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2020/04/28

1件〜100件

  • ユダヤ系移民の食-アメリカの産業革命と食(8)

    ユダヤ系移民の食-アメリカの産業革命と食(8)ユダヤ人の国と言えばイスラエルで、2014年の調査ではおよそ610万人のユダヤ人が暮らしているとされています。イスラエルに次いでユダヤ人の多い国がアメリカ合衆国です。国内には500万人以上のユダヤ人が居住しているそうです。アメリカの人口は3億人を超えるためユダヤ人の比率はそれほど高くないのですが、ビジネスや科学、芸術などの世界で成功したユダヤ人が多いため、アメリカの政治や社会に対する影響力はかなり大きいと言われています。アメリカ政府が親イスラエルなのは、このような理由もあると思われます。ところで、ユダヤ教には厳密な食の戒律があることが知られています。そのため、ユダヤ系移民の食文化はアメリカでも独特なものと言われています。今回はこのようなユダヤ系移民の食について見て行...ユダヤ系移民の食-アメリカの産業革命と食(8)

  • ドイツ系移民の食-アメリカの産業革命と食(7)

    ドイツ系移民の食-アメリカの産業革命と食(7)「アメリカンドリーム」とは、「誰もが身分や出自の関係なく平等に機会を得て、豊かな生活を追求できる」というアメリカ合衆国建国以来の理想理念と言われています。そして、アメリカには、アメリカンドリームの実現を目指して、主にヨーロッパからたくさんの人々が移住してきます。アメリカへの移民は、1880年頃までは主にドイツやアイルランドの出身者でしたが、それ以降はイタリアなどの南欧の国や、ポーランドやロシアなどの東欧、中国や日本などのアジアといったように出身国の多様性が高まります。そして、これらの国々からはその国独自の食文化がアメリカに導入され、それらがイギリス料理を基本としたアメリカ料理に融合することで、アメリカ独自の料理が生み出されて行きます。今回からアメリカにやってきた移民...ドイツ系移民の食-アメリカの産業革命と食(7)

  • レヴァニを食べる

    今日は妻が東京ジャーミィで買ってきたトルコのお菓子レヴァニを食べました。セモリナ粉で作った甘い焼き菓子です。こんな感じで販売されています。半分ずつ食べました。とても甘そうに見えますが、それほどきつい甘さではなく、独特の良い香りの美味しいお菓子でした。レヴァニ以外にはこれも買いましたが、食べるのはまた今度です。レヴァニを食べる

  • 缶詰の歴史-アメリカの産業革命と食(6)

    缶詰の歴史-アメリカの産業革命と食(6)昔、アメリカのスーパーマーケットで買い物をしたときに、日本では見かけないホウレンソウの缶詰を見つけて購入したことがあります。アニメの『ポパイ』を思い出したからです。アニメでは主人公のポパイがホウレンソウの缶詰を食べると怪力を発揮していました。部屋に戻って缶詰のフタを開けると、水煮したホウレンソウが入っていました。どうして食べようかと思いましたが、ポパイが缶詰のホウレンソウをそのまま食べていたため、私もそうしてみました。しかし、味付けがほとんどされていないため、食べるのに苦労した記憶があります。実は、アメリカなどでは、ホウレンソウの缶詰はトマトケチャップと混ぜてパスタのソースにしたり、他の野菜と混ぜてサラダにしたりなど、料理の材料として使用されるようです。さて、今回は缶詰の...缶詰の歴史-アメリカの産業革命と食(6)

  • びん詰の歴史-アメリカの産業革命と食(5)

    びん詰の歴史-アメリカの産業革命と食(5)最近は店先に並ぶ食料品の容器としてはプラスチック製のものが主流を占めていますが、びん詰や缶詰も多く使用されています。特に固形物についてはびん詰や缶詰になることが多くなっています。今回と次回では、このようなびん詰と缶詰の歴史について見て行きます。産業革命前の欧米では、食料品の輸送に麻袋や木箱、樽、びんなどが使用されていましたが、小売店では19世紀末になっても、砂糖や小麦粉、コーヒー、茶、ドライフルーツなどは客の目の前で計量され、紙に包んだり、袋に入れたりして売られていました。しかし、世紀が変わる頃になると、びん詰や缶詰になった食品が売られるようになります。その背景にはどのような出来事があったのでしょうか?(EnginAkyurtによるPixabayからの画像)******...びん詰の歴史-アメリカの産業革命と食(5)

  • シリアルの始まり-アメリカの産業革命と食(4)

    シリアルの始まり-アメリカの産業革命と食(4)アメリカの朝食の定番はシリアルと言われるように、アメリカ人はシリアルが大好きです。スーパーマーケットの売り上げはパンよりもシリアルの方が多く、清涼飲料水と牛乳に次いで第3位となっているそうです。シリアルには甘いものが多いですが、最近の健康志向から砂糖などの甘味料が敬遠されやすいため、海外でのシリアルの消費量は頭打ち傾向にあるそうです。一方、以前は日本のシリアルの消費量はそれほど多くなかったのですが、近年になってナッツやドライフルーツの入ったグラノーラの人気が急上昇しています。さて、今回は、19世紀のアメリカでシリアルが誕生し、発展して行く様子を見て行きます。シリアルの誕生には健康な食生活を望む社会の要請がありました。また、その発展には、兄弟間、そして会社同士の争いが...シリアルの始まり-アメリカの産業革命と食(4)

  • アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(4)

    アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(4)産業革命によって工業化が進展する以前は、人口の大部分が農業を営んでいました。その頃までの農業は生産性が低くかっため、社会全体が必要とする食糧を生産するために多くの人手が必要だったからです。アメリカ合衆国では19世紀に入って西部の開拓が進みますが、入植者のほとんどは農業や畜産業を営みました。西部で農業が始まった頃の生産性は極めて低いものでしたが、徐々に生産性が高まり、やがて合衆国全体だけでなく、世界を支える食糧生産地として大発展します。今回は、このような発展の要因となった農耕技術の進歩を中心に、アメリカ西部の農業の歴史について見て行きます。***************初期の西部開拓者は農業に未熟で、土地をしっかりと耕さずに作物を育てていたため、生産性が低かっ...アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(4)

  • 肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)

    肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)アメリカ人はステーキやハンバーガーなど、牛肉をたくさん食べるというイメージがあります。実際に牛肉の年間消費量はアメリカ人1人当たり約37㎏となっており、約10㎏の日本人の4倍に近い量を食べている計算になります。アメリカ人が牛肉をよく食べるようになったのは19世紀の終わり頃のことで、それほど古い話ではありません。そこには鉄道の発達が深く関係しているのですが、今回は鉄道の発展とアメリカの肉食文化の関係について見て行きます。***************現代の私たちが食べている食品の中には、海外からはるばる運ばれてきたものがたくさんある。例えば、コーヒー豆や、チョコレートの原料のカカオ豆のほぼすべては外国産だし、食肉、穀物、果物、油、酒類などでも海外から運ばれて来るものが多い...肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)

  • 西部開拓時代-アメリカの産業革命と食(1)

    5・2アメリカの産業革命と食西部開拓時代-アメリカの産業革命と食(1)今回から「アメリカの産業革命と食」のシリーズが始まります。また、本シリーズの次には「ドイツの産業革命と食」のシリーズをお送りする予定です。現代のアメリカとドイツは世界有数の工業国です。このように2つの国が高い工業力を有するようになるのは19世紀の後半からです。両国ではちょうどその頃に産業革命が最盛期を迎え、工業化が大きく進みました。アメリカとドイツの産業革命の特徴は、機械工業や製鉄業などの「重工業」を中心に産業革命が進行したことです。これは、綿織物業などの「軽工業」を中心に始まったイギリスの産業革命と大きく異なっています。イギリスでは軽工業から重工業への切り替えがゆっくりとしか進まなかった一方で、アメリカとドイツでは重工業が急速に発展した結果...西部開拓時代-アメリカの産業革命と食(1)

  • スコッチ・ウイスキーの躍進-イギリスの産業革命と食(8)

    スコッチ・ウイスキーの躍進-イギリスの産業革命と食(8)日本では、「スコッチ・ウイスキー」「アイリッシュ・ウイスキー」「アメリカン・ウイスキー」「カナディアン・ウイスキー」「ジャパニーズ・ウイスキー」を五大ウイスキーと呼んでいます。この中で最もよく飲まれているのがスコッチ・ウイスキーで、ウイスキー全体の消費量の約6割を占めています。ちなみに、日本の本格的なウイスキーはスコッチ・ウイスキーを手本に醸造が始まったという歴史があります。日本で最初に本格的なウイスキーを造った竹鶴政孝は、スコットランドに留学してウイスキー造りを学び、また、スコットランド人のリタ(マッサン)と結婚して帰国します。スコッチ・ウイスキーは、イギリス・ブリテン島北部のスコットランドで醸造されるウイスキーで、スモーキーフレーバーと呼ばれる燻製のよ...スコッチ・ウイスキーの躍進-イギリスの産業革命と食(8)

  • パクス・ブリタニカの食生活-イギリスの産業革命と食(8)

    パクス・ブリタニカの食生活-イギリスの産業革命と食(8)18世紀の後半から世界に先駆けて産業革命がイギリスで始まった結果、イギリスは飛び抜けた工業生産力を有する国へと成長しました。例えば、1870年頃には世界の工業製品の約30%をイギリスが生産するまでになっていました。イギリスで生産された様々な製品は世界各国に輸出されたことから、イギリスは「世界の工場」と呼ばれるようになります。このようにイギリスが貿易大国として大躍進した理由として、工業力の発展に加えて海軍力の強大化があります。イギリスは高い経済力と工業力を駆使して多数の軍艦を建造し続け、世界一の海軍を作り上げました。19世紀末にはトン数換算で世界全体の約8割に達する軍艦を所有していたと言われています。この強大な海軍力を用いて世界中の制海権を獲得し、各国との貿...パクス・ブリタニカの食生活-イギリスの産業革命と食(8)

  • ジャガイモ飢饉-産業革命と食(7)

    ジャガイモ飢饉-産業革命と食(7)アメリカ合衆国には、先祖がアイルランド出身のアイルランド系アメリカ人(IrishAmerican)がたくさんいます。自らの出自がアイルランド系であるという意識が高い人は多く、一説によると、約1割のアメリカ人が自分のことをアイルランド系と考えているそうです。アイルランドは、イングランド・ウエールズ・スコットランドがあるブリテン島の西隣の島で、1649年から1920年代までイギリス(イングランド)の支配を受けていました。このため、アイルランドからイギリスの支配であった北アメリカなどに移住する人が多くいました。特に1840年代後半にアイルランドで「ジャガイモ飢饉」と呼ばれる大飢饉が起きると、数百万人のアイルランド人が北アメリカに移住しました。アイルランド人はイギリス(イングランド)人...ジャガイモ飢饉-産業革命と食(7)

  • ジンの光と影-産業革命と食(6)

