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2019/07/18

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  • 2024春 日鉄の桜

    どうして桜というものは思い出をほじくり返す木なのだろう。見ているとどんどんと様々な思い出が湧いてくる。両親のこと、兄弟のこと、友達のこと、学校のこと、家のこと・・・大概は古里の幼い時のことばかりであるが・・・。中でも特別に思い入れの深い桜の花が今年も咲いた。日鉄の桜である。樹齢およそ75年、私と同年である。●日鉄の桜は社宅が無くなっても有難いことに伐採もされず残っていたのだが、さすがに老いてきた。...

  • 東赤谷駅切通し

    かつて国鉄で唯一スイッチバックの終着駅として知られた東赤谷駅であるが、その痕跡を現在見つけようと思うと大変である。インターネットの中でも時折、旧東赤谷駅跡付近を訪れて、スイッチバックの赤谷線跡を推測している方がいるが、大概はだいぶ見当はずれの所を示している人が多い。それほど彼の地は変容しているのである。せっかく訪れて下さって、何一つとして当時の面影に寄り添って頂けないのは誠に申し訳ないような気分に...

  • 正月の菅生野

    このブログを始めてから今年で17年になる。故郷に関するネタも尽きかけてきた。この辺りでそろそろ一区切りつけた方が良いのかも知れない。どの様な形にしようかただいま思案中なり。●正月の菅生野。雪景色は美しいが、震災の能登地方の方々には厄介でしかなく愛でる余裕もないことだろう。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...

  • 赤谷スキー場と小学生

    「げっぽ(ビリ)になったのはオメのせいだ」と、みさおは私に盛んに怒っている。どうやら私から取り上げるように借りていったスキー板の滑りが悪かったらしい。雪国の山の学校では毎年冬の授業としてスキー教室が地元のスキー場で行われる。赤谷スキー場といってロープトウのある緩斜面と、300メートル有るか無いかの急斜面の滑降コースが一本あるだけの小さなスキー場ではあったが、下越近隣にスキー場が少なかったせいもあっ...

  • 比企の寺にて

    暑くなったり寒くなったりと、家の辺りでウロウロしていると体感だけでは季節を感じられないので、先日人生最後の車として乗り換えたタフトなる車を駆って比企丘陵までドライブに行ってきた。...

  • 赤谷小学校の焼峰集団登山

    焼峰山は赤谷小学校の背後に聳える故郷のシンボルのような山ですから、学校の行事として焼峰登山は古くからあったようです。私も昭和30年代に何年生の頃かは忘れてしまいましたが、先生引率の下に登っています。この山の標高は1085メートルと、それほど高い山ではありませんが、剥き出しの岩場やザレ場があったりしてズック靴の子供には緊張を強いられる場面があります。今は亡き祖母が、どこからどのように手に入れて来たか...

  • 菅生野、秋のたより

    今夏、甲子園での高校野球大会では、選手の頭髪は坊主頭が良いだの長髪が良いだのと騒がれていたようだが、故郷の稲刈りが終わった田んぼを見ているうちに、そのような事が頭に浮かんでしまった。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...

  • 思い出の湯ノ平山荘

    湯ノ平山荘には数々の思い出がある。殊に二代目(昭和34年〜昭和49年)の山荘には深い思い入れがある。風の便りにこの山荘が雪崩によって半壊し、解体されて新しく建て直されるという話を聞いた時には、随分と寂しい思いをしたものである。飯豊山には数回登山をしているが、下山口は必ず湯ノ平温泉と決めていた。その理由は何と言っても湯ノ平山荘を朝立てば昼前には生家である我が家に歩き着けたからである。今回、長年心の片隅に...

  • 飯豊山登山口

    時折、在所は何処かと聞かれることがある。殊に上京したての頃は多かったような気がする。聞かれれば、とりあえず「新潟です」と答える。そして相手の様子を見ながら「新発田を知っていますか?」と聞く。続けて「新発田でも山の方、飯豊山の登山口の生まれです」と言う。余程の山好きでない限り、話しはその辺りで終わる。ことほど左様に当時の私は飯豊山登山口で生まれ育ったという事は自慢であり誉れだったのである。●赤谷線東...

  • 菅生野(すごうの)、満天の星

    故郷を離れてから忘れ去ってしまった事はたくさんあると思うのだけれど、星もその一つだろうなぁ。この辺りでは夜空いっぱいの星を見ることは臨むべくもない。目を凝らして見ても、この年老いた目に映るのはせいぜい数個のみだ。もはや見る気を失ったと云うか、夜空には星があると云うことさえ忘れている。かと言って子供の頃、見えていたはずの満天の星をまじまじと見て感動した記憶もない。それは満天の星があまりに普通の景色だ...

  • 終戦の日に思い立って

    大人は誰一人として語ってくれる事はなかった、日鉄赤谷鉱山にも中国からの強制連行者がいたことを・・・。ただ、彼らが収容されていた土地の名前だけが語り残されていた。その土地の名は「華人合宿」という。大人の口からの音として受け取り聴く子供たちは「カジガシュク」と呼んでいた。そこは飯豊川(加治川)と河岸の崖に挟まれた狭い土地で、今考えれば逃亡を抑えるのに適した場所であったと思い当たる。しかし、この「カジガシ...

  • 夏休みはラジオ体操から始まった

    夏休みは朝のラジオ体操から始まった。購買所前の広場に50名からの子供が集まる。やがて共同浴場の屋根の上に設けられている大きなスピーカーからラジオ体操の歌が流れてくる。新しい朝が来た 希望の朝だ喜びに胸を開け 大空あおげラジオの声に 健やかな胸をこの香る風に 開けよそれ 一 二 三ラジオたいそう だいいち〜はじめ!!社宅の上へと続く階段の上には先導の上級生・・・、終われば参加の証であるカードにハンコ...

  • 2023夏 菅生野

    時の移ろいを何をもって感ずるかは人それぞれでしょうが、私は季節季節に送って頂く菅生野の景色でそれを感ずる事が多くなりました。写真の中に暑さを感じたり寒さを感じたり、そうすると皮膚の感覚と共にあの頃の自分も甦ってくるのです。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...

  • 夏の川原

    孫たちは夏休みに入った。そして自身の夏休みを振り返って、まず思い浮かんでくるのは熱い川原の風景だ。私の通う川原は大小さまざまな丸い石がゴロゴロしていて、それは漬物石大の物から身長を越える大きさの物まで一面を埋めていた。現在知識を得た私は、その石が花崗岩であったと分かる。白い肌に黒い粒々が入って、飯豊川の激流を下ってきたものだから角が取れてスベスベに磨かれて、思い浮かべる情景は丸い胡麻塩むすびが並ん...

