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ブログタイトル
緑の谷・赤い谷
ブログURL
https://yabukarasu.blog.fc2.com/
ブログ紹介文
新潟県にかつてあった鉱山と周辺の昭和の記録…と散歩。
更新頻度(1年)

29回 / 365日(平均0.6回/週)

ブログ村参加:2019/07/18

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yabukarasuさん
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緑の谷・赤い谷
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緑の谷・赤い谷

yabukarasuさんの新着記事

1件〜30件

  • 保安週間タオル

     前回載せた写真の中に、タオル(手拭い)を囲んでにこやかに写っている一枚があるのですが、それを見て思い出した事があります。 それは、日鉄赤谷鉱業所では年に一度の保安週間の時期にタオルデザイン、ポスターデザイン、そして標語を募集したという事です。この行事は大人も子供も誰もが応募して良いものでした。私も下手ながら応募したものです。 特にタオルの図案は製品化され配布されるものですから、少し腕に自信のある...

  • チャンチキおけさの宴

     興が乗れば必ず出てくる唄は、三波春夫の「チャンチキおけさ」であった。それこそ歌詞にあるように、箸で小皿を叩きながら一同で歌うのである。 呑み所は山深い事でもありますし、勤め先の施設や、地域の集会所や、同僚の自宅内が多かったように思う。 私の父は下戸で酒は全くと言って良いほど駄目であったが、それでも仕事の立場上我が家での宴会は幾度かあった。 鉱夫の仕事は、その職種や番方によって幾組かに別れていて、...

  • 落葉松林と杉林

     いただいた東赤谷の画像の中に切り出された「カラマツ」の材木があっったのですが、私には「カラマツ」の林があったという記憶が全くないのです。思い出すのは鬱蒼とした杉林ばかりで、暗く陰湿なイメージしかありません。 落葉松と杉・・・同じ針葉樹でありながら、これほど印象の違った木は他にはないかもしれません。もし、あの辺りに落葉松林が広がっていたら、私はもっと詩情あふれる大人になっていたなっていたことでしょ...

  • 2021年東赤谷(日鉄社宅跡)の春_3

     大正14年(1925)発行の赤谷名所絵葉書にも美田と称された景勝清水から見える飯豊川(加治川)河畔の田圃は、耕す人も無く、年々原野に還りつつあります。 ここからの風景を私は大好きで、野外スケッチの授業があると親しい友と並んで座り絵筆を取ったものです。今でも私のパソコンの背景写真はここからの眺めになっています。 先刻、新潟日報の記事に私の言葉として「観光開発よりも、みんな原野に還れば良い」などと書かれ...

  • 2021年東赤谷(日鉄社宅跡)の春_2

    昨日に続き東赤谷の春です。●旧県道脇の桜です。左が浴場脇の桜、右3本はちょうど我が家の前にあった桜です。●購買所あたりから見える蒜場山と俎倉山です。左下には東赤谷駅がありました。●社宅の裏山方面になります。ここにも桜の老木が見えますが、位置的に診療所あたりにあった桜と思います。●この桜は東赤谷駅の便所の前にあった桜です。駅舎のあったあたり一面は貯木場になっているようです。●焼峰と俎倉山ですが、共に中学...

  • 2021年東赤谷(日鉄社宅跡)の春

    日鉄赤谷鉱山社宅のかつての住人の皆様、今年も故郷の春模様が届きました。たくさんありますので数度に分けて掲載いたします。●東赤谷駅前の旧県道から西方を向いています。前方左を緩やかに上がっていけば事務所があって、4区の居住区に続きます。●これも旧県道から・・・。右の桜3本は給水塔近くの桜、左奥の桜は職員用浴場前にあった桜です。年々花の数が減っています。●手前に観月橋の橋脚の一部が見えます。ここはかつての...

  • 新発田駅0番線ホーム

     新発田駅には今も0番線というホームはあるのだろうか・・・?。  半世紀と少し前、私はそこから新しい世界へと出発した。まさに0からの出発である。 同伴は同じ学級のS君が一人。0番線から出る白新線の列車に乗り、新潟駅で乗り換え、東京へと向かった。見送りに来てくれたのは母と、大の親友であったU君と、あと幾人か居たようだったが忘れてしまった。 そうそう、たまたま居合わせた乗客の中に小学校の恩師であった木下...

