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2020/12/06

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  • 名所江戸百景を訪ねて 第99景 「両国花火」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第99景「両国花火」柳橋方面から両国橋を描いています。広重の遺作の一つ江戸名所「両国納涼」は料亭内からの眺望を描いていて、視点が同じことから、柳橋にある万八楼の座敷から眺めた図と考えられます。両国の花火を担当したのは、両国橋より上流(画面手前)が玉屋、下流は鍵屋です。手前に提灯を五つ掲げた屋台船が描かれ、その周囲に屋台船が浮かんでいます。舳先(へさき)に行灯(あんどん)を置いているのは、飲食物を売る煮売船です。江戸時代の人はこうした船で涼を取るか、柳橋の料亭に行きました。両国橋を歩いて涼をとる人も描かれています。 両国の花火の起源毎年夏に開催されている隅田川花火大会は、隅田川の夏の風物詩として多くの人々に親しまれています。その起源は古く、8代将軍・徳川吉宗の時代、享...名所江戸百景を訪ねて第99景「両国花火」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第98景 「小奈木川五本まつ」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第98景「小奈木川五本まつ」小名木川北岸には五本松と呼ばれた名木が並んでいました。しかし、四本は枯れてしまい一本だけが残っていたといいます。作品は、その五本松と呼ばれた一本松から、大きく川に張り出している枝を描き、小名木川を遠くまで望んでいます。実際の小名木川は直線ですが、緩やかなカーブを描くデフォルメがされています。描かれた乗合船は、深川から行徳の間を往来していました。 五本松跡小名木川橋の北側のたもとに五本松跡があります。小名木川北岸には五本松と呼ばれた名木が並んでいましたが、4本は枯れてしまい1本だけが残っていたとされています。 描かれた場所は、現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。広重が描い小奈木川五本まつの小名木川は緩やかなカーブを描いてい...名所江戸百景を訪ねて第98景「小奈木川五本まつ」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第97景 「堀江ねこざね」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第97景「堀江ねこざね」作品の中央を流れる川は「境川」。その左側の集落が堀江村、右側が猫実村です。木々に囲まれた建物は、豊受神社。川に架かる橋。手前の橋は境橋です。奥に架かる橋は、新橋と思われます。その奥に見える船の帆柱は、河岸場(船着き場)辺りです。遠景の山は富士山と丹沢山塊。近景には無双網の猟の様子が描かれています。堀江村現在の千葉県浦安市堀江です。江戸川河口左岸の三角州、境川以南の先端部までを領域とし、さらに右岸側の中州も村内に組み込んで「堀江新田」として開発されました。鎌倉時代に、地内に小さな港が作られたことから「堀江」となったといわれています。猫実村現在の千葉県浦安市猫実です。室町時代より下総国八幡荘の「猫実」としての当地の名前が見られます。江戸時代に「猫...名所江戸百景を訪ねて第97景「堀江ねこざね」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第96景「鴻の臺とね川風景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて 第96景「鴻の臺とね川風景」崖の下に流れる川は、利根川の分流です。国府台(こうのだい) 千葉県市川市の地名です。古くは「鴻の台」とも書かれていました。国府台は下総台地の西端にあたり、江戸川に面した台地です。ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。その後、ここ一帯は永禄年間(1558年~1569年)に小田原の北条氏と安房の里見氏が激戦した古戦場となりました。江戸時代になり徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。当時は、富士山を一望できる景勝地であり、鴻の台は古城や古跡も多くあったので江戸東郊の行楽地の一つでした。江戸川(えどがわ)関東地方を流れる一級河川です。利根川水系で利根川の分流です。里見公園里見公園(さとみ...名所江戸百景を訪ねて第96景「鴻の臺とね川風景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第95景 「眞間の紅葉手古那の社継はし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第95景「眞間の紅葉手古那の社継はし」弘法寺の境内にあった楓の木を前景におき二股になった幹と幹の間から、手児奈の社を見下ろしています。小川に掛かっているのが継橋です。