searchカテゴリー選択
chevron_left

カテゴリーを選択しなおす

cancel
プロフィール PROFILE

T-Shintaniさんのプロフィール

住所
未設定
出身
未設定

自由文未設定

ブログタイトル
食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/t-shintani
ブログ紹介文
脳と食の研究者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。
更新頻度(1年)

20回 / 31日(平均4.5回/週)

ブログ村参加:2020/04/28

本日のランキング(IN)
読者になる

新機能の「ブログリーダー」を活用して、T-Shintaniさんの読者になりませんか?

ハンドル名
T-Shintaniさん
ブログタイトル
食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命
更新頻度
20回 / 31日(平均4.5回/週)
読者になる
食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

T-Shintaniさんの新着記事

1件〜30件

  • 古代ギリシアと古代ローマのパン文化

    古代ギリシアと古代ローマのパン文化オリエントで生まれたパンは古代ギリシアや古代ローマに伝えられ、洗練された食べ物に進化していく。古代ギリシアでは人口増加による食料不足を解消するために、紀元前500年頃にエジプトからコムギなどの穀類の輸入を始めた。その際にパンの作り方とパン焼き窯が伝わったとされている。古代ギリシアではブドウが良く育ち、たくさんの良質のワインが作られていた。このため酵母の扱いには慣れており、早くから発酵パンの大量生産に成功していた。また、オリーブもたくさん採れたことから、オリーブオイルを使った揚げパンなども作られるようになった。古代ローマの初期には、ムギを粥にして食べていた。これはそんなに美味しいものではなかったそうだ。やがて紀元前2世紀にローマ軍がギリシアへ侵攻すると、ギリシア人の奴隷によってパ...古代ギリシアと古代ローマのパン文化

  • カルタゴとローマの戦い

    カルタゴとローマの戦い食の歴史に直接関係ないが、ここで古代ローマが地中海の支配権を獲得してゆく経緯を見て行こう。ローマが地中海を支配するようになる上で重要だった存在がカルタゴだ。カルタゴは紀元前814年に、地中海東部のフェニキア人の都市国家ティルスの植民都市として作られたという伝承があるが、実際はそれよりも後の建設と考えられている。カルタゴはちょうど地中海の中央部に存在し、地中海西部と本国のある東部との海上貿易の中継基地としての役割を担っていた。アケメネス朝ペルシアとギリシアが戦ったペルシア戦争ではフェニキア人はペルシア軍の海上部隊の主戦力だったが、カルタゴもペルシア側につき、シチリア島にあったギリシア植民都市シラクサを攻撃した。しかし紀元前480年、ペルシア軍がサラミスの海戦でアテネ軍に敗れたその日に、シチリ...カルタゴとローマの戦い

  • 古代ギリシアの宴会「シュンポシオン」

    古代ギリシアの宴会「シュンポシオン」哲学者プラトン(紀元前427年~前347年)の中期の著作に「饗宴(ギリシア語:シュンポシオン」がある。このシュンポシオンは元々「宴会」という意味で、プラトンが著作の題名に使ったことにより、以降は「アットホームの雰囲気で行われる議論」のことをこう呼ぶようになった。ちなみに、シュンポシオンは現代の討論会「シンポジウム」の語源でもある。ここでは、宴会の方のシュンポシオンを見ていきたい。古代ギリシアのシュンポシオンは、食後に同じ上流階級の男性が集まって執り行われた。神々に酒をお供えし、アポロンを讃える歌を合唱することでシュンポシオンは始まる。シュンポシオンは公的なものではなく、酒を通して人々が神々と交わるために催された詩的な集まりと考えれば良い。古代ギリシアで酒と言えばワインだが、古...古代ギリシアの宴会「シュンポシオン」

  • ギリシアからローマへー古代ギリシアと古代ローマの食文化(2)

