戦国巡礼絵巻
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住所
神奈川県
出身
ハンドル名
ラーマさん
ブログタイトル
戦国巡礼絵巻
ブログURL
https://sengokubook.com/
ブログ紹介文
日本各地に残るお城、戦国時代関連の展示会、寺社などを訪れた時に感じたことを紹介しています。
自由文
-
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戦国巡礼絵巻
  • 彦根城の夜桜

    訪問日:2019年4月13日 どこで見たかは忘れましたが、彦根城の夜桜の写真がとても美しく、是非、訪れたいと思いました。今春は夜が寒い日が多く、桜の開花から満開までのペースが遅くなっており、日本気象協会の「国宝・彦根城の桜開花情報 2019」では「散り始め(満開後、50%以下の花が散っている状態)」でしたが、2日前までの「満開」でしたので、彦根城を訪れることにしました。 彦根城ライトアップ JR彦根駅で下車し、駅前から真っ直ぐ伸びる道を歩きます。突き当りで、左折し、いろは松の近くに来ると、沢山の人が集まっているのが見えたので、そこに行い、お城の方を見ると、写真で見た、桜がお堀の水面に映り込む幻想的な風景が目に入りました。 期待した通り、とても綺麗で、桜の状態が少し心配でしたが、訪れて良かったと思いました。桜と城は絵になる風景で、お花見の人気スポットになっているお城が各地にたくさんありますが、その中でも、彦根城の夜桜の美しさは全国でベスト10に入ると思います。 しかし、残念な点も有り、場所が狭く、かつ、沢山の人がいるので、ゆっくりと鑑賞が出来ないことが改善点に挙げられると思いました。 H3最後に 彦根城の夜桜は本当に綺麗ですので、一見の価値があります。交通の便も良いですので、まだ鑑賞したことがない方には強くお薦めします。

  • 「明智光秀・最期の謎!歴史研究者とたどる、戦国時代の小栗栖」ツアーに参加しました

    訪問日:2019年4月13日 「本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負い、自害した」 という話を初めて聞いて以来、明智光秀が百姓に刺された場所は人里離れた山奥というイメージをずっと抱いていました。 まいまい京都の4月開催コースに関する案内を見ていると、 【小栗栖】明智光秀・最期の謎!歴史研究者とたどる、戦国時代の小栗栖 - 光秀を討った"長兵衛"の正体とは!?小栗栖城跡から明智藪まで - を発見、集合場所が京都市営地下鉄東西線石田駅とあり、明智光秀が刺された場所は山奥ではなく、地下鉄の駅から歩いていける場所にあることを知って驚き、参加の申込みをし、参加できることとなりました。 小栗栖 石田駅の近くに山科川が流れており、山科川を挟んで、東側が醍醐、西側が小栗栖(おぐりす)だそうです。醍醐には、もちろん有名な醍醐寺があり、何度も訪れたことがありますが、反対側の小栗栖に訪れたのは今回が初めてでした。 「明智藪 天正18年6月13日 明智光秀が討たれたといわれる場所」と書かれた木碑の背後には現在竹藪はありません。これはずっと荒れ放題になっていた明智藪を来年の大河ドラマ「麒麟がくる」が始まると沢山の人が来ることが予想されるので、整備するためとのことです。竹の成長は早いので、夏には元に戻るそうです。ですので、現在の姿が逆に貴重かもしれませんね。 明智藪からほど近い場所にある小栗栖城跡にも立ち寄りました。戦国時代、小栗栖地区は飯田氏が在地の領主だったそうで、最初の写真の石碑には 「小栗栖の付近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最後を遂げたといわれている」 と書かれており、刺したのが農民でなく、飯田氏ならば、小栗栖館(城)から出撃したのでしょうね。小栗栖城跡は私有地で許可がないと入れませんので、このようなツアーは貴重です。 ガイドの方が「(刺された後)明智光秀は何を思い、この辺りを進んでいたのか想像してみましょう」と話され、私は「本能寺の変を起こしたのは正しかったか」、「自分がやろうとしていた政治を後を継ぐ者に実現して欲しい」などを考えていたのかなと思いましたが、光秀ゆかりの地を色々訪れ、考えてみたいと思います。 最後に

  • 桜の名古屋城を見に行きました

    訪問日:2019年4月7日 名古屋市営地下鉄名城線市役所駅で下車。7番出口から地上に出ると、左側に石垣が見え、「やっぱり、名古屋城は大きいな」と感じました。 天守と桜 観覧料500円を払い、東門から中に入り、歩いていると、東南隅櫓と天守が見えてきました。天守を見るとワクワクしますね。清正公石曳きの像を見つつ、表二之門をくぐり、本丸に入ります。復元された本丸御殿があり、当然中を見学しますが、その前に天守を見たいと思い、歩を進めると、桜と天守が見え、その風景はとても綺麗でした。 本丸御殿 次は本丸御殿の中を見学。今回初めて名古屋城の本丸御殿に入りましたが、その完成度の高さに驚きました。おまけに写真撮影も可能で、一度の訪問でお気に入りの場所になりました。 単純に美しいですが、そこに込められた意味を知ることも大切です。 玄関には虎と竹が描かれており、よくある解説では、この画を見て「昔の人は豹(ひょう)を虎のメスだと思っていたので、虎と豹が描かれています」と説明されますが、もっと大切な意味があります。こちらの「牡丹に唐獅子 竹に虎」に書いてあるとおり、虎は象に勝てず、象が入って来れない竹藪に逃げ込みます。つまり、竹藪の中は虎にとって安心できる場所です。よって、玄関に竹と虎の画を描くことにより、来客者に「ここは安心できる場所ですので、リラックスして下さい」というメッセージを送っているのです。 鸞(らん)も彫られていました。Wikipediaには「鳳凰が歳を経ると鸞になるとも、君主が折り目正しいときに現れるとしている」と書かれており、徳川家が正しい政治を行っているので、鸞が出現していることを意味しています。鸞は先月訪れた二条城の二の丸御殿入り口にも彫られており、異なるお城で同じものを発見するのも楽しいですね。 上記のように、そこに込められた意味を知れば、より本丸御殿を楽しめると思います。もちろん、私も全部理解している訳ではないので、もっと学びもっと楽しみたいです。 名古屋おもてなし武将隊

