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2020/12/06

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  • 名所江戸百景を訪ねて 第69景 「浅草川大川端宮戸川」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第69景「浅草川大川端宮戸川」画面左に柳橋の有名料亭「万八楼」があることから、柳橋付近を描いたものと推定されます。左は神田川の河口に位置した柳橋の料亭、八万楼。対岸は百本杭と御蔵橋。遠景に描かれている山は筑波山の双耳峰です。左手前と右には大山詣での一団が描かれています。御幣を束にした梵天を掲げた彼らは両国橋東詰(画面右)の水垢離場(みずごりば)で身を清め、右の一団は左の神田川河口にある柳橋の船着き場を目指しました。柳橋は、神田川が隅田川に流入する河口部にあり、周囲に料亭や船宿が建ち並んでいました。 大山詣り神奈川県伊勢原市にある大山は古代より信仰の対象となっており、「大山詣り」として、江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人もの参拝者が訪れたと言われています。「...名所江戸百景を訪ねて第69景「浅草川大川端宮戸川」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第68景 「みつまたわかれの淵」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第68景「みつまたわかれの淵」この作品は、旧新大橋やや下流から隅田川の右岸を描いています。隅田川が画面中央の葦の生える中洲で二股に分かれ、さらに画面奥の箱崎川で三又となることから「三俣」と呼ばれました。「わかれの淵」と呼ばれる由来は、隅田川と箱崎川の分れ流れるところという説と、江戸湾の塩水と川の真水の分かれ目であるからという説などがあります。正面のやや左に描かれている橋は東京都中央区日本橋蠣殻町と日本橋箱崎町との間にかかっていた橋、永久橋です。その左には箱崎にあった田安家屋敷です。右側の朱塗りの門は堀田備中守、あるいは安藤長門守の屋敷と思われます。隅田川には、米俵、酒樽、木綿を積んだ荷船が描かれ、猪牙船や釣船も遠くに見えています。 隅田川の中洲明和8年(1771年)...名所江戸百景を訪ねて第68景「みつまたわかれの淵」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第67景 「外桜田弁慶堀糀町」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第67景「外桜田弁慶堀糀町」桜田門辺りから、弁慶掘を望んだ作品です。左側中央の赤い門と白壁の屋敷は近江彦根藩井伊家の上屋敷。その右は、三河田原藩三宅家の上屋敷。その右隣が、播磨明石藩松平家の上屋敷です。遠景の火の見櫓が建つ屋敷は定火消お屋敷です。弁慶掘江戸時代に江戸城警護のために作られた外堀の一つ、現在の桜田掘です。桜田門(さくらだもん)江戸城の内堀に造られた門の一つです。造られた当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていました。寛永13年(1636年)にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ぶようになりました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。桜田門付近で桜田堀を撮影してみました。最後に武家屋敷のあった...名所江戸百景を訪ねて第67景「外桜田弁慶堀糀町」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第66景 「糀町一丁目山王祭ねり込」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第66景「糀町一丁目山王祭ねり込」半蔵門の南側から、桜田掘越しに半蔵門を望んだ作品です。山王祭の山車の行列を描いています。糀町東京都千代田区の地名です。徳川家康の江戸城入城後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人地が形成されました。麹町は、江戸の山の手を代表する人口密集地域であり、山王祭の時は、行列が四谷見附から半蔵門を通って将軍の上覧を経て竹橋に抜けるコースを取り、麹町からは唐人行列や、巨象の作り物が出されていました。山王祭(さんのうまつり)東京都千代田区にある日枝神社の祭です。正式名称は「日枝神社大祭」。江戸三代祭りの一つともされています。元和元年(1615年)には、祭りの山車や神輿が江戸城内に入ることが許され、将軍の上覧を許されるように...名所江戸百景を訪ねて第66景「糀町一丁目山王祭ねり込」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第65景 「角筈熊野十二社俗称十二そう」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第65景「角筈熊野十二社俗称十二そう」境内の西方にあった古池を大きく描き、近景の左隅に本社を描いています。神社の境内には大きな滝があり、隣接して十二社池と呼ばれていた大小二つの池があり、江戸近郊の景勝地として知られていました。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並んでいました。新宿十二社熊野神社新宿十二社熊野神社は、東京都新宿区西新宿2丁目にある神社です。新宿中央公園に鎮座しています。新宿総鎮守です。 角筈角筈(つのはず)は、かつて東京都新宿区にあった地名です。現在は、西新宿、歌舞伎町および新宿の一部となっています。 新宿区立新宿中央公園東京都新宿区西新宿二丁目にある新宿区立の都市計画公園です。