  • かぐや姫か?アイドルか?・・・

    梅雨空の下の薄暗い庭園の隅に何かが光っている。近づいてみると、そこはまるでアイドルグループのコンサート会場のようにサイリウムライトの光る棒が揺れるように立ち並んでいた。そして屈んで眺めているうちに、光っている所を切ったら小さなかぐや姫がたくさん現れるのではないか?と思ってしまった。見沼の自然庭園にて...

  • 令和5年、菅生野田植えの終わり

    定点風景になっている赤谷の菅生野の田植えが終わりました。青々とした風が、遥か飯豊の山々から赤谷三山を越え吹き渡ってくるようです。雲や周囲の山々を映す水田の水面も、あといく日かの時を経て旺盛に生い茂る稲の葉に覆い隠されてしまうでしょう。●令和5年5月27日の風景●3月下旬時の同風景写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...

  • ふる里は緑深くして・・・

    故郷の山々の緑は、ますます濃厚になっていくようです。以前は杉の木ばかりが目立った焼峰の裾野は、随分と広葉樹が増え様々に色の変化を見せるようになりました。2枚共に社宅跡の写真になりますが、後一ヶ月もすれば夏草が生い繁り、とても足を踏み入れる気にもならなくなります。2枚目の写真は所々に桜の老木が見られます。正面に見える石垣は社宅のほぼ中央を東西に横切るようにあって、すぐ下に鉱員用の共同浴場は立ち、上に...

  • 2023_ふる里の桜

    今年もブロ友の角瓶28号さんが、ふる里の桜風景を送ってくださいました。かつてあった日鉄赤谷鉱業所社宅の在処を示す数少ない遺産の一つである桜の木も年を経るごとに一本また一本と老いて枯れ朽ちて減っていくようです。●赤谷小学校と桜と焼峰。この地を故郷とする諸人は、こぞって郷愁に陥る風景でしょう。●東赤谷の旧観月橋のたもとから飯豊方面を眺めます。●右側の桜は枯れてしまったようです。この桜は職員用の浴場の側に...

  • 菅生野2023早春

    定点撮影と言うと、テレビではよく都会の街並みの変化が映し出されます。それは破壊と再生の凄まじいばかりの移り変わり様です。大して時も経ずに訪れた街で過去の記憶を頼りに歩くと迷う事がしばしばあって、心が不安だらけになってしまいます。それを思うと我がふる里の景色を前にした心の安寧はどうでしょう・・・。何十年、何百年も変わらぬ風景に心が安らぎます。ちなみに昨年冬の景色です写真提供:バクロのあんにゃさん※画...

  • カタクリの花

    天気予報ではお天気の悪い日が続くらしい。今日の午前中は何とか晴れ間が出るというので埼玉小川町へ片栗の花を見に行く。行ってみれば片栗の花の盛りは過ぎていたが、水芭蕉や桜は見頃であった。散策途中にある寺の手水舎は花手水となっており、その造作に思わずうっとりと清々しくなる。...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_19(新潟電気飯豊川第二堰堤上流の朴名橋)

    飯豊川(加治川)の渓谷は深い。その両岸を結ぶ橋はいく本かあるのだけれど中でも「朴名橋」は歴史的に一番古い橋ではないかと私は思っている。それに「朴名(ほうな)」という橋の名が、ここ数年来とても気になっている。名の由来は何なのか・・・、赤谷地方の歴史を綴る文献を調べても載っていないし著者によっては語源を研究中という書籍もあった。私のブログに多くの写真を寄せて協力してくれた同郷の人にA藤子さんという方が...

  • 1000年の家と50年前の私

    私の父方の家も母方の家も神職である。ただ父方の家の方は後継者が居なく家は絶えてしまった。両家とも新発田市蔵光にあって、現在も続いている母方の本家は現当主で四十九代目の神主である。神職であったが故にその系図は比較的はっきりしていて、先頃まとめられた家系図によれば1〜3代目ははっきりわからないものの4代目は天禄元年(970年)に神職に就ていたらしい。実に1053年も前の事である。私は働きに出た都会での...

  • 還山さんのふるさと

    明日はこの辺りでも降雪の予報が出ている。新潟の豪雪地帯の生まれで雪の苦労は散々知っており、現在雪国に住まわれている方には大変に失礼とは思いながらも私は雪の降るのを待っている。そしてなお楽しい気持ちさえ浮かんでいる。毎年訪れる3メートルを越える豪雪の季節でも、それが普通であり日常であったから側からは思える苦労も不便も感じることは無かった。ただただ大人はモクモクと働き、子供はユウユウと遊んだ。私と同郷...

  • 豊山三代

    初場所は貴景勝の優勝という一番落ち着きのある形で終えたが、何かどこか寂しい。それは豊山という四股名が取組板に見えず、また館内にその四股名が響く事が無くなったせいだろう。大雪で列車の運行がままならず大勢の人が新発田駅の待合室で運転の再開を待っていた。それは昭和40年頃であったろうか・・・、待合室の上部に設置されたテレビジョンは豊山対大鵬の取り組みを映していた。人々の全ての頭は同じ方向を向き、制限時間...

  • 菅生野の冬

    頂いた写真は、まるで定点観測のように季節の移ろいをはっきりと感じさせる。我が母校赤谷小学校の立つ菅生野の「田植えの春」「繁りの夏」「実りの秋」そしてこの度の「雪眠りの冬」・・・。季節感の乏しい、おぼろに時が過ぎて行く土地に住む私に、いま更に生きる活力を与えてくれそうだ。写真提供:バクロのあんにゃさん※画像などの無断使用はお断り致します。...

  • 令和五年正月の東赤谷に昭和を思う

    故郷の象徴である山の焼峰を仰ぎ見ている限り、それほどの歳月の移ろいを感じ無いのですが、いざ振り向いてかつての住居跡を見れば、そこは切ないばかりに六十年を経た風景が広がっているのです。●令和5年正月と昭和39年冬。東赤谷より東方飯豊山方面を望む。●令和5年正月と昭和41年冬。東赤谷より北方棚橋山方面を望む。●令和5年正月と昭和43年冬。東赤谷より西方新発田方面を望む。古い写真を見ると昔は現在より多く雪...

