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2020/12/06

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十九 ・布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行を氏上とする ・漢人と唐人の踏歌 ・大射

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十九・布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行を氏上とする・漢人と唐人の踏歌・大射八年春正月二日、正廣肆を直大壱の布勢朝臣御主人(ふせのあそみみぬし)と大伴宿禰御行(おおとものすくねみゆき)に授けました。封を人ごとに二百戸増やしました。前と通して五百戸。並びに氏上(うじのかみ)としました。七日、公卿等を饗(もてな)しました。十五日、御薪(みかまぎ)を進めました。十六日、百官人等を饗(もてな)しました。十七日、漢人(あやひと)が、蹈歌を奏じました。五位以上が、射しました。十八日、六位以下が射しました。四日でおわりました。十九日、唐人が、蹈歌を奏じました。二十一日、藤原宮に幸しました。卽日、宮に還りました。二十三日、務廣肆等の位を、大唐・七人と肅愼(みしはせ)・二人に授けました。二十四日...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十九・布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行を氏上とする・漢人と唐人の踏歌・大射

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十八 ・醴泉の試飲

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十八・醴泉の試飲十一月五日、吉野宮に幸しました。七日、耽羅(たむら)の王子の佐平等に賜りましたが、各々差がありました。十日、車駕が、宮に還りました。十四日、沙門の法員(ほういん)、善往(ぜんおう)、真義(しんぎ)等を遣わして、試しに、近江国の益須郡(やすのこおり)の醴泉(れいせん)を服飲(ふくいん)させました。二十三日、直大肆を直廣肆の引田朝臣少麻呂(ひけたのあそみすくなまろ)に授けました。かさねて、食封・五十戸を賜りました。十二月二十一日、陣法博士等を遣わして、諸国に教習(きょうしゅう)させました。・耽羅(たむら)済州島・醴泉(れいせん)甘い味の泉。中国で、太平の世にわき出たといわれる・服飲(ふくいん)薬やサプリメントなどを飲むことを意味する表現・教習(きょうしゅう)特...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十八・醴泉の試飲

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十七 ・天武天皇のために無遮大會を設ける ・兵器を観閲する ・仁王經を説く

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十七・天武天皇のために無遮大會を設ける・兵器を観閲する・仁王經を説く八月一日、藤原の宮地に幸しました。十七日、吉野宮に幸しました。二十一日、車駕が、宮に還りました。九月一日、日蝕がありました。五日、多武嶺(とうのみね)に幸しました。六日、車駕が、宮に還りました。十日、淸御原天皇(きよみはらのすめらみこと)のために、無遮大會(かぎりなきおがみ)を內裏で設けました。繋囚(けいしゅう)を悉く原遣(げんけん)しました。十六日、直廣參を蚊屋忌寸木間(かやのいみきこのま)に贈りました。あわせて賻物(ふもつ)を賜りました。壬申の年の役の功を褒めました。冬十月二日、詔して、「今年から、親王から始まり、下の進位に至るまで、儲(たくわ)えた兵(つわもの)を観ようとおもう。淨冠から直冠に至るま...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十七・天武天皇のために無遮大會を設ける・兵器を観閲する・仁王經を説く

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十六 ・内裏で無遮大會を設ける ・福嘉を還俗させる

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十六・内裏で無遮大會を設ける・福嘉を還俗させる五月一日、吉野宮に、幸しました。七日、天皇が、吉野宮からかえりました。十五日、無遮大會(かぎりなきおがみ)を內裏で設けました。六月一日、高麗の沙門の福嘉(ふくか)に詔して、還俗(げんぞく)させました。四日、直廣肆を引田朝臣広目(ひけたのあそみひろめ)、守君苅田(もりのきみかりた)、巨勢朝臣麻呂(こせのあそみまろ)、葛原朝臣臣麻呂(ふじわらのあそみおみまろ)、巨勢朝臣多益須(こせのあそみたやす)、丹比真人池守(たじひのまひといけもり)、紀朝臣麻呂(きのあそみまろ)、七人に授けました。秋七月七日、吉野宮に、幸しました。十二日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。十四日、大夫、謁者を遣わして、諸社を詣でて、祈雨しま...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十六・内裏で無遮大會を設ける・福嘉を還俗させる

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十五 ・雨乞い ・坐贓

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十五・雨乞い・坐贓夏四月十七日、大夫、謁者(えっしゃ)を遣わして、諸々の社に詣でて、祈雨(きう)をしました。また、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。二十二日、詔して、「內藏寮(うちのくらのつかさ)の允の大伴男人(おおとものおひと)が坐贓(さぞう)した。位を二階、降ろし、見任官を解く。典鑰(かぎつかさ)の置始多久(おきそめのおおく)と菟野大伴(うのおおとも)も、また坐贓した。位を一階、降ろし、見任官を解く。監物(けんもつ)の巨勢邑治(こせのおおじ)は、物を己に入れないとしても、その情を知りつつ、盗ませた。故に、位を二階、降ろし、見任官を解く。然るに、置始多久(おきそめのおおく)は、壬申の年の役(えだち)に勤労した、故に赦す。ただし、贓(ぬすみもの)は、律...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十五・雨乞い・坐贓

  • お知らせ よっわ!

    ご訪問ありがとうございます。ワイですが、先日、引越しをいたしました。前回の引越しでは、文句を一切言わず、黙ってキャリーバックに揺られていた二匹ですが…今回は、ず〜っと文句をいいっぱなし。一緒に電車に乗りあった皆様には、多大なるご迷惑をおかけいたしました。駅で休憩中の二匹さて、無事引越しを終えたワイら。前回の引越しでは、タケちゃんが一晩中、徘徊をしていたのですが、今回は、すんなりなじんでくれました。😁(ノブさんは、別室で休憩中)とは言え、まだ作業が途中なんですけどね。収納する場所がなくダンボールが未開封のまま。(引越しの際には、アート引越センターさんには大変お世話になりました。みなさん、作業が手早く、引越しがスムーズに進みました。ありがとうございました)さて、引越しを無事終えたのですが、解決...お知らせよっわ!

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十四 ・新羅王の訃報 ・日蝕 ・桑、紵、梨、栗、蕪菁の推奨

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十四・新羅王の訃報・日蝕・桑、紵、梨、栗、蕪菁の推奨二月三日、新羅が、沙飡(ささん)の金江南(きんこうなん)、韓奈麻(かんなま)の金陽元(きんようがん)等を遣わして、來て赴き、王の喪をしらせました。十日、造京司(ぞうきょうし)の衣縫王(きぬぬいのおおきみ)等に、詔して、掘った尸(かばね)を収めさせました。三十日、流れて来た新羅人の牟自毛礼(むじもれ)等・三十七人を、憶徳(よくとく)等に付けて賜りました。三月一日、日蝕がありました。五日、大學博士の勤廣貳の上村主百済(うえのすぐりくだら)に、食封・三十戸を賜りました。儒道(じゅどう)に優れていたからです。六日、吉野宮に幸しました。十一日、直大貳の葛原朝臣大嶋(ふじわらのあそみおおしま)に賻物を賜りました。十三日、天皇は、吉野...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十四・新羅王の訃報・日蝕・桑、紵、梨、栗、蕪菁の推奨

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十三 ・百姓に黄色の衣、奴に皁衣を着させる ・80歳以上の者に布を与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十三・百姓に黄色の衣、奴に皁衣を着させる・80歳以上の者に布を与える七年春正月二日、淨廣壹を皇子高市に授けました。淨廣貳を皇子長と皇子弓削に授けました。この日、詔して、天下の百姓に、黃色の衣を、奴には、皁衣(くりぞめのきぬ)をきさせました。七日、公卿、大夫等を饗(もてな)しました。十三日、京師(みやこ)、及び畿內で位があり、年が八十以上に、人ごとに、衾(ふすま)・一領、絁(ふとぎぬ)・二匹、綿・二屯、布・四端を賜りました。十五日、正廣參を百濟王の善光(ぜんこう)に贈りました。あわせて賻物(ふもつ)を賜りました。十六日、京師(みやこ)の男女で年が八十以上、及び困乏(こんぼう)している、窮者(きゅうしゃ)に、布を賜りましたが、各々差がありました。船瀬(ふなせ)の沙門の法鏡(ほ...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十三・百姓に黄色の衣、奴に皁衣を着させる・80歳以上の者に布を与える

  • 参拝日記・修性院

    修性院(しゅうしょういん)概要修性院は、東京都荒川区にある日蓮宗の寺院です。1573年(天正元年)に開山しました。開山当時は、武蔵国豊島郡田中村(現在の東京都練馬区田中)に位置していました。1663年(寛文3年)に現在地に移転しました。 日ぐらしの布袋(修性院)修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年始めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。境内には、江戸時代の...参拝日記・修性院

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十二 ・吉野への行幸

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十二・吉野への行幸冬十月八日、山田史御形(やまだのふびとみかた)に務廣肆を授けました。前に沙門となり、新羅で學問をおさめました。十二日、吉野宮に幸しました。十九日、車駕(しゃが)が宮に還りました。十一月八日、新羅が、級飡(きゅうさん)の朴億徳(ぼくよくとく)、金深薩(きんしんさち)等を遣わして、調(みつき)を進めました。遣新羅使(けんしらぎし)に擬(なぞら)えた、直廣肆の息長真人老(おきながのまひとおゆ)、務大弐の川内忌寸連(かふちのいみきつら)等に祿を賜りましたが、各々差がありました。十一日、新羅の朴憶德を難波館で饗祿(きょうろく)をしました。十二月十四日、音博士(おんはかせ)の続守言(しょくしゅげん)、薩弘恪(さつこうかく)に、水田を賜りました。人ごとに四町。二十四日...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十二・吉野への行幸

  • 参拝日記・湯島聖堂

    湯島聖堂概要東京都文京区湯島一丁目にある史跡です。江戸時代の元禄3年(1960年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって造営された、孔子廟です。後に幕府直轄の学問所となりました。・孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡・現在地東京都文京区湯島一丁目4番25号・敷地面積13,915㎡・国の史跡指定大正11年(1922)3月8日・所管国有財産文化庁・東京都教育員会・文京区教育委員会・管理者公益財団法人斯文会(しぶんかい)■湯島聖堂と孔子孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省済寧市曲阜市)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒教に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690)この地に「湯島聖堂」と創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら『論語』の講釈を行うなど学問を奨励した...参拝日記・湯島聖堂

  • お知らせ

    諸事情よりしばらく、ブログおやすみします。皆さまのブログにも、しばらく、ご訪問できません申し訳ございません🙇お知らせ

  • 参拝日記・井の頭弁才天 大盛寺

    井の頭弁財天大盛寺概要都立井の頭恩賜公園内・井の頭池にあります。創建不詳別名井の頭辨才天本尊弁財天像789年(延暦8年)平安時代の僧・最澄の作と伝えられています。略縁起平安時代の天慶年間(938~947年)に源経基(みなもとのつねもと)が創建したものと伝えられ、その後、源頼朝が1197年(建久8年)に再建し、別当となる坊宿が建てられたと伝えられています。一時、衰退していましたが、江戸時代に入り、江戸幕府三代将軍徳川家光により再興されました。境内弁財堂1923年(大正12年)の関東大震災の被害を受け、現在の堂舎は昭和初期に再建されたものです。 太鼓橋 手水鉢 狛犬 銭洗い弁財天 七井不動尊 宇賀神 住所東京都三鷹市井の頭4丁目26-1アクセスJR中央線・総武線東京メトロ東西線京王井の頭線吉祥寺駅徒歩9分最後...参拝日記・井の頭弁才天大盛寺