常時開園しており、入場料は無料となっています。元々は熊野神社の...名所江戸百景を訪ねて第65景「角筈熊野十二社俗称十二そう」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第64景 「水道橋駿河台」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第64景「水道橋駿河台」本郷台地の方から駿河台の武家屋敷を眺め渡す景色です。両面手前には、御茶ノ水に至る道が描かれています。右下に架かっている橋は水道橋。御茶ノ水に至るその坂の途中には、初節句の贈り物「上り兜」を持ち運ぶ若い男性の姿が、神田川を渡る水道橋の上には、乗馬の武士とその一行が描かれています。手前に大きな鯉のぼりが描かれ、右奥にも二匹の鯉のぼりが次第に小さく描かれています。左端には江戸城の一端も描かれています。当時の小川町は、武士の屋敷が密集している地帯でした。眼下に広がる武家屋敷の端午の節句を祝う、吹き流しや鐘馗(しょうき)の幟(のぼり)は、男児の健やかな成長を願う武家の習慣です。松が植えられた土手は神田川拡張工事の残土を盛り上げたものです。 水道橋東京都...名所江戸百景を訪ねて第64景「水道橋駿河台」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第63景 「八ツ見のはし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第63景「八ツ見のはし」八つの橋が見えたことから「八ツ見はし」と呼ばれました。前景右には、柳の木が大きく描かれています。前面には外堀の水路が広がっています。奥に流れるのは、道三堀で、そこに架かる橋が、一番手前は、「銭瓶橋」、その奥に「道三橋」が見えます。中景には江戸城が描かれ、左端に富士山が描かれています。一石橋(いちこくばし)東京都中央区にて日本橋川に架かる橋です。一石橋は、常磐橋・呉服橋・鍛治橋・一石橋・日本橋・江戸橋・銭瓶橋・道三橋が見渡せたことから「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれていました。銭瓶橋・道三橋かつて道三堀に架けられていた橋です。現在は道三堀が埋め立てられ、その姿を見ることはできません。かつて銭瓶橋があった辺り道三堀(どうさんぼり)天正18年(15...名所江戸百景を訪ねて第63景「八ツ見のはし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第62景 「利根川ばらばらまつ」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第62景「利根川ばらばらまつ」作品中央に流れる川は、利根川。その下流で営まれている漁を描いています。大きく描かれた投網は、鯉を捕まえるものだと思われます。左側、松が生えている島は、妙見島です。利根川利根川とは現在の江戸川のことです。江戸川(えどがわ)は、関東地方を流れる一級河川で、利根川水系、利根川の分流です。妙見島(みょうけんじま)旧江戸川にある島です。最古の記録は南北朝時代。島に妙見堂が建立された記録があります。江戸時代には、島の北は行徳船の航路となっていました。また、南総里見八犬伝の舞台としても登場しています。かつては、構図のようなばらばら松があったようですが、現在はありません。現在、島の周囲は護岸工事が行われ、コンクリートで覆われています。描かれた場所は現在...名所江戸百景を訪ねて第62景「利根川ばらばらまつ」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第61景 「中川口」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第61景「中川口」船番所の上から南東、船堀川方向を望んでいます。手前が小名木川で、左下に番所の屋根が見えます。交差するのは中川で、右手が南、河口方面です。小名木川の延長上にあるのが船堀川です。この地は三つの川が合流する重要な場所であるため、番所が設けられました。ここを通る舟を監察したといいます。 中川番所江戸幕府が武蔵国中川口に設けた番所です。江戸-行徳間を往来する船の取り調べを行いました。 旧中川・川の駅「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ江戸最初の運河・小名木川が開かれました。天正18年(1590)江戸に城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸に運ぶために開いとたされ...名所江戸百景を訪ねて第61景「中川口」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第60景 「深川八まん山ひらき」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第60景「深川八まん山ひらき」江戸深川富岡八幡宮の別当寺・永代寺の山開き(庭園開放)の様子が描かれています。永代寺の林泉は、通常公開はされていませんでした。しかし、弘法大師の命日の法会「御影供(みえく)」が行われる3月21日から3月28日まで、山開きと称して、林泉を開いて、一般に見物を許していました。 永代寺1624年(寛永元年)、長盛の開山により永代島に創建されました。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄えましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となりました。跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになっています。当地の地名、門前仲町はこの旧永代寺の門前という事で名付けられました。深川不動尊 成田山東京別院深川不動堂(なりたさんとうきょうべついんふかがわふどうどう)は...名所江戸百景を訪ねて第60景「深川八まん山ひらき」