    ギリシアからローマへここで、地中海の中心が古代ギリシアから古代ローマへ移る過程を概観しておこう。古代ギリシアは統一国家ではなく、個々が独立した都市(ポリス)が宗教と言葉を礎にしてゆるやかに集まったものだった。ポリスごとに産業形態や政治形態、軍事力などが異なっているため一概に述べることが難しい。古代ギリシアで有名なポリスと言えば、アテネ(アテナイ)とスパルタだ。アテネはギリシア南部に比較的広い耕作地を有するとともに、サラミスと言う良港を使って海外貿易を行うことで繁栄した。最盛期には12万人もの市民がいたと言われる。また、ソクラテス・プラトン・アリストテレスなどの思想家が活躍した地としても有名だ。一方、スパルタもギリシア南部のポリスで、強力な陸軍を持っていた。子供のころからスパルタ教育と呼ばれる厳しい軍事教育を行っ...ギリシアからローマへー古代ギリシアと古代ローマの食文化(2)

  • 古代ギリシアの農耕と食生活ー第2章4部 古代ギリシアと古代ローマの食文化(1)

    第2章4部古代ギリシアと古代ローマの食文化ここからは、古代ギリシアと古代ローマの農耕や食生活について見ていきたいと思う。古代ギリシアの農耕と食生活古代ギリシアのポリスでは原則として自給自足が目指されたが、ほとんどの場合で植民地や貿易で得た物資が無ければ人々の生活は維持できなかった。ギリシア本土での農耕は基本的に灌漑を利用しない天水農法であったが、野菜は例外的に限られた土地で灌漑農法によって栽培されていた。家畜の糞を利用する肥料は既に使用されていたようだが、家畜の絶対数が少ないために地質を維持するのはかなり難しかったようだ。また、土壌の流出を防ぐために農地を階段状にするなどの工夫を行ったが、それでも土壌の喪失は深刻だった。哲学者のプラトン(紀元前427年~前347年)は、森林伐採によって引き起こされた土壌流出によ...古代ギリシアの農耕と食生活ー第2章4部古代ギリシアと古代ローマの食文化(1)

  • フェニキア人の歴史ー灌漑農業の行き詰まりと新しい食の革命(6)

    フェニキア人の歴史地中海における海上貿易や植民地を考える上で、フェニキアについて触れないわけにはいかない。「フェニキア」とはギリシア語で「赤紫」のことで、フェニキア人が最初期に居住していた地中海東北部沿岸で採れた貝の染料から名づけられたと推測されている。現在のシリア、イスラエル、レバノンに相当するこの地域では、レバノンの国旗にも描かれている「レバノンスギ」が重要な輸出品として伐採されていた。レバノンスギは腐食しにくく、太くて堅い材質のため、船や神殿などの建築資材に最適だった。ちなみに、エジプトのクフ王のピラミッド近くに見つかった「太陽の船」はこのレバノンスギでできている。このように船の建材として有用な木材を産出したこともあって、フェニキア人は優秀な船を作り、航海術にもたけていた。そして、地中海沿岸部を結ぶ交易網...フェニキア人の歴史ー灌漑農業の行き詰まりと新しい食の革命(6)

  • 古代ギリシアの歴史ー灌漑農業の行き詰まりと新しい食の革命

    古代ギリシアの歴史少し繰り返しになるが、ここでヨーロッパの歴史で重要な役割を担ったギリシアの歴史と食料生産の変遷について見て行こう。紀元前7000年前頃から始まるギリシアの新石器時代までは、人々は洞窟などに住んで狩猟採集生活を行っていたと考えられている。新石器時代に入るとオリエントより農耕技術が伝えられ、主に北部に定住化して大麦・小麦やレンズ豆などを栽培するようになった。また、ヤギ・ヒツジ・ウシ・ブタなどを家畜として飼い始めた。紀元前3000年頃から始まる青銅器時代になると、新石器時代に中心だったギリシア北部からギリシア南部へと文化の中心が移動した。その理由は、地中海の三大作物(小麦・オリーブ・ブドウ)のうち、オリーブとブドウの栽培にギリシア南部の丘陵地帯が適していたからである。これらの作物からは交易品として高...古代ギリシアの歴史ー灌漑農業の行き詰まりと新しい食の革命

  • ペルシアの新しい灌漑方法ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命(4)

