第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
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第8章 親子の再会 第3節 物部伊那部は、裏山から薪を担いで帰ってきた。そして、祭事場に薪を肩から降ろして、薪を組んだ。集落の人達を祭事場に集まるように声を掛けた。伊那部の住居に。 「おぉい、お祝いだ 祭事場に来い みんなが集まるぞ」 そう声掛けた時、日向馬の
第8章 親子の再会 第2節 物部日向馬は、息長遼瀬依を連れた布留の里に戻った。この里では、布留川から水路を造り田んぼに水が流れるようにしてあった。物部一族は、普段、この地で農作物を作り、稲の栽培をして、自給自足の生活を送り、いざ戦いになれば男子は戦場に行き、
第8章 親子の再会 第1節 開化天皇が大倭国に着いて、崇神天皇が新たな天皇に就任した宮殿の居間での集まりが終わり、それぞれに思いを噛みしめながら宮殿を出た。そこには、開化天皇に付いてきた1000人程の竪穴式住居も用意されていた。息長遼瀬依にも宮殿の側に住まいがあ
第7章 いざ大倭国へ 第6節 開化天皇は宮殿に入り、居間の正面に座った。そして、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は対面で座り、左側に息長遼瀬依以下、今まで開化天皇に同行してきた面々が、右側には物部日向馬以下、物部大綜麻杵命の配下の者が座った。 「皆の者、これか
第7章 いざ大倭国へ 第5節 物部日向馬は、首長の日下部途美倭(くさかべとみや)に会うため、草香邑に向かった。 「ヒュウマさん、白肩の浦に得体の知れない船団が近づいて来て、大倭国に攻めるのではないかと それで孔舎衛坂から攻撃しました 激戦になったのですが、敵軍が
第7章 いざ大倭国へ 第4節 五所の里で鉄器の軍備品が完成し、吉備からの軍勢も高島宮に集まって来た。おおよそ、その吉備の軍勢を合わせて、1000人程が集まり、大倭国に行く船も息長一族、安曇一族、和邇一族合わせて100隻以上になった。その先頭には、安曇の船で海路を誘導
第7章 いざ大倭国へ 第3節 開化天皇の指示で、息長一族は五所の里で密かに鉄器の軍用品を作り、それも大詰めに差しかかった。その軍用品の運搬は安曇一族が担当していた。墨ノ江の里から群家の里経由で高島宮へ。その運搬船に曽根の里や四ツ池の里に派遣されていた大伴賀馳
第7章 いざ大倭国へ 第2節 和邇日田斗は、中臣摩耶彦や息長遼瀬依との再会に笑顔で応えた。そして、宮殿に向かう時に部下に。「馬を連れてこい」と声を掛けた。開化天皇に貢ぎ物として、韓の国から連れてきた。 日本に蒙古産の馬が入ってきたのは、弥生時代後期でモンゴル
第7章 いざ大倭国へ 第1節 275年に晋国の洛陽で疫病が流行り、この疫病は結核だと推定できる。晋国の武帝(司馬炎)もこの結核に罹ったようです。それまでの日本では結核菌など存在しなかった。この結核菌は、中国から朝鮮半島に。そして、日本に上陸した。韓の国との付き合い
第6章 兄弟の出会い 第3節 息長遼瀬依は高島宮に着いて、開化天皇に会うため、宮殿に入った。その時、大倭国からの来客が来ている事を聞いた。 「リョウセイ、いい時に帰ってきた 今、大倭国の物部大綜麻杵命から使者が来ている 物部日向馬と言って、以前、日向にいている
卑弥呼の世界 後編6-2 息長遼瀬依は母親の葬儀を終え、遺体を甕棺に入れて、土を掘り、埋めた。そして、謎めいた話、今まで知らない話。兄弟がいる。果たして、兄弟がいるという話だけで、後は何も分からなかった。納棺する時に現れた老人がいた。彼は、昔、息長安操の下
第6章 兄弟の出会い 第1節 息長遼瀬依は中臣摩耶彦と別れ、濊人の鍛冶技術者を多家の里へ連れて行った。多家の里では、蘇我三千比古が木ノ山で500枚の三角縁神獣鏡の複製を作り終えていた。その後、開化天皇一行は、吉備国の高島宮(岡山県岡山市南区宮浦)に移る。この高島
第5章 邪馬台国の終焉 第8節 中臣摩耶彦が数日、原の辻の里で滞在していただろうか。ある夕暮れの日に内海湾に晋国で作られたと思われる船が現れた。そして、原の辻の里の船着場に。その船から晋国で誂えた服装で降り立ったのは掖邪狗でした。 「エキヤクさん、お帰りなさ
第5章 邪馬台国の終焉 第7節 中臣摩耶彦を乗せた和邇水軍の船は、壱岐島の内海湾(うちめわん)から幡鉾川(はたほこがわ)の河口から原の辻の里の船着場のある幡鉾川を上った。幡鉾川は、河内川とも言われ、原の辻の里(長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触)が壱岐の