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十一 ・飛鳥皇女の田莊への行幸 ・班田大夫を四畿内へ派遣する ・笥飯神の封を増やす

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十一・飛鳥皇女の田莊への行幸・班田大夫を四畿内へ派遣する・笥飯神の封を増やす八月三日、罪を赦しました。十七日、飛鳥皇女の田莊(でんそう)に幸しました。卽日、宮に還りました。九月九日、班田大夫(たたまいのまえつきみ)等を四畿內に遣わしました。十四日、神祇官が奏して、神寶の書四卷、鑰(かぎ)・九箇、木印・一箇を上しました。二十一日、伊勢国司が、嘉禾(かか)・二本を献(たてまつ)りました。越前国司が、白蛾を献りました。二十六日、詔して、「白蛾を角鹿郡(つぬがのこおり)の浦上(うらかみ)の濱で獲た。故に、笥飯神(けひのかみ)に、封を二十戸、増やし、前と通する」といいました。・田莊(でんそう)古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度の一つで、豪族が支配した私有地のことを指す。田所と...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十一・飛鳥皇女の田莊への行幸・班田大夫を四畿内へ派遣する・笥飯神の封を増やす

  • 神社参拝日記・明治神宮

    明治神宮(めいじじんぐう)概要東京都渋谷区にある神社です。明治天皇と昭憲皇太后が祀られています。初詣では例年日本一の参拝者数となっています。神紋・社紋御祭神明治天皇(めいじてんのう)昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)創建大正9年(1920年)例祭日11月3日略縁起明治天皇崩御後、内務省が『明治天皇奉祀の神宮創設に関する件』を閣議に提出し、閣議決定されました。東京府内の候補地の内から、「風致」を理由として代々木御料地が決定し、大正9年(1920年)11月1日に鎮座祭が行われ、この日に創建されました。境内外拝殿南神門西神門手水舎大鳥居正参道南参道鳥居西参道社務所夫婦楠住所東京都渋谷区代々木神園町1−1アクセスJR山手線原宿駅徒歩1分東京メトロ千代田線・副都心線明治神宮前駅徒歩1分東京メトロ副都心線北参道駅徒...神社参拝日記・明治神宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四十 ・大赦 ・熒惑と歲星

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十・大赦・熒惑と歲星秋七月二日、天下に大赦しました。ただし、十惡(じゅうあく)、盜賊は赦しの例に入れませんでした。相模の国司の布勢朝臣色布智(ふせのあそみしこふち)等、御浦郡少領(みうらのこおりのすけのみやつこ)(姓名は欠けています)と、赤い烏を獲た、鹿嶋臣櫲樟(かしまのおみくす)に、位、及び祿を賜りました。御浦郡(みうらのこおり)の調役(えつき)を二年、免除しました。七日、公卿を饗(もてな)しました。九日、吉野宮に幸しました。十一日、使を遣わして、廣瀬と龍田を祀らせました。二十八日、車駕が宮に還りました。この夜、熒惑(けいこく)と歲星(さいせい)が、一步の內に、たちまち光り、たちまち没しました。互いに近づいたり、避けたりすること四遍。・十惡(じゅうあく)大化前代、国家社...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四十・大赦・熒惑と歲星

  • 久しぶりの猫日記と主のつぶやき

    ご無沙汰しておりました。久しぶりの猫日記です。ちょっと、仕事や引越しの準備等で更新が遅れておりましたが、二匹とも元気です。猫ネタがなかったということもありますがね。😅さて、もうすぐ、仮住まいを終えます。二匹には、不便な思いをさせました。今度は、思いっきり追いかけっこできます。引越しの様子は後日ご報告します。それでは、また。御訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みになります。ポッチっとお願いします。MIX多頭飼いランキングにほんブログ村久しぶりの猫日記と主のつぶやき

  • 神社参拝日記・東郷神社

    東郷神社(とうごうじんじゃ)概要東郷神社は、東京都渋谷区神宮前一丁目にある神社です。日露戦争で連合艦隊司令長官として指揮をとり日本海海戦で完勝し、国内外で英雄視された、東郷平八郎が祀られています。神紋・社紋御祭神東郷平八郎命(とうごうへいはちろうみこと)創建昭和15年(1940年)例祭日5月28日略縁起東郷平八郎が昭和9年(1934年)5月30日に亡くなると、全国から東郷を顕彰する神社の創建の要望と献金が相次いつぎ、当時の海軍大臣大角岑生(おおすみみねお)が、財団法人東郷元帥記念会を設立。寄せられた献金によって神社の創建が計画され、昭和15年(1940年)に創建されました。境内社殿神門鳥居階段手水舎東郷蔵境内霊社海の宮御斎神海軍・海事・水産関係者また崇敬者の諸霊住所東京都渋谷区神宮前1-5-3アクセスJR...神社参拝日記・東郷神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十九 ・名のある山、岳、瀆に祈る ・雨乞い ・直丁・8人に官位を与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十九・名のある山、岳、瀆に祈る・雨乞い・直丁・8人に官位を与える六月九日、郡国の長吏(ちょうり)に勅して、各々名のある山、岳、瀆を祈らせました。十一日、大夫、謁者を遣わして、四畿內を詣でて、請雨(しょうう)させました。二十一日、直丁(じきてい)・八人に官位を賜りました。その大内陵(おおちのみさざき)を造った時に、勤めて、怠らなかったことをよしとしました。三十日、天皇は、藤原の宮地を観ました。 ・長吏(ちょうり)県内を主管する長官・請雨(しょうう)日照り続きの時、雨の降ることを神仏に祈ること。雨乞い・直丁(じきてい)律令制で、仕丁(じちょう)のうち、諸司の雑役に奉仕する番に当たった者。立丁(りってい) ・大内陵(おおちのみさざき)天武天皇の陵(感想)(持統天皇6年)6月9日...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十九・名のある山、岳、瀆に祈る・雨乞い・直丁・8人に官位を与える

  • 神社参拝日記・小野照崎神社

    小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)概要小野照崎神社は、東京都台東区下谷二丁目にある神社です。「学問・芸能」の神様として有名です。神紋・社紋主祭神小野篁命(おののたかむら)菅原道真命(すがわらみちざね)創建仁寿2年(852年)例祭日5月19日に近い土日略縁起852年(仁寿2年)、小野篁公が御東下の際に住まわれた上野照崎の地に創建されました。寛永寺の建立のために幕府より移転を命じられ、現在の地に遷されました。境内社殿鳥居手水舎授与所神楽殿境内末社富士浅間神社庚申塚稲荷神社・織姫神社住所東京都台東区下谷2-13-14アクセス東京メトロ日比谷線入谷駅徒歩3分JR線鶯谷駅徒歩7分最後に樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出てくる神社です。神社の印象として、残っているのは、猫ちゃんが多い。猫好きにはたまら...神社参拝日記・小野照崎神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十八 ・大雨 ・大隅と阿多に仏教を伝える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十八・大雨・大隅と阿多に仏教を伝える閏五月三日、大水となりました。使を遣わして、郡国を循行(じゅんこう)させました。災害にあい、自ら生きていけないものに、禀貸(ひんたい)をしました。山林池澤で漁や採ることができるようにしました。詔して、京師(みやこ)及び四畿內で、金光明經を講説させました。四日、沙門の観成(かんじょう)に、絁(ふとぎぬ)・十五匹、綿・三十屯、布・五十端を賜りました。その造った鉛粉(えんぷん)を美(ほ)めたのです。十三日、伊勢大神が天皇に奏して、「伊勢国の今年の調役を免(ゆる)しましたが、然るに、その二つの神郡から応え輸(おく)るべき、赤引の絲・三十五斤は、來年に、その代りを折(さだ)めるようにすべきです」といいました。十五日、詔筑紫大宰率の河內王等に詔して...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十八・大雨・大隅と阿多に仏教を伝える

  • 神社参拝日記・赤城神社

    赤城神社(あかぎじんじゃ)(東京都新宿区)概要東京都新宿区赤城元町にある神社です。「赤城神社再生プロジェクト」が行われ、社殿が建て替えられました。神紋・社紋主祭神磐筒雄命(いわつつおのみこと)赤城姫命(あかぎひめのみこと)創建正安2年(1300年)例祭日9月19日略縁起大胡彦太郎重治が上野国赤城山麓から牛込に移住した際、上野国赤城神社から勧請し創建したと伝えられています。弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔により現在地に遷座しました。境内社殿鳥居手水舎狛犬観音菩薩立像・俳人巻阿の碑境内末社蛍雪天神御祭神菅原大神出世稲荷神社・八耳神社・東照宮出世稲荷神社御祭神宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)保食神(うけもちのかみ)八耳神社御祭神上宮之厩戸豊聰八耳命(うえのみやのうまやどのとよとやつみみのみこと・聖徳太子...神社参拝日記・赤城神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十七 ・調役・雜徭の免除 ・赤い鳥の雛

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十七・調役・雜徭の免除・赤い鳥の雛五月六日、阿胡行宮(あごのかりみや)の時、贄を進めた、紀伊国の牟婁郡の人の阿古志海部河瀬麻呂(あこしのあまのかわせまろ)等、兄弟三戸に、十年の調役・雜徭を免しました。また、挾杪(かじとり)八人の、今年の調役を免しました。七日、相摸国司が赤鳥(あかからす)の鶵(ひな)を二隻を献(たてまつ)り、「御浦郡で獲ました」といいました。十二日、吉野宮に幸しました。十六日、車駕が宮に還りました。十七日、大夫・謁者(えっしゃ)を遣わして、名のある山、岳、瀆を祠(まつ)り、請雨(しょうう)しました。二十日、文忌寸智徳(ふみのいみきちとこ)に直大壹を贈りました。あわせて、賻物を賜りました。二十三日、淨廣肆の難波王(なにわのおおきみ)等を遣わして、藤原の宮地を...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十七・調役・雜徭の免除・赤い鳥の雛

  • 神社参拝日記・千束稲荷神社

    千束稲荷神社(せんぞくいなりじんじゃ)概要東京都台東区にある神社です。樋口一葉「たけくらべ」ゆかりの神社です。神紋・社紋主祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)素戔嗚尊(すさのおのみこと)創建不詳例祭日5月第4土曜日別名稲荷神社略縁起創建は不詳ですが、おそらく寛文年間(1661~72)と考えられています。境内社殿鳥居神輿庫樋口一葉像・正面碑文住所東京都台東区竜泉2−19−3アクセス東京メトロ日比谷線三ノ輪駅徒歩5分最後に明治時代、樋口一葉は当社の近くに住んでいました。たけくらべの作品の中で、美登利と長吉が喧嘩する祭りのシーンは、当時の千束稲荷神社の例祭がモデルになっているとされています。樋口一葉の像を眺め、当時の様子を思い浮かべながらの参拝でした。参考Wikipedia東京都神社庁HP台東区HP神社参拝日記・千束稲荷神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十六 ・広瀬と龍田の神を祀る ・難波の大蔵のスキを与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十六・広瀬と龍田の神を祀る・難波の大蔵のスキを与える夏四月二日、大伴宿禰友国(おおとものすくねのともくに)に直大貳を賜りました。あわせて賻物(ふもつ)を賜りました。五日、四畿內の百姓の荷丁(もちよぼろ)の、今年の調役を除きました。十九日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀りました。二十一日、位のある親王以下、進廣肆に至るまでに、難波の大藏の鍫(すき)を賜りましたが、各々差がありました。二十五日、詔して、「凡そ、繋囚(けいしう)、徒刑囚は、皆、放免するように」といいました。・賻物(ふもつ)古代において,位を有する者が死亡した際に支給される葬祭料・荷丁(もちよぼろ)荷物などを運ぶ人夫。もちぶ・鍫(すき)土を掘り起こしたりならしたりする農具・繋囚(けいしう)牢獄につな...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十六・広瀬と龍田の神を祀る・難波の大蔵のスキを与える