    ペルシアの新しい灌漑方法紀元前525年に遊牧民国家のアケメネス朝ペルシアがオリエント世界を統一した(図参照)。このように、西南アジアの中心がチグリス・ユーフラテス川流域からイラン高原に移った要因の一つが、ペルシア帝国が生み出した新しい灌漑設備である「カナート」だ。カナートはアラビア語で地下水路を意味しており、地下に水を通すことで天日による蒸発を防げることから、乾燥地帯に適した灌漑設備だ。カナートでは山麓部でわき出た泉の水や井戸の水を目的の土地まで導く。このために、数十メートルおきに竪穴を掘り、その間を地下水路で結ぶことで離れた土地まで水を運んでいく(図参照)。水路の全長は長いもので数十キロメートルに達する。こうして水路が地表に出る場所に耕地と集落が作られた。カナートは紀元前6世紀までにイラン高原に作られ、ペルシ...ペルシアの新しい灌漑方法ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命(4)

  • 騎馬遊牧民の誕生ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命(3)

    騎馬遊牧民の誕生遊牧民は一つの場所に定住することなく、一年を通じて居住する場所を何度か変えながら、主に牧畜によって生計を立てている集団である。多くの場合、数家族からなる小規模な集団で家畜の群れを引き連れて移動を行う。ただし、厳しい冬の季節は数十から数百の家族が集まり助け合うこともあるそうだ。このような遊牧民は、草原地帯で農耕を営んでいた人から誕生したと想像される。これには紀元前2500年頃からの乾燥化が大きな要因となっていると考えられる。この遊牧民誕生の経緯については既に第一章の「放牧から遊牧へ」で触れているので、ここでは、高い機動力と軍事力を発揮することで世界史に大きな影響力を及ぼした「騎馬遊牧民」について見て行こう。騎馬遊牧民が高い機動力を発揮するためには「車」と「ウマ」が必須だった。車によって輸送能力が格...騎馬遊牧民の誕生ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命(3)

  • エジプト・ヨーロッパ・アジアの古代文明の盛衰ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命

    エジプト・ヨーロッパ・アジアの古代文明の盛衰次に、メソポタミア以外の文明がどのような経過をたどったか見て行こう。エジプトではナイル川の氾濫水が豊富にあったため、塩害は起こらず農産物の生産量も維持された。しかし、オリエントで勢力を拡大した他国により次第に干渉を受けることになる。やがて紀元前663年に、メソポタミアのチグリス川上流地帯を起源とするアッシリアが鉄製の戦車と騎馬を使った強い軍事力によってメソポタミアとエジプトを含むオリエント世界を統一し、最初の世界国家を樹立した。その後、紀元前525年には、遊牧民国家のペルシア帝国(アケメネス朝)がオリエントの支配者となった。その頃地中海東部の沿岸では、ポリスと呼ばれる大小の都市国家が繁栄していた。この繁栄に寄与したのが後に詳しく見ていく交易と植民地だ。ポリスはお互いに...エジプト・ヨーロッパ・アジアの古代文明の盛衰ー灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命

  • 塩害で衰退したメソポタミア文明ー2・3 灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命(1)

    2章第3部灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命順調に船出した四大文明だったが、その後の存続という意味では明暗が分かれた。その明暗を分けた要因が「塩害」だ。川の水には少しばかりの塩が含まれている。この塩を含んだ水を用いて灌漑を行っていると土壌中に塩が蓄積されていく。特に乾燥地帯では、強い日光によって水路の水が蒸発することで塩分が濃縮されるのだ。また、乾燥地帯の地下水には塩分が多く含まれており、灌漑水によって、この塩分が毛水管現象により土壌表面まで引き上げられてしまう。こうして土壌中の塩分濃度が高くなると作物は育ちにくくなる。例えばイネは塩分濃度が0.2%以上になると生育が悪くなる。一方、ムギ類は比較的塩分に強いが、それでも塩分濃度が0.5%を超えると耐えられない。また、コムギはオオムギよりも塩分に弱い。この...塩害で衰退したメソポタミア文明ー2・3灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命(1)

  • インダス文明の食生活ー四大文明の食の革命(11)