弘法寺弘法寺は、千葉県市川市真間四丁目にある日蓮宗の本山です。手児奈霊堂(てこなれいどう)手児奈霊堂は、伝説上の女性・手児奈を祀る霊堂です。手児奈霊堂は奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたと言います。手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のた...名所江戸百景を訪ねて第95景「眞間の紅葉手古那の社継はし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第94景 「にい宿のわたし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第94景「にい宿のわたし」描かれた場所は、現在の葛飾区新宿付近にあった中川の渡しです。旧中川を挟んで、亀有側から描いた説。新宿側から描いた説の二説があります。近景に描かれた二階屋の料理屋ですが。亀有側には千馬田屋(ちばたや)・ふじみ屋という川魚料理屋がありました。また、新宿にも二階屋の料理屋が二軒あり、描いた場所を特定するのが難しい理由の一つです。亀有から描いたのであるなら、遠景の山は日光連山の男体山となります。また新宿側から描いたのであるなら、遠景の山は秩父と陣馬・高尾の二説があります。 新宿(にいじゅく)新宿(にいじゅく)は、東京都葛飾区にある町名です。江戸時代には水戸街道の宿場町で、成田街道(佐倉街道)との分岐点がありました。  描かれた場所は現在どのようにな...名所江戸百景を訪ねて第94景「にい宿のわたし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第93景 「木母寺内川御前栽畑」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第93景「木母寺内川御前栽畑」隅田川を背に木母寺方向を望んでいます。当時、木母寺境内には料理屋が数軒ありました。その中の一つが右側中央に描かれている建物、「植半(うえはん)」です。作品の縦に流れる川は内川で、二人の芸妓が座敷船から降り立ち料理屋へ向かう姿が描かれています。内川の左側は幕府の御前栽畑です。 木母寺(出典・Wikipedia)寺伝によりますと、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔い、塚をつくり、その傍らに建てられた梅若寺と名づけて開かれました。梅若丸は、「吉田少将惟房」という名の貴族の子でしたが、梅若丸が5歳の時に父を亡くし、7歳で出家。比叡山延暦寺に入りましたが、兵乱に遭い逃げる途中、人買いに騙されて、この地まで連れてこられたと...名所江戸百景を訪ねて第93景「木母寺内川御前栽畑」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第92景 「請地秋葉の境内」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第92景「請地秋葉の境内」請地村にある向島秋葉神社の境内を描いた作品です。境内は紅葉の名所として親しまれていました。左下の茶屋で写生する人物は広重本人とみる人もいます。 向島秋葉神社向島秋葉神社のある地域はその昔、請地村といい、古くから千代世稲荷大明神が祀られていましたが、後に、静岡の秋葉権現を勧請し、相殿としました。元禄15年(1702)別当千葉葉栄が立派な社殿を造営しました。江戸時代は火伏の神様として大名家の信仰を集め、境内は紅葉の名所として親しまれていました。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。残念ながら、作品に描かれた池は現在ありません。しかし、秋葉神社は昔と変わらぬ場所にありました。訪れた際には、見事な紅葉に感嘆のため息が...名所江戸百景を訪ねて第92景「請地秋葉の境内」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第91景 「猿わか町よるの景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第91景「猿わか町よるの景」満月に照らされた猿若町を描いています。右側の手前から、森田座、市村座、中村座と続いています。左側には芝居茶屋が並んでいました。 猿若町現在の東京都台東区浅草6丁目あたりあった地名です。天保の改革により、1842年(天保13)堺町、葺屋町、木挽町にあった芝居小屋を浅草聖天町に移し、猿若町と改称しました。地名は江戸俳優の祖といわれる猿若勘三郎(かんざぶろう)の姓をとったことによるといいます。江戸三座といわれる中村座、市村座、森田座があり、芝居の町として繁栄していました。  森田座森田太郎兵衛が万治3年(1660年)木挽町に創設しました。安政3年に守田座と改め、明治5年(1872年)猿若町から新富町に移転し、同年8月に新富座と改称しました。大正...名所江戸百景を訪ねて第91景「猿わか町よるの景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第90景 「上野山内月のまつ」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第90景「上野山内月のまつ」近景には上野清水堂にあった、月のまつを描き、その松の間から不忍池が描かれています。