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2020/12/06

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  • 猫日記と主のつぶやき あわわわわ〜

    久しぶりのブログ更新です。ここのところ、午前中に庭のお手入れをしていて、午後には、へばってしまい、ブログ更新をサボっておりました😅突然お休みして、すみませんでした。さて、今日は、庭のお手入れをしている最中にアクシデントが起きたので、そのことについて覚書しておきます。それは、ワイが裏庭で、野菜たちのお手入れをしていた際に起きました。裏庭を蜂がブンブンと飛んでいる。最近、虫に慣れっこになった主、最初は全く気にしていなかったのですが…今日は、何だか気になる。そこで、その蜂の行方を追ってみるとなんと😳エコキュートの室外機のホースの隙間から中へと入っていくではありませんか。どういうこと?疑問に思うも、作業を再開したワイ。だが、だんだんと気になってくる。そこで、試しに殺虫剤をその穴に噴...猫日記と主のつぶやきあわわわわ〜

  • 名所江戸百景を訪ねて 第18景 「王子稲荷の社」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第18景「王子稲荷の社」王子稲荷社の境内からの景色を描いた作品です。鳥居の位置から東の景色を描いたものとわかります。遠景に描かれた山は筑波山です。 王子稲荷神社王子稲荷神社(おうじいなりじんじゃ)は、東京都北区岸町にある神社です。大晦日、稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあります。  描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。王子稲荷神社の社殿左側から撮影してみました。最後に王子稲荷神社の境内から、筑波山を望むことができたのですね。現在はというと、広がっていた田園風景は、人工的な建物が建ち並び、遠方は霞がかかり残念ながら遠くまで見渡すことができませんでした。作品に描かれた木々は、真っ直ぐな...名所江戸百景を訪ねて第18景「王子稲荷の社」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第17景 「飛鳥山北の眺望」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第17景「飛鳥山北の眺望」飛鳥山で花見を楽しむ人々の姿が描かれています。遠景に描かれている山々は、筑波山です。 飛鳥山東京都北区南部、山手台地の末端にある丘です。かつてこの地の豪族豊島氏が居城の守護神として、元亨年間(1321~1324)に熊野の飛鳥明神を勧請し祀ったのが地名の由来となっています。江戸時代、8代将軍・徳川吉宗は、この地を王子権現に寄進し、1000本をこえる桜を植えて一般に公開したため、上野、隅田と並ぶ桜の名所となりました。 飛鳥山公園飛鳥山公園(あすかやまこうえん)は、東京都北区にある区立公園です。江戸享保期に行楽地として整備され、明治6年(1873)3月に、日本最初の公園の一つに指定されました。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?...名所江戸百景を訪ねて第17景「飛鳥山北の眺望」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第14景 「日暮里寺院の林泉」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第14景「日暮里寺院の林泉」この絵は、青雲寺、修性院、妙隆寺の花見寺三寺院の中央、修性院の庭を描いた作品です。近景右側の帆掛け船の刈り込みが修性院の呼び物でした。 花見寺三寺院現・東京都荒川区西日暮里の辺りは、江戸時代の中頃から、日暮の里(ひぶらしのさと)とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わっていました。初め妙隆寺が崖を利用し庭園を造り、花見寺として評判になりました。隣接する修性院と青雲寺がそれに続き、名所として有名になりました。 修性院修性院(しゅうしょういん)は、東京都荒川区にある日蓮宗の寺院です。1573年(天正元年)に開山しました。開山当時は、武蔵国豊島郡田中村(現在の東京都練馬区田中)にありましたが、1663年(寛文3年)に現在地に移転しました。 描かれた...名所江戸百景を訪ねて第14景「日暮里寺院の林泉」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第16景 「干駄木団子坂花屋敷」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第16景「干駄木団子坂花屋敷」森に囲まれた高台には、渡り廊下の付いた三階建てが建っています。これは「絵本江戸土産」から、紫泉亭と特定できます。崖を登る急な石段状の坂が見え、亭や石灯籠も配置されています。手前の水面に関しては、藍染川という説もありますが、花屋敷の庭園にあった花菖蒲の池という説が有力です。 千駄木団子坂団子坂文京区千駄木2丁目と3丁目の境潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。『千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々』(御府内備考)「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂...名所江戸百景を訪ねて第16景「干駄木団子坂花屋敷」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第15景 「日暮里諏訪の台」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第15景「日暮里諏訪の台」描かれた場所は諏方神社の境内です。画面中央には二本の大きな杉の木が立っています。画面中央に描かれている坂道は、現在もJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂「地蔵坂」として残っています。その坂の下には新堀村の家々が立ち並んでいるのが見えます。人々が床机に座り、桜の花見をしている人々の姿が描かれています。遠景に描かれている山は右手が筑波山の双耳峰、左手が日光連山です。 諏方神社諏方神社は、東京都荒川区にある神社です。新堀(日暮里)・谷中の総鎮守です。主祭神建御名方命(たけみなかたのみこと) 地蔵坂(じぞうざか)この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵...名所江戸百景を訪ねて第15景「日暮里諏訪の台」

