第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
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第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
第2章 橘の香り 第2節 豊城入彦命一行が浅間山の麓から碓氷峠(群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町の境界にある峠)を超えて、碓氷川沿いに進むと烏川に出た。烏川を渡ると目の前が広がり、豊城入彦命はそこで足を止めた。そこは、豊城入彦命達がこれから開
第2章 橘の香り 第1節 豊城入彦命が東国に行くに当たって、紀の国の叔父、美智支真止乃命に挨拶に行った。すると、従兄弟の毛野荒刀を連れていくように言われた。毛野荒刀が言うには、東国は橘の香りがする土地だと。橘と言えば、紀の国でよく咲いている柑橘類で、桜の咲く
第1章 桃源郷 第9節 崇神天皇の集団が纒向の郷に来てから、5年が経った。その頃に、疫病が流行り、民は次々と感染した。その当時、崇神天皇の居館では、纒向の郷に来て以来、この地方の神、大倭国魂神を祀り、崇神天皇が導いて来た天照大御神を共に祀っていた。疫病が流行し
第1章 桃源郷 第8節 唐古の郷に東海地方から、桃源郷を求めて弥生時代中期に移住してきた人達によって、湿地帯で稲作が行われていた。その当時は、三輪山の裏に広がる奈良県東北部の高原地帯から流れる初瀬川(大和川)の土石流によって、デルタ地帯ができ、そこに集落を形
第1章 桃源郷 第7節 田尻と玉津は、磯木の社殿の前まで来た。そこには、曽我の郷(奈良県橿原市曽我町)の若者、佐実と葛木の郷(奈良県葛城市笛吹)から来た尾米が志願のために来ていた。 「お~い、これから、ミカドが会われるそうだ 4人いるな」 社殿から出てきた夷守
第1章 桃源郷 第6節 小成は、多井耳の所から戻った。帰ってみると玉津と真木はすっかり仲良くなっていた。真木は、明日にも玉津を磯木の郷に連れて行く約束をしていた。 「玉津さん、ミカドを見たことがあるのですか」 「立野の郷でちらっと見ました」 「私は、どんな人
第1章 桃源郷 第5節 崇神天皇の集団が纒向の郷を目出して進軍したのですが、まだ宮殿にするには整備されていなかった。そのため、磯城彦の社殿を仮の宮殿にした。『日本書紀』によると磯城瑞籬宮と記載されている。大正時代に建てられた石碑が存在し、その場所は志貴御県坐
第1章 桃源郷 第4節 玉津は、小成に連れられて集落に入った。驚いたのは竪穴式住居の数と人の多さだった。その当時、320m×320m位の広さに200個数の竪穴式住居が建てられていたことになる。6m四方に4個数があったことになる。小成の住居には、5人が住んでいて、玉津と年齢が
第1章 桃源郷 第3節 唐古の郷には桃の木が植えられ、春になるとピンク色の花を咲かせ、村人は田んぼを耕し、種籾を巻いていた。のどかで、穏やかな日だしが田んぼに差し込んでいた。その田んぼと田んぼの間のあぜ道を集落の方へ向かう若い青年がいた。それに気が付いた種ま
第1章 桃源郷 第2節 理想郷を求めた集団がいました。それは、古墳時代の幕開けとも言える集団で、大化の改新以後に編纂された『日本書紀』には、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇(注1))が磯城瑞籬宮で鎮座したとある。纒向の郷で、稲作を中心にし、祈祷で郷あるいは国の政
第1章 桃源郷 第1節 日本を象徴するのは桜ですが、咲いたと思ったら、すぐに散ってしまいます。その点では、桃は春には花を咲かせ、夏には果樹として実を付ける。長期に亘って楽しめる品種でした。この桃の原産地は中国からペルシアに至る、日本には元々生息していなかった
はじめに 常の世と書いて常世(とこよ)と読む。現代では、常にある世の中と解釈されそうだが、古代の人はそうではなかった。頭で描いた理想の世の中と解釈していたようです。その常世の国とは、不老不死の妙薬が存在し、海の彼方にある国。中国の秦の始皇帝と徐福の話に出
第8章 親子の再会 第3節 物部伊那部は、裏山から薪を担いで帰ってきた。そして、祭事場に薪を肩から降ろして、薪を組んだ。集落の人達を祭事場に集まるように声を掛けた。伊那部の住居に。 「おぉい、お祝いだ 祭事場に来い みんなが集まるぞ」 そう声掛けた時、日向馬の
第8章 親子の再会 第2節 物部日向馬は、息長遼瀬依を連れた布留の里に戻った。この里では、布留川から水路を造り田んぼに水が流れるようにしてあった。物部一族は、普段、この地で農作物を作り、稲の栽培をして、自給自足の生活を送り、いざ戦いになれば男子は戦場に行き、
第8章 親子の再会 第1節 開化天皇が大倭国に着いて、崇神天皇が新たな天皇に就任した宮殿の居間での集まりが終わり、それぞれに思いを噛みしめながら宮殿を出た。そこには、開化天皇に付いてきた1000人程の竪穴式住居も用意されていた。息長遼瀬依にも宮殿の側に住まいがあ