対岸に見えるのは、池之端の町屋、そして、その奥に見えるのは、大名屋敷です。不忍池の右側にあるのは、弁財天です。 月の松名所として親しまれてきましたが、明治初期に台風で折れてしまいました。しかし、平成24年に再び植栽され、現在も満月のような枝ぶりを見ることができます。 上野清水堂清水観音堂は、上野公園内にあり、千手観音を祀っています。寛永8年(1631年)の建立されました。京都の清水寺本堂と同様の懸造建築です。 不忍池辯天堂不忍池辯天堂は、上野公園南側にある不忍池の弁天島(中之島)に、天海が竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請して建立しました。 描かれた場所は現在どの...名所江戸百景を訪ねて第90景「上野山内月のまつ」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第89景 「王子滝の川」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第89景「王子滝の川」王子七滝の一つである、弁天の滝を俯瞰しています。崖下にある赤い鳥居の洞穴は岩屋弁天です。絵の右上の建物が、松橋弁天社の本堂です。石神井川の中央にかかる橋は松橋です。 滝の川この作品が描かれた場所のあたりは滝野川と呼ばれ、さらに下流になると音無川と呼ばれていました。 岩屋弁天崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。音無もみじ緑地公園内で撮影してみました。 最後に護岸工事をしないと、川が氾濫したりと災...名所江戸百景を訪ねて第89景「王子滝の川」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第88景 「井の頭の池弁天の社」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第88景「井の頭の池弁天の社」名所江戸百景の中で最も西にある名所です。社正面から井の頭池を眺望した作品です。実際の井の頭池の形とは異なるので、池の広さを出すために変形だろうとの説があります。遠景に描かれた山々は、筑波の山並みとする説や、日光の山並みとする説などがあります。江戸時代には市民にとって、弁財天は信仰の地であるとともに、行楽地でもありました。 井の頭池井の頭という名称は諸説あります。一説は、江戸幕府三代将軍・徳川家光によってこの神田上水水源が「井之頭」と名付けられたものと伝えられ、自ら小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだとも伝えられています。また、「えんかしら、この水の美しさ」と家光が驚嘆したことが、その後転じて「いのかしら」となったとする説もあり...名所江戸百景を訪ねて第88景「井の頭の池弁天の社」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第87景 「四ツ谷内藤新宿」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第87景「四ツ谷内藤新宿」宿場内より四ツ谷大木戸方面を描いています。近景には馬の尻が大きく描かれており、蹄には草履が履かせられています。その足元の地面には馬糞が数個落ちているのも描かれています。道路の左側には、茶屋や旅籠が続いて描かれ、道の奥の森は内藤家か水番所の森だと思われます。 内藤新宿内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つです。江戸秘本橋から数えて最初の宿場で、新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道の起点でもありました。現在の東京都新宿区新宿一丁目から新宿二丁目。三丁目の一帯にあたります。地名から四谷新宿とも呼ばれることもありました。内藤新宿開設三百年記念碑元禄十一年(一六九八)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衞(後の喜六)らの...名所江戸百景を訪ねて第87景「四ツ谷内藤新宿」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第86景 「紀の国赤坂溜池遠景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第86景「紀の国赤坂溜池遠景」紀伊国坂を登る途中で、坂の下を振り返った場所からの景色です。画面のお堀の先、左の緑の森は日吉山王大権現社です。紀伊国坂紀伊国坂(きのくにざか)は、東京都港区元赤坂1丁目から、旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂です。赤坂(あかさか)、茜坂(あかねざか)などとも呼ばれています。赤坂溜池溜池交差点や「溜池山王」駅の由来になったことで知られる溜池付近には、かつて大きな溜池がありました。