  • 猫日記と主のつぶやき あははは〜

    久しぶりの猫日記と主のつぶやきです。さて、引越しをしてからだいぶ経ったのですが、やっとこさ、食器棚を通販で購入しました。これで、仮住まいのアパートでは、台所が狭くて、諦めていたアラジンのオーブントースターを購入できる、と買ってきました。うぇ〜い!やはり、アラジンのオーブントースターは可愛い😍さて、家電の設置場所は、通販の写真を参考にと。炊飯器は確か、このスライド棚に置いてあったな。お〜、ジャストサイズ。炊飯器を移動させたことにより、以前の棚に余裕ができた。この調子なら、ミキサーも買えちゃうなぁ。とほくそ笑んで、蓋を開けてみたらあっ、マジかよ!こっ、これ以上開かん〜😖これじゃ、ご飯を取り出せないよ〜、ど〜するんだよ、これ〜😭残念だったな。なんとか、するしかない...猫日記と主のつぶやきあははは〜

  • 名所江戸百景を訪ねて 第13景 「下谷広小路」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第13景「下谷広小路」右手の建物は呉服商の「松坂屋」です。その奥、通りに張り出し、障子には赤丸紋が描かれている建物は、髪結床です。広小路を歩く女性たちは、稽古事の師匠に引率されて、上野の森に花見に出かける人々です。清元の稽古連ともいわれていました。そして、遠景に描かれている森は、上野の森です。 下谷広小路江戸時代、寛永寺の門前に設けられた広小路です。現在の上野広小路付近にあたります。両国広小路、浅草広小路とともに江戸三大広小路のひとつに挙げられていました。 松坂屋1611年(慶長16年)織田家の小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で呉服小間物商「いとう呉服店」を創業しました。1768年(明和5年)江戸に進出し、上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改...名所江戸百景を訪ねて第13景「下谷広小路」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第12景 「上野山した」

    名所江戸百景を訪ねて第12景「上野山した」江戸時代、上野山の東側の麓一帯は「山下」と呼ばれていました。料理屋伊勢屋の間の道が山下への入口で、五條天神の鳥居が見えます。近景の左側に描かれた傘をさした一行は、御殿女中と思われます。五條天神社五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)は、東京都台東区の上野公園にある神社です。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下、旧五條町)にありました。 主祭神大己貴命(おおなむじのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)相殿神菅原道真公(すがわらみちざね)描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。かつ五條天神社あった場所のあたり、上野公園前で撮影してみました。最後にかつて五條天神社のあった場所を調べてみますと、現在はビルが建ち並んでいました。時代の移り変...名所江戸百景を訪ねて第12景「上野山した」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第11景 「上野清水堂不忍ノ池」