第7章 いざ大倭国へ 第6節 開化天皇は宮殿に入り、居間の正面に座った。そして、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は対面で座り、左側に息長遼瀬依以下、今まで開化天皇に同行してきた面々が、右側には物部日向馬以下、物部大綜麻杵命の配下の者が座った。 「皆の者、これか
第7章 いざ大倭国へ 第5節 物部日向馬は、首長の日下部途美倭(くさかべとみや)に会うため、草香邑に向かった。 「ヒュウマさん、白肩の浦に得体の知れない船団が近づいて来て、大倭国に攻めるのではないかと それで孔舎衛坂から攻撃しました 激戦になったのですが、敵軍が
第7章 いざ大倭国へ 第4節 五所の里で鉄器の軍備品が完成し、吉備からの軍勢も高島宮に集まって来た。おおよそ、その吉備の軍勢を合わせて、1000人程が集まり、大倭国に行く船も息長一族、安曇一族、和邇一族合わせて100隻以上になった。その先頭には、安曇の船で海路を誘導
第7章 いざ大倭国へ 第3節 開化天皇の指示で、息長一族は五所の里で密かに鉄器の軍用品を作り、それも大詰めに差しかかった。その軍用品の運搬は安曇一族が担当していた。墨ノ江の里から群家の里経由で高島宮へ。その運搬船に曽根の里や四ツ池の里に派遣されていた大伴賀馳
第7章 いざ大倭国へ 第2節 和邇日田斗は、中臣摩耶彦や息長遼瀬依との再会に笑顔で応えた。そして、宮殿に向かう時に部下に。「馬を連れてこい」と声を掛けた。開化天皇に貢ぎ物として、韓の国から連れてきた。 日本に蒙古産の馬が入ってきたのは、弥生時代後期でモンゴル
第7章 いざ大倭国へ 第1節 275年に晋国の洛陽で疫病が流行り、この疫病は結核だと推定できる。晋国の武帝(司馬炎)もこの結核に罹ったようです。それまでの日本では結核菌など存在しなかった。この結核菌は、中国から朝鮮半島に。そして、日本に上陸した。韓の国との付き合い
第6章 兄弟の出会い 第3節 息長遼瀬依は高島宮に着いて、開化天皇に会うため、宮殿に入った。その時、大倭国からの来客が来ている事を聞いた。 「リョウセイ、いい時に帰ってきた 今、大倭国の物部大綜麻杵命から使者が来ている 物部日向馬と言って、以前、日向にいている
卑弥呼の世界 後編6-2 息長遼瀬依は母親の葬儀を終え、遺体を甕棺に入れて、土を掘り、埋めた。そして、謎めいた話、今まで知らない話。兄弟がいる。果たして、兄弟がいるという話だけで、後は何も分からなかった。納棺する時に現れた老人がいた。彼は、昔、息長安操の下
第6章 兄弟の出会い 第1節 息長遼瀬依は中臣摩耶彦と別れ、濊人の鍛冶技術者を多家の里へ連れて行った。多家の里では、蘇我三千比古が木ノ山で500枚の三角縁神獣鏡の複製を作り終えていた。その後、開化天皇一行は、吉備国の高島宮(岡山県岡山市南区宮浦)に移る。この高島
第5章 邪馬台国の終焉 第8節 中臣摩耶彦が数日、原の辻の里で滞在していただろうか。ある夕暮れの日に内海湾に晋国で作られたと思われる船が現れた。そして、原の辻の里の船着場に。その船から晋国で誂えた服装で降り立ったのは掖邪狗でした。 「エキヤクさん、お帰りなさ
第5章 邪馬台国の終焉 第7節 中臣摩耶彦を乗せた和邇水軍の船は、壱岐島の内海湾(うちめわん)から幡鉾川(はたほこがわ)の河口から原の辻の里の船着場のある幡鉾川を上った。幡鉾川は、河内川とも言われ、原の辻の里(長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触)が壱岐の
第5章 邪馬台国の終焉 第6節 和邇日田斗は馬忽の里に行き、濊の酋長にあった。そして、鍛冶技術者を集めて貰うことを依頼した。濊人は人の頼みを素直に聞く性格を持ち、裏切ることはしなかった。そして、鍛冶技術者を10人程用意してくれた。その準備が整うまで中臣摩耶彦は
第5章 邪馬台国の終焉 第5節 和邇日田斗は、若狭地方を本拠地とした海人系の和邇一族の出身で、日本海を挟んで朝鮮半島東海岸中部の元山湾(朝鮮民主主義人民共和国江原道元山市海岸洞)に渡った。この地には濊人が多く住み、太陽信仰を持つ鍛冶集団から鉄器を仕入れていた
第5章 邪馬台国の終焉 第4節 掖邪狗一行は、牙山の里に着き、帯方郡に向かう。帯方郡では卑弥呼の生前時代の帯方郡太守(弓遵)は、治めていた地元の中心となった首長が反乱を起こし、鎮圧している間に戦死し、太守がいない状態になっていた。それも魏国の弱体が原因の一つ
第5章 邪馬台国の終焉 第3節 壹與は張政が祖国に帰ることを聞いて、これからの邪馬台国の行き末に不安を感じた。でも、張政から伝えられた晋国の武帝に対して朝貢を送ることにした。そして、壹與は掖邪狗を呼び出した。 「エキヤク、以前、卑弥呼様の時に魏国の曹芳様に朝