  • 昭和の山道具の事など_【スベア123】

     これが火を吹かなくなってどれ位の年月が経つのだろう。30年?40年?・・・、いやもう50年近くになるのかも知れない。ある時から安易なガスストーブになってしまった。 俺たちは新月の暗闇の中をトボリトボリと林道を歩いていた。風もなく蒸し暑くヘッドランプにたかる夏の虫が煩わしかった。 この林道を真っ直ぐあと8キロ余り歩けば里の家に着く。露天風呂に入って飯を食い、酒を飲んだ上での夕刻の出発だ。危険な箇所を過ぎ...

  • 昭和の山道具の事など_【草鞋(ワラジ)】

     コロナ禍でなくても自由な時間が沢山ある境遇の我が身ですが、暇をそのせいにして家のあちこちを整理しています。 そしたら、この家に越してきて長年行方不明であった山の道具がゴッソリと出てきました。これらは青春の数々の日々を輝かせてくれたものものですが、中にはすでにカビが生え、あるいは錆びているものも多く廃棄せざるを得ません。 しかしこれらの物には思い出が凝縮され、含まれ、なかなか捨てるには勇気がいりま...

  • 青い思い出と白いハンカチ

     赤谷地区には小学校も中学校も一校ずつしかなかったので、同地区の児童はほぼ全員が9年間同じ学び舎に机を並べる事となる。 小学校も中学校も各学年のクラスは二クラスであり、小学校は6年の間にクラス換えはなくて、中学校になって初めてクラス換えがあった。 小学校で6年間同じ顔ぶれだった者が中学校で初めてバラバラになるので、初めはとても緊張した覚えがあるが、決まったクラスの中に小学校時代の友達がいるとホッと...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_13(会津街道赤谷宿)

     私に会津街道の赤谷宿としての記憶はない。わずかに街道脇に流れる用水と柳の姿がおぼろに浮かぶだけである。 そもそも生まれが隣集落という事もあるし、昭和39年(1964年)の新潟国体で山岳競技の開催場所となり、街道が整備拡張されてしまったせいもある。 明治・大正期の町並みの図を見て、今更ながら「ああこんなにも栄えていたのか!」と現在の赤谷と思い較べて一抹の寂しさを覚えるだけである。●赤谷宿、小川屋旅館。...

  • 袖の沢鉄橋(飯豊川橋梁)と飯豊橋 〜〈kazusaさんへ〉〜

     このブログで加治川治水ダム手前の飯豊橋や袖の沢鉄橋(飯豊川橋梁)を何度か紹介したことがあるのですが、あるきっかけで初期の飯豊橋としていた写真が実は鉱山専用線が電化されてルートが変わり、使われていなかった袖の沢鉄橋を道路として再利用していた時の写真であったことを知りました。 そのあるきっかけとは、ダスキンニイガタのK氏が編集発行している『ニノウジ新聞』の掲載記事からです。そこにはかつてこの橋を利用...

  • はるかな家族

     家族という言葉を考えた時、私の頭に思い描かれる家族の姿は父親となった私の家族ではない。どうしても最初に思い描かれるのは子供の私の家族である。 何も今の家族に不満がある訳ではないが、家族の原点のように脳の印画紙に映し出されるのは私の祖父母と両親と兄弟の家族写真である。 実際そのような家族写真は存在しないのであるが、私にはそれぞれの立ち位置とそれぞれの表情までもが一葉の写真となって蘇るのである。●日...

  • 蒲原平野に雪が来た

     日本海側は大雪と聞いて、さぞや新発田も大変な降雪だろうと思っていたところにブロ友さんから新発田郊外の写真が送られてきた。 写真を見るとさほどの積雪ではなく、ブロ友さん曰く雪雲が強風に飛ばされて平野部にはあまり降らなかったらしい。しかし遠くの二王子岳や赤谷の山方面を見ると、雪雲に覆われているから雪がたくさん降っていることだろう。 白新線の鉄路を見ていたら、唐突に赤谷線で通学していた頃を思い出した。...

  • 思い出はモノクローム

     私の幼い頃の思い出の映像はモノクロームである。だが唯一鮮烈に記憶に残っている色がある。それは赤、真っ赤な赤だ。 日鉄社宅には、時折旅回り一座がやってきた。季節は丁度クリスマスの頃だったと思う。興行場所は映画館にもなる会館と呼ばれる所。時代劇のお芝居が終わって館内がガヤガヤとしている中に、突然妖艶な音楽が流れてきたかと思うと、それに合わせて真っ赤なビキニ姿の女が出てきた。パンツはどちらかと言うとブ...

