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いにしえララバイのブログ http://historyman.blog.jp/

にほんブログ村に帰ってきました。以前は、Yahoo!のブログで投稿していましたが、2019年12月15日でブログのサービスを終了。そこで、Livedoor Blogに移転しました。今後も「いにしえララバイのブログ」をよろしくお願いします。

「いにしえララバイのブログ」の内容 http://historyman.blog.jp/archives/cat_325686.html タイアップしている任意団体 「隠された古代史を探索する会」 http://www.kodaihistory.org/

たつや(雑賀弘行)
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2019/04/29

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  • 縄文の道から畿内七道へ

    最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る1万6,500年前から1万5,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日本海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外

  • 縄文人の山の民と海の民

    昔から日本列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によ

  • 縄文時代の地震

    地震がどの地域でいつ頃起こるか、全く予想できません。日本は火山地帯でもあり、火山噴火による地震。その他にも、日本列島の活断層による地震の結果、砂を大量に含んだ地下水(砂派)が地上に噴き出す液状化現象により山崩れや新たな丘に。海では大陸棚で瘤のように盛り

  • 辰年の話

    干支は、現在では十二支でしか表さないようになりましたが、江戸時代までは十干と言って、古代中国の殷国の1から10までの数字を表す甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛壬・癸で、殷の人達は太陽が東から昇る位置が10コの箇所と設定し、その繰り返しによって日時が繰り返すと考

  • 最初の日本人

    「日本本土にやって来た人達は、マンモスゾウを追いかけて大陸からやって来た。」よく言われますが、日本でのマンモスの化石は北海道の12点と島根県日本海海底200メートルから引き上げられた1点で、約4万8,000年~2万年前とされている。果たしてマンモスゾウを追いかけて大

  • 歴史における人口推計

    現在、日本の人口は2020年の国勢調査で1億2,606万8,000人とされています。戦後すぐの調査では、7,810万1,473人ですから、1950年代から1960年代までの高度成長により、1970年には1億人に達し、バブル経済の頃、1986年には1億2,000万人を突破しました。2001年には、1億2,691

  • 日本人の生活習慣から来る集団意識

    日本人の性格として、集団で行動するときには「右へ倣え」という結束力はあるが、個人としての独立心に欠けるところがありますね。信念や価値観を共有し、個々の感情を抑え、習慣的に団体で行動する。個人プレイをすると集団から外される。江戸時代まで、集団から外れるこ

  • 弥生時代について

    現在では、学校教育において弥生時代の始まりは、日本に水田式稲作が入ってきた紀元前900年頃から古墳が形成される250年頃とされています。戦後、日本が復興していく過程で、道路拡張工事や子供の増加による新設校の建設や高度成長期によるマンション建設などの開発が進み

  • 食料の貯蔵庫(掘立柱建物)から祭殿(独立棟持柱建物)に

    家を建てる時、地面を掘り、コンクリートを流し込んで基礎(土台)を作り、その上から木材の柱を建てる。家の骨組みですね。その後、平板で床を張り付け、天井に屋根を。日本家屋の基本的な形ですね。 現在の家屋の基礎にコンクリートを使っていますが、古代エジプトで

  • 尾張氏は縄文人だった

    ヤマト王権の発祥地が崇神天皇の時代だとすると、三輪山の麓にあった纏向遺跡を中心にした地域になる。この纏向遺跡は、倭国大乱に相当する2世紀末から、崇神天皇が政権を運営していた4世紀前半に、大和の地に全国から集まって来た人達が共同生活をしていた遺跡です。発掘

  • スサノヲは水害&疫病の神

    スサノヲが神社で祭神として祀られるようになったのは、いつ頃だろうか。『古事記』や『日本書紀』が編纂された白鳳時代よりは、遙か昔の頃。稲作が集団でするようになり、村が形成された頃、集団で生活する上で、祭事場所が設置され、米の豊作を祈り、災害や疫病が起こら