第5章 邪馬台国の終焉 第2節 邪馬台国は当初は奴国を中心にした連合国家で、奴国が漢の国との通商によって財力を付け、卑弥呼が女王に就いてから疫病が流行し、狗奴国から攻められて苦境に落ちたこともあったが、魏国と親密な関係を構築したのは成果であった。壹與が卑弥呼
第5章 邪馬台国の終焉 第1節 卑弥呼が248年に亡くなると邪馬台国も衰退していった。元々は奴国の大王が周辺国と共同で作った連合政権で、その要に卑弥呼を女王としてまつり上げていただけだった。奴国の本拠地は那珂遺跡群(福岡市博多区博多駅南周辺)であったが、邪馬台国
第4章 ヤマト王権誕生 第4節 息長遼瀬依は湯迫の里で吉備勢理比古と別れた後、多家の里に帰ってきた。 「ミカド、ただいま戻りました」 「叔父上は健在であったか」 「はい、それと鉄器の原料である鉄鉱石を私達に譲ってくれる約束をして頂きました」 「そうか、これで
第4章 ヤマト王権誕生 第3節 息長遼瀬依が開化天皇の命により、湯迫の里に向かった。この里には、開化天皇の叔父にあたる吉備勢理比古が、日向国から東国を目指して出発し、世羅の里(広島県世羅市世羅)に着いた。そして、その進行を防いだのは縄文時代から住み着いていた
第4章 ヤマト王権誕生 第2節 物部二田弥達は、三次の里を通過して出雲王国に入った。出雲では、二田弥が今まで見たこともない風景が。出雲王国は、邪馬台国よりも古くから存在していた。そこには、縄文時代から住み着いていた縄文人の他に、中国から朝鮮半島経由で隠岐に到
第4章 ヤマト王権誕生 第1節 開化天皇の一行が多家の里に着いて、三角縁神獣鏡を瀬戸内海沿岸の首長に配り出したことによって、九州での邪馬台国の勢力と以前から存在していた出雲王国に加えて、新生のヤマト王権が誕生した。『古事記』や『日本書紀』で表されている「神武
第3章 卑弥呼の鏡 第5節 開化天皇達は、多家の里で滞在することになった。そして、仮の居館の建設を始め、完成した。居館には、開化天皇と伊香色謎命と後の崇神天皇の住まいができ、息長遼瀬依と物部二田弥と蘇我三千比古が開化天皇に呼ばれて、集まって来た。 「今日集ま
第3章 卑弥呼の鏡 第4節 開化天皇が率いる軍団は、安芸の多家の里に向かっていた。この地は、倭国大乱の時代に兎狭の里に住んでいた人達で、北部九州でおきた騒乱が原因で、安芸に移動してきた。この地を治めていた首長は、狭依毘売(さよりびめ)と言った。この一族は、元
第3章 卑弥呼の鏡 第3節 蘇我三千比古は、須珂の里に戻った。そして、安曇加蛇是と待ち合わせて、卑弥呼の居館にはいった。三角縁神獣鏡が卑弥呼の居館の倉庫に保管されているのを知っていたので、三角縁神獣鏡の木箱を探し、見付けると木箱には三角縁神獣鏡は100枚の内、50
第3章 卑弥呼の鏡 第2節 蘇我三千比古は243年に掖邪狗に従事し、帯方郡の様子も見ていた。その後、邪馬台国で取れた農産物を帯方郡に持って行って、先進的な物資と交換したり、魏国の貨幣を邪馬台国に持ち込んだりして、財を成していた。そのため、物の価値を知り尽くしてい
日本の正月を祝う言葉として、「迎春」とか「賀正」などもの凄くシンプルな表現ですが、中国では、干支にちなんだ言葉で表現される。今年は巳年なので、「騰蛇獻瑞」とか「蛇序呈祥」が使われる。騰蛇(とうじゃ)とは、跳ね上がるヘビのことで、物価が高くなることを「急
第3章 卑弥呼の鏡 第1節 238年に卑弥呼が魏の明帝から貢ぎ物の代償として贈られた織物の布は、衣服に使用されたと思われるが、100枚もの銅鏡はどの様に処理したのだろうか。1枚や2枚だと卑弥呼が使用しただろう、祭事に祀られた可能性はあるけれど、100枚もの銅鏡だから、そ
第2章 狗奴国との戦い 第3節 日向国にいた氏族がこの卑弥呼の世界で、日本の皇室となっていく。『日本書紀』に表されているように、鹿児島県と宮崎県の県境にそびえ立つ高千穂岳に天津彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降り立ったとある。この卑弥呼の世界では、開化天皇は
第2章 狗奴国との戦い 第2節 物部二田弥が三輪の里から生葉の里に移って、3年が経ったある日、高良山から狼煙が上がった。 「おおぃ、皆集まれ、狗奴国が攻めて来る 戦闘の用意だ」 物部二田弥軍は、御井の里の北側にある宮ノ陣の里に陣を。この宮ノ陣の里(福岡県久留米
第2章 狗奴国との戦い 第1節 卑弥呼は、魏国から倭王の称号を経て、邪馬台国は諸国の連合からなっている国家だったが、国の整備も進め、領土の拡大を図っていた。しかし、その事が気に入らない国があった。それは、狗奴国でした。 狗奴国は、邪馬台国が発足した頃、奴国の
第1章 魏国からの使者 第8節 息長遼瀬依が須珂の里に使者を連れて来た時には、立派な邪馬台国の都になっていた。そして、女王がいる新築の居館に。そして、卑弥呼が中央に座り、左に卑弥比古、右に難升米が座っていた。その居間に遼瀬依が使者を連れ、対面で座った。 「遠