元々は湧き水でしたが、堤を作り水を貯めるようにしたため、この名があります。その池は、形から別名「ひょうたん池」とも呼ばれていました。江戸時代初期になると、この溜池は江戸城の外堀としても利用していました。日枝神社日枝神社は、東京都千代田区永田町にある神社です。...名所江戸百景を訪ねて第86景「紀の国赤坂溜池遠景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第85景 「目黒爺々が茶屋」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第85景「目黒爺々が茶屋」作品の右に描かれている茶屋が、爺々が茶屋です。高台の眼下には黄金色に輝く田圃が広がっています。中景の緑の林と建物は目黒不動堂です。遠景に描かれた富士山は雪を纏い真っ白に輝いています。 爺々が茶屋目黒に鷹狩にやってきた徳川将軍がよく利用していたと伝えられたいます。 茶屋坂茶屋坂江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。 目黒不動堂・別当滝泉寺瀧泉寺(りゅうせんじ)は、東京都目黒区下目黒にある、天台宗の寺院です。不動明王像を本尊とすることから、古くより「目黒不動尊(めぐろふどうそん)」と呼ばれていました。  描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました...名所江戸百景を訪ねて第85景「目黒爺々が茶屋」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第84景 「品川すさき」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第84景「品川すさき」目黒川河口にある品川洲崎に水の神・弁財天を祀る洲崎弁天社が建っていました。その弁天社を眼下に描いています。対岸にある宿場からは右端に描かれている、鳥海橋を渡っていくことができました。品川沖に見える土盛りは、御殿山を削った土で築かれた御台場です。 品川洲崎南品川漁師町は、洲崎(すさき)と呼ばれ、現在の東品川一丁目の一部で、目黒川河口の砂洲にできた町です。その昔は兜島(かぶとじま)と呼ばれていました。明暦の頃、漁師町が形成されました。 洲崎弁天洲崎弁天は、現在の利田神社で、弁財天を祀っています。1626年(寛永3年)に創建されました。沢庵宗彭が目黒川の砂州に弁財天を勧請したのが起源です。当時は「洲崎弁天」と呼ばれていました。明治時代の神仏分離に伴い...名所江戸百景を訪ねて第84景「品川すさき」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第82景 「月の岬」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第82景「月の岬」海に面した妓楼の一室が描かれています。外は満月。月の宴が終わり、片付けをする芸妓の姿が右端に描かれています。左側の障子に映っている女性は、簪の数から遊女とみることができます。 月の岬月の岬に関しては、聖坂上の三田台地の月見に適した場所を指し、済海寺あたりという説。品川手前の八ツ山を月の岬という説など諸説あります。  描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。旧東海道、問答河岸跡辺りで撮影してみました。 最後に問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名称です。江戸幕府三代将軍・徳川家光が東海寺を訪れた際、沢庵和尚がこのあたりまで出迎えて禅問答したと言う話が残されているそうです。江戸時代、この辺りは海岸がすぐ側にあったの...名所江戸百景を訪ねて第82景「月の岬」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第82景 「高輪うしまち」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第82景「高輪うしまち」画面の近景には牛車の車輪。その側には食い散らかされた西瓜の皮と使い古されたわらじが一足捨てられています。そのわらじをくわえてあそぶ子犬の姿。品川沖に見える台地は、お台場です。夕立の後でしょうか?空には虹が描かれています。 高輪高輪の地名は、戦国時代の軍記物語の中に「高縄原」として書かれていることに由来します。江戸時代には江戸の町はずれで、町人町の他にも高台には諸蕃の下屋敷(別荘)が置かれていました。高輪は東海道から江戸府内の玄関口にあたり、大木戸が設けられていました。 高輪大木戸跡史跡高輪大木戸跡所在地港区高輪二丁目十九番指定昭和三年二月七日高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてたられたのが起源である。享保九年(172...名所江戸百景を訪ねて第82景「高輪うしまち」

  • 久しぶりの帰省