  • 神社参拝日記・神楽坂若宮八幡神社

    神楽坂若宮八幡神社(かぐらざかわかみやはちまんじんじゃ)概要東京都新宿区若宮町にある神社です。地名の由来となった神社です。主祭神仁徳天皇(にんとくてんのう)応神天皇(おうじんてんのう)創建文治5年(1189年)例祭日9月15日略縁起右大将源頼朝公が奥州の藤原泰衡を征伐するため出兵した際、当所にて戦勝祈願しました。奥州平治の後、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分霊し勧請しました。境内社殿鳥居手水舎狛犬境内社稲荷社住所東京都新宿区若宮町18アクセスJR総武線東京メトロ東西線・有楽町線・南北線都営大江戸線飯田橋駅徒歩5分最後に小さなお社でしたが、綺麗に整えられていました。地域の方々に愛されている神社なのでしょう。参考Wikipedia東京都神社庁HP神社参拝日記・神楽坂若宮八幡神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十五 ・伊勢への行幸

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十五・伊勢への行幸十七日、過ぎた所の神郡(かみごおり)、及び伊賀・伊勢・志摩の国造等に冠位を賜りました。あわせて、今年の調役を免しました。また供奉(ぐふ)の、騎士、諸司の荷丁(もちよぼろ)、行宮(かりみや)造った丁(ほぼろ)の今年の調役を免しました。天下に大赦しました。ただ、盜賊は、赦しの例に入れませんでした。十九日、過ぎた所の志摩の百姓・男女で年が八十以上に、稻を人ごとに五十束を賜りました。二十日、車駕が宮に還りました。行き到る所ごとに、すなわち、郡縣の吏民(りみん)をあつめ、務めを労り、樂(うたまい)を賜りました。二十九日、詔して、近江、美濃、尾張、參河、遠江等の国に供奉した騎士の戸、及び諸国の荷丁、行宮を造った丁の、今年の調役を免しました。詔して、天下の百姓で、困乏...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十五・伊勢への行幸

  • 神社参拝日記・東京大神宮

    東京大神宮(とうきょうだいじんぐう)概要東京大神宮は、東京都千代田区富士見二丁目にある神社です。縁結びの神社として、女性を中心に参拝者を集めています。神紋・社紋主祭神天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)豊受大神(とようけおおかみ)相殿天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)高御産巣日神(たかみむすびのかみ)神御産巣日神(かみむすひのかみ)倭比売命(やまとひめのみこと)創建明治13年(1880年)例祭日4月17日略縁起明治13年(1880年)、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が当社の起源です。所在地名から日比谷大神宮や、日比谷皇大神宮と呼ばれていました。関東大震災で社殿が焼失し、昭和3年(1928年)に、現在地に再建・遷座されました。そのほか嘉仁親王と節子妃の結婚の儀を基本にして神前結婚の儀式を創...神社参拝日記・東京大神宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十四 ・留守官を決定する ・大三輪朝臣高市麻呂の諌め ・伊勢への行幸

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十四・留守官を決定する・大三輪朝臣高市麻呂の諌め・伊勢への行幸三月三日、淨廣肆の廣瀬王(ひろせのおおきみ)、直廣參の當摩真人智徳(たぎまのまひとちとこ)、直廣肆の紀朝臣弓張(きのあそみゆみはり)等を、留守官(るすかん)としました。ここにおいて、中納言の大三輪朝臣高市麻呂(おおみわのあそみたけちまろ)は、その冠位を脱いで、朝(みかど)に差し上げ、重ねて諌めて、「農作(のうさく)の節に、車駕(しゃが)を動かすべきではありません」といいました。六日、天皇は諌めに従わず、遂に伊勢に幸しました。・留守官(るすかん)令制で、天皇の行幸の時、宮城にとどまり、天皇の代理を務める官。通常は皇太子が代理となるが(皇太子監国)、臣下を任命する時に留守官と称する。留守のつかさ・農作(のうさく)田...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十四・留守官を決定する・大三輪朝臣高市麻呂の諌め・伊勢への行幸

  • 神社参拝日記・豊受神社

    豊受神社(とようけじんじゃ)概要千葉県浦安市猫実にある神社です。浦安市では最古の神社です。神紋・社紋主祭神豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)御利益無病息災、延命長寿、衣食住の守護神創建保元2年(1157年)例祭日6月16日略縁起豊受神社は御祭神に豊受姫大神を祀る神社で、保元二年(1157年)の創建といわれ、浦安市で最古の神社です。境内社殿現在の社殿は1974年(昭和49年)に建てられたものです。授与所神輿庫狛犬鳥居大銀杏大銀杏この大銀杏は、村の人が境川河口を流れていた小さな木を拾いあげ、豊受神社の境内に植えたものといわれています、その後、この木は順調に成長し、数百年を経た今日も枝葉が繁茂しています。平成六年(一九九四)の樹木調査では、明治四十年(一九〇七)頃、外周が三メートルほどの幹が高潮などの塩害によ...神社参拝日記・豊受神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十三 ・天皇、伊勢への行幸を詔をする ・三輪朝臣高市麻呂、天皇に諫爭する

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十三・天皇、伊勢への行幸を詔をする・三輪朝臣高市麻呂、天皇に諫爭する六年春正月四日、皇子高市に封を二千戸を増やしました。前と通して五千戸。七日、公卿等を饗(もてな)しました。かさねて、衣裳を賜りました。十二日、天皇は、新益京(しんやくのみやこ)の路を観ました。十六日、公卿以下、初位以上に至るまでを饗(もてな)しました。二十七日、天皇は、高宮(たかみや)に幸しました。二十八日、天皇は、高宮からかえりました。二月十一日、諸官(しょかん)に詔して、「まさに、三月三日に、伊勢に幸しようと思う。宜しく、この意を知り、諸々の衣物(いぶつ)を備えるべし」といいました。陰陽博士の沙門の法藏(ほうぞう)、道基(どうき)に、銀を人ごとに二十兩、賜りました。十九日、刑部省(ぎょうぶしょう)に詔...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十三・天皇、伊勢への行幸を詔をする・三輪朝臣高市麻呂、天皇に諫爭する

  • 神社参拝日記・赤坂氷川神社

    赤坂氷川神社概要氷川神社は、東京都港区赤坂にある神社です。港区には白金、元麻布、赤坂に氷川神社が鎮座しているため、区別するためにそれぞれ、白金氷川神社、麻布氷川神社、赤坂氷川神社と呼ばれています。東京十社の一つです。神紋・社紋主祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)大己貴命(おおなむぢのみこと)創建天暦5年(951年)例祭日9月16日略縁起天暦5年(951年)、蓮林僧正が東国を遊行していた際、一ツ木村(現・赤坂4丁目付近)で一夜を明かすと、夢の中で御祭神のお告げがあり、この地に社殿を建てお祭りしたことが伝えられています。御利益厄除縁結び家内安全商売繁昌境内社殿徳川吉宗が建立した社殿は、幾多の震災・戦災を免れ建立当時の姿を現在に伝えています。鳥居一の鳥居一の鳥居(南側)二の鳥居...神社参拝日記・赤坂氷川神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十二 ・大嘗祭 ・宅地を与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十二・大嘗祭・宅地を与える十一月一日、大嘗(おおにえ)をしました。神祗伯の中臣朝臣大(なかとみのあそみおおしま)が、天神壽詞(あまつかみのよごと)を読みました。二十五日、公卿に食と衾(ふすま)を賜りました。二十八日、公卿以下、主典に至るまでを饗(もてな)しました。あわせて、絹等を賜りましたが、各々差がありました。三十日、神祗官の長上(ちょうじょう)以下、神部等に至るまで、及び供奉(ぐふ)した、播磨・因幡の国の郡司以下、百姓男女に至るまでを、饗(もてな)しました。あわせて、絹等を賜りましたが、各々差がありました。十二月二日、医博士(いはかせ)の務大參の徳自珍(とくじちん)、呪禁博士(じゅごんはかせ)の木素丁武(もくそちょうむ)、沙宅萬首(さたくまんしゅ)に、銀を人二十兩、賜...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十二・大嘗祭・宅地を与える

  • 神社参拝日記・金刀比羅宮

    金刀比羅宮(ことひらぐう)(東京都港区)概要東京都港区虎ノ門1丁目にある神社です。神紋・社紋主祭神大物主神(おおものぬしのかみ)崇徳天皇(すとくてんのう)御神徳海上安全商売繁盛創建万治3年(1660年)例祭日大祭10月9・10日初こんぴら1月10日月次祭毎月10日別名虎ノ門金刀比羅宮略縁起万治3年(1660年)、讃岐丸亀藩の藩主・京極高和が芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請したのが始まりです。丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座しました。境内拝殿一の鳥居参道手水舎神楽殿境内社結神社喜代住稲荷神社住所東京都港区虎ノ門1−2−7アクセス東京メトロ銀座線虎ノ門駅徒歩1分最後に近代的な建物と伝統的な建物がうまく融合した神社でした。一の鳥居と琴平タワー参考Wikipedia東京都神社庁HP虎ノ門金刀...神社参拝日記・金刀比羅宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十一 ・日蝕 ・陵戸についての詔 ・禁漁区の設置 ・新益京での鎮祭

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十一・日蝕・陵戸についての詔・禁漁区の設置・新益京での鎮祭冬十月一日、日蝕がありました。八日、詔して、「凡そ、先皇の陵戸(りょうこ)は、五戸以上置くように。それ以外の王等で、功のあった者は、三戸、置くように。もし陵戸が不足なら、百姓を充て、その徭役(ようえき)を免すように。三年に一回、替るように」といいました。十三日、畿內、及び諸国に、長生地(ちょうせいち)を、各々一千步、置きました。この日、天皇は吉野宮に幸しました。二十日、天皇は吉野から帰りました。二十七日、使者を遣わして、新益京(あらましのみやこ)で鎮祭(ちんさい)をしました。・陵戸(りょうこ)律令制下の賎民の一。天皇・皇族の陵墓を守ることを世襲的な任とした・徭役(ようえき)古代の律令制において,成年男子に課せられた...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十一・日蝕・陵戸についての詔・禁漁区の設置・新益京での鎮祭

  • 神社参拝日記・愛宕神社

    愛宕神社(あたごじんじゃ)(東京都港区)概要東京都港区愛宕1丁目にある神社です。自然に形成された山である愛宕山の山頂にあります。参道の石段は、曲垣平九郎誉れの出世石段として有名です。神紋・社紋三つ葉葵主祭神火産霊命(ほむすびのみこと)配祀罔象女命(みずはのめのみこと)大山祇命(おおやまづみのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)勝軍地地蔵(しょうぐんじぞうぼさつ)普賢大菩薩(ふげんだいぼさつ)創建慶長8年(1603年)例祭日9月22~24日略縁起慶長8年(1603年)、徳川家康が幕府を開く際、防火の総鎮守として幕命をもって創建されました。御利益火に関するもの、防火、防災印刷・コンピューター関係商売繁昌恋愛・結婚・縁結び境内社殿勝軍梅朱塗りの門一の鳥居手水社出世の石段(男坂)女坂大鳥居社務所愛宕西参道池勝...神社参拝日記・愛宕神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三十 ・持統天皇5年9月の出来事