  • 桜の岡崎城を見に行きました

    訪問日:2019年4月6日 名鉄東岡崎駅で下車。改札を出ると、北口と南口がありましたが、岡崎城に行くにはどちらに行けばよいかは書かれていませんでした。しかし、きっと北口だろうと思い、北口から駅の外に出て、地図アプリで確認すると、合っていました。 駅から少し歩くと、乙川に出、そこから竹千代通りを歩けば岡崎城に到着しますが、乙川の河川敷を歩けるようになっていましたので、竹千代通りから河川敷に降り、岡崎城址公園に向かって歩くことにしました。河川敷の土手には桜が植えられており、桜がとても綺麗でした。また菜の花もあり、桜と菜の花の組み合わせもとても良かったです。岡崎城近くの河川敷には沢山の屋台が出ており、賑やかでした(昼食は屋台で食べました)。 岡崎城 神橋を渡り、城内へ。神橋から見る龍城堀も良い感じでした。 龍城神社にはお参りする長い列があり、「人気のある神社なんだな」と思い、天守閣の前へ。やはり、天守閣を見ると「お城に来た」という気がします。早速、桜と一緒に天守閣の写真を撮りました。しかし、桜は乙川と伊賀川沿いを中心に植えられており、桜と天守閣を一緒に撮れるポイントが思ったより少なく、その点は残念でした。 天守閣の中に入館しようと思いましたが、桜まつりで沢山の人が岡崎城址公園を訪れており、チケットを買う長い列が目に入りました。案内板を見ると、三河武士のやかた家康館も一緒に見るならば、家康館で共通券を購入したほうが混雑時は便利とあり、家康館にも入館するつもりでしたので、家康館に向かうことにしました。 途中、天守閣の裏側(?)に行くと、深い堀があり、正面から見た時とは、かなり印象が異なりました。 家康館で共通券(500円)を購入し、館内を見学。次に天守閣内を見学して、その後、城内をめぐり、徳川家康銅像、徳川家康しかみ像、本多忠勝像、産湯の井戸などを見ました。しかみ像は徳川宗家十八代当主から平成19年に寄贈されたそうで、私はしかみ像が好きなので、スマホの壁紙に設定しました。また本多忠勝は徳川の武将の中では一番好きな武将ですので、格好良かったです。 最後に

  • 桜の小田原城を見に行きました

    訪問日:2019年4月4日 今年(2019年)は4月に記録的な強い寒気が入り、寒の戻りがありましたので、桜の開花から満開までのペースが緩んでいました。訪問日した4月4日の小田原城址公園の桜は七分咲きとのことでしたが、この日以外は訪問できそうにないので、訪れることにしました。 隅櫓と桜 JR小田原駅から歩いて小田原城へ。お堀端通りを歩いていると、桜と隅櫓の景色が見え、「お城と桜は似合うな」と感じました。個人的には、隅櫓と桜の景色が一番良かったです。 常盤木門と桜 馬出門、銅門を通って、二の丸広場へ。常盤木門と桜も綺麗でした。 天守閣と桜 常盤木門を通って、本丸広場へ。天守閣と桜も良い感じでした。ただ、正直な感想を書くと、もう少し天守閣と桜が一緒に撮れるポイントがあれば良いなと思いました。 最後に この日は平日にもかかわらず、沢山の人が小田原城を訪れていました(小田原城址公園は神奈川県のお花見人気スポットですので、当たり前といえば当たり前ですが)。桜を眺めている人達の楽しそうな表情を見ていると、元々戦いのために造られたお城ですが、平成(5月からは令和)時代には、平和のシンボルになっていると感じました。