  • ねこ日記と主のつぶやき おめでとう!

    久しぶりの猫日記です。先日8月15日は、タケちゃんの3歳の誕生日(タブンネ)でした。タケちゃんは、8月の23日に関東の某所の道路にて兄弟猫とともに保護されました。その後、譲渡会に参加したタケちゃん。シャム系のねこちゃんと暮らしたい、と思っていたワイは、すぐさま里親に応募し、晴れて家族となりました。おまけうちにタケちゃんがやってきた日の様子ノブさんの、『なんじゃこりゃ〜』って表情がたまらない。この頃は、毛が白くてフワフワだった。1歳の頃のタケちゃんだいぶ、毛色が濃くなってきました。2歳の頃のタケちゃん。かなり毛色が濃くなりましたね。あっという間の3年間。お利口さんで、可愛いタケちゃん。これからもよろしくね。通信・ノブさんも元気ですよ〜それでは、また。ご訪問ありがとうございました。ランキングに参加中。励みにな...ねこ日記と主のつぶやきおめでとう!

  • 名所江戸百景を訪ねて 第59景 「逆井のわたし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第59景「逆井のわたし」中川にある坂井の渡し場が画面の奥に描かれています。近景の中川の州には三羽の白鷲が描かれ、更に二羽の白鷲が舞い降りてくる瞬間を描いています。遥か遠景の山々は、房総の山並み。この地が坂井と呼ばれたのは、江戸湾が満潮になると水がこの辺りまで逆流したことによるといいます。 坂井の渡し跡坂井の渡し跡亀戸9-12~江戸川区坂井の渡しは、江戸時代から明治時代初期まで中川にあった渡しで、亀戸村と西小松川村(江戸川区)を結んでいました。もとは坂井村(西小松川村の北隣り)と亀戸村を結んでいたため、坂井の渡しと称されました。この場所は、万治2年(1659)に開削された堅川の北岸沿いに通る佐倉道と中川の合流点であり、江戸と下総方面とをつなぐ交通の要所でした。川幅は4...名所江戸百景を訪ねて第59景「逆井のわたし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第58景 「亀戸天神境内」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第58景「亀戸天神境内」満開の藤の花を前面に描き、背景の中央に描かれているのは亀戸天神社の太鼓橋です。大きさの規模から察すると男橋と思われます。藤の花の位置と松の木は中の島にあることから、この作品は東側から男橋を描いたと思われます。空の色から察すると、朝焼けそれとも夕焼けでしょうか。亀戸天神亀戸天神社は、東京都江東区亀戸にある神社、東京十社の一つです。下町の天神さまとして広く知れわたり多くの人々に親しまれている神社です。春は「梅の花」と「藤の花」、秋は「菊の花」とまさに「花の天神様」と呼ばれています。描かれた場所は、現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。亀戸天神社の太鼓橋・男橋を撮影してみました。百景と現在の写真を並べて見ますと、藤の木の幹が明らかに...名所江戸百景を訪ねて第58景「亀戸天神境内」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第57景「堀切の花菖蒲」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第57景「堀切の花菖蒲」この作品は、前景に19世紀に開発されたと思われる花菖蒲が丹念に描かれ、水辺を挟み中景では江戸からやってきた観光客が描かれています。そして遠景には松が描かれています。堀切の菖蒲江戸時代、堀切の地に観光名所として花菖蒲園が誕生し、以来、この地域にいくつかの花菖蒲園が栄えました。堀切の菖蒲の始まりには2説あります。・室町時代、堀切村の地頭・久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じ、陸奥国郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて栽培を始めた。・江戸時代、百姓の小高伊左衛門が趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まり。以上の2つの説です。現在の堀切菖蒲園  現在の堀切菖蒲園は、戦後唯一復興を果たした「堀切園」の一部が母体となっています。1959年、堀切園を東京...名所江戸百景を訪ねて第57景「堀切の花菖蒲」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第56景 「駒形堂吾嬬橋」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第56景「駒形堂吾嬬橋」曇り空にはホトトギスが飛んでいます。近景、左端には駒形堂、右端には材木が描かれています。中景左端には吾嬬橋が描かれています。中央にたなびく赤い旗は、白粉や紅などの化粧品を売る小間屋「紅屋百助」の旗と思われます。 吾嬬橋吾妻橋(あづまばし)は、隅田川に架かる橋です。西岸は台東区雷門二丁目、東岸は墨田区吾妻橋一丁目。「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所に、1774年(安永3年)に創架された橋です。江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋で、その後幾度かの架け替えが行われたとされています。