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十・持統天皇5年9月の出来事九月四日、音博士(おんはかせ)の大唐の続守言(しょくしゅげん)、薩弘恪(さつこうかく)、書博士(しょはかせ)の百濟の末士善信(ばっしぜんしん)に、銀を、人二十兩、賜りました。九日、淨大參の皇子川嶋が薨(みまか)りました。二十三日、直大貳を佐伯宿禰大目(さえきのすくねおおめ)に贈りました。あわせて、賻物(ふもつ)を賜りました。・音博士(おんはかせ/こえのはかせ)日本の律令制において置かれた博士の1つ。大学寮に属して、明経道の学生に経書の白読(中国語(漢音)による音読)を教えた・書博士(しょはかせ)令制で、大学寮の官人。定員二人。書学生に書道・書法を教えた。従七位上相当。ふみのはかせ。てのはかせ・賻物(ふもつ)死者をとむらうために喪家におくる財貨。...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三十・持統天皇5年9月の出来事

  • 神社参拝日記・日枝神社

    日枝神社(ひえじんじゃ)概要東京都千代田区永田町にある神社です。江戸三大祭のひとつ、山王祭りが有名です。神紋・社紋双葉葵主祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)相殿神国常立神(くにのとこたちのかみ)伊弉冉神(いざなみのかみ)足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)御神徳万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護厄除け、安産、縁結び、商売繁盛、社運隆昌創建不詳例祭日6月15日別名日吉山王社日吉山王大権現社江戸山王大権現麹町山王山王社山王さま略縁起御祭神大山咋神は須佐之男神の御孫神で山末之大主神とも称えられ山水を司り、萬物の生成発展を守護する神である。日枝神社の歴史は鎌倉初期、秩父重継が江戸貫主を名乗り居館を山王社を勧請したことに始まる。文明年間には太田道灌が江戸城築城にあたり川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入幕以降...神社参拝日記・日枝神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十九 ・18氏族に墓記を献上させる

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十九・18氏族に墓記を献上させる秋七月三日、天皇は吉野宮に幸しました。この日、伊豫国司の田中朝臣法麻呂(たなかあそみのりまろ)等が、宇和郡(うわのこおり)の御馬山(みまのやま)の白銀・三斤八兩、アラカネ一籠を献(たてまつ)りました。七日、公卿と宴(とよのあかり)をしました。かさねて、朝服を賜りました。十二日、天皇は吉野から帰りました。十五日、使者を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祭らせました。八月十三日、十八の氏に詔して、大三輪(おおみわ)、雀部(さざきべ)、石上(いそのかみ)、藤原(ふじわら)、石川(いしかわ)、巨勢(こせ)、膳部(かしわで)、春日(かすが)、上毛野(かみつけの)、大伴(おおとも)、紀伊(き)、平群(へぐり)、羽田(はた)、阿倍(あへ)、佐伯(さえき...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十九・18氏族に墓記を献上させる

  • 亀戸天神社・菊まつり(2021)

    亀戸天神社・菊まつり(2021)写真を整理していましたら、2021年の亀戸天神社・菊まつりの写真が出てきました。このままお蔵入りさせるのは、忍びない。こういうわけで、古い写真ですが、記事にしたいと思います。亀戸天神社では、菅原道真公が16歳のときに詠んだ『残菊詩』にちなんで毎年秋に菊まつりを開催しています。境内には、丹精込めて育てられた菊の花々が美しく咲き誇っていました。美しい菊たち。これは、関係者の皆様の努力の賜物。花々に癒しをいただきました。ありがとうございます。これからも、頑張ってください。御訪問ありがとうございました。亀戸天神社・菊まつり(2021)

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十八 ・降り続く雨

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十八・降り続く雨五月二十一日、百濟の淳武微子(じゅんむみし)の、壬申の年の功を褒美して、直大參を賜りました。かさねて、絁(ふとぎぬ)、布を賜りました。六月、京師(みやこ)、及び郡国四十に、雨水がふりました。戊子(つちのえね)、詔して、「この夏は、陰雨(いんう)が、節を過ぎた。懼(おそ)らく、必ず稼(みの)りを傷(そこ)なうだろう。夕までおそれ、朝まで憂懼(ゆうく)している。その愆(けん)を思うに。それ、公卿、百寮人等は、酒と宍を禁断し、摂心(せっしん)し、悔過(けか)をするように。京、及び畿內の諸々の寺の、梵衆(ぼんしゅう)もまた、五日に当たり誦經(じゅきょう)するように。庶(こいねが)う、ここに、補(たす)けがありますように」といいました。四月から雨がふり、この月に至り...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十八・降り続く雨

  • 亀戸天神社・梅まつり(2022)

    亀戸天神社・梅まつり(2022)写真を整理していましたら、去年の亀戸天神社・梅まつりの写真が出てきました。美しい梅の花。このままお蔵入りさせるのは、忍びない。こういうわけで、古い写真ですが、記事にしたいと思います。菅原道真公は、梅の花を梅を好んでいたことにちなみ、亀戸天神社の境内には、300本を越す梅が植えられています。白加賀や豊後梅など様々な品種を一堂に見ることができます。芳しい香り。可愛らしい花。道真公が愛して止まなかったのがよくわかります。来年もまた、美しい梅を愛でたい。切に願います。御訪問ありがとうございました。亀戸天神社・梅まつり(2022)

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十七 ・仏法についての詔 ・売られた者への処遇

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十七・仏法についての詔・売られた者への処遇二月一日、天皇は、公卿等に詔して、「卿等よ。天皇の世に、佛殿、經藏を作り、月に六齋(ろくさい)を行った。天皇は、時々、大舍を遣わして、問訊(もんじん)した。朕の世にもまた、これの如くしよう。故に、當勤(ねんごろ)な心で、佛法を奉るように」といいました。この日、宮人に位記を授けました。三月三日、公卿と西の庁で宴(とよのあかり)をしました。五日、天皇は、公私の馬を御苑で観ました。二十二日、詔して、「もし、百姓の弟が、兄のために売られることがあったなら、良に従うように。もし、子が父母のために売られることがあったなら、賤に従うように。もし、貸倍(かりもののこ)によって、賤にしずんだなら、良に従うように。その子は、たとえ奴婢を配して生まれた...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十七・仏法についての詔・売られた者への処遇

  • 神社参拝日記・佃島住吉神社

    佃島住吉神社概要東京都中央区佃にある神社です。社前が諸国の廻船が多く通る湊であったので、海運業、各問屋組合からも信仰を集めました。神紋・社紋主祭神底筒之男命(そこづつのおのみこと)中筒之男命(なかづつのおのみこと)表筒之男命(うわづつのおのみこと)息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)徳川家康(とくがわいえやす)創建正保3年(1646年)例祭日8月6日略縁起天正18年、徳川家康の命により大阪佃の人々が江戸へ下る際、田蓑神社の分神霊を奉載し正保三年現在の地に遷座しました。境内社殿鳥居水盤舎社務所狛犬神輿庫境内社龍神社御祭神龍姫大神(たつひめのおおかみ)(豊玉姫神)於迦美大神(おがみのおおかみ)竜王弁財天疫神社(えきじんじゃ)疱瘡神社(ほうそうじんじゃ)祭神素戔嗚命(すさのおのみこと)疫神(えきじん)船魂神...神社参拝日記・佃島住吉神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十六 ・位を与える ・公卿に飲食と衣裳を与える ・食封を増やす

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十六・位を与える・公卿に飲食と衣裳を与える・食封を増やす五年春正月一日、親王、諸臣、內新王、女王、內命婦等に位を賜りました。七日、公卿に飲食と衣裳を賜りました。正廣肆の百濟王の余禅広(よぜんこう)、直大肆の遠宝(おんほう)、良虞(りょうぐ)と南典(なむてん)に、優を賜りましたが、各々差がありました。十三日、封を増やしました。皇子高市は、二千戸。前と通して三千戸。淨廣貳の皇子穗積は、五百戸。淨大參の皇子川嶋は、百戸。前と通して五百戸。正廣參の右大臣の丹比嶋真人(たじひのしまのまひと)は、三百戸。前と通して五百戸。正廣肆の百濟王の禪廣に、百戸。前と通して二百戸。直大壹の布勢御主人朝臣(ふせのみぬしのあそみ)と大伴御行宿禰(おおとものみゆきのすくね)に、八十戸。前と通して三百戸...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十六・位を与える・公卿に飲食と衣裳を与える・食封を増やす

  • 神社参拝日記・鐵砲洲稲荷神社

    鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)概要東京都中央区湊にある神社です。神紋・社紋主祭神稚産霊神(わくむすびのかみ)豊受姫大神(とようけびめのかみ)宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)創建承和8年例祭日5月2~5日別名湊稲荷略縁起平安時代の承和8年に、凶作に悩む荏原郡(えばらぐん)桜田(さくらだ)の住民が産土神を生成太神(いなりのおおかみ)として祀ったことに始まります。鐵砲洲稲荷神社所在地中央区湊一ー六ー七鐵砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。神社は、寛永元年(一六二四)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(一八六八)現在地に移転し、今日に至っています。関東大震災により被害を受けた境内は昭和十年(一九三五)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神...神社参拝日記・鐵砲洲稲荷神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十五 ・元嘉暦と儀鳳暦の施行 ・吉野宮・藤原への行幸

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十五・元嘉暦と儀鳳暦の施行・吉野宮・藤原への行幸十一月七日、送使の金高訓等に賞賜(しょうし)しましたが、各々差がありました。十一日、勅を奉り、始めて、元嘉暦(げんかれき)と儀鳳暦(ぎほうれき)を行いました。十二月三日、送使の金高訓等が帰国しました。十二日、天皇は、吉野宮に幸しました。十四日、天皇は、吉野宮から帰りました。十九日、天皇は、藤原に幸し、宮地を観ました。公卿百寮が皆、従いました。二十三日、公卿以下に賞賜しましたが、各々差がありました。・賞賜(しょうし)功労・善行などの賞として物を賜わること。また、そのもの・元嘉暦(げんかれき)中国暦の一つで、嘗て中国や百済、日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法・儀鳳暦(ぎほうれき)中国暦の一つで、中国の唐の天文学者の李淳風(中...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十五・元嘉暦と儀鳳暦の施行・吉野宮・藤原への行幸

  • 神社参拝日記・向島秋葉神社

    向島秋葉神社(むこうじまあきばじんじゃ)概要秋葉神社(あきばじんじゃ)は、東京都墨田区向島にある神社です。江戸時代には、鎮火の神として諸大名に崇敬され、特に大奥から篤く信仰されました。神紋・社紋主祭神火産霊命宇迦御魂命創建正応2年(1289年)例祭日11月17・18日鎮火大祭略縁起元々は稲荷神のみ祀っていましたが、遠江国周智群の秋葉権現社より秋葉権現を分霊し勧請しました。境内拝殿神楽殿狛犬石燈籠(墨田区登録文化財)石燈籠所在墨田区向島四丁目九番十三号秋葉神社内本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(一七四一)奉献したものです。吉里は将軍綱吉の寵臣柳沢吉保の子です。この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主酒井雅楽頭忠挙が宝永六年(一七〇九)に奉献したもので、その手前にあ...神社参拝日記・向島秋葉神社