    インダス文明の食生活インダス文明とは、紀元前2600年頃から紀元前1800年頃までインド西北部のインダス川流域で栄えた都市文明である。モヘンジョダロやハラッパ、ドーラヴィーラーが有名な遺跡として知られている。インダス文明で使用されていた文字は未だに解読されておらず、また、遺跡の多くがパキスタンに属しており調査が進んでいないことから、未解明な部分がたくさん残されている文明だ。この地域の丘陵地帯では紀元前7000年頃から小麦・大麦の栽培、ヒツジ・ヤギ・ウシの飼育を行っていたことがわかっている。そして紀元前3000年頃からインダス川流域でインダス文明の基礎となる集落が形成され始めたと考えられている。この地域(インド)に特徴的な食と言えば「カレー」だ。カレーにはターメリックやクミン、ジンジャー(ショウガ)、コリアンダー...インダス文明の食生活ー四大文明の食の革命(11)

  • 古代中国の食生活ー古代文明の食文化の革命(10)

    古代中国の食生活中国は広大だ。古代中国では乾燥地帯の黄河流域と高温多湿地帯の長江流域で文明が発生したが、得られる食料に大きな違いがあったと推測される。つまり、長江流域ではコメの栽培が可能だったが黄河流域はコメの栽培に適しておらず、それ以外の穀物、中でも「アワ」が主食になった。尚、「米」は元々はアワを表した文字であったと言われている。アワは野生のエノコログサ(ネコジャラシ)を栽培化することで誕生した。野生のエノコログサは実が成熟すると脱粒するが、栽培化したアワでは脱粒が起きにくくなった。アワは紀元前6000~前5000年の黄河流域の斐李崗遺跡・磁山遺跡で栽培されていたことが確認されている。紀元前2000年の喇家遺跡ではアワで作った麺が見つかっており、これが現在のところ世界最古の麺である。ちなみに、喇家遺跡は黄河の...古代中国の食生活ー古代文明の食文化の革命(10)

  • エジプトの食生活ー古代文明の食文化の革命(9)

    エジプトの食生活エジプトはナイル川が運んでくる肥沃な土壌のおかげでメソポタミアに比べて土地の生産性が高く、長期間にわたって文明を維持することができた。その結果、豊かな食文化が形成されていった。古代エジプトで食事の基礎となったのが大麦と小麦だ。これらはパンとビールの製造に使用された。大麦と小麦は石板と石をすり合わせて粉にした。ちなみに、石臼の登場はギリシア・ローマ時代まで待たなければならない。パン生地には動物の油脂や蜂蜜、イチジクやナツメなどの果実が入れられる場合もあり、また、焼きあがったパンに果実をはさんだり、ナツメヤシで作ったマーマレードが塗られたりして食べられた。エジプトの菜園では主にタマネギ・西洋ネギ・ニンニクが栽培され、それ以外にヒヨコマメ、ソラマメ、レンズマメなどの豆類やスイカ、キュウリ、メロンなどが...エジプトの食生活ー古代文明の食文化の革命(9)

  • メソポタミアの食生活ー古代文明の食文化の革命(8)

    メソポタミアの食生活メソポタミアの食生活を考える上で重要な植物がナツメヤシだ。高温や乾燥、塩害に強く、木の高さが25メートルにもなることで日陰を生み出すため、高温乾燥地帯のこの地域に根差した植物となった。ナツメヤシの実は糖分とビタミンが豊富で貴重な栄養源になった。また、先に述べたように酒の原料になったり、乾燥させて保存食にしたり、粉にしてパンのように焼いたりして食べた。一方、ナツメヤシが作った日陰ではタマネギやニンニクなどの野菜が栽培され、メソポタミアの食生活を支えるかなめとなる存在だったのである。ちなみに、旧約聖書にある「生命の樹」とはこのナツメヤシのことだ。次に、メソポタミアの食卓を覗いてみよう。肉料理には主にヒツジとヤギの肉が使われた。これらの家畜は休耕地で飼育されていたようだ。耕作に利用されていたウシも...メソポタミアの食生活ー古代文明の食文化の革命(8)

  • 酵母の栽培化ー古代文明の食文化の革命(7)