名前については、初めは隅田川が「大川」と呼称されていたのにちなみ「大川橋」と呼ばれていましたが、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へ通じる道で...名所江戸百景を訪ねて第56景「駒形堂吾嬬橋」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第55景 「浅草川首尾の松御厩河岸」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第55景「浅草川首尾の松御厩河岸」 松の下に描かれているのは屋根舟です。舳先に二足の履物が置かれています。摺りによっては簾に女性の姿がうっすら映っているものもあります。奥に描かれているのは、御厩河岸と対岸の本所石原を結ぶ御厩の渡しです。季節は夏。満天の星が描かれています。 屋形船の歴史平安時代からその原型はあり、貴族の遊びに使用されていました。江戸時代に入ると河川整備が進み、豪商や有力大名が自前の船で盛んに遊覧するようになりました。船も大型のものになり、造りも豪華になっていきました。明暦の大火後に一時、鎮静化しますが、江戸の街が立ち直ると再び贅を尽くした絢爛豪華なものになっていきました。この時期になると、屋形船は武家のみが使用することができ、一般の庶民は乗船すること...名所江戸百景を訪ねて第55景「浅草川首尾の松御厩河岸」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第54景 「両国橋大川ばた」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第54景「両国橋大川ばた」両国橋から下流の霊岸島あたりまで東岸(画面の対岸)を大川端といいました。隅田川右岸から両国橋を臨んだ場所が描かれています。 隅田川右岸、西両国広小蕗の南から、手前は西岸の広小路にあった水茶屋が描かれ、よしず張りの小屋の屋根を隔てて中央に両国橋、対岸に百本杭が見えます。 その後ろには伊勢津藩藤堂家下屋敷蔵。 さらに上流の隅田川東岸の御米蔵に出入りする水路に架かる御蔵橋が見えます。橋の上は通行人が、川には屋根船、猪牙船、荷船などで賑わっている様子が描かれています。両国橋両国橋(りょうごくばし)は、隅田川にかかる橋で、国道14号(靖国通り・京葉道路)を通しています。西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結んでいます。両国橋は流...名所江戸百景を訪ねて第54景「両国橋大川ばた」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第53景 「大はしあたけの夕立」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第53景「大はしあたけの夕立」描かれている橋は新大橋です。遠景に、将軍の御座船や唐船などが繋がれていた幕府の御船蔵が並んでいるので、浜町側下流から隅田川を隔てて北東を描いていると推定できます。橋の上には、突然の夕立に筵(むしろ)を被った男性が足早に駆ける姿や、三人で一つの傘に入る男性たちや、あるいは傘をすぼめた女性姿が描かれています。この作品は、隅田川の対岸に二艘の船を摺ったものと、無いものがあります。 新大橋新大橋は、隅田川にかかる橋で、西岸は現・中央区日本橋浜町2・3丁目、東岸は現・江東区新大橋1丁目です。最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)、隅田川3番目の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名付けられました。当時の橋は現在の...名所江戸百景を訪ねて第53景「大はしあたけの夕立」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第52景 「深川萬年橋」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第52景「深川萬年橋」描かれている場所は、現在の萬年橋の中央と思われます。手前のに描かれている黄色い枠は手桶、後ろの茶色い部分は橋の欄干です。この作品は放生会を描いたもので、江戸では亀や鯉などを繁殖し、橋のたもとで売る商売がありました。萬年橋では「亀は萬年」に因んで亀売りがいたようです。遠景には富士山が描かれています。 放生会(ほうじょうえ)放生会(ほうじょうえ)とは、仏教の殺生戒の思想に基づいて行われる、鳥獣や魚を放つ行事です。供養のために、捕らえた魚や鳥などの生き物を池や野に放してやる法会です。日本では、天武天皇5年(677年)に諸国に行わせたとありますが、養老4年(720年)、宇佐八幡宮で行われたのが初例のようです。旧暦8月15日に行われた京都の石清水八幡宮の...名所江戸百景を訪ねて第52景「深川萬年橋」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第51景 「佃しま住吉の祭」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第51景「佃しま住吉の祭」画面中央には島の海岸に立てられた「住吉大明神」と書かれた大幡が描かれています。この作品は、住吉神社で6月に行われていた夏祭りの様子を描いています。中景には、大勢の男衆が神輿を担ぎ、佃島の浅瀬を一周する、神輿の海中渡御の様子が描かれています。遠景には、左手から深川、新田、房総半島の山々が描かれています。