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2020/12/06

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  • 名所江戸百景を訪ねて 第39景 「吾妻橋金竜山遠望」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第39景「吾妻橋金竜山遠望」画面全体に桜の花びらが舞っています。竹屋の渡し近くの隅田川の中ほどから、川の下流と金龍山浅草寺のある浅草方面を遠望しています。近景の屋形船に乗る芸妓と思われる女性の後ろ姿が描かれていますが、その相手の姿は描かれていません。遠景の中央には金龍山浅草寺の五重塔と本堂が見えます。遠景の左側、隅田川に架かる橋は吾妻橋です。その向こうには雪を頂く富士山の姿が描かれています。 金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)金龍山浅草寺は、東京都台東区浅草2丁目にある東京都内最古の寺です。推古天皇36年(628)、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が隅田川の漁撈中に、観音様の御尊像を感得しました。この像を拝した主人・土師中知(はじのなかとも)...名所江戸百景を訪ねて第39景「吾妻橋金竜山遠望」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第38景 「廓中東雲」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第38景「廓中東雲」新吉原の早朝、東の空がほんのりと明るくなってきた頃、花魁風の遊女が、客を見送る情景を描いています。絵の手前の通りは、仲之町の通りです。新吉原の中央にあった大通りでは、春には桜、秋には紅葉を一時的に移植し、特別な空間を演出していました。作品では桜が花開いています。吉原遊廓吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊郭です。はじめは江戸日本橋近くにありましたが、明暦の大火の後、浅草寺の裏の日本堤に移転しました。江戸日本橋近くにあった物を元吉原、浅草寺裏日本堤にあった物を新吉原と呼びました。 新吉原明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3000人の...名所江戸百景を訪ねて第38景「廓中東雲」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第37景 「墨田河橋場の渡かわら竃」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第37景「墨田河橋場の渡かわら竃」近景には今戸の竃が描かれ、その竃から立ち上がる黒煙がたなびいています。隅田川の船場の渡しを二艘の渡し船が行き交い、渡り鳥が水面で休み、また飛び交う姿が描かれています。今戸の対岸には中央右側には、水神社の森。船場の渡しが見えます。遠景の右側の桜は墨堤の桜です。薄紅色が横長に広がっています。遠景左側に見える山は筑波山です。 今戸竃東京の今戸や橋場とその周辺では、今戸焼(いまどやき)と呼ばれる素焼及び楽焼の陶磁器が焼かれていました。江戸時代から明治時代にかけて、日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産していました。言い伝えによりますと、天正年間(1573~1592)に生産が始まったといわれ、幕末期には今戸焼を生産する...名所江戸百景を訪ねて第37景「墨田河橋場の渡かわら竃」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第36景 「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第36景 「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」真崎稲荷の境内には茶屋や料理屋が並んでいました。その中でも有名なのが豆腐田楽で知られた甲子屋(きのえねや)です。この景色はその甲子屋の二階からの眺めであるといわれています。部屋に飾られているは大輪の白い椿の花。丸窓の外では、小さな花、白梅の花がほころんでいます。隅田川を挟んで対岸の中景の右側には水神社の鳥居が見えます。その左側には木母寺に至る内川が描かれ、その向こう側が関屋の里です。遠景には筑波山が描かれています。 真崎稲荷御祭神は、豊受姫神(とようけひめのかみ)東京都荒川区南千住にある神社です。江戸の流行り神として知られていました。天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤が、ここに一族一党の隆昌を祈り宮柱を築き、...名所江戸百景を訪ねて第36景「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第35景 「隅田川水神の森真崎」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第35景「隅田川水神の森真崎」八重桜を右側に大きく描いています。中景、右側に描かれている鳥居と社殿は隅田川の鎮守、水神社です。下方の道行く人々の先には、船場渡がありました。遠景の山は筑波山です。 水神社水神の森真崎には水神を祀る小社が古くからあり、特に舟運業にかかわる人々の信仰を集めていました。その水神社が、東京都墨田区にある隅田川神社の前身です。水神さんと親しまれてきました。周辺は東白鬚公園となっています。隅田川神社船場の渡し現在の白鬚橋付近にあった渡しです。「白髭の渡し」とも呼ばれました。歴史的に位置や名称に変遷はありましたが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古く、律令時代の承和2年(835年)の太政官符に「住田の渡し」と書かれたものが残っています。