  • 神社参拝日記・東向島白髭神社

    東向島白髭神社概要白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、東京都墨田区東向島にある神社です。隅田川七福神の寿老神が知られています。神紋・社紋主祭神猿田彦大神(さるたひこおおかみ)天照大御神高御産霊神神皇産霊神大宮能売神豊由気大神建御名方神創建天暦五年(951年)例祭日6月7日別名東向島白髭神社白髭大明神略縁起天暦5年に慈恵大師が近江国の白鬚大明神の御分霊をここに祀ったことを起源とします。白髭神社祭神猿田彦大神天照大御神高御産霊神神皇産霊神大宮能売神豊由気大神建御名方神由緒天歴五年(西暦九五一年)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白髭大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(一五九二年)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に...神社参拝日記・東向島白髭神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十四 ・吉野宮への行幸 ・新羅の送使への対応についての詔 ・大伴部博麻への慰労

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十四・吉野宮への行幸・新羅の送使への対応についての詔・大伴部博麻への慰労冬十月五日、天皇が吉野宮に幸しました。十日、大唐の學問僧の智宗等が、京師(みやこ)に至りました。十五日、使者を遣わして、筑紫大宰の河內王等に詔して、「新羅の送使(そうし)の大奈末の金高訓(きんこうくん)等を饗(もてな)すのは、學生の土師宿禰甥(はじのすくねおい)等を送使した例に准えるように。その、慰勞に物を賜るのは、詔書に依るように」といいました。二十二日、軍丁の筑紫国の上陽咩郡の人の大伴部博麻(おおともべのはかま)に詔して、「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)七年に、百濟を救うための役(えだち)で、汝は、唐軍のために虜(とりこ)とされた。天命開別天皇(あめのみことひ...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十四・吉野宮への行幸・新羅の送使への対応についての詔・大伴部博麻への慰労

  • 奈良市の桜

    今日はお仕事がお休みだったので、お花見に行ってきました。枝垂れ桜で有名な氷室神社境内は参拝客で賑わっていました。残念ながら、建物のそばの枝垂れ桜は、すでに見頃を過ぎていましたが。他の桜は、満開道路側・駐車場側の枝垂れ桜も満開いやはや、美しい。もう一つ、観光の名所からちょっと外れますが、奈良市の桜の名所といったら、佐保川の桜こちらも満開でした。桜を見ると、日本人に生まれてきてよかったと思います。癒されました。美しい花、ありがとう。それではまた、御訪問ありがとうございました。奈良市の桜

  • 神社参拝日記・富賀岡八幡宮

    富賀岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)概要富賀岡八幡宮は、東京都江東区南砂七丁目にある神社です。主祭神譽田別命合殿稲荷大神他創建不詳例祭日8月20日別名元八幡宮略縁起伝承によりますと、749年に藤原豊成が下総に下向の際、創建したとされています。当社に奉斎されていた八幡神像が、寛永年間に深川の地に移され勧請されて富岡八幡宮になったことから、「元八幡宮」とも呼ばれています。富賀岡八幡宮由来元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624~1643)の初めに今の深川へ移し、そのため、寛文5年(1665)に旧地を元八幡と称したといわれます。この付近では松樹が生茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所であったといわれています。また江戸名所図会や安藤広重の『名所江戸百景...神社参拝日記・富賀岡八幡宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十三 ・吉野・紀伊への行幸 ・大伴部博麻の帰国

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十三・吉野・紀伊への行幸・大伴部博麻の帰国八月四日、天皇は、吉野宮に幸しました。十一日、歸化した新羅人等を、下毛野国に居させました。九月一日、諸々の国司等に詔して、「凡そ、戸籍を造るには、戸令に依りなさい」といいました。十一日、詔して、「朕は、將に紀伊(きのくに)を巡行しようとおもう。故に、今年の京師(みやこ)の田租・口賦(こうふ)は収めることなかれ」といいました。十三日、天皇は紀伊に幸しました。二十三日、大唐の學問僧の智宗(ちそう)、義徳(ぎとく)、浄願(じょうがん)、軍丁(いくさよほろ)の筑紫国の上陽咩郡(かみつやめぐん)の大伴部博麻(おおとものべのはかま)が、新羅の送使の大奈末(だいなま)の金高訓(きんこうくん)等に従って、筑紫に還り至りました。二十四日、天皇が、紀...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十三・吉野・紀伊への行幸・大伴部博麻の帰国

  • 神社参拝日記・芝東照宮

    芝東照宮(しばとうしょうぐう)概要芝東照宮は、東京都港区にある東照宮です。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並び四大東照宮の一つとされています。神紋・社紋三つ葉葵主祭神徳川家康創建元和3年(1617年)例祭日4月17日略縁起芝公園の一角にあり、元来は増上寺内にある社殿でした。元和2年(1616年)家康公は、還暦を迎えた記念に作らせた、自らの像「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するように遺言しました。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれました。これが芝東照宮の起源です。御由緒御祭神徳川家康公御神像慶長六年元旦御年六十歳の時、家臣に命じ之を彫刻せしむ東京都重要文化財指定御鎮座年月永世国家を守護し国民の繁栄を祈...神社参拝日記・芝東照宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十二 ・吉野宮・泊瀬への行幸 ・位次と年齒を唱え、知らせる ・人事 ・礼儀についての詔

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十二・吉野宮・泊瀬への行幸・位次と年齒を唱え、知らせる・人事・礼儀についての詔五月三日、天皇は、吉野宮に幸しました。十日、百濟の男女二十一人が歸化しました。十五日、內裏で、始めて安居の講説をしました。六月六日、天皇は、泊瀬に幸しました。二十五日、あるかぎりの位のある者を召して、位次(いじ)と年齒(ねんし)を唱え、知らせました。秋七月一日、公卿、百寮等が、始めて新しい朝服を着ました。三日、天神地祇に、班幣(はんぺい)しました。五日、皇子高市を、太政大臣としました。正廣參を丹比嶋真人(たじひのしまのまひと)に授けて、右大臣としました。あわせて、八省百寮を皆、遷任(せんにん)しました。六日、大宰・国司を、皆、遷任しました。七日、詔して、「公卿、百寮の、凡そ位のある者は、今から以...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十二・吉野宮・泊瀬への行幸・位次と年齒を唱え、知らせる・人事・礼儀についての詔

  • 神社参拝日記・芝大神宮

    芝大神宮(しばだいじんぐう)概要芝大神宮は、東京都港区芝大門一丁目にある神社です。 神紋・社紋主祭神天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)豊受大御神(とようけおおみかみ)創建寛弘2年(1005年)例祭日9月16日別名芝神明宮飯倉神明宮関東のお伊勢様略縁起社伝によりますと、一条天皇の御代、寛弘2年9月16日(1005年10月21日)に、伊勢の内外両宮を勧請して創建しました。江戸時代には、東海道沿線で江戸市中と市外との境界線上にあり、増上寺にも隣接することから、参拝者が増え、江戸から出府する旅人の、道中無事の祈願が行われました。さらに江戸時代には、御陰参りといわれる伊勢神宮への参拝が行われるようになりましたが、高額な旅費と長期間の旅程を要するため、容易に行う事が出来ませんでした。その代わりに伊勢神宮の祭神を...神社参拝日記・芝大神宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十一 ・人事・朝服についての詔 ・雨乞いをする

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十一・人事・朝服についての詔・雨乞いをする十四日、詔して、「百官の人、及び畿內の人で、位のある者は、六年を限とする。位の無い者は、七年を限とする。その上日(じょうじつ)をもって、九等を選定する。四等以上者は、考仕令(こうしりょう)に依り、その善、最、功、能、氏姓大小をもって量り、冠位を授ける。それ、朝服(ちょうふく)は、淨大壹より下、廣貳より上は、黑紫(こくし)。淨大參より下、廣肆より上は、赤紫。正の八級は、赤紫。直の八級は、緋。勤の八級は、深緑。務の八級は、淺緑。追の八級は、深縹(こきはなだ)。進の八級は、淺縹(あさはなだ)。別に、淨廣貳より上には、一畐(ひとの)一部(ひとつほ)の綾の羅(うすはた)等を、種々用いることを聽(ゆる)す。淨大參より下、直廣肆より上には、一畐...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十一・人事・朝服についての詔・雨乞いをする

  • 神社参拝日記・王子神社

    王子神社(おうじじんじゃ)概要王子神社は、東京都北区王子本町にある神社です。王子の名前の由来となった神社です。東京十社のひとつです。神紋・社紋主祭神伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)天照大御神(あまてらすおおみかみ)速玉之男命(はやたまのおのみこと)事解之男命(ことさかのおのみこと)創建不詳例祭日8月13日前の土曜日別名王子権現略縁起創建は不詳ですが、源義家の奥州征伐の折、当社にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられています。その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が社殿を再興し、熊野新宮の浜王子より「若一王子宮」を改めて勧請・奉斎し王子神社となりました。境内拝殿 鳥居 手水舎 社務所 御神輿宮殿 狛犬 イチョウ東京都指定天然記念物王子神社のイチョウ所在地北区王子本町一の...神社参拝日記・王子神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二十 ・腋上陂・吉野宮への行幸 ・京と畿内の老人に稲を与える

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十・腋上陂・吉野宮への行幸・京と畿内の老人に稲を与える二月五日、天皇は、腋上陂(わきがみうえのつつみ)に幸しました。公卿大夫の馬を観ました。十一日、新羅の沙門の詮吉(せんきち)、級飡(きゅうさん)の北助知(ほくじょち)等、五十人が歸化しました。十七日、天皇が吉野宮に幸しました。十九日、内裏で齋を設けました。二十五日、歸化した新羅の韓奈末の許満(こま)等十二人を、武藏国に居させました。三月二十日、京と畿內の人で、年が八十以上の者に、嶋宮(しまのみや)の稻を賜りました。人に二十束。その位のある者には、布・二端を加え賜りました。夏四月三日、使を遣わして、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祀らせました。七日、京と畿內の耆老(きろう)・耆女(きじょ)、五千三十一人に、稻を賜りました。人に二...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二十・腋上陂・吉野宮への行幸・京と畿内の老人に稲を与える

  • 神社参拝日記・王子稲荷神社

    王子稲荷神社(おうじいなりじんじゃ)概要王子稲荷神社は、東京都北区岸町にある神社です。大晦日、稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあります。 神紋・社紋主祭神宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)宇気母智之神(うけもちのかみ)和久産巣日神(わくむすびのかみ)創建平安時代以前例祭日2月初午略縁起江戸時代には、関東稲荷の総本社を名乗っていました。創建年代は不詳ですが、社伝では平安時代末期の康平年間(1058-1064年)に源頼義が当社を参拝したとありますので、少なくともそれ以前の鎮座していたと思われます。大晦日、稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあります。境内拝殿 神楽殿 鳥居社務所 門 王子稲荷の坂 摂社装束稲...神社参拝日記・王子稲荷神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十九 ・即位 ・大赦

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十九・即位・大赦四年春正月一日、物部麻呂朝臣(もののべのまろのあそみ)が、大盾を樹(た)てました。神祗伯の中臣大嶋朝臣(なかとみのおおしまのあそみ)が、天神寿詞(あまつかみのよごと)を読みました。おえると、忌部宿禰色夫知(いみべのすくねしこぶち)が、神璽(しんじ)である劒と鏡を皇后に奉上(ほうじょう)しました。皇后が、天皇の位に卽(つ)きました。公卿百寮が、羅列して匝(めぐ)り、拜み、拍手をしました。二日、公卿百寮が、元会儀(げんかいぎ)の如く拝朝しました。丹比嶋真人(たじひのしまのまひと)と布勢御主人朝臣(ふせのみぬしのあそみ)が、賀騰極を奏しました。三日、公卿と內裏で宴(とよのあかり)をしました。衣装を賜りました。十五日、百寮が薪を進めました。十七日、天下に大赦をしまし...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十九・即位・大赦

