東赤谷日鉄社宅の桜が満開になりました。先日送って頂いた写真では、まだ蕾でどの程度咲くのか心配していたのですが、ブロ友の「2トラ38」さんが今日24日の桜の開花状態の写真を送ってくれましたので早速掲載させて頂きます。この桜は転車台側の我が家の前にあった桜の木です。幼木の頃からの長いお付き合いです。今年も咲いてくれてありがとうの一言です。写真提供:2トラ38さん ※画像などの無断使用はお断り致します。...
東赤谷日鉄社宅の桜が満開になりました。先日送って頂いた写真では、まだ蕾でどの程度咲くのか心配していたのですが、ブロ友の「2トラ38」さんが今日24日の桜の開花状態の写真を送ってくれましたので早速掲載させて頂きます。この桜は転車台側の我が家の前にあった桜の木です。幼木の頃からの長いお付き合いです。今年も咲いてくれてありがとうの一言です。写真提供:2トラ38さん ※画像などの無断使用はお断り致します。...
角瓶写真館IIさんから4月18日時点の東赤谷の桜の現況を教えて頂きました。●今年は例年になく残雪が多いようです。焼峰山。●旧県道より蒜場山と俎倉山。●東赤谷駅前付近より新発田方面を望む。左側社宅跡。●旧県道を観月橋方面。左右に桜の老木。●現在の観月橋。●観月橋から桜老木を見る。●手前は枯れて、奥の2本が辛うじて生きているようです。●まだ蕾ですが、今年もなんとか咲きそうです。●上赤谷まで下がると、旧赤谷小学校の桜...
撮影時期〜昭和20年以前撮影場所〜旧日本陸軍大日原演習場説明〜大日原演習場の兵舎と思われる。映り込んでいる軍人と思しき人物の服装は、旧日本帝国陸軍の軍服のように見える。したがって撮影時期は昭和20年以前と推測する。写真提供:KIKUCHIさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
少年時代のほとんどの思い出は、この土地(東赤谷内日鉄社宅)にあったと言っても過言では無いと思うが、中でも幼稚園広場はそれが凝縮されたような所と思っている。思い起こそうと思えば、次から次へと思い出は湧いてくる。それは広場と言うのに相応しい程度の大きさの平地であって、社宅内では貴重な子供の遊び場となっていた。現在はまったくの原野に還っている。●閉山後間も無い1980年代初頭の幼稚園広場●1960年代の幼稚園広場...
この坂を下った先には東赤谷駅がある。立っている地点は診療所の前で、下に見える左側の建物は購買所であり日鉄社宅の中では一番人通りの多い通りであった。そういう記憶が色濃いせいか私には不気味な風景として眼に映る。やっと長い冬の生活が終わり、雪が融け、桜も咲いたのに誰一人として居ないのが実に不自然なのである。子供がいない。歓声がない。走り回る音がしない。子供の頃の私が見えない。1980年代初頭の撮影であるから...
桜が満開を迎えたというのに、社宅街のあちこちには融け切らない雪の塊が残っている。あれだけふわふわとして柔らかく優しかった雪も、今はゴリゴリとして塵芥にまみれ人々は穢らわしいものでも見るように早く消え去るのを願っている。今思い起こせば、あの頃の春は簡単だった。「雪が融ければ春!」それだけだった。撮影時期〜1980年代初頭撮影場所〜社宅内の購買所前説明〜中央の建物は床屋だった所。右の建物は組合事務所だった...
卒業の季節である。終了と始まりの季節である。人生で一番最初に手にする証書は多くの人にとって幼稚園(保育園)の卒園時のものではないだろうか。ただ、昔は全ての児童が園に通う慣習がなかったため、そうとは言えない面もあるが・・・。園の証書を始めとして、この後に続く人生で写真に写る子ども達は幾枚の鳳凰の飾り枠の付いた証書(賞状)をもらっていくのだろうか・・・。●昭和36年(1961年)日鉄赤谷鉱業所保育園卒園式●ち...
先月2月17日に新発田市上赤谷において伝統行事「どんづき祭り」が行われたと同郷のS氏より写真とともにお便りを頂きました。「どんづき祭り」は700年もこの地に続いている奇祭です。年男がサラシの褌一丁で寒風雪の中、山神社まで駆け上がり裸で揉み合います。現在は年男どころか若い男性も地元に少なく、参加者を募集してなんとか祭りを維持しているようです。写真提供:バクロのあんにゃさん ※画像などの無断使用はお断り致...
撮影時期〜1960年(S35)撮影場所〜日鉄赤谷鉱業所保育園(幼稚園)説明〜後ろのプログラム表を見ると演劇発表会を兼ねたクリスマス会のようです。写真提供:KIKUCHIさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
日鉄赤谷の社宅街は斜面を切り開いて出来た街であったから、子供がスキーで遊べる程度の坂はそこら辺にあった。友達数人とワッセワッセとスキー板を横に雪を踏み固めれば、小さなスキー場は出来上がりである。撮影時期〜1971年(S46)頃撮影場所〜日鉄社宅説明〜後方は焼峰山撮影時期〜1958年(S33)頃撮影場所〜日鉄社宅写真提供:一枚目KIKUCHIさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
よくもまあ、このような雪の中で暮らしていたものだ。日鉄社宅で生まれ育った子供達にとっては何の不思議もない普通の生活であったろうけれども、昭和14年の開山以来各地から移り住んで来た大人達は大変であったろうと思う。また中でも職員の人達は転勤で関東やら九州から越してきて、その大人達に連れられて来た子供達は冬になるとさぞやビックリしたことだろう。●一度大雪が降れば、社宅を取り囲む山々は人の往来を拒絶するかの...
もう何年も古里の雪景色の中に立ったことがない。頂いた写真を見ていると、あの鼻腔をくすぐるようなツンとした雪の匂いが蘇ってくるようだ。●上赤谷、雪の夜景●東赤谷、赤谷鉱山日鉄社宅跡から望む●新発田郊外から二王子岳、焼峰山、蒜場山を望む。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
年月を経ても変わらないのは故郷の山だけだ!とよく言うが、まさにその通りとこの頃は特に思う。今日の写真は上赤谷寄りの旧県道から日鉄赤谷鉱山社宅方面を撮影したもの。右側の木の間隠れに見える緑色の屋根と白い壁の建物は鉱山事務所、その左下側の建屋は共同浴場で手前の欄干は観月橋のもの、真ん中の青い屋根の家は黒崎商店、その左奥の茶色い屋根の建物は鉱石の分析所で、下から上がっている道路は赤谷線廃線跡を利用した新...
昨年末に紹介した俎倉山であるが、新発田近郊からも望めるため、かつては「新発田富士」とも呼ばれおめでたいので再びパノラマでの登場です。撮影場所は焼峰山下部付近で、左奥に見えるのは蒜場山になります。見えてはいませんが右奥には鳥居峠があり、さらに三川方面に抜ける鳥越と呼ばれる乗越があります。すでに廃道となっているこの古道は、かつて赤谷の衆が炭焼きのため釜ヶ沢沿いに辿った道でもあります。その時の険しく辛か...
パノラマ写真を撮ろうと思ったら、デジタルカメラのモードをそのようにセットさえすれば繋ぎ目のないキレイなパノラマ写真が簡単に撮れる。しかし、昭和のフィルムカメラではそうは行かない。パノラマ専用のカメラを使うか、フィルムを上下カットしたような擬似的なフィルムを使うか、カメラを水平に回転させて何枚もコマ撮りしたものを後に印画紙で重ねつなげるか、いずれにしても昭和のカメラマンは苦労して雄大なパノラマ画像を...