白鬚橋の完...名所江戸百景を訪ねて第35景「隅田川水神の森真崎」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第34景「待乳山山谷堀夜景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第34景「待乳山山谷堀夜景」隅田川の東岸、三囲神社の前から西側の真乳山と山谷掘を望んで描いた夜景図です。堤には、付き人の照らす提灯をたよりに歩く芸妓が描かれています。一説によりますと、この女性は広重がひいきにしていた芸妓・小万をモデルにしているといわれています。その女性の右側には桜の木が描かれ、葉桜がシルエットとして描かれています。夜空には星が瞬き、隅田川の水面には満点の星空が映し出されています。暗闇の中、光る西岸の明かりは、山谷掘の船宿、「竹屋」と「有明楼」です。こんもりとした緑の山は真乳山で、山谷掘に架かる今戸橋も見えています。 待乳山(まつちやま)待乳山は、待乳山聖天の周囲を指す地名です。台東区浅草七丁目付近にあたります。元来小高い山でしたが、日本堤を築くため...名所江戸百景を訪ねて第34景「待乳山山谷堀夜景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第33景 「四ツ木通用水引ふね」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第33景「四ツ木通用水引ふね」描かれた掘割は引舟川と呼ばれていました。曳舟は、舟を曳く動力が陸からの人力であるため、異色の交通機関として人気があり、江戸市中から下総、水戸方面へ行く、多くの旅人に利用されていました。この引舟川ですが、本来は真っ直ぐな川なのですが、広重はS字に蛇行させて描いています。陸路にはサッパ船という小舟に乗せた人を、土手から舳先につけた縄を引く船頭が描かれています。遠景に描かれている山々は、日光連山です。 曳舟川(ひきふねがわ)曳舟川は、東京都葛飾区から墨田区にかけての川筋で、舟に人を乗せて曳いた交通手段の曳舟に由来する川でした。曳舟川の名称が付けられた区間は、江戸期に開削された「葛西用水」や「亀有上水」の水路を利用しており、昭和4年、荒川放水路...名所江戸百景を訪ねて第33景「四ツ木通用水引ふね」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第32景 「柳しま」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第32景「柳しま」作品を縦に流れる川は、横十間川、横に流れるは、北十間川です。右手前に見える横十間川に架かる橋は、柳島橋。柳島橋のたもとにあるのは懐石料理で有名な料亭「橋本」です。赤い塀で囲まれているお堂は、法性寺の妙見堂です。中景、北北十間川の向こうに見えるのは、請地村の家々。遠景に霞んで見える山は、筑波山です。柳島現在の東京都墨田区から江東区にかけて存在していた地名です。柳島橋横十間川に架かる橋です。江戸時代には、又兵衛橋とも呼ばれていました。横十間川(よこじゅっけんがわ)東京都墨田区・江東区を流れる運河です。天神川や釜屋堀、横十間堀、横十間堀川ともよばれています。1659年に、徳山重政・山崎重政両名により開削されました。法性寺(ほっしょうじ)東京都墨田区業平5...名所江戸百景を訪ねて第32景「柳しま」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第31景 「吾嬬の森連理の梓」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第31景「吾嬬の森連理の梓」近景に描かれているのは北十間川です。その北十間川に二艘の猪牙船が浮かんでいます。一艘は釣り糸を垂れて釣りを楽しんでいます。桜が咲く土手のさき、画面右側中央には鳥居が描かれています。そこから参道が延びており、その参道には旗が連立しています。小橋を渡ると吾嬬の森連理の梓が見えます。一層、高くそびえる木が連理の梓と呼ばれた木です。その先には吾嬬大権現を祀る「吾嬬神社」の本殿が見えます。 北十間川(きたじっけんがわ)北十間川は、東京都を流れる川です。江戸時代初期に開削された運河です。名称は、本所の「北」を流れる、川幅が「十間」の川であることに由来します。 吾嬬の森連理の梓吾嬬の森は北十間川の北岸、現在の立花一丁目辺りにありました。明治43年(19...名所江戸百景を訪ねて第31景「吾嬬の森連理の梓」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第30景 「亀戸梅屋舗」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第30景「亀戸梅屋舗」ヴァン・ゴッホが模写したことで有名な作品です。近景には臥竜梅の幹を画面に大きく取り上げています。その幹から伸びた枝の先には白梅が花開いています。遠景には、梅を見ながら散策している人々、茶屋で休んでいる人々が描かれています。 亀戸梅屋舗江東区登録史跡梅屋敷跡亀戸3-40、50~53付近梅屋敷は、江戸時代にはから続く梅の名所でした。もとは本所埋掘(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、八代将軍徳川吉宗...名所江戸百景を訪ねて第30景「亀戸梅屋舗」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第29景 「砂むら元八まん」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第29景「砂むら元八まん」近景、右端の鳥居は元八幡社のものです。中景の水面は、東京湾、その東京湾を隔てた遠景は、房総半島の山並みです。砂村砂村新田は砂村新左衛門主導の下、砂村新四郎らが江戸時代初期の万治年間に開発されました。元八幡社現在の東京都江東区南砂七丁目にある富賀岡八幡宮です。