  • 秋と冬のあわいに

     故郷の新発田地方は今まさに秋と冬のあわいにあるようだ。 在郷の頃、私はこの季節があまり好きではなかった。冷たい雨の日が続き、みぞれ混じりの雨が茶枯れた野山に降りかかり、いっそ大雪にでもならないかと思ったものである。 故郷のブロ友さんから写真を頂いた。今年の秋は温かく山々の着雪も遅いと言う。 写真を見てフと思った、故郷の雪に触れることなく幾年が過ぎたのだろうと・・・、そして故郷の雪に深々と埋もれて...

  • 旧赤谷鉱山と飯豊鉱山の秋_3(見守りの秋)

     故郷から遠く離れていると、ついついその象徴を求めたくなる。それ一つであらゆる望郷の思いが湧いてくるような・・・、そしてそのあとの甘く切ない感情が余韻として残っていくような・・・。 日曹飯豊鉱山と日鉄赤谷鉱山はともに時代の流れの中に消えていってしまった。その中に故郷の象徴を探すとすれば、日曹飯豊鉱山は旧集落の上に立つ慰霊碑であり、日鉄赤谷は旧集落正面に聳え立つ焼峰山であると思う。 日鉄赤谷も何かし...

  • 旧赤谷鉱山と飯豊鉱山の秋_2(飯豊川橋梁と連続洞門の秋)

     かつてあった鉱山の数少ない遺産に飯豊川橋梁と東赤谷連続洞門があるのですが、この二つが脚光を浴びるのは近年の事で、特に東赤谷連続洞門に至っては本の最近のことであり、この地を古くから知っている者にとってはビックリやら嬉しいやらという気持ちが正直なところでしょう。 私の在郷の頃、幾度となく通り見てきた場所ですが、当時の呼称としては飯豊川橋梁は大鉄橋、東赤谷連続洞門は単にトンネルと呼んでいたような気がし...

  • 旧赤谷鉱山と飯豊鉱山の秋_1(鉱山と加治川治水ダム周辺の秋)

     私のコロナ籠りを心配して下さってか、ブロ友さん達から画像が送られてくる。そしてありがたく我がブログに掲載させて頂きます。 やっぱり故郷の秋はいいなぁ・・・色とりどりとなった紅葉の山々はいいなぁ・・・。住んでいた頃は、当たり前の景色であったのか余り感慨は受けなかったな。景色よりもアケビやらブドウやら栗やらと口に入るものだけを目で追っていたような気がする。 故地より遠く離れて、こうして染み染みと憶え...

  • 社宅辺の杉も育ちました

     コロナ禍で巣籠もりが長くなると、それが身についてしまったかのように遠出するのが誠に億劫になってしまった。そんな中、それを見越していたかのように同郷の「O」さんが故郷の東赤谷の写真を送ってくれた。 かつて社宅の在った地は国有林であって、その周囲は杉の植林が盛んであった。私の幼少時は同じく幼木であった杉も今や立派な成木になり、いよいよ切り出しが本格的に始まったらしい。●東赤谷駅付近と思いますが、太さの...

  • 眠れる魅惑の地「赤谷」

     良くできたポスター(パンフレット)である。サイズはB3、平成4年(1992年)当時の赤谷地域の魅力を充分に伝えている。  そして嬉しい事に加治川を内ノ倉川出合より上流は飯豊川と呼称している。現在では国土地理院地図を始め、Googleマップもヤフー地図もほとんどの地図の表記に「飯豊川」の呼称は消えている。いつの頃から変わっていったのか何とも寂しい。 裏面の説明文も、とても分かりやすくて良い。昭和59年(1984...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_12(赤谷大将陣場公園)

     「時間は残酷だな!!」と思わず胸に悲しみのようなものが迫る事がある。そう感ずる時には必ず人間が関わったものが近くに存在するように思う。 新発田市上赤谷の龍泉寺の上に陣場公園(陣場ヶ平)はある。通称寺山と呼ばれていたが新発田因幡守勢の赤谷城主小田切三河守を攻めるため、上杉景勝が陣を張ったことから「大将陣場」と呼ばれるようになった。天正15年(1587年)のことである。 それから338年後の大正14年(192...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_11(猿橋平に架かる橋)