    ジンの光と影-産業革命と食(6)「ジン(gin)」はカクテルによく使われる蒸留酒です。ジンを使ったカクテルには「ジントニック」「ホワイトレディ」「マティーニ」「ギムレット」などたくさんあります。ちなみに我が家では、時々ホワイトレディを飲みます。近年は世界的なジンブームと言われていて、日本でも小規模な蒸留所などが造る「クラフトジン」が人気です。クラフトジンとは材料などにこだわって造った高級ジンのことです。「ジンは自由」と言われるように、ジンの定義は「ジュニパーベリーの風味を主とする蒸留酒」となっているだけで、ジュニパーベリー以外の材料に縛りはありません。そのため、ボタニカル(茶や桜などの植物)、ハーブ、スパイス、フルーツなどのさまざまな材料を使うことで、造り手の個性あふれるジンを醸造することができるのです。さて、...ジンの光と影-産業革命と食(6)

  • ヴィクトリア・サンドイッチ

    ヴィクトリア・サンドイッチ前回の「産業革命期のイギリスのパン」でベーキングパウダーの話をしましたが、ベーキングパウダーが使われ出した19世紀に誕生したイギリスのお菓子に「ヴィクトリア・サンドイッチ(ヴィクトリア・スポンジケーキ)」があります。このケーキは、同じ量の小麦粉(ベーキングパウダー入り)と卵、砂糖、バターで作った生地を焼き上げて作ります。下のケーキは一枚のケーキを上下に切り分けて、間にラズベリージャムを塗っていますが、別々に焼いた2枚のケーキでラズベリージャムをはさむのが本当の作り方です。上から粉砂糖をふって出来上がりです。サクサクふわふわとした感じのとても美味しいケーキです。ヴィクトリア・サンドイッチこのケーキの名前の「ヴィクトリア」は当時のイギリス女王だったヴィクトリア(在位:1837~1901年)...ヴィクトリア・サンドイッチ

  • 産業革命期のイギリスのパン-産業革命と食(4)

    産業革命期のイギリスのパン-産業革命と食(4)日本人が朝食に食べるパンと言えば「食パン」が第一にあげられます。食パンとは発酵させたパン生地をフタつきの角型に入れて焼いたもので、外側が型にくっつくことで平らになるため、直方体の形になります。この日本の食パンの元祖は、パン生地を角型に入れて焼いたイギリスの「ホワイトブレッド」だと言われています。ただし、ホワイトブレッドの型にはフタが付いていないため、パンのてっぺんは山型になり、生地の中の気泡も大きくなります。また、大きさも日本の食パンよりも一回りほど小さいです。産業革命期のイギリスではホワイトブレッドがたくさん作られ、朝食やアフタヌーン・ティーで多くの人々の空腹を満たしました。さらに、この時期には、今でもイギリスを代表するパンとなっている「イングリッシュマフィン」な...産業革命期のイギリスのパン-産業革命と食(4)

  • イギリスの砂糖の歴史-産業革命と食(3)

    イギリスの砂糖の歴史-産業革命と食(3)前回のお話しはイギリスの紅茶の歴史でした。イギリスの紅茶にはたくさんの砂糖が入っていましたが、今回は産業革命期のイギリスの砂糖について見て行きます。砂糖は最初は高級品で、上流階級の人々しか口にすることができませんでした。しかし、次第に価格が下がるとともに流通量も増えることで、一般家庭に加えて、肉体労働者も朝食と午後の休憩時に飲むことができるようになりました。今回は、このような砂糖の価格の低下と流通量の増加がどのようにして起こったかを見て行きます。***************ヨーロッパの国々が砂糖の生産を行っていたのがカリブ海の島々(西インド諸島)やブラジルなどの南米大陸だった。この地域に最初にサトウキビが持ち込まれたのは15世紀終わりのコロンブス第2回目の航海の時で、ス...イギリスの砂糖の歴史-産業革命と食(3)

  • ボルシチを食べました

    本日は妻が作ったボルシチを食べました。ボルシチはウクライナの伝統的な料理で、赤紫色のビーツを使った煮込み料理です。ビーツ以外には牛肉とジャガイモなどの野菜が入っています。ウクライナはとても悲惨な状況になっていますが、何とか平和を取り戻してほしいと切に願います。ボルシチを食べました

  • イギリスの紅茶の歴史-産業革命と食(2)

    イギリスの紅茶の歴史-産業革命と食(2)イギリスの飲み物と言われると、まっ先に「紅茶」を思い浮かべる人も多いかと思います。実際に、イギリス人は紅茶を1日に5杯程度飲むと言われており、日本人が毎日たくさんの「緑茶」を飲むのによく似ています。この緑茶と紅茶は見た目も風味もかなり別物ですが、両者はともにチャノキの葉から作られます。しかし、作り方が異なっているので、色と風味が別物になるのです。緑茶の場合は、摘んだ葉をすぐに蒸します。こうすることで、茶の葉に含まれる酵素が壊れ、茶本来の風味を楽しむことができるのです。また、色も薄くなります。一方、紅茶の場合は、積極的に酵素を働かせることで作られます。つまり、摘んだ葉をもむことで酵素をしみ出させ、しばらく置くことで酵素反応を進めます。そうすると、茶の葉に含まれるカテキンなど...イギリスの紅茶の歴史-産業革命と食(2)

  • イギリスの産業革命-産業革命と食(1)

    第五章近代の食の革命イギリスの産業革命-産業革命と食(1)今回から「第五章近代の食の革命」が始まります。「近代」は、産業革命による資本主義社会の成立と、共同体社会から個人を中心とした社会の成立によって特徴づけられます。ヨーロッパの近代は、おおよそ18世紀の後期から始まったとされています。しかし、近代化は急激に進展したのではなく、さまざまな出来事が積み重なることによって徐々に進行したと考えられています。イギリスでは世界に先駆けて「産業革命」が起こりましたが、この産業革命も様々な要因が絡み合うことでゆっくりと進んで行きました。今回は、このようなイギリスの産業革命について見て行くことで、近代化の概要について押さえてみようと思います。なお、今回は「食」に関係する部分はかなり少なくなっています。(emil_ervによるP...イギリスの産業革命-産業革命と食(1)

  • コンブと鰹節-近世日本の食の革命(16)

    コンブと鰹節-近世日本の食の革命(16)「コンブだし」と「カツオだし」は日本料理の代表的な出汁(だし)で、それぞれコンブと鰹節を煮出してとります。コンブにはグルタミン酸ナトリウムといううま味成分が含まれており、鰹節にはイノシン酸という別のうま味成分が含まれていて、これらのうまみ成分によって料理がより美味しくなるというわけです。西洋や中国では、動物の肉からとったエキスが料理のベースになります。このエキスには脂肪分が含まれているため、料理には濃厚な風味が加わります。一方、昔の日本人は動物の肉を食べなかったため、料理の味が素材そのままの単調なものになってしまいがちです。それを補うために発達してきたのが出汁と考えられています。出汁が一般的に広く使われるようになるのは江戸時代からと言われています。今回は、江戸時代のコンブ...コンブと鰹節-近世日本の食の革命(16)

  • 東坡肉(トンポーロー)を食べました

    本日は東坡肉(トンポーロー)を食べました。とても美味しかったです。東坡肉については、以前に「安い豚肉で作った東坡肉(トンポーロウ)-10~17世紀の中国の食(4)」でお話ししました。「安い豚肉で作った東坡肉(トンポーロウ)」はこちら豚肉を砂糖と醤油、紹興酒で煮込みます。香りづけに八角も入っているので、日本の豚の角煮と全く別の料理になっています。八角は英語でstaraniseと呼ばれ、地中海沿岸原産のアニス(anise)と同じ芳香成分が含まれています。アニスは古代エジプトではミイラを作るときに消臭剤として使用されたほど強い香りがします。八角が入ると中華料理らしい風味がぐんとアップします。東坡肉(トンポーロー)を食べました

  • 江戸時代の酒-近世日本の食の革命(15)

    江戸時代の酒-近世日本の食の革命(15)文化人類学的には、江戸時代は飲酒が「ハレ」から「ケ」に変わる時代と見ることができます。「ハレ」とは祭りなどの非日常の行いであり、「ケ」とは日常生活のことを指します。つまり、それまでは祭りなどのハレの場で飲まれていた日本酒が、江戸時代になると日常生活で飲まれるようになったということです。例えば、江戸時代には「居酒屋」が江戸を皮切りに全国に普及するようになり、庶民も気軽に酒を楽しむことができるようになりました。このような背景には、江戸時代になって日本酒の生産量が大幅に増えたことがあります。日常的に飲んでも大丈夫なほどに日本酒の生産が増えたというわけです。今回は「日本酒」を中心に、江戸時代の酒について見て行きます。***************古代の酒は神様にお供えした後に集ま...江戸時代の酒-近世日本の食の革命(15)

  • 江戸時代の果物-近世日本の食の革命(14)

    江戸時代の果物-近世日本の食の革命(14)今回は江戸時代の果物の話です。17世紀の終わり頃まで、食事以外に食べる軽い食べ物はひとまとめにして、「菓子(くだもの)」と呼んでいました。例えば、中国から伝来した「唐菓子」は「とうくだもの」と読みます。そして、果物も菓子に含まれていました。しかし、江戸時代になって和菓子作りが発展すると、両者は区別されるようになります。その結果、人の手で作った和菓子は「菓子(かし)」と呼ばれるようになりました。一方の果物は、江戸では「水菓子」、上方では「くだもの」と呼ばれました。それでは、江戸時代にはどのような果物が食べられていたのでしょうか。***************江戸時代の人々も、現代人と同じように甘い果物が好きだったようだ。しかし、現代とは異なり、甘い果物は限られたものだった...江戸時代の果物-近世日本の食の革命(14)

  • 江戸時代の和菓子(2)-近世日本の食の革命(13)

    江戸時代の和菓子(2)-近世日本の食の革命(13)現在、東京の立川市で、将棋の王将戦第4局が開催されています。もし、この対局で挑戦者の藤井聡太竜王が勝てば、最年少の五冠達成になります。ところで、藤井竜王はどうも和菓子(餡子?)好きらしく、前回の対局でも、会場のホテルが準備したおやつの中から羊羹を選んで食べていたということです。毎度のことですが、この羊羹は大きな話題となり、ホテルにはたくさんの問い合わせや注文が相次いでいるそうです。さて、羊羹には蒸羊羹(むしようかん)と練羊羹(ねりようかん)があり、現在では羊羹のほとんどが練羊羹になっています。ちなみに、藤井竜王が食べた羊羹も練羊羹です。今回は、練羊羹をはじめとして、江戸時代に誕生した和菓子について見て行きます。桜餅(ウイキペディアより:ライセンス)*******...江戸時代の和菓子(2)-近世日本の食の革命(13)

  • 江戸時代の和菓子-近世日本の食の革命(12)

    江戸時代の和菓子-近世日本の食の革命(12)日本でも欧米でも、いわゆる菓子と呼ばれるものの多くは砂糖が入っていて甘いものです。もし、地球上に砂糖がなかったら、多くの菓子が現在のものとは別物になっていたと思われます。砂糖の普及は菓子作りの進歩にとても密接に関係してきました。例えば、ヨーロッパでは、17世紀から18世紀にかけて砂糖が手に入りやすくなった結果、菓子作りの技術が大きく発展しました。同じように日本でも、江戸時代になって砂糖が広く普及するようになって、現在私たちが口にする和菓子が作り出され始めました。そして、江戸末期までに現在の和菓子の大部分が誕生します。一方、このような和菓子の発展には、砂糖以外の材料が入手しやすくなったという背景もあります。例えば、和菓子には、米粉や餅粉、小麦粉などの穀物の粉が使われてい...江戸時代の和菓子-近世日本の食の革命(12)