奉斎されていた八幡神像が、寛永年間に深川の地に移され勧請されて富岡八幡宮になったことから、「元八幡宮」とも呼ばれています。享保年間(1716~1735年)には、境内・参道に3万本の桜や松が植えられ、江戸中期・末期には江戸の郊外の景勝地でした。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。最後にかつては、海岸線のすぐそばにあり、房総半島まで見ることができた本八幡宮。現...名所江戸百景を訪ねて第29景「砂むら元八まん」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第28景 「品川御殿やま」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第28景「品川御殿やま」北品川の西側にあった御殿山を描いています。将軍吉宗がこの地に桜を植えさせてから桜の名所となっていましたが、御殿山は、御台場を築くため、削り取られてしまいました。作品は削られたその後を描いています。 御殿山北品川の西側にある高台ですが、現在では山の地形はかなり失われています。高級住宅地として知られているものの、住居表示上に御殿山という地名はなく、現在の東京都品川区北品川3~5丁目にあたります。御殿山橋御殿山通り御殿山公園 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。 作品が描かれた場所は、現在、病院や学校などが建っています。そこで、最寄りの御殿山公園で撮影してみました。最後に描かれた場所を訪れてみますと、山というより、丘...名所江戸百景を訪ねて第28景「品川御殿やま」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第27景 「蒲田の梅園」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第27景「蒲田の梅園」近景右側には山駕籠が描かれています。咲き誇る梅の花が描かれ、その背後には石碑が描かれています。中景の左側には池が描かれています。 梅屋敷の歴史蒲田のあたりは、上からの締め付けが強く、増税に悩んでいた農民たちが副業として始めたことがきっかけです。農家は梅の実が欲しかったのですが、近くの大師河原・川崎大師に行く人や、神奈川へ行く人、江の島へ行く、江戸の人々が、この花を褒めたたえ惹かれるようになったといいます。 聖蹟蒲田梅屋敷公園(せいせきかまたうめやしきこうえん)江戸時代に薬屋を営んでいた山本久三郎が、文政年間に和中散(道中の常備薬)の売薬所の敷地3000坪に梅の木数百本と花木を植え、東海道の休み茶屋と作ったことに始まります。当時は梅の名所として多...名所江戸百景を訪ねて第27景「蒲田の梅園」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第26景 「八景坂鎧掛松」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第26景「八景坂鎧掛松」天祖神社の高台から海岸を見下ろした風景を描いています。画面中央には「鎧掛松」と呼ばれた松が大きく描かれています。中景の左側の集落は品川宿。海岸線に描かれた松は、東海道の松並木です。遠景には房総半島の山々が描かれています。 八景天祖神社八景天祖神社は、東京都大田区にある神社です。かつては「神明社」という名称でした。 八景坂(はっけいざか)大田区文化財八景坂今でこそゆるやかな坂道であるが、昔は相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む薬研の溝のようだったところから、別名薬研坂と呼ばれた。この坂の上からは、かつて大森の海辺より遠く房総まで一望でき、この風景を愛した人たちにより「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘...名所江戸百景を訪ねて第26景「八景坂鎧掛松」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第25景 「目黒元不二」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第25景「目黒元不二」近景の松が生えているところは目黒元富士です。中景は富士塚の下の茶屋で休む人々が描かれています。遠景は目黒川の向こうには田や畑が広がっており、その向こうには丹沢山塊。遠景左側には雪を頂いた真っ白な富士山が描かれています。 目黒元富士目黒富士(めぐろふじ)は、かつて東京都目黒区上目黒・中目黒に存在した江戸時代の富士塚です。元富士は、1812年(文化9年)に上目黒「目切坂」の上に、富士講団体「山正広講」が築いたもので、丸旦山とも呼ばれました。高さ12m。山頂には浅間神の石祠がありました。旧暦6月に山開きが行われると、参詣客で賑わったといいます。  描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。 渋谷区にある朝倉邸の二階より、かつ...名所江戸百景を訪ねて第25景「目黒元不二」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第24景 「目黒新富士」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第24景「目黒新富士」近景に描かれている水の流れは、三田用水です。用水の畔の桜は満開になっており、人々が花を愛でる姿が描かれています。中景に描かれているのが、目黒新富士塚。富士塚の向こうには目黒の田園風景が続いています。遠景の富士山は残雪が残っています。 目黒新富士北方を探検した幕臣・近藤重蔵が、1819年(文政2年)に中目黒「別所坂」上の別邸内に造らせました。上目黒の元富士と区別して「新富士」のほか、「東富士」「近藤富士」とも呼ばれました。1959年(昭和34年)に破壊され、今は残っていません。 三田用水起源は、江戸の六上水のひとつである三田上水です。