第1章 魏国からの使者 第7節 息長遼瀬依は須珂の里から伊都国に行き、帯方郡の使者を待った。使者の船は末羅国に着き、末羅国でも歓迎されて時を過ごし、伊都国に到着した。使者は、後漢が滅びる前にも伊都国で後漢の役人として滞在していた。そんな関係で、知り合いも多く
第1章 魏国からの使者 第6節 難升米と都市牛利が須珂の里について間もなく、明帝が亡くなり、明帝には子が早死していたので跡継ぎがなく、魏王朝の皇帝は曹操の曾孫にあたる曹芳を養子として、239年1月22日に第三代皇帝となった。そして、邪馬台国の卑弥呼宛に口上を用意し
第1章 魏国からの使者 第5節 難升米と都市牛利は、長い旅であったが、張政と護衛兵に囲まれ、洛陽に案内された。そして、明帝と会うことができた。その時の難升米の喜びもひとしおではなかったが、明帝も難升米と都市牛利の来朝を歓迎してくれた。 「倭国の遠いところから
第1章 魏国からの使者 第4節 難升米達は、帯方郡に着いた。そして、太守である公孫淵と面会した。 「倭国から、よくこられた また、魏のミカドに貢ぎ物を持って来たのか」 「今度ばかりは、魏の皇帝に会わしてください」 公孫淵は、魏の明帝に会わすつもりは全くなく、貢
第1章 魏国からの使者 第3節 邪馬台国が成立した頃、朝鮮半島、特に大韓民国の領域内では日本と同じように小国ができ、大間かには馬韓と辰韓と弁韓に別れていた。その辰韓の中で勢力を持っていたのが斯盧国で、503年に辰韓を統一して新羅になる。この斯盧国をここでは、新羅
第1章 魏国からの使者 第2節 難升米は、早速、那珂の里から船で楽浪郡に出発した。難升米の船は、大同江の河口の南浦の里(朝鮮民主主義人民共和国南浦市)に着いた。ここからは歩いて楽浪郡(平壌付近)に。それが、魏国から委託されている公孫氏の役人から声がかかった。
第1章 魏国からの使者 第1節 卑弥呼が女王に就任してからも、邪馬台国の政権は奴国連合の様相を呈していた。それが、220年に後漢が滅び、後漢の北部の領土を魏国が譲渡された形になった。以前、倭面上国は後漢の楽浪郡と交渉で活路を見出していたが、その後漢との接触もなく
第10章 大和の地 第6節 物部大矢口宿禰命を初めとして、物部一族は布留の里に着いた。その頃には、布留の里に大集落が構築され、その中心に大王の居館があり、その大集落の周りを囲むように環濠が増設されていた。物部大矢口宿禰命は、物部伊那部に案内されて布留の里の居館
第10章 大和の地 第5節 布留の里も集落らしくなり、水田も増えてきた。香澄の里から大王を迎える準備が整った。伊那部も、水田の用水路を布留川から引く工事を任されていた。以前、佐倉の里で印旛沼から水路を作った経験があった。布留川から引く水路で掘り出した土の処分を
第10章 大和の地 第4節 物部大綜麻杵命達が、安曇厨紀弥の船から降りた時、そこには、尾張鬽仛耶鰢が待っていた。 「オオヘソキさま、長い船旅、お疲れでした」 「ミタカメ、久しぶりだね」 「この間、香澄の里によったとき、大王が、大倭国に移ると聞いて、この布留の里
第10章 大和の地 第3節 肩野の里にいる物部一族と三輪の里の物部一族が、物部大綜麻杵命の居館に集まった。 「このたび、我らは大倭国の地に行くことになった」 その時、みんなの中から響めきの声があがった。 「そこで、この肩野の里と三輪の里に残りたい者は立ち上がれ
第10章 大和の地 第2節 安曇厨紀弥は、香澄の里から河内の墨ノ江の里により、何隻かの船を用意し、肩野の里に向かった。 厨紀弥達は、肩野の里の船着場に着いた。船を待機させ、安曇厨紀弥は物部大綜麻杵命の居館に向かった。 「ズキヤ、今日は何の用事だ」 「それが、父
第10章 大和の地 第1節 邪馬台国の時代から古墳時代にかけて、日本全体に降水量が増え、弥生時代前期や中期のように湿地帯での稲作が出来なくなった。湿地帯にあった水田は、雨のために水浸しになり、山からは土が緩み、川に沿って、土砂が流れ込んだ。そのため、お米の収穫
第四部 富士山 第二章 タイムマシン 第三節 「ひろりんさんとプー子さん、この気球船に乗りなさい」 「これに乗るの」 「これに乗って、元に戻るのだから それとこのタイムマシンを持って 気球船が上がったら、このタイムマシンのこの摘みを上にあげるのですよ そうすれば
第四部 富士山 第二章 タイムマシン 第二節 泰凛と楓杏は、二階に上がった。そこには、にこやかな顔をした陽美がいた。 「あなたたちが、ひろりんとプー子さんなの」 「私たちを知っているの」と楓杏が言った。 「君たちは、僕のタイムマシンで知っているから」 「タイ
第四部 富士山 第二章 タイムマシン 第一節 「ねぇ、達也が開発したタイムマシンどうなっている」 「中国の紀元前2000年の人を現在の日本に呼ぶと言う話」 「確か、ひろりんとプー子さんの」 「この間触った時は、江戸を舞台にした元禄元禄時代まで来ていた」 「じゃあ
第9章 女王卑弥呼 第3節 兎莉薙と蘇我兎羅賀瑪命は、奴国の大王の居館に着いた。 「倭面上国の兎莉薙と申します 帥慈の代理で、大王に挨拶させて頂きます」 「よくこられた 長年の間、敵対国としてお互いに戦ってきたが、この良き日に、双方が対面できたことを嬉しく思う