    酵母の栽培化パンや酒を作るために利用されてきた酵母は、人類の生活や文化に必要不可欠なものだ。それでは、酵母とは何者だろうか。こう問われて、はっきり答えられる人はそういないのではないかと思う。酵母とは単一種類の微生物ではなく、カビやキノコなどの仲間のうちで、一つの細胞で独立に生活するもの(単細胞生物)の総称だ。現在までに、約1500種の酵母が知られているが、この中で食品に利用されているのはほんの数種類だ。特に、パン酵母、ビール酵母、ワイン酵母、清酒酵母はすべて「サッカロマイセス・セレビシエ」という同じ種類の酵母になる。近年の研究から、食品に利用されている酵母は野生に存在しているものではなく、長い年月をかけて人為選択を受けることで品種改良進んだ結果生み出されたことが分かってきた。つまり、ムギやイネなどと同じように「...酵母の栽培化ー古代文明の食文化の革命(7)

  • 東アジアの酒造りの歴史ー古代文明の食文化の革命(6)

    東アジアの酒造りの歴史中国の酒造りは紀元前5000年頃に、コメを原材料にして始まったと考えられている。最初の酒は、桑の葉でご飯を包み発酵させたものであったとされる。紀元前2000年頃から紀元前1500年頃の中国最古の王朝だった夏では、酒造りが本格的に開始されていたようだ。さらに、次の王朝の殷の時代(紀元前1500年頃から紀元前1046年)には、麹菌を使用して酒が造られるようになった。この頃の遺跡からは、大規模な醸造をうかがわせる遺物が残されている。ところで、夏や殷の滅亡の原因を、王族・貴族たちの酒の飲み過ぎとする説がある。当時の酒器には青銅器が使われていたが、ここにヒ素が含まれることがあり、酒に溶け出すことでヒ素中毒になってしまったということだ。ちなみに、銅の酸化物である緑青は猛毒であると信じられていた時期があ...東アジアの酒造りの歴史ー古代文明の食文化の革命(6)

  • オリエントの酒造りの歴史ー古代文明の食文化の革命(5)

    オリエントの酒造りの歴史人類が飲んだ最古の酒は蜂蜜酒だ。1万年以上前に、水で薄まった蜂蜜に酵母が入ることで生じたと考えられている。現代でもたくさんの種類の蜂蜜酒(ミード)が販売されているが、元になる花の蜜の違いによって風味が全く異なる。次に古い酒がワインだ。紀元前5400年頃の肥沃な三日月地帯の高原遺跡から、ワインが入れられていた壺が見つかっている。そして、紀元前4000年頃にはメソポタミアにおいてワインの本格的な醸造が始まったと考えられている。その頃の醸造方法は、壺の中にブドウを詰め、粘土でフタをして発酵させるというものだった。ただし、メソポタミアの南部ではブドウは育たないため他の地域から運んでくるしかなく、当時は高級な飲み物だった。一方、メソポタミアからワインの醸造法が伝わったエジプトでも、紀元前3000年...オリエントの酒造りの歴史ー古代文明の食文化の革命(5)

  • 酒の誕生ー古代文明の食文化の革命(4)

    酒の誕生現代社会でも重要な飲料である酒が盛んに作られるようになったのは古代文明からだ。それまでは、せいぜい蜂蜜が発酵した蜂蜜酒くらいしかなかった。本格的な酒造りは農耕の発展とともに始まった。というのも、酒を造るためには材料となる穀物や果実などが必須であり、それらが食べる以上に余っていないと酒造りに回せないからだ。つまり、作物の生産量が増えて余剰分が出てきたために、酒造りが始まったと考えられる。酒に含まれるアルコールはほとんどの場合、酵母のアルコール発酵によって作られる。酵母は糖を分解して炭酸ガスとアルコールを生成する。このアルコールが蓄積されることで酒ができるのだ。ワインなどの果実酒は、果実中の糖分が直接アルコール発酵されることで作られる。一方、オオムギやコメには糖分が含まれていないため、ビールや日本酒を作る場...酒の誕生ー古代文明の食文化の革命(4)

  • パンの誕生ー古代文明の食文化の革命(3)