  • お寿司と仏舎利の話

      お寿司は、代表的な日本料理として重宝がられています。お寿司の歴史は古くて、関東のにぎり寿司や関西の押し寿司は江戸時代に完成されていますが、元々はタイ北部から中国雲南省にかけて稲作と漁業の発達とともに、なれずしが食べられるようになり、日本に稲作が伝わっ

  • 仏教公伝における物部氏と蘇我氏

    仏教が百済経由で日本に伝わったのは、欽明天皇の時代で、538年から552年の間と言われています。その当時の百済は、高句麗軍の南下により、首都を熊津(忠清南道広州市)から泗沘(忠清南道扶餘郡)に移し、新しい首都に中国南朝文化を取り入れ、中央集権国家を目指した。

  • 遺伝子の変化はウイルスと交雑から

    生物学で地球上にヒト科として登場するのは、700万年前のサヘラントロプス属でチンパンジー科から分かれた種と言われている。この種の発見は頭蓋骨だけで、ヒト科の要素である直立歩行が成されていたかどうかは、推測の境地でしかない。もし、直立歩行をしていたとすれば、

  • 古代におけるウクライナと日本の関係

    現在、ウクライナはスラヴ人系で占められて、ロシア人と同じ民族です。この人達の祖先は、紀元前600年頃以前にウクライナ一帯に移住してきたスキタイ人とポーランド辺りにいたゲルマン人。それと、紀元前800年頃から植民地活動を展開するようになった古代ギリシアの国々。

  • Y-染色体から見た日本人の起源

    現在の日本人の祖先をY-染色体で探索してみた。 ホモ・サピエンスが誕生したのは、270,000年も前で、アフリカ中部から北西部辺りで、すべての遺伝子の根源が、ハプログループAとして誕生している。現在でも、ハプログループA を66%も持つ部族がアフリカのナミビア北東部

  • 血液型の話

    日本人のABO血液型で、世界に比べて均等に分布されている。おおよそのところ、A型が40%、O型が30%、B型が20%、AB型が10%となっている。現在のように人口移動が多い世の中では、都道府県別の分布は計りにくいので、戦前のデーターをもとに作製した分布表を利用して、日

  • 吉備王国からヤマト王権へ

    初期ヤマト王権が誕生する前、九州を中心に100余りの小国家が存在していた。これは、中国の歴史書から、現在までの日本の研究者が発表している既成事実です。そこに、吉備王国やヤマト王権の前身が含まれているとは思わない。中国が倭国として指定している範囲はどのような

  • お伊勢参りの天照大御神と宮中の自然崇拝

    正月早々に、総理が伊勢神宮にお参りする行事が恒例になっているようですね。なぜ、伊勢神宮に参拝して、国民の平穏無事を願うのでしょう。天照大御神は、皇室の祖先神といわれていて、国家最高神だからですね。現在でこそ、伊勢神宮に一般人がお参りできるようになってい

  • コロポックルの話

    お正月のおせちに鮭の酢漬けやイクラが、食卓に並びますね。日頃でも鮭のおにぎりなど、日本人にとって欠かせない食材ですね。現在の鮭の生産は、人工孵化により、養殖の鮭や南アメリカのチリ産(ニジマスやギンザケ)となっています。縄文時代はどうだったのでしょう。北

  • 【私考】古事記 イザナギの禊ぎ

    イザナギは黄泉の国から逃げて、葦原の中つ国に戻ってきます。穢らわしい身につけた衣服などを脱ぎ捨て、筑紫の日向の阿波岐の原で禊ぎをされます。【本文】是以伊邪那伎大神詔。吾者到於伊那志許米志許米岐。穢國而在祁理。故吾者爲御身之禊而。到坐竺紫日向之橘小門之阿

  • ヤマト王権は何処から大和へ

    『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇が日向から大和に東征したとなっている。この話は神話の出来事で実際には神武天皇も存在していなかった。では、このような説話はどのようにしてできたのだろう。神武天皇が仮に生存されていたとして、紀元前7世紀の頃、九州から大和