第9章 女王卑弥呼 第2節 蘇我兎羅賀瑪命は、早速吉野ヶ里に向かった。吉野ヶ里は以前の勢いがなく、閑散としていた。そして、倭面上国の大王(帥慈)の居館に着いた。 「大王、邪馬台国の女王に卑弥呼がなりました」 「そうか 私達の思惑通りになって来た これで、邪馬台国
第9章 女王卑弥呼 第1節 卑弥呼が須玖の里に来てしばらく経った。邪馬台国の運営も奴国の大王の独断上の状態で、組織だったことが出来ないのが現状でした。そして、気候変動による農作物の不作が続き、餓死者が多く出た。倭面上国も例外ではなかった。倭面上国では、餓死者
第四部 富士山 第一章 花火 第三節 隅田川沿岸には、多くの人が集まって来た。泰凛と楓杏は、その沿岸に座り、打ち上げ花火が上がるのを持っていた。 「ひろりん、花火が上がった とても綺麗ね」 「火薬玉がこんなふうになるのだね」 泰凛と楓杏は、花火を見とれていた。
第四部 富士山 第一章 花火 第二節 泰凛と楓杏が深川の木場に着いて、木材の荷揚げを手伝っていると、火薬を積んだ船が入って来た。楓杏がその船を覗き込むと、火縄銃の火薬で作った火薬玉が乗っており、その火薬玉は、泰凛が作った火薬玉よりも大きくかった。 「ひろりん
第8章 日向国の思惑 第4節 大伴鹿毛比古は、物部大綜麻杵命達を連れて、日向国の那珂の里(宮崎県南那珂郡南郷町)の日向国の大王の居館に。肩野の里からだとかなり遠くて、歩いてだと距離があるので、息長安蘇の船で行くことにした。 「オオヘソキさま、最初に私達の大王
第8章 日向国の思惑 第3節 伊那部は息長安蘇を探して、物部大綜麻杵命の居館に連れてきた。 「オオヘソキさま、ご無沙汰しています」 「久しぶりだのぉ」 「それで、私に用とは」 「アソウ、日向国を知っているか」 「日向国がどうかしたのですか」 「日向国で鉄剣を
第8章 日向国の思惑 第2節 物部伊那部は大伴鹿毛比古を連れて、肩野の里に戻ってきた。そして、物部大綜麻杵命の居館に入った。 「イナべ、須玖の里の警備、ご苦労 それで」 「奴国の大王の屋敷の前で、この者を 話を聞くと日向国の者らしく、邪馬台国の状況を探りに来た
第8章 日向国の思惑 第1節 須玖の里に女山の里から卑弥呼がやって来ました。この段階では、まだ、卑弥呼は女王ではなく、唯の祈祷師でした。しかし、邪馬台国は卑弥呼を獲て、本格的に始動し始めました。 邪馬台国の存在と卑弥呼の噂は、九州全土に広がりました。邪馬台国
第四部 富士山 第一章 花火 第一節 泰凛と楓杏は火薬玉を爆発して、木が倒れたところに、紀州の木こりが通りました。木こりは、大きな木が倒れているのに気が付き、木の側に、見知らぬ男女が転がっているので、そばに近づいた。そして、意識があるのを確認して。 「おおぃ
第三部 瀬戸内海 第三章 火縄銃 第四節 泰凛と楓杏は山に行って、檜の枝を芝辻清右衛門の鍛治場にもっていき、火縄銃を作り、枝を燃やして灰に。芝辻清右衛門と和歌の浦に硫黄を取りに行った。芝辻清右衛門が作る火縄銃も20挺程出来上がった。 芝辻清右衛門が火縄銃を作っ
第三部 瀬戸内海 第三章 火縄銃 第三節 津田算長は、范椋と泰凛と楓杏を連れて、芝辻清右衛門の鍛冶作業所がある根来庄に案内した。 「よう、あなた達が来るのを首を長くして待っていた 火縄銃も何挺か出来ています」 「出来上がった火縄銃を見せてくれないか」 「算長さ
第三部 瀬戸内海 第三章 火縄銃 第二節 王直の船は、紀の川の河口から吐前の船着場に着いた。王直は、琉球王朝の火器技術者と泰凛と楓杏を降ろした。そして、小倉庄の津田算長の屋敷に。 「王直、種子島で別れてから、琉球王国まで火器技術者を探しに行ってくれて」 「は
第三部 瀬戸内海 第三章 火縄銃 第一節 泰凛と楓杏は、台風で玄界灘に出た途端に船が転覆して、気を失った。そして、倭寇の頭領、王直の船に乗せられ、二人が、気がついた時には瀬戸内海を航海していた。 王直は、安徽省の出身で若い時に塩商を行い、貿易商になった人物。
第7章 倭面上国の陰謀 第4節 蘇我兎羅賀瑪命は、奴国に帰ってきた。奴国の居館の門には、物部伊那部が立っていた。 「ウラガメさん、倭面上国の状況はどうですか」 「イナべも、奴国の警備に携わっているのだな 今から大王と会って、倭面上国の状況を話ところだ」 「邪馬
第7章 倭面上国の陰謀 第3節 黄覚師の手下は、卑弥呼の祈祷場に案内した。 「ここは、卑弥呼の許可が要ります この場所でお待ちください」 卑弥呼が邪馬台国の女王になっても、独りで祈祷場に篭っていたようです。執事は周りの人々が行い、中心人物は、歴史上には出てこな
第7章 倭面上国の陰謀 第2節 女山の里は弥生時代前期後半には有明海に面し、漢の国から渡ってきた人々が稲作と鉄器の精錬技術を持って住み着いた。弥生時代中期には、吉野ヶ里と同じぐらいの環濠を持つ大規模な集落として発展し、女王が住む山として、いつ頃か分からないが