    先頃、二年半ぶりに岩手に帰省しました。関西に引っ越してから初めての帰省です。京都駅から東海道・山陽新幹線に乗って東京駅へ、そして東京駅から東北新幹線に乗り継ぎ、約7時間ほどで盛岡駅に到着。遠い〜!移動でほぼ1日が終わった感じです。実家の最寄りの駅から、家に行く途中、周りの景色を堪能しました。久しぶりの景色。やはり、故郷は心落ち着きます。田んぼは、お米がたわわに実っていました。黄金いろに輝いて、美味しそう。もうすぐ、新米が出回りますね。楽しみです。今回の帰省。コロナ禍で、母に2年半も会えなくて、心配していましたが、元気な姿にホッと安堵しました。母と一緒にプチ旅行もできたし、有意義な帰省となりました。ちょっとは親孝行できたかな。おまけお土産の紹介福田パン岩手県民のソウルフード。大きめのコッペパンに様々な具材が...久しぶりの帰省

  • 名所江戸百景を訪ねて 第81景 「金杉橋芝浦」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第81景「金杉橋芝浦」 左側の下に描かれるは金杉橋。その上を、池上本門寺の参拝者の一行が行き交う様子を描いています。左手の高い竿に吊るされているのは、寺の手洗い用に寄進する柄杓と手ぬぐい。赤い幟には、池上本門寺の紋、その下にはお題目、「一天四海皆歸妙法」、「南無妙法蓮華経」と書かれています。右手に見える海は、芝浦の海で、左手に見える海岸線は、浜御殿(浜離宮)で、その向こうに築地本願寺の大屋根が見えます。金杉橋(かなすぎばし)東京都港区にある、古川に架かる橋です。江戸時代に東海道の公儀橋として架橋されたもので、近くにセンダンの木が光って見えるようであったことから名付けられました。池上本門寺(いけがみほんもんじ)東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山です。日蓮入滅の霊場と...名所江戸百景を訪ねて第81景「金杉橋芝浦」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第80景 「芝神明増上寺」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第80景「芝神明増上寺」 左奥には、増上寺の大門、右側には芝神明社が描かれています。近景に描かれた一団は、増上寺見物を終えたお上りさんの一団。その後ろに続くは、増上寺の托鉢に出かける僧の一団です。芝神明芝大神宮(しばだいじんぐう)は、東京都港区芝大門一丁目にある神社です。増上寺増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院です。浄土宗の七大本山の一つです。将軍徳川家の菩提寺です。七つ坊主増上寺の修行僧はいつも七つ時(午後4時ごろ)に托鉢に出かけるので「七つ坊主」と呼ばれていました。描かれた場所は、現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。 芝大門交差点より増上寺赤門を撮影してみました。最後に 江戸時代には、のどかな通りでしたが、高層ビ...名所江戸百景を訪ねて第80景「芝神明増上寺」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第79景 「鉄炮洲築地門跡」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第79景「鉄炮洲築地門跡」作品は、明石町の沖から築地本願寺の大屋根を描いています。築地本願寺築地本願寺は、東京都中央区築地3丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院です。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。月島より築地方面を撮影してみました。最後に隅田川の水面を見ていると、ゆったりとした時間が流れ、心が落ち着きます。江戸時代の人々も同じような気持ちで、ここで景色を眺めたのかもしれません。しかし、撮影した場所。江戸時代には東京湾だったとは、現在の町並みからは想像できません。参考Wikipedia太陽の地図帖広重「名所江戸百景」の旅名所江戸百景を訪ねて第79景「鉄炮洲築地門跡」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第78景 「鉄炮洲稲荷橋湊神社」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第78景「鉄炮洲稲荷橋湊神社」作品は、西からの下り物を運んできた大型船から小型船に積み替え、配送する様子が描かれています。近景には二艘の大型船の帆柱が二本、大きく描かれています。作品に描かれた水面は、横に流れるのは、越前堀(現在の亀島川)。縦に流れるのは、八丁堀です。その八丁堀に架かる手前の橋は、稲荷橋、さらに上流に架かる橋は、中の橋です。左端に描かれている朱塗りの玉垣の向こうの建物は、鉄炮洲稲荷の社殿の屋根です。鉄炮洲江戸時代の地名です。現在の東京都中央区湊、明石町に相当します。江戸時代には港として栄えていました。鉄炮洲稲荷鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)は、東京都中央区湊にある神社です。八丁堀(はっちょうぼり)寛永年間(1624〜1644)隅田川に通じ...