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十八 ・双六の禁止

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十八・双六の禁止九月十日、直廣參の石上朝臣麻呂(いそのかみのあそみまろ)、直廣肆の石川朝臣蟲名(いしかわのあそみむしな)等を筑紫に遣わして、位記(いき)を送らせました。また、新城を監(み)させました。冬十月十一日、天皇は、高安城(たかやすのき)に幸しました。二十二日、直廣肆の下毛野朝臣子麻呂(しもつけののあそみこまろ)が、奴婢・陸佰口(むももたり)を免じたいと奏しました。奏をゆるしました。十一月八日、中市で、追廣貳の高田首石成(たかたのおびといわなり)が、三つの兵(つわもの)を閑(なら)ったことに褒美し、物を賜りました。十二月八日、雙六(すごろく)を禁断しました。・位記(いき)叙位の旨を記して授与される証書・陸佰口(むももたり)600口・雙六(すごろく)インドに起こったとい...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十八・双六の禁止

  • 神社参拝日記・装束稲荷神社

    装束稲荷神社(しょうぞくいなりじんじゃ)概要装束稲荷神社は東京都北区王子にある神社です。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあります。神紋・社紋主祭神宇迦之御魂神創建約千年前例祭日初午 略縁起装束稲荷の由来今から約千年の昔、この附近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木がありそのに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二月の晦日の夜関東八ケ国の稲荷のお使がこの社に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になっていて当時の農民はその行列の燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重...神社参拝日記・装束稲荷神社

  • 神社参拝日記・浅草神社

    浅草神社(あさくさじんじゃ)概要浅草神社は、東京都台東区浅草の浅草寺本堂東側にある神社です。五月に行われる三社祭は全国的に有名です。神紋・社紋主祭神土師真中知(はじのまなかち)檜前浜成(ひのくまのはまなり)檜前武成(ひのくまのたけなり)創建不詳例祭日三社祭5月第3週の金・土・日曜日別名淺草神社三社明神社三社権現略縁起浅草寺を創建した土師氏の子孫が聖観世音菩薩の託宣を受けて、創建したのが浅草神社です。浅草寺に祀られている聖観世音菩薩を隅田川から救い上げた檜前浜成・竹成兄弟と、出家し、自宅を改めて寺とし、この聖観世音菩薩の礼拝供養に生涯を捧げた、土師真中知が祀られています。浅草神社台東区浅草二丁目三番明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、...神社参拝日記・浅草神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十七 ・漁猟の禁止

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十七・漁猟の禁止秋八月二日、百官が神祗官に集会して、天神地祗の事を宣べ奉りました。四日、天皇が吉野宮(よしののみや)に幸しました。十六日、攝津国の武庫海(むこのうみ)の千步の内、紀伊国の阿提郡(あてのこおり)の那耆野(なきの)の二萬頃、伊賀国の伊賀郡の身野(むの)の二萬頃で、漁獵を禁断(きんだん)し、守護の人を置きました。河內国の大鳥郡の高脚海に准えたのです。十七日、公卿に賞賜(しょうし)しましたが、各々差がありました。二十一日、伊予の総領田中朝臣法麻呂(すべおさたなかのあそみのりまろ)等に詔して、「讚吉国(さぬきのくに)の御城郡(みこのこおり)所で獲えた白䴏(しろつばめ)を、放養(ほうよう)するべし」といいました。二十三日、射(いくさ)を観ました。潤八月十日、諸々の国司に...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十七・漁猟の禁止

  • 神社参拝日記・鷲神社

    鷲神社(おおとりじんじゃ)概要鷲神社は、東京都台東区千束三丁目にある神社です。11月の例祭「酉の市」は広く知られています。神紋・社紋主祭神天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)創建不詳例祭日11月酉の日別名おとりさま略縁起言い伝えによりますと、古来この地に天日鷲神が祀られており、その神社に日本武尊が東征の折に戦勝を祈願したとされますが、実際は隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まるといいます。鷲神社台東区千束三丁目十八番七号鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十月の酉の日で、以後、この日を...神社参拝日記・鷲神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十六 ・蝦夷の僧に仏具を与える ・柏原広山を土佐国に流す

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十六・蝦夷の僧に仏具を与える・柏原広山を土佐国に流す秋七月一日、陸奧(みちのく)の蝦夷の沙門の自得(じとく)が請うところの、金銅の藥師佛像、觀世音菩薩像、各々一軀、鍾(かね)、娑羅(さら)、宝帳(ほうちょう)、香炉、幡(はた)等の物を付け賜りました。この日、新羅の弔使の、金道那(きんどうな)等が帰りました。十五日、左右京職、及び諸々の国司に詔して、射(いくさ)を習う所を築かせました。二十日、偽の兵衛、河内国(かふちのくに)の渋川郡(しぶかわのこおり)の人の柏原広山(かしわはらのひろやま)を土左国に流しました。追廣參を、偽の兵衞廣山を据えた、兵衞の生部連虎(みぶべのむらじとら)に授けました。二十三日、越の蝦夷の八釣魚(やつりな)等に賜りましたが、各々差がありました。(魚、これ...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十六・蝦夷の僧に仏具を与える・柏原広山を土佐国に流す

  • 神社参拝日記・吉原神社

    吉原神社(よしわらじんじゃ)概要吉原神社は、東京都台東区千束3丁目にある神社です。吉原遊郭にあった5社の稲荷神社を一ヶ所に合祀したのが吉原神社の起源です。神紋・社紋主祭神倉稲魂命(うがのみたまのみこと)市杵島姫命(いちきしまひめのみこと創建明治五年(1872年)例祭日5月の第3金曜日から三日間略縁起吉原遊郭には元々守護神として稲荷神社が5社ありましたが、明治になり一か所に合祀したのが吉原神社の起源です。元々は別な場所にありましたが、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失し、1934年(昭和9年)に現在地に遷座しました。その際、新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。境内社殿 手水舎 鳥居・社務所 神輿庫 逢初桜(あいぞめさくら) 住所東京都台東区千束3ー20-2アクセス東京メトロ日比谷線...神社参拝日記・吉原神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十五 ・撰善言司を任命する

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十五・撰善言司を任命する六月一日、衣裳を筑紫大宰等に賜りました。二日、皇子施基(しき)、直廣肆の佐味朝臣宿那麻呂(さみのあそみすくなまろ)、羽田朝臣斉(はたのあそみむごへ)(齊、これは牟吾閉(むごへ)といいます)、勤廣肆の伊余部連馬飼(いよべのむらじうまかい)、調忌寸老人(つきのいみきおきな)、務大參の大大伴宿禰手拍(おおとものすくねてうち)と巨勢朝臣多益須(こせのあそみたやす)等を、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に拝しました。十九日、大唐の続守言(しょくしゅげん)、薩弘恪(さっこうかく)等に稻を賜りましたが、各々差がありました。二十日、筑紫大宰(つくしのおおみこともち)の粟田真人朝臣(あわたのまひとのあそみ)等に詔して、學問僧の明聡(みょうそう)、観智(かんち)等が新羅...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十五・撰善言司を任命する

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十四 ・新羅の弔いの使者への詔

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十四・新羅の弔いの使者への詔五月二十二日、土師宿禰根麻呂(はじのすくねねまろ)に命じて、新羅の弔いの使いの級飡(きゅうさん)の金道那(きんどうな)等に、詔して、「太政官の卿等が、奉勅(ほうちょく)し、宣して、二年に、田中朝臣法麻呂(たなかあそみのりまろ)等を遣わし、大行天皇(さきのすめらみこと)の喪を告げた。時に、新羅は、『新羅の奉勅の者は、元來、蘇判位(そうかんのくらい)を用いていました。今、また、そのようにしたいと思っています』と。これによって、法麻呂等は、赴告(ふこく)の詔を宣べることができなかった。もし、前の事を言うのなら、昔、難波宮治天下天皇(なにわのみやにあめのしたしたしめししすめらみこと)が崩じた時に、巨勢稲持(こせのいなもち)等を遣わして、喪を告げる日に、翳...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十四・新羅の弔いの使者への詔

  • 神社参拝日記・素盞雄神社

    素盞雄神社(すさのおじんじゃ)(荒川区)概要素盞雄神社は、東京都荒川区南千住にある神社です。松尾芭蕉の「奥の細道」の旅の出発点として有名です。神紋・社紋主祭神素盞雄大神(すさのおおおかみ)飛鳥大神(あすかおおかみ)創建795年例祭日6月3日別名お天王様略縁起平安時代延暦14年(795年)4月8日の夜、役小角(えんのおづぬ)の弟子、黒珍(こくちん)が、「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を払い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」との御神託を授け、祭神の牛頭天王・飛鳥権現の二柱の神が降臨した小塚の中の奇岩を祀って創建したと伝えられています。 素盞雄神社小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町家など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国...神社参拝日記・素盞雄神社

  • 春日大社と花々

    雨の中、春日大社の枝垂れ桜が、ポツリ、ポツリと咲き始めていました。来週には、満開になるかな?他の花々も沢山、咲いていました。綺麗です。明日は晴れ。もっと美しい姿が見られることでしょう。おまけ雨に濡れて、鹿さん、寒そう。春日大社と花々

  • 神社参拝日記・上野東照宮

    上野東照宮(うえのとうしょうぐう)概要上野東照宮は、東京都台東区上野恩賜公園内にある神社です。神紋・社紋主祭神徳川家康徳川吉宗徳川慶喜創建寛永四年(1627年)例祭日4月17日略縁起東照宮略記縁起元和二年二月見舞いのため駿河城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言されたそこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永四年(一六二七年)に本宮を造営したその後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安四年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。引用・掲示板 境内拝殿と唐門唐門唐門(からもん)1651年造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻や、扉には唐草格子、扉の上...神社参拝日記・上野東照宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十三 ・防人の交替 ・判事の任命 ・大赦

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十三・防人の交替・判事の任命・大赦二月十三日、詔して、「筑紫の防人は、限られた年を満たしたなら、ひとを替えるように」といいました。二十六日、淨廣肆の竹田王(たけだのおおきみ)、直廣肆の土師宿禰根麻呂(はじのすくねねまろ)、大宅朝臣麻呂(おおやけのあそみまろ)、藤原朝臣史(ふじわらのあそみふびと)、務大肆の当麻真人桜井(たぎまのまひとさくらい)と穂積朝臣山守(ほずみのあそみやまもり)、中臣朝臣々麻呂(なかとみのあそみおみまろ)、巨勢朝臣多益須(こせのあそみたやす)、大三輪朝臣安麻呂(おおみわのあそみやすまろ)を判事としました。三月二十四日、天下に大赦しました。ただ、常赦(じょうしゃ)で免されない所だけは、赦す例えにいれませんでした。夏四月八日、投化した新羅人を下毛野に居させま...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十三・防人の交替・判事の任命・大赦

  • 神社参拝日記・五條天神社

    五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)概要五條天神社は、東京都台東区の上野公園にある神社です。主祭神大己貴命(おおなむじのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)相殿神菅原道真公(すがわらみちざね)創建景行天皇御代例祭日5月25日略縁起社伝によりますと、第十二代景行(けいこう)天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のおり、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝され、上野忍が岡に、両神をお祀りしたのが始まりとされています。(約1900年前)寛永寺の拡張などで何度か遷座しましたが、1928年(昭和3年)に現在地に遷座されました。 五條天神社縁起由緒第十二代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ平成二十...神社参拝日記・五條天神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十二 ・麻呂と鉄折の出家 ・吉野への行幸