第7章 倭面上国の陰謀 第1節 奴国の新しい大王が即位して、今までの奴国連合が邪馬台国に変貌した情報が、倭面上国にも伝わった。その情報は、奴国の犬である蘇我兎羅賀瑪命が倭面上国の官、兎莉薙(うちな)に伝えた話でした。 倭面上国は、以前後漢の光武帝に倭国の王と
第三部 瀬戸内海 第二章 元寇 第四節 蒙古軍は、朝鮮半島から壱岐に集結しているとの連絡があった。しかし、なかなか博多湾に攻めてこない。それは、今回の弘安の役では、高麗軍を中心にした朝鮮からの蒙古軍と浙江省寧波市から出発したのは、元が南宋を滅亡させた蒙古軍の2
第三部 瀬戸内海 第二章 元寇 第三節 泰凛達は、小豆島の船着場に着いた。そこには、星ヶ城山の東側にある岩谷の集落があり、そこから、牛に牽かれた荷車に石を積んで、船着場に運んでいる姿があった。大きな岩もあって、その時は修羅と言って、材木を何本か地面に置き、轉
第三部 瀬戸内海 第二章 元寇 第二節 泰凛と楓杏は、那珂の里から壇ノ浦の主戦場の前を通った。 「プー子、ここで源氏と平氏が戦ったところだよ」 「ひろりんが、このあたりで潜って、天叢雲剣を取り出したところですね」 「あんたら、何時の時代の話をしているのか 昔、
第三部 瀬戸内海 第二章 元寇 第一節 泰凛と楓杏は、確かに厳島神社の社殿に天叢雲剣を持って入った。それが、両手で抱え上げていた天叢雲剣が見当たらない。さらに、泰凛と楓杏は、那珂の里の海岸に立っていた。 「ひろりん、ここどこ 前に来たような気がする」 「韓の国
第6章 邪馬台国誕生 第4節 奴国連合の王達は居間に入り、食事を取った。進行役の高震士が雑談をしていた王達に今後に奴国連合の話を持ち出した。 「先程、お話しましたように、ひとつの大きな国を作ることについて、なにかあれば」 最初に意見を述べたのは、不弥国の王で
第6章 邪馬台国誕生 第3節 大綜麻杵命は、奴国の大王と面会した後、須玖の里を出て、三輪の里に向かった。 「ニタヤ、三輪の生活に慣れたか」 「オオキソキさま、この間、奴国の武装派と戦いました」 「そうだった イナべから聞いておる」 「大王が暗殺されて、奴国はど
第6章 邪馬台国誕生 第2節 安曇厨紀弥が平穏な肩野の里に大王の命を受けて、大綜麻杵命の居館にやってきた。 「オオキソキさまにお会いしたいのですが」 その時、後ろから伊那部が声を掛けた。 「ズキヤさんではないですか」 「また、会ったね」 「イナベさま、この方
第6章 邪馬台国誕生 第1節 奴国の大王が暗殺されたことにより、大王の居館では武装派に拉致されていた高震士を中心にして、奴国の首脳が集まっていた。そこには、大王の子息も同席していた。 「高さま、これからどうされます」 「勿論、ここに居られる若君に大王になって
第三部 瀬戸内海 第一章 源平合戦 第七節 平清盛の生前の時、桓武平氏高棟王流の流れをくむ平時信の娘、平滋子が後白河上皇との間に憲仁親王(第80代高倉天皇)を産む。姉の平時子は、平清盛の継室(後妻)となって、平宗盛と平徳子を産んだ。高倉天皇の中宮として、その徳
第三部 瀬戸内海 第一章 源平合戦 第六節 佐伯景弘率いる軍勢は、平知盛が居る長門の彦島に向かった。一方、平宗盛と平時子と平徳子と安徳天皇は、讃岐の志度道場に義経軍が迫ってきたので、隠れ場所から出て、松浦党の船に乗り、志度を脱出し、平知盛が居る長門の彦島に。
第三部 瀬戸内海 第一章 源平合戦 第五節 泰凛が宮島(厳島)で船から降ろされた。そこには海の中に鳥居があり、平清盛が増築した厳島神社があった。この厳島神社の祭神を祀る氏族の長が行う古代からある日本の身分制度の社家を務めて、神主でもあったのが佐伯景弘でした。
第三部 瀬戸内海 第一章 源平合戦 第四節 泰凛の船にも、平家の兵士を乗せて、讃岐国の志度に向かった。 船の中では、兵士の誰かが呟いた。 「これから、平家はどうなるのだろう」 「とりあえず、知盛さまが彦島におられるので、そこまで行かないと」 「大丈夫だよ こち
第三部 瀬戸内海 第一章 源平合戦 第三節 泰凛が乗った松浦党の船は、一ノ谷の戦いで敗戦が確実になった平家の兵士を載せて、屋島に移動した。その船を指揮していたのは、松浦経介でした。 「ひろ、兵士達を降ろすのだ もう一度、一ノ谷に戻る」 「はい」 松浦経介は、松
第三部 瀬戸内海 第一章 源平合戦 第二節 松浦党の船は、宮島に楓杏を降ろした後、一ノ谷に向かった。 「おぃ、お前の名前なんという」 「ひろりんと言います」 「では、ひろ 露で船を漕ぐことができるか」 「できますよ」 「福原に着いたら、平家の兵士を船で運ぶこと
第三部 瀬戸内海 第一章 源平合戦 第一節 泰凛と楓杏は、不老不死の霊薬を飲んで眠りに着いたが、共に目を覚ました。 「プー子、起きろ」 「わぁ、よく寝た」 「確か、りかくさんのところで でも、ここはどこなんだろうか」 「あそこに海辺が見える」 「プー子、行って