赤谷三山(焼峰山・蒜場山・俎倉山)の一つ俎倉山は、私の住んでいた東赤谷の日鉄社宅からよく見えた。焼峰山よりは注目される事のなかった山であったが、その前面は荒々しい岩肌が表れ、まさにその山名のごとくマナ板のような崖が見てとれた。また遠景からの姿は端正な山容もあってからか、新発田あたりではかつて新発田富士とも呼ばれた時期があったようだ。撮影時期〜昭和40年代半ば頃撮影場所〜釜ヶ沢上流の三川方面に向かう古...
昭和の新発田の象徴のひとつとして、太平洋ニッケルという工場があった。私は高校時代には赤谷線で通学していたのだが、列車が新発田駅に近づくと右手に大きな建物が見えてくるようになる、それが太平洋ニッケルの工場であり毎日眺めていた割には一度も近くまで行って見ることはなかった。やがて関東であくせく暮らしているうちに、いつの間にやら消えて、いつの間にやら跡地は立派な公園になっていた。太平洋ニッケルという何とも...
先日、新発田藩を舞台とした映画「十一人の賊軍」を観てきた。その評価は差し控えるとして、その映画の中に「黒い水」というものが出てきた。まあ、それは石油という事なのだけれども、ちょうどお借りした写真の中に新発田に実際にあった油井の写真があって、検索してみるとかつては盛んに採掘されていたらしい事を知り、少なからぬ驚きを覚えた。撮影時期〜1947年(S22)7月撮影場所〜新発田市城北町交差点付近説明〜五号油井開鑿...
もう50年以上も前、私は朝日連峰の縦走を一人でしていた。ゆったりとした日程をとって、最後は大鳥池の湖畔でテント泊をしようかと思っていたが、なんだか急に帰りたくなって狐穴小屋から一気に鶴岡の町まで下りてきた。羽越線の列車に乗り込んだ時には、もう太陽も低くなっていて、座席に落ち着いてボンヤリしているうちに列車は海岸線を走るようになり、車窓から見える景色は海も空も茜色に染まっていた。都会から逃げるように...
はて、私が蒸気機関車に最後に乗ったのはいつの事であったろう?。思い当たるのは、高校三年の冬に水原に住む友人の家に遊びに行った時の事くらいか・・・?。あの時は羽越線の新発田駅からSL列車に乗車したのであるが、大雪であったせいか中々発車しなかった。硬い背もたれに身を委ね、反対側に止まる列車の赤黒い客車の窓枠をぼうっと見ていた。私の座る窓側の足元にはスチームの管が客車の端から端まで通っていて、管を覆う四角...
この度写真を提供して頂いたKIKUCHIさんは沢山の蒸気機関車の写真を撮っておられます。時代として鉄道の電化が進み、各地の鉄道風景からSLが消えて行く端境期であったかも知れず、それを惜しんだKIKUCHIさんはフィルムにその姿を留めていったに違いありません。私は鉄道に関して音痴で写真に写る各SLを見ても、その機種名や情報について知識を持ちません。それでブログを通じての友人である角瓶28号さんに協力をあおぎました。さす...
当時の東赤谷駅は日鉄社宅の居住区と一体であったと今思える。野球グランドや遊泳場のある川原に行くには駅構内を横切って降りて行かねばならず、それも決まった道筋がないため各々勝手な所から構内を渡って行くのだった。列車の運行本数が少なかったとは言え、誠に鷹揚な時代であった。鷹揚と言えば機関車の運転手もそうで、給水中の機関車を見物に行くと運転台に乗せてくれたりもした。運転台は地上からであると子供の背丈ではか...
貨車は動力車もないのに線路の上を静かに動いているのだった。しかし、よく見れば駅員さんが貨車の端っこで赤旗を振り振りへばり着くように乗っている。そして前方に止まっている貨車を凝視しているのだった。このまま行けば大きな衝突になると思われた瞬間、駅員さんは足元にある大きなバーに両足を乗せたかと思ったら思いっきり踏み下ろした。キキキー ガチャーン、見事に2台の貨車は連結したのだった。機関車も忙しい。新発田...
人は故郷に対して五感に様々な思い出という記憶を宿しているわけだが、その中の音の記憶に関しては、私は機関車の汽笛の音が忘れられない。故郷は山々に囲まれているものだから、機関車から発せられた汽笛は程よい余韻を残してから消える。客車・貨車を東赤谷駅まで牽引して来た機関車は、スイッチバックでそれを押すような形で駅構内に入線してくる。そして新発田方面への帰りには、機関車は客車・貨車の後ろに付きスイッチバック...
観光目的ではなく実際に蒸気機関車が運行されていた時に乗車した経験のある者を仮に蒸気機関車世代とすれば、まさに私はその世代である。成人を待たずして蒸気機関車時代は終焉を迎え、その後目まぐるしく変わった移動機関は、一体この先もどのような変化をしていくのだろうかと、ふと考えてしまう。さて東赤谷駅には、C11 245とC11 269の蒸気機関車が運行されていたわけだが、C11 269は戦時型と呼ばれ蒸気ドームが四角いのが特徴...
私もこの場所で撮った特別な一枚がある。昭和42年3月のある日、私は故郷を後にし東京に出る。その数日前に撮ったと思われる写真がこの一枚だ。その時どのような感情でもってシャッターを押したのかは忘れてしまった。ただ故郷を去るに当たってしっかりと自分の脳裏に焼き付けておきたい気持ちがあったことは確かなようだ。何故なら、ここからの風景は私が一番好きな構図であったからだ。あの日から60年の歳月が経とうとしてい...
ある旅人は、たどり着いた東赤谷を桃源郷のようだと言った。写真集「赤谷線讃歌」を出版された白勢久恭氏は、この撮影地の辺りから「秋の東赤谷の夜景」として素晴らしい写真の一枚を得ている。今や幻となってしまった風景であるが、皆が撮影地点として立った所は今も残っている。県道を通れば山側の石垣の上に、わずかに白いガードレールが見られるはずだ。そこが旧県道で、そのカーブの突端こそが皆を魅了した風景の撮影ポイント...
棚橋山から伸びる尾根の突端を強引に切り開いて通した赤谷線は、その区間狭く両側は樹木に鬱蒼と覆われている。おそらく走行する列車にすれば、ほんの数秒の出来事で、しかしそれがその後数秒で眼前に開け広がる風景を一層美しく昇華させる要因になっていた。●暗がりを抜け出て汽車はスイッチバックの折り返し地点に向かう。走る汽車の右手には斜面に広がる日鉄社宅群が見え始めているはずだ。この後折り返し、右に見える東赤谷駅...
観月橋を渡ると道は右に曲がり踏切を渡る。そしてまたすぐに左に曲がって坂を下るのだが、その曲がり角の石垣の上から飯豊山方向を見た風景が最も東赤谷を知る人々に愛された風景である。正面に蒜場山を置き、そこに登って行くかのように赤谷線の急勾配の線路が延び、そして奥で折り返した線路が再び右の斜面の上に平らに現れる。いわゆるスイッチバックの終着駅「東赤谷駅」がある。その東赤谷駅を中心として扇状に広がる緩やかな...