  • 銅鐸が古墳時代に消えた理由

    銅鐸は、弥生時代中期から後期に掛けて生産され、集落の祭事場で鳴り物の楽器として、神を誘導する道具として使用された。初期ヤマト王権の時代、崇神天皇から景行天皇(3世紀後半から4世紀前半)には、ヤマト王権が権力者の集合体であったように、地方でも大集落の統合が

  • 銅鐸の発祥地は奴国

    古代において、銅鐸は何のために製作されたのだろう。そして、「銅鐸文化は出雲から」と主張される研究者もおられますね。島根県雲南市加茂町の加茂岩倉遺跡から1996年に39個の銅鐸が発見され、それらの銅鐸が製造されたのが紀元前2世紀から紀元1世紀と推定されている。銅

  • 人骨から見た時代背景

    日本国土は酸性土で、なかなか人骨が見つからないのですが、弥生時代前期頃、中国大陸から朝鮮半島を経て、日本にやって来た人達が集落を形成し、死後にお棺(甕棺、首長級だと石棺)に入れて埋葬されていた。その集落の墓地を考古学者が発掘作業をして、人骨を発見。その

  • 磐余の邑がヤマト王権の発祥地

    神武天皇の和風諡号は、神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)となっています。この和風諡号というのは、先帝の血筋が正しく継承されたものであること証明する意味で、第41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼の一環として定められた制度

  • 諏訪地域の縄文人と物部氏

    石器時代に、鋭い石器を求め、狩りをしながら移動生活を送っていた。そして、黒い輝きのある石を発見する。黒曜石ですね。黒曜石を砕けば、鋭い矢尻にもなった。また、獲物を解体する刃物にもなった。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては北海道遠軽町(

  • 騎馬民族征服王朝論について

    日本人のルーツは、騎馬民族であると唱えた人がいた。確かに、以前、日本語はアルタイ諸語のツングース語族に属していると言われていた。現在では、アルタイ諸語の日球語族となっている。1968年に、中央公論新社から発行された江上波夫さんの『騎馬民族国家日本古代史への

  • 伽耶と新羅の争いとヤマト王権との関係

    古事記の神話で、どう見ても渡来系の神が現れる。アマテラスとスサノヲが剣と玉を交換したときにアマテラスの玉から生まれたアマツヒコネ。この神の子にアメノマヒトツノカミ(天目一箇神)とヒメコソミコト(比売許曽命)がいる。アメノマヒトツノカミは製鉄・鍛冶の神で

  • 中国とヤマト王権の<倭国>の認識

    中国側から日本を表すのに「倭」を使用し、この表現は紀元前1,000年頃、周王朝から独立し、呉を建国した太伯・虞仲時代からのようです。その当時の倭人の風習は、髪を短く切り、刺青をする。これは、海に潜って魚を捕る素潜りのため。この様相は、呉国の海岸線の人達とよく

  • お茶の話

    日本茶は、世界でも例のない製造方法で作られています。それは、原木のチャノキの葉っぱを「蒸す」という工程です。それは、酸化や発酵を防ぎ、蒸し終わった葉っぱを乾燥させる。そのことによって、緑茶が出来るわけですね。乾燥させた茶葉にお湯を注ぐ。私達がよく飲むお

  • 任那とヤマト王権の関係

    戦前までの任那に対する認識は、紀元前3世紀頃の弁韓=任那。そして、任那は倭国(日本)の領土。『日本書紀』に記載されているように、任那日本府が存在した。神武天皇が橿原の地で即位したのが、紀元前600 年頃だと信じられていた時代だから、任那はヤマト王権の領土だと

  • カバネから見える初期ヤマト王権

    倭国大乱の時代、2世紀から3世紀頃、日本では「倭国」とか「ヤマト王権」と言った統一国家ではなく、縄文時代からの集落の延長線上にある小さな国が存在していた。その小国には、稲作を中心にした人達や多少の土器、青銅器、鉄器などを製作する工房があり、そこで作業する

