第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
にほんブログ村に帰ってきました。以前は、Yahoo!のブログで投稿していましたが、2019年12月15日でブログのサービスを終了。そこで、Livedoor Blogに移転しました。今後も「いにしえララバイのブログ」をよろしくお願いします。
「いにしえララバイのブログ」の内容 http://historyman.blog.jp/archives/cat_325686.html タイアップしている任意団体 「隠された古代史を探索する会」 http://www.kodaihistory.org/
第二章 対馬海峡 第一章 吉野ヶ里 第六節 泰凛と楓杏は、伊知須侶が作ってくれた鏡を大事そうに持って、唐兄の集落に向かった。 「ひろりん、これからどうする」 「山の頂上に登ったときに、海が見えたと話しただろう あの海の向こうに行ってみたい」 泰凛が玄界灘を見渡
第二章 対馬海峡 第一章 吉野ヶ里 第五節 泰凛は箕賦珂根に連れられて、三郡山に向かった。脊振山の麓を東に進み、三郡山が見えてきたところで、三郡山系の麓を進むと菅原道真が九州に流罪された太宰府がある。そこから三郡山連峰の宝満山に向かう。 「ひろりんさん、この
第4章 西国の青い空 第6節 安曇厨紀弥は志賀の里に戻って来た。そして、東国の物部一族を西国に連れてきた報告に、奴国の大王に会うため須玖の里へ向かった。 奴国が建国して以来、男王が政権を担い、57年に後漢の光武帝から倭国の王として、認められていた。そして、『漢
第4章 西国の青い空 第5節 伊那部は西国に出発することになり、準備を進めていた。一方、香澄の里でも、大綜麻杵命も高屋阿波良姫(たかやのあわらひめ)と伊香色雄命を連れて行くことになった。そんな時、大王の居館に一人の祈祷師が。 「大王に会わせてください」 「お
第4章 西国の青い空 第4節 伊那部達は西国に出発することが決まったが、遼瀬依を誘拐した黄咲美姫と息長安操は、蘇賀の里の港から丸木舟に乗って、河内湖までやって来た。伊那部から頂いた米と大豆と小豆を瓜破の里に届けるため、河内湖南岸に丸木舟を船がかりした。 「私
第4章 西国の青い空 第3節 美世太彦は、大王に安曇厨紀弥のことを伝えておいた。大王は、その連絡を熟慮していたようであった。 「安曇厨紀弥、あなたの要求は、物部一族では受け入れない だが、我らがよくなるようなことがあれば、話は別だが」 「大王もご承知だと思いま
第4章 西国の青い空 第2節 伊那部は安曇厨紀弥を物井の里に滞在させ、厨紀弥を大王に会わせられるように、また、美世太彦に遼瀬依が誘拐されたことの報告も兼ねて、榎浦の里へ向かった。 「父上、大変なことになりました リョウセイが誘拐されました」 「リョウセイが」
第4章 西国の青い空 第1節 伊那部の居館は、赤ん坊(遼瀬依)が攫われたことで大騒ぎになっていた。 「ムキヤ、いるか」 「はい、ここにいます」 「リョウセイを探してくれ」 「今、手分けして探しています」 武斬弥の仲間は、蘇賀の里から埴崎の里辺りまで、手を伸ば
第3章 赤ん坊誘拐事件 第4節 息長安操は、蘇賀の里で仲間の到着を待っていた。すると、沖から3隻の丸木舟が見えてきた。そして、蘇賀の里の港に3隻が入港した。 「舟からみんなこちらに」 息長安操の仲間が6名。移住者が11名いた。 「おいおい、一人多いぞ」 「あぁ、こ
第3章 赤ん坊誘拐事件 第3節 伊那部と阿木沙都姫が物井の里に来て、1年がたった。伊那部は首長として、佐倉の里新田開発で余った土を、海からの突風がきつい蘇賀の里に運んで、海岸線の整備をしていた。後に、日本武尊の后の弟橘姫が入水し、姫の女人も入水した中で、蘇我比
第3章 赤ん坊誘拐事件 第2節 物井の里は、桃の咲く頃になっていた。阿木沙都姫の別宅では、女人が交代で姫の世話をしていた。 「もう、生まれそう」 阿木沙都姫の額から汗が噴き出していた。女人は、姫の汗を拭きながら。 「水をください そして、土器も」 女人のもう一
第3章 赤ん坊誘拐事件 第1節 伊那部と阿木沙都姫が物井の里に着いた時、集落(ムラ)の人々が新しい首長が着任したことを祝うために祭事場に集まって来た。武斬弥が先に来て、ムラの人達を集めていたようでした。 「みんな、これからの親方になられる伊那部さまです 横にお
第2章 大上海上の国 第5節 伊那部と武斬弥と舞弥呼は、物井の里に寄って、武斬弥の仲間とあって、草刈の里の状況を伝えた後、佐原の里を通過して、榎浦の里についた。 「美世太彦さま、ただいま帰ってきました」 美世太彦と阿木沙都姫が、縁側に座った。 「イナべ、ご苦