  • 江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)

    江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)私は毎日、NHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』を楽しく視聴しています。このドラマでは「小豆の餡子(あんこ)」が重要なアイテムになっています。小豆の餡子は和菓子には欠かせないもので、小豆餡の誕生が和菓子のはじまりと言う人もいるほどです。小豆餡は小豆を砂糖と一緒に炊くことで作られます。この砂糖には、単に甘みの元になるだけでなく、保存性を高めるという大事な役割があります。つまり、小豆餡のお菓子が比較的長持ちするのは、砂糖のおかげなのです。砂糖には高い保水効果があります。砂糖は水にはおおよそ倍の量が溶けることができますが、これは砂糖の高い保水効果のためです。そして重要なことは、このように砂糖に結び付いた水は、細菌などには利用できない水であることです。このことが、砂糖が食品の保...江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)

  • 江戸の味噌汁-近世日本の食の革命(10)

    江戸の味噌汁-近世日本の食の革命(10)「御御御付」をどう読むかご存知でしょうか?これは「おみおつけ」と読み、味噌汁のことを意味します。もともと味噌汁はご飯に付ける汁物と言う意味で「おつけ」と呼ばれていましたが、それに尊敬や丁寧さを表す「御」が二つついてできたと考えられています。味噌汁がこのような大そうな名前になったのは、栄養価がとても高い一方で、江戸時代初期にはそれなりに高価な食べ物だったからです。今回は、江戸っ子の大切な一品だった味噌汁について見て行きます。***************味噌汁は鎌倉時代に誕生し、室町時代には武士を中心に広まったとされている。また、味噌は携帯が容易なため、戦国時代には団子状の味噌を戦場に持っていき、湯を注いで食べたと言われる。一方、味噌の原料のダイズは、軍馬の飼料としても使わ...江戸の味噌汁-近世日本の食の革命(10)

  • すしの歴史-近世日本の食の革命(9)

    すしの歴史-近世日本の食の革命(9)今回は、「そば」「てんぷら」と合わせて「江戸の三味」と言われる「すし」の歴史について見て行きます。「すし」と言えば「にぎりずし」を思い浮かべる人が多いと思いますが、「にぎりずし」が生まれたのは18世紀末から19世紀初頭の江戸と考えられており、それまでは別のものが「すし(鮨)」と呼ばれていました。こうして新しく誕生したすしは「江戸前すし」と呼ばれ、今では全国に広がっています。ところで、にぎりずしは、酢を加えたご飯の小さな塊の上に魚介類のすしネタを乗せて握ったものです。材料としては言うまでもなく、「ご飯」「酢」「すしネタ」が必要ですが、この中で「ご飯」に「酢」を入れることが、にぎりずしの誕生には必須でした。この「酢」についても、その歴史を振り返りながら、すしとの関係を見て行きたい...すしの歴史-近世日本の食の革命(9)

  • 油とてんぷらの歴史-近世日本の食の革命(8)

    油とてんぷらの歴史-近世日本の食の革命(8)江戸の屋台で人気の食べ物と言えば、前回の「そば」に加えて、「てんぷら」と「すし」があります。これらは「江戸の三味」と呼ばれました。日本の伝統食に食材を油で炒めた料理がほとんどないことから、日本人はどうも油のことがそれほど好きではなかったように見えます。ところが、油にどっぷりつけて揚げるてんぷらは別格で、高級料亭でも必ずと言っていいほどてんぷらが出て来ます。ただし、てんぷらを揚げた後は油をしっかり切って、なるべく油分が少なくなるようにはしています。今回は、屋台食から高級料理まで上り詰めた「てんぷら」の歴史について見て行きます。***************てんぷらは食材に衣をつけて油で揚げて作る。たね以外に必要なものは、衣を作る小麦粉と揚げるための油だ。特に重要なのが「...油とてんぷらの歴史-近世日本の食の革命(8)

  • そばの歴史-近世日本の食の革命(7)

    そばの歴史-近世日本の食の革命(7)今回は「そば」の話です。時代劇を見ていると、屋台でそばを食べるシーンが時々登場します。先週の『雲霧仁左衛門5』でも、岡っ引きがそばを食べている最中に雲霧の一味が盗みを働いていました。このように、江戸っ子のそば好きは有名です。そばが現在のような形になるのは江戸時代のことで、それが江戸に広まると、瞬く間に江戸っ子の大好きな食べ物になりました。そしてそれ以降、そばはさまざまな進化を遂げながら、江戸や東京になくてはならない食の地位を守り続けています。今回はこのようなそばの歴史を見て行きますが、ここでは麺類の方を「そば」とし、穀物の方を「ソバ」と表します。***************そばが登場する前の日本の麺類としては「うどん」と「そうめん」がある。これらについては、すでに「うどん・...そばの歴史-近世日本の食の革命(7)

  • 醤油の歴史-近世日本の食の革命(6)

    醤油の歴史-近世日本の食の革命(6)醤油は和風の料理には欠かせない調味料です。豆腐や玉子焼き、ゆでた野菜や焼餅にかけたり、刺身やすしにつけたりします。また、ほとんどの煮込み料理に使用されます。このように、和風料理の大部分は何らかの形で醤油を使います。また、最近ではフランス料理などの外国料理やアイスクリームなどで隠し味に使われることもあります。醤油にはうまみの元になる大量のアミノ酸とともに高濃度の塩、そして糖分やアルコールなどが含まれており、これらが組み合わさって醤油の美味しさが生まれます。また、醤油には独特の香りがあり、これも醤油の美味しさを引き立てています。さらに、醤油が焦げると食欲をそそるかぐわしい香りが立ち昇ります。これは醤油に含まれるアミノ酸と糖分がメイラード反応と呼ばれる反応を起こすことで生じる香りで...醤油の歴史-近世日本の食の革命(6)

  • ハチャプリを食べました

    本日は妻が作った「ハチャプリ」を食べました。ハチャプリはジョージア(以前はグルジアと呼ばれました)の国民食であるチーズがたっぷり入ったパンのことです。モッツアレラチーズとカッテージチーズをパン生地で包んでオーブンで焼き、途中で卵を落としてさらにオーブンで焼いて出来上がりです。たっぷりのチーズだけに、まずいわけがありません。たいへん美味しくいただきました。ハチャプリを食べました

  • 「くだりもの」と「くだらないもの」-近世日本の食の革命(5)

    「くだりもの」と「くだらないもの」-近世日本の食の革命(5)「くだらない」という言葉があります。これは「価値のない、無意味だ」という意味で使われます。この「くだらない」という言葉は、江戸時代の初期や前期(1603年から1700年頃)に、江戸やその周辺の地域で生産された物品(地廻り物)に対して使われたものです。それは、その当時の関東と関西の生産性の違いが関係しています。その頃の関東地方は後進地域であり、そこで生み出される物品は低品質なものが多かったのに対して、京都や大阪で生産された物品は長い伝統に裏打ちされて、とても高品質でした。これら京都や大阪などの上方から江戸に運ばれた物品は「下りもの(くだりもの)」と呼ばれました。一方で、低品質の地廻り物は「下らないもの」と呼ばれて区別されたというわけです。今回は「下りもの...「くだりもの」と「くだらないもの」-近世日本の食の革命(5)

  • 米を江戸に運ぶ:河村瑞賢の話-近世日本の食の革命(4)

    米を江戸に運ぶ:河村瑞賢の話-近世日本の食の革命(4)皆さんは「河村瑞賢(かわむらずいけん)」という人物をご存知でしょうか。彼は江戸時代初期の人物で、江戸に米を運ぶ航路を整備したことで知られています。この航路はとても重要で、もしこの航路がなかったら、増え続けていた江戸の人口を支えることができなかったと考えられています。また、同じ航路を使って、米以外のさまざまな物資が江戸に運ばれました。つまり、瑞賢が整備した流通路は、江戸が大都市へと発展する上で不可欠なものだったのです。さて、歴史上には「偉人」とよばれる人物があまたいて、河村瑞賢もそのうちの一人であることは間違いありません。しかし、彼が他の偉人たちと少し異なっているのは、彼が「商人」であったことです。今回は、一介の商人だった河村瑞賢が、江戸時代の主要流通路となっ...米を江戸に運ぶ:河村瑞賢の話-近世日本の食の革命(4)

  • トルティーヤを作りました

    今夜はトルティーヤを作りました。トルティーヤはメキシコなどよく食べられているトウモロコシの粉で作ったクレープのようなものです。材料は石灰水で処理したトウモロコシ粉です。石灰水で処理することで水を混ぜてこねた時に粘り気が出ると同時に、栄養素の吸収も良くなります。石灰水で処理したトウモロコシ粉は市販されていて、簡単に手に入ります。これに水と塩とサラダオイルを混ぜてこねます。そして薄く延ばしてフライパンで裏表を1分ずつ焼けば出来上がりです。これにいろいろな具を乗せてから二つに折ってタコスにして食べました。トウモロコシの味がしっかりして美味しかったです。トルティーヤを作りました

  • パリ・ブレストを食べました

    本日はフランスのケーキ「パリ・ブレスト」を食べました。このケーキは1891年から始まった自転車レース「パリ・ブレスト・パリ」の開催記念に考案されたもので、自転車の車輪のような形をしているのが特徴です。間にはさまれているのはプラリネ(ナッツのペースト)が入ったクリームです。本日食べたパリ・ブレストは名店オーボンヴュータンのものです。美味しさは言わずもがなでした。パリ・ブレストを食べました

  • 江戸を支えた塩-近世日本の食の革命(3)

    江戸を支えた塩-近世日本の食の革命(3)「敵に塩を送る」ということわざがあります。これは「窮地の敵に助けの手を差し伸べる」ことを意味していて、塩不足で困っていた武田信玄を救うために、長年のライバルだった上杉謙信が塩を送ったという故事から生まれたことわざです(実際にはそのような史実はなく、後世の作り話と考えられています)。このようなことわざが生まれた背景は次の通りだったと考えられています。甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元は、それぞれの領地を安定化させるために1554年に軍事同盟を結びました。これを甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)と呼んでいます。ところが、1560年に今川義元が織田信長に討たれ、今川氏真(うじさだ)が当主になると、同盟関係にほころびが見え始めます。最終的に、今川氏真が武田...江戸を支えた塩-近世日本の食の革命(3)

  • 南蛮菓子の伝来-近世日本の食の革命(2)

    南蛮菓子の伝来-近世日本の食の革命(2)前回は南蛮料理のお話でしたが、今回は「南蛮菓子」についてお話します。1541年のポルトガル人来訪から始まる南蛮貿易によって、さまざまな菓子を作る技術が日本に伝わり、南蛮菓子の歴史が始まりました。南蛮菓子には、「カステラ」「ボーロ(ぼうろ)」「ビスケット」「金平糖」「有平糖」「カルメラ」などがあります。これらの南蛮菓子の特徴は、砂糖と卵を使うことで、特に砂糖の甘さは当時の人々を魅了しました。このため、ポルトガルやスペインの宣教師が布教活動を行う上で、これらの南蛮菓子が大いに役立ったと言われています。また、安土桃山時代以降に茶の湯が流行しますが、砂糖を使った南蛮菓子は茶菓子として珍重されました。今回は、日本における砂糖と卵の簡単な歴史とともに、「カステラ」「ボーロ(ぼうろ)」...南蛮菓子の伝来-近世日本の食の革命(2)