  • いにしえララバイ 3-4-1

    第3部 大和朝廷樹立 第3章 伊都から援軍(1) 娜国を攻略するために、イハレビコ達の拠点となる岡田の宮殿に重臣達が集まってきた。その中には、日向からのイッセに従ってきた家来の他に、豊の国からイハレビコのお爺さんにあたるワタツミの家臣やウサツヒコの家来も含ま

  • 富士山とさくらの話

    富士山は、どの場所から見ても綺麗な山の姿を見せていますね。この美しい姿はいつ頃から存在しているのでしょうか。富士山の形は、滑らかな斜面状になっていて、古来の大和言葉で、そのような形態を「フジ」といった。現在の「富士」という漢字が使われる前、『常陸国風土

  • ヤマト王権の領土分配とカバネの話

    弥生時代中期における国としての体裁は、どのようになっていたのだろうか。その当時の人口と実際の住居環境は、どのようになっていたのだろうか。学問的には、歴史人口学という分野。その第一人者で、現在、静岡県立大学の学長をされている鬼頭宏先生によると、縄文時代晩

  • 屯倉と部民制と姓名の話

    縄文時代晩期に水田式稲作が九州北部で始まり、血族関係の各集落によってコメの収穫を分散して生活をしていました。弥生時代の初期までは、平和で平等な社会だったと思われます。現在でも、世界でも有数の平和国家を構築しているのは、過去の農業主体国家が長く続いた日本

  • 土偶とひな人形の話

    人の形をした造形物の最古のもの。人形の起源が今から約13,000年も前、縄文時代早期の土偶。この土偶は、滋賀県の永源寺の近くの東近江市永源寺相谷町の相谷熊原遺跡から発見された。この時代に竪穴式住居が現れたころで、新石器時代の人たちが永住し出した頃。縄文人の始

  • 若木・建木・扶桑の神木と仙人信仰

    神社を訪ねると森林に囲まれた環境にあり、中には巨木にしめ縄が巻かれた風景が見受けられる。古代人は、高い巨木頭上に天、神が宿ると考えていた。神社の発生は、いつ頃か等、定かではない。気温が低い山岳地帯で、落葉広葉樹林系のドングリやクリを主食にしていた縄文人

  • おかめ・ひょっとこの話

    現在では、美人でない女性のことを「おかめ」、おっちょこちょいの男性のことを「ひょっとこ」と軽視する言葉をあまり使わなくなった。おかめの面は、頬が膨らんでいて、ひょっとこの面は、片目で口を尖らせている表情、戦前までは大衆の娯楽、民間芸能でよく使われた。村

  • 吉野ケ里遺跡と邪馬台国の関係

    邪馬台国論議で、1986年に吉野ケ里遺跡が発掘調査されて以来、『魏志倭人伝』で出てくる邪馬台国の位置について、佐賀県唐津市の末ら国や福岡県糸島市の伊都国の位置と共に、邪馬台国が吉野ケ里遺跡ではないかと話題になりました。発掘されるまでは、大規模な遺跡、糸島市

  • 和凧と木工芸の話

    昔、正月には川縁りなどで凧上げをよく見たものです。最近は少なくなりましたね。凧揚げが盛んになったのは、江戸時代からのことでわりと新しい。現在では、ナイロン製の凧(洋凧カイト)が見られますが、江戸時代の凧は葛飾北斎が描いているように、竹で長方形に骨組み、

  • 鹿→志賀→滋賀と変化した言語と安曇氏との関係

    滋賀県の方言アクセントは、シガの「ガ」にアクセントを置くそうです。全国的な標準語では「シ」に置きますけれどね。福岡県の志賀島や長野県の志賀高原のアクセントはどうなのか。この志賀のアクセントは、「ガ」にアクセントを置きますね。この高原には志賀山があり、約2