日鉄赤谷鉱山社宅の住人は鉱山が閉山となれば否が応でも社宅を出て行かなければならないわけで、様々な伝手を頼って日本各地に散らばっていった。国ヶ平と呼ばれた原生林の中に突如として鉱山街が生まれたのが1939年(S14)の事、そしてその赤谷鉱山が閉鎖となったのが1977年(S52)の事、その間の38年間は長いのか短いのか・・・、現在後期高齢者の私としてはとても短く感じるのだが、どうだろう・・・。思うに、この38年間に...
近日(9月)ブログを再開いたします。ネタ切れもあってしばらくブログの更新をお休みしておりましたが、同郷の方からたくさんの写真を写真をお借りすることができましたので更新をいたします。よろしくお願い致します。...
どうして桜というものは思い出をほじくり返す木なのだろう。見ているとどんどんと様々な思い出が湧いてくる。両親のこと、兄弟のこと、友達のこと、学校のこと、家のこと・・・大概は古里の幼い時のことばかりであるが・・・。中でも特別に思い入れの深い桜の花が今年も咲いた。日鉄の桜である。樹齢およそ75年、私と同年である。●日鉄の桜は社宅が無くなっても有難いことに伐採もされず残っていたのだが、さすがに老いてきた。...
かつて国鉄で唯一スイッチバックの終着駅として知られた東赤谷駅であるが、その痕跡を現在見つけようと思うと大変である。インターネットの中でも時折、旧東赤谷駅跡付近を訪れて、スイッチバックの赤谷線跡を推測している方がいるが、大概はだいぶ見当はずれの所を示している人が多い。それほど彼の地は変容しているのである。せっかく訪れて下さって、何一つとして当時の面影に寄り添って頂けないのは誠に申し訳ないような気分に...
このブログを始めてから今年で17年になる。故郷に関するネタも尽きかけてきた。この辺りでそろそろ一区切りつけた方が良いのかも知れない。どの様な形にしようかただいま思案中なり。●正月の菅生野。雪景色は美しいが、震災の能登地方の方々には厄介でしかなく愛でる余裕もないことだろう。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
「げっぽ(ビリ)になったのはオメのせいだ」と、みさおは私に盛んに怒っている。どうやら私から取り上げるように借りていったスキー板の滑りが悪かったらしい。雪国の山の学校では毎年冬の授業としてスキー教室が地元のスキー場で行われる。赤谷スキー場といってロープトウのある緩斜面と、300メートル有るか無いかの急斜面の滑降コースが一本あるだけの小さなスキー場ではあったが、下越近隣にスキー場が少なかったせいもあっ...
暑くなったり寒くなったりと、家の辺りでウロウロしていると体感だけでは季節を感じられないので、先日人生最後の車として乗り換えたタフトなる車を駆って比企丘陵までドライブに行ってきた。...
焼峰山は赤谷小学校の背後に聳える故郷のシンボルのような山ですから、学校の行事として焼峰登山は古くからあったようです。私も昭和30年代に何年生の頃かは忘れてしまいましたが、先生引率の下に登っています。この山の標高は1085メートルと、それほど高い山ではありませんが、剥き出しの岩場やザレ場があったりしてズック靴の子供には緊張を強いられる場面があります。今は亡き祖母が、どこからどのように手に入れて来たか...
今夏、甲子園での高校野球大会では、選手の頭髪は坊主頭が良いだの長髪が良いだのと騒がれていたようだが、故郷の稲刈りが終わった田んぼを見ているうちに、そのような事が頭に浮かんでしまった。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
湯ノ平山荘には数々の思い出がある。殊に二代目(昭和34年〜昭和49年)の山荘には深い思い入れがある。風の便りにこの山荘が雪崩によって半壊し、解体されて新しく建て直されるという話を聞いた時には、随分と寂しい思いをしたものである。飯豊山には数回登山をしているが、下山口は必ず湯ノ平温泉と決めていた。その理由は何と言っても湯ノ平山荘を朝立てば昼前には生家である我が家に歩き着けたからである。今回、長年心の片隅に...
時折、在所は何処かと聞かれることがある。殊に上京したての頃は多かったような気がする。聞かれれば、とりあえず「新潟です」と答える。そして相手の様子を見ながら「新発田を知っていますか?」と聞く。続けて「新発田でも山の方、飯豊山の登山口の生まれです」と言う。余程の山好きでない限り、話しはその辺りで終わる。ことほど左様に当時の私は飯豊山登山口で生まれ育ったという事は自慢であり誉れだったのである。●赤谷線東...
故郷を離れてから忘れ去ってしまった事はたくさんあると思うのだけれど、星もその一つだろうなぁ。この辺りでは夜空いっぱいの星を見ることは臨むべくもない。目を凝らして見ても、この年老いた目に映るのはせいぜい数個のみだ。もはや見る気を失ったと云うか、夜空には星があると云うことさえ忘れている。かと言って子供の頃、見えていたはずの満天の星をまじまじと見て感動した記憶もない。それは満天の星があまりに普通の景色だ...
大人は誰一人として語ってくれる事はなかった、日鉄赤谷鉱山にも中国からの強制連行者がいたことを・・・。ただ、彼らが収容されていた土地の名前だけが語り残されていた。その土地の名は「華人合宿」という。大人の口からの音として受け取り聴く子供たちは「カジガシュク」と呼んでいた。そこは飯豊川(加治川)と河岸の崖に挟まれた狭い土地で、今考えれば逃亡を抑えるのに適した場所であったと思い当たる。しかし、この「カジガシ...
夏休みは朝のラジオ体操から始まった。購買所前の広場に50名からの子供が集まる。やがて共同浴場の屋根の上に設けられている大きなスピーカーからラジオ体操の歌が流れてくる。新しい朝が来た 希望の朝だ喜びに胸を開け 大空あおげラジオの声に 健やかな胸をこの香る風に 開けよそれ 一 二 三ラジオたいそう だいいち〜はじめ!!社宅の上へと続く階段の上には先導の上級生・・・、終われば参加の証であるカードにハンコ...
時の移ろいを何をもって感ずるかは人それぞれでしょうが、私は季節季節に送って頂く菅生野の景色でそれを感ずる事が多くなりました。写真の中に暑さを感じたり寒さを感じたり、そうすると皮膚の感覚と共にあの頃の自分も甦ってくるのです。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
孫たちは夏休みに入った。そして自身の夏休みを振り返って、まず思い浮かんでくるのは熱い川原の風景だ。私の通う川原は大小さまざまな丸い石がゴロゴロしていて、それは漬物石大の物から身長を越える大きさの物まで一面を埋めていた。現在知識を得た私は、その石が花崗岩であったと分かる。白い肌に黒い粒々が入って、飯豊川の激流を下ってきたものだから角が取れてスベスベに磨かれて、思い浮かべる情景は丸い胡麻塩むすびが並ん...
梅雨空の下の薄暗い庭園の隅に何かが光っている。近づいてみると、そこはまるでアイドルグループのコンサート会場のようにサイリウムライトの光る棒が揺れるように立ち並んでいた。そして屈んで眺めているうちに、光っている所を切ったら小さなかぐや姫がたくさん現れるのではないか?と思ってしまった。見沼の自然庭園にて...
