野見宿祢の自伝 26 わたしがケハヤとの天覧相撲のために出雲から宮中に召し出され、そのまま天皇(すめらみこと)にお仕えするようになって、長い年月が過ぎた。 わたしがお仕えしていた第11代の天皇陛下(垂仁天皇)は、その年の秋に崩御されたのである。 荘厳な葬儀が行われ、陛下のご遺体は菅原の御立野(すがわらのみたちの)に壮大な御陵を築き葬られた。 そして陛下の御子であるオオタラシヒコさまが第12代天皇(景行天皇)として即位された。 こうして天皇の代替わりの儀式もあらかた済んで、落ち着いたころのことである。 先帝である垂仁天皇陛下の忠臣であったタジマモリが、常世国(とこよのくに)から日本に帰国してきた…
野見宿祢の自伝 25 陛下が寵愛されていたヒバスヒメさまが薨去された。 陛下のお心を痛めていたのは、ヒバスヒメさまが薨じられた悲しみもさることながら、その葬儀のことだった。 陛下の弟君のヤマトヒコさまが薨去されたときは近習のものが生きたまま殉葬され、悲惨なありさまを呈していた。 陛下は御前に側近のものを集めて仰せになった。 「余はヤマトヒコが葬られた時、一緒に埋められた近習の叫び声が忘れられない。もう、あのような悲惨な声は聞きたくないものだ。 今、ヒバスヒメの葬儀を行って送り出さねばならぬが・・・あの優しかったヒバスヒメだ。あんな状況はヒバスヒメも望んではいないだろう。 どうしたものだろうか・…
野見宿祢の自伝 24 アマテラス大御神の御魂は伊勢の地に祀られた。そして数年の時が経った。 その年の10月、陛下の同母弟であるヤマトヒコさまが薨去された。そして葬儀は11月に行われ、身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)に陵墓を築いて葬られたのである。 その際・・・ 古式にのっとって、ヤマトヒコさまに仕えていた近習のものが、側近から下男下女までことごとく生きたまま陵墓の周りに埋められたのである。 高貴なものが薨じられた時は、あの世に行っても永遠に主君にお仕えするよう、近習のものを生きたまま殉葬するのが古来よりの習わしだった。 この時、埋められた近習のものの叫びは夜となく昼となく響き、数日にわたって続い…
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