  • ふるさとの空

    雪国特有の鬱々とした雲が広がっています。野辺の草も生気を放ち終え、あとは雪に埋もれるを待つばかりです。かつての私は、紛れもなくこの風景の中で育ち生きていた訳ですが、今その時の心境を思い浮かべようとしても湧いてくるものはありません。ですがこの風景の醸し出す「気」は、私の人生の指標の一部に間違いなく存在している訳で、自分を語る上で大切な場所となっているのです。●旧日鉄社宅跡付近から●加治川治水ダムに通じ...

  • ふるさとと言う魂

    秋と冬の狭間の晩秋とも初冬とも言い表しても良いようなこの時期は、雪国生まれの私達にとってどこか哀愁のようなものが漂い故郷がひとしお恋しくなる季節なのかもしれない。さらに時を絞れば昼と夜の間の太陽と月が主役を交代するほんの数刻が、体の内に潜む故郷の魂みたいなものが覚醒される時間なのかもしれない。令和4年12月3日午後4時頃、新潟県新発田市大字東赤谷1046の1にて同地に産する者が撮影。※画像の無断使...

  • 晩秋の峠道

    県道14号新発田津川線の中々山から月岡方面の荒川剣竜峡に至る林道新発田南部線は平成21年の開通で私も一度通ったことがありますが、とても眺望の良い林道です。私の通ったのは夏頃で、秋になればさぞかし紅葉も美しいのではなかろうかと思ったものですが、先日晩秋の峠道の写真を頂いたので掲載致します。●峠道から焼峰・蒜場山・二王子岳、そして奥に飯豊連峰を望む。見える湖水は内ノ倉ダム湖。●紅葉が終われば人にも猿にも...

  • 東赤谷2022秋_その5(滝谷応援団と紅葉)

    私のブログには嬉しい事に、故郷に縁のある方が時折訪ねて下さいます。今日の写真もご両親が滝谷出身のM.Kさんが送ってくれたものです。M.Kさんは子供の頃よく滝谷に遊びに行き、時間に余裕のできた現在もしばしば滝谷に通っておられるようです。そして寂れていく滝谷集落に元気を取り戻そうと様々に活性化に尽力なされているとの事です。滝谷応援団との思いだそうで、私も応援いたします。●治水ダム上流方面。遠方に雪の被る山は...

  • 東赤谷2022秋_その4(加治川治水ダムと紅葉)

    当初はおらが古里にできた巨大なダムに大変な違和感を覚えたが、これも半世紀も経てば周囲の風景に溶け込んで穏やかな眼で眺めることが出来るようになった。写真提供:角瓶写真館IIさん。※画像などの無断使用は禁じます。...

  • 東赤谷2022秋_その3(鉱山遺構と紅葉)

    東赤谷駅から鉱山のある鉄山駅まで引かれていた日鉄赤谷鉱山専用線には、まだ僅かではあるが痕跡が残っている。昨日掲載した東赤谷連続洞門もその一つだが、飯豊川やその支流にかかる橋梁もそうである。特に使われなくなって半世紀以上経つ飯豊川橋梁は、紅葉の時期になんとも言えぬ趣を醸し出している。写真提供:角瓶写真館IIさん。※画像などの無断使用は禁じます。...

  • 東赤谷2022秋_その2(東赤谷連続洞門)

    子供頃、何気なく通っていた道も風景も年月を経て記憶が熟成されると、豊かな芳香を放つ思い出となるようだ。写真提供:角瓶写真館IIさん。※画像などの無断使用は禁じます。...

  • 東赤谷2022秋_その1(焼峰)

    私は山が好きだったので随分とあちこちの紅葉を見てきた。そして思うのだけれど贔屓目なしに私の故郷「東赤谷」の紅葉がトップクラスの美しさを持っている。その美しさをブログ「角瓶写真館II」さんが送ってくれた。いくつかに分けてお届けしたいと思う。●言わずと知れた焼峰ですが、私がいた頃より周辺に随分と広葉樹が増え広がり紅葉が見事になっているように思われます。写真提供:角瓶写真館IIさん。※画像などの無断使用は禁じ...

  • 上州の山は小春日和

    暖かくて穏やかな秋日和が続くので、、いてもたっても居られず久し振りに山に出かけて参りました。●山頂部はすでに紅葉は終わり冬を待つばかり。標高1000メートル付近で紅葉が盛りでした。...

  • 昭和の明治神宮球場

    日本シリーズ2022でヤクルト対オリックスの熱戦が続いておりますが、昨年と違い多くの観客も戻り、やっと日本シリーズらしくなってきました。第一戦・第二戦と明治神宮球場で試合は行われましたが、私もかつて一度だけ神宮球場に行った思い出があります。それは昭和46年(1971年)のこと、友人に誘われて行った6大学野球の早慶戦でした。そこで行われた両校の応援合戦にいたく感動したのを覚えています。...

  • 昭和41年、体育の日

    体育の日(スポーツの日)が国民の休日として制定された東京オリンピックの年から2年後の新発田市立赤谷中学校の運動会における応援風景である。今にも「フレー フレー し~ろ~ぐ~み。フレッフレッ し・ろ・ぐ・み」と聞こえてきそうな思いがする。赤谷中学校は2クラスしか無かったので、当然ながら「赤組」と「白組」の二組で対抗する。他の子は知らないが、私には赤は平家、白は源氏という思いがあって、赤組になるととて...

  • 加治川治水ダムより望む旧日曹飯豊鉱山下流集落

    新発田市街の東を流れる加治川は、そこから20キロ程も遡れば深く穿たれた険しい渓谷となる。源流となる飯豊山地に一度大雨が降れば、あっという間に平野部に流れ込み時には大水害を引き起こす。それを防がんとして建設されたのが加治川治水ダムであり、昭和42年に着工された。そして一つの鉱山街が一部を残してダムの底に沈んだ。その鉱山の名前は「日曹飯豊鉱山」。鉱山集落は二つの河岸段丘にあって上流集落は「かみ」、下流...

  • 赤谷、菅生野(すごうの)の実り

    時の移ろいは様々な事象で感ずる事ができますが、日本人としてはやはり稲作をめぐる変化に大いにそれを感じてきたのではないでしょうか。今からおよそ360年余前の万治年間、赤谷の菅生野(すごうの)新田は開かれたと伝えられています。現在に至るまで360回の稲刈りがあった訳です。そう言うと何だか短いのか長いのか分からなくなりますが、私の人生のおよそ5倍の長さと考えると、私自身はとてつもない長さに思えてきます。...