    名所江戸百景を訪ねて第11景「上野清水堂不忍ノ池」背景には不忍池を描き、近景には満開の桜を、中景には清水観音堂と松を描いています。上野清水堂清水観音堂は、上野恩賜公園内にあり、千手観音を祀っています。寛永8年(1631年)の建立されました。京都の清水寺本堂と同様の懸造建築です。不忍池不忍池(しのばずのいけ)は、東京都台東区にある上野恩賜公園にある天然の池です。周囲は約2㎞、全体で約11万㎡あります。現在の不忍池は、中央に弁財天を祀る弁天島(中之島)を配しています。名前の由来ですが、諸説ありますが、上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来すると言われています。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。上野清水堂の前で撮影してみました。作品とできるだけ同じ構図にな...名所江戸百景を訪ねて第11景「上野清水堂不忍ノ池」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十五の1 天の石屋・速須佐之男命の悪行

    古事記上つ巻現代語訳十五の1古事記上つ巻天の石屋・速須佐之男命の悪行書き下し文(天の石屋)尓して速須佐之男命、天照大御神に白したまはく、「我が心清く明かし。故、我が生らす子は手弱女を得つ。此れに因りて言さば、自ら我勝ちぬ」と云して、勝佐備に、天照大御神の営田の阿を離ち、其の溝を埋み、亦其の大嘗聞こし看す殿に屎麻理散らす。然為れども、天照大御神は登賀米受て告りたまはく、「屎如すは、酔ひて吐き散らすこそ我が那勢の命、それほど為つれ。また田の阿を離ち、溝を埋他のは、地を阿多良斯登許曽我が那勢の命、如此為つらめ」と詔り直したまへども、猶其の悪ぶる態止まずて転たあり。天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまふ時、其の服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女見驚きて、梭に陰上を衝きて死...古事記上つ巻現代語訳十五の1天の石屋・速須佐之男命の悪行

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十四の3 天照大御神と須佐之男命 宇気布・生まれた子を分ける

    古事記上つ巻現代語訳十四の3古事記上つ巻天照大御神と須佐之男命宇気布・生まれた子を分ける書き下し文(天照大御神と須佐之男命) 是に天照大御神、速須佐之男命に告りたまはく、「是の、後に生れし五柱の男子は、物実我が物に因りて成れり。故、自づから吾が子なり。先に生れし三柱の女子は、物実汝が物に因りて成れり。故、汝が子なり」と、如此詔り別けたふ。故其の、先に生れし神、多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す。次に市寸嶋比売命は、胸形の中津宮に坐す。次に田岐都比売命は、胸形の辺津宮に坐す。此の三柱の神は、胸形君等の以ち伊都久三前の大神なり。故、此の後に生れし五柱の子の中に、天菩比命の子、建比良鳥命、此は出雲国造、无邪志の国造、上菟上の国造、下菟上の国造、伊自牟の国造、津島の県直、遠江の国造等が祖なり。次に天津日子根命は、...古事記上つ巻現代語訳十四の3天照大御神と須佐之男命宇気布・生まれた子を分ける

  • 名所江戸百景を訪ねて 第10景 「神田明神曙之景」

    名所江戸百景を訪ねて第10景「神田明神曙之景」神田明神の早朝の一コマを描いています。近景三本の杉の木の間からは、近景右端に社殿の一部。そして、神主・巫女・下男(召使・仕丁)が東の空を眺めている姿が描かれています。茶屋のよしず張りと縁台が崖縁に並び、崖の向こうには、江戸の町が描かれ、柳原土手の柳並木が右端に描かれています。 神田明神神田神社は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社です。江戸の総鎮守です。 柳原土手東京都千代田区を流れる神田川の南岸、万世橋から浅草橋まで、柳の木が植えられていたことから柳原土手と呼ばれていました。江戸時代には、古着や古道具の露店風の店が並び、夜鷹も多くいました。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。えっ、何処?な写真ですよね。神田神社の駐車場あた...名所江戸百景を訪ねて第10景「神田明神曙之景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第9景 「筋違内八ツ小路」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第9景「筋違内八ツ小路」中央にある小屋は昌平橋のたもとの辻番所です。土手が切れているところが昌平橋で、遠景右側の台地上にあるのは神田明神です。近景に描かれている行列は、女乗物を中心とした大行列であることから、大名家の奥方の一行と思われます。神田神社神田神社は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社です。江戸の総鎮守です。 筋違内八ツ小路昌平橋と和泉橋との間、現在の東京都千代田区神田須田町一丁目の北部にあった、筋違門の内側は、八方に道が通じていたことから八ツ小路と呼ばれていました。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。作品に描かれた場所と方向とはちょっと違いますが、万世橋の袂より神田神社方向を撮影してみました。最後に作品を描いたであろうと思われる...名所江戸百景を訪ねて第9景「筋違内八ツ小路」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十三 天照大御神と須佐之男命