1664年(寛文4年)に開削され、玉上水を下北沢村から分水して、代々木、渋谷、目黒、大崎、白金付近まで開渠で導き、...名所江戸百景を訪ねて第24景「目黒新富士」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第23景 「目黒千代か池」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第23景「目黒千代か池」かつて、肥前島原藩(長崎)松平主殿頭の別荘に千代が池と呼ばれる池がありました。作品ではこの千代が池を描いています。右端には段をなして流れ落ちる滝が描かれています。池の畔には桜の木が植えられ、滝と花を愛でているのでしょうか、二人の女性が描かれています。 千代が池南北朝時代の武将・新田義興の侍女・千代にまつわる伝説が名前の由来です。義興の死を知った千代がこの池に身を投じたことから、千代を哀れんで人々が、この池を千代が池と呼ぶようになったといいます。千代が池は、東京都教職員研修センター(目黒区目黒一丁目1番)の構内に昭和十年ごろまで、わずかに残っていたといわれていますが、現在はありません。  描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ね...名所江戸百景を訪ねて第23景「目黒千代か池」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第22景 「廣尾ふる川」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第22景「廣尾ふる川」画面に流れる川は古川です。その川に架けられている橋は「四之橋」(相模殿橋)。左側に描かれている、二階屋の料理屋は、当時、江戸で知られた有名店「尾張屋」という鰻屋です。そして遠景に広がる野原が「慶尾の原」です。広尾の原には、葭簀張(よしずばり)の茶屋が点在しています。 広尾の原天保7年(1836年)の『江戸名所図会』の挿絵「広尾原(ひろをはら)を見ますと、すすきの生い茂った野の道を、馬に乗ったり引いたりする農夫たちと、野遊びを楽しむ男女の行き交う有様が、描かれています。かつてはツクシがたくさん生えていたことから「土筆ケ原(つくしがはら)」と呼ばれていました。 古川渋谷川・古川は、渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2.6㎞を渋谷川、港区内の天現寺橋か...名所江戸百景を訪ねて第22景「廣尾ふる川」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第21景 「芝愛宕山」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第21景「芝愛宕山」愛宕山の正月行事・強飯式(ごうはんしき)を描いています。画面中程には築地本願寺の大屋根が際立っています。愛宕神社の朱色の社殿が左端に描かれ、そこに儀式では女坂の上の愛宕屋という茶屋の主人が「毘沙門の使」に扮して、麻の着物に長い太刀を差した上に摺り子木を差し添えて、大きなしゃもじを杖に突いて現れています。愛宕山東京都港区愛宕にある標高25・7mの丘陵です。天然の山としては東京23区内最高峰です。愛宕神社愛宕神社(あたごじんじゃ)は、東京都港区愛宕1丁目にあります。自然に形成された山である愛宕山の山頂にあります。参道の石段は、曲垣平九郎誉れの出世石段として有名です。強飯式(ごうはんしき)愛宕神社では、正月三日に行われていました。毘沙門天の使いに扮し...名所江戸百景を訪ねて第21景「芝愛宕山」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第20景 「川口のわたし善光寺」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第20景「川口のわたし善光寺」荒川の流れを描いています。秩父の材木が筏で、千住宿付近の材木問屋まで運ばれていくようすが描かれています。手前の茶屋は岩淵宿側の土手の茶屋です。対岸の赤い社殿は川口の善光寺です。 善光寺善光寺(ぜんこうじ)は、埼玉県川口市にある真言宗智山派の寺院です。江戸時代には、「日本三大善光寺」の一つとされ、大いに賑わいました。 荒川荒川(あらかわ)は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ河川です。川幅は、埼玉県鴻巣市吉見町の御成橋(おなりはし)付近で2537mになり、日本最大となっています。 川口の渡し荒川を渡り、川口宿に向かう渡船場です。将軍が日光社参の際、荒川を渡り川口宿の渡船場を「川口の渡し」呼んでいました。 描かれた場所は現在どのようにな...名所江戸百景を訪ねて第20景「川口のわたし善光寺」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第19景 「王子音無川堰埭世俗大滝ト唱」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第19景「王子音無川堰埭世俗大滝ト唱」この作品は、音無川左岸の高台から、石堰と桜が満開の飛鳥山を描いています。堰の左側上流には王子権現別当寺、金輪寺が見えています。左側の茶屋が見えているところは、飛鳥山です。 石神井川(音無川)石神井川(しゃくじいがわ)は、東京都小平市花小金井南町を源を発し、東京都を流れる一級河川です。荒川水系の支流の一つです。王子付近を流れる石神井川は、「音無川」と呼ばれ、景勝地でした。 金輪寺金輪寺(きんりんじ)は、東京都北区岸町一丁目にある真言宗霊雲寺派の寺院です。近隣の王子神社および王子稲荷神社の別当を務め、江戸時代には徳川将軍家の御膳所にもなっていました。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。音無橋の側で撮...名所江戸百景を訪ねて第19景「王子音無川堰埭世俗大滝ト唱」

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