりますと、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔い、塚をつくり、その傍らに建てられた梅若寺と名づけて開かれました。梅若丸は、「吉田少将惟房」という名の貴族の子でしたが、梅若丸が5歳の時に父を亡くし、7歳で出家。比叡山延暦寺に入りましたが、兵乱に遭い逃げる途中、人買いに騙されて、この地まで連れてこられたと...名所江戸百景を訪ねて第93景「木母寺内川御前栽畑」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第92景 「請地秋葉の境内」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第92景「請地秋葉の境内」請地村にある向島秋葉神社の境内を描いた作品です。境内は紅葉の名所として親しまれていました。左下の茶屋で写生する人物は広重本人とみる人もいます。 向島秋葉神社向島秋葉神社のある地域はその昔、請地村といい、古くから千代世稲荷大明神が祀られていましたが、後に、静岡の秋葉権現を勧請し、相殿としました。元禄15年(1702)別当千葉葉栄が立派な社殿を造営しました。江戸時代は火伏の神様として大名家の信仰を集め、境内は紅葉の名所として親しまれていました。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。残念ながら、作品に描かれた池は現在ありません。しかし、秋葉神社は昔と変わらぬ場所にありました。訪れた際には、見事な紅葉に感嘆のため息が...名所江戸百景を訪ねて第92景「請地秋葉の境内」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第91景 「猿わか町よるの景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第91景「猿わか町よるの景」満月に照らされた猿若町を描いています。右側の手前から、森田座、市村座、中村座と続いています。左側には芝居茶屋が並んでいました。 猿若町現在の東京都台東区浅草6丁目あたりあった地名です。天保の改革により、1842年(天保13)堺町、葺屋町、木挽町にあった芝居小屋を浅草聖天町に移し、猿若町と改称しました。地名は江戸俳優の祖といわれる猿若勘三郎(かんざぶろう)の姓をとったことによるといいます。江戸三座といわれる中村座、市村座、森田座があり、芝居の町として繁栄していました。  森田座森田太郎兵衛が万治3年(1660年)木挽町に創設しました。安政3年に守田座と改め、明治5年(1872年)猿若町から新富町に移転し、同年8月に新富座と改称しました。大正...名所江戸百景を訪ねて第91景「猿わか町よるの景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第90景 「上野山内月のまつ」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第90景「上野山内月のまつ」近景には上野清水堂にあった、月のまつを描き、その松の間から不忍池が描かれています。対岸に見えるのは、池之端の町屋、そして、その奥に見えるのは、大名屋敷です。不忍池の右側にあるのは、弁財天です。 月の松名所として親しまれてきましたが、明治初期に台風で折れてしまいました。しかし、平成24年に再び植栽され、現在も満月のような枝ぶりを見ることができます。 上野清水堂清水観音堂は、上野公園内にあり、千手観音を祀っています。寛永8年(1631年)の建立されました。京都の清水寺本堂と同様の懸造建築です。 不忍池辯天堂不忍池辯天堂は、上野公園南側にある不忍池の弁天島(中之島)に、天海が竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請して建立しました。 描かれた場所は現在どの...名所江戸百景を訪ねて第90景「上野山内月のまつ」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第89景 「王子滝の川」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第89景「王子滝の川」王子七滝の一つである、弁天の滝を俯瞰しています。崖下にある赤い鳥居の洞穴は岩屋弁天です。絵の右上の建物が、松橋弁天社の本堂です。石神井川の中央にかかる橋は松橋です。 滝の川この作品が描かれた場所のあたりは滝野川と呼ばれ、さらに下流になると音無川と呼ばれていました。 岩屋弁天崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。音無もみじ緑地公園内で撮影してみました。 最後に護岸工事をしないと、川が氾濫したりと災...名所江戸百景を訪ねて第89景「王子滝の川」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第88景 「井の頭の池弁天の社」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第88景「井の頭の池弁天の社」名所江戸百景の中で最も西にある名所です。社正面から井の頭池を眺望した作品です。実際の井の頭池の形とは異なるので、池の広さを出すために変形だろうとの説があります。遠景に描かれた山々は、筑波の山並みとする説や、日光の山並みとする説などがあります。江戸時代には市民にとって、弁財天は信仰の地であるとともに、行楽地でもありました。 井の頭池井の頭という名称は諸説あります。一説は、江戸幕府三代将軍・徳川家光によってこの神田上水水源が「井之頭」と名付けられたものと伝えられ、自ら小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだとも伝えられています。