  • 「【二条城】徳川将軍の巨大御殿!絢爛豪華なアート空間を味わい尽くす」に参加しました

    訪問日:2019年3月31日 まいまい京都が主催するツアー「【二条城】徳川将軍の巨大御殿!絢爛豪華なアート空間を味わい尽くす」に参加し、二条城を訪れました。全体的に非常に濃厚な内容で、特に唐門、二の丸御殿内の説明は非常に印象深いものでしたが、それらに関しては実際にツアーに参加して聞いていただくとし、それ以外のことで3つ書きたいと思います。 二条城が持つ2つの顔 二条城は大きく2つのエリアに分けることができる。ひとつは東側の天皇を迎えるためのエリア(エリア1)、もうひとつは西側の天守が存在した城エリアである(エリア2)。現在、二条城に入城する場合、エリア1の入り口である東大手門から入るが、城エリアにある西門とはイメージがかなり異なる。東大手門は一重の門であるが、西門は多くの城でみられる枡形虎口である。西側は西国大名に睨みを利かせるために本来の城のようにしたのではないか。 → 確かにエリア1にいる時には「城にいる」という感じがあまりしませんでしたが、エリア2に入ると「城にいる」という感じがしました。 東大手門は、徳川幕府初代将軍である徳川家康が伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた後、二条城に入る時に通った門であり、西門は徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜が大政奉還後、二条城を出る時に通った門であり、どちらも歴史上の大きなイベントに関係するもので、その時の様子をイメージするのも楽しいものです。 本丸櫓門 本丸櫓門を初めて見た時、とても変わった形をしているなと思いました。現在も橋がかかっていますが、実は橋は元々は2階橋であり、寛永行幸の際、後水尾天皇は二の丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく、天守まで行かれたそうです。2階橋の一部は昭和5年頃まで残っていたそうですが、解体され、部材は保管されているそうです。是非、京都市には、2階橋を再建して欲しいですね。天皇と将軍が一緒に歩いた橋、歴史浪漫を感じ、大人気になることは間違いなしだと思います。 案内には「(二条城の天守は)天皇が登った唯一の天守閣と言われている」と書かれていましたが、ガイドの方は「聚楽第の天守にも登ったのではないか」と話されていたのが印象に残りました。 旧二条城の石垣

  • まほろばソムリエの深イイ奈良講座「松永弾正久秀」を聴講しました

    訪問日:2019年3月30日 奈良まほろば館で開催される講座は過去に寺社関係のものを何度か聴講したことがあり、ホームページを見ていると、「松永弾正久秀」の講座があるとありました。紹介には 主君を殺し、将軍を殺し、南都の大仏を焼き、信長を何度も裏切った、戦国乱世の極悪人とされる松永久秀。しかしそれは、江戸時代の儒学者による創作であることが、近年の研究で明らかになりつつあります。戦国時代の大和で松永久秀が成し遂げたかった事は何だったのでしょうか?城郭に多聞櫓とその名を残す松永久秀が築いた多聞城は、近世城郭の先駆けです。当時の書簡や古文書にみる意外な一面などの話を交えながら、松永久秀の実像に迫ります。 とあり、興味を惹かれたので、事前に申し込み、当日聴講しました。以下、感想を書きますが、本講座は有料でしたので、印象に残ったベスト3のみを書きたいと思います。 松永久秀は大悪人ではない 今までの松永久秀に対して ・将軍を殺し、主君を殺し、南都の大仏を焼き、信長を二度裏切り、平蜘蛛の茶釜を破壊し、信貴山城で爆死 というイメージが流布しているが、これらは全て一次資料で確認できないものである。 ・将軍を殺したに関しては、三好長逸が松永久通や三好義継と共に13代将軍足利義輝を討った。 ・大仏を焼いたに関しては、1567年に三好三人衆が東大寺に陣取る。1567年に東大寺は禁制(寺内に陣取らないように要請する事)を獲得していない。松永久秀が夜襲をかけ、混戦中の失火により大仏が炎上した。失火には諸説ある。 → 私も完全に上記のようなイメージを持っていました。しかし、それらが創作であることを知っただけでも、今回の講座を聞いた価値がありました。 松永久秀の良い話 ・1565年に三好長逸が松永久通や三好義継と共に13代将軍足利義輝を討った時、松永久秀は足利義昭を保護する。 ・1567年に三好義継が三好三人衆から離反、松永久秀を頼り、出奔する。これ以降、60歳の松永久秀と18歳の三好義継は常に共に戦う。 → 「松永久秀が本当に大悪人ならば、三好義継は松永久秀を頼ったりしない」と講師の方は話され、そのとおりだなと思いました。 何故、松永久秀は大悪人にされたか

  • 平成30年度 史跡鉢形城跡発掘調査現地説明会に行きました

    訪問日:2019年3月23日 史跡鉢形城跡の発掘調査の現地説明会が開催されることを知り、 ・発掘調査の現地説明会には一度も訪れたことがない ・鉢形城をより知りたい という理由から訪れようと思い、当日、鉢形城跡を訪れました。 説明会は午前10時からと午後1時からの2回あり、午前10時の会に参加しました。全体を3グループに分け、それぞれのグループに説明の方がつき、解説をしてくれました。以下、現地で説明を聞き、その後、鉢形城歴史館で展示を見て、思ったことを書きます。 鉢形城跡発掘調査現地説明会 ・平成9から13年度まで、笹曲輪、二の曲輪、三の曲輪を発掘調査し、上杉氏の遺物が出土した。本曲輪以外の大部分は北条時代に拡張されたと考えられてきたが、上杉時代に三の曲輪まで拡張されていた。 ・平成29年度から伝逸見曲輪の発掘調査を開始し、今年度(平成30年度)の調査では以下のことが分かった。 (1) 発見された遺物の年代から、伝逸見曲輪は北条氏邦が城郭整備を行う前から利用されていた。 (2) 大規模な造成工事が行われており、遺構も各所で改変されている。 ⇒ 上杉時代は本曲輪以外は利用されていなかったという説から、考古学の観点から上杉時代に伝逸見曲輪まで利用されていたのが分かったのはすごい発見だと思います。本曲輪から伝逸見曲輪までは結構広いので、上杉時代がどうだったのか気になりますが、発掘調査は北条氏邦時代のことを調査するのがメインとのことです。 ・伝逸見曲輪において、下の画像に示す、石を利用したと思われる遺構が見つかったが、現時点では構造を断定するには至っていない。画面の向かって右側から左側へ上がるスローブ状を示しているように見えるが、その下には石積の階段構造のようなものが見える。 ⇒ 単純にスロープ状の階段から階段状に河原石などを積み上げたものに改変されたのだと思いましたが、判断は難しいのでしょうね。来年度以降の調査が楽しみです。 伝逸見曲輪の近くには弁才天を祀っていた弁天社跡があるのですが、小田原北条氏は鎌倉北条氏と同じように弁才天を信仰していたと思われると説明があり、興味深かったです。 氏邦桜