  • 南蛮料理のはじまり-近世日本の食の革命(1)

    南蛮料理のはじまり-近世日本の食の革命(1)今回から近世日本のシリーズが始まります。日本の食文化の歴史を見ると、ポルトガル人の種子島漂着に始まる西洋人の到来が日本の食文化に大きな影響を与えます。そのため、本ブログでは、1543年のポルトガル人漂着から江戸時代が終わるまでを近世として扱います。第1回目の今回は、西洋人が日本に来訪することで作り始められた南蛮料理について見て行きます。現代でも、南蛮漬けや鴨南蛮のように、「南蛮」が付く料理がいくつかありますが、これらはどのような経緯で作られるようになったのでしょうか。***************「南蛮」とは、元は中国の考え方で、南方にいる蛮族(異民族)のことを意味していた。しかし、16世紀に日本に西洋人が来訪するようになると、南の海からやって来るヨーロッパ人などを南...南蛮料理のはじまり-近世日本の食の革命(1)

  • パネットーネを食べました

    パネットーネを食べました本日は朝食に妻の作ったパネットーネを食べました。パネットーネについては、本ブログの「ミラノのヴィスコンティ-ルネサンスと宗教改革と食の革命(5)」で取り上げたことがあります。その一部を転載しておきます***************ルネサンス期のミラノで誕生したお菓子としては「パネットーネ(Panettone)」がある。パネットーネはスフォルツァ家が支配した頃のミラノで、クリスマスに欠かせないものとして作られるようになったと言われている。パネットーネはドライフルーツが入った発酵菓子パンだ。材料は小麦粉、砂糖、卵、バター、酵母、そして干しブドウなどのドライフルーツだ。砂糖とバターが入ると小麦粉の生地は発酵しにくくなるが、初乳を飲んだ子牛の腸から採った特殊な酵母を用いてゆっくりと発酵を行うこと...パネットーネを食べました

  • サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシの伝来-17~19世紀の中国の食の革命(5)

    サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシの伝来-17~19世紀の中国の食の革命(5)サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシの原産地はアメリカ大陸です。15世紀末から16世紀初めにかけてスペイン人やポルトガル人がアメリカ大陸に到達すると、これら新大陸の作物はヨーロッパや他の地域に運ばれて栽培が始まります。そして、アメリカ大陸以外の国々でも主要な農作物になりました。サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシについて現在の生産量を見てみると、次のように中国が世界有数の生産国となっています。2019年の中国の生産量(国連食糧農業機関(FAO)の統計より)サツマイモ:5200万トン(ダントツの世界第1位、世界全体の80%を生産)トウモロコシ:2億5000万トン(世界第2位、1位はアメリカ)トウガラシ:1900万トン(世界第3位、1位...サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシの伝来-17~19世紀の中国の食の革命(5)

  • フカヒレの姿煮-17~19世紀の中国の食の革命(4)

    フカヒレの姿煮-17~19世紀の中国の食の革命(4)「フカヒレの姿煮」は、乾燥させたサメのヒレ(フカヒレ)をアヒルやニワトリのスープでじっくり煮込んだもので、濃厚な味わいととろけるような舌触りが味わえる、とてもおいしい料理です。また、「フカヒレのスープ」という、糸状のフカヒレの身が入ったスープも絶品です。フカヒレの姿煮は満漢全席でも重要な料理の一つですが、歴史上に登場したのはそれほど古くなく、明代以降と考えられています。今回は、フカヒレの姿煮の歴史と、近年のフカヒレにまつわる話題について取り上げます。***************「フカヒレ」が初めて記録に現れるのは1596年に南京で出版された李時珍が書いた医学書『本草綱目』だ。サメのことを「背中にかたいヒレがあり、腹の下にはフカヒレがあり、味はいずれも美味しい...フカヒレの姿煮-17~19世紀の中国の食の革命(4)

  • 満漢全席のはじまり-17~19世紀の中国の食の革命(3)

    満漢全席のはじまり-17~19世紀の中国の食の革命(3)国内の反乱などにより滅亡した明(1368~1644年)の後に中国を統治した清(1644~1912年)は、満州族によって建国されました。当時の満州族は50万人程度しかいませんでしたが、一方の明の人口は1億人以上で、その中心は漢族でした。つまり、少数の満州族が大多数の漢族を支配していたのが清の時代です。満州族は漢族の反発を抑えるために、明代の行政制度をほぼそのまま踏襲しました。例えば、明の官僚をそのまま登用し続け、また、科挙も継続して行いました。その一方で、漢族に満州族の伝統的な髪形である辮髪(べんぱつ)を強制するなど、文化の押し付けも行っています。このように、清代では満州族と漢族の融合が進められました。今回取り上げる「満漢全席」も満州族と漢族の食文化が融合し...満漢全席のはじまり-17~19世紀の中国の食の革命(3)

  • 北京ダックの歴史-17~19世紀の中国の食の革命(2)

    北京ダックの歴史-17~19世紀の中国の食の革命(2)北京ダックは、ローストしたアヒルのパリパリした皮を、ネギやキュウリ、テンメンジャンなどのソースと一緒に薄い小麦粉の生地で包んで食べる料理です。伝統的な北京ダックは次のようにして作ります。まず、白いアヒルを放し飼いにした後、15〜20日間強制的にエサを食べさせます。屠殺後は、羽がむしられ、内臓は小さい穴から取り除かれます。そして、皮と肉の間に空気を送り込み、皮と脂肪を分離させます。こうすることで、ローストしたときに張りのあるふっくらとした見た目になります。次に、鴨を吊るして乾燥させ、麦芽糖のシロップをかけて皮をパリパリにします。最後に、伝統的な密閉式オーブン、もしくは、清代に開発された吊り下げ式オーブンを用いて、肉はジューシーに、皮はパリパリになるまでロースト...北京ダックの歴史-17~19世紀の中国の食の革命(2)

  • 北京料理の発展-17~19世紀の中国の食の革命(1)

    北京料理の発展-17~19世紀の中国の食の革命(1)北京は約800年の間、中国の首都として繁栄してきました。この北京には皇帝とその家族が住む宮廷があったため、宮廷料理が発達しました。また、国内外より人々が集まり、それにともなって様々な食文化も持ち込まれました。こうして北京では、それらが融合した独自の食文化が形成されて行きました。今回から中国の食のシリーズが始まりますが、第1回目の今回は、北京料理の歴史について見て行きます。北京料理で有名な北京ダック*************北京は乾燥した土地で、夏は暑く、冬は風が強くて厳しい寒さになる。このため、コメは育ちにくく、コムギとダイズ、そしてアワが主要な穀物だった。コメを食べるためには南方から運んでくる必要があったため、とても高価だったという。こうして、豊かな者は主に...北京料理の発展-17~19世紀の中国の食の革命(1)

  • 南インドの食-中世・近世インドの食の革命(5)

    南インドの食-中世・近世インドの食の革命(5)インド南部は地理的に他の地域と隔絶されているため、外部からの影響をあまり受けませんでした。このため、南インド料理には、4,500年前に栄えた古代ドラヴィダ文化の要素が多く残っています。インドの北部ではナンのように小麦粉を使った料理がよく食べられていますが、南部では小麦粉はあまり使用されず、代わりにコメやマメを使った料理がよく食べられています。また、ココナッツを使った料理もよく作られています。例えば、「アパム」という紀元前から食べられているパンケーキのようなものがありますが、これは米粉とココナッツミルクを混ぜた生地を発酵させてから焼いて作ります。また、以前に紹介したドーサも、コメとケツルアズキ(ウラドマメ、モヤシマメ)の生地を発酵させてから焼いて作ります。アパム(Ch...南インドの食-中世・近世インドの食の革命(5)

  • インドの健康食キチュリ-中世・近世インドの食の革命(4)

    インドの健康食キチュリ-中世・近世インドの食の革命(4)キチュリ(Khichdi)はインド北部の伝統的な料理で、コメとマメ(緑豆やレンズマメ)を使って作るおかゆのような料理です。地域によって様々なバリエーションがありますが、一般的にターメリック(ウコン)が入っていて、黄色をしています。しかし、辛い香辛料は入っていないので、とてもやさしい味です。このため、インドの北部では赤ちゃんが最初に食べる固形物とされていますし、病気の時にもよく食べられそうです。インド北部のハリヤナ州では、キチュリは農村部で主食のような存在であり、温かいギー(バターオイル)やヨーグルトを混ぜて食べることが多いそうです。一方、インド南部ではキチュリはそれほど食べられていません。しかし、かつてインド南部で栄えたハイデラバード州(現在のテランガーナ...インドの健康食キチュリ-中世・近世インドの食の革命(4)

  • ナンの歴史-中世・近世インドの食の革命(3)

    ナンの歴史-中世・近世インドの食の革命(3)日本でインド料理店に行くと、ナンが出てくることが多いです。このため、ナンは日本人のご飯みたいなもので、インド全土で大昔からナンが食べられてきたと日本人の多くの人が思っています。ところが、これは間違っています。インドでは北部のごく一部の人しかナンを食べていませんでした。また、現代のインドでも、ナンを常食にしている人は多くありません。その理由は、ナンは精製した真っ白な小麦粉を使い、焼くためにはタンドールという大掛かりな竈(かまど)を使用する必要があるからです。つまり、高価な小麦粉が買えて、タンドールを持つことができるくらい裕福な人しかナンを焼くことができなかったのです。ちなみに、インド北部の一般庶民は、精製をしていない全粒粉で作った無発酵の生地を、フライパンのような鉄板で...ナンの歴史-中世・近世インドの食の革命(3)

  • グローバルな料理となったサモサ-中世・近世インドの食の革命(2)

    グローバルな料理となったサモサ-中世・近世インドの食の革命(2)インドのポピュラーな料理の一つに「サモサ」があります。サモサ(BreWoodsyによるPixabayからの画像)サモサは、小麦粉で作った皮で具材を包んだのち油で揚げたもので、三角形をしているのが特徴です。一般的には、ジャガイモ・タマネギ・レンズマメ・ひき肉などをクミン・コリアンダー・ターメリックなどのスパイスで味付けをしたものが具材として使用されますが、様々なバリエーションがあり、中には甘いものもあります。インドでは、サモサはあらゆる階級の人に食べられていて、屋台などでも売られていますし、レストランのメニューにも載っています。このように、インドの国民食の一つと言っても良いサモサですが、最初に作られたのはインドではなく、中東だと考えられています。また...グローバルな料理となったサモサ-中世・近世インドの食の革命(2)

  • インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)

    インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)今回から中世・近世インドの食のシリーズが始まります。中世や近世などの時代区分は西洋史で言われ始めたものらしく、他の地域の歴史を語る上ではそのような時代区分をすることが難しい場合があります。それでも、世界はつながっているという考えから、どの国の歴史も古代から現代までの時代区分に分けることが一般的に行われています。しかし、いつからいつまでをどの時代区分にするかは、学者によって異なります。インドの歴史で中世と言うと、インド北部でイスラム勢力による政権が樹立された13世紀頃から始まるとされることが多いので、ここでもそれにならおうと思います。一方、中世の終わりと近世の始まりについては学者によって意見が異なっているようで、ここではイギリスのインド侵略が活発化していく18...インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)

  • アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)

    アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)アルゼンチンは南米ではブラジルに次いで広い面積を有する国で、世界では第8位に位置します。国土は南北に約3700㎞と非常に長く伸びていて、南は南米のほぼ南端に達します。このように、アルゼンチンの領土は南北に長いため、気候は地域によってかなり異なっています。そして、手に入る食材も違うことから、地域ごとに独自の食文化が形成されたと言われています。それでも、アルゼンチンのほとんどの地域では、牛肉をよく使う点で共通しています。アルゼンチンの牛肉消費量は世界トップクラスで、国民1人が1年間に約40kgの牛肉を食べています。ちなみに、日本人の消費量は年間約7kgで、アメリカ人でも約25㎏なので、アルゼンチンの牛肉好きは際立っています。近年では、アルゼンチンから輸出される牛...アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)

  • 近世ブラジルの食-中南米の植民地の変遷(6)

    近世ブラジルの食-中南米の植民地の変遷(6)ブラジルの面積は世界5位の広さを誇り、総人口も2億人を越えて世界6位となっており、ラテンアメリカでは最大の領土と人口を擁する大国です。1600年にポルトガル人のカブラルがブラジルに到達して以降、1822年に独立するまで、ブラジルはポルトガルの植民地でした。ポルトガルの植民地になると、原住民の多くが重労働のために逃げ出したり、病気で亡くなったりしたため、労働力が著しく不足しました。そこでポルトガルは西アフリカから大勢の黒人を運んできて、奴隷として働かせました。こうして、ブラジルでは原住民とポルトガル人、そして黒人が生活することとなり、近世のブラジルの食文化も、三者の食文化が融合することで作られて行ったのです。今回は、このような近世ブラジルの食について見て行きます。***...近世ブラジルの食-中南米の植民地の変遷(6)

  • メキシコ料理の変遷-中南米の植民地の変遷(5)

    メキシコ料理の変遷-中南米の植民地の変遷(5)アメリカ大陸のスペイン植民地の中では、現在のメキシコが最も栄えていたと言われています。その繁栄を支えていたのが銀です。メキシコでは16世紀中ごろのサカテサス銀山の開発を皮切りに、17世紀以降にも次々と新しい銀鉱脈が見つかりました。この銀を輸出することでメキシコは永らく栄えることになったのです。それにともなってメキシコの人口も増え、スペインの植民地の中では最大の人口を誇るようになりました。18世紀末のアメリカのスペイン植民地における総人口は約1300万人と見積もられていますが、メキシコには約600万人もの人が暮らしていました。同じ時期のスペイン本国の人口は500万人から600万人と言われていますが、それに匹敵する数です。この約600万人のメキシコ人の内訳を見ると、両親...メキシコ料理の変遷-中南米の植民地の変遷(5)

  • カリブ料理カラルーのはじまり-中南米の植民地の変遷(4)

    カリブ料理カラルーのはじまり-中南米の植民地の変遷(4)カラルー(callaloo)は、カリブ海の島々やカリブ海に面した地域の伝統的な野菜料理で、この地域のソウルフードと呼んでも良いものです。カラルーは、それぞれの土地で手に入る葉野菜と、オクラやカボチャ、タマネギ、ピーマンなどを油で炒めた後、煮込んで作ります。最近では、ココナッツミルクやトウガラシで味付けされたり、豚肉やカニなどの具材が入れられたりすることがあります。なお、カラルーと言う料理はカリブ海の人々にはとてもなじみ深い料理であることから、カラルーに入れる葉野菜のことも、それぞれの土地でカラルーと呼ばれることがあります。例えば、トリニダード・トバゴでは、タロイモの葉をカラルーに使用しますが、この葉のことをカラルーと呼ぶことがあります。また、ジャマイカでは...カリブ料理カラルーのはじまり-中南米の植民地の変遷(4)

  • カカオ・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(3)

    カカオ・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(3)日本人は1年間に約2.1㎏のチョコレートを食べているそうです。かなり多く見えますが、消費量1位のスイスでは8.8kgだそうで、日本人の4倍も食べています。消費量2位以下には、オーストリア・ドイツ・アイルランド・イギリス・スウェーデンといずれもヨーロッパの国々が続きます。ちなみに、日本は25位となっています。歴史を眺めてみると、ヨーロッパの国々は17世紀頃からチョコレート(カカオ)の虜になったことが分かります。そして、その需要を支えていたのが、ラテンアメリカでのカカオの大農園だったのです。今回は、このようなラテンアメリカにおけるカカオ・プランテーションの展開について見て行きます。カカオ(Stana54によるPixabayからの画像)**********...カカオ・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(3)

  • ジャンバラヤを作りました

    本日はケイジャン料理のジャンバラヤを作りました。材料は下の通りです。これ以外にコメ、カットトマトとコンソメスープの素、オリーブオイル、塩です。ポイントはケイジャン・シーズニングです。ケイジャン・シーズニングは、チリパウダー、クミン、オレガノ、タイム、ブッラックペッパー、バジルなどが入ったミックススパイスです。と手の良い香りがします。作り方は次の通りです。タマネギ、ニンニク、パプリカをみじん切りして、適当に切ったソーセージとひき肉と一緒にパエリア鍋で炒めます。カットトマトと水、コンソメスープの素を入れて煮立たせ、コメとケイジャンシーズニングを入れて30分ほど炊きます。下のように出来上がりました。とても美味しかったです。今回はケイジャンシーズニングが控えめでしたが、もう少し入れても良かったと思いました。ジャンバラヤを作りました

  • コーヒー・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(2)

    コーヒー・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(2)2019年の統計によると、コーヒー豆を最も多く生産した国はブラジルで、約300万トンを生産しています。これは世界全体の生産量(約1000万トン)の30%に相当します。コーヒー生産量の2位以下は、ベトナム(16.8%)、コロンビア(8.8%)、インドネシア(7.6%)、エチオピア(4.8%)となっています。このうち、ブラジルとコロンビアは中南米(ラテンアメリカ)の国であり、ベトナムとインドネシアはアジア、そしてエチオピアはアフリカです。このように、現在ではたくさんの国々でコーヒーが栽培されています。コーヒーはエチオピアが原産地であり、エチオピア以外の国々にはコーヒーノキ(コーヒーの木)が人の手によって運ばれました。今回はラテンアメリカにコーヒーノキが...コーヒー・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(2)

  • 砂糖プランテーションの拡大-中南米の植民地の変遷(1)

    砂糖プランテーションの拡大-中南米の植民地の変遷(1)今回から中南米のいわゆるラテンアメリカのシリーズが始まります。近世のラテンアメリカはヨーロッパの国々の植民地になっていました。そもそも「ラテン」とはスペインとポルトガルが位置している「イベリア半島」のことで、両国が中南米の支配者であったことからラテンアメリカと名付けられました。ところで、黒人奴隷と聞くとアメリカ合衆国を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は北米よりもラテンアメリカに連れて来られた黒人の方がずっと多かったのです。ある研究によると、北米には40万人の黒人が運ばれてきましたが、カリブの島々には460万人、ブラジルやメキシコ・ペルーなどには440万人もの黒人が連れられて来られたと推定されています。また、北米では黒人奴隷はお互いに結婚して子供を残すこと...砂糖プランテーションの拡大-中南米の植民地の変遷(1)

  • 紅茶からコーヒーへ-独立前後の北米の食の革命(10)

    紅茶からコーヒーへ-独立前後の北米の食の革命(10)アメリカ合衆国でお酒以外の飲み物と言えばコーヒーとコーラです。一方、イギリスの代表的な飲み物と言えば紅茶になります。イギリスの植民地だったアメリカ合衆国では最初は紅茶の方がずっと多く飲まれていました。それが、時代が進むにつれてコーヒーの方がよく飲まれるようになります。今回はアメリカ合衆国でコーヒーがよく飲まれるようになったいきさつについて見て行きます。************北アメリカにおける最初のイギリス植民地であるバージニアは、ジョン・スミス船長(1581~1631年)によって1607年に建設された。彼はオスマン帝国を訪れたことがあり、そこでコーヒーに出会い、その虜になったという。そしてバージニアでも入植者たちにコーヒーを勧めたが、広く飲まれるようにはなら...紅茶からコーヒーへ-独立前後の北米の食の革命(10)

  • バーボン・ウイスキーの誕生-独立前後の北米の食の革命(9)

    バーボン・ウイスキーの誕生-独立前後の北米の食の革命(9)アメリカ合衆国で造られるウイスキーを「アメリカン・ウイスキー」と呼んでいます。その中でも有名なものが「バーボン(bourbon)」です。バーボンの特徴の一つは原料にアメリカ大陸原産のトウモロコシを使っていることです。現在のアメリカの法律では、バーボンには51%以上のトウモロコシを使用することが義務付けられていて、残りの原料にはオオムギ・コムギ・ライムギなどが使用されます。バーボン醸造の最初のステップでは、原料に麦芽(発芽させたオオムギ)と水を加え、麦芽に含まれる酵素でデンプンを糖に分解します(糖化と言います)。そして、この液をろ過して酵母を加えると、発酵によってアルコールが作られます。この時のアルコール度数は高くても10%くらいです。次に発酵の終わった液...バーボン・ウイスキーの誕生-独立前後の北米の食の革命(9)

  • グルメでワイン好きのトーマス・ジェファーソン-独立前後の北米の食の革命(8)

    グルメでワイン好きのトーマス・ジェファーソン-独立前後の北米の食の革命(8)1776年7月4日に開催された13植民地による大陸会議においてアメリカの独立宣言が採択されました。そのため7月4日がアメリカの独立記念日になりました。この独立宣言は若干27歳のトーマス・ジェファーソン(1743~1826年)が起草し、いくつかの修正が加えられたのち採択されたと言われています。トーマス・ジェファーソンジェファーソンはその後、バージニアの議員や知事、連合会議代表を務めたのち、1785年から1789年まで全権公使としてフランスに駐在しました。フランスでは公務のかたわら、フランス料理やフランスワインを楽しみ、また、農学研究にいそしんだと言われています。帰国した彼はすっかりグルメで大のワイン好きになっていました。ワシントン大統領の...グルメでワイン好きのトーマス・ジェファーソン-独立前後の北米の食の革命(8)

  • ルイジアナとケイジャン料理-独立前後の北米の食の革命(7)

    ルイジアナとケイジャン料理-独立前後の北米の食の革命(7)ジャンバラヤという料理をご存知でしょうか。ジャンバラヤはアメリカ合衆国南部のルイジアナの伝統料理の一つで、肉と野菜などを炒めたものにコメとスパイスを加えて炊き上げた料理です。これに似た料理にスペイン料理のパエリアがありますが、実はジャンバラヤはパエリアを元に考案されました。ジャンバラヤルイジアナは元々フランス領でした。フランス領ルイジアナは全長約3800㎞のミシシッピー川の流域のほとんどを含むような広大な領域からできていました。その首都はニューオーリンズで、ミシシッピー川の河口に位置します。フランスは現在のカナダにも大きな植民地を有していて、アカディアと呼ばれていました。しかし、イギリスとフランスが戦ったフレンチ・インディアン戦争(1754~1763年)...ルイジアナとケイジャン料理-独立前後の北米の食の革命(7)

  • 紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(6)

    紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(6)「ボストン茶会事件(BostonTeaParty)」はアメリカ独立戦争(1775~1783年)のきっかけとなった出来事としてとても有名な事件で、多くの教科書や書籍に取り上げられています。この事件は、1773年12月に、マサチューセッツ植民地のボストンで先住民の格好に扮した植民地の人々がイギリス東インド会社の貨物船を襲い、積み荷の紅茶を海に投棄したというものです。翌朝たくさんの茶葉が海に漂っていて、それがティーポットのように見えたため、昨夜「茶会」が開かれたというジョークが生まれて「ボストン茶会事件」と呼ばれるようになりました。今回は、紅茶が飲まれるまでの歴史とボストン茶会事件を中心に独立戦争が始まるまでのいきさつについて見て行きます。************...紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(6)

  • 南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(5)

    南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(5)今回はアメリカ独立前の南部植民地の食について見て行きます。独立時の南部植民地は、メリーランド・バージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージアから構成されていました。すでにお話したように、バージニアがアメリカにおけるイギリス植民地の第一号で、1607年に最初の都市ジェームズタウンが作られました。そして、メリーランドは1632年にバージニアの北部を切り取る形で建設されました。1660年のイングランドの王政復古で活躍した貴族たちに与えられたのがバージニアの南にあったカロライナ植民地で、1663年に建設されました。カロライナ植民地は1729年に南北に分割され、さらに1732年にはサウスカロライナの南部を分離することでジョージアが作られました。...南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(5)

  • ペンシルベニア・ダッチの食-独立前後の北米の食の革命(4)

    ペンシルベニア・ダッチの食-独立前後の北米の食の革命(4)今回はアメリカ独立戦争(1775~1783年)を戦った13植民地のうち、ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルベニア・デラウェアから構成される「中部植民地」の食について見て行きます。ハドソン川とデラウェア川流域に築かれた中部植民地は穀物の生産性が高く、カリブ海やヨーロッパに食料を輸出することで栄えていました。この中部植民地の中でペンシルベニアはアメリカの独立運動が始まった地であり、アメリカの歴史をリードしてきた、とても重要なところです。独立運動の実質的な始まりは、1774年に11植民地の代表がペンシルベニアのフィラデルフィアにあるカーペンターホールに集まり、「権利の宣言」などを決議したことだとされています。そして1776年に、フィラデルフィアにある独立...ペンシルベニア・ダッチの食-独立前後の北米の食の革命(4)

  • 北部ニューイングランド植民地の発展-独立前後の北米の食の革命(3)

    北部ニューイングランド植民地の発展-独立前後の北米の食の革命(3)アメリカ独立戦争(1775~1783年)では、北米に築かれた13のイギリス植民地の人々がイギリス軍と戦いました。そして、この13の植民地がのちのアメリカ合衆国を建国することになります。ちなみに、現在のアメリカ合衆国の国旗には50個の星が描かれていますが、これは合衆国が50の州でできていることを示していて、建国当初は13の星が描かれていました。13の植民地は、北から南に向かって「ニューイングランド植民地」「中部植民地」「南部植民地」に分けられます。この3つは成立過程や社会環境が異なっていたため、それぞれ異なる食文化を持っていました。今回は、この中のニューイングランド植民地の食について見て行きます。************アメリカ北部にあったニューイ...北部ニューイングランド植民地の発展-独立前後の北米の食の革命(3)

  • ニューアムステルダムの食-独立前後の北米の食の革命(3)

    ニューアムステルダムの食-独立前後の北米の食の革命(3)「ニューアムステルダム」と言う街をご存知でしょうか。実は、今はニューアムステルダムという街は存在しません。ニューアムステルダムは「ニューヨーク」の昔の名前で、その名前の頃はオランダ人が街を支配していました。オランダの首都がアムステルダムのため、ニューアムステルダムと名付けられたのです。今回は、ニューアムステルダムがニューヨークになるまでの歴史をたどるとともに、当時の食について見て行きます。************アメリカ合衆国の大都市ニューヨークは、最初はオランダ(ネーデルラント)の植民地として出発した。そして後にイギリスの植民地になる。そのいきさつは次の通りだ。1609年にオランダ東インド会社が派遣したイングランド人のヘンリー・ハドソンが現在のニューヨー...ニューアムステルダムの食-独立前後の北米の食の革命(3)

  • 豊かな植民地バージニア-独立前後の北米の食の革命(2)

    豊かな植民地バージニア-独立前後の北米の食の革命(2)初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントン(任期:1790~1793年)は、北米におけるイギリスの最初の永続的な植民地となったバージニアの出身です。また、第3代大統領でアメリカ独立宣言を書いたトーマス・ジェワーソン(任期:1801~1809年)と第4代大統領ジェームズ・マディソン(任期:1809~1817年)、第5代大統領ジェームズ・モンロー(任期:1817~1825年)もバージニア出身です。このように、アメリカ初期の大統領の多くがバージニア出身なのには、バージニアがとても豊かな土地で、入植者たちがきわめて裕福だったという背景があります。今回は、豊かな植民地バージニアの食について見て行きます。************アメリカ合衆国をいくつの地域に分けるかについて...豊かな植民地バージニア-独立前後の北米の食の革命(2)

  • TRANSIT53号 世界のスパイスをめぐる冒険

    9月15日にトラベルカルチャー雑誌TRNASIT53号が発売されます。本号は「世界のスパイスをめぐる冒険」と題して、スパイスについて様々な話題が掲載されています。雑誌のサイトはこちら私はその中の「食文化」の記事に協力させていただきました。興味のある方は、ぜひ手に取ってご覧ください。デジタル版もあるそうです。TRANSIT53号世界のスパイスをめぐる冒険

  • 感謝祭のはじまりの物語-独立前後の北米の食の革命(1)

    感謝祭のはじまりの物語-独立前後の北米の食の革命(1)アメリカでもっとも大切な祝日の一つに、11月の第4木曜日の「感謝祭(ThanksgivingDay)」があります。感謝祭の翌日は「ブラックフライデー」と呼ばれ、ニュースでよく話題になるように、売れ残りの感謝祭のプレゼントが激安で売られる日になっていて、大勢の人がお目当ての品物を求めて殺到します。感謝祭では「シチメンチョウ(七面鳥)」の丸焼きを食べるのが慣習になっています。また、丸焼きになるはずだったシチメンチョウにアメリカ大統領が恩赦を与えるセレモニーがホワイトハウスで開かれたりします。感謝祭の起源は、1620年にメイフラワー号でイギリスから北米に渡ったピューリタン(清教徒)が1621年に開催した収穫祭だと言われています。今回から、独立前後の北米の食のシリー...感謝祭のはじまりの物語-独立前後の北米の食の革命(1)

  • ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)

    ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)ドイツはビール大国です。ビールの年間消費量は、国民1人当たり約100リットルで、日本人のおよそ2.5倍になります(日本人は38リットル)。ちなみに、ビールの個人消費量第1位はドイツの東隣のチェコで、約190リットルのビールを飲んでいます(いずれも2019年の統計)。ローマ帝国の後に西ヨーロッパを支配したゲルマン民族は移動前からビールを飲んでいたと言われています。フランク王国となってキリスト教を国教としてからはワインもたくさん飲むようになりましたが、ブドウが栽培できないドイツ北部ではビール醸造が盛んに行われていました。しかし現在では、ドイツ南部の都市ミュンヘンが「ビールの都」と呼ばれています。ミュンヘンでは、毎年「オクトーバーフェスト」と言うビール醸造の開始を祝う祭典...ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)

  • ドイツワインの歴史-近世ドイツの食の革命(4)

    ドイツワインの歴史-近世ドイツの食の革命(4)1980年代の半ば頃まで、日本に輸入されるワインでもっとも多かったのがドイツワインです。私が大学生の時に自分で買った最初のワインもドイツワインでした。その頃はワインの知識は全くなく、店頭で並んでいたものを適当に買っただけでした。ドイツワインと聞けば白ワインを思い浮かべる人が多いですが、実際にドイツで生産されるワインの半分以上は白ワインで、また、その品質もとても優れているとされています。ドイツの多くの高級白ワインに使用されているのが「リースリング」と言う品種で、ドイツでは他の品種をブレンドせずに、単一品種のブドウでワインを造るのが一般的です。今回は、ドイツワインの歴史をたどりながら、ドイツワインの特徴について見て行こうと思います。************ドイツで最初に...ドイツワインの歴史-近世ドイツの食の革命(4)

  • テンサイと砂糖-近世ドイツの食の革命(3)

    テンサイと砂糖-近世ドイツの食の革命(3)現在、世界で消費される砂糖の70%はサトウキビから精製されています。そして、残りの30%は「テンサイ(sugarbeet)」と言う植物から取られています。テンサイを漢字で書くと「甜菜」となります。字の通り、「甜菜」は「舌に甘い野菜」と言う意味です。なお、サトウキビから取った砂糖を「甘蔗糖(かんしょとう)」、テンサイから取った砂糖を「甜菜糖」と呼ぶことがあります。砂糖はテンサイの根っこの部分に集まります。根っこはカブのような形をしていて、1㎏くらいまで成長します。このためテンサイは「サトウダイコン」と呼ばれることもあります。なお、1㎏のテンサイには、約180gの砂糖が含まれています。サトウキビはイネ科の植物で、温暖な気候で育ちます。一方のテンサイはアカザ亜科の植物で、寒冷...テンサイと砂糖-近世ドイツの食の革命(3)

  • ハンバーグとミートローフ-近世ドイツの食の革命(2)

    ハンバーグとミートローフ-近世ドイツの食の革命(2)日本人が好きな料理の一つに「ハンバーグ」があります。しかし、海外には日本のハンバーグと同じ料理はほとんど存在しません。このため、日本のハンバーグのことを外国人は「Japanesehamburgsteak(Hanbagu:日本風ハンバーグ)」と呼んだりします。日本風のハンバーグは、ひき肉(一般的には牛と豚の合い挽き)にパン粉と牛乳、刻んだタマネギなどの野菜を入れ、さらに卵と塩・香辛料を加えてこねたあと、フライパンやオーブンなどで焼き上げた料理です。一方、その元となったハンブルクステーキ(Hamburgsteak)は、牛のひき肉につなぎを入れずに、塩と香辛料だけで味付けをして焼いた料理です。また、日本人の多くは日本風のハンバーグを丸いパンにはさんだものを「ハンバー...ハンバーグとミートローフ-近世ドイツの食の革命(2)

  • ドイツの伝統的な食文化-近世ドイツの食の革命(1)

    ドイツの伝統的な食文化-近世ドイツの食の革命(1)今回から近世のドイツの食について見て行きます。ドイツと言っても近世のドイツは現代のドイツのように一つの大国ではなく、諸国に分裂した状態でした。そして、国同士の争いが頻発しており、戦争によって土地が荒廃することが繰り返されていました。第一回目の今回は、近世までのドイツの歴史を概観するとともに、この地域で伝統的に食べられてきた食について見て行こうと思います。************ローマ帝国の後に西ヨーロッパを統一したのがゲルマン民族の国家フランク王国だった。8世紀後半にフランク王国のカール大帝が西ヨーロッパを統一すると、ローマ教皇から西ローマ皇帝に任じられた。ゲルマン民族の伝統では、親が亡くなると財産は男子に等分されるため、カール大帝の死後フランク王国は西・中・東...ドイツの伝統的な食文化-近世ドイツの食の革命(1)

  • カフェの都ウィーンのはじまり-近世のハプスブルク家の食の革命(5)