定点風景になっている赤谷の菅生野の田植えが終わりました。青々とした風が、遥か飯豊の山々から赤谷三山を越え吹き渡ってくるようです。雲や周囲の山々を映す水田の水面も、あといく日かの時を経て旺盛に生い茂る稲の葉に覆い隠されてしまうでしょう。●令和5年5月27日の風景●3月下旬時の同風景写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
故郷の山々の緑は、ますます濃厚になっていくようです。以前は杉の木ばかりが目立った焼峰の裾野は、随分と広葉樹が増え様々に色の変化を見せるようになりました。2枚共に社宅跡の写真になりますが、後一ヶ月もすれば夏草が生い繁り、とても足を踏み入れる気にもならなくなります。2枚目の写真は所々に桜の老木が見られます。正面に見える石垣は社宅のほぼ中央を東西に横切るようにあって、すぐ下に鉱員用の共同浴場は立ち、上に...
今年もブロ友の角瓶28号さんが、ふる里の桜風景を送ってくださいました。かつてあった日鉄赤谷鉱業所社宅の在処を示す数少ない遺産の一つである桜の木も年を経るごとに一本また一本と老いて枯れ朽ちて減っていくようです。●赤谷小学校と桜と焼峰。この地を故郷とする諸人は、こぞって郷愁に陥る風景でしょう。●東赤谷の旧観月橋のたもとから飯豊方面を眺めます。●右側の桜は枯れてしまったようです。この桜は職員用の浴場の側に...
定点撮影と言うと、テレビではよく都会の街並みの変化が映し出されます。それは破壊と再生の凄まじいばかりの移り変わり様です。大して時も経ずに訪れた街で過去の記憶を頼りに歩くと迷う事がしばしばあって、心が不安だらけになってしまいます。それを思うと我がふる里の景色を前にした心の安寧はどうでしょう・・・。何十年、何百年も変わらぬ風景に心が安らぎます。ちなみに昨年冬の景色です写真提供:バクロのあんにゃさん※画...
天気予報ではお天気の悪い日が続くらしい。今日の午前中は何とか晴れ間が出るというので埼玉小川町へ片栗の花を見に行く。行ってみれば片栗の花の盛りは過ぎていたが、水芭蕉や桜は見頃であった。散策途中にある寺の手水舎は花手水となっており、その造作に思わずうっとりと清々しくなる。...
赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_19(新潟電気飯豊川第二堰堤上流の朴名橋)
飯豊川(加治川)の渓谷は深い。その両岸を結ぶ橋はいく本かあるのだけれど中でも「朴名橋」は歴史的に一番古い橋ではないかと私は思っている。それに「朴名(ほうな)」という橋の名が、ここ数年来とても気になっている。名の由来は何なのか・・・、赤谷地方の歴史を綴る文献を調べても載っていないし著者によっては語源を研究中という書籍もあった。私のブログに多くの写真を寄せて協力してくれた同郷の人にA藤子さんという方が...
私の父方の家も母方の家も神職である。ただ父方の家の方は後継者が居なく家は絶えてしまった。両家とも新発田市蔵光にあって、現在も続いている母方の本家は現当主で四十九代目の神主である。神職であったが故にその系図は比較的はっきりしていて、先頃まとめられた家系図によれば1〜3代目ははっきりわからないものの4代目は天禄元年(970年)に神職に就ていたらしい。実に1053年も前の事である。私は働きに出た都会での...
明日はこの辺りでも降雪の予報が出ている。新潟の豪雪地帯の生まれで雪の苦労は散々知っており、現在雪国に住まわれている方には大変に失礼とは思いながらも私は雪の降るのを待っている。そしてなお楽しい気持ちさえ浮かんでいる。毎年訪れる3メートルを越える豪雪の季節でも、それが普通であり日常であったから側からは思える苦労も不便も感じることは無かった。ただただ大人はモクモクと働き、子供はユウユウと遊んだ。私と同郷...
初場所は貴景勝の優勝という一番落ち着きのある形で終えたが、何かどこか寂しい。それは豊山という四股名が取組板に見えず、また館内にその四股名が響く事が無くなったせいだろう。大雪で列車の運行がままならず大勢の人が新発田駅の待合室で運転の再開を待っていた。それは昭和40年頃であったろうか・・・、待合室の上部に設置されたテレビジョンは豊山対大鵬の取り組みを映していた。人々の全ての頭は同じ方向を向き、制限時間...
頂いた写真は、まるで定点観測のように季節の移ろいをはっきりと感じさせる。我が母校赤谷小学校の立つ菅生野の「田植えの春」「繁りの夏」「実りの秋」そしてこの度の「雪眠りの冬」・・・。季節感の乏しい、おぼろに時が過ぎて行く土地に住む私に、いま更に生きる活力を与えてくれそうだ。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
故郷の象徴である山の焼峰を仰ぎ見ている限り、それほどの歳月の移ろいを感じ無いのですが、いざ振り向いてかつての住居跡を見れば、そこは切ないばかりに六十年を経た風景が広がっているのです。●令和5年正月と昭和39年冬。東赤谷より東方飯豊山方面を望む。●令和5年正月と昭和41年冬。東赤谷より北方棚橋山方面を望む。●令和5年正月と昭和43年冬。東赤谷より西方新発田方面を望む。古い写真を見ると昔は現在より多く雪...
雪国特有の鬱々とした雲が広がっています。野辺の草も生気を放ち終え、あとは雪に埋もれるを待つばかりです。かつての私は、紛れもなくこの風景の中で育ち生きていた訳ですが、今その時の心境を思い浮かべようとしても湧いてくるものはありません。ですがこの風景の醸し出す「気」は、私の人生の指標の一部に間違いなく存在している訳で、自分を語る上で大切な場所となっているのです。●旧日鉄社宅跡付近から●加治川治水ダムに通じ...
秋と冬の狭間の晩秋とも初冬とも言い表しても良いようなこの時期は、雪国生まれの私達にとってどこか哀愁のようなものが漂い故郷がひとしお恋しくなる季節なのかもしれない。さらに時を絞れば昼と夜の間の太陽と月が主役を交代するほんの数刻が、体の内に潜む故郷の魂みたいなものが覚醒される時間なのかもしれない。令和4年12月3日午後4時頃、新潟県新発田市大字東赤谷1046の1にて同地に産する者が撮影。※画像の無断使...
県道14号新発田津川線の中々山から月岡方面の荒川剣竜峡に至る林道新発田南部線は平成21年の開通で私も一度通ったことがありますが、とても眺望の良い林道です。私の通ったのは夏頃で、秋になればさぞかし紅葉も美しいのではなかろうかと思ったものですが、先日晩秋の峠道の写真を頂いたので掲載致します。●峠道から焼峰・蒜場山・二王子岳、そして奥に飯豊連峰を望む。見える湖水は内ノ倉ダム湖。●紅葉が終われば人にも猿にも...
私のブログには嬉しい事に、故郷に縁のある方が時折訪ねて下さいます。今日の写真もご両親が滝谷出身のM.Kさんが送ってくれたものです。M.Kさんは子供の頃よく滝谷に遊びに行き、時間に余裕のできた現在もしばしば滝谷に通っておられるようです。そして寂れていく滝谷集落に元気を取り戻そうと様々に活性化に尽力なされているとの事です。滝谷応援団との思いだそうで、私も応援いたします。●治水ダム上流方面。遠方に雪の被る山は...
当初はおらが古里にできた巨大なダムに大変な違和感を覚えたが、これも半世紀も経てば周囲の風景に溶け込んで穏やかな眼で眺めることが出来るようになった。写真提供:角瓶写真館IIさん。※画像などの無断使用は禁じます。...
