第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
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第3章 卑弥呼の鏡 第1節 238年に卑弥呼が魏の明帝から貢ぎ物の代償として贈られた織物の布は、衣服に使用されたと思われるが、100枚もの銅鏡はどの様に処理したのだろうか。1枚や2枚だと卑弥呼が使用しただろう、祭事に祀られた可能性はあるけれど、100枚もの銅鏡だから、そ
第2章 狗奴国との戦い 第3節 日向国にいた氏族がこの卑弥呼の世界で、日本の皇室となっていく。『日本書紀』に表されているように、鹿児島県と宮崎県の県境にそびえ立つ高千穂岳に天津彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降り立ったとある。この卑弥呼の世界では、開化天皇は
第2章 狗奴国との戦い 第2節 物部二田弥が三輪の里から生葉の里に移って、3年が経ったある日、高良山から狼煙が上がった。 「おおぃ、皆集まれ、狗奴国が攻めて来る 戦闘の用意だ」 物部二田弥軍は、御井の里の北側にある宮ノ陣の里に陣を。この宮ノ陣の里(福岡県久留米
第2章 狗奴国との戦い 第1節 卑弥呼は、魏国から倭王の称号を経て、邪馬台国は諸国の連合からなっている国家だったが、国の整備も進め、領土の拡大を図っていた。しかし、その事が気に入らない国があった。それは、狗奴国でした。 狗奴国は、邪馬台国が発足した頃、奴国の
第1章 魏国からの使者 第8節 息長遼瀬依が須珂の里に使者を連れて来た時には、立派な邪馬台国の都になっていた。そして、女王がいる新築の居館に。そして、卑弥呼が中央に座り、左に卑弥比古、右に難升米が座っていた。その居間に遼瀬依が使者を連れ、対面で座った。 「遠
第1章 魏国からの使者 第7節 息長遼瀬依は須珂の里から伊都国に行き、帯方郡の使者を待った。使者の船は末羅国に着き、末羅国でも歓迎されて時を過ごし、伊都国に到着した。使者は、後漢が滅びる前にも伊都国で後漢の役人として滞在していた。そんな関係で、知り合いも多く
第1章 魏国からの使者 第6節 難升米と都市牛利が須珂の里について間もなく、明帝が亡くなり、明帝には子が早死していたので跡継ぎがなく、魏王朝の皇帝は曹操の曾孫にあたる曹芳を養子として、239年1月22日に第三代皇帝となった。そして、邪馬台国の卑弥呼宛に口上を用意し
第1章 魏国からの使者 第5節 難升米と都市牛利は、長い旅であったが、張政と護衛兵に囲まれ、洛陽に案内された。そして、明帝と会うことができた。その時の難升米の喜びもひとしおではなかったが、明帝も難升米と都市牛利の来朝を歓迎してくれた。 「倭国の遠いところから
第1章 魏国からの使者 第4節 難升米達は、帯方郡に着いた。そして、太守である公孫淵と面会した。 「倭国から、よくこられた また、魏のミカドに貢ぎ物を持って来たのか」 「今度ばかりは、魏の皇帝に会わしてください」 公孫淵は、魏の明帝に会わすつもりは全くなく、貢
第1章 魏国からの使者 第3節 邪馬台国が成立した頃、朝鮮半島、特に大韓民国の領域内では日本と同じように小国ができ、大間かには馬韓と辰韓と弁韓に別れていた。その辰韓の中で勢力を持っていたのが斯盧国で、503年に辰韓を統一して新羅になる。この斯盧国をここでは、新羅
第1章 魏国からの使者 第2節 難升米は、早速、那珂の里から船で楽浪郡に出発した。難升米の船は、大同江の河口の南浦の里(朝鮮民主主義人民共和国南浦市)に着いた。ここからは歩いて楽浪郡(平壌付近)に。それが、魏国から委託されている公孫氏の役人から声がかかった。
第1章 魏国からの使者 第1節 卑弥呼が女王に就任してからも、邪馬台国の政権は奴国連合の様相を呈していた。それが、220年に後漢が滅び、後漢の北部の領土を魏国が譲渡された形になった。以前、倭面上国は後漢の楽浪郡と交渉で活路を見出していたが、その後漢との接触もなく