また、「えんかしら、この水の美しさ」と家光が驚嘆したことが、その後転じて「いのかしら」となったとする説もあり...名所江戸百景を訪ねて第88景「井の頭の池弁天の社」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第87景 「四ツ谷内藤新宿」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第87景「四ツ谷内藤新宿」宿場内より四ツ谷大木戸方面を描いています。近景には馬の尻が大きく描かれており、蹄には草履が履かせられています。その足元の地面には馬糞が数個落ちているのも描かれています。道路の左側には、茶屋や旅籠が続いて描かれ、道の奥の森は内藤家か水番所の森だと思われます。 内藤新宿内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つです。江戸秘本橋から数えて最初の宿場で、新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道の起点でもありました。現在の東京都新宿区新宿一丁目から新宿二丁目。三丁目の一帯にあたります。地名から四谷新宿とも呼ばれることもありました。内藤新宿開設三百年記念碑元禄十一年(一六九八)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衞(後の喜六)らの...名所江戸百景を訪ねて第87景「四ツ谷内藤新宿」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第86景 「紀の国赤坂溜池遠景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第86景「紀の国赤坂溜池遠景」紀伊国坂を登る途中で、坂の下を振り返った場所からの景色です。画面のお堀の先、左の緑の森は日吉山王大権現社です。紀伊国坂紀伊国坂(きのくにざか)は、東京都港区元赤坂1丁目から、旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂です。赤坂(あかさか)、茜坂(あかねざか)などとも呼ばれています。赤坂溜池溜池交差点や「溜池山王」駅の由来になったことで知られる溜池付近には、かつて大きな溜池がありました。元々は湧き水でしたが、堤を作り水を貯めるようにしたため、この名があります。その池は、形から別名「ひょうたん池」とも呼ばれていました。江戸時代初期になると、この溜池は江戸城の外堀としても利用していました。日枝神社日枝神社は、東京都千代田区永田町にある神社です。...名所江戸百景を訪ねて第86景「紀の国赤坂溜池遠景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第85景 「目黒爺々が茶屋」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第85景「目黒爺々が茶屋」作品の右に描かれている茶屋が、爺々が茶屋です。高台の眼下には黄金色に輝く田圃が広がっています。中景の緑の林と建物は目黒不動堂です。遠景に描かれた富士山は雪を纏い真っ白に輝いています。 爺々が茶屋目黒に鷹狩にやってきた徳川将軍がよく利用していたと伝えられたいます。 茶屋坂茶屋坂江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。 目黒不動堂・別当滝泉寺瀧泉寺(りゅうせんじ)は、東京都目黒区下目黒にある、天台宗の寺院です。不動明王像を本尊とすることから、古くより「目黒不動尊(めぐろふどうそん)」と呼ばれていました。  描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました...名所江戸百景を訪ねて第85景「目黒爺々が茶屋」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第84景 「品川すさき」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第84景「品川すさき」目黒川河口にある品川洲崎に水の神・弁財天を祀る洲崎弁天社が建っていました。その弁天社を眼下に描いています。対岸にある宿場からは右端に描かれている、鳥海橋を渡っていくことができました。品川沖に見える土盛りは、御殿山を削った土で築かれた御台場です。 品川洲崎南品川漁師町は、洲崎(すさき)と呼ばれ、現在の東品川一丁目の一部で、目黒川河口の砂洲にできた町です。その昔は兜島(かぶとじま)と呼ばれていました。明暦の頃、漁師町が形成されました。 洲崎弁天洲崎弁天は、現在の利田神社で、弁財天を祀っています。1626年(寛永3年)に創建されました。沢庵宗彭が目黒川の砂州に弁財天を勧請したのが起源です。当時は「洲崎弁天」と呼ばれていました。明治時代の神仏分離に伴い...名所江戸百景を訪ねて第84景「品川すさき」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第82景 「月の岬」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第82景「月の岬」海に面した妓楼の一室が描かれています。外は満月。月の宴が終わり、片付けをする芸妓の姿が右端に描かれています。左側の障子に映っている女性は、簪の数から遊女とみることができます。 月の岬月の岬に関しては、聖坂上の三田台地の月見に適した場所を指し、済海寺あたりという説。品川手前の八ツ山を月の岬という説など諸説あります。  描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。旧東海道、問答河岸跡辺りで撮影してみました。 