東赤谷駅から鉱山のある鉄山駅まで引かれていた日鉄赤谷鉱山専用線には、まだ僅かではあるが痕跡が残っている。昨日掲載した東赤谷連続洞門もその一つだが、飯豊川やその支流にかかる橋梁もそうである。特に使われなくなって半世紀以上経つ飯豊川橋梁は、紅葉の時期になんとも言えぬ趣を醸し出している。写真提供:角瓶写真館IIさん。※画像などの無断使用は禁じます。...
子供頃、何気なく通っていた道も風景も年月を経て記憶が熟成されると、豊かな芳香を放つ思い出となるようだ。写真提供:角瓶写真館IIさん。※画像などの無断使用は禁じます。...
私は山が好きだったので随分とあちこちの紅葉を見てきた。そして思うのだけれど贔屓目なしに私の故郷「東赤谷」の紅葉がトップクラスの美しさを持っている。その美しさをブログ「角瓶写真館II」さんが送ってくれた。いくつかに分けてお届けしたいと思う。●言わずと知れた焼峰ですが、私がいた頃より周辺に随分と広葉樹が増え広がり紅葉が見事になっているように思われます。写真提供:角瓶写真館IIさん。※画像などの無断使用は禁じ...
暖かくて穏やかな秋日和が続くので、、いてもたっても居られず久し振りに山に出かけて参りました。●山頂部はすでに紅葉は終わり冬を待つばかり。標高1000メートル付近で紅葉が盛りでした。...
日本シリーズ2022でヤクルト対オリックスの熱戦が続いておりますが、昨年と違い多くの観客も戻り、やっと日本シリーズらしくなってきました。第一戦・第二戦と明治神宮球場で試合は行われましたが、私もかつて一度だけ神宮球場に行った思い出があります。それは昭和46年(1971年)のこと、友人に誘われて行った6大学野球の早慶戦でした。そこで行われた両校の応援合戦にいたく感動したのを覚えています。...
体育の日(スポーツの日)が国民の休日として制定された東京オリンピックの年から2年後の新発田市立赤谷中学校の運動会における応援風景である。今にも「フレー フレー し~ろ~ぐ~み。フレッフレッ し・ろ・ぐ・み」と聞こえてきそうな思いがする。赤谷中学校は2クラスしか無かったので、当然ながら「赤組」と「白組」の二組で対抗する。他の子は知らないが、私には赤は平家、白は源氏という思いがあって、赤組になるととて...
新発田市街の東を流れる加治川は、そこから20キロ程も遡れば深く穿たれた険しい渓谷となる。源流となる飯豊山地に一度大雨が降れば、あっという間に平野部に流れ込み時には大水害を引き起こす。それを防がんとして建設されたのが加治川治水ダムであり、昭和42年に着工された。そして一つの鉱山街が一部を残してダムの底に沈んだ。その鉱山の名前は「日曹飯豊鉱山」。鉱山集落は二つの河岸段丘にあって上流集落は「かみ」、下流...
時の移ろいは様々な事象で感ずる事ができますが、日本人としてはやはり稲作をめぐる変化に大いにそれを感じてきたのではないでしょうか。今からおよそ360年余前の万治年間、赤谷の菅生野(すごうの)新田は開かれたと伝えられています。現在に至るまで360回の稲刈りがあった訳です。そう言うと何だか短いのか長いのか分からなくなりますが、私の人生のおよそ5倍の長さと考えると、私自身はとてつもない長さに思えてきます。...
赤谷ではコロナ禍もあって中止されていた夏祭りが、今年は久し振りに開催されたようだ。伝統の神楽舞も披露されて、徐々に日常の生活が戻りつつあるのは嬉しいことです。●獅子頭に歴史の古さを感じる。(写真:バクロのあんにゃさん)●昭和39年(1964年)新潟国体において、上赤谷の本通りにて神楽舞が披露された。※画像などの無断使用は禁じます。...
夏もいよいよ終わりを告げようとしている。帰郷した5月に田に植えられていた早苗も出穂を迎え、いよいよ実りに向かってまっしぐらのようである。赤谷に菅生野と呼ばれる台地がある。かつては水が引けずに荒れた土地であったが、水の豊富な隣村との交渉の末、念願叶い引水し豊かな水田となった。それが旧赤谷小学校を囲む一帯の水田である。ここの田んぼの景色は美しい。何が美しいのか考えてみるに、圃場整備されていないからと思...
歳を取って来たせいか、最近故郷についてよく考えるようになった。今日もそうだ。5月に故郷で撮ってきた写真を見て、そこに写る田植えする人も私にとっては故郷なのだなと至極当たり前と言えば当たり前のようであるけれども、何か今発見したように新鮮な思いに浸されている。田植えしている本人にとっては、周りの風景は故郷と認めても自分自身が故郷という感覚はないはずで、そんな所に地元の人間と遠く他所に住む人間との間の故...
以前にも書いたような気もするが、私が初めて海を見たのは小学校4年生の時の遠足においてである。もう記憶がおぼろであるが、確か新潟の白山神社から先生の引率の下、海辺に出たのであった。そのおぼろな記憶のうちに残っている風景は、松林の間からキラキラと輝く白く抜けた海と空が一体となったような光景である。そして何故か学帽を被った私が逆光となって、その光景を眺めているのである。以後再び海とまみえ、その塩っ辛い水...
赤ちゃんコンクールという言葉を聞かなくなってから久しい。以前は結構聞いたような気がしてネットで調べてみると、どうやら1960年代には終焉を迎えたようだ。「乳児の健全な育成と育児知識の普及を目指し、自治体やミルクメーカーなどの主催で盛んに各地で開催された」と新聞の記事にはある。廃止の理由は色々あるようだが、・栄養状態の改善と育児知識の普及により乳児死亡率が大幅に低下した。・スポンサーは乳業会社であり、そ...
本ブログの連絡用にしておりましたYahooメールのアドレスが変更になりました。今後は以下のアドレスにお願い致します。yabukarasu@ymail.ne.jpよろしくお願い致します。...
私には故郷を離れて以来、苦楽を共にしてきた友がいる。友の棲家は我が家の押入れの奥、半ば埃にまみれ中身も無く、くすみほつれて形骸を晒している。私が故郷を離れたのはかれこれ55年前、私の出立に先立って彼(柳行李)は一足先に都の落ち着き先に送られて行った。かの地で合流した後は、私の人生の歩みと共に6度の引越しを経て現在に至っている。昨日、このところ精を出している断捨離の中で、彼は久し振りに姿を現した。そ...
それはまさに森の中にひっそりと立っている。あたりは適度に明るく開け、木漏れ日が優しく石碑にあたる様は、刻まれた文字に反して心を和ませるかのようであった。大正四年八月建立工事殉死者追悼碑新潟水電株式会社と刻まれている。それを見てふと違和感を覚えたのは「殉死者」という文句だ。仕事で亡くなった場合の文句としては「殉職者」が常套句ではないだろうか・・・?、と思ったのである。あえて「殉死」と刻む所にこのダム...
東赤谷は桜も終わり、新緑の美しい季節になりました。夏草の生い茂る前のほんのひと時の時季ですが、枯れ草と若葉の合間に往時の社宅の姿が垣間見られます。●飯豊川第一発電所と飯豊川(加治川)。2枚目は焼峰山。●日鉄社宅跡写真提供:バクロのあんにゃさん(4月30日)※画像などの無断使用は禁じます。...