  • 縄文の海人が占領した壱岐島

    壱岐島は長崎県に所属し、山岳地帯の多い対馬列島に比べて平野部の多い島です。『古事記』の国産み神話では、イザナギとイザナミがアメノヌボコをアメノウキハシから大地をかき混ぜて矛の先から落ちたしずくからオノゴロジマができ、その後、大八島を生み出していく。その

  • 琵琶湖北湖の湖底遺跡

    琵琶湖といっても現在の形になるまでは、凄い歳月を費やしました。今から30万年程前、琵琶湖の原型ができ、徐々に現在の琵琶湖に近づいていきます。縄文時代初期には、現在の琵琶湖より一回り小さな形で、彦根から坂田の間に入江内湖があったが、現在は米原市入江になって

  • 鉄器導入による経済・政治状況

    現時点で、日本での鉄器の最初の工房らしきものが発見されたのは、平成23年3月~5月にかけて、発掘調査がおこなわれた長崎県島原市有明町所在の小原下遺跡2区。縄文時代晩期の地層で、地面を掘りくぼめた炉のような遺構から鉄滓が発見された。縄文時代には、竪穴住居の中に

  • 鏡と化粧の話

    鏡と言えば、透明ガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属のめっきを塗って、さらに酸化防止のため銅めっきや有機塗料などを重ねたもの。女性の化粧には欠かせない道具ですね。このガラスの鏡が日本に入ってきたのは、わりと新しい。大航海時代にキリスト教と共に日本に

  • 物部氏と中臣氏

    人の名前をあらわす表現に氏名と姓名があります。氏名という表現は、公文書に使われ、姓名は一般的に名字を表します。氏名と姓名を使い分けされています。氏とは、古代の氏(うじ)として男系祖先を同じくする同族集団から来ていて、古代中国では同一の先祖から出た血縁集

  • (仮説)集落から氏姓制度へ

    太古の時代、稲作が浸透していく過程で、生活や経済基盤として血縁関係にある一族の集団が形成されていった。水田の土地や水路の確保が集団規模を決定し、各集団での争いや婚姻関係により、大きな集落が九州を中心に中国・四国地方、更に近畿地方へと広がっていった。これ

  • たつやの古代旅日記 7-4

    第7章 温故知新 第4節 たつやは、流正の先輩の「ヤマト王権の政治拠点について」の講義を最後まで見終えた後、ふと助手時代の「稲作の発展と灌漑の進歩」を思い出した。 「流正くん、貴重な先輩の講演を見せて頂いて、ありがとう。この講演を見ていると私が助手時代に北摂

  • 三嶋王権を探る

    神武天皇が橿原の地で天皇に即位し、三輪山を支配していた大物主神または、三嶋湟咋(加茂建角身命・八咫烏と同一神)と玉節姫から生まれた娘、媛蹈鞴五十鈴媛を皇后に迎える。記紀ではそのようになっていますが、実際には神話の世界での話。この神話を2世紀から3世紀のこ

  • ウッドサークルと仮面

    ウッドサークルを取り上げる前に、サークルの起源、ストーンサークルを。日本でも、最初に発見された北海道小樽の忍路環状列石、それに続くように東北秋田の大湯環状列石が有名で、おおよそ縄文時代中期後半から後期、紀元前2,000年~紀元前1,000年の間頃に作られている。

  • 古代から現在までのウイルス感染

    コロナ旋風が日本に押し寄せている現在、そんなウイルスが日本を直撃したのは、コロナウイルスだけではなかった。江戸時代末期から明治時代初期に大流行した結核菌もその一例です。その当時は、「労咳」と言われ、幕末の高杉晋作、新撰組の沖田総司、文芸人では、森鴎外や

  • たつやの古代旅日記 7-3

    第7章 温故知新 第3節 ホテルマンがドアをノックした。そして、コーヒーが運ばれてきた。 「先生、継体天皇の話がでてきたので、私の先輩が継体天皇を中心にして、ヤマト王権の政治拠点について講義されていますので、見てみませんか。」 「う~ん。さっきの居館の話と