最後に問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名称です。江戸幕府三代将軍・徳川家光が東海寺を訪れた際、沢庵和尚がこのあたりまで出迎えて禅問答したと言う話が残されているそうです。江戸時代、この辺りは海岸がすぐ側にあったの...名所江戸百景を訪ねて第82景「月の岬」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第82景 「高輪うしまち」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第82景「高輪うしまち」画面の近景には牛車の車輪。その側には食い散らかされた西瓜の皮と使い古されたわらじが一足捨てられています。そのわらじをくわえてあそぶ子犬の姿。品川沖に見える台地は、お台場です。夕立の後でしょうか?空には虹が描かれています。 高輪高輪の地名は、戦国時代の軍記物語の中に「高縄原」として書かれていることに由来します。江戸時代には江戸の町はずれで、町人町の他にも高台には諸蕃の下屋敷(別荘)が置かれていました。高輪は東海道から江戸府内の玄関口にあたり、大木戸が設けられていました。 高輪大木戸跡史跡高輪大木戸跡所在地港区高輪二丁目十九番指定昭和三年二月七日高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてたられたのが起源である。享保九年(172...名所江戸百景を訪ねて第82景「高輪うしまち」

  • 久しぶりの帰省

    先頃、二年半ぶりに岩手に帰省しました。関西に引っ越してから初めての帰省です。京都駅から東海道・山陽新幹線に乗って東京駅へ、そして東京駅から東北新幹線に乗り継ぎ、約7時間ほどで盛岡駅に到着。遠い〜!移動でほぼ1日が終わった感じです。実家の最寄りの駅から、家に行く途中、周りの景色を堪能しました。久しぶりの景色。やはり、故郷は心落ち着きます。田んぼは、お米がたわわに実っていました。黄金いろに輝いて、美味しそう。もうすぐ、新米が出回りますね。楽しみです。今回の帰省。コロナ禍で、母に2年半も会えなくて、心配していましたが、元気な姿にホッと安堵しました。母と一緒にプチ旅行もできたし、有意義な帰省となりました。ちょっとは親孝行できたかな。おまけお土産の紹介福田パン岩手県民のソウルフード。大きめのコッペパンに様々な具材が...久しぶりの帰省

  • 名所江戸百景を訪ねて 第81景 「金杉橋芝浦」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第81景「金杉橋芝浦」 左側の下に描かれるは金杉橋。その上を、池上本門寺の参拝者の一行が行き交う様子を描いています。左手の高い竿に吊るされているのは、寺の手洗い用に寄進する柄杓と手ぬぐい。赤い幟には、池上本門寺の紋、その下にはお題目、「一天四海皆歸妙法」、「南無妙法蓮華経」と書かれています。右手に見える海は、芝浦の海で、左手に見える海岸線は、浜御殿(浜離宮)で、その向こうに築地本願寺の大屋根が見えます。金杉橋(かなすぎばし)東京都港区にある、古川に架かる橋です。江戸時代に東海道の公儀橋として架橋されたもので、近くにセンダンの木が光って見えるようであったことから名付けられました。池上本門寺(いけがみほんもんじ)東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山です。日蓮入滅の霊場と...名所江戸百景を訪ねて第81景「金杉橋芝浦」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第80景 「芝神明増上寺」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第80景「芝神明増上寺」 左奥には、増上寺の大門、右側には芝神明社が描かれています。近景に描かれた一団は、増上寺見物を終えたお上りさんの一団。その後ろに続くは、増上寺の托鉢に出かける僧の一団です。芝神明芝大神宮(しばだいじんぐう)は、東京都港区芝大門一丁目にある神社です。増上寺増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院です。浄土宗の七大本山の一つです。将軍徳川家の菩提寺です。七つ坊主増上寺の修行僧はいつも七つ時(午後4時ごろ)に托鉢に出かけるので「七つ坊主」と呼ばれていました。描かれた場所は、現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。 芝大門交差点より増上寺赤門を撮影してみました。最後に 江戸時代には、のどかな通りでしたが、高層ビ...名所江戸百景を訪ねて第80景「芝神明増上寺」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第79景 「鉄炮洲築地門跡」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第79景「鉄炮洲築地門跡」作品は、明石町の沖から築地本願寺の大屋根を描いています。築地本願寺築地本願寺は、東京都中央区築地3丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院です。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。月島より築地方面を撮影してみました。最後に隅田川の水面を見ていると、ゆったりとした時間が流れ、心が落ち着きます。江戸時代の人々も同じような気持ちで、ここで景色を眺めたのかもしれません。しかし、撮影した場所。江戸時代には東京湾だったとは、現在の町並みからは想像できません。