  • 企画展「戦国足立の三国志―宮城氏・舎人氏・武蔵千葉氏―」に行きました

    訪問日:2019年3月22日 足立区立郷土博物館では2019年3月19日から5月6日まで、企画展「戦国足立の三国志―宮城氏・舎人氏・武蔵千葉氏―」が開催されています。この展示会が開催されることを知った時、宮城氏、舎人氏、武蔵千葉氏に関する知識は全くありませんでしたが、戦国時代の関東地方をより深く知る良い機会だと思い、必ず訪れようと思いました。 戦国足立の三国志 JR亀有駅北口からバスに乗り、足立郷土博物館バス停で下車、バスの進行方向に少し歩くと足立区立郷土博物館に到着です。 そして博物館の中に入り、入館料200円を払うと、人気投票券をもらいました。以下の武将 ・宮城四郎兵衛 ・舎人孫四郎 ・千葉守胤 ・上杉謙信 ・北条氏康 ・太田資正 の中から好きな武将を一人選んで投票します。宮城氏、舎人氏、武蔵千葉氏は馴染みの薄い武将ですが、イラスト化するとイメージが湧きやすくなりますので、良い企画だと思います。 足立をめぐる戦国武将 戦国時代の足立区は、北条氏と岩付太田氏の支配領域が接する境目であり、足立区域には、岩付大田氏の家臣である宮城氏と舎人氏、北条氏に従属する武蔵千葉氏が存在した。 太田道灌の実子が江戸城に入り、江戸太田氏と呼ばれ、道灌の養子の系統が岩付城に入ったので、岩付太田氏と呼ばれる。岩付太田氏は北条氏に従属と離反を繰り返し、そうした動向が宮城氏、舎人氏の運命を左右した。 足立とその周辺の攻防 1524年に北条氏綱が江戸城を攻略し、武蔵千葉氏はこの頃に北条氏に従属したと考えられる。1546年に河越合戦で北条氏は扇谷上杉氏を滅ぼし、その2年後に太田資正も北条氏に従属した。これにより、太田氏の家臣だった宮城氏、舎人氏も北条氏に従うことになったとみられる。 1560年、上杉謙信が関東に侵攻してくると、太田資正は北条氏から離反し、足立区域は北条氏と反北条氏の両勢力が激突する境目となった。武蔵千葉氏はそのまま北条氏への従属を続け、宮城氏と舎人氏は北条氏と敵対することになったとみられる。 1563年、北条氏と里見氏、太田氏連合軍が戦った第二次国府台合戦が勃発する。この戦いで、太田資正が敵に囲まれ、首を取られそうになった時、舎人孫四郎らが現れ、敵を蹴散らしたという武勇伝が伝わっている。

  • 淀城を訪れました

    訪問日:2019年3月9日 京阪線の淀駅で下車。淀駅には中央改札口、北改札口、臨時改札口がありますが、淀城跡公園に行くには中央改札口を出て、出口5から外に出ます。駅前に出ると、河津桜が咲いており、とても綺麗でした。私は知りませんでしたが、淀の河津桜は人気の高いお花見スポットだそうです。淀駅を下車する時、思ったより沢山の人が下車するなと感じ、みんな京都競馬場に行くのかなと思いましたが、河津桜を見に来た人も沢山いたことでしょう。淀城跡公園は淀駅から近く、少し歩くと淀城の石垣が見えてきました。 淀城 公園内に入ると、稲葉正成を祭神とする稲葉神社がありました。稲葉正成を祖とする稲葉家は享保8年(1723)に下総国佐倉から淀に転封し、以後、明治4年(1871)に廃藩を迎えるまで、淀藩主でしたので、稲葉正成を祀る神社が淀城跡公園にあるのも納得です。稲葉氏時代の淀城下の絵もあり、宇治川、桂川、木津川が合流する場所に建つ淀城は水城だったんだなと感じます。 公園内で一番目を引くのはやはり天守台の石垣です。Wikipediaには 当初は伏見城の天守を移築する計画であった。それに合せて天守台を普請していたが、急遽伏見城の天守は二条城に移され、替わりに二条城の天守が移築されることになった。しかし、二条城の天守は淀城の天守台に比べると小ぶりで周囲に余白ができた。その空白を埋めるために四隅に二重櫓を配し、その間を多聞櫓または多聞塀で連結した。 とあり、天守台が立派なことも納得です。 淀城跡公園は半分ぐらい堀と石垣に囲まれており、石垣の上を歩くことが出来ました。河津桜、石垣と水堀の景色、天守台の向こうに京阪線の電車が走る景色など、良い感じの場所だなと感じました。