  • コロナ退散 神楽舞

    赤谷ではコロナ禍もあって中止されていた夏祭りが、今年は久し振りに開催されたようだ。伝統の神楽舞も披露されて、徐々に日常の生活が戻りつつあるのは嬉しいことです。●獅子頭に歴史の古さを感じる。(写真:バクロのあんにゃさん)●昭和39年(1964年)新潟国体において、上赤谷の本通りにて神楽舞が披露された。※画像などの無断使用は禁じます。...

  • 夏の終わり、菅生野。

    夏もいよいよ終わりを告げようとしている。帰郷した5月に田に植えられていた早苗も出穂を迎え、いよいよ実りに向かってまっしぐらのようである。赤谷に菅生野と呼ばれる台地がある。かつては水が引けずに荒れた土地であったが、水の豊富な隣村との交渉の末、念願叶い引水し豊かな水田となった。それが旧赤谷小学校を囲む一帯の水田である。ここの田んぼの景色は美しい。何が美しいのか考えてみるに、圃場整備されていないからと思...

  • 故郷とはなんぞや

    歳を取って来たせいか、最近故郷についてよく考えるようになった。今日もそうだ。5月に故郷で撮ってきた写真を見て、そこに写る田植えする人も私にとっては故郷なのだなと至極当たり前と言えば当たり前のようであるけれども、何か今発見したように新鮮な思いに浸されている。田植えしている本人にとっては、周りの風景は故郷と認めても自分自身が故郷という感覚はないはずで、そんな所に地元の人間と遠く他所に住む人間との間の故...

  • 74年前の夏

    以前にも書いたような気もするが、私が初めて海を見たのは小学校4年生の時の遠足においてである。もう記憶がおぼろであるが、確か新潟の白山神社から先生の引率の下、海辺に出たのであった。そのおぼろな記憶のうちに残っている風景は、松林の間からキラキラと輝く白く抜けた海と空が一体となったような光景である。そして何故か学帽を被った私が逆光となって、その光景を眺めているのである。以後再び海とまみえ、その塩っ辛い水...

  • 赤ちゃんコンクール

    赤ちゃんコンクールという言葉を聞かなくなってから久しい。以前は結構聞いたような気がしてネットで調べてみると、どうやら1960年代には終焉を迎えたようだ。「乳児の健全な育成と育児知識の普及を目指し、自治体やミルクメーカーなどの主催で盛んに各地で開催された」と新聞の記事にはある。廃止の理由は色々あるようだが、・栄養状態の改善と育児知識の普及により乳児死亡率が大幅に低下した。・スポンサーは乳業会社であり、そ...

  • 連絡用Yahooメールアドレス変更のお知らせ

    本ブログの連絡用にしておりましたYahooメールのアドレスが変更になりました。今後は以下のアドレスにお願い致します。yabukarasu@ymail.ne.jpよろしくお願い致します。...

  • 旅立ちの日と柳行李

    私には故郷を離れて以来、苦楽を共にしてきた友がいる。友の棲家は我が家の押入れの奥、半ば埃にまみれ中身も無く、くすみほつれて形骸を晒している。私が故郷を離れたのはかれこれ55年前、私の出立に先立って彼(柳行李)は一足先に都の落ち着き先に送られて行った。かの地で合流した後は、私の人生の歩みと共に6度の引越しを経て現在に至っている。昨日、このところ精を出している断捨離の中で、彼は久し振りに姿を現した。そ...

  • 飯豊川第一ダム工事殉死者追悼碑

    それはまさに森の中にひっそりと立っている。あたりは適度に明るく開け、木漏れ日が優しく石碑にあたる様は、刻まれた文字に反して心を和ませるかのようであった。大正四年八月建立工事殉死者追悼碑新潟水電株式会社と刻まれている。それを見てふと違和感を覚えたのは「殉死者」という文句だ。仕事で亡くなった場合の文句としては「殉職者」が常套句ではないだろうか・・・?、と思ったのである。あえて「殉死」と刻む所にこのダム...

  • 春が萌えています

    東赤谷は桜も終わり、新緑の美しい季節になりました。夏草の生い茂る前のほんのひと時の時季ですが、枯れ草と若葉の合間に往時の社宅の姿が垣間見られます。●飯豊川第一発電所と飯豊川(加治川)。2枚目は焼峰山。●日鉄社宅跡写真提供:バクロのあんにゃさん(4月30日)※画像などの無断使用は禁じます。...

  • 今年も元気に咲きました

    今年も東赤谷の桜が元気に咲きました。ですけれどもだいぶん傷んできた様子も伺えます。毎年のように東赤谷の桜の写真を頂くのですが、年々本数が減っていくような気も致します。今年も見覚えのある旧職員用浴場脇の桜が寿命わずかな感じがします。樹齢はほぼ私と同じ年齢ですので、どうしても自分の身と重ね合わせてしまいます。お互い励まし合って花を咲かせていきたいと思うこの頃です。写真提供:角瓶写真館IIさん。...

  • 満天の星

    もう何の本に載っていたのかすっかりと忘れてしまったが、見上げる空の星は一目5000個は見えるらしい。ホントかいな?と思ったが、今回の写真を見るとあながち嘘ではないように思えてきた。「星が降る」と昭和の人間はよく表現をした。「星降る夜は・・・」などと言葉が続くと、もうそれだけでロマンチックな気持ちになるのも昭和人の特性の一つかもしれない。また、思い起こしてみれば昭和時代は「星」が曲名に入った歌がなん...

  • 東赤谷春まっしぐら

    かつての住人の皆様、2022年4月2日の東赤谷の風景です。同郷の「バクロのあんにゃ」さんが撮影し送って頂きました。●焼峰です。いつも凛々しいです。●奥に蒜場山、右に二こぶの俎倉山です。●日鉄社宅跡です。夏場は藪でとても歩けたものではありませんが、いまの時期は好き勝手にどこでも歩ける楽しいいっ時です。●旧県道脇に辛うじて残っている桜です。写真を見ると何となく梢の先が膨らんでいるようで、今年も花を咲かせてく...

  • ふるさとの山「焼峰」

    焼峰山と呼ぶことに地元では「山」は付けない。単に焼峰と呼ぶ。山容としては実に見栄えがする。神々しくもある。しかしながら焼峰としての名が通るのは近年になってからの事である。大正14年(1925年)の赤谷線開通記念として作られた赤谷小学校唱歌研究部作の赤谷線鉄道唱歌では焼峰は東台山として歌われている。そして赤谷小学校の校歌ができた昭和14年(1939年)になると、歌詞にようやく焼峰の名が出てくる。この間およそ14年...

  • 2022東赤谷春近し?