参考Wikipedia太陽の地図帖広重「名所江戸百景」の旅名所江戸百景を訪ねて第79景「鉄炮洲築地門跡」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第78景 「鉄炮洲稲荷橋湊神社」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第78景「鉄炮洲稲荷橋湊神社」作品は、西からの下り物を運んできた大型船から小型船に積み替え、配送する様子が描かれています。近景には二艘の大型船の帆柱が二本、大きく描かれています。作品に描かれた水面は、横に流れるのは、越前堀(現在の亀島川)。縦に流れるのは、八丁堀です。その八丁堀に架かる手前の橋は、稲荷橋、さらに上流に架かる橋は、中の橋です。左端に描かれている朱塗りの玉垣の向こうの建物は、鉄炮洲稲荷の社殿の屋根です。鉄炮洲江戸時代の地名です。現在の東京都中央区湊、明石町に相当します。江戸時代には港として栄えていました。鉄炮洲稲荷鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)は、東京都中央区湊にある神社です。八丁堀(はっちょうぼり)寛永年間(1624〜1644)隅田川に通じ...名所江戸百景を訪ねて第78景「鉄炮洲稲荷橋湊神社」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第77景 「京橋竹がし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第77景「京橋竹がし」手前に描かれた橋が欄干に擬宝珠のある京橋、その奥には中ノ橋、その先にかすかに見えるのが、白魚橋です。西から下流を望んだ構図で、川面の左側には竹を運んできた筏(いかだ)が描かれています。左側の河岸には竹が異様に並び立っています。この河原は竹問屋が多く竹河原と呼ばれていました。遠景には満月が美しく輝いています。橋を渡る中央の人物の持つ赤い提灯には、「彫竹(ほりたけ)」と描かれています。これは、彫師の横川彫竹の名を忍ばせたとヘンリー・スミス氏は論じています。京橋(きょうばし)京橋川に架けられていた中央通りの橋です。江戸時代の京橋は、木造で、公儀橋(こうぎばし)であり、欄干の柱頭部に擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)という飾りがついていました。他にこの飾りが...名所江戸百景を訪ねて第77景「京橋竹がし」

  • 東京史跡巡り 京橋周辺

    東京史跡巡り京橋(きょうばし)京橋川に架けられていた中央通りの橋です。江戸時代の京橋は、木造で、公儀橋(こうぎばし)であり、欄干の柱頭部に擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)という飾りがついていました。他にこの飾りがついていた橋は、日本橋と新橋のみでした。京橋の親柱所在地中央区銀座一丁目二番先・一一番先京橋三丁目五番先京橋は、慶長八年(一六〇三)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残を留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。このうち、二基の石造親柱は、明治八年(一八七五)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠...東京史跡巡り京橋周辺

  • 名所江戸百景を訪ねて 第76景 「神田紺屋町」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第76景「神田紺屋町」前景に紺屋町の物干し台でほされた染物を大きく描いています。中央の布には版元魚栄の「魚」、その奥には「ヒ」、「ロ」を組み合わせた広重自身の印が描かれています。紺屋町藍染を手がける染物屋が軒を連ねていたため、この町名が起こりました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。神田紺屋町にて、富士山の方角を撮影してみました。最後に作品を見てみると、染め物がはためき、その隙間から富士山の姿が望めます。江戸時代にはこの場所からも富士山を眺めることができたのですね。心がホッとします。現在はというと、どの方角を見ても、ビルばかりで味気ない町へと変わってしまいました。なんだか、残念です。参考Wikipedia太陽の地図帖広重「名所江戸百...名所江戸百景を訪ねて第76景「神田紺屋町」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第75景 「大伝馬町こふく店」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第75景「大伝馬町こふく店」道を進む人々は「棟梁送り」の行列です。左側に呉服商大丸屋の看板があります。呉服商大丸屋享保2年(1717年)に、下村彦右衛門正啓が、京都伏見の生家に古着商「大文字屋」を開業したのが始まりです。寛保3年(1743年)に日本橋大伝馬町三丁目に江戸店を開店しました。「大丸屋呉服店」は、駿河町の「越後屋呉服店」、通一丁目「白木屋呉服店」と並び、「江戸三大呉服屋」と呼ばれていました。大伝馬町日本橋大伝馬町(にほんばしおおでんまちょう)は、東京都中央区の地名です。江戸最古の町の一つです。棟梁送り(とうりょうおくり)棟上式のとき、祝宴のあと棟梁を家まで練り歩くことをいいます。自宅では宴席が設けられました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょう...名所江戸百景を訪ねて第75景「大伝馬町こふく店」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第74景 「市中繁栄七夕祭」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第74景「市中繁栄七夕祭」七夕の風景を描いた作品です。