佃島東京都中央区の地名です。佃島は慶長7年(1602年)、摂津国佃村と大和田村からの34人の入植を契機とし、正保元年(1644年)に隅田川河口・鉄砲洲の干潟の100間四方を埋め立てて作られた漁村が始まりです。住吉神社住吉神社は、東京都中央区佃にある神社です。社前が諸国の廻船が多く通る湊であったので、海運業、各問屋組合からも信仰を集めました。描か...名所江戸百景を訪ねて第51景「佃しま住吉の祭」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第53景 「増上寺塔赤羽根」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第53景「増上寺塔赤羽根」増上寺の五重塔の上部二層が作品の右側に、大きく描かれています。作品の中央に流れる川は、古川。その川に架かる橋が赤羽橋です。古川の左側の築地塀は、久留米藩主有馬家上屋敷で、邸内には江戸で最も高い火の見櫓があり、六本の幡の下には水天宮がありました。 増上寺増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院です。浄土宗の七大本山の一つです。将軍徳川家の菩提寺です。 古川渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2.6kmを渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4.4kmを古川と呼ばれています。本川(宮益橋)の上流域と支川は、すべて暗渠構造で下水道化されており、本川の稲荷橋の下流から開水路となり、JR浜松町付近で東京湾に注いでいます。 赤羽橋東...名所江戸百景を訪ねて第53景「増上寺塔赤羽根」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第119景 「赤坂桐畑雨中夕けい」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第119景「赤坂桐畑雨中夕けい」この作品は、二代目広重の作品であると明記されています。二代目広重は、北の方角を望んで描いています。赤坂溜池溜池交差点や「溜池山王」駅の由来になったことで知られる溜池付近には、かつて大きな溜池がありました。元々は湧き水でしたが、堤を作り水を貯めるようにしたため、この名があります。その池は、形から別名「ひょうたん池」とも呼ばれていました。江戸時代初期になると、この溜池は江戸城の外堀としても利用していました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。山王日枝神社国旗掲揚台と鳥居が見える辺りを撮影してみました。最後に初代広重が描いた赤坂桐畑と二代目広重の描いた赤坂桐畑。並べてみますと、初代の構図が斬新だったのかがよく...名所江戸百景を訪ねて第119景「赤坂桐畑雨中夕けい」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第52景 「赤坂桐畑」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第52景「赤坂桐畑」手前に桐の木を二本描いています。広い水面は溜池です。左側の鬱蒼と生い茂る木々は日枝神社の丘です。赤坂溜池溜池交差点や「溜池山王」駅の由来になったことで知られる溜池付近には、かつて大きな溜池がありました。元々は湧き水でしたが、堤を作り水を貯めるようにしたため、この名があります。その池は、形から別名「ひょうたん池」とも呼ばれていました。江戸時代初期になると、この溜池は江戸城の外堀としても利用していました。日枝神社日枝神社は、東京都千代田区永田町にある神社です。江戸三大祭のひとつ、山王祭りが有名です。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。山王下交差点にて撮影してみました。街灯の柱を桐の木に見立ててみました。(無理やり〜)最...名所江戸百景を訪ねて第52景「赤坂桐畑」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第49景 「王子不動之滝」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第49景「王子不動之滝」王子不動之滝は、正受院本堂の裏から坂道を下った石神井川に切り立った崖にありました。本作品はそのを描いています。正受院正受院(しょうじゅいん)は、東京都北区滝野川二丁目にある浄土宗の寺院です。水こや赤ちゃんを供養する納骨堂があることから、「赤ちゃん寺」とも呼ばれています。 王子不動の滝不動の滝跡正受院本堂裏所在王子七滝の一つ、「不動の滝」は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峡から坂道を石神井川に下った所にありました。『江戸名所図会』は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として峭壁に趨(はし)る、此境は常に蒼樹蓊欝として白日をさゝえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり...名所江戸百景を訪ねて第49景「王子不動之滝」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十六 大気津比売神・蚕と穀物の種