第5章 暗殺事件 第6節 伊那部と三輪迦麻瀬が三輪の里に向かっている時、迦麻瀬が伊那部に話しかけた。 「イナベさま、倭面上国が奴国連合と和平を結ぶのでしょうか」 「今のところなんとも言えない」 「もし、また戦争になったら」 「そうなれば」 「私、この地を離れ
第5章 暗殺事件 第5節 伊那部と二田弥は、三輪の里に着いた。そして、三輪迦麻瀬を訪ねた。 「ニタヤさま、物部の方が三輪の里に来ていただいて、治安が良くなりました 今日は私に役に立つことでも」 「察しがいいね ここにおられるのは、物部伊那部さまです これから倭面
第5章 暗殺事件 第4節 伊那部と曽孁比古は、肩野の里に戻ってきた。 「ソメヒコ、今からオオヘソキさまにお会いしてくる」 伊那部は、大綜麻杵命の居館に入った時、物部二田弥も三輪の里から戻って来ていた。 「イナベ、奴国の状況はどうだった」 「今から、オオヘソキ
第5章 暗殺事件 第3節 中臣余師杜は、伊那部達の前で奴国の政治体制から始めた。奴国だけではなく、奴国の連合国もそうであったが、トップは『王』でその下に『官』がおり、それを補佐する『副官』がいた。その最高指導部になれるのは、階級制度があり、王・大人・戸口・奴
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第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
第2章 橘の香り 第2節 豊城入彦命一行が浅間山の麓から碓氷峠(群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町の境界にある峠)を超えて、碓氷川沿いに進むと烏川に出た。烏川を渡ると目の前が広がり、豊城入彦命はそこで足を止めた。そこは、豊城入彦命達がこれから開
第2章 橘の香り 第1節 豊城入彦命が東国に行くに当たって、紀の国の叔父、美智支真止乃命に挨拶に行った。すると、従兄弟の毛野荒刀を連れていくように言われた。毛野荒刀が言うには、東国は橘の香りがする土地だと。橘と言えば、紀の国でよく咲いている柑橘類で、桜の咲く
第1章 桃源郷 第9節 崇神天皇の集団が纒向の郷に来てから、5年が経った。その頃に、疫病が流行り、民は次々と感染した。その当時、崇神天皇の居館では、纒向の郷に来て以来、この地方の神、大倭国魂神を祀り、崇神天皇が導いて来た天照大御神を共に祀っていた。疫病が流行し
第1章 桃源郷 第8節 唐古の郷に東海地方から、桃源郷を求めて弥生時代中期に移住してきた人達によって、湿地帯で稲作が行われていた。その当時は、三輪山の裏に広がる奈良県東北部の高原地帯から流れる初瀬川(大和川)の土石流によって、デルタ地帯ができ、そこに集落を形
第1章 桃源郷 第7節 田尻と玉津は、磯木の社殿の前まで来た。そこには、曽我の郷(奈良県橿原市曽我町)の若者、佐実と葛木の郷(奈良県葛城市笛吹)から来た尾米が志願のために来ていた。 「お~い、これから、ミカドが会われるそうだ 4人いるな」 社殿から出てきた夷守
第1章 桃源郷 第6節 小成は、多井耳の所から戻った。帰ってみると玉津と真木はすっかり仲良くなっていた。真木は、明日にも玉津を磯木の郷に連れて行く約束をしていた。 「玉津さん、ミカドを見たことがあるのですか」 「立野の郷でちらっと見ました」 「私は、どんな人
第1章 桃源郷 第5節 崇神天皇の集団が纒向の郷を目出して進軍したのですが、まだ宮殿にするには整備されていなかった。そのため、磯城彦の社殿を仮の宮殿にした。『日本書紀』によると磯城瑞籬宮と記載されている。大正時代に建てられた石碑が存在し、その場所は志貴御県坐
第1章 桃源郷 第4節 玉津は、小成に連れられて集落に入った。驚いたのは竪穴式住居の数と人の多さだった。その当時、320m×320m位の広さに200個数の竪穴式住居が建てられていたことになる。6m四方に4個数があったことになる。小成の住居には、5人が住んでいて、玉津と年齢が
第1章 桃源郷 第3節 唐古の郷には桃の木が植えられ、春になるとピンク色の花を咲かせ、村人は田んぼを耕し、種籾を巻いていた。のどかで、穏やかな日だしが田んぼに差し込んでいた。その田んぼと田んぼの間のあぜ道を集落の方へ向かう若い青年がいた。それに気が付いた種ま
第1章 桃源郷 第2節 理想郷を求めた集団がいました。それは、古墳時代の幕開けとも言える集団で、大化の改新以後に編纂された『日本書紀』には、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇(注1))が磯城瑞籬宮で鎮座したとある。纒向の郷で、稲作を中心にし、祈祷で郷あるいは国の政
第1章 桃源郷 第1節 日本を象徴するのは桜ですが、咲いたと思ったら、すぐに散ってしまいます。その点では、桃は春には花を咲かせ、夏には果樹として実を付ける。長期に亘って楽しめる品種でした。この桃の原産地は中国からペルシアに至る、日本には元々生息していなかった