    パンの誕生現代のパンは「発酵パン」と呼ばれ、コムギやライムギなどの良質のグルテンを含んだ穀物を粉にして、水と塩、砂糖などを加えてこねたのち、酵母で発酵させることで膨らませてから焼くことで作られる。酒を造る時と同じように、酵母は発酵によって砂糖を炭酸ガスとアルコールに変える。この炭酸ガスが網目状になったグルテンの間に入ることでパンは膨らむのだ。アルコールはパンを焼くときに蒸発してしまい、出来上がったパンには残らない。ところで、人類が最初に作ったパンは酵母による発酵を行わずに、ただ単にこねて焼いただけの「無発酵パン」だった。紀元前6000年から4000年頃の古代メソポタミアでのことだ。こうして作られたパンはやわらかくなかったが、水分が少ないため腐りにくく、食べたいときにすぐに食べることができたので便利だった。平たく...パンの誕生ー古代文明の食文化の革命(3)

  • かまどの進歩ー古代文明の食文化の革命(2)

    かまどの進歩第一章の「肉食と火の革命(2)」でお話ししたように、火を利用することによって食べ物の消化・吸収が良くなるとともに風味も増す。この火の利用の進歩も文明都市社会を作る上で必須の要件だった。人類が火で加熱調理を始めた頃は、たき火などの直火が使われた。ところが、この方法では熱が周りに逃げたり、風が強いと火が揺らいだりするため効率が悪い。また、火力の調節も難しかった。これらの問題を解決するために土や石などで作られた「かまど」が発明された。上部に穴があいた円筒状のかまどは鍋などをのせると熱を閉じ込めることができ、下部にあいた口から空気を送り込むことで火力の調節も簡単だった。また、調理者は火の放射熱にさらされなくなったため、より高温で調理することができるようになり、調理時間の短縮にもつながった。この結果、大量の調...かまどの進歩ー古代文明の食文化の革命(2)

  • 2・2 古代文明の食文化の革命ー塩が文明を支えた

    2・2古代文明の食文化の革命文明社会が形成されるにつれて職業の専門化が進み、料理人や特定の食品を作る職人が登場した。その結果、食生活は豊かになって行く。ここからは、古代文明での食文化における様々な革命について見て行こう。塩が文明を支えた牧場見学に行くと、牛などの家畜が白い石のような塊を美味しそうに舐めているのを目にすることがある。この白いものは「塩(塩化ナトリウム)」だ。餌の牧草に塩の成分のナトリウムがほとんど含まれていないため、塩を与えることでナトリウムの補給をしているのだ。ナトリウムは動物にとって必須のミネラルだ。ナトリウムが不足すると、腸で栄養素を吸収することができないし、心臓や筋肉を動かすこともできない。また、神経細胞も機能しなくなる。肉にはナトリウムがたくさん含まれているため、主に肉を食べているとナト...2・2古代文明の食文化の革命ー塩が文明を支えた

  • 古代都市の形成ー四大文明の食の革命

    古代都市の形成大河のほとりの新生活では、肥沃な土壌で潅漑を行うことによって生産力を増大させることに成功した。しかし一方で水路や農地の管理・維持のために多くの人力が必要になった。そのために周辺の地域の人々を呼び込み、定住してもらうような働きかけが行われたと考えられる。その結果、人口が急増したと考えられる。この人口増加には、人々の密集化にともなう出生率の増加も関係していると推測される。それでは、この人口増加はどのような影響を及ぼしたのだろうか。身近な例で考えてみよう。現代社会で一人暮らしをしていると、食事の準備と後片付け、掃除、洗濯など日常生活の様々な作業を自分一人でこなさなければいけない。ところが、結婚して夫婦二人の共同生活を始めると家事を分担するようになる。この役割分担が家事の効率化に重要だ。例えば、一方が食事...古代都市の形成ー四大文明の食の革命

  • 畜力の利用ー四大文明の食の革命

    畜力の利用古代文明で農作物の生産量を増大させたもう一つの技術が、動物の力を借りた農耕だ。家畜の大きな力を利用することで、人力だけの時よりも農地を深く広く耕せるようになり、作物の生産性が著しく増大した。このため、畜力の利用を潅漑農法とともに食料生産の大革命と呼んでも良い。農耕や耕作という言葉には「耕」という文字が入っているように、作物を栽培する時に最初に行うのが「耕す」という作業だ。つまり、土を掘り起こして反転させることで土壌を柔らかくし、作物を育てやすくするのだ。耕された土壌では作物の根が自由に伸びる。そうすると、根が水と栄養素を吸収しやすくなって良く生育するようになる。また、雑草を除去したり、枯れ草をすきこんで腐植を増やしたり、土に酸素を含ませることで有機物の分解を促進させて栄養分を増やす効果も期待できる。人...畜力の利用ー四大文明の食の革命