  • 蝦夷のアイヌ人論争

    現在、蝦夷地とは北海道を指しますね。日本政府が日本の先住民として認めたアイヌ人。そのアイヌ人が北海道に永住しているので、蝦夷というとアイヌ人という固定概念をお持ちではないですか。北海道は確かに、本州と違った形で歴史が進んでいたのは確かで、縄文文化が永く

  • 邪気と疫病

    令和時代が始まったばかりなのに、新型ウイルスコロナのおかげで世界中が大混乱に陥っています。感染が市中にまで広がりをみせていて恐ろしい事態になってきました。そんな時、心がけないといけないのが平素の規則正しい生活です。睡眠を十分にとり、手洗いやうがい。それ

  • たつやの古代旅日記 7-2

    第7章 温故知新 第2節 たつやの講演の日、朝早くから流正はたつやが宿泊しているホテルにやって来た。 「先生、おはようございます。」 「渡部くん、おはよう。昨日、少し心斎橋から道頓堀辺りを散歩がてら歩いてきたよ。道頓堀も昔に比べてきれいになっていたね。それと

  • たつやの古代旅日記 7-1

    第7章 温故知新 第1節 正月も過ぎ、授業が始まる前に大阪の知人、畑山俊一先生から講演依頼があった。大阪に行くのは久しぶりで、たつやが助手の時代に「稲作の発展と灌漑の進歩」という論文を作成するために、仁徳天皇が行った茨田堤で河内平野を調査したことがあった。

  • 【私考】古事記 イザナギとイザナミの決別

    イザナミがカグヅチによって死んでしまいます。それでも、神なのですね。黄泉の国、イザナミの故郷、出雲に身を隠したのです。そこで、イザナギはイザナミに会いたくて出雲まで会いに行きます。そこで、イザナギはイザナミに会うことができます。しかし、その姿は腐敗して

  • 土器と剣の話

    韓国の人は、日本の始まりが朝鮮半島にあると主張されています。しかし、先史時代の両国の関係とは別に、日本では縄文時代と言って、紀元前14,000年~紀元前1,000年頃までの長い歴史があります。そこで、韓国の先史時代はどうだったのかちょっと調べてみました。土器からす

  • 瓢箪と卵

    日本で「瓢箪から駒が出る」という古い諺がありますね。瓢箪はウリ科のユウガオ属の変形種で、アフリカが原産で世界最古の栽培種の一つ。それが、縄文時代草創期から日本で植えられていた。福井県の若狭湾国定公園の三方胡から流れる支流と高瀬川の合流地点一帯に12,000年

  • 【私考】古事記 イザナミの死とカグツチ

    イザナミは、アワジノホノサワケシマの神からヒノヤギハヤオの神までを兄のイザナギとまぐわれ、多くの神をお産みになった。火の神であるカグツチの出産後、陰部を火傷されて病気になられ、嘔吐かれた痰や糞から神をお生みになって、ついに亡くなられます。そして、悲しん

  • 【私考】古事記 自然界の神々(神生み)

    イザナギとイザナミが国生みを終えて、次に生み出した神々は自然界、生活感溢れる神々でした。これらの神々の特徴を生かした形で裏には、縄文人と神話を作り出した渡来人との融和やこれからヤマト王権を支えていくだろう氏族が隠されていたと思います。既生國竟。更生神。

  • 【私考】古事記 イザナギとイザナミの国生み(その二)

    近親相姦の結果、ヒルコやアワシマが生まれた。この話は、中国の女媧と伏羲の兄妹神話だけでなく、島国で会ったインドネシア、台湾、沖縄本土、与那国島、石垣島、宮古島、奄美大島などにも存在し、日本本土にも海人系の人達が持ち込んだようです。中国から丸太舟で黒潮に

  • 【私考】古事記 イザナギとイザナミの国生み(その一)

    『古事記』が編纂された当時、各豪族にいろいろな昔の逸話があったと思います。その中で、イザナギとイザナミの神話が最初に選ばれた。『古事記』にはこのように書かれています。於是天神諸命以。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。天つ神の諸々の神が、イザナギとイザナミに