名所江戸百景を訪ねて第78景「鉄炮洲稲荷橋湊神社」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第77景 「京橋竹がし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第77景「京橋竹がし」手前に描かれた橋が欄干に擬宝珠のある京橋、その奥には中ノ橋、その先にかすかに見えるのが、白魚橋です。西から下流を望んだ構図で、川面の左側には竹を運んできた筏(いかだ)が描かれています。左側の河岸には竹が異様に並び立っています。この河原は竹問屋が多く竹河原と呼ばれていました。遠景には満月が美しく輝いています。橋を渡る中央の人物の持つ赤い提灯には、「彫竹(ほりたけ)」と描かれています。これは、彫師の横川彫竹の名を忍ばせたとヘンリー・スミス氏は論じています。京橋(きょうばし)京橋川に架けられていた中央通りの橋です。江戸時代の京橋は、木造で、公儀橋(こうぎばし)であり、欄干の柱頭部に擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)という飾りがついていました。他にこの飾りが...名所江戸百景を訪ねて第77景「京橋竹がし」

  • 東京史跡巡り 京橋周辺

    東京史跡巡り京橋(きょうばし)京橋川に架けられていた中央通りの橋です。江戸時代の京橋は、木造で、公儀橋(こうぎばし)であり、欄干の柱頭部に擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)という飾りがついていました。他にこの飾りがついていた橋は、日本橋と新橋のみでした。京橋の親柱所在地中央区銀座一丁目二番先・一一番先京橋三丁目五番先京橋は、慶長八年(一六〇三)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残を留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。このうち、二基の石造親柱は、明治八年(一八七五)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠...東京史跡巡り京橋周辺

  • 名所江戸百景を訪ねて 第76景 「神田紺屋町」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第76景「神田紺屋町」前景に紺屋町の物干し台でほされた染物を大きく描いています。中央の布には版元魚栄の「魚」、その奥には「ヒ」、「ロ」を組み合わせた広重自身の印が描かれています。紺屋町藍染を手がける染物屋が軒を連ねていたため、この町名が起こりました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。神田紺屋町にて、富士山の方角を撮影してみました。最後に作品を見てみると、染め物がはためき、その隙間から富士山の姿が望めます。江戸時代にはこの場所からも富士山を眺めることができたのですね。心がホッとします。現在はというと、どの方角を見ても、ビルばかりで味気ない町へと変わってしまいました。なんだか、残念です。参考Wikipedia太陽の地図帖広重「名所江戸百...名所江戸百景を訪ねて第76景「神田紺屋町」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第75景 「大伝馬町こふく店」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第75景「大伝馬町こふく店」道を進む人々は「棟梁送り」の行列です。左側に呉服商大丸屋の看板があります。呉服商大丸屋享保2年(1717年)に、下村彦右衛門正啓が、京都伏見の生家に古着商「大文字屋」を開業したのが始まりです。寛保3年(1743年)に日本橋大伝馬町三丁目に江戸店を開店しました。「大丸屋呉服店」は、駿河町の「越後屋呉服店」、通一丁目「白木屋呉服店」と並び、「江戸三大呉服屋」と呼ばれていました。大伝馬町日本橋大伝馬町(にほんばしおおでんまちょう)は、東京都中央区の地名です。江戸最古の町の一つです。棟梁送り(とうりょうおくり)棟上式のとき、祝宴のあと棟梁を家まで練り歩くことをいいます。自宅では宴席が設けられました。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょう...名所江戸百景を訪ねて第75景「大伝馬町こふく店」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第74景 「市中繁栄七夕祭」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第74景「市中繁栄七夕祭」七夕の風景を描いた作品です。名所江戸百景の中で唯一、地名が特定されていません。遠景の中央に描かれた富士山と右端のお城のやぐらの位置、商家のたたずまいなどから手前の倉は南伝馬町と思われます。右の火の見櫓は広重が生まれ八代洲(やよす)の火消屋敷のものとみられます。描いた場所を推定すると、この図は大鋸町(おが)にあった広重の自宅の屋根の上から描いたものではないかというのが定説になっています。広重の住居火消同心の家に生まれた広重は生涯を江戸で過ごしました。