第10章 大和の地 第6節 物部大矢口宿禰命を初めとして、物部一族は布留の里に着いた。その頃には、布留の里に大集落が構築され、その中心に大王の居館があり、その大集落の周りを囲むように環濠が増設されていた。物部大矢口宿禰命は、物部伊那部に案内されて布留の里の居館
第10章 大和の地 第5節 布留の里も集落らしくなり、水田も増えてきた。香澄の里から大王を迎える準備が整った。伊那部も、水田の用水路を布留川から引く工事を任されていた。以前、佐倉の里で印旛沼から水路を作った経験があった。布留川から引く水路で掘り出した土の処分を
第10章 大和の地 第4節 物部大綜麻杵命達が、安曇厨紀弥の船から降りた時、そこには、尾張鬽仛耶鰢が待っていた。 「オオヘソキさま、長い船旅、お疲れでした」 「ミタカメ、久しぶりだね」 「この間、香澄の里によったとき、大王が、大倭国に移ると聞いて、この布留の里
第10章 大和の地 第3節 肩野の里にいる物部一族と三輪の里の物部一族が、物部大綜麻杵命の居館に集まった。 「このたび、我らは大倭国の地に行くことになった」 その時、みんなの中から響めきの声があがった。 「そこで、この肩野の里と三輪の里に残りたい者は立ち上がれ
第10章 大和の地 第2節 安曇厨紀弥は、香澄の里から河内の墨ノ江の里により、何隻かの船を用意し、肩野の里に向かった。 厨紀弥達は、肩野の里の船着場に着いた。船を待機させ、安曇厨紀弥は物部大綜麻杵命の居館に向かった。 「ズキヤ、今日は何の用事だ」 「それが、父
第10章 大和の地 第1節 邪馬台国の時代から古墳時代にかけて、日本全体に降水量が増え、弥生時代前期や中期のように湿地帯での稲作が出来なくなった。湿地帯にあった水田は、雨のために水浸しになり、山からは土が緩み、川に沿って、土砂が流れ込んだ。そのため、お米の収穫
第四部 富士山 第二章 タイムマシン 第三節 「ひろりんさんとプー子さん、この気球船に乗りなさい」 「これに乗るの」 「これに乗って、元に戻るのだから それとこのタイムマシンを持って 気球船が上がったら、このタイムマシンのこの摘みを上にあげるのですよ そうすれば
第四部 富士山 第二章 タイムマシン 第二節 泰凛と楓杏は、二階に上がった。そこには、にこやかな顔をした陽美がいた。 「あなたたちが、ひろりんとプー子さんなの」 「私たちを知っているの」と楓杏が言った。 「君たちは、僕のタイムマシンで知っているから」 「タイ
第四部 富士山 第二章 タイムマシン 第一節 「ねぇ、達也が開発したタイムマシンどうなっている」 「中国の紀元前2000年の人を現在の日本に呼ぶと言う話」 「確か、ひろりんとプー子さんの」 「この間触った時は、江戸を舞台にした元禄元禄時代まで来ていた」 「じゃあ
第9章 女王卑弥呼 第3節 兎莉薙と蘇我兎羅賀瑪命は、奴国の大王の居館に着いた。 「倭面上国の兎莉薙と申します 帥慈の代理で、大王に挨拶させて頂きます」 「よくこられた 長年の間、敵対国としてお互いに戦ってきたが、この良き日に、双方が対面できたことを嬉しく思う
第9章 女王卑弥呼 第2節 蘇我兎羅賀瑪命は、早速吉野ヶ里に向かった。吉野ヶ里は以前の勢いがなく、閑散としていた。そして、倭面上国の大王(帥慈)の居館に着いた。 「大王、邪馬台国の女王に卑弥呼がなりました」 「そうか 私達の思惑通りになって来た これで、邪馬台国
第9章 女王卑弥呼 第1節 卑弥呼が須玖の里に来てしばらく経った。邪馬台国の運営も奴国の大王の独断上の状態で、組織だったことが出来ないのが現状でした。そして、気候変動による農作物の不作が続き、餓死者が多く出た。倭面上国も例外ではなかった。倭面上国では、餓死者
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第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
第2章 橘の香り 第2節 豊城入彦命一行が浅間山の麓から碓氷峠(群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町の境界にある峠)を超えて、碓氷川沿いに進むと烏川に出た。烏川を渡ると目の前が広がり、豊城入彦命はそこで足を止めた。そこは、豊城入彦命達がこれから開