  • 【私考】古事記 神代の世界

    日本の正史を編纂したいという天武天皇の願望があり、稗田阿礼が記憶していた『帝皇日継』『先代旧辞』を元に太安万侶が書き留めたのが『古事記』。推古天皇までの天皇記は『帝皇日継』を引用し、『古事記』の神代の世界は『先代旧辞』から。推古天皇の時代に、蘇我馬子と

  • 【私考】古事記 序文について

    『古事記』の前知識として、日本最古の書で現在目に触れることが出来る書籍としては、室町時代の足利義満が将軍を務めていた頃、愛知県名古屋市にある真福寺真言の僧侶、賢瑜によって写本された「真福寺本古事記」が国宝として存在しています。七一二年に太安万侶が元明天

  • 【私考】古事記 はじめに

    学生時代から日本史が好きで、社会人になってからもそれは変わりませんでした。機会があるごとに古代史の新書を読みました。その頃、歴史読本といえば、司馬遼太郎先生の本が書店に並び、ベストセラーになっていた時代です。でも、私はそのようなベストセラーになる本には

  • ヤマト王権の資金源と屯倉制度

    『後漢書』東夷伝には桓帝・霊帝の時代(146年~189年)に倭国大乱が起こったと記されています。実際にはその時期がいつ頃であったか未だに解明されていません。『三国志』魏志倭人伝では、邪馬台国の卑弥呼によって倭国大乱が治まったとなっています。『三国志』は倭国大

  • 天皇家と百済の関係

    世界の王室の中で、日本ほど長期にわたって続いている皇室はないですね。現在の徳仁陛下で126代目。これは、世界でも自慢できる。初代神武天皇が奈良県橿原宮で即位したのが、紀元前660年だそうですから驚きですね。以前、平成天皇が天皇家の祖先について、「私自身として

  • 陰と陽のヤマト王権

    人間として、陰と陽の裏表の性格を世界の人類が持ち合わせていると思います。でも、日本人って、この傾向が強いと思いませんか。「本音」と「建前」もそうですし、犯罪を起こしての「白」と「黒」もそうですね。この「本音」と「建前」は、外見上全く別のものに見えますけ

  • 好太王碑・七支刀と記紀との矛盾

    1880年に清国集安の農民によって発見された好太王碑。この碑は、高句麗の第19代好太王の業績が書かれていて、20代長寿王が414年10月28日に建てた。高句麗は百済と新羅の戦いで、倭国が百済に参戦して新羅を攻めたため新羅は高句麗に応援を求め、百済・倭国の連合軍と高句麗

  • 斎王と葵祭

    京都三大祭のトップを切って、令和元年5月15日に葵祭が開催されましたね。京都御所から賀茂御祖神社・賀茂別雷神社までの平安絵巻を彷彿させる行列がメインですね。この祭りのメインは、今年斎王代に選ばれた京都の女性が十二単をまとい、四方輿に正座され、内侍に牽かれる

  • 鶴と亀の話

    昔からの諺で、「鶴は千年、亀は万年」がありますね。鶴の寿命が千歳で、亀は万歳まで生きる。この諺は、長寿を現しためでたいたとえに使われたりします。野性の鶴の寿命は、およそ20~30年だそうです。最も長く生きた丹頂でも50年以上という記録が。亀は100年位生きている

  • 天皇家の祖がアマテラス

    平成天皇が退位にともなって、伊勢神宮内宮の神殿で4月18日の神宮親謁の儀を済まされた。天皇家の祖先、アマテラス様に退位の報告をするため、皇居で保管されている「草薙の剣」(レプリカ)と「八尺瓊勾玉」を持参され、伊勢神宮に供えてある「八咫鏡」、三種の神器を揃え

  • 息長氏は鉄軍団

    紀元前900年頃に、北部九州(長崎・佐賀・福岡)で水田式稲作が始まった。その当時、で生活していたのは縄文人。稲を湿地帯に植える自然栽培は行っていたが、灌漑とかの土木の技術は持っていなかった。中国では、春秋時代で戦争が絶えず、呉や越の難民が黒潮に乗って、この