    古事記上つ巻現代語訳十三古事記上つ巻天照大御神と須佐之男命書き下し文(天照大御神と須佐之男命)故是に須佐之男命、言したまはく、「然あらば天照大御神に請して罷らむ」とまをす。天に参上りたまふ時、山川悉く動み、国土皆震ひぬ。尓して天照大御神聞き驚きて詔りたまはく、「我が那勢の命の上り来る由は、必ず善き心にあらじ。我が国を奪はむと欲ふのみ」とのりたまふ。、御髪を解き、御美豆羅に纏かして、左右の御美豆羅に、亦御かづらに、亦左右の御手に、各八尺の勾たまの五百津美須麻流珠を纏き持たして、曽毘良邇は千入の靫を負ひ、比良には五百入の靫を附け、亦伊都の竹鞆を取り佩かして、弓腹振り立てて、堅庭は向股に蹈み那豆美、沫雪如す蹶ゑ散かして、伊都の男建、蹈み建びて、待ち問ひたまはく、「何故にか上り来つる」と、とひたまふ。尓して速須佐...古事記上つ巻現代語訳十三天照大御神と須佐之男命

  • 名所江戸百景を訪ねて 第8景 「する賀てふ」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第8景「する賀てふ」通りの左右に店を構えるのは呉服商三井越後屋です。右側は「呉服物品々」とあり、絹製品を、左側は「組物糸類品々」とあり、綿・麻製品を扱っていました。駿河町(するがちょう)現在の東京都中央区日本橋室町の一部です。正面に駿河の富士が見えることから駿河町と呼ばれました。呉服商三井越後屋三井高利は伊勢から江戸に出て、1673年(延宝元年)越後屋三井呉服店(越後屋は後の三越です)を開業しました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。最後に室町二丁目の交差点より、日本橋三越本店と三井本館を撮影してみました。作品と同じ構図になるように撮影したいと思ったのですが、流石に道路のど真ん中から撮影する勇気はないので、妥協しました。別の角度からの日本橋...名所江戸百景を訪ねて第8景「する賀てふ」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十二 三貴子の分治

    古事記上つ巻現代語訳十二古事記上つ巻十二三貴子の分治読み下し文(三貴子の分治)此の時伊邪那岐命、いたく歓喜ばして詔りたまはく、「吾は子を生らし生らして、生らす終に、三の貴き子を得つ」とのりたまふ。其の御頸珠の玉の緒母由良邇取り由羅迦志て、天照大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は、高天原を知らせ」と事依さして賜ふ。故、其の御頸珠の名を、御倉板挙之神と謂ふ。次に月読命に詔りたまはく、「汝が命は、夜之食国を知らせ」と事依さしたまふ。次に建速須佐之男命に詔りたまはく、「汝の命は、海原を知らせ」と事依さしたまふ。故、各依さし賜へる命の随に、知らし看す中に、速須佐之男命、命させる国を治らずて、八拳須心の前に至るまで、啼き伊佐知伎。其の泣く状は、青山は枯山如す泣き枯らし、河海は悉に泣き乾しき。是を以ち悪ぶる神の音、狭...古事記上つ巻現代語訳十二三貴子の分治

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