今年も東赤谷の桜が元気に咲きました。ですけれどもだいぶん傷んできた様子も伺えます。毎年のように東赤谷の桜の写真を頂くのですが、年々本数が減っていくような気も致します。今年も見覚えのある旧職員用浴場脇の桜が寿命わずかな感じがします。樹齢はほぼ私と同じ年齢ですので、どうしても自分の身と重ね合わせてしまいます。お互い励まし合って花を咲かせていきたいと思うこの頃です。写真提供:角瓶写真館IIさん。...
もう何の本に載っていたのかすっかりと忘れてしまったが、見上げる空の星は一目5000個は見えるらしい。ホントかいな?と思ったが、今回の写真を見るとあながち嘘ではないように思えてきた。「星が降る」と昭和の人間はよく表現をした。「星降る夜は・・・」などと言葉が続くと、もうそれだけでロマンチックな気持ちになるのも昭和人の特性の一つかもしれない。また、思い起こしてみれば昭和時代は「星」が曲名に入った歌がなん...
かつての住人の皆様、2022年4月2日の東赤谷の風景です。同郷の「バクロのあんにゃ」さんが撮影し送って頂きました。●焼峰です。いつも凛々しいです。●奥に蒜場山、右に二こぶの俎倉山です。●日鉄社宅跡です。夏場は藪でとても歩けたものではありませんが、いまの時期は好き勝手にどこでも歩ける楽しいいっ時です。●旧県道脇に辛うじて残っている桜です。写真を見ると何となく梢の先が膨らんでいるようで、今年も花を咲かせてく...
焼峰山と呼ぶことに地元では「山」は付けない。単に焼峰と呼ぶ。山容としては実に見栄えがする。神々しくもある。しかしながら焼峰としての名が通るのは近年になってからの事である。大正14年(1925年)の赤谷線開通記念として作られた赤谷小学校唱歌研究部作の赤谷線鉄道唱歌では焼峰は東台山として歌われている。そして赤谷小学校の校歌ができた昭和14年(1939年)になると、歌詞にようやく焼峰の名が出てくる。この間およそ14年...
昨日3月9日の東赤谷です。ご両親が滝谷出身のM.Kさんから送って頂きました。陽射しには春の気配が感じられるものの、まだまだ雪は深いです。今更ながら、よくもまぁこのような所に住んでいたものとつくづく思ってしまいます。このような雪景色を見ていると、「凍み渡り」の楽しかったことを思い出します。草木の繁る時期には行けない所も、自由に歩ける爽快感はいまだに忘れる事ができません。この頃に咲く山の椿は、真っ白な世...
●新潟県立図書館蔵「赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書」(大正14年(1925)発行)より。●「越後国蒲原郡飯豊山下湯之平温泉図」越後山岳第8号より。新発田市設置の道標が「ゆのたいら温泉」となっていたことから、一時「湯の平」は「ユノタイラ」か「ユノヒラ」かで論争になり、結局古くから地元で言い慣わされてきた「ユノヒラ」の呼称に落ち着いたのですが、今回湯の平温泉のことを記事にするにあたり、久し振りに訪れた市の...
同郷のKさんが東赤谷と滝谷の冬景色を送ってくれました。雪に埋もれた風景は、より一層ここで暮らした頃の懐かしい思い出を蘇らせてくれます。●焼峰橋から飯豊川第一発電所と焼峰山。●滝谷の大慶寺。●かつての東赤谷駅前通りから見る俎倉山と蒜場山方面。雪は荒れ野を覆い隠し、当時と変わらない風景を見せてくれます。●社宅跡から見る焼峰山。時は移れど、かつての見慣れた風景に心が癒されます。コロナ禍にあって遠出もままなら...
あの頃は除雪車など入らなかったから、道は人一人歩ける程の一条の線のようだった。行き交う人々は互いに譲り合い、二言三言挨拶をして行き違ったものだった。一旦大雪が降れば、僅かな凹みを残して道は消え、翌朝人々は俯きながら黙々と足元の雪を固め、今冬何度目かの道付けに励むのである。それはまさに魚の骨のように、あるいはアミダクジの線のように、別れた道は再び出会ったり、各々の住み家の玄関に吸い込まれて行ったりし...
「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」と唐詩にあるが、こうまで人の世が変わるとは思わなかった。天神様の紅梅が来るべき明るい春を示しているようだ。...
赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_17(彌一沢に於ける炭酸泉)
「彌一沢に於ける炭酸泉 三ツ山鉱泉 湧出場の一部」かつて飯豊川(加治川)の支流の釜ヶ沢の奥に炭酸泉が湧いていたと聞く。私が幼少の頃にも湧出量は少なかったようだが湧いていた。その内に父にでも連れて行ってもらおうかと思っていたのだが、果たせぬまま土砂崩れで埋没してしまったので今でもとても残念に思っている。この絵葉書の説明書きには湧出場所として「彌一沢」とあるが、聞き覚えもなく調べても分からない。釜ヶ沢...
「内ノ倉洞合の流れ」正に峡谷と言うにふさわしい景観である。崖の上部には木も生えておらず、おそらく大雨の時にはそこ迄水位が上がるのだろう。激流がこの隘路を迸り流れ下るのを想像すると恐ろしくもある。この辺りには大蛇の伝説が語り継がれており、渓谷を曲りくねり激しく流れ落ちる様を見て先人が大蛇を想像したと考えても、あながち間違いではないだろう。新潟県立図書館蔵「赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書」(大正14...
「滝谷新田阿弥陀山を隔てて舟見山を望む」滝谷新田の阿弥陀山は内の倉ダムの下流辺りにあるのですが、そこには阿弥陀堂があり嘗ては念仏踊りや大数珠を回しあう百万遍とかを近郷の村人が行なっていたそうです。今でも滝谷新田内の集会所で行われていると聞きます。私はこの絵葉書の説明書きに気になった点があります。それは「舟見山」という山です。「舟見山」と言うからには舟の運航を見張っていた山と考えるのが自然です。飯豊...
赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_14(越後北蒲原郡赤谷石炭鑛)
地元の人でもかつて石炭を採掘していたことを知っているのはほとんど居ないのではないか・・・。何しろ北越製紙赤谷炭鉱が閉山したのは昭和26年(1951年)で、その後細々と採掘していたらしいが、私としてもその存在を知ったのは離郷して実に30年以上も経ってからの後である。正に幻と冠しても良いような状態であるが、かつて地域に繁栄と豊かさをもたらした事を思えば、記憶と記録を残す事跡がもう少しあっても良いような気が...
日鉄赤谷鉱山専用線として蒸気機関車が鉱石の運搬を担っていたのは昭和31年(1956年)9月迄で、それ以後は電気機関車が新たに作られたトンネル内の軌道を通って鉱山の発着所まで行く事となる。これによって雪崩の危険を避けることができ、冬季の操業が可能になった。鉱山に従事していた者も冬季間の出稼ぎ稼業から解放されたのである。その出稼ぎ先(出向先)として私の聞いているところでは、北海道の炭鉱であったらしい。雪が...
随分と昔から、私は自分の樹を持ちたいと思っていた。 それは所有するとか云うものではなくて、人との関係で言うなれば友人みたいな感じの樹である。 たまに会いに行って、互いに無言でたたずみホッとする。(まぁ相手は当然のことながらじっと立っているだけですが・・・)。 名のある有名な樹ではなく、その辺の林の中に紛れている一本で良いのです。 見つからないのは樹のせいでないのは分かっています。 根を張り切れない...