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十二・麻呂と鉄折の出家・吉野への行幸三年春正月一日、天皇は、萬国を前殿に朝させました。二日、大學寮が、杖を八十枚を献(たてまつ)りました。三日、務大肆の陸奧国の優●雲郡(うたきまのこおり)の城養(きかう)の蝦夷の脂利古(しりこ)の息である、麻呂と鉄折(かなおり)が、鬢髮を剃って沙門になりたいと請いました。詔して、「麻呂等は、少ないが、閑雅(かんが)で、寡欲(かよく)である。遂にここに至って、蔬(あおもの)を食し、戒を持っている。請に随い、出家し修道(しゅうどう)するがよい」といいました。七日、公卿と宴(とよのあかり)をしました。袍袴(きぬ)を賜りました。八日、新羅への使人の田中朝臣法麻呂(たなかのあそみのりまろ)等が、新羅から還りました。九日、出雲国司に詔して、風浪に遭った...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十二・麻呂と鉄折の出家・吉野への行幸

  • 神社参拝日記・諏方神社

    諏方神社(荒川区)概要東京都荒川区にある神社です。新堀(日暮里)・谷中の総鎮守です。神紋・社紋立梶葉主祭神建御名方命(たけみなかたのみこと)創建元久二年(1202年)例祭日8月27日略縁起元久二年に、豊島経泰が諏訪大社から勧請したといいます。文安年間に太田道灌神領を寄進し、徳川時代に神領を賜りました。社殿はもと山の麓にあったといいますが、寛永十二年(1635年)、山上が開削された際に現在地に遷座されました。 諏方神社信濃国(長野県)上諏訪社と同じ健御名方命を祀る。当社の縁起によると、元久二年(一二〇五)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。旧暦七月二十七日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御が行われた。神田芋...神社参拝日記・諏方神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十一 ・殯宮での葬礼 ・天武天皇を大内陵に葬る

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十一・殯宮での葬礼・天武天皇を大内陵に葬る冬十一月四日、皇太子が、公卿、百寮の人等と諸蕃の賓客を率いて、殯宮におもむいて慟哭をしました。ここにおいて、奠(てん)を奉り、楯節儛(たたふしのまい)を奏しました。諸臣は各々、己の先祖等が仕えた狀(かたち)を挙げて、次から次へと進み、誄(しのびごと)をしました。五日、蝦夷・百九十余り人が、調賦(みつき)としての負荷(ふか)をし、誄をしました。十一日、布勢朝臣御主人(ふせのあそみみぬし)、大伴宿禰御行(おおとものすくねみゆき)が、次から次へと進み、誄をしました。直廣肆の当麻真人智徳(たぎまのまひとちとこ)は、皇祖等の騰極(ひつぎ)の次第を奉り、誄をしました。禮です。古くは、日嗣いいます。おわり大内陵(おおちのみさざき)に葬りました。十...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十一・殯宮での葬礼・天武天皇を大内陵に葬る

  • 神社参拝日記・市谷亀岡八幡宮

    市谷亀岡八幡宮概要東京都新宿区市谷八幡町にある神社です。神紋・社紋主祭神誉田別命(ほんだわけのみこと)気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)與登比売神(よとひめのかみ)創建文明年間例祭日8月略縁起太田道灌が文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりです。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮を称しました。当時は、市谷御門の中(現・千代田区内)にありましたが、その後戦火にさらされ荒廃しました。江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転しました。江戸時代には市谷八幡宮と称し、境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交いました。境内社殿 手水舎 鳥居 階段 狛犬境内社 茶ノ木稲荷神社御祭神稲荷大神(いなりおおかみ)保食...神社参拝日記・市谷亀岡八幡宮

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 十 ・殯宮で誄 ・刑を軽減 ・雨乞い ・耽羅の使者

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十・殯宮で誄・刑を軽減・雨乞い・耽羅の使者三月二十一日、花縵(はなかつら)を殯宮に進めました。藤原朝臣大嶋(ふじわらのあそみおおしま)が誄(しのびごと)をしました。五月八日、百濟の敬須德那利(きょうすとくなり)を、甲斐国に移しました。六月十一日、詔して、「天下に令(のりごと)する。繋囚(けいしゅう)の極刑を、本の罪より一等、減らす。輕繋は、皆、赦し、除く。それ、天下の令は、皆、今年の調賦(みつき)を半する」といいました。秋七月十一日、大いに雩(あまひき)をしました。旱(ひでり)でした。二十日、百濟の沙門の道藏(どうぞう)に請雨(しょうう)するよう命じました。崇朝(すうちょう)せず、あまねく雨が天から下りました。八月十日、殯宮で嘗(なおらい)して、慟哭をしました。ここにおいて...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇十・殯宮で誄・刑を軽減・雨乞い・耽羅の使者

  • 主の気になった出来事 貴重な

    2月の上旬のある日。水谷茶屋さんの側を通ったら…屋根の茅葺が〜穴開いとるやんけ!屋根の葺き替えに遭遇しました。これは、気になる〜。観察せねば。ということで、毎日は無理ですが、観察することにしました。ちなみに葺き替え前の水谷茶屋さん撮影12・11よく見ると…草かな?苔かな?屋根が緑色ですね。撮影・1月28日茅の量が少ないような…さて、古い萱を外した後は、ブルーシートで屋根を覆っていました。この状態でも水谷茶屋さん、営業していましたよ〜鉄腕DASHで、TOKIOの皆さんが屋根の葺き替えをしていたのを見たことがあるので工程は知っていました。ですから、数日で終わると思っていました。が、2月の下旬まだ葺き替え終わっていません。数日後横をみると、作業の工程がよくわかる。3月上旬おっ、完成?と思ったら、裏側がまだでした...主の気になった出来事貴重な

  • 神社参拝日記・須賀神社 (新宿区)

    須賀神社 (新宿区)概要東京都新宿区須賀町にある神社です。新宿四谷の総鎮守です。神紋・社紋抱き稲に左三つ巴主祭神須佐之男命(すさのおのみこと)宇迦能御魂命(うかのみたまのみこと) 主祭神の左右には櫛稲姫を始め八柱の御子を祀っています。五男神 天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命熊野樟日命・活津彦根命三女神多紀理姫命・市杵島姫命・多岐都姫命創建寛永11年(1634年)例祭日6月上旬略縁起寛永11年(1634)、赤坂一ツ木村の清水谷にあった稲荷神社を江戸城外堀普請のため四谷に遷座したことに初まる神社です。寛永14年(1637)、日本橋大伝馬町の鎮守として神田明神摂社(天王二ノ宮)に祀られていた牛頭天王を合祀したことにより、稲荷天王合社と称しました。明治に入り須賀神社と改称しました。境内社殿 授与所 手水舎 神輿庫...神社参拝日記・須賀神社(新宿区)

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 九 ・皇太子らの葬礼 ・薬師寺で無遮大會を行う ・新羅の献上品 ・国忌の日

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇九・皇太子らの葬礼・薬師寺で無遮大會を行う・新羅の献上品・国忌の日二年春正月一日、皇太子は、公卿、百寮人等を率いて、殯宮におもむいて慟哭をしました。二日、梵衆(ぼんしゅう)が、殯宮で發哀(はつあい)しました。八日、無遮大會(むしゃだいえ)を、藥師寺で設けました。二十三日、天皇の崩じたことを、新羅の金霜林(きんそうりん)等に奉宣しました。金霜林等は、乃ち、三つ發哭しました。二月二日、大宰が、新羅の調賦(みつき)、金、銀、絹、布、皮、銅、鐵の類、十余り物を献(たてまつ)りました。あわせて、別に献られた佛像、種々彩絹、鳥馬の類、十余種と、及び霜林が献(たてまつ)った、金、銀、彩色、種々の珍異の物、あわせて八十余物を献(たてまつ)りました。十日、霜林等を筑紫の館で饗(もてな)しまし...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇九・皇太子らの葬礼・薬師寺で無遮大會を行う・新羅の献上品・国忌の日

  • 神社参拝日記・新宿十二社熊野神社

    新宿十二社熊野神社概要東京都新宿区西新宿2丁目にある神社です。新宿中央公園に鎮座しています。新宿総鎮守です。神紋・社紋主祭神櫛御気野大神(くしみけぬのおおかみ)伊邪奈美大神(いざなみのおおかみ)創建応永年間例祭日9月第3土曜・日曜別名新宿十二社角筈十二社略縁起十二社熊野神社は、中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎が、応永年間(1394~1428)に創建されたと伝わっています。明治維新後は、十二社熊野神社と改称しました。十二社熊野神社の文化財住所新宿区西新宿2-11-2電話番号03(3343)5521熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に、中野長者鈴木九郎が、故郷で有る紀州熊野の十二社権現をうつし祠ったものと伝えられ、そのためにこのあたりは十二社と呼ばれるようになりました。ま...神社参拝日記・新宿十二社熊野神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 八 ・国忌の斎 ・新羅の使者 ・大内陵を築く

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇八・国忌の斎・新羅の使者・大内陵を築く九月九日、国忌(こっき)の齋を京師(みやこ)の諸々の寺で設けました。十日、殯宮で齋を設けました。二十三日、新羅が、王子の金霜林(きんそうりん)、級飡(きゅうさん)の金薩慕(きんさちも)、及び級飡の金仁述(きんにんじゅつ)、大舍の蘇陽信(そようしん)等を遣わして、国政のことを奏し請いました。また、調賦(ちょうふ)を献(たてまつ)りました。學問僧の智隆(ちりゅう)が、随って至りました。筑紫大宰は、便ち、天皇が崩じたことを霜林等に告げました。卽日、霜林等は皆、喪服を着て、東を向いて三拜し、三かい、慟哭(どうこく)をしました。冬十月二十二日、皇太子が、公卿、百寮人等、あわせて諸々の国司、国造、及び百姓の男女を率いて、大內陵(おおうちのみささぎ)...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇八・国忌の斎・新羅の使者・大内陵を築く

  • 神社参拝日記・神田神社・境内末社

    神田神社境内末社籠祖神社祭神猿田彦大神塩土翁神天孫瓊瓊杵尊現在は、平成24年に旧・籠祖神社の社地に、籠祖神社をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社、富士神社、天神社、大鳥神社、天祖神社、諏訪神社を合祀し合祀殿となっています。末廣稲荷神社祭神宇迦之御魂神当社御創建の年代は不詳でありますが、元和二年(一六一六)頃のもので、極めて古い神社であります。昔より、庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷さまとして尊崇されている。現社殿は、昭和四十一年二月二十八日に東京鰹節類卸商組合の有志により再建された。境内掲示板より引用金刀比羅神社祭神大物主神金山彦命天御中主命祭礼日十月十日天明三年(一七八三)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋二丁目旧両国町会)に創建された。江戸時代には、神祇伯白川家の配下となり、祭祀が...神社参拝日記・神田神社・境内末社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 七 ・負債者の利の免除 ・高僧に天武天皇の御服で作った袈裟を贈る

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇七・負債者の利の免除・高僧に天武天皇の御服で作った袈裟を贈る六月二十八日、罪人を赦しました。秋七月二日、詔して、「凡そ、負債者は、乙酉(きのととり)の年より以前の物は、利を収めてはならぬ。もし既に、身を役についやしているなら、利のために役をしてはならぬ」といいました。九日、隼人の、大隅・阿多の魁帥(ひとごのかみ)等・三百三十七人に賞を賜りましたが、各々差がありました。八月五日、殯宮で嘗をしました。これは御青飯(あおきおもの)といいます。六日、京城(みやこ)の耆老(きろう)の、男女の皆が、橋の西で慟哭(どうこく)に臨みました。二十八日、天皇は、直大肆の藤原朝臣大嶋(ふじわらのあそみおおしま)、直大肆の黄書連大伴(きふみのむらじおおとも)を使わして、三百の龍象(りゅうぞう)の大...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇七・負債者の利の免除・高僧に天武天皇の御服で作った袈裟を贈る