第2章 橘の香り 第1節 豊城入彦命が東国に行くに当たって、紀の国の叔父、美智支真止乃命に挨拶に行った。すると、従兄弟の毛野荒刀を連れていくように言われた。毛野荒刀が言うには、東国は橘の香りがする土地だと。橘と言えば、紀の国でよく咲いている柑橘類で、桜の咲く
第1章 桃源郷 第9節 崇神天皇の集団が纒向の郷に来てから、5年が経った。その頃に、疫病が流行り、民は次々と感染した。その当時、崇神天皇の居館では、纒向の郷に来て以来、この地方の神、大倭国魂神を祀り、崇神天皇が導いて来た天照大御神を共に祀っていた。疫病が流行し
第1章 桃源郷 第8節 唐古の郷に東海地方から、桃源郷を求めて弥生時代中期に移住してきた人達によって、湿地帯で稲作が行われていた。その当時は、三輪山の裏に広がる奈良県東北部の高原地帯から流れる初瀬川(大和川)の土石流によって、デルタ地帯ができ、そこに集落を形
第1章 桃源郷 第7節 田尻と玉津は、磯木の社殿の前まで来た。そこには、曽我の郷(奈良県橿原市曽我町)の若者、佐実と葛木の郷(奈良県葛城市笛吹)から来た尾米が志願のために来ていた。 「お~い、これから、ミカドが会われるそうだ 4人いるな」 社殿から出てきた夷守
第1章 桃源郷 第6節 小成は、多井耳の所から戻った。帰ってみると玉津と真木はすっかり仲良くなっていた。真木は、明日にも玉津を磯木の郷に連れて行く約束をしていた。 「玉津さん、ミカドを見たことがあるのですか」 「立野の郷でちらっと見ました」 「私は、どんな人
第1章 桃源郷 第5節 崇神天皇の集団が纒向の郷を目出して進軍したのですが、まだ宮殿にするには整備されていなかった。そのため、磯城彦の社殿を仮の宮殿にした。『日本書紀』によると磯城瑞籬宮と記載されている。大正時代に建てられた石碑が存在し、その場所は志貴御県坐
第1章 桃源郷 第4節 玉津は、小成に連れられて集落に入った。驚いたのは竪穴式住居の数と人の多さだった。その当時、320m×320m位の広さに200個数の竪穴式住居が建てられていたことになる。6m四方に4個数があったことになる。小成の住居には、5人が住んでいて、玉津と年齢が
第1章 桃源郷 第3節 唐古の郷には桃の木が植えられ、春になるとピンク色の花を咲かせ、村人は田んぼを耕し、種籾を巻いていた。のどかで、穏やかな日だしが田んぼに差し込んでいた。その田んぼと田んぼの間のあぜ道を集落の方へ向かう若い青年がいた。それに気が付いた種ま
第1章 桃源郷 第2節 理想郷を求めた集団がいました。それは、古墳時代の幕開けとも言える集団で、大化の改新以後に編纂された『日本書紀』には、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇(注1))が磯城瑞籬宮で鎮座したとある。纒向の郷で、稲作を中心にし、祈祷で郷あるいは国の政
第1章 桃源郷 第1節 日本を象徴するのは桜ですが、咲いたと思ったら、すぐに散ってしまいます。その点では、桃は春には花を咲かせ、夏には果樹として実を付ける。長期に亘って楽しめる品種でした。この桃の原産地は中国からペルシアに至る、日本には元々生息していなかった
はじめに 常の世と書いて常世(とこよ)と読む。現代では、常にある世の中と解釈されそうだが、古代の人はそうではなかった。頭で描いた理想の世の中と解釈していたようです。その常世の国とは、不老不死の妙薬が存在し、海の彼方にある国。中国の秦の始皇帝と徐福の話に出
第8章 親子の再会 第3節 物部伊那部は、裏山から薪を担いで帰ってきた。そして、祭事場に薪を肩から降ろして、薪を組んだ。集落の人達を祭事場に集まるように声を掛けた。伊那部の住居に。 「おぉい、お祝いだ 祭事場に来い みんなが集まるぞ」 そう声掛けた時、日向馬の
第8章 親子の再会 第2節 物部日向馬は、息長遼瀬依を連れた布留の里に戻った。この里では、布留川から水路を造り田んぼに水が流れるようにしてあった。物部一族は、普段、この地で農作物を作り、稲の栽培をして、自給自足の生活を送り、いざ戦いになれば男子は戦場に行き、