第5章 邪馬台国の終焉 第6節 和邇日田斗は馬忽の里に行き、濊の酋長にあった。そして、鍛冶技術者を集めて貰うことを依頼した。濊人は人の頼みを素直に聞く性格を持ち、裏切ることはしなかった。そして、鍛冶技術者を10人程用意してくれた。その準備が整うまで中臣摩耶彦は
第5章 邪馬台国の終焉 第5節 和邇日田斗は、若狭地方を本拠地とした海人系の和邇一族の出身で、日本海を挟んで朝鮮半島東海岸中部の元山湾(朝鮮民主主義人民共和国江原道元山市海岸洞)に渡った。この地には濊人が多く住み、太陽信仰を持つ鍛冶集団から鉄器を仕入れていた
第5章 邪馬台国の終焉 第4節 掖邪狗一行は、牙山の里に着き、帯方郡に向かう。帯方郡では卑弥呼の生前時代の帯方郡太守(弓遵)は、治めていた地元の中心となった首長が反乱を起こし、鎮圧している間に戦死し、太守がいない状態になっていた。それも魏国の弱体が原因の一つ
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第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
第2章 橘の香り 第2節 豊城入彦命一行が浅間山の麓から碓氷峠(群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町の境界にある峠)を超えて、碓氷川沿いに進むと烏川に出た。烏川を渡ると目の前が広がり、豊城入彦命はそこで足を止めた。そこは、豊城入彦命達がこれから開
第2章 橘の香り 第1節 豊城入彦命が東国に行くに当たって、紀の国の叔父、美智支真止乃命に挨拶に行った。すると、従兄弟の毛野荒刀を連れていくように言われた。毛野荒刀が言うには、東国は橘の香りがする土地だと。橘と言えば、紀の国でよく咲いている柑橘類で、桜の咲く
第1章 桃源郷 第9節 崇神天皇の集団が纒向の郷に来てから、5年が経った。その頃に、疫病が流行り、民は次々と感染した。その当時、崇神天皇の居館では、纒向の郷に来て以来、この地方の神、大倭国魂神を祀り、崇神天皇が導いて来た天照大御神を共に祀っていた。疫病が流行し
第1章 桃源郷 第8節 唐古の郷に東海地方から、桃源郷を求めて弥生時代中期に移住してきた人達によって、湿地帯で稲作が行われていた。その当時は、三輪山の裏に広がる奈良県東北部の高原地帯から流れる初瀬川(大和川)の土石流によって、デルタ地帯ができ、そこに集落を形
第1章 桃源郷 第7節 田尻と玉津は、磯木の社殿の前まで来た。そこには、曽我の郷(奈良県橿原市曽我町)の若者、佐実と葛木の郷(奈良県葛城市笛吹)から来た尾米が志願のために来ていた。 「お~い、これから、ミカドが会われるそうだ 4人いるな」 社殿から出てきた夷守
第1章 桃源郷 第6節 小成は、多井耳の所から戻った。帰ってみると玉津と真木はすっかり仲良くなっていた。真木は、明日にも玉津を磯木の郷に連れて行く約束をしていた。 「玉津さん、ミカドを見たことがあるのですか」 「立野の郷でちらっと見ました」 「私は、どんな人
第1章 桃源郷 第5節 崇神天皇の集団が纒向の郷を目出して進軍したのですが、まだ宮殿にするには整備されていなかった。そのため、磯城彦の社殿を仮の宮殿にした。『日本書紀』によると磯城瑞籬宮と記載されている。大正時代に建てられた石碑が存在し、その場所は志貴御県坐
第1章 桃源郷 第4節 玉津は、小成に連れられて集落に入った。驚いたのは竪穴式住居の数と人の多さだった。その当時、320m×320m位の広さに200個数の竪穴式住居が建てられていたことになる。6m四方に4個数があったことになる。小成の住居には、5人が住んでいて、玉津と年齢が
第1章 桃源郷 第3節 唐古の郷には桃の木が植えられ、春になるとピンク色の花を咲かせ、村人は田んぼを耕し、種籾を巻いていた。のどかで、穏やかな日だしが田んぼに差し込んでいた。その田んぼと田んぼの間のあぜ道を集落の方へ向かう若い青年がいた。それに気が付いた種ま
第1章 桃源郷 第2節 理想郷を求めた集団がいました。それは、古墳時代の幕開けとも言える集団で、大化の改新以後に編纂された『日本書紀』には、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇(注1))が磯城瑞籬宮で鎮座したとある。纒向の郷で、稲作を中心にし、祈祷で郷あるいは国の政
第1章 桃源郷 第1節 日本を象徴するのは桜ですが、咲いたと思ったら、すぐに散ってしまいます。その点では、桃は春には花を咲かせ、夏には果樹として実を付ける。長期に亘って楽しめる品種でした。この桃の原産地は中国からペルシアに至る、日本には元々生息していなかった
はじめに 常の世と書いて常世(とこよ)と読む。現代では、常にある世の中と解釈されそうだが、古代の人はそうではなかった。頭で描いた理想の世の中と解釈していたようです。その常世の国とは、不老不死の妙薬が存在し、海の彼方にある国。中国の秦の始皇帝と徐福の話に出