  • 神社参拝日記・神田神社

    神田神社概要東京都千代田区外神田二丁目にある神社です。江戸の総鎮守です。神紋・社紋主祭神大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)平将門命(たいらのまさかどのみこと)創建天平2年(730)例祭日5月15日別名神田明神略縁起社伝によりますと、天平2年(730)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現・東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。平将門公の首塚が百歩の地にあり、延慶二年に将門公の霊を相殿に祀り、神田明神と名付けました。元和二年に現在地へ遷座し、江戸城の艮鬼門の守護神として歴代将軍の尊崇厚く江戸総鎮守となりました。境内御社殿鳥居 手水舎 隋神門祭務所 神楽殿文化交流館 神明会館 鳳輦神輿奉安殿神輿庫 だいこく様尊像 石獅子石獅子千代田区指定文化...神社参拝日記・神田神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 六 ・帰化した高麗・新羅の人々に田を授ける ・丹比真人麻呂、隼人の誄

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇六・帰化した高麗・新羅の人々に田を授ける・丹比真人麻呂、隼人の誄三月十五日、投化(とうか)した、高麗五十六人を、常陸国に居させました。田を賦(みつぎ)、稟(ふち)を授けて、生業にさせました。二十日、花縵(はなかつら)をもって、殯宮(もがりのみや)にたてまつりました。これを御蔭(みかげ)といいます。この日、丹比真人麻呂(たじひのまひとまろ)が誄(しのびごと)をしました。禮です。二十二日、投化した新羅人十四人を、下毛野国に居させました。田を賦、稟を授けて、生業にさせました。夏四月十日、筑紫大宰は、投化した新羅の僧尼、及び百姓男女二十二人を献(たてまつ)りました。武藏国に居させました。田を賦、稟を授けて、生業にさせました。五月二十二日、皇太子が、公卿と百寮人等を率いて、殯宮におも...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇六・帰化した高麗・新羅の人々に田を授ける・丹比真人麻呂、隼人の誄

  • 主のつぶやき・馬酔木

    春日大社の、境内のあちこちで、馬酔木が花開いていました。小さくて可愛らしい花に思わず、撮影。帰宅後、馬酔木を調べてみると。毒を持つため鹿が食べないとのこと。どおりで、沢山咲いているわけです。😅それではまた。御訪問ありがとうございました。主のつぶやき・馬酔木

  • 神社参拝日記・品川神社

    品川神社(しながわじんじゃ)概要東京都品川区北品川三丁目にある神社です。東京十社のひとつです。神紋・社紋主祭神天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)天太玉命の后神宇賀之売命(うがのめのみこと)素戔嗚尊(すさのおのみこと)創建文治3年(1187年)例祭日6月7日に近い日曜日を入れた金・土・日の三日間略縁起後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃咩命を勧請して、品川大明神と称しました。慶長五年(1600年)、徳川家康が関ケ原の戦いへ出陣の際、品川神社を参拝して戦勝祈願しました。その後、祈願成就の御礼として仮面・神輿などを奉納し天正19年(1951年)には徳川家康より5石の社領の朱印を受け、徳川家の尊崇する特別な神社として社紋も...神社参拝日記・品川神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 五 ・葬礼

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五・葬礼元年春正月一日、皇太子が、公卿、百寮人等を率いて、殯宮(もがりのみや)にゆき、慟哭(どうこく)をしました。納言の布勢朝臣御主人(ふせのあそみみぬし)が、誄(しのびごと)をしました。禮です。誄をおえて、衆庶(しゅうしょ)が發哀(はつあい)をしました。次に、梵衆(ぼんしゅう)が發哀しました。ここにおいて、奉膳(ぶうぜん)の紀紀朝臣真人(きのあそみまひと)等が奠(みけ)を奉りました。奠がおわり、膳部と采女等が發哀をしました。樂官が樂(うたまい)を奏しました。五日、皇太子が公卿、百寮人等を率いて、殯宮にゆき慟哭しました。梵衆が随い發哀しました。十五日、京師(みやこ)で、年が八十以上、及び重病人、貧しく、自ら生きていけない者に、絁(ふとぎぬ)、綿を賜りましたが、各々差がありま...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇五・葬礼

  • 神社参拝日記・荏原神社

    荏原神社(えばらじんじゃ)概要東京都品川区北品川にある神社です。神紋・社紋主祭神高龗神天照皇大神須佐之男尊豊受姫之尊手力雄之尊日本武尊恵比寿神創建和銅2年(709年)別名天王社貴布彌大明神例祭日6月上旬天王祭天王洲沖で海から拾い上げられたと伝えられる素戔嗚尊の神面をつけた神輿が海に入る「御神面海中渡御」が行われます。参加者をかっぱになぞらえ、「かっぱ祭」とも呼ばれています。略縁起和銅二年(709年)九月九日に大和国丹生川上神社より高龗神(龍神)を勧請し創建しました。その後、長元2年(1247年)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請しました。古くは品川大明神、天王社と称し、品川宿の総鎮守でした。東京遷都の際、内侍所となり、明治天皇は当社に四度、行幸されています。六月の天王祭海中渡御は、全国的に有名です...神社参拝日記・荏原神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 四 ・大津皇子の謀反に関わった者への後始末 ・天武天皇のために無遮大會を設ける

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四・大津皇子の謀反に関わった者への後始末・天武天皇のために無遮大會を設ける二十九日、詔して、「皇子大津は謀反をしようとした。詿誤(あざむ)かれた、吏民(りみん)や帳內(とねり)は、やむをえない。今、皇子大津はすでに滅んだ。從者で皇子大津と坐に当るものは、皆、赦すこととする。ただし、礪杵道作(とちのみちつくり)は伊豆に流すこととする」といいました。また、詔して、「新羅の沙門の行心(こうじん)は、皇子大津と謀反したが、朕は法に加えることに忍びない、飛騨国の伽藍(てら)にうつす」といいました。十一月十六日、伊勢神祠に奉していた皇女大来(ひめみこおおく)が、還り京師(みやこ)に至りました。十七日、地震がありました。十二月十九日、天渟中原瀛眞人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめら...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇四・大津皇子の謀反に関わった者への後始末・天武天皇のために無遮大會を設ける

  • 神社参拝日記・御田八幡神社

    御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)概要東京都港区三田にある神社です。「釜鳴神事」という、全国でも数少ない特殊神事が1月と5月の15日に行われています。神紋・社紋主祭神誉田別尊(ほんだわけのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)武内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)創建和銅二年(709)例祭日8月13・14・15日主な神事1月と5月の15日釜鳴神事略縁起和銅二年(709)東国鎮護の神として鎮祀され延喜式内稗田神社と伝えられています。何度かの遷座を経て寛永五年(1628)現在地に鎮座しました。明治三十年御田八幡神社と改称しました。境内社殿 神楽殿 手水舎 鳥居 狛犬 境内神社五光稲荷神社御嶽神社 住所東京都港区三田3-7-16アクセスJR山手線田町駅徒歩10分JR山手線・京浜東北線高輪ゲートウェイ駅徒歩...神社参拝日記・御田八幡神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 三 ・天武天皇の崩御 ・皇后による臨朝稱制 ・大津皇子の謀反

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三・天武天皇の崩御・皇后による臨朝稱制・大津皇子の謀反朱鳥元年九月九日、天渟中原瀛眞人天皇が崩じました。皇后は、臨朝稱制(りんちょうしょうせい)をしました。冬十月二日、皇子大津の謀反が発覚しました。皇子大津を逮捕し、あわせて皇子大津に詿誤(あざむ)かれた、直広肆の八口朝臣音橿(しゃくちのあそみおとかし)、小山下の壱伎連博徳(ゆきのむらじはかとこ)と大舍人の中臣朝臣臣麻呂(なかとみのあそみおみまろ)、巨勢朝臣多益須(こせのあそみたやす)、新羅の沙門の行心(こうじん)、及び帳内(とねり)の礪杵道作(ときのみちつくり)等、三十余人を捕らえました。三日、皇子大津は、訳語田(おさた)の舍で賜死(しし)しました。時に、年は、二十四。妃の皇女山邊は、被髮(ひはつ)し、徒跣(かちはだし)で...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇三・天武天皇の崩御・皇后による臨朝稱制・大津皇子の謀反

  • 神社参拝日記・洗足池弁財天

    洗足池弁財天(厳島神社)概要洗足池のほとりにある神社です。古来より洗足池の守護神として祀られていました。主祭神市杵島姫命(宇賀神)(宗像神)(辨天様)とも申し上げる創建不詳御神徳福徳財宝授けの神音楽、舞踊、芸能上達の神水神、水路、海上安全の神交通安全の神商売繁盛の神、特に水商売繁盛の神略縁起創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多くの人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月洗足風致協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。洗足池辨財天(厳島神社)御由緒掲示板より 境内社殿 ...神社参拝日記・洗足池弁財天

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 二 ・天皇と共に東に行き難を避ける ・大友皇子を誅殺する

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二・天皇と共に東に行き難を避ける・大友皇子を誅殺する天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月、天渟中原瀛眞人天皇に従い、難を東国に避けました。旅(いくさ)につげて、衆をあつめて、遂に謀(はかりごと)を定めました。廼(すなわ)ち、敢死(かんし)の者・数万を分けて、命じて、諸々の要害(ようがい)の地に置きました。秋七月、美濃の軍將等と大倭の桀豪(いさお)と共に、大友皇子(オオトモノミコ)を誅(う)ちました。首を不破宮(ふわのみや)におくり、詣でました。二年、皇后に立ちました。皇后は、始まりから今まで、天皇を佐(たす)け、天下を定めました。つねに侍している際、政の事を言及し、毗(たす)け、補う所が多かったです。・旅(いくさ)軍隊・敢死(かんし)死を覚悟すること。決死・要害(ようがい)地勢がけ...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇二・天皇と共に東に行き難を避ける・大友皇子を誅殺する

  • 神社参拝日記・千束八幡神社

    千束八幡神社概要洗足池のほとりにある神社です。名馬「池月」の伝承も残っています。神紋・社紋主祭神品陀和気之命創建貞観2年(860)例祭日9月6日に近い土曜・日曜略縁起貞観二年(860)に千束郷の総鎮守として宇佐八幡の分霊を勧請されました。また源家の氏神として尊崇し今日に至ります。また源頼朝の故事(社伝)により旗挙げ八幡の称もあります。境内社殿 鳥居 手水舎 神楽殿 絵馬 境内社神明宮祭神天照大神伊邪那美命大山津見命猿田彦命菅原道真命 稲荷社 そのほか名馬池月の由来治承四年(1180年)源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであ...神社参拝日記・千束八幡神社

  • 日本書紀 巻第三十 高天原廣野姫天皇 一 ・出自

    日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇一高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)持統天皇(じとうてんのう)・出自高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)は、少(わか)いときの名を、鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)の第二女です。母は、遠智娘(おちのいらつめ)といいます。(更の名を、美美濃津子娘(みのつこのいらつめ)といいます)天皇は、深沈(しんちん)で、大度(たいど)がありました。天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)三年に、天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)の妃となりました。帝王の女ではあるけれども、禮節(れいせつ)で、倹を好みました。母儀(ほぎ)の德が...日本書紀巻第三十高天原廣野姫天皇一・出自

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