    古事記上つ巻現代語訳十六古事記上つ巻大気津比売神・蚕と穀物の種書き下し文又食物を大気津比売神に乞ひたまふ。尓して大気津比売、鼻口及尻より、種種の味物を取り出して、種種作り具へて進る時に、速須佐之男命、其の態を立ち伺ひて、穢汚して奉進ると為ひ、其の大宜都比売神を殺したまふ。故、殺さえし神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生る。故是に神産巣日御祖命、、これを取らしめて、種と成したまふ。現代語訳また食物を大気津比売神(おおげつひめのかみ)に乞いました。しかして、大気津比売は、鼻口、及び尻より、種種の味物(うましもの)を取り出して、種種、作りたてまつる時に、速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、その態を立ち伺って、穢汚(わいお)して、すすめ...古事記上つ巻現代語訳十六大気津比売神・蚕と穀物の種

  • 名所江戸百景を訪ねて 第47景 「昌平橋聖堂神田川」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第47景「昌平橋聖堂神田川」画面、流れる川は神田川。近景、右端には昌平橋の欄干がわずかに描かれています。船が留めてある場所は、昌平河岸です。正面に見える坂は相生坂で、練塀の奥は聖堂の木立です。 昌平橋(しょうへいばし)東京都千代田区にある、神田川に架かる橋です。最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624~1645年)と伝えられています。名の由来は、元禄4年(1691)徳川将軍綱吉が湯島に聖堂を造営し、孔子の故郷である中国の魯の国昌平郷にちなみ、昌平橋と命名されました。江戸時代には水害で度々流されています。現在の橋は、昭和3年(1928年)に架けられたものです。 湯島聖堂湯島聖堂は、東京都文京区湯島一丁目にある史跡です。江戸時代の元禄3年(1960年)、江戸幕府5代将...名所江戸百景を訪ねて第47景「昌平橋聖堂神田川」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十五の2 天の石屋・神々の議り(ゆる~っと訳)

    古事記上つ巻現代語訳十五の2古事記上つ巻天の石屋・神々の議り現代語訳(ゆる~っと訳)こういうわけで、八百万の神々は、天安の河原に集まり集まって、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子、思金神(おもいかねのかみ)に思案をさせて、常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせ、天安河の川上の質の堅い石と、天の金山の鉄を材料として取り、鍛冶の天津麻羅(あまつまら)を探し求め、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に命じて、鏡を作らせ、玉祖命(たまのおやのみこと)に命じて、八尺の勾玉が数多く連ねた玉緒を作らせ、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとだまのみこと)を呼びよせ、天の香山のオスの鹿の肩甲骨を抜き取って、天の香山の天のウワミズザクラでそれを焼き、占いをさせました。天の香山の枝葉が多く茂っている...古事記上つ巻現代語訳十五の2天の石屋・神々の議り(ゆる~っと訳)