  • 旧縄文人と新縄文人

    今日は、平成の時代から令和の時代に移っていく平成最後の日ですね。時代の境目。今上天皇陛下が退位される日。明日は、現在の皇太子さまが新しく天皇に即位される日。皇室では、厳かな神秘的な行事が行われていきます。この儀式、古代から天皇家で永遠と受け継がれてきた

  • 物部氏と難波

    現在では古代史において物部氏で通じていますが、物部と言う名前を崇神天皇の時代に河内国にいた伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が帝から頂戴した氏の名前。その当時、物とは「もののふ」の物で、軍事を預かる士族を表していた。安土桃山時代に織田信長が「もののふ」

  • 「令」と古代日本の法意識

    天皇陛下の退位にともなって、元号が「平成」から「令和」に変わりますね。元号は、中国の前漢時代の武帝が最初に採用した年号で、それ以後の中国でも清の時代まで続きました。以前は、大韓民国が1962年まで一時期年号を採用していたことがあり、ベトナムが1945年まで採用

  • たつやの古代旅日記 6-4

    第6章 殷鑑不遠 第4節 陽介は沖縄が琉球国であったことぐらいは知っていたが、その琉球国がいつ頃出来たかは知らなかった。首里城が14世紀の末に建てられたことぐらいの知識でした。 「先生、『中山世鑑』を編纂されたころに琉球国があったのはわかりました。しかし、それ

  • たつやの古代旅日記 6-3

    第6章 殷鑑不遠 第3節 『中山世鑑』は、ニライカナイやアマミキヨの神話的な琉球開闢説話から、源為朝が琉球へ逃れ、その子が実在しない伝説上の王統の舜天になったという説話まで載っています。この為朝琉球渡来説が発端になって、京都の五山僧侶、臨済宗の月舟寿桂等によ

  • たつやの古代旅日記 6-2

    第6章 殷鑑不遠 第2節 大城陽介は、本土と沖縄とは別の国、或いは本土にある程度対抗意識を持っていた。それで、たつやの神話の話を聞いて、琉球神話が本土の神話より先に出来たのかと疑問が湧いてきた。 「先生、沖縄は本土より早く日本人が住んでいるのではないでですか

  • たつやの古代旅日記 6-1

    第6章 殷鑑不遠 第1節 大学校内も日差しがきつくなり、いよいよ夏休みが近づいてきた頃、たつやの部屋に青柳良祐がやって来た。 「やぁ、りょう君。入りなさい。」 「先生、今日は沖縄から来ている大城陽介君を連れてきました。」 「陽介君もどうぞ。沖縄ですか。沖縄の

  • たつやの古代旅日記 5-6

    第5章 百花繚乱 第6節 「先生、徐福茶、飲んでくださいね。長生きして頂かないと。それで、徐福の日本渡来はわかりましたが、徐福伝説なのです。私が育った新宮には、1,700年から1,600年前に掛けて飛鳥山の麓に集落があって、阿須賀神社の境内に弥生式竪穴住居跡があって。

  • たつやの古代旅日記 5-5

    第5章 百花繚乱 第5節 俊樹と晴美は、阿須賀神社を参拝した後、熊野川の沿岸に出た。 「ねぇ、俊樹、大学を卒業したら新宮に帰ってくるの。」 「今のところわからない。」 「将来、何がしたい。」 「学校の先生にでもなるか。大学で教員課程を選択しているから。」 「

  • たつやの古代旅日記 5-4

    第5章 百花繚乱 第4節 晴美が歴史民俗資料館の扉を開けようとしたとき。 「しょっと、待って。」 「どうしたの。」 俊樹は、階段を半分上がっていたのにUターン。 「あの標識を見てくる。」 「弥生式竪穴住居跡ね。」 「この辺りには、1,700年から1,600年前の集落があ

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