  • 「”伏見幕府”の時代 徳川のメトロポリス・伏見をいく」ツアーに参加しました

    訪問日:2019年3月9日 まいまい京都が主催する「"伏見幕府"の時代 徳川のメトロポリス・伏見をいく」ツアーに参加し、京阪線・伏見桃山駅から伏見をめぐりました。本ツアーは有料ツアーですので、詳細を全て書くとガイドの方に悪いですので書きませんが、何も書かないとツアーの良さが伝わらないので、私の印象に残ったベスト3を書きたいと思います。 徳川家ゆかりの御香宮神社 表門は1622年に徳川頼房が伏見城の大手門を拝領して寄進したと伝わっています。また拝殿は1625年に徳川頼宣が寄進し、本殿は1605年に徳川家康の命により建立されました。つまり、御香宮神社は徳川家と縁の深い場所であり、京都では珍しい、徳川の葵の御紋がある神社です。 豊臣秀吉は伏見城築城に際し、鬼門を守るため、御香宮神社を伏見城の北東に移築させました。その後、徳川家康が1605年に元の場所(現在地)に戻しました。これは政治の中心が伏見城から江戸城に移り、伏見城の鬼門を守る必要が無くなったからと考えられるそうです。 徳川家以外とも、ゆかりの御香宮神社 御香宮神社のある場所は小早川秀秋屋敷跡と言われているそうです。これを聞いて、徳川家康が御香宮神社を現在の位置に戻したのは、1602年に亡くなった小早川秀秋の霊を成仏させる意味もあったのかなと思いました。 御香宮神社にはソテツがあり、小早川隆景はソテツが好きだったそうです。今生えているソテツは立派で大きいので、もしかしたら、小早川隆景も見たかもしれませんね。 境内に天満宮があり、前田家屋敷にあったものだそうです。前田家は自身の先祖が菅原道真だと考えていたので、屋敷に菅原道真の祀る天満宮を建立していたそうです。 伏見城 治部少丸 伏見城跡の大部分は明治天皇稜となっており、立ち入ることは出来ませんが、外から見ることはできます。石田三成屋敷跡の治部少丸があり、石垣は無くなっていますが、小高い丘のようになっていました。

  • 小机城見学会に参加しました

    訪問日:2019年3月10日 「小机城のあるまちを愛する会」が主催の小机城見学会は元々3月3日に予定されていましたが、当日は雨でしたので、10日に延期になりました。「春に三日の晴れ無し」と言われるように10日の天気も心配でしたが、大丈夫そうでしたので、集合の小机駅に向かいました。 小机駅から小机城まで 集合場所のJR横浜線小机駅改札口前広場に到着すると沢山の人でびっくりです。私は10人ぐらいの参加者だと予想していましたが、50人ぐらいはおられ、改めて、城巡り人気を実感しました。しばらくすると集合時間になりましたので、小机城に向かって出発です。 道中、雲松院がありました。こちらは小机城代の笠原信為が創建した曹洞宗の寺院であり、笠原家の墓所があるそうです。当日は立ち寄りませんでしたが、改めて訪れたい場所です。また商店街を歩いた折、「小机城オリジナルのコーヒーを作る予定」、「小机城のグッズを販売する予定」などを聞き、街全体で小机城を盛り上げようとする情熱を感じました。 小机城址市民の森入口で講師である二宮博志さんから挨拶があり、いよいよ城巡りの開始です。以下、印象に残ったことを書きます。 小机城 小机城は発掘がされていないとのことで、本などに小机城の縄張図が載っていることがありますが、それはそれぞれの人がそれぞれの思いで書いているそうです。 → 小机城は当然発掘作業が行われていると思っていましたので、びっくりしました。 小机城には東曲輪と西曲輪があり、どちらが本丸であったか両説があるそうですが、東曲輪と西曲輪をつなぐ、つなぎの曲輪は元々西曲輪と一体で、西曲輪を守るために空堀を掘ったと見られるので、西曲輪が本丸ではないかと考えるそうです。 北条氏による築城の特徴である障子堀、畝堀は小机城ではまだ発見されていないそうですが、畝堀だった可能性がある箇所があるそうで、横浜市が本格的な発掘調査を行い、畝堀が発見されれば、小机城を訪問する人は今の3倍になるだろうと話されていました。 → 確かに小机城から畝堀が発見されると大きなニュースになり、全国から城ファンが来ると思いますので、是非、横浜市には調査をして欲しいですね。