名所江戸百景の中で唯一、地名が特定されていません。遠景の中央に描かれた富士山と右端のお城のやぐらの位置、商家のたたずまいなどから手前の倉は南伝馬町と思われます。右の火の見櫓は広重が生まれ八代洲(やよす)の火消屋敷のものとみられます。描いた場所を推定すると、この図は大鋸町(おが)にあった広重の自宅の屋根の上から描いたものではないかというのが定説になっています。広重の住居火消同心の家に生まれた広重は生涯を江戸で過ごしました。大鋸町には、天保13〈1842〉年から弘化3(1846)年まで暮らしたと推定されています。その後、常磐町、中橋狩野新道へと居を移し、53歳から没するまでの約10年を過ごした中橋可能新道の住居跡には...名所江戸百景を訪ねて第74景「市中繁栄七夕祭」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第73景 「はねたのわたし弁天の社」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第73景「はねたのわたし弁天の社」近景には、船頭の手足が大きく描かれています。中景、左側の森は玉川弁財天の森です。沖に見える半島は三浦半島です。 羽田の渡し羽田の渡しとは、現・東京都大田区羽田2丁目にかつてあった船着場です。羽田と川崎との間の渡しは、川崎大師参詣の要路でした。羽田の渡しは、「六左衛門の渡し」とも呼ばれ、昭和14年(1939年)に大師橋が開通するまで利用されました。 玉川弁財天 玉川弁財天は、東京都大田区にある神社です。創建年代は不詳ですが、昔から羽田漁民の信仰を集めてきました。元々は、現在の羽田空港の位置にありました。江戸時代には「江戸名所図解」で取り上げられるほど景勝地でしたが。戦後、GHQの空港拡張工事によって強制退去させられたことにより、羽田の...名所江戸百景を訪ねて第73景「はねたのわたし弁天の社」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第72景 「深川三十三間堂」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第72景「深川三十三間堂」西側から三十三間堂越しに三十間掘を俯瞰しています。三十間掘の沿岸には茶店が軒を連ねています。堀の川面には係留された材木が浮かんでいます。三十三間堂では、通し矢が行われ、それを見物している人の姿が見えます。 深川三十三間堂江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目あたり)にあった仏堂です。本尊は千手観音。京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて、寛永19年(1642年)11月、弓師備後が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したことに始まります。その後、元禄11年(1698年)勅額火事(ちょくがくかじ)により焼失しましたが、その後、元禄14年(1701年)富岡八幡宮の東側に再建されました。しか...名所江戸百景を訪ねて第72景「深川三十三間堂」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第71景 「五百羅漢さヾゐ堂」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第71景「五百羅漢さヾゐ堂」黄檗宗(おうばくしゅう)の羅漢寺本堂には松雲禅師が造立した五百羅漢が、その隣に三匝堂(さんそうどう)がありました。三匝とは、三回めぐるの意味で、螺旋状の階段があったので栄螺堂(さざえ)と呼ばれました。絵は、南側から北西方向を描いています。近景には、三匝堂が描かれています。三匝堂からの展望は江戸名所の一つで、道をへだてて茶屋も立ち並んでました。五百羅漢跡 五百羅漢跡大島4-5五百羅漢は、元禄8年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(1684~88)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄8年、将軍徳川綱吉から天恩山五百阿羅漢寺の寺号と六千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した...名所江戸百景を訪ねて第71景「五百羅漢さヾゐ堂」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第70景 「綾瀬川鐘か淵」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第70景「綾瀬川鐘か淵」近景の上部には薄紅色の花を咲かせた合歓の木(ねむのき)が大きく描かれています。画面中央に大きく流れる川は隅田川。遠景の中央の川は綾瀬川、その川に架かる橋は綾瀬橋。墨田川と綾瀬川の合流地点を描いています。この辺りは鐘が淵と呼ばれていました。川では川並が筏(いかだ)を操っている姿が描かれています。空を飛ぶとりは白鷲です。ネムノキが花開いていることから、夕方の一コマを描いた作品だと思われます。 鐘ヶ淵(かねがふち)鐘ヶ淵は東京都墨田区北端の地名です。現在、町名は堤通り(つつみどおり)、墨田などにあたります。地名の由来ですが、隅田川が大きく曲がる所で、曲ケ淵(かねがふち)と呼んだ。あるいは、橋場から亀戸に普門院(ふもんいん)と呼ばれる寺を移転する際、...名所江戸百景を訪ねて第70景「綾瀬川鐘か淵」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第69景 「浅草川大川端宮戸川」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第69景「浅草川大川端宮戸川」画面左に柳橋の有名料亭「万八楼」があることから、柳橋付近を描いたものと推定されます。