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生田裔神八社の中の六柱目、六宮神社はかつて現在の広厳寺/楠寺の前に鎮座されていたが、明治42年12月に、楠高等小学校の新設により、八宮神社の御社殿に合祀されることになり今に至る。
生田裔神八社の中の五柱目、五宮神社は、住所もそのまま兵庫区五宮町にある。古来より奥平野の鎮守であった。
生田裔神八社の中の四柱目、四宮神社は兵庫県庁の北側にある。ビルとビルの隙間に赤い鳥居と弁財天ののぼりがはためいている。
生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの生田裔神八社の中の三柱目。境内からは神戸大丸も見え三宮の名の由来でもある。
生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの生田裔神八社の中の二柱目。まさに勝、吾は必ず勝ちて負けること無し、勝ち進む速さは日の昇るがごとし とホームページにある。
時は201年、神功皇后が三韓征伐から凱旋帰国の途中、生田神社を建立。そして神のお告げにより生田神社周辺の八社を巡拝、その参拝順に従って一宮~八宮と名付けられたそうだ
伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の和魂/にぎみたま、あるいは妹神と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長をご加護する神様として、ご崇敬を集めています。HP由緒より
瀬織津姫、旅先でのその名を知ること幾度、調べるも神秘的な謎が深まるばかりだった。そして子供のころからよく登った六甲山がその重要な場所だと知って驚いた。
寺伝によれば651年/白雉2年、孝徳天皇の勅願により法道仙人が開山したとされ、延命地蔵と称する地蔵菩薩を本尊とする。さらに747年/天平19年、行基が薬師堂を建立し、823年/弘仁14年、嵯峨天皇の勅願により三重塔を建立したとの伝えもある。山号は岩嶺山。
神戸市北区山田町の総鎮守、六條八幡宮。由緒には神功皇后に始まり、基燈法師、そして源為義が名を連ねる。名の由来は当時山田庄の領主であり社殿を寄進した源為義の通称が六条判官であったことに由来する。。三重塔がそびえ、神仏習合の名残を感じる。
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歴史深く皇室とのつながりも歴史に残る、また時代劇のロケ地として有名な北面の神社<北向きに建つ神社>摩氣神社二度目の参拝。
余りに大きくて遠くから森に見えることから甚七森との別名を持つ。同エリアの住吉神社の末社貴船大名神をこの1本が覆っている。
猛暑の午後、植物園は大きく育った木々がしっかりと日陰をつくってくれている。木漏れ日と癒しのマイナスイオン、そして圧倒的な紫陽花の艶色の世界。
平安時代中期~末期頃の作と見られる神像3躯<国の重要文化財>がある。また社殿後方には宮山と呼ばれる高さ約30メートルの丘、その頂上付近には霊岩/みたまいわがあり、古代祭祀の名残を今に伝える。
源氏ゆかりの頼光寺、紫陽花はもちろんだが、境内を覆いつくすような新緑の木々も実に美しい。
この春に夜桜を見た夙川の第二幕、紫陽花。この日は阪神香櫨園駅から歩き出した
神功皇后の凱旋の折、大己貴命を祀り創建された。能・謡曲の高砂の舞台の一つ。境内には三代目相生の松、五代目の相生の松をはじめ野生的な枝ぶりの松が点在、そして圧巻なのは樹齢千年を超えるいぶきだ。
淡路国二宮にして、かつて天皇が畏れた荒ぶる神が祀られている。倭大国魂神は大国主神と同神とする説、大和国の地主神とする説などがある。奈良県天理市の大和神社の分祀とされている。
岩屋神社より分霊を受け六柱の神を祀ったのが創始であると推定されている。伊和志津神社<宝塚>水堂須佐男神社<尼崎>高砂神社<高砂>と合わせて兵庫スサノオ四社とされる。
江戸時代の平和な時期、農村にまで広がった芸能を今に残す貴重な場所。すぐ近くの下谷上農村歌舞伎舞台と合わせて行ってみた
国の重要文化財の農村歌舞伎舞台、1840年/天保11年再建の棟札があり、大きさ設備も全国的にみても比類ないもの。そして今も現役なのだ
当初は六甲山地のひとつの丹生山にあり、山田全体の鎮守だった。丹生山と言えば清盛が福原遷都の際に比叡山になぞらえて日吉山王権現を勧請した場所だ。