    昨日3月9日の東赤谷です。ご両親が滝谷出身のM.Kさんから送って頂きました。陽射しには春の気配が感じられるものの、まだまだ雪は深いです。今更ながら、よくもまぁこのような所に住んでいたものとつくづく思ってしまいます。このような雪景色を見ていると、「凍み渡り」の楽しかったことを思い出します。草木の繁る時期には行けない所も、自由に歩ける爽快感はいまだに忘れる事ができません。この頃に咲く山の椿は、真っ白な世...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_18(湯ノ平温泉)

    ●新潟県立図書館蔵「赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書」(大正14年(1925)発行)より。●「越後国蒲原郡飯豊山下湯之平温泉図」越後山岳第8号より。新発田市設置の道標が「ゆのたいら温泉」となっていたことから、一時「湯の平」は「ユノタイラ」か「ユノヒラ」かで論争になり、結局古くから地元で言い慣わされてきた「ユノヒラ」の呼称に落ち着いたのですが、今回湯の平温泉のことを記事にするにあたり、久し振りに訪れた市の...

  • 2022年1月、東赤谷・滝谷

    同郷のKさんが東赤谷と滝谷の冬景色を送ってくれました。雪に埋もれた風景は、より一層ここで暮らした頃の懐かしい思い出を蘇らせてくれます。●焼峰橋から飯豊川第一発電所と焼峰山。●滝谷の大慶寺。●かつての東赤谷駅前通りから見る俎倉山と蒜場山方面。雪は荒れ野を覆い隠し、当時と変わらない風景を見せてくれます。●社宅跡から見る焼峰山。時は移れど、かつての見慣れた風景に心が癒されます。コロナ禍にあって遠出もままなら...

  • 雪に生きた頃

    あの頃は除雪車など入らなかったから、道は人一人歩ける程の一条の線のようだった。行き交う人々は互いに譲り合い、二言三言挨拶をして行き違ったものだった。一旦大雪が降れば、僅かな凹みを残して道は消え、翌朝人々は俯きながら黙々と足元の雪を固め、今冬何度目かの道付けに励むのである。それはまさに魚の骨のように、あるいはアミダクジの線のように、別れた道は再び出会ったり、各々の住み家の玄関に吸い込まれて行ったりし...

  • 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

    「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」と唐詩にあるが、こうまで人の世が変わるとは思わなかった。天神様の紅梅が来るべき明るい春を示しているようだ。...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_17(彌一沢に於ける炭酸泉)

    「彌一沢に於ける炭酸泉 三ツ山鉱泉 湧出場の一部」かつて飯豊川(加治川)の支流の釜ヶ沢の奥に炭酸泉が湧いていたと聞く。私が幼少の頃にも湧出量は少なかったようだが湧いていた。その内に父にでも連れて行ってもらおうかと思っていたのだが、果たせぬまま土砂崩れで埋没してしまったので今でもとても残念に思っている。この絵葉書の説明書きには湧出場所として「彌一沢」とあるが、聞き覚えもなく調べても分からない。釜ヶ沢...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_16(内ノ倉洞合の流れ)

    「内ノ倉洞合の流れ」正に峡谷と言うにふさわしい景観である。崖の上部には木も生えておらず、おそらく大雨の時にはそこ迄水位が上がるのだろう。激流がこの隘路を迸り流れ下るのを想像すると恐ろしくもある。この辺りには大蛇の伝説が語り継がれており、渓谷を曲りくねり激しく流れ落ちる様を見て先人が大蛇を想像したと考えても、あながち間違いではないだろう。新潟県立図書館蔵「赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書」(大正14...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_15(滝谷新田阿弥陀山)

    「滝谷新田阿弥陀山を隔てて舟見山を望む」滝谷新田の阿弥陀山は内の倉ダムの下流辺りにあるのですが、そこには阿弥陀堂があり嘗ては念仏踊りや大数珠を回しあう百万遍とかを近郷の村人が行なっていたそうです。今でも滝谷新田内の集会所で行われていると聞きます。私はこの絵葉書の説明書きに気になった点があります。それは「舟見山」という山です。「舟見山」と言うからには舟の運航を見張っていた山と考えるのが自然です。飯豊...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_14(越後北蒲原郡赤谷石炭鑛)

    地元の人でもかつて石炭を採掘していたことを知っているのはほとんど居ないのではないか・・・。何しろ北越製紙赤谷炭鉱が閉山したのは昭和26年(1951年)で、その後細々と採掘していたらしいが、私としてもその存在を知ったのは離郷して実に30年以上も経ってからの後である。正に幻と冠しても良いような状態であるが、かつて地域に繁栄と豊かさをもたらした事を思えば、記憶と記録を残す事跡がもう少しあっても良いような気が...

  • 鉱山と蒸気機関車と出稼ぎと・・・。

    日鉄赤谷鉱山専用線として蒸気機関車が鉱石の運搬を担っていたのは昭和31年(1956年)9月迄で、それ以後は電気機関車が新たに作られたトンネル内の軌道を通って鉱山の発着所まで行く事となる。これによって雪崩の危険を避けることができ、冬季の操業が可能になった。鉱山に従事していた者も冬季間の出稼ぎ稼業から解放されたのである。その出稼ぎ先(出向先)として私の聞いているところでは、北海道の炭鉱であったらしい。雪が...

  • 見つけられない樹

    随分と昔から、私は自分の樹を持ちたいと思っていた。 それは所有するとか云うものではなくて、人との関係で言うなれば友人みたいな感じの樹である。 たまに会いに行って、互いに無言でたたずみホッとする。(まぁ相手は当然のことながらじっと立っているだけですが・・・)。 名のある有名な樹ではなく、その辺の林の中に紛れている一本で良いのです。 見つからないのは樹のせいでないのは分かっています。 根を張り切れない...

  • カマキリの亡霊

    今朝新聞を開いていると、肩をハタハタと叩くものがいる。少し首を捻って見返ってみるが誰もいない。 新聞に目を戻して記事を読んでいると、今度は首筋のあたりがソワソワとする。 ゆっくり手を伸ばしてみると何やら硬いものに手が触れた。 それをそっと摘んで目の前に持ってくると、あらビックリ・・・カマキリではないか。 先日の狂気に満ちたようなメスのカマキリの眼と違って、その眼は愛おしさを持って私を見つめている...

  • カマキリの輪廻

    カマキリのメスがオスを喰っている。産卵に備えオスはメスの餌になるらしい。 やっと交尾に成功したと思ったら食べられてしまうオスの気持ちは、一体どんなものなのだろう。 陶酔の中、喰われてしまうのか・・・、はたまた覚悟して「どうぞ」と身を差し出すのか・・・。 それが幸いかどうか分からないが、メスはオスの頭から食べるらしい。武士が切腹する時、痛みを少なくするために首切り役人が即首を切り落としたらしいが...