     以前猿橋平に架かる橋については「赤谷鉱山と飯豊鉱山周辺の橋_猿橋編」で紹介したのですが、その後「新潟県立図書館」から絵葉書の掲載許可が下りましたので改めて紹介いたします。 鉱山専用線が出来るまでは、この橋が唯一飯豊渓谷を渡る橋であったわけですが、よく見ても欄干手すりの類は見当たらず、渡るには結構な度胸が必要であったのではないかと思ってしまいます。 左側の一行は良く見ると蓑笠姿で、籠らしきものを担...

  • 幼稚園と汽車

     俺たちが月光仮面や怪傑ハリマオであった頃、幼稚園の裏庭に古い客車が一両置いてあった。 それは赤谷線を走る蒸気機関車の客車に比べれば、本当にちっぽけな車両で車輪も無かったけれども、丸いハンドルの手動ブレーキがあったり、デッキが付いていたり、またそこから屋根に登れたりして小さな月光仮面やハリマオを喜ばせるには充分であった。 その古びた客車は、かつて国鉄東赤谷駅から袖上平の鉄山駅までの間、鉱石を運搬し...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_10(飯豊川第一堰堤(ダム))

     それは社宅の裏山の裾を這うように続いていた。直径3メートルほどの半円の形をした溝である。水が流れているわけでもなく、ただただ凹んだ地形が草木に覆われながらも延びていた。 そこは山トンボの通り道にもなっていて、夏ともなると捕虫網を握った子供達がそこかしこに陣取り、山の上手から現れるトンボを今か今かと待ち構えていたものだった。 私は、その凹んだ地形が何だったのか離郷した後もずっと気になっていて、ちょ...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_9(角石原古戦場跡と赤谷線)

    旧国鉄赤谷線には一つだけトンネルがありました。それが角石原トンネルです。蒸気機関車の時代には、このトンネルに差し掛かると慌てて車窓を閉めたものです。かつて戊辰戦争の折には、この地は大変な激戦地になりました。新発田から会津若松に抜ける会津街道は、ここで山と川に挟まれた隘路になります。近くに流れる加治川の支流の境川は、その名の如く新発田藩と会津藩の境界になっており、よって会津藩に属していた旧赤谷村は、...

  • 赤谷線鉄道開通記念赤谷名所絵葉書_8(赤谷模範田及び学校林)

    故郷を離れてよりこの方、「学校林」という言葉を耳にしていない。在郷の頃は居住区の一地区の名前になっていたこともあって、日頃常用していた言葉であった。かと言って幼い私どもには「学校林」という意味を深く考える事もなく、単に遊び場の名前として、友達にも親にも「学校林に行く!!」と告げて出かける時に使ったようなものであった。私達の「学校林」と呼ぶ場所は、東赤谷の釜ヶ沢の近くのあったのだが、記憶にあるのは茅...

  • 梅雨の雨音を聞きながら

    梅雨時は心も体もジメジメしていて、物事のやる気がなかなか起きない。何をやるにしても気合が必要である。昭和40年代の初め、新潟には雨がよく降った。加治川の上流にあたる赤谷地区に降る雨は、それこそバケツをひっくり返したような酷い雨だった。雨の一粒一粒が大きく、地面に跳ねる様は、まるで天地が逆になったような有様だった。未だもってあれほど凄い雨に出会ったことはない。最上川・富士川・球磨川を日本三大急流と呼...

  • 50年前の「ふる里山行」_山の友へ

    私の故郷の背後には、その脊梁とも言える飯豊連峰が連なっている。高みに登って見渡してみても山また山で、その向こうに何があるか?などと考えも及ばない程の深い深い山並みが子供の私の瞳に映っているだけだった。そこを逆の福島側から越えて帰郷しようと思いついたのは、上京して間もない頃であったかと思う。田舎出のまだ少年っぽさが抜けきらない者が、人また人の街中に飛び込んで行けば、どのような思いに陥るかはおよそ想像...

  • 紫陽花の見頃になりましたが・・・

    近くの神社の紫陽花が見頃になりましたが、今年はコロナウイルスのせいか観ている人がとても少ないです。...

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