  • 歩いて石垣山一夜城を訪城

    訪問日:2019年2月24日 1月に小田原城を訪れた際、石垣山一夜城のパンフレットもあったので、入手していました。そこにはおすすめウォーキングコースが掲載されており、JR早川駅もしくは箱根登山鉄道入生田駅から歩いていくコースが紹介されていました。このコースを参考にして石垣山一夜城に訪れようと決め、今回は早川駅から行くこととしました。 早川駅 JR早川駅で下車。改札を出ても、石垣山一夜城への案内は特にありませんでした。駅を背に真っ直ぐ歩くと、大きな道(国道135号線)に出ます。そこで左折し歩いていると、「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」の案内板がありました。また、道の反対側には、セブンイレブン小田原早川駅前店がありましたので、飲み物などを購入し、石垣山一夜城へ向かう準備は整いました。 海蔵寺(堀秀政供養塔) 次の目標は堀秀政の供養塔がある海蔵寺です。少し歩くと海蔵寺に到着しました。案内板によると、海蔵寺は1441年に小田原城主大森氏により建立され、曹洞宗小田原三山の一つに数えられる名刹だそうです。 堀秀政の供養塔は本堂向かって右側の少し離れた場所にありました。堀秀政は小田原合戦の最中、疫病をかかり、38歳の若さで亡くなりました。供養塔の案内板にあった もし秀政が健在で、秀吉の意の如く関東に配属されていたら、歴史はまた大きく変わったと思われる人材であった。秀政の墓標は、小田原城も相模湾も見渡せるこの地に建ち、殉死したと思われる家臣大野左京らの墓に囲まれて、安山岩質の形のよい宝篋印塔が滅びゆくものの美しさと寂しさをみせている。 という文章が印象に残りました。 墓地の端から見ると確かに小田原城が見え、小田原城合戦後の関ヶ原の戦い、大阪の陣を堀秀政はどう思ったのだろうかと感じました。 海蔵寺から石垣山一夜城 ここからは広い車道を歩きます。道自体は面白くない道ですが、道沿いに「石垣山に参陣した武将たち」ということで、堀秀政、伊達政宗、宇喜多秀家、徳川家康、豊臣秀次、千利休、淀殿、豊臣秀吉の案内板がありました。その中で宇喜多秀家の案内にあった 小田原合戦の最中、北条氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講和を勧めたとする物語が伝えられている。

  • 知恵泉「戦国の教育術 北条氏綱 氏康親子 弱点を強みに変えろ」の感想

    2月19日、NHKのテレビ番組「知恵泉」で「戦国の教育術 北条氏綱 氏康親子 弱点を強みに変えろ」が放送されました(最初は2018年9月4日に放送されたようです)。 知恵泉のサイトには 関東の雄と呼ばれた名将、北条氏綱。しかしその息子の氏康は、家臣にも笑われるほどの、度し難い臆病者。武将として致命的な弱点をもった息子に、父氏綱が習わせたのが意外にも算術だった。当時、算術は、武芸が本分の武士が習うべきものとされず、軽んじられていた。なぜ臆病者に算術だったのか?後に、臆病者の氏康は、戦に強い勇敢な武将に成長した。氏綱の、常識に惑わされない、弱点を強みに変える逆転の教育術の神髄に迫る! とあり、面白そうなので、放送を楽しみにしていました。以下、番組を見た感想です。 無用な人間などいない、どんな人にも必ず才能がある 北条氏綱は息子・北条氏康の臆病という弱点を「慎重で思慮深い」とポジティブにとらえ、それを合理的に考える能力として長所にしようと算術を習わせたと説明していました。そして、氏康の初陣である小沢原の戦いで、扇谷上杉軍の矢戦に応じず、合理的に戦ったので、勝利したと紹介していました。 正直、氏綱が氏康に算術を習わせた理由が合理的に考える能力を長所にしようとしたからという解釈には賛同できませんでした。それよりも、ゲストの藤原和博さんが言った「算数ができるようにしたかったのではなく、自信をつけさせたかった」の方が同意できました。 私は氏康が家臣にも笑われるほど臆病だったならば、自信を失っていたと感じます。氏綱は氏康の日頃の動作を見てるうちに「算術に才能があるのでは」と思い、自信をつけさせるために算術を学ばせたのだと考えます。また、氏綱は北条家がこれから大きくなるにつれ、当主自身が算術に明るくなくてはならないと感じていたとも思います。 氏綱が氏康の日頃の動作から気づいた理由は、番組で紹介された氏綱の家訓「この世には不要な者などいないと心得よ(無用な人間などいない、どんな人にも必ず才能がある)」が背景にあったからだと考えます。そのいう思いで人を見ていると必ず何かに気づくと思います。

  • 障子堀、畝堀が素晴らしい山中城(2019年2月)

    訪問日:2019年2月17日 静岡県三島市にある山中城は豊臣秀吉による小田原攻めにおける激戦地であり、豊臣秀吉の来襲に備えて、北条流築城技術の最先端が投入されたお城でもあります。昔から山中城に訪れたいと思っていましたが、今回初めて訪れることにしました。 観光案内所 新幹線で三島駅に到着。三島駅の出口には北口と南口がありますが、山中城に行くバスは南口から出発しますので、南口へ。新幹線はスマートEXで乗りましたので、スイカ(パスモ)だけで在来線も新幹線も乗り降りでき、便利になりました。 南口から外に出ると、観光案内所に立ち寄りました。観光案内所で山中城跡の案内を入手。案内には、山中城跡公園の全景と ・戦国山城探訪コース(約2時間) ・障子堀・畝堀探訪コース(約1時間) のコースも書かれていますので、手に入れることをお薦めします。 上記案内にプラスして、「みしまるきっぷ」(900円)を購入しました。みしまるきっぷは山中城跡、三島スカイウォーク、伊豆フルーツパーク等を含むフリー区間が一日乗り放題となるお得切符です。三島駅から山中城跡までのバス料金は片道610円ですので、山中城のみを訪れる場合でもお得になります。みしまるきっぷを購入する際、バスの時刻表が印刷された紙をいただき、山中城跡バス停が行きと帰りでは少し離れていることなどを教えてくれました。 山中城跡に行くバスは5番乗り場から出発で、観光案内所の目の前です。バス停で待っていると、「山中」行きのバスが到着したので、乗車しました。山中城跡に行くバスの本数は基本1時間に2本ですので、バスの出発時刻は事前に必ず調べておきましょう。30分ほど乗車の後、山中城跡バス停に到着、下車しました。 戦国山城探訪コース 今回が初めての訪問なので、案内に書かれている「戦国山城探訪コース」に沿って歩くこととしました。まずは三ノ丸掘です。掘はなかなか良い感じです。 次は田尻の池です。山城では水の確保がとても大切であり、この田尻の池と隣りにある箱井戸が水を蓄える溜池として使用されていたそうです。しかし、使用目的は別で、田尻の池は馬の飲料水、その他に用いられ、箱井戸は人の飲料水として使用されたとのこと。 次は二ノ丸橋です。二ノ丸橋は二ノ丸と元西櫓をつなぐ橋であり、橋の上から横を見ると、畝堀となっていました。