  • 山家育ちとカラスウリ

    烏瓜と言うからには、よほどカラスの大好物なのだろうと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。 調べてみると「唐朱瓜」と言う呼び名が変化して「カラスウリ」になったと言う説が有力なようだ。 熟れた野山の実は、何でも口に入れたがるのが山育ちの習い性であるが、カラスウリだけは口にした記憶がない。 そもそも生まれ育った新潟にはあったのだろうか・・・、あったのであれば口にせずには居られない魅惑的な色と子供...

  • 季節外れのアジサイ

    今頃になってアジサイが咲いていた。どう見ても季節外れである。それが証拠に隣の花は枯れ枯れだ。間違えて咲いたのか?。それとも最初から今時分に咲くことを決めていたのか?。みんなとは一緒に咲かない・・・、俺はいま咲く・・・。周りを見渡せば、そのような人間も居る。...

  • 会津街道赤谷宿一里塚

    上赤谷は旧会津藩である。江戸時代は宿場町として大変に栄えた。そしてそこを通る街道を会津街道と言う。 現在も証の一つとして村外れであった六軒町には一里塚が残っている。かつては二つあったらしいが現在は一つしか無い。こんもりとした塚と石碑が一基立っている。 かつてはそこを通る旅人の為に、日陰として葉の良く生い茂るエノキが植えられ、塚の周囲には急な病に襲われた旅人のために種々の薬草が植えられていたと聞く...

  • 「はつでんしょ」と言う思い出

    「はつでんしょ」と言う言葉にノスタルジーを感ずる人間は、そうそう居ないのではなかろうか・・・?。 漢字に書けば「発電所」で、何んとも無機質な感じでノスタルジーなんぞ入る余地は無さそうに思うが、山育ちの人間には少なからず懐かしい思い出が残っている。 私の記憶の発電所は飯豊川第一発電所だ。だがその正式名を知ったのは随分と大人になってからで、あの頃は単に「はつでんしょ」と呼んでいた。 今、同郷の...

  • 新発田駅前食堂「三新軒」

    かつて新発田駅前に三新軒という食堂があった。名前の由来は新潟・新津・新発田のそれぞれの頭文字を取ったものと聞いている。 調べてみると食堂としては営業をしていないものの、現在も新発田三新軒として駅弁を作っているようだ。●昭和40年頃の食堂「新発田三新軒」の内部と従業員の人たち。...

  • 日鉄赤谷鉱山診療所の看護婦さん

    私が記憶している看護婦さんは5人居ます。うち1人は産婆を兼ねた斉藤コイさんと言う方。後の4人の看護婦さんのうち、お名前の分かるのは吉田さんという看護婦さんで私が一番お世話になった方です。 そして写真の残っているのは御三方、いずれの写真も一緒に写っているのは私の祖母であるトメさんです。そのトメさんの老け方で歴代を推測してください。ちなみにトメさんは、診療所・幼稚園・独身寮・共同浴場などの清掃・賄いを...

  • 日鉄赤谷鉱山診療所を思い出す

    6月7月と眼の手術から始まって、あちこちの医者通いが忙しい。それにコロナウイルスのワクチン接種が加わり、医療関係の用事でカレンダーへの書き込みが埋まって行くと、もうそれだけで鬱々とした気分になってしまう。 さて、東赤谷の日鉄集落には近隣では一番医療設備の整った診療所があった。それは正に集落の真ん中に位置していた。 ガラスの嵌め込まれた格子戸を開けると狭い土間があり右側に下足棚。正面2、3段上がっ...

  • 保安週間タオル

    前回載せた写真の中に、タオル(手拭い)を囲んでにこやかに写っている一枚があるのですが、それを見て思い出した事があります。 それは、日鉄赤谷鉱業所では年に一度の保安週間の時期にタオルデザイン、ポスターデザイン、そして標語を募集したという事です。この行事は大人も子供も誰もが応募して良いものでした。私も下手ながら応募したものです。 特にタオルの図案は製品化され配布されるものですから、少し腕に自信のある...

  • チャンチキおけさの宴

    興が乗れば必ず出てくる唄は、三波春夫の「チャンチキおけさ」であった。それこそ歌詞にあるように、箸で小皿を叩きながら一同で歌うのである。 呑み所は山深い事でもありますし、勤め先の施設や、地域の集会所や、同僚の自宅内が多かったように思う。 私の父は下戸で酒は全くと言って良いほど駄目であったが、それでも仕事の立場上我が家での宴会は幾度かあった。 鉱夫の仕事は、その職種や番方によって幾組かに別れていて、...

  • 落葉松林と杉林

    いただいた東赤谷の画像の中に切り出された「カラマツ」の材木があっったのですが、私には「カラマツ」の林があったという記憶が全くないのです。思い出すのは鬱蒼とした杉林ばかりで、暗く陰湿なイメージしかありません。 落葉松と杉・・・同じ針葉樹でありながら、これほど印象の違った木は他にはないかもしれません。もし、あの辺りに落葉松林が広がっていたら、私はもっと詩情あふれる大人になっていたなっていたことでしょ...

  • 2021年東赤谷(日鉄社宅跡)の春_3

    大正14年(1925)発行の赤谷名所絵葉書にも美田と称された景勝清水から見える飯豊川(加治川)河畔の田圃は、耕す人も無く、年々原野に還りつつあります。 ここからの風景を私は大好きで、野外スケッチの授業があると親しい友と並んで座り絵筆を取ったものです。今でも私のパソコンの背景写真はここからの眺めになっています。 先刻、新潟日報の記事に私の言葉として「観光開発よりも、みんな原野に還れば良い」などと書かれ...

  • 2021年東赤谷(日鉄社宅跡)の春_2

    昨日に続き東赤谷の春です。●旧県道脇の桜です。左が浴場脇の桜、右3本はちょうど我が家の前にあった桜です。●購買所あたりから見える蒜場山と俎倉山です。左下には東赤谷駅がありました。●社宅の裏山方面になります。ここにも桜の老木が見えますが、位置的に診療所あたりにあった桜と思います。●この桜は東赤谷駅の便所の前にあった桜です。駅舎のあったあたり一面は貯木場になっているようです。●焼峰と俎倉山ですが、共に中学...