日本の古代史を紐解いていくと何度もぶち当たる秦氏、神戸市北区の八多町もかつて秦氏の居住区だったのではとの説がある。物部守屋が創建したとされる八多神社を中心にいくつかの歴史ある神社が点在する。
境内のほぼ全域が弥生後期の水堂古墳と呼ばれる前方後円墳に立つ神社。狛犬は室町時代作、兵庫スサノオ4社のひとつ。2024年正月、2日に参拝した
2024年の桜とコバノミツバツツジ、この上なく感動的なタイミングで見ることができた。今も何度も思い出す幸せな一日だったな
藤の開花時期と合わせて開園され、藤まつりが開催される。最長1m45㎝にもなる藤の花房、白・紫・ピンクなどの花が、谷風に揺らぐ、そして魔性の香り
多井畑厄除八幡宮のすぐそば、本来なら海岸付近に生息するウバメガシの広がる大きな枝の傘の下、猿田彦神社に2024年最初の参拝。
8世紀後半から伊蘇志臣/いそしのおみが拠点としていた地に立つ式内の大社。祭神は須佐之男命、宝塚随一の古社で、兵庫スサノオ四社のひとつ
行者山などが連なる山脈の端に位置し祭神は大山祇尊、境内にある恵比寿神社社殿は元清荒神清澄寺にて三宝大荒神が祀られていた社殿、見事な天保年間<1831-1845年>の作。
源氏ゆかりの頼光寺、紫陽花はもちろんだが、境内を覆いつくすような新緑の木々も実に美しい。
この春に夜桜を見た夙川の第二幕、紫陽花。この日は阪神香櫨園駅から歩き出した
神功皇后の凱旋の折、大己貴命を祀り創建された。能・謡曲の高砂の舞台の一つ。境内には三代目相生の松、五代目の相生の松をはじめ野生的な枝ぶりの松が点在、そして圧巻なのは樹齢千年を超えるいぶきだ。
淡路国二宮にして、かつて天皇が畏れた荒ぶる神が祀られている。倭大国魂神は大国主神と同神とする説、大和国の地主神とする説などがある。奈良県天理市の大和神社の分祀とされている。
岩屋神社より分霊を受け六柱の神を祀ったのが創始であると推定されている。伊和志津神社<宝塚>水堂須佐男神社<尼崎>高砂神社<高砂>と合わせて兵庫スサノオ四社とされる。
江戸時代の平和な時期、農村にまで広がった芸能を今に残す貴重な場所。すぐ近くの下谷上農村歌舞伎舞台と合わせて行ってみた
国の重要文化財の農村歌舞伎舞台、1840年/天保11年再建の棟札があり、大きさ設備も全国的にみても比類ないもの。そして今も現役なのだ
当初は六甲山地のひとつの丹生山にあり、山田全体の鎮守だった。丹生山と言えば清盛が福原遷都の際に比叡山になぞらえて日吉山王権現を勧請した場所だ。
日本の古代史を紐解いていくと何度もぶち当たる秦氏、神戸市北区の八多町もかつて秦氏の居住区だったのではとの説がある。物部守屋が創建したとされる八多神社を中心にいくつかの歴史ある神社が点在する。
境内のほぼ全域が弥生後期の水堂古墳と呼ばれる前方後円墳に立つ神社。狛犬は室町時代作、兵庫スサノオ4社のひとつ。2024年正月、2日に参拝した
2024年の桜とコバノミツバツツジ、この上なく感動的なタイミングで見ることができた。今も何度も思い出す幸せな一日だったな
藤の開花時期と合わせて開園され、藤まつりが開催される。最長1m45㎝にもなる藤の花房、白・紫・ピンクなどの花が、谷風に揺らぐ、そして魔性の香り
多井畑厄除八幡宮のすぐそば、本来なら海岸付近に生息するウバメガシの広がる大きな枝の傘の下、猿田彦神社に2024年最初の参拝。
8世紀後半から伊蘇志臣/いそしのおみが拠点としていた地に立つ式内の大社。祭神は須佐之男命、宝塚随一の古社で、兵庫スサノオ四社のひとつ
行者山などが連なる山脈の端に位置し祭神は大山祇尊、境内にある恵比寿神社社殿は元清荒神清澄寺にて三宝大荒神が祀られていた社殿、見事な天保年間<1831-1845年>の作。
樹齢600年のさざんか、花の時期に遅かったのだがその雄姿を見たくて立ち寄ってみた。
法道仙人千日の行法の地、葛野庄/かどののしょうの総氏神、主祭神は神武天皇の父、咩咩草葺不合尊/ウガヤフキアヘズノミコト
牛馬の守護神舟城の天王さん、そして身を護る不思議の4文字サムハラの御神札授与とある。神仏習合の名残りたっぷり
兵主神社/ひょうずじんじゃ、は日本に19社ある兵庫/つわものぐらの鎮守、奈良時代、天平18年/746年の創建。疱瘡の守護神として広く知られる。
1960年以降埋め立て以前は大鳥居周辺は砂浜であり、文字通り「海の神社」であった。伊和神社・粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。