第2章 大上海上の国 第4節 伊那部と武斬弥は、佐倉の里の状況を観察していた。 「ムキヤさん、佐倉の里には水田の稲作が少ないですね でも、あの丘にでも稲作ができそうです」 「問題は、水源だな 鹿島川の分岐として水路を作るか」 「そうしたら、この佐倉の里にも集落
第2章 大海上の国 第3節 伊那部と武斬弥は、朝早くから大海上の国へ出発した。そして、現在の国道51号線で、平安時代末期に千葉氏によって整備された旧街道、佐倉街道を通って、荒海の里(千葉県成田市)に出た。縄文時代晩期までは、香取海の湾沿岸になっていました。それ
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第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
第2章 橘の香り 第2節 豊城入彦命一行が浅間山の麓から碓氷峠(群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町の境界にある峠)を超えて、碓氷川沿いに進むと烏川に出た。烏川を渡ると目の前が広がり、豊城入彦命はそこで足を止めた。そこは、豊城入彦命達がこれから開
第2章 橘の香り 第1節 豊城入彦命が東国に行くに当たって、紀の国の叔父、美智支真止乃命に挨拶に行った。すると、従兄弟の毛野荒刀を連れていくように言われた。毛野荒刀が言うには、東国は橘の香りがする土地だと。橘と言えば、紀の国でよく咲いている柑橘類で、桜の咲く
第1章 桃源郷 第9節 崇神天皇の集団が纒向の郷に来てから、5年が経った。その頃に、疫病が流行り、民は次々と感染した。その当時、崇神天皇の居館では、纒向の郷に来て以来、この地方の神、大倭国魂神を祀り、崇神天皇が導いて来た天照大御神を共に祀っていた。疫病が流行し
第1章 桃源郷 第8節 唐古の郷に東海地方から、桃源郷を求めて弥生時代中期に移住してきた人達によって、湿地帯で稲作が行われていた。その当時は、三輪山の裏に広がる奈良県東北部の高原地帯から流れる初瀬川(大和川)の土石流によって、デルタ地帯ができ、そこに集落を形
第1章 桃源郷 第7節 田尻と玉津は、磯木の社殿の前まで来た。そこには、曽我の郷(奈良県橿原市曽我町)の若者、佐実と葛木の郷(奈良県葛城市笛吹)から来た尾米が志願のために来ていた。 「お~い、これから、ミカドが会われるそうだ 4人いるな」 社殿から出てきた夷守
第1章 桃源郷 第6節 小成は、多井耳の所から戻った。帰ってみると玉津と真木はすっかり仲良くなっていた。真木は、明日にも玉津を磯木の郷に連れて行く約束をしていた。 「玉津さん、ミカドを見たことがあるのですか」 「立野の郷でちらっと見ました」 「私は、どんな人
第1章 桃源郷 第5節 崇神天皇の集団が纒向の郷を目出して進軍したのですが、まだ宮殿にするには整備されていなかった。そのため、磯城彦の社殿を仮の宮殿にした。『日本書紀』によると磯城瑞籬宮と記載されている。大正時代に建てられた石碑が存在し、その場所は志貴御県坐
第1章 桃源郷 第4節 玉津は、小成に連れられて集落に入った。驚いたのは竪穴式住居の数と人の多さだった。その当時、320m×320m位の広さに200個数の竪穴式住居が建てられていたことになる。6m四方に4個数があったことになる。小成の住居には、5人が住んでいて、玉津と年齢が
第1章 桃源郷 第3節 唐古の郷には桃の木が植えられ、春になるとピンク色の花を咲かせ、村人は田んぼを耕し、種籾を巻いていた。のどかで、穏やかな日だしが田んぼに差し込んでいた。その田んぼと田んぼの間のあぜ道を集落の方へ向かう若い青年がいた。それに気が付いた種ま
第1章 桃源郷 第2節 理想郷を求めた集団がいました。それは、古墳時代の幕開けとも言える集団で、大化の改新以後に編纂された『日本書紀』には、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇(注1))が磯城瑞籬宮で鎮座したとある。纒向の郷で、稲作を中心にし、祈祷で郷あるいは国の政
第1章 桃源郷 第1節 日本を象徴するのは桜ですが、咲いたと思ったら、すぐに散ってしまいます。その点では、桃は春には花を咲かせ、夏には果樹として実を付ける。長期に亘って楽しめる品種でした。この桃の原産地は中国からペルシアに至る、日本には元々生息していなかった
はじめに 常の世と書いて常世(とこよ)と読む。現代では、常にある世の中と解釈されそうだが、古代の人はそうではなかった。頭で描いた理想の世の中と解釈していたようです。その常世の国とは、不老不死の妙薬が存在し、海の彼方にある国。中国の秦の始皇帝と徐福の話に出