はじめに 常の世と書いて常世(とこよ)と読む。現代では、常にある世の中と解釈されそうだが、古代の人はそうではなかった。頭で描いた理想の世の中と解釈していたようです。その常世の国とは、不老不死の妙薬が存在し、海の彼方にある国。中国の秦の始皇帝と徐福の話に出
第8章 親子の再会 第3節 物部伊那部は、裏山から薪を担いで帰ってきた。そして、祭事場に薪を肩から降ろして、薪を組んだ。集落の人達を祭事場に集まるように声を掛けた。伊那部の住居に。 「おぉい、お祝いだ 祭事場に来い みんなが集まるぞ」 そう声掛けた時、日向馬の
第8章 親子の再会 第2節 物部日向馬は、息長遼瀬依を連れた布留の里に戻った。この里では、布留川から水路を造り田んぼに水が流れるようにしてあった。物部一族は、普段、この地で農作物を作り、稲の栽培をして、自給自足の生活を送り、いざ戦いになれば男子は戦場に行き、
第8章 親子の再会 第1節 開化天皇が大倭国に着いて、崇神天皇が新たな天皇に就任した宮殿の居間での集まりが終わり、それぞれに思いを噛みしめながら宮殿を出た。そこには、開化天皇に付いてきた1000人程の竪穴式住居も用意されていた。息長遼瀬依にも宮殿の側に住まいがあ
第7章 いざ大倭国へ 第6節 開化天皇は宮殿に入り、居間の正面に座った。そして、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は対面で座り、左側に息長遼瀬依以下、今まで開化天皇に同行してきた面々が、右側には物部日向馬以下、物部大綜麻杵命の配下の者が座った。 「皆の者、これか
第7章 いざ大倭国へ 第5節 物部日向馬は、首長の日下部途美倭(くさかべとみや)に会うため、草香邑に向かった。 「ヒュウマさん、白肩の浦に得体の知れない船団が近づいて来て、大倭国に攻めるのではないかと それで孔舎衛坂から攻撃しました 激戦になったのですが、敵軍が
第7章 いざ大倭国へ 第4節 五所の里で鉄器の軍備品が完成し、吉備からの軍勢も高島宮に集まって来た。おおよそ、その吉備の軍勢を合わせて、1000人程が集まり、大倭国に行く船も息長一族、安曇一族、和邇一族合わせて100隻以上になった。その先頭には、安曇の船で海路を誘導
第7章 いざ大倭国へ 第3節 開化天皇の指示で、息長一族は五所の里で密かに鉄器の軍用品を作り、それも大詰めに差しかかった。その軍用品の運搬は安曇一族が担当していた。墨ノ江の里から群家の里経由で高島宮へ。その運搬船に曽根の里や四ツ池の里に派遣されていた大伴賀馳
最初に、それも5万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが2万年を経て、後期旧石器時代に無人島だった日本列島に上陸した。縄文人の祖先。日本人の祖先です。中央大学、東京大学総合研究博物館、立正大学、(株)火山灰考古学研究所、(株)パレオ・ラボは、共同研究とし
現在でも日本育ちの馬がいます。それを在来馬といい、北海道の道産子・長野県木曽郡開田村の木曽馬・宮崎県都井岬の御崎馬・対馬の対馬馬・愛媛県今治市の野間馬・鹿児島県鹿児島郡十島村のトカラ馬・宮古島の宮古馬・沖縄県八重山郡与那国島村の与那国馬が生存しています
邪馬台国は、歴史上存在していたことは『魏志倭人伝』によって証明されています。それが、大化の改新以降に編纂された『古事記』や『日本書紀』には、邪馬台国の存在などが記載されていない。邪馬台国が卑弥呼から壹與に変わり、中国も魏から西晋に変わり、壹與が西晋の武
古代史の歴史学者は、弥生時代中期から後期にかけて、日本列島に倭国という国が存在していたように説く。でも、その倭国という表現は、中国歴史書に記載されているだけで、実際は弥生時代前期(紀元前500年~紀元前100年)頃には、日本列島に多くの集落は存在していたが、
最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る1万6,500年前から1万5,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日本海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外
昔から日本列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によ
地震がどの地域でいつ頃起こるか、全く予想できません。日本は火山地帯でもあり、火山噴火による地震。その他にも、日本列島の活断層による地震の結果、砂を大量に含んだ地下水(砂派)が地上に噴き出す液状化現象により山崩れや新たな丘に。海では大陸棚で瘤のように盛り
干支は、現在では十二支でしか表さないようになりましたが、江戸時代までは十干と言って、古代中国の殷国の1から10までの数字を表す甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛壬・癸で、殷の人達は太陽が東から昇る位置が10コの箇所と設定し、その繰り返しによって日時が繰り返すと考