  • 神奈川県立歴史博物館「狭山北条氏 ―戦国大名北条氏の遺産―」に行きました

    訪問日:2019年2月10日 神奈川県立歴史博物館で小規模ですが「狭山北条氏 ―戦国大名北条氏の遺産―」展示が2019年1月30日から2月24日まで開催されています。サイトの案内には 小田原合戦の降伏をもって、関東に一大勢力を築いた戦国大名北条氏は滅亡する、と多くの方はお思いだろう。敗戦により北条早雲から氏政・氏直に至るまでの嫡流系が断絶するのは確かだが、氏政の弟氏規の系統は狭山北条氏(大阪狭山市)として近世以降も大名として生きのびることは意外と知られていない。狭山北条氏は、明治まで近世大名として存続し、武家故実や家譜の収集・編纂、治水事業などを手がけ、その足跡は様々な資料からたどることができる。 本展では、狭山北条氏ゆかりの館蔵資料を一挙に公開し、戦国大名北条氏が河内国狭山藩の近世大名として再生する有様を、そして近世権力として新たな地域と向き合う姿を、豊富な資料から立ち上げてみたい。 とあり、興味を持ったので訪れることにしました。以下、展示を見ての感想です。 狭山北条氏 ・(天正19年2月7日)豊臣秀吉朱印状 1591年、北条氏直が赦免され、関東に9千石、近江に1千石の合計1万石を与えることを伝える朱印状です。北条氏直が関東に土地を与えられていたとは知らず、驚きました。残念ながら、北条氏直は同年の11月に亡くなってしまいます。 ・天正19年8月9日 豊臣秀吉朱印状 1591年、北条氏規に2千石を与えることを伝える朱印状です。「北条氏規は北条氏政、氏照の介錯を務め、介錯後、自刃しようとして止められ、北条氏直に従って高野山に蟄居した」と説明にあり、その場面が想像できましたので、印象に残りました。 ・慶長5年4月8日 豊臣氏奉行連署知行安堵状案 北条氏規が死去し、その所領7千石を長男の氏盛が引き継ぐことを安堵するものです。氏盛は下野に4千石所領があったので、合計1万1千石になるとのことです。豊臣氏奉行連署とあるように、毛利輝元、宇喜多秀家、徳川家康の署判がありました。 ・江戸時代 旗指物、江戸時代 三つ鱗紋陣羽織 旗指物は赤い旗に白色で北条家の家紋があり、三つ鱗紋陣羽織は赤色の陣羽織に金色の三つ鱗紋がありました。陣羽織を見ていると、戦場でそれを着用している北条家当主が想像できました。 ・江戸時代 北条先祖画像

  • 忍城に行きました(2019年2月)

    訪問日:2019年2月2日 忍城(行田市郷土博物館)を公共機関を用いて訪れる方法には、JR行田駅、吹上駅からバス、あるいは、秩父鉄道行田市駅から徒歩があります。今回は歩いて行きたかったので、行田市駅から歩くことにしました。 行田市駅で下車し、改札を出ると、南口と北口があります。案内を見ると、忍城は南口とのことですので、南口から外に出ました。のんびり歩いていると、行田名物の「フライ屋さん」がありましたので、入ることにしました。お城めぐりにおいて、その土地の名物を食べるのは楽しみの一つですね。 行田名物「フライ」 ご存知の方も多いと思いますが、行田でいう「フライ」とは、小麦粉を水でやわらかく溶き、鉄板の上で薄く焼きながら、ねぎ、肉、卵などの具を入れ、好みでソースまたは醤油だれをつけて食べるものです。 私はメニューの中から「行田フライ焼きそば」を注文しました。上記で説明したフライで焼きそばを包んだものです。 今回、初めてフライを食べましたが、とても美味しかったです。私は関西出身で、焼きそばやお好み焼きが好きなので、口に合いました。続日本100名城めぐりなどで忍城を訪れる関西在住の方は是非、フライを食べてみてください。 忍城おもてなし甲冑隊 お店を出て、少し歩くと、忍城の鐘が見え、忍城に到着しました。城址を歩いていると、忍城おもてなし甲冑隊の成田長親役の方がおられ、私を含め来城者に気軽に声をかけていました。こういうのは良いですね。戦国時代も成田氏は領民に気さくに声をかけていたのかなと想像しました。 訪れた日は午後1時半から忍城址東門で演舞披露があるので、東門に向かい、演舞を楽しみました(事前に忍城おもてなし甲冑隊のサイトでスケジュールを調べて、それに合わせて訪問しました)。 三階櫓 演舞が終わった後は、東門から外に出て、再建された三階櫓の写真を撮りました。ここが一番の写真スポットだと思います。 その後、行田市郷土博物館に入りました。内容は、「中世の行田」だけでなく、「近世の行田」、「足袋と行田」、「古代の行田」と幅広い展示で、映像による紹介がいくつもあり、分かりやすい展示でした。 最後に