大鋸町には、天保13〈1842〉年から弘化3(1846)年まで暮らしたと推定されています。その後、常磐町、中橋狩野新道へと居を移し、53歳から没するまでの約10年を過ごした中橋可能新道の住居跡には...名所江戸百景を訪ねて第74景「市中繁栄七夕祭」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第73景 「はねたのわたし弁天の社」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第73景「はねたのわたし弁天の社」近景には、船頭の手足が大きく描かれています。中景、左側の森は玉川弁財天の森です。沖に見える半島は三浦半島です。 羽田の渡し羽田の渡しとは、現・東京都大田区羽田2丁目にかつてあった船着場です。羽田と川崎との間の渡しは、川崎大師参詣の要路でした。羽田の渡しは、「六左衛門の渡し」とも呼ばれ、昭和14年(1939年)に大師橋が開通するまで利用されました。 玉川弁財天 玉川弁財天は、東京都大田区にある神社です。創建年代は不詳ですが、昔から羽田漁民の信仰を集めてきました。元々は、現在の羽田空港の位置にありました。江戸時代には「江戸名所図解」で取り上げられるほど景勝地でしたが。戦後、GHQの空港拡張工事によって強制退去させられたことにより、羽田の...名所江戸百景を訪ねて第73景「はねたのわたし弁天の社」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第72景 「深川三十三間堂」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第72景「深川三十三間堂」西側から三十三間堂越しに三十間掘を俯瞰しています。三十間掘の沿岸には茶店が軒を連ねています。堀の川面には係留された材木が浮かんでいます。三十三間堂では、通し矢が行われ、それを見物している人の姿が見えます。 深川三十三間堂江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目あたり)にあった仏堂です。本尊は千手観音。京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて、寛永19年(1642年)11月、弓師備後が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したことに始まります。その後、元禄11年(1698年)勅額火事(ちょくがくかじ)により焼失しましたが、その後、元禄14年(1701年)富岡八幡宮の東側に再建されました。しか...名所江戸百景を訪ねて第72景「深川三十三間堂」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第71景 「五百羅漢さヾゐ堂」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第71景「五百羅漢さヾゐ堂」黄檗宗(おうばくしゅう)の羅漢寺本堂には松雲禅師が造立した五百羅漢が、その隣に三匝堂(さんそうどう)がありました。三匝とは、三回めぐるの意味で、螺旋状の階段があったので栄螺堂(さざえ)と呼ばれました。絵は、南側から北西方向を描いています。近景には、三匝堂が描かれています。三匝堂からの展望は江戸名所の一つで、道をへだてて茶屋も立ち並んでました。五百羅漢跡 五百羅漢跡大島4-5五百羅漢は、元禄8年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(1684~88)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄8年、将軍徳川綱吉から天恩山五百阿羅漢寺の寺号と六千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した...名所江戸百景を訪ねて第71景「五百羅漢さヾゐ堂」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第70景 「綾瀬川鐘か淵」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第70景「綾瀬川鐘か淵」近景の上部には薄紅色の花を咲かせた合歓の木(ねむのき)が大きく描かれています。画面中央に大きく流れる川は隅田川。遠景の中央の川は綾瀬川、その川に架かる橋は綾瀬橋。墨田川と綾瀬川の合流地点を描いています。この辺りは鐘が淵と呼ばれていました。川では川並が筏(いかだ)を操っている姿が描かれています。空を飛ぶとりは白鷲です。ネムノキが花開いていることから、夕方の一コマを描いた作品だと思われます。 鐘ヶ淵(かねがふち)鐘ヶ淵は東京都墨田区北端の地名です。現在、町名は堤通り(つつみどおり)、墨田などにあたります。地名の由来ですが、隅田川が大きく曲がる所で、曲ケ淵(かねがふち)と呼んだ。あるいは、橋場から亀戸に普門院(ふもんいん)と呼ばれる寺を移転する際、...名所江戸百景を訪ねて第70景「綾瀬川鐘か淵」

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