左は神田川の河口に位置した柳橋の料亭、八万楼。対岸は百本杭と御蔵橋。遠景に描かれている山は筑波山の双耳峰です。左手前と右には大山詣での一団が描かれています。御幣を束にした梵天を掲げた彼らは両国橋東詰(画面右)の水垢離場(みずごりば)で身を清め、右の一団は左の神田川河口にある柳橋の船着き場を目指しました。柳橋は、神田川が隅田川に流入する河口部にあり、周囲に料亭や船宿が建ち並んでいました。 大山詣り神奈川県伊勢原市にある大山は古代より信仰の対象となっており、「大山詣り」として、江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人もの参拝者が訪れたと言われています。「...名所江戸百景を訪ねて第69景「浅草川大川端宮戸川」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第68景 「みつまたわかれの淵」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第68景「みつまたわかれの淵」この作品は、旧新大橋やや下流から隅田川の右岸を描いています。隅田川が画面中央の葦の生える中洲で二股に分かれ、さらに画面奥の箱崎川で三又となることから「三俣」と呼ばれました。「わかれの淵」と呼ばれる由来は、隅田川と箱崎川の分れ流れるところという説と、江戸湾の塩水と川の真水の分かれ目であるからという説などがあります。正面のやや左に描かれている橋は東京都中央区日本橋蠣殻町と日本橋箱崎町との間にかかっていた橋、永久橋です。その左には箱崎にあった田安家屋敷です。右側の朱塗りの門は堀田備中守、あるいは安藤長門守の屋敷と思われます。隅田川には、米俵、酒樽、木綿を積んだ荷船が描かれ、猪牙船や釣船も遠くに見えています。 隅田川の中洲明和8年(1771年)...名所江戸百景を訪ねて第68景「みつまたわかれの淵」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第67景 「外桜田弁慶堀糀町」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第67景「外桜田弁慶堀糀町」桜田門辺りから、弁慶掘を望んだ作品です。左側中央の赤い門と白壁の屋敷は近江彦根藩井伊家の上屋敷。その右は、三河田原藩三宅家の上屋敷。その右隣が、播磨明石藩松平家の上屋敷です。遠景の火の見櫓が建つ屋敷は定火消お屋敷です。弁慶掘江戸時代に江戸城警護のために作られた外堀の一つ、現在の桜田掘です。桜田門(さくらだもん)江戸城の内堀に造られた門の一つです。造られた当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていました。寛永13年(1636年)にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ぶようになりました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。桜田門付近で桜田堀を撮影してみました。最後に武家屋敷のあった...名所江戸百景を訪ねて第67景「外桜田弁慶堀糀町」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第66景 「糀町一丁目山王祭ねり込」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第66景「糀町一丁目山王祭ねり込」半蔵門の南側から、桜田掘越しに半蔵門を望んだ作品です。山王祭の山車の行列を描いています。糀町東京都千代田区の地名です。徳川家康の江戸城入城後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人地が形成されました。麹町は、江戸の山の手を代表する人口密集地域であり、山王祭の時は、行列が四谷見附から半蔵門を通って将軍の上覧を経て竹橋に抜けるコースを取り、麹町からは唐人行列や、巨象の作り物が出されていました。山王祭(さんのうまつり)東京都千代田区にある日枝神社の祭です。正式名称は「日枝神社大祭」。江戸三代祭りの一つともされています。元和元年(1615年)には、祭りの山車や神輿が江戸城内に入ることが許され、将軍の上覧を許されるように...名所江戸百景を訪ねて第66景「糀町一丁目山王祭ねり込」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第65景 「角筈熊野十二社俗称十二そう」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第65景「角筈熊野十二社俗称十二そう」境内の西方にあった古池を大きく描き、近景の左隅に本社を描いています。神社の境内には大きな滝があり、隣接して十二社池と呼ばれていた大小二つの池があり、江戸近郊の景勝地として知られていました。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並んでいました。新宿十二社熊野神社新宿十二社熊野神社は、東京都新宿区西新宿2丁目にある神社です。新宿中央公園に鎮座しています。新宿総鎮守です。 角筈角筈(つのはず)は、かつて東京都新宿区にあった地名です。現在は、西新宿、歌舞伎町および新宿の一部となっています。 新宿区立新宿中央公園東京都新宿区西新宿二丁目にある新宿区立の都市計画公園です。常時開園しており、入場料は無料となっています。元々は熊野神社の...