最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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『…とは言え、彼はああ見えて実は冷静に俯瞰している。彼の重んじる日の丸という概念は、それを重んじない大多数によって構成されているという事も。国家というものに知らぬ間に属している日の丸男自身とて、完全な日の丸を体現することは出来ない、と。』
『カバラの解釈には諸説あるが、最初の世界、その擬人化、あるいは原罪なき人間を意味する。その存在は我らよりも遥かに先んじているので、我らは常に彼の後ろ姿しか知らない。』
『これが難関なのは、解脱と輪廻の道しるべが酷似している事だ。人の魂は強烈な輪を帯びた光を恐れる…それは畏怖と呼ばれるものに相当するとも言えるが…そちらに行こうとはせず、かえって微弱な光の方へ、惰性の方へ吸い寄せられ、また肉体を纏う羽目になる魂が多い。』
『若く見えるという人間には二種類居て、本当に俊敏であるか、あるいはただ単に惚けている気質かのどちらかである』
道徳の時間に描かされた環境問題の絵ではない(日替わりアクリル絵画)
『「じゃあどういう絵なんだよ」と学友に言われたので俺は反射的に「美醜の絵だよ、何が美しいか判断つかないのが人類の欠点で、それが環境汚染に繋がってるって言いたいんだよ」と言い返した。どっちも同じじゃねえかと笑われたのは言うまでもない。』
『あの絵を見ていて思うのはモデルが浮かんでいる浴槽の下の影なの、表には見えない部分…影にこそ真実が映るものだと私は思うの。』
『僕が聞く限り、確かに男としての彼の体験談は魅力的ではあった。しかし彼の居場所が果たして天国なのか地獄なのかは…おそらく彼自身にさえ判断がつかないだろう。』
『その男は自分はみずがめ座だと語った、それ以上何も言わなかった。』
『過去を振り返ることにより、我らは自己を認識するが、ほとんど現在の自己を把握しない、この点に於いて我らの自己認識は実に、不完全である』
『悲しみの剣で胸を刺し貫かれる未来さえも現在として受け止めた彼女は、全てに先んじてイエスキリストを宿した。その微笑みは可憐というよりも屈強であった。』
『…ところが、彼が会話していたのは僕ではなく、死の天使であった。』
信じられないだろうが、あれは元々はケルビム天使だったんだよ
一説には彼らは夫婦で、冥界の王が集めた霊魂を、生命の女神に押し入れるこの作業は、深遠な性交でもある。
アオサギたちだけが唯一、冥界と生命の世界とを生きたまま行き来できる存在である。ここでは彼らの鳴き声意外、一切無音である。
『先祖たちが語り掛ける、見たことのない草原が広がる、しかし老いたる私には彼らの言葉が理解できない』
私は…本当は一体どこにいるのだろう?
誰かの中に宿るキリスト、主はどこにおられるのか、実は其処此処におられる。
太陽を浴びて笑う男の横顔也。
死んだ男『こいつはとんでもない極悪犯で絞首刑になったが、何故か執行後の顔は罪を知らない好青年のようだったという』
しかしながらそれは私のキリストで、それを表現することに関しては、神も許されるでしょう。
『発光はそれとなくでいい、説明的になると稚拙になる』とアドバイスを受ける。
キリストを模したつもりが犯罪者っぽい人物像になってしまった一例。
全国に空き家があるわけだから本来物理的にはアトリエを持つのは可能なんだよなあ…。
きっちりした絵を描いていた人が唐突に崩れた画風になり、交通事故説や精神崩壊説がささやかれる現象があるが…あれっておそらく身近に居る美大出身とかの意識高い系の助言に当てられて画風が変化してるのだろうなと実感し、長年の謎が解けた気持ちだ。
カルマは存在するが、これは神の愛に基づいている場合にのみ、神的領域から順に作用してゆくものだと個人的には考えている。つまり表層には表れにくいものだと感じている。
花婿が歌う節と、花嫁が唱歌する個所とがそれとなくあるので、実際の婚礼で男女が歌い交わしたのかもしれない…ああ、そういう情景が浮かんでくる。
左脳よ少し休むがよい、しかし断じてこれはウクライナカラーではない!
ああこれが、たま~に見かける基地外特有の、【家の外壁にメッセージを書きなぐる】症状なのか???
右脳エリート→本物のアーティスト、 左脳エリート→理数系、 その他凡人→情弱、馬鹿、感情論
あの頃歌ったあいのうたを
最も純粋なろ過を経て摘出されたものは
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。