    カフェの都ウィーンのはじまり-近世のハプスブルク家の食の革命(5)「音楽の都」や「菓子の都」と言われるウィーンは、「カフェの都」と呼ばれることもあります。オーストリアではカフェのことを「カフェハウスKaffeehaus」と言いますが、2011年にウィーンの100軒ほどのカフェハウスがユネスコの無形文化遺産に指定されたことからも、ウィーンにおけるカフェの重要性が分かります。1554年にオスマン帝国の首都イスタンブールで世界初のカフェハウスが誕生しました。そして、それから約130年後の1685年にウィーンで最初のカフェハウスが誕生したとされています。今回は、このカフェハウス誕生のお話から始めて、ウィーンの伝統的なカフェハウスの様子について見て行きます。CafeSperl(SandorSomkuti撮影)******...カフェの都ウィーンのはじまり-近世のハプスブルク家の食の革命(5)

  • 高貴なる腐敗のはじまり:トカイワイン-近世のハプスブルク家の食の革命(4)

    高貴なる腐敗のはじまり:トカイワイン-近世のハプスブルク家の食の革命(4)「貴腐ワイン」という、すごく甘口で素晴らしい香りが特徴のワインがあります。これは「貴腐菌」と呼ばれる菌がつくことでできた貴腐ブドウを原料に作られるワインです。貴腐菌がブドウに付着すると、ぶどうの皮の表面のワックスを溶かして中に侵入しようとします。こうしてブドウの皮にはたくさんの穴ができるのですが、そこから水分が蒸発し、糖分が濃縮されて干しぶどうのようになります。また、侵入した貴腐菌によって香りの元となる成分も生み出されます。このようなブドウを貴腐ブドウと呼んでおり、これを原料とすることで、甘口で独特の香りを醸す貴腐ワインが生み出されるわけです。ところで、ブドウに貴腐菌がつけば必ず貴腐ブドウになるわけではありません。貴腐菌の本名はボトリティ...高貴なる腐敗のはじまり:トカイワイン-近世のハプスブルク家の食の革命(4)

  • ハプスブルク家の食(3)-近世の中欧・東欧の食の革命(3)

    ハプスブルク家の食(3)-近世の中欧・東欧の食の革命(3)前回から近世を始まりとするウィーン料理と菓子について見ていますが、今回は近世の中頃以降から影響を受けるようになったハンガリーとオスマン帝国に起源がある料理についてお話します。ハンガリーは、ヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈が起源地とされる遊牧民族のマジャール人によって11世紀に建国されました。1240年にはモンゴル軍の侵略を受けるなどしたため、城砦や城壁を整えて防御力を高めたと言われています。しかし14世紀になると、オスマン帝国の勢力が拡大し、ハンガリーにも侵入して来るようになりました。1526年にはオスマン帝国軍との戦いによってハンガリー王が死亡し、その後王位はハプスブルク家に移りました。そして1541年にオスマン帝国軍によってブダ(現在のブダペスト...ハプスブルク家の食(3)-近世の中欧・東欧の食の革命(3)

  • ウィンナーシュニッツェルとフリターテンズッペを作りました

    お盆ということで、のんびりと料理を作りました。作ったのはウィーン料理のウィンナーシュニッツェルとフリターテンズッペです。ウィンナーシュニッツェルは、ステーキ用の牛のモモ肉をたたいて薄く延ばし、塩コショウして衣をつけて油で焼き上げます。最後にバターで風味付けして出来上がり。やはり、レモンが合いますね。しっかりと美味しかったです。フリターテンズッペは、小麦粉・卵・牛乳を混ぜたものをフライパンで焼いたものを太い麺状に切って、スープを注いで出来上がりです。もう少し薄く焼いた方が、スープが絡んで良かったと思います。このほかにポテトサラダを作って晩御飯にしました。ウィンナーシュニッツェルとフリターテンズッペを作りました

  • ハプスブルク家の食(2)-近世の中欧・東欧の食の革命(2)

    ハプスブルク家の食(2)-近世の中欧・東欧の食の革命(2)今回から2回にわたって、有名なウィーン料理について、その起源を探って行きます。ウィーン料理はハプスブルグ家が宮廷を築くことで発展しました。その特徴は、前回お話したように、いろいろな国の料理が取り入れられていることです。ウィーン料理が影響を受けたとされている国は、イタリア、ドイツ、ギリシア(ビザンツ帝国)、チェコ、ハンガリー、オスマン帝国、フランスなどがあります。このうち、イタリア、ドイツ、ギリシア(ビザンツ帝国)からは早い時期からの影響が見られますが、チェコ、ハンガリー、オスマン帝国、フランスについては、近世の中頃以降から影響を受けるようになります。今回は、近世の早い時期から食べられている料理を中心に見て行きますが、やはりイタリアなどからの持ち込まれた料...ハプスブルク家の食(2)-近世の中欧・東欧の食の革命(2)

  • ハプスブルク家の食(1)-近世の中欧・東欧の食の革命(1)

    ハプスブルク家の食(1)-近世の中欧・東欧の食の革命(1)今回から近世の中欧と東欧の食のシリーズが始まります。最初は、現在のオーストリア・チェコ・ハンガリーなどを支配したオーストリア系ハプスブルク家について見て行きます。オーストリアの首都はウィーンです。世界最高峰の楽団ウィーンフィルを擁するなどして「音楽の都」と言われるウィーンは、お菓子でも有名で、「菓子の都」と呼ばれることもあります。その代表的なお菓子が「ザッハートルテ」と言うチョコレート菓子です。これは、チョコレートケーキをチョコレートが入った砂糖の衣(フォンダン)でコーティングした、とても甘くて、とても濃厚なお菓子です。ザッハートルテまた、ウィーンは料理でも有名で、仔牛肉を使ったカツレツの一種「ウィーナーシュニッツェル」は今でもオーストリアで一番人気の料...ハプスブルク家の食(1)-近世の中欧・東欧の食の革命(1)

  • 香り立つコニャック-フランスの大国化と食の革命(11)

    香り立つコニャック-フランスの大国化と食の革命(11)ブランデーはワインを蒸留して造られるお酒で、フランスのブランデーが質・量ともに世界一とされています。特に有名なブランデーが「コニャック」で、ボルドーの北100㎞ほどにある町コニャックから命名されました。ボルドーと同じように、コニャックでも古くからワインを造っていましたが、ボルドーのワインの方が有名になったため、あまり売れなくなってしまったのでした。その窮地を救ったのがブランデー造りです。ブランデーが売れるようになったため、コニャックは裕福な町になったのです。さて、コニャックと言えば、飲んだ後で口や鼻腔に残る芳醇な香りが特徴です。コニャックで栽培されていたブドウはボルドーのものとは違って、酸味が強い種類でした。この酸味が芳醇な香りに重要だったのです。今回は、コ...香り立つコニャック-フランスの大国化と食の革命(11)

  • ボルドーワインの歴史-フランスの大国化と食の革命(10)

    ボルドーワインの歴史-フランスの大国化と食の革命(10)前回はブルゴーニュとシャンパーニュのワインの歴史を見て行きましたが、今回はブルゴーニュに並ぶワインの銘醸地であるボルドーのワインのお話です。ブルゴーニュのワインとボルドーのワインはともにフランスを代表するワインのため、両者は比較されることがよくありますが、面白いことに実に多くの点で異なっています。例えば、使用されるブドウの品種が違います。また、ワインのボトルの形も、ブルゴーニュは「なで肩」で、ボルドーは「いかり肩」と言うように大きく異なっています。ブルゴーニュ(左)とボルドー(右)のワインボトルさらに、この後で詳しくお話しますが、歴史的にもボルドーとブルゴーニュには大きな違いがあります。今回はボルドーワインの歴史を取り上げますが、前回と今回の話を読んでいた...ボルドーワインの歴史-フランスの大国化と食の革命(10)

  • シャンパーニュとブルゴーニュのワインの戦い-フランスの大国化と食の革命(9)

    シャンパーニュとブルゴーニュのワインの戦い-フランスの大国化と食の革命(9)フランスのワインの二大産地と言えば、パリの南東方向にある「ブルゴーニュ」と南西方向にある「ボルドー」です。また、発砲ワインの「シャンパン(シャンパーニュ)」で知られる「シャンパーニュ」も有名な産地です。近世フランスのヴェルサイユ宮殿では、ブルゴーニュのワインとシャンパーニュのワインの争いが繰り広げられます。この勝負ではブルゴーニュが勝利しますが、敗れたシャンパーニュは復活を遂げるために新しいワインであった発泡性のワインを生み出しました。これが「シャンパン(シャンパーニュ)」です。今回は、このようなブルゴーニュとシャンパーニュのワインの歴史を見て行きます。************ブルゴーニュとシャンパーニュの歴史を見て行く前に、現代の両者...シャンパーニュとブルゴーニュのワインの戦い-フランスの大国化と食の革命(9)

  • フランス最初のカフェとレストラン-フランスの大国化と食の革命(8)

    フランス最初のカフェとレストラン-フランスの大国化と食の革命(8)私たちは街中でのどが乾いたら喫茶店に入ってコーヒーや紅茶などを飲み、お腹がすいたらレストランに入って食事をします。諸外国でも同じように、街中にはたくさんの飲食店があり、多くの人が利用しています。テレビで国内や国外の食べ歩きの様子がよく放映されるのも、どこに行ってもたくさんの飲食店が営業しているからです(ちなみに私は、ヒロシの「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」が好きです)。このような飲食店の始まりにも歴史があります。今回は、近世フランスにおけるカフェとレストランの始まりの歴史について見て行きます。************世界最初のコーヒーハウス(カフェ)は、1554年にオスマン帝国のイスタンブールに誕生した。ヨーロッパでは1645年のヴェネツィアでの開店...フランス最初のカフェとレストラン-フランスの大国化と食の革命(8)

  • 18世紀のフランス料理と錬金術-フランスの大国化と食の革命(7)

    18世紀のフランス料理と錬金術-フランスの大国化と食の革命(7)錬金術とは鉄や鉛などの安い金属を金や銀などの貴金属に変える技術のことです。錬金術は古代からギリシアやエジプトなど世界の各地で研究されてきました。中世のイスラム世界は古代ギリシアの科学や哲学を受け継ぎましたが、錬金術もその中に含まれていて、盛んに研究が行われました。その結果、様々な物質を化学的に分離する技術などが発達しました。例えば、液体を蒸発させることで成分を分離する蒸留器が開発されました。そして、この蒸留器が世界各地に広まることでウイスキーやブランデー、焼酎などの蒸留酒が作られるようになりました。このように、錬金術は人類の暮らしを豊かにする役割を果たすこともあったのです。錬金術は十字軍の遠征などをきっかけにして、中世のヨーロッパにも伝えられました...18世紀のフランス料理と錬金術-フランスの大国化と食の革命(7)

  • 17世紀のフランス料理-フランスの大国化と食の革命(6)