名所江戸百景を訪ねて第65景「角筈熊野十二社俗称十二そう」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第64景 「水道橋駿河台」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第64景「水道橋駿河台」本郷台地の方から駿河台の武家屋敷を眺め渡す景色です。両面手前には、御茶ノ水に至る道が描かれています。右下に架かっている橋は水道橋。御茶ノ水に至るその坂の途中には、初節句の贈り物「上り兜」を持ち運ぶ若い男性の姿が、神田川を渡る水道橋の上には、乗馬の武士とその一行が描かれています。手前に大きな鯉のぼりが描かれ、右奥にも二匹の鯉のぼりが次第に小さく描かれています。左端には江戸城の一端も描かれています。当時の小川町は、武士の屋敷が密集している地帯でした。眼下に広がる武家屋敷の端午の節句を祝う、吹き流しや鐘馗(しょうき)の幟(のぼり)は、男児の健やかな成長を願う武家の習慣です。松が植えられた土手は神田川拡張工事の残土を盛り上げたものです。 水道橋東京都...名所江戸百景を訪ねて第64景「水道橋駿河台」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第63景 「八ツ見のはし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第63景「八ツ見のはし」八つの橋が見えたことから「八ツ見はし」と呼ばれました。前景右には、柳の木が大きく描かれています。前面には外堀の水路が広がっています。奥に流れるのは、道三堀で、そこに架かる橋が、一番手前は、「銭瓶橋」、その奥に「道三橋」が見えます。中景には江戸城が描かれ、左端に富士山が描かれています。一石橋(いちこくばし)東京都中央区にて日本橋川に架かる橋です。一石橋は、常磐橋・呉服橋・鍛治橋・一石橋・日本橋・江戸橋・銭瓶橋・道三橋が見渡せたことから「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれていました。銭瓶橋・道三橋かつて道三堀に架けられていた橋です。現在は道三堀が埋め立てられ、その姿を見ることはできません。かつて銭瓶橋があった辺り道三堀(どうさんぼり)天正18年(15...名所江戸百景を訪ねて第63景「八ツ見のはし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第62景 「利根川ばらばらまつ」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第62景「利根川ばらばらまつ」作品中央に流れる川は、利根川。その下流で営まれている漁を描いています。大きく描かれた投網は、鯉を捕まえるものだと思われます。左側、松が生えている島は、妙見島です。利根川利根川とは現在の江戸川のことです。江戸川(えどがわ)は、関東地方を流れる一級河川で、利根川水系、利根川の分流です。妙見島(みょうけんじま)旧江戸川にある島です。最古の記録は南北朝時代。島に妙見堂が建立された記録があります。江戸時代には、島の北は行徳船の航路となっていました。また、南総里見八犬伝の舞台としても登場しています。かつては、構図のようなばらばら松があったようですが、現在はありません。現在、島の周囲は護岸工事が行われ、コンクリートで覆われています。描かれた場所は現在...名所江戸百景を訪ねて第62景「利根川ばらばらまつ」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第61景 「中川口」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第61景「中川口」船番所の上から南東、船堀川方向を望んでいます。手前が小名木川で、左下に番所の屋根が見えます。交差するのは中川で、右手が南、河口方面です。小名木川の延長上にあるのが船堀川です。この地は三つの川が合流する重要な場所であるため、番所が設けられました。ここを通る舟を監察したといいます。 中川番所江戸幕府が武蔵国中川口に設けた番所です。江戸-行徳間を往来する船の取り調べを行いました。 旧中川・川の駅「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ江戸最初の運河・小名木川が開かれました。天正18年(1590)江戸に城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸に運ぶために開いとたされ...名所江戸百景を訪ねて第61景「中川口」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第60景 「深川八まん山ひらき」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第60景「深川八まん山ひらき」江戸深川富岡八幡宮の別当寺・永代寺の山開き(庭園開放)の様子が描かれています。永代寺の林泉は、通常公開はされていませんでした。しかし、弘法大師の命日の法会「御影供(みえく)」が行われる3月21日から3月28日まで、山開きと称して、林泉を開いて、一般に見物を許していました。 永代寺1624年(寛永元年)、長盛の開山により永代島に創建されました。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄えましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となりました。跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになっています。当地の地名、門前仲町はこの旧永代寺の門前という事で名付けられました。深川不動尊 成田山東京別院深川不動堂(なりたさんとうきょうべついんふかがわふどうどう)は...名所江戸百景を訪ねて第60景「深川八まん山ひらき」

  • ねこ日記と主のつぶやき おめでとう!