  • 名所江戸百景を訪ねて 第46景 「鎧の渡し小網町」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第46景「鎧の渡し小網町」小網町に立ち並ぶ蔵を描いています。右側の茅場河岸には傘を差した若い女性が描かれています。川面には何種もの舟が描かれています。鎧の渡し鎧の渡し跡所在地中央区日本橋小網町八・九番地日本橋茅場町一丁目一番・日本橋兜町一番鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。古くは延宝七年(一六七九)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や他誌類にも多く記されています。伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(一〇四六~五三)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪に会い、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われていま...名所江戸百景を訪ねて第46景「鎧の渡し小網町」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十五の4 天の石屋・天照大御神、外に出る。建速須佐之男命の追放

    古事記上つ巻現代語訳十五の4古事記上つ巻天の石屋天照大御神、外に出る。建速須佐之男命の追放書き下し文是に天照大御神、怪しと以為ほし、天の石屋戸を細めに開きて、内より告りたまはく、「吾が隠り坐すに因りて、天の原自ら闇く、亦葦原中国も皆闇けむと以為ふを、何に由りて、天宇受売は楽を為、亦八百万の神も諸咲ふ」とのりたまふ。尓して天宇受売白言さく、「汝命に益して貴き神坐す。故、歓喜び咲ひ楽ぶ」とまをす。かく言ふ間に、天児屋命、布刀玉命、其の鏡を指し出し、天照大御神に示せ奉る時に、天照大御神、いよいよ奇しと思ほして、やくやく戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男神、其の御手を取り引き出しまつる。即ち布刀玉命、尻久米縄をもち其の御後方に控き度し白言さく、「此れより内に還り入るを得じ」とまをす。故、天照大御神出...古事記上つ巻現代語訳十五の4天の石屋・天照大御神、外に出る。建速須佐之男命の追放

  • 名所江戸百景を訪ねて 第44景 「日本橋通一丁目略図」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第44景「日本橋通一丁目略図」右側の店は、呉服商の「白木屋」、蕎麦屋の「東喬庵(とうきょうあん)」が順に描かれています。作品の中央に描かれている、人物達は、大道芸住吉踊りの一行です。一行の後には、三味線を弾いて流し歩く女太夫が続いています。道の右端には、真桑瓜(まくわうり)の露天商、蕎麦の出前持ちが描かれています。道の中央には日本橋方面へあるく子女たちが描かれています。日本橋通一丁目江戸時代、日本橋通りと呼ばれた通りは、東海道の出発点となる大通りで、大商人や問屋の集まる城下の中心地でした。白木屋(しろきや)東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服商のひとつ。日本の百貨店の先駆的存在のひとつです。初代大村彦太郎が、慶安年間に京都の寺の内に材木商として白木屋を開いた...名所江戸百景を訪ねて第44景「日本橋通一丁目略図」

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十五の2 天の石屋・神々の議り

    古事記上つ巻現代語訳十五の2古事記上つ巻天の石屋・神々の議り書き下し文是を以ち八百万の神、天安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日神の子、思金神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集め鳴かしめて、天安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売命に科せ、鏡を作らしめ、玉祖命に科せて、八尺の勾たまの五百津の御須麻流の珠を作らしめて、天児屋命、布刀玉命を召びて、天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天の波波迦を取りて、占合ひ麻迦那波しめて、天の香山の五百津真賢木を根許士爾許士て、上枝に八尺の勾たまの五百津の御須麻流の玉を取り著け、中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝に白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて、此の種種の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて、天児屋命、布刀詔戸言祷き白して、天手...古事記上つ巻現代語訳十五の2天の石屋・神々の議り

  • 古事記 上つ巻 現代語訳 十五の2 天の石屋・天照大御神、天の石屋にこもる

    古事記上つ巻現代語訳十五の2古事記上つ巻天の石屋。天照大御神、天の石屋にこもる書き下し文故是に天照大御神見畏みて、天の石屋の戸を開きて刺許母理坐しき。尓して高天の原皆暗く、葦原中国悉く闇し。此れに因りて、常夜往く。是に万の神の声は、狭蝿那須満ち、万の妖悉に発りき。現代語訳このゆえに、天照大御神(あまてらすおおみかみ)見畏(みかしこ)みて、天の石屋の戸を開いて刺許母理(さしこもり)ました。しかして、高天の原は皆暗くなり、葦原中国は悉く闇(くら)くなりました。これによって、常夜(とこよ)となりました。ここに、万の神の声は、狭蝿(さばえ)して満ち、万の妖(わざはひ)が悉に発きました。・常夜(とこよ)夜のような暗さが続くこと。とこやみ・狭蝿(さばえ)五月の蝿のように、騒がしく、煩わしい現代語訳(ゆる~っと)こうい...古事記上つ巻現代語訳十五の2天の石屋・天照大御神、天の石屋にこもる