今朝新聞を開いていると、肩をハタハタと叩くものがいる。少し首を捻って見返ってみるが誰もいない。 新聞に目を戻して記事を読んでいると、今度は首筋のあたりがソワソワとする。 ゆっくり手を伸ばしてみると何やら硬いものに手が触れた。 それをそっと摘んで目の前に持ってくると、あらビックリ・・・カマキリではないか。 先日の狂気に満ちたようなメスのカマキリの眼と違って、その眼は愛おしさを持って私を見つめている...
カマキリのメスがオスを喰っている。産卵に備えオスはメスの餌になるらしい。 やっと交尾に成功したと思ったら食べられてしまうオスの気持ちは、一体どんなものなのだろう。 陶酔の中、喰われてしまうのか・・・、はたまた覚悟して「どうぞ」と身を差し出すのか・・・。 それが幸いかどうか分からないが、メスはオスの頭から食べるらしい。武士が切腹する時、痛みを少なくするために首切り役人が即首を切り落としたらしいが...
烏瓜と言うからには、よほどカラスの大好物なのだろうと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。 調べてみると「唐朱瓜」と言う呼び名が変化して「カラスウリ」になったと言う説が有力なようだ。 熟れた野山の実は、何でも口に入れたがるのが山育ちの習い性であるが、カラスウリだけは口にした記憶がない。 そもそも生まれ育った新潟にはあったのだろうか・・・、あったのであれば口にせずには居られない魅惑的な色と子供...
今頃になってアジサイが咲いていた。どう見ても季節外れである。それが証拠に隣の花は枯れ枯れだ。間違えて咲いたのか?。それとも最初から今時分に咲くことを決めていたのか?。みんなとは一緒に咲かない・・・、俺はいま咲く・・・。周りを見渡せば、そのような人間も居る。...
上赤谷は旧会津藩である。江戸時代は宿場町として大変に栄えた。そしてそこを通る街道を会津街道と言う。 現在も証の一つとして村外れであった六軒町には一里塚が残っている。かつては二つあったらしいが現在は一つしか無い。こんもりとした塚と石碑が一基立っている。 かつてはそこを通る旅人の為に、日陰として葉の良く生い茂るエノキが植えられ、塚の周囲には急な病に襲われた旅人のために種々の薬草が植えられていたと聞く...
「はつでんしょ」と言う言葉にノスタルジーを感ずる人間は、そうそう居ないのではなかろうか・・・?。 漢字に書けば「発電所」で、何んとも無機質な感じでノスタルジーなんぞ入る余地は無さそうに思うが、山育ちの人間には少なからず懐かしい思い出が残っている。 私の記憶の発電所は飯豊川第一発電所だ。だがその正式名を知ったのは随分と大人になってからで、あの頃は単に「はつでんしょ」と呼んでいた。 今、同郷の...
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東赤谷日鉄社宅の桜が満開になりました。先日送って頂いた写真では、まだ蕾でどの程度咲くのか心配していたのですが、ブロ友の「2トラ38」さんが今日24日の桜の開花状態の写真を送ってくれましたので早速掲載させて頂きます。この桜は転車台側の我が家の前にあった桜の木です。幼木の頃からの長いお付き合いです。今年も咲いてくれてありがとうの一言です。写真提供:2トラ38さん ※画像などの無断使用はお断り致します。...
角瓶写真館IIさんから4月18日時点の東赤谷の桜の現況を教えて頂きました。●今年は例年になく残雪が多いようです。焼峰山。●旧県道より蒜場山と俎倉山。●東赤谷駅前付近より新発田方面を望む。左側社宅跡。●旧県道を観月橋方面。左右に桜の老木。●現在の観月橋。●観月橋から桜老木を見る。●手前は枯れて、奥の2本が辛うじて生きているようです。●まだ蕾ですが、今年もなんとか咲きそうです。●上赤谷まで下がると、旧赤谷小学校の桜...
撮影時期〜昭和20年以前撮影場所〜旧日本陸軍大日原演習場説明〜大日原演習場の兵舎と思われる。映り込んでいる軍人と思しき人物の服装は、旧日本帝国陸軍の軍服のように見える。したがって撮影時期は昭和20年以前と推測する。写真提供:KIKUCHIさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
少年時代のほとんどの思い出は、この土地(東赤谷内日鉄社宅)にあったと言っても過言では無いと思うが、中でも幼稚園広場はそれが凝縮されたような所と思っている。思い起こそうと思えば、次から次へと思い出は湧いてくる。それは広場と言うのに相応しい程度の大きさの平地であって、社宅内では貴重な子供の遊び場となっていた。現在はまったくの原野に還っている。●閉山後間も無い1980年代初頭の幼稚園広場●1960年代の幼稚園広場...
この坂を下った先には東赤谷駅がある。立っている地点は診療所の前で、下に見える左側の建物は購買所であり日鉄社宅の中では一番人通りの多い通りであった。そういう記憶が色濃いせいか私には不気味な風景として眼に映る。やっと長い冬の生活が終わり、雪が融け、桜も咲いたのに誰一人として居ないのが実に不自然なのである。子供がいない。歓声がない。走り回る音がしない。子供の頃の私が見えない。1980年代初頭の撮影であるから...
桜が満開を迎えたというのに、社宅街のあちこちには融け切らない雪の塊が残っている。あれだけふわふわとして柔らかく優しかった雪も、今はゴリゴリとして塵芥にまみれ人々は穢らわしいものでも見るように早く消え去るのを願っている。今思い起こせば、あの頃の春は簡単だった。「雪が融ければ春!」それだけだった。撮影時期〜1980年代初頭撮影場所〜社宅内の購買所前説明〜中央の建物は床屋だった所。右の建物は組合事務所だった...
卒業の季節である。終了と始まりの季節である。人生で一番最初に手にする証書は多くの人にとって幼稚園(保育園)の卒園時のものではないだろうか。ただ、昔は全ての児童が園に通う慣習がなかったため、そうとは言えない面もあるが・・・。園の証書を始めとして、この後に続く人生で写真に写る子ども達は幾枚の鳳凰の飾り枠の付いた証書(賞状)をもらっていくのだろうか・・・。●昭和36年(1961年)日鉄赤谷鉱業所保育園卒園式●ち...
先月2月17日に新発田市上赤谷において伝統行事「どんづき祭り」が行われたと同郷のS氏より写真とともにお便りを頂きました。「どんづき祭り」は700年もこの地に続いている奇祭です。年男がサラシの褌一丁で寒風雪の中、山神社まで駆け上がり裸で揉み合います。現在は年男どころか若い男性も地元に少なく、参加者を募集してなんとか祭りを維持しているようです。写真提供:バクロのあんにゃさん ※画像などの無断使用はお断り致...
撮影時期〜1960年(S35)撮影場所〜日鉄赤谷鉱業所保育園(幼稚園)説明〜後ろのプログラム表を見ると演劇発表会を兼ねたクリスマス会のようです。写真提供:KIKUCHIさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
日鉄赤谷の社宅街は斜面を切り開いて出来た街であったから、子供がスキーで遊べる程度の坂はそこら辺にあった。友達数人とワッセワッセとスキー板を横に雪を踏み固めれば、小さなスキー場は出来上がりである。撮影時期〜1971年(S46)頃撮影場所〜日鉄社宅説明〜後方は焼峰山撮影時期〜1958年(S33)頃撮影場所〜日鉄社宅写真提供:一枚目KIKUCHIさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
よくもまあ、このような雪の中で暮らしていたものだ。日鉄社宅で生まれ育った子供達にとっては何の不思議もない普通の生活であったろうけれども、昭和14年の開山以来各地から移り住んで来た大人達は大変であったろうと思う。また中でも職員の人達は転勤で関東やら九州から越してきて、その大人達に連れられて来た子供達は冬になるとさぞやビックリしたことだろう。●一度大雪が降れば、社宅を取り囲む山々は人の往来を拒絶するかの...