    久しぶりの猫日記です。先日8月15日は、タケちゃんの3歳の誕生日(タブンネ)でした。タケちゃんは、8月の23日に関東の某所の道路にて兄弟猫とともに保護されました。その後、譲渡会に参加したタケちゃん。シャム系のねこちゃんと暮らしたい、と思っていたワイは、すぐさま里親に応募し、晴れて家族となりました。おまけうちにタケちゃんがやってきた日の様子ノブさんの、『なんじゃこりゃ〜』って表情がたまらない。この頃は、毛が白くてフワフワだった。1歳の頃のタケちゃんだいぶ、毛色が濃くなってきました。2歳の頃のタケちゃん。かなり毛色が濃くなりましたね。あっという間の3年間。お利口さんで、可愛いタケちゃん。これからもよろしくね。通信・ノブさんも元気ですよ〜それでは、また。ご訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みにな...ねこ日記と主のつぶやきおめでとう!

  • 名所江戸百景を訪ねて 第59景 「逆井のわたし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第59景「逆井のわたし」中川にある坂井の渡し場が画面の奥に描かれています。近景の中川の州には三羽の白鷲が描かれ、更に二羽の白鷲が舞い降りてくる瞬間を描いています。遥か遠景の山々は、房総の山並み。この地が坂井と呼ばれたのは、江戸湾が満潮になると水がこの辺りまで逆流したことによるといいます。 坂井の渡し跡坂井の渡し跡亀戸9-12~江戸川区坂井の渡しは、江戸時代から明治時代初期まで中川にあった渡しで、亀戸村と西小松川村(江戸川区)を結んでいました。もとは坂井村(西小松川村の北隣り)と亀戸村を結んでいたため、坂井の渡しと称されました。この場所は、万治2年(1659)に開削された堅川の北岸沿いに通る佐倉道と中川の合流点であり、江戸と下総方面とをつなぐ交通の要所でした。川幅は4...名所江戸百景を訪ねて第59景「逆井のわたし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第58景 「亀戸天神境内」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第58景「亀戸天神境内」満開の藤の花を前面に描き、背景の中央に描かれているのは亀戸天神社の太鼓橋です。大きさの規模から察すると男橋と思われます。藤の花の位置と松の木は中の島にあることから、この作品は東側から男橋を描いたと思われます。空の色から察すると、朝焼けそれとも夕焼けでしょうか。亀戸天神亀戸天神社は、東京都江東区亀戸にある神社、東京十社の一つです。下町の天神さまとして広く知れわたり多くの人々に親しまれている神社です。春は「梅の花」と「藤の花」、秋は「菊の花」とまさに「花の天神様」と呼ばれています。描かれた場所は、現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。亀戸天神社の太鼓橋・男橋を撮影してみました。百景と現在の写真を並べて見ますと、藤の木の幹が明らかに...名所江戸百景を訪ねて第58景「亀戸天神境内」

ブログリーダー」を活用して、leetorinnoteさんをフォローしませんか?

ハンドル名
leetorinnoteさん
ブログタイトル
リートリンの覚書
フォロー
リートリンの覚書

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用