  • 灌漑農法ー四大文明の食の革命

    灌漑農法乾燥した平原で農耕を始めた人々は、水を雨に頼っていた天水農法に比べて、自らの手で毎日水やりをした方が農作物は良く育つことに気がついたはずだ。しかし、水を川から運ぶのは大変だ。特に農地までの距離が長くなると大変な重労働になる。これでは、多くの人口を養うだけの広い農地を作ることはできない。そこで古代人は画期的な方法を開発した。それが、水路やため池、井戸を農地の近くに作ることで水を利用しやすくした「灌漑(かんがい)農法」だ。水路は川の近くに作った方が労力は少なくて済む。また、氾濫しやすい川の近くでは、ため池も作りやすい。井戸の水も川の近くの方が出やすい。そこで、農地の近くまで水路が引かれ、ため池が作られ井戸が掘られた。メソポタミア平原には紀元前5500年頃から堤防と用水路、貯水池が作られ、灌漑農業が始まったと...灌漑農法ー四大文明の食の革命

  • 新天地は乾燥地帯ー四大文明の食の革命

    新天地は乾燥地帯四大文明が生まれるためには、土壌以外にも重要な要件があった。それは、四大文明が誕生したチグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、そして黄河の流域のいずれもが「乾燥地帯」であったということだ。当時も今もそれほど気候が変わっていないと考えられている。そこで、現在の年間降水量を見てみよう。すると、チグリス・ユーフラテス川流域のバクダッドは約150㎜、ナイル川流域のカイロは約30㎜、インダス川流域のジャコババード約100㎜、黄河流域の西安は約500㎜となる。ちなみに、東京の年間降水量は約1500㎜で、四大文明の発祥地の降水量がとても少ないことは明らかだ。この極端に少ない降水量が食料の大量生産にとても重要だったと考えられるのだ。どういうことだろうか。雨が降らないということは、つまり晴れる日が多いとい...新天地は乾燥地帯ー四大文明の食の革命

  • 肥沃な土壌とは何か?-四大文明の食の革命

    肥沃な土壌とは何か?植物が生育するためには、光・二酸化炭素・水のほかに、14種類もの栄養素を土から取り込む必要があることが分かっている。中でも、「窒素」「リン酸」「カリウム」は植物の生育のために大量に必要なことから「三要素」と呼ばれる。このため、現代の複合肥料の多くにこの三要素が含まれている。このように、土壌は水に加えて、さまざまな栄養素を根に供給する役割を果たしている。そして肥沃な土壌とは、植物に十分な水と栄養素を供給できる土壌のことなのだ。土壌は、岩石が風化することでできた砂や粘土などの成分と、植物や動物の遺体が部分的に分解された「腐植(ふしょく)」が混ざることで形成される。枯れてしまった植物や動物の死体などの有機物は微生物により分解されるが、一部は分解途中で残っている。この分解途中のものが「腐植」だ。腐植...肥沃な土壌とは何か?-四大文明の食の革命

  • 河川流域の肥沃な土壌-四大文明の食の革命

    河川流域の肥沃な土壌古代人たちは雨が多い地域での農耕と牧畜が行き詰まりを見せ始めると、それ以外の土地での生活を模索したと考えられる。しかし、農耕に必要な水は少ない。そのような土地で農耕を行う場合には、水をどこからか調達しないといけない。また、生活のための飲料水も必要だ。そこで、水がすぐ手に入る川や湖のほとりに農地を作り、試験的に作物を育ててみたと思われる。こうして生産性が高い土地を見つけて移住が決まったと考えられる。それが、四大文明が生まれた大河流域だったのだろう。よく言われていることだが、四大文明が生まれた大河流域が作物の生産性が高い「肥沃な土壌」であったことが決め手だった。「エジプトはナイルのたまもの」とは、ギリシアの歴史家ヘロドトスの有名な言葉だ。エジプトが繁栄したのはナイル川が上流から運んでくる肥沃な土...河川流域の肥沃な土壌-四大文明の食の革命

カテゴリー一覧
商用