第8章 親子の再会 第3節 物部伊那部は、裏山から薪を担いで帰ってきた。そして、祭事場に薪を肩から降ろして、薪を組んだ。集落の人達を祭事場に集まるように声を掛けた。伊那部の住居に。 「おぉい、お祝いだ 祭事場に来い みんなが集まるぞ」 そう声掛けた時、日向馬の
第8章 親子の再会 第2節 物部日向馬は、息長遼瀬依を連れた布留の里に戻った。この里では、布留川から水路を造り田んぼに水が流れるようにしてあった。物部一族は、普段、この地で農作物を作り、稲の栽培をして、自給自足の生活を送り、いざ戦いになれば男子は戦場に行き、
第8章 親子の再会 第1節 開化天皇が大倭国に着いて、崇神天皇が新たな天皇に就任した宮殿の居間での集まりが終わり、それぞれに思いを噛みしめながら宮殿を出た。そこには、開化天皇に付いてきた1000人程の竪穴式住居も用意されていた。息長遼瀬依にも宮殿の側に住まいがあ
第7章 いざ大倭国へ 第6節 開化天皇は宮殿に入り、居間の正面に座った。そして、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は対面で座り、左側に息長遼瀬依以下、今まで開化天皇に同行してきた面々が、右側には物部日向馬以下、物部大綜麻杵命の配下の者が座った。 「皆の者、これか
第7章 いざ大倭国へ 第5節 物部日向馬は、首長の日下部途美倭(くさかべとみや)に会うため、草香邑に向かった。 「ヒュウマさん、白肩の浦に得体の知れない船団が近づいて来て、大倭国に攻めるのではないかと それで孔舎衛坂から攻撃しました 激戦になったのですが、敵軍が
第7章 いざ大倭国へ 第4節 五所の里で鉄器の軍備品が完成し、吉備からの軍勢も高島宮に集まって来た。おおよそ、その吉備の軍勢を合わせて、1000人程が集まり、大倭国に行く船も息長一族、安曇一族、和邇一族合わせて100隻以上になった。その先頭には、安曇の船で海路を誘導
第7章 いざ大倭国へ 第3節 開化天皇の指示で、息長一族は五所の里で密かに鉄器の軍用品を作り、それも大詰めに差しかかった。その軍用品の運搬は安曇一族が担当していた。墨ノ江の里から群家の里経由で高島宮へ。その運搬船に曽根の里や四ツ池の里に派遣されていた大伴賀馳
最初に、それも5万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが2万年を経て、後期旧石器時代に無人島だった日本列島に上陸した。縄文人の祖先。日本人の祖先です。中央大学、東京大学総合研究博物館、立正大学、(株)火山灰考古学研究所、(株)パレオ・ラボは、共同研究とし
現在でも日本育ちの馬がいます。それを在来馬といい、北海道の道産子・長野県木曽郡開田村の木曽馬・宮崎県都井岬の御崎馬・対馬の対馬馬・愛媛県今治市の野間馬・鹿児島県鹿児島郡十島村のトカラ馬・宮古島の宮古馬・沖縄県八重山郡与那国島村の与那国馬が生存しています
邪馬台国は、歴史上存在していたことは『魏志倭人伝』によって証明されています。それが、大化の改新以降に編纂された『古事記』や『日本書紀』には、邪馬台国の存在などが記載されていない。邪馬台国が卑弥呼から壹與に変わり、中国も魏から西晋に変わり、壹與が西晋の武
古代史の歴史学者は、弥生時代中期から後期にかけて、日本列島に倭国という国が存在していたように説く。でも、その倭国という表現は、中国歴史書に記載されているだけで、実際は弥生時代前期(紀元前500年~紀元前100年)頃には、日本列島に多くの集落は存在していたが、
最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る1万6,500年前から1万5,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日本海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外
昔から日本列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によ
地震がどの地域でいつ頃起こるか、全く予想できません。日本は火山地帯でもあり、火山噴火による地震。その他にも、日本列島の活断層による地震の結果、砂を大量に含んだ地下水(砂派)が地上に噴き出す液状化現象により山崩れや新たな丘に。海では大陸棚で瘤のように盛り
干支は、現在では十二支でしか表さないようになりましたが、江戸時代までは十干と言って、古代中国の殷国の1から10までの数字を表す甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛壬・癸で、殷の人達は太陽が東から昇る位置が10コの箇所と設定し、その繰り返しによって日時が繰り返すと考