  • ノブさんとタケちゃん 暑中お見舞い申し上げます

    暑中お見舞い申し上げます。久しぶりの猫日記です。ノブさんとタケちゃん、食欲旺盛で、かわらず元気です。ご覧の通り暑さで、ダレダレですけどね。暑い日が続きますが、皆様、お体に気をつけてくださいませ。それでは、また。ご訪問ありがとうございました。ノブさんとタケちゃん暑中お見舞い申し上げます

  • 名所江戸百景を訪ねて 第43景 「日本橋江戸ばし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第43景「日本橋江戸ばし」日本橋から下流を望み描かれた作品です。近景には擬宝珠(ぎぼし)の欄干(らんかん)が描かれています。擬宝珠を許された橋は、日本橋と京橋のみでした。遠景に描かれた橋は「江戸橋」。その後ろに描かれた白壁は、小網町の土蔵。日本橋の側には魚河岸がありました。橋を渡る棒手振りの担ぐ盤台には初鰹が運ばれています。日本橋日本橋(にほんばし)は、東京都中央区にある、日本橋川に架かる橋です。日本橋由来記の碑重要文化財日本橋附東京市道路元標(一基)所在地中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋川)日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲...名所江戸百景を訪ねて第43景「日本橋江戸ばし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第42景 「玉川堤の花」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第42景「玉川堤の花」画面中央を、緩やかに曲線を描き流れる川は、玉川上水です。延享年間(1744~1748)にかけて玉川上水の土堤には、桜の木が植えられ、江戸の花見の場所として有名でした。作品でも花見を楽しむ人々が描かれています。右側には、内藤新宿の妓楼・茶屋・旅籠屋の家々が描かれ、妓楼の二階から赤い着物を着た女性と客が花見をしている姿もみられます。左側には武家屋敷が描かれています。 玉川上水玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高...名所江戸百景を訪ねて第42景「玉川堤の花」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第41景 「市ヶ谷八幡」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第41景「市ヶ谷八幡」近景右端に描かれている三角部分は市ヶ谷御門に架かる橋です。その橋を渡った先には門前町があり歓楽街として知られていました。その門前町の間から市ケ谷八幡へ登る石段があり、石段の途中にあるのは「茶の木稲荷」で、その奥に市ヶ谷八幡が祀られていました。中景左端に見える建物は、尾張名古屋藩の屋敷が見えます。 市ヶ谷御門市ヶ谷御門は、寛永13年(1636年)に美作国津山藩主の森長継が築きました。 茶の木稲荷市谷亀岡八幡宮の現在の境内地は、1200年以上前に、弘法大師が開山し稲嶺山(いなりやま)としました。市谷亀岡八幡宮が江戸の初期に遷座するまでは、この茶ノ木稲荷神社が約七百年に渡りこの山の本社でした。 市谷亀岡八幡宮市谷亀岡八幡宮は、東京都新宿区市谷八幡町に...名所江戸百景を訪ねて第41景「市ヶ谷八幡」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第40景 「せき口上水端はせを庵椿やま」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第40景「せき口上水端はせを庵椿やま」流れる川は神田上水です。作品は神田上水を下流から上流を望み描いています。右側には、芭蕉三十三忌に建てられた芭蕉庵があります。門のすぐ側に描かれている松は「夜寒の松」です。この辺りは椿が多く、南北朝時代から椿山と呼ばれていました。遠景には早稲田の田園風景が広がっています。 関口芭蕉庵江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉が、二度目の江戸入りの後、請け負った神田上水の改修工事の際、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)までの3年間、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられています。後に享保11年(1726年)の芭蕉の三十三回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像を祀った建物が敷地に作られました。「龍隠庵」はいつ...名所江戸百景を訪ねて第40景「せき口上水端はせを庵椿やま」

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