もう何年も古里の雪景色の中に立ったことがない。頂いた写真を見ていると、あの鼻腔をくすぐるようなツンとした雪の匂いが蘇ってくるようだ。●上赤谷、雪の夜景●東赤谷、赤谷鉱山日鉄社宅跡から望む●新発田郊外から二王子岳、焼峰山、蒜場山を望む。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
年月を経ても変わらないのは故郷の山だけだ!とよく言うが、まさにその通りとこの頃は特に思う。今日の写真は上赤谷寄りの旧県道から日鉄赤谷鉱山社宅方面を撮影したもの。右側の木の間隠れに見える緑色の屋根と白い壁の建物は鉱山事務所、その左下側の建屋は共同浴場で手前の欄干は観月橋のもの、真ん中の青い屋根の家は黒崎商店、その左奥の茶色い屋根の建物は鉱石の分析所で、下から上がっている道路は赤谷線廃線跡を利用した新...
昨年末に紹介した俎倉山であるが、新発田近郊からも望めるため、かつては「新発田富士」とも呼ばれおめでたいので再びパノラマでの登場です。撮影場所は焼峰山下部付近で、左奥に見えるのは蒜場山になります。見えてはいませんが右奥には鳥居峠があり、さらに三川方面に抜ける鳥越と呼ばれる乗越があります。すでに廃道となっているこの古道は、かつて赤谷の衆が炭焼きのため釜ヶ沢沿いに辿った道でもあります。その時の険しく辛か...
パノラマ写真を撮ろうと思ったら、デジタルカメラのモードをそのようにセットさえすれば繋ぎ目のないキレイなパノラマ写真が簡単に撮れる。しかし、昭和のフィルムカメラではそうは行かない。パノラマ専用のカメラを使うか、フィルムを上下カットしたような擬似的なフィルムを使うか、カメラを水平に回転させて何枚もコマ撮りしたものを後に印画紙で重ねつなげるか、いずれにしても昭和のカメラマンは苦労して雄大なパノラマ画像を...
赤谷三山(焼峰山・蒜場山・俎倉山)の一つ俎倉山は、私の住んでいた東赤谷の日鉄社宅からよく見えた。焼峰山よりは注目される事のなかった山であったが、その前面は荒々しい岩肌が表れ、まさにその山名のごとくマナ板のような崖が見てとれた。また遠景からの姿は端正な山容もあってからか、新発田あたりではかつて新発田富士とも呼ばれた時期があったようだ。撮影時期〜昭和40年代半ば頃撮影場所〜釜ヶ沢上流の三川方面に向かう古...
昭和の新発田の象徴のひとつとして、太平洋ニッケルという工場があった。私は高校時代には赤谷線で通学していたのだが、列車が新発田駅に近づくと右手に大きな建物が見えてくるようになる、それが太平洋ニッケルの工場であり毎日眺めていた割には一度も近くまで行って見ることはなかった。やがて関東であくせく暮らしているうちに、いつの間にやら消えて、いつの間にやら跡地は立派な公園になっていた。太平洋ニッケルという何とも...
先日、新発田藩を舞台とした映画「十一人の賊軍」を観てきた。その評価は差し控えるとして、その映画の中に「黒い水」というものが出てきた。まあ、それは石油という事なのだけれども、ちょうどお借りした写真の中に新発田に実際にあった油井の写真があって、検索してみるとかつては盛んに採掘されていたらしい事を知り、少なからぬ驚きを覚えた。撮影時期〜1947年(S22)7月撮影場所〜新発田市城北町交差点付近説明〜五号油井開鑿...
もう50年以上も前、私は朝日連峰の縦走を一人でしていた。ゆったりとした日程をとって、最後は大鳥池の湖畔でテント泊をしようかと思っていたが、なんだか急に帰りたくなって狐穴小屋から一気に鶴岡の町まで下りてきた。羽越線の列車に乗り込んだ時には、もう太陽も低くなっていて、座席に落ち着いてボンヤリしているうちに列車は海岸線を走るようになり、車窓から見える景色は海も空も茜色に染まっていた。都会から逃げるように...
はて、私が蒸気機関車に最後に乗ったのはいつの事であったろう?。思い当たるのは、高校三年の冬に水原に住む友人の家に遊びに行った時の事くらいか・・・?。あの時は羽越線の新発田駅からSL列車に乗車したのであるが、大雪であったせいか中々発車しなかった。硬い背もたれに身を委ね、反対側に止まる列車の赤黒い客車の窓枠をぼうっと見ていた。私の座る窓側の足元にはスチームの管が客車の端から端まで通っていて、管を覆う四角...
どうして桜というものは思い出をほじくり返す木なのだろう。見ているとどんどんと様々な思い出が湧いてくる。両親のこと、兄弟のこと、友達のこと、学校のこと、家のこと・・・大概は古里の幼い時のことばかりであるが・・・。中でも特別に思い入れの深い桜の花が今年も咲いた。日鉄の桜である。樹齢およそ75年、私と同年である。●日鉄の桜は社宅が無くなっても有難いことに伐採もされず残っていたのだが、さすがに老いてきた。...
かつて国鉄で唯一スイッチバックの終着駅として知られた東赤谷駅であるが、その痕跡を現在見つけようと思うと大変である。インターネットの中でも時折、旧東赤谷駅跡付近を訪れて、スイッチバックの赤谷線跡を推測している方がいるが、大概はだいぶ見当はずれの所を示している人が多い。それほど彼の地は変容しているのである。せっかく訪れて下さって、何一つとして当時の面影に寄り添って頂けないのは誠に申し訳ないような気分に...
このブログを始めてから今年で17年になる。故郷に関するネタも尽きかけてきた。この辺りでそろそろ一区切りつけた方が良いのかも知れない。どの様な形にしようかただいま思案中なり。●正月の菅生野。雪景色は美しいが、震災の能登地方の方々には厄介でしかなく愛でる余裕もないことだろう。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...
「げっぽ(ビリ)になったのはオメのせいだ」と、みさおは私に盛んに怒っている。どうやら私から取り上げるように借りていったスキー板の滑りが悪かったらしい。雪国の山の学校では毎年冬の授業としてスキー教室が地元のスキー場で行われる。赤谷スキー場といってロープトウのある緩斜面と、300メートル有るか無いかの急斜面の滑降コースが一本あるだけの小さなスキー場ではあったが、下越近隣にスキー場が少なかったせいもあっ...
暑くなったり寒くなったりと、家の辺りでウロウロしていると体感だけでは季節を感じられないので、先日人生最後の車として乗り換えたタフトなる車を駆って比企丘陵までドライブに行ってきた。...
焼峰山は赤谷小学校の背後に聳える故郷のシンボルのような山ですから、学校の行事として焼峰登山は古くからあったようです。私も昭和30年代に何年生の頃かは忘れてしまいましたが、先生引率の下に登っています。この山の標高は1085メートルと、それほど高い山ではありませんが、剥き出しの岩場やザレ場があったりしてズック靴の子供には緊張を強いられる場面があります。今は亡き祖母が、どこからどのように手に入れて来たか...