  • 2021年東赤谷(日鉄社宅跡)の春

    日鉄赤谷鉱山社宅のかつての住人の皆様、今年も故郷の春模様が届きました。たくさんありますので数度に分けて掲載いたします。●東赤谷駅前の旧県道から西方を向いています。前方左を緩やかに上がっていけば事務所があって、4区の居住区に続きます。●これも旧県道から・・・。右の桜3本は給水塔近くの桜、左奥の桜は職員用浴場前にあった桜です。年々花の数が減っています。●手前に観月橋の橋脚の一部が見えます。ここはかつての...

  • 新発田駅0番線ホーム

    新発田駅には今も0番線というホームはあるのだろうか・・・?。 半世紀と少し前、私はそこから新しい世界へと出発した。まさに0からの出発である。 同伴は同じ学級のS君が一人。0番線から出る白新線の列車に乗り、新潟駅で乗り換え、東京へと向かった。見送りに来てくれたのは母と、大の親友であったU君と、あと幾人か居たようだったが忘れてしまった。 そうそう、たまたま居合わせた乗客の中に小学校の恩師であった木下...

  • 昭和の山道具の事など_【スベア123】

    これが火を吹かなくなってどれ位の年月が経つのだろう。30年?40年?・・・、いやもう50年近くになるのかも知れない。ある時から安易なガスストーブになってしまった。 俺たちは新月の暗闇の中をトボリトボリと林道を歩いていた。風もなく蒸し暑くヘッドランプにたかる夏の虫が煩わしかった。 この林道を真っ直ぐあと8キロ余り歩けば里の家に着く。露天風呂に入って飯を食い、酒を飲んだ上での夕刻の出発だ。危険な箇所を過ぎ...

  • 昭和の山道具の事など_【草鞋(ワラジ)】

    コロナ禍でなくても自由な時間が沢山ある境遇の我が身ですが、暇をそのせいにして家のあちこちを整理しています。 そしたら、この家に越してきて長年行方不明であった山の道具がゴッソリと出てきました。これらは青春の数々の日々を輝かせてくれたものものですが、中にはすでにカビが生え、あるいは錆びているものも多く廃棄せざるを得ません。 しかしこれらの物には思い出が凝縮され、含まれ、なかなか捨てるには勇気がいりま...

  • 青い思い出と白いハンカチ

    赤谷地区には小学校も中学校も一校ずつしかなかったので、同地区の児童はほぼ全員が9年間同じ学び舎に机を並べる事となる。 小学校も中学校も各学年のクラスは二クラスであり、小学校は6年の間にクラス換えはなくて、中学校になって初めてクラス換えがあった。 小学校で6年間同じ顔ぶれだった者が中学校で初めてバラバラになるので、初めはとても緊張した覚えがあるが、決まったクラスの中に小学校時代の友達がいるとホッと...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_13(会津街道赤谷宿)

    私に会津街道の赤谷宿としての記憶はない。わずかに街道脇に流れる用水と柳の姿がおぼろに浮かぶだけである。 そもそも生まれが隣集落という事もあるし、昭和39年(1964年)の新潟国体で山岳競技の開催場所となり、街道が整備拡張されてしまったせいもある。 明治・大正期の町並みの図を見て、今更ながら「ああこんなにも栄えていたのか!」と現在の赤谷と思い較べて一抹の寂しさを覚えるだけである。●赤谷宿、小川屋旅館。...

  • 袖の沢鉄橋(飯豊川橋梁)と飯豊橋 〜〈kazusaさんへ〉〜

    このブログで加治川治水ダム手前の飯豊橋や袖の沢鉄橋(飯豊川橋梁)を何度か紹介したことがあるのですが、あるきっかけで初期の飯豊橋としていた写真が実は鉱山専用線が電化されてルートが変わり、使われていなかった袖の沢鉄橋を道路として再利用していた時の写真であったことを知りました。 そのあるきっかけとは、ダスキンニイガタのK氏が編集発行している『ニノウジ新聞』の掲載記事からです。そこにはかつてこの橋を利用...

  • はるかな家族

    家族という言葉を考えた時、私の頭に思い描かれる家族の姿は父親となった私の家族ではない。どうしても最初に思い描かれるのは子供の私の家族である。 何も今の家族に不満がある訳ではないが、家族の原点のように脳の印画紙に映し出されるのは私の祖父母と両親と兄弟の家族写真である。 実際そのような家族写真は存在しないのであるが、私にはそれぞれの立ち位置とそれぞれの表情までもが一葉の写真となって蘇るのである。●日...

  • 蒲原平野に雪が来た

    日本海側は大雪と聞いて、さぞや新発田も大変な降雪だろうと思っていたところにブロ友さんから新発田郊外の写真が送られてきた。 写真を見るとさほどの積雪ではなく、ブロ友さん曰く雪雲が強風に飛ばされて平野部にはあまり降らなかったらしい。しかし遠くの二王子岳や赤谷の山方面を見ると、雪雲に覆われているから雪がたくさん降っていることだろう。 白新線の鉄路を見ていたら、唐突に赤谷線で通学していた頃を思い出した。...

  • 思い出はモノクローム

    私の幼い頃の思い出の映像はモノクロームである。だが唯一鮮烈に記憶に残っている色がある。それは赤、真っ赤な赤だ。 日鉄社宅には、時折旅回り一座がやってきた。季節は丁度クリスマスの頃だったと思う。興行場所は映画館にもなる会館と呼ばれる所。時代劇のお芝居が終わって館内がガヤガヤとしている中に、突然妖艶な音楽が流れてきたかと思うと、それに合わせて真っ赤なビキニ姿の女が出てきた。パンツはどちらかと言うとブ...

  • 秋と冬のあわいに

    故郷の新発田地方は今まさに秋と冬のあわいにあるようだ。 在郷の頃、私はこの季節があまり好きではなかった。冷たい雨の日が続き、みぞれ混じりの雨が茶枯れた野山に降りかかり、いっそ大雪にでもならないかと思ったものである。 故郷のブロ友さんから写真を頂いた。今年の秋は温かく山々の着雪も遅いと言う。 写真を見てフと思った、故郷の雪に触れることなく幾年が過ぎたのだろうと・・・、そして故郷の雪に深々と埋もれて...

  • 旧赤谷鉱山と飯豊鉱山の秋_3(見守りの秋)

    故郷から遠く離れていると、ついついその象徴を求めたくなる。それ一つであらゆる望郷の思いが湧いてくるような・・・、そしてそのあとの甘く切ない感情が余韻として残っていくような・・・。 日曹飯豊鉱山と日鉄赤谷鉱山はともに時代の流れの中に消えていってしまった。その中に故郷の象徴を探すとすれば、日曹飯豊鉱山は旧集落の上に立つ慰霊碑であり、日鉄赤谷は旧集落正面に聳え立つ焼峰山であると思う。 日鉄赤谷も何かし...