第8章 親子の再会 第3節 物部伊那部は、裏山から薪を担いで帰ってきた。そして、祭事場に薪を肩から降ろして、薪を組んだ。集落の人達を祭事場に集まるように声を掛けた。伊那部の住居に。 「おぉい、お祝いだ 祭事場に来い みんなが集まるぞ」 そう声掛けた時、日向馬の
第8章 親子の再会 第2節 物部日向馬は、息長遼瀬依を連れた布留の里に戻った。この里では、布留川から水路を造り田んぼに水が流れるようにしてあった。物部一族は、普段、この地で農作物を作り、稲の栽培をして、自給自足の生活を送り、いざ戦いになれば男子は戦場に行き、
第8章 親子の再会 第1節 開化天皇が大倭国に着いて、崇神天皇が新たな天皇に就任した宮殿の居間での集まりが終わり、それぞれに思いを噛みしめながら宮殿を出た。そこには、開化天皇に付いてきた1000人程の竪穴式住居も用意されていた。息長遼瀬依にも宮殿の側に住まいがあ
第7章 いざ大倭国へ 第6節 開化天皇は宮殿に入り、居間の正面に座った。そして、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は対面で座り、左側に息長遼瀬依以下、今まで開化天皇に同行してきた面々が、右側には物部日向馬以下、物部大綜麻杵命の配下の者が座った。 「皆の者、これか
第7章 いざ大倭国へ 第5節 物部日向馬は、首長の日下部途美倭(くさかべとみや)に会うため、草香邑に向かった。 「ヒュウマさん、白肩の浦に得体の知れない船団が近づいて来て、大倭国に攻めるのではないかと それで孔舎衛坂から攻撃しました 激戦になったのですが、敵軍が
第7章 いざ大倭国へ 第4節 五所の里で鉄器の軍備品が完成し、吉備からの軍勢も高島宮に集まって来た。おおよそ、その吉備の軍勢を合わせて、1000人程が集まり、大倭国に行く船も息長一族、安曇一族、和邇一族合わせて100隻以上になった。その先頭には、安曇の船で海路を誘導
第7章 いざ大倭国へ 第3節 開化天皇の指示で、息長一族は五所の里で密かに鉄器の軍用品を作り、それも大詰めに差しかかった。その軍用品の運搬は安曇一族が担当していた。墨ノ江の里から群家の里経由で高島宮へ。その運搬船に曽根の里や四ツ池の里に派遣されていた大伴賀馳
最初に、それも5万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが2万年を経て、後期旧石器時代に無人島だった日本列島に上陸した。縄文人の祖先。日本人の祖先です。中央大学、東京大学総合研究博物館、立正大学、(株)火山灰考古学研究所、(株)パレオ・ラボは、共同研究とし
現在でも日本育ちの馬がいます。それを在来馬といい、北海道の道産子・長野県木曽郡開田村の木曽馬・宮崎県都井岬の御崎馬・対馬の対馬馬・愛媛県今治市の野間馬・鹿児島県鹿児島郡十島村のトカラ馬・宮古島の宮古馬・沖縄県八重山郡与那国島村の与那国馬が生存しています
邪馬台国は、歴史上存在していたことは『魏志倭人伝』によって証明されています。それが、大化の改新以降に編纂された『古事記』や『日本書紀』には、邪馬台国の存在などが記載されていない。邪馬台国が卑弥呼から壹與に変わり、中国も魏から西晋に変わり、壹與が西晋の武
古代史の歴史学者は、弥生時代中期から後期にかけて、日本列島に倭国という国が存在していたように説く。でも、その倭国という表現は、中国歴史書に記載されているだけで、実際は弥生時代前期(紀元前500年~紀元前100年)頃には、日本列島に多くの集落は存在していたが、
最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る1万6,500年前から1万5,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日本海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外
昔から日本列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によ
地震がどの地域でいつ頃起こるか、全く予想できません。日本は火山地帯でもあり、火山噴火による地震。その他にも、日本列島の活断層による地震の結果、砂を大量に含んだ地下水(砂派)が地上に噴き出す液状化現象により山崩れや新たな丘に。海では大陸棚で瘤のように盛り
干支は、現在では十二支でしか表さないようになりましたが、江戸時代までは十干と言って、古代中国の殷国の1から10までの数字を表す甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛壬・癸で、殷の人達は太陽が東から昇る位置が10コの箇所と設定し、その繰り返しによって日時が繰り返すと考