第8章 親子の再会 第1節 開化天皇が大倭国に着いて、崇神天皇が新たな天皇に就任した宮殿の居間での集まりが終わり、それぞれに思いを噛みしめながら宮殿を出た。そこには、開化天皇に付いてきた1000人程の竪穴式住居も用意されていた。息長遼瀬依にも宮殿の側に住まいがあ
第7章 いざ大倭国へ 第6節 開化天皇は宮殿に入り、居間の正面に座った。そして、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は対面で座り、左側に息長遼瀬依以下、今まで開化天皇に同行してきた面々が、右側には物部日向馬以下、物部大綜麻杵命の配下の者が座った。 「皆の者、これか
第7章 いざ大倭国へ 第5節 物部日向馬は、首長の日下部途美倭(くさかべとみや)に会うため、草香邑に向かった。 「ヒュウマさん、白肩の浦に得体の知れない船団が近づいて来て、大倭国に攻めるのではないかと それで孔舎衛坂から攻撃しました 激戦になったのですが、敵軍が
第7章 いざ大倭国へ 第4節 五所の里で鉄器の軍備品が完成し、吉備からの軍勢も高島宮に集まって来た。おおよそ、その吉備の軍勢を合わせて、1000人程が集まり、大倭国に行く船も息長一族、安曇一族、和邇一族合わせて100隻以上になった。その先頭には、安曇の船で海路を誘導
第7章 いざ大倭国へ 第3節 開化天皇の指示で、息長一族は五所の里で密かに鉄器の軍用品を作り、それも大詰めに差しかかった。その軍用品の運搬は安曇一族が担当していた。墨ノ江の里から群家の里経由で高島宮へ。その運搬船に曽根の里や四ツ池の里に派遣されていた大伴賀馳
最初に、それも5万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが2万年を経て、後期旧石器時代に無人島だった日本列島に上陸した。縄文人の祖先。日本人の祖先です。中央大学、東京大学総合研究博物館、立正大学、(株)火山灰考古学研究所、(株)パレオ・ラボは、共同研究とし
現在でも日本育ちの馬がいます。それを在来馬といい、北海道の道産子・長野県木曽郡開田村の木曽馬・宮崎県都井岬の御崎馬・対馬の対馬馬・愛媛県今治市の野間馬・鹿児島県鹿児島郡十島村のトカラ馬・宮古島の宮古馬・沖縄県八重山郡与那国島村の与那国馬が生存しています
邪馬台国は、歴史上存在していたことは『魏志倭人伝』によって証明されています。それが、大化の改新以降に編纂された『古事記』や『日本書紀』には、邪馬台国の存在などが記載されていない。邪馬台国が卑弥呼から壹與に変わり、中国も魏から西晋に変わり、壹與が西晋の武
古代史の歴史学者は、弥生時代中期から後期にかけて、日本列島に倭国という国が存在していたように説く。でも、その倭国という表現は、中国歴史書に記載されているだけで、実際は弥生時代前期(紀元前500年~紀元前100年)頃には、日本列島に多くの集落は存在していたが、
最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る1万6,500年前から1万5,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日本海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外
昔から日本列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によ
地震がどの地域でいつ頃起こるか、全く予想できません。日本は火山地帯でもあり、火山噴火による地震。その他にも、日本列島の活断層による地震の結果、砂を大量に含んだ地下水(砂派)が地上に噴き出す液状化現象により山崩れや新たな丘に。海では大陸棚で瘤のように盛り
干支は、現在では十二支でしか表さないようになりましたが、江戸時代までは十干と言って、古代中国の殷国の1から10までの数字を表す甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛壬・癸で、殷の人達は太陽が東から昇る位置が10コの箇所と設定し、その繰り返しによって日時が繰り返すと考