  • 旧赤谷鉱山と飯豊鉱山の秋_2(飯豊川橋梁と連続洞門の秋)

    かつてあった鉱山の数少ない遺産に飯豊川橋梁と東赤谷連続洞門があるのですが、この二つが脚光を浴びるのは近年の事で、特に東赤谷連続洞門に至っては本の最近のことであり、この地を古くから知っている者にとってはビックリやら嬉しいやらという気持ちが正直なところでしょう。 私の在郷の頃、幾度となく通り見てきた場所ですが、当時の呼称としては飯豊川橋梁は大鉄橋、東赤谷連続洞門は単にトンネルと呼んでいたような気がし...

  • 旧赤谷鉱山と飯豊鉱山の秋_1(鉱山と加治川治水ダム周辺の秋)

    私のコロナ籠りを心配して下さってか、ブロ友さん達から画像が送られてくる。そしてありがたく我がブログに掲載させて頂きます。 やっぱり故郷の秋はいいなぁ・・・色とりどりとなった紅葉の山々はいいなぁ・・・。住んでいた頃は、当たり前の景色であったのか余り感慨は受けなかったな。景色よりもアケビやらブドウやら栗やらと口に入るものだけを目で追っていたような気がする。 故地より遠く離れて、こうして染み染みと憶え...

  • 社宅辺の杉も育ちました

    コロナ禍で巣籠もりが長くなると、それが身についてしまったかのように遠出するのが誠に億劫になってしまった。そんな中、それを見越していたかのように同郷の「O」さんが故郷の東赤谷の写真を送ってくれた。 かつて社宅の在った地は国有林であって、その周囲は杉の植林が盛んであった。私の幼少時は同じく幼木であった杉も今や立派な成木になり、いよいよ切り出しが本格的に始まったらしい。●東赤谷駅付近と思いますが、太さの...

  • 眠れる魅惑の地「赤谷」

    良くできたポスター(パンフレット)である。サイズはB3、平成4年(1992年)当時の赤谷地域の魅力を充分に伝えている。 そして嬉しい事に加治川を内ノ倉川出合より上流は飯豊川と呼称している。現在では国土地理院地図を始め、Googleマップもヤフー地図もほとんどの地図の表記に「飯豊川」の呼称は消えている。いつの頃から変わっていったのか何とも寂しい。 裏面の説明文も、とても分かりやすくて良い。昭和59年(1984...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_12(赤谷大将陣場公園)

    「時間は残酷だな!!」と思わず胸に悲しみのようなものが迫る事がある。そう感ずる時には必ず人間が関わったものが近くに存在するように思う。 新発田市上赤谷の龍泉寺の上に陣場公園(陣場ヶ平)はある。通称寺山と呼ばれていたが新発田因幡守勢の赤谷城主小田切三河守を攻めるため、上杉景勝が陣を張ったことから「大将陣場」と呼ばれるようになった。天正15年(1587年)のことである。 それから338年後の大正14年(192...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_11(猿橋平に架かる橋)

    以前猿橋平に架かる橋については「赤谷鉱山と飯豊鉱山周辺の橋_猿橋編」で紹介したのですが、その後「新潟県立図書館」から絵葉書の掲載許可が下りましたので改めて紹介いたします。 鉱山専用線が出来るまでは、この橋が唯一飯豊渓谷を渡る橋であったわけですが、よく見ても欄干手すりの類は見当たらず、渡るには結構な度胸が必要であったのではないかと思ってしまいます。 左側の一行は良く見ると蓑笠姿で、籠らしきものを担...

  • 幼稚園と汽車

    俺たちが月光仮面や怪傑ハリマオであった頃、幼稚園の裏庭に古い客車が一両置いてあった。 それは赤谷線を走る蒸気機関車の客車に比べれば、本当にちっぽけな車両で車輪も無かったけれども、丸いハンドルの手動ブレーキがあったり、デッキが付いていたり、またそこから屋根に登れたりして小さな月光仮面やハリマオを喜ばせるには充分であった。 その古びた客車は、かつて国鉄東赤谷駅から袖上平の鉄山駅までの間、鉱石を運搬し...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_10(飯豊川第一堰堤(ダム))

    それは社宅の裏山の裾を這うように続いていた。直径3メートルほどの半円の形をした溝である。水が流れているわけでもなく、ただただ凹んだ地形が草木に覆われながらも延びていた。 そこは山トンボの通り道にもなっていて、夏ともなると捕虫網を握った子供達がそこかしこに陣取り、山の上手から現れるトンボを今か今かと待ち構えていたものだった。 私は、その凹んだ地形が何だったのか離郷した後もずっと気になっていて、ちょ...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_9(角石原古戦場跡と赤谷線)

    旧国鉄赤谷線には一つだけトンネルがありました。それが角石原トンネルです。蒸気機関車の時代には、このトンネルに差し掛かると慌てて車窓を閉めたものです。かつて戊辰戦争の折には、この地は大変な激戦地になりました。新発田から会津若松に抜ける会津街道は、ここで山と川に挟まれた隘路になります。近くに流れる加治川の支流の境川は、その名の如く新発田藩と会津藩の境界になっており、よって会津藩に属していた旧赤谷村は、...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_8(赤谷模範田及び学校林)

    故郷を離れてよりこの方、「学校林」という言葉を耳にしていない。在郷の頃は居住区の一地区の名前になっていたこともあって、日頃常用していた言葉であった。かと言って幼い私どもには「学校林」という意味を深く考える事もなく、単に遊び場の名前として、友達にも親にも「学校林に行く!!」と告げて出かける時に使ったようなものであった。私達の「学校林」と呼ぶ場所は、東赤谷の釜ヶ沢の近くのあったのだが、記憶にあるのは茅...

  • 梅雨の雨音を聞きながら

    梅雨時は心も体もジメジメしていて、物事のやる気がなかなか起きない。何をやるにしても気合が必要である。昭和40年代の初め、新潟には雨がよく降った。加治川の上流にあたる赤谷地区に降る雨は、それこそバケツをひっくり返したような酷い雨だった。雨の一粒一粒が大きく、地面に跳ねる様は、まるで天地が逆になったような有様だった。未だもってあれほど凄い雨に出会ったことはない。最上川・富士川・球磨川を日本三大急流と呼...

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