    17世紀のフランス料理-フランスの大国化と食の革命(6)近世はフランス料理が現代の形に変化した重要な時代です。中世までの料理の世界では、食事を通して健康になることが重視されていました。すなわち、古代ギリシアのヒポクラテスやローマ帝国時代のガレノスによって作られた「四体液説」と呼ばれる理論に従って、体液のバランスを保つための料理が作られていました。香辛料がたくさん使用されていた理由も、四体液説によるところが大きかったと言われています。ところが、14世紀にイタリアから始まったルネサンスが一つの大きなきっかけになって社会が大きく変化するとともに、料理の作り方も見直されるようになりました。ルネサンスによって、昔から守られてきた習慣に対して疑問の目が向けられると同時に、美味しさを純粋に追及する動きが見られるようになったの...17世紀のフランス料理-フランスの大国化と食の革命(6)

  • 近世パリの人口とフランスの農業-フランスの大国化と食の革命(5)

    近世パリの人口とフランスの農業-フランスの大国化と食の革命(5)今回から近世のフランスの食事情について見て行きます。この時代の最大のトピックは、絢爛豪華で濃厚な味わいのフランス料理の原型が生み出されたことです。単に見栄えだけでなく、現代のフランス料理でとても重要な「ソース」や「フォン(だし汁)」の作製法が進化したのです。また、フランス料理はワインを飲むために食べると言われるように、フランスではワインは非常に重要な飲み物ですが、近世のフランスではワインの世界でも大きな変化が生まれました。発砲ワインのシャンパーニュ(シャンパン)が飲まれ始めたのもこの時代です。このように、食の話題に事欠かない近世のフランスですが、今回は、パリの人口の推移を皮切りに、近世のフランスの食料生産について見て行きます。***********...近世パリの人口とフランスの農業-フランスの大国化と食の革命(5)

  • ルイ16世とフランス革命-フランスの大国化と食の革命(4)

    ルイ16世とフランス革命-フランスの大国化と食の革命(4)本日7月14日はフランスの革命記念日です。1789年の今日にパリの民衆はバスティーユ監獄を襲撃し、陥落させました。これがフランス革命の発端となったため、この日を記念日としているわけです。フランスでは「フランス国民祭典(Fêtenationalefrançaise)」と呼ばれ、様々な催し物が執り行われます。祭典が行われるようになったのは1880年からで、この日は「自由・平等・友愛」の共和政の始まりの象徴となっています。なお、パリ祭という言い方がありますが、これは日本だけの呼称で、日本以外では使われません。さて、今回はフランス革命が起こった時にフランス王だったルイ16世を取り上げます。通説では、ルイ16世は優柔不断な性格をしていたためにフランス革命が起きてし...ルイ16世とフランス革命-フランスの大国化と食の革命(4)

  • ルイ15世とポンパドゥール夫人-フランスの大国化と食の世界(3)

    ルイ15世とポンパドゥール夫人-フランスの大国化と食の世界(3)本ブログとは全く関係ありませんが、現在フランスでは自転車レースの「ツール・ド・フランス」が開催されています。ツール・ド・フランスは100年以上の歴史がある大会で、数あるロードレースの中でも最高峰のレースと言われています。今大会で大きな話題となっているのが、1970年代にエディ・メルクスと言う選手が打ち立てた最多勝記録にマーク・カヴェンディッシュと言う選手が並んだことです。ツール・ド・フランスは通常21のレースで構成されていて、そのうちの1つのレースで勝つと1勝と数えます。現在の最多勝は34勝となっていて、果たしてカヴェンディッシュ選手が最多勝を塗り替えることができるのか、注目が集まっています。さて、今回はルイ15世(在位:1715~1774年)を取...ルイ15世とポンパドゥール夫人-フランスの大国化と食の世界(3)

  • ルイ13世とルイ14世-フランスの大国化と食の世界(2)

    ルイ13世とルイ14世-フランスの大国化と食の世界(2)前回はアンリ4世の話をしましたが、彼は恋多き男で、生涯を通じて73人もの愛人を作ったと言われています。また、最初にアンリ4世が結婚したシャルル9世の妹のマルゴも数々の男性遍歴で知られた人でした。つまり、お互いに似たもの同士だったのです。しかし、二人には大きな問題がありました。それは二人の間に子供ができなかったことです。フランスで王位継承権を持つのは王と妃の間に生まれた男子なので、このままでは我が子に王位を譲ることができません。そこでアンリ4世はマルゴと離婚して、新しい妃を迎えることにしたのです(ただし、カトリックでは離婚は認められていないので、ローマ教皇に頼んでマルゴとの結婚を近親婚と言う形で無効にしてもらいました)。こうして選ばれた次の妃は、メディチ家出...ルイ13世とルイ14世-フランスの大国化と食の世界(2)

  • 良王と呼ばれたアンリ4世-フランスの大国化と食の世界(1)

    4・5フランスの大国化とフランス料理の進化良王と呼ばれたアンリ4世-フランスの大国化と食の世界(1)今回から16世紀後半から18世紀にかけてのフランスの食の世界を見て行きます。現代の西ヨーロッパの大国はどこかと問われると、多くの人がイギリス、フランス、ドイツと答えると思われます。歴史的に見ると、この三国の中で最初に大国化に成功するのがフランスです。ハプスブルク家が支配していたスペインや神聖ローマ帝国が次第に衰えて行くのとは逆に、王に権力を集中させる絶対王政をいち早く整えたブルボン家のフランスは、一大強国へと成長して行きます。それに続くのがイギリスで、その結果ヨーロッパの歴史は、フランスとイギリスの対立を軸にして進んで行くことになります。今回は、絶対王政の礎を築いたブルボン家初代フランス王のアンリ4世を中心に見て...良王と呼ばれたアンリ4世-フランスの大国化と食の世界(1)

  • 英蘭戦争とアメリカ植民地-イギリス・オランダの躍進(7)

    英蘭戦争とアメリカ植民地-イギリス・オランダの躍進(7)今回は17世紀の後半にイギリスとオランダの間で起こった英蘭戦争と、同時に進行していたアメリカ大陸のイギリス植民地の開発について見て行きます。この戦争まで海上貿易についてはオランダがイギリスを圧倒していました。オランダは商人が作った国であり、また、造船に関しても当時のヨーロッパで随一の技術力を誇っていました。すなわち、オランダにとって海上貿易は、自分たちの能力を十分に発揮できる場だったのです。一方、イギリスは国内の生産力も高くなく、まだまだ小国であったため、海外進出を成功させるしか生き残る術はありませんでした。そして、そのためにはライバル国であったオランダに打ち勝つ必要があったのです。こうして英蘭戦争が始まって行くのですが、イギリスの目論見は成功したのでしょ...英蘭戦争とアメリカ植民地-イギリス・オランダの躍進(7)

  • ジェントルマンとイギリス料理-イギリス・オランダの躍進(6)

    ジェントルマンとイギリス料理-イギリス・オランダの躍進(6)「ジェントルマン(gentleman)」は日本語では通常「紳士」と訳されますが、イギリス史におけるジェントルマンは、簡単に日本語訳ができないほど深い意味を持つ言葉で、また時代とともにその意味も変わって行きます。近世以降のイギリスはこのジェントルマンが社会の中心となって発展して行きます。例えば、イギリスの近代化にはジェントルマンが担った金融やサービス業などの発展が重要であると考えられており、これを「ジェントルマン資本主義」と言います。今回は、ジェントルマンの誕生と「イギリス料理が不味い」理由について見て行きます。************イギリス(イングランド)がフランスと戦った百年戦争(1339~1453年)や、イングランドの王位継承権を持つ者同士が争っ...ジェントルマンとイギリス料理-イギリス・オランダの躍進(6)

  • カーシャを作りました

    今日の昼ごはんに、ロシアやポーランドなど東欧の代表的な家庭料理の「ソバの実のカーシャ」を作りました。カーシャとは穀物で作った粥のことで、特にソバの実を使った粥がよく食べられています。今回はソバの実のカーシャでキノコのピラフを作りました。材料は次の通りです。ソバの実とタマネギ、エリンギ、ひき肉です。(作り方)・ソバの実を1時間ほど水につける。・ソバの実を10分ほど煮て、水を切る。・粗みじん切りのタマネギを炒め、ひき肉とエリンギを加えてさらに炒めます。・ソバの実と塩を加えて軽く炒めて出来上がりです。(感想)独特のしっかりとした食感で、かなり食べごたえがあり美味しかったです。それと後で気が付いたのですが、とても腹持ちが良かったです。ソバの実はダイエットには良いかもしれません。カーシャを作りました

  • コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)

    コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)「モカ・コーヒー」という言葉を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。でも、モカ・コーヒーの名前の由来については、よほどのコーヒー好きしか知らないと思います。モカはアラビア半島の南東部のイエメンにある港町で、15世紀末からコーヒー貿易の拠点となっていました。そして、このモカ港から積み出されたコーヒーのことをモカ・コーヒーと呼んだのです。東インド会社もモカ港でコーヒーを仕入れてヨーロッパに運びました。そしてこれが世界中にコーヒーを広めるきっかけとなりました。ちなみに、イギリスの飲み物と言えは「紅茶」を思い浮かべますが、紅茶がイギリスで広く飲まれる以前はコーヒーがたくさん飲まれていました。18世紀の前半には、ロンドンとその周辺部に合わせて8000軒ものコー...コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)

  • イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(3)

    イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(3)今回はイギリスとオランダの「東インド会社」の続きです。イギリス(イングランド)とオランダはともに数少ないプロテスタント国で、オランダの独立ではイングランドが支援を行うなど、両国の関係は良好でした。ところが、両国が東インド会社を設立した後は「昨日の友は今日の敵」という言葉の通り、イングランドとオランダは東南アジアでの香辛料の貿易をめぐって激しく争うようになります。オランダは経済的に非常に栄えており、たくさんの船を貿易に投入することができました。一方、イングランドはまだまだ貧しく、オランダほどの多くの船を利用することはできませんでした。両国の戦いの結果は火を見るよりも明らかでした。今回はこのような両国の争いを軸に、当時の香辛料の生産と流通について見て行きます。...イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(3)

  • 東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)

    東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)「東インド会社」は中学の歴史の授業でも習う重要な項目です。世界史の年表では必ず出てくるようです。東インド会社は言葉の響き自体は覚えやすいのですが、私は「東インド」で作られた「会社」って何だろうと疑問に思いながら、授業をしっかり聞いていなかったのもあって、十分に理解しないまま大人になりました。実際、東インド会社はヨーロッパの各国に設立され、国によって内容や歴史も異なるし、時代とともにその様相も変化することから、一まとめにして説明するのは難しいものです。そこで今回は、17世紀の初めに設立されたイギリスとオランダの東インド会社の誕生の様子を見て行きたいと思います。なお、話を分かりやすくするために、東インド会社が設立される前のポルトガルによる東インドでの貿易から話を始め...東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)

  • 女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)

    女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)今回は、イングランド女王エリザベス1世が重用した海賊フランシス・ドレイクを取り上げます。彼はイギリスがスペインの無敵艦隊(アルマダと呼ばれた)を打ち破ったアルマダの海戦で大活躍したことで有名ですが、それ以外にもエリザベス女王のために様々な功績を残しています。彼がいなかったら、イギリスが大国へと成長することは無かったと考える学者も少なくありません。エリザベス1世の頃は、ブリテン島の南半分がイングランドで、北半分はカトリック国のスコットランドでした。また、南のドーバー海峡をはさんだ対岸にはカトリックの大国フランスがあり、両国は断続的な戦いを続けていました。それに加えて、海洋帝国として日が昇る勢いを見せていたスペインがイングランドへの侵略の機会をうかがって...女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)

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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命
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