  • 鉢形城に行きました(2019年1月)

    訪問日:2019年1月27日 寄居駅で下車。改札を出ると、北口と南口がありましたが、案内を見ると鉢形城に行くには南口から出るとのことで、南口から外へ。駅前からのんびり歩いていくと、やがて荒川にかかる正喜橋に到着。橋の上から見る荒川の景色は中々でした。橋を渡り切ると、右手に「史跡鉢形城址」と書かれた石碑があり、鉢形城に到着しました。 史跡1 石碑のある曲輪に入り、案内を見ると笹曲輪とのこと。笹曲輪とは何か知らなかったので後ほど調べると、鉢形城歴史館のページに 笹の葉のように小さい曲輪という意味で、本曲輪の外側に設けられ、本曲輪が直接外側に露呈することを防ぐ役割を果たしています。 とありました。 歩を進めると、次は伝御殿曲輪の案内がありました。少し高くなった箇所を歩いていき、階段を下って少し歩くと、「二・三の曲輪」、「鉢形城歴史館」を示す案内がありました。どちらに行こうか迷いましたが、笹曲輪、伝御殿曲輪を歩いても、いまいちピンとこず、鉢形城歴史館に行って、全体像を把握することにしました。 行く途中、愛称が「氏邦桜」というエドヒガンがありました。樹齢は150年ほどと推定されるそうで、立派でした。機会があれば、是非、花が咲いた時に来てみたいです。 また深沢川も横切りました。鉢形城の案内で「城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて」とありますが、今回の訪問では深沢川はここしか見なかったので、次回はもう少し見たいと思います。 鉢形城歴史館 入館料200円を払い、入っていくと、再現された櫓門がありました。現存例はないそうですが、毛利家の小田原陣仕寄陣取図には描かれているそうです。櫓門の上に弓を構えた人形と鉄砲を構えた人形があり、門をくぐる時、弓を構えた方向を通るので、リアルさを感じました。 鉢形城ワープステージがあり、「鉢形城と北条氏邦」、「鉢形城バーチャルツアー」のビデオを見ることができました。「鉢形城と北条氏邦」の中では、北条氏邦は翕邦挹福(きゅうほうゆうふく)と刻まれた印を使用していたことが印象に残りました。領民の幸せを願う北条氏らしい印ですね。またバーチャルツアーは当時の場内の様子をCGで再現しており、鉢形城の全体像を掴むのに役に立ちました。 史跡2

  • 嵐山史跡の博物館企画展「越山 上杉謙信侵攻と関東の城」に行きました

    訪問日:2019年1月26日 埼玉県比企郡にある嵐山史跡の博物館では2018年12月1日から2019年2月17日まで企画展「越山 上杉謙信侵攻と関東の城」を開催しています。この企画を知ったとき、興味深いタイトルでしたので、必ず訪れようと思いました。また訪れるならば、学芸員による展示解説がある日が良いと思い、結果、1月26日に訪れることにしました。 武蔵嵐山 展示解説は午後1時30分からですので、武蔵嵐山駅に12時1分に到着する電車に乗りました。下車し、改札を出ると、続日本100名城に選ばれている杉山城と菅谷館跡の方向を示す案内がありました。やはり、続日本100名城で訪れる人が多いのでしょうね。菅谷館跡と嵐山史跡の博物館があるのは西口ですので、西口から外に出ました。 時間的に昼食をとろうと思い、駅周辺を歩いていると、「喫茶モール」というお店があったので、入りました。昭和的な雰囲気の喫茶店でなかなか良かったです。嵐山史跡の博物館を訪れる場合の昼食場所としてお薦めです。食事後、のんびり歩いていくと、嵐山史跡の博物館に到着しました。 嵐山史跡の博物館 嵐山史跡の博物館は菅谷館跡にある博物館ですので、土塁などがあり、テンションが上ります。歩を進め、博物館に入り、入館料100円(安い!)を払い、まずは展示を一通り見ました。そして、展示解説が始まるのを待っていると、定刻に始まりました。 1.上杉謙信と越山 まずは紺地日の丸の旗があり、これは上杉謙信が最も大切にした旗とのことです。また「毘」と書かれた旗と「龍」と書かれた旗もありました。毘の旗は陣を示す、龍の旗は攻める時に使用した旗とのことで、旗によって役割が決められていたのは興味深かったです。 上杉謙信の越山は17回行われたそうで、有名な川中島の戦いよりはるかに多い回数ですので、驚きました。また17回行われたことは分かりますが、残された書状には命令書や報告書が多く、どのような戦いがあったかは分からないので、それを城から出土した遺物から考えるのが今回の展示の趣旨とのことです。 書状では、1559年に上洛した時、足利義輝から上杉憲政が関東を支配できるよう尽力するように命じる文書、第二次越山時に上杉謙信に味方した関東諸士の名前が書かれたものがありました。

  • 初めての訪問記 冬晴れの空に映える小田原城

    訪問日:2019年1月19日 本記事が本サイトにおける最初の訪問記となります。最初はどこを訪れようと思いましたが、小田原城を訪問することに決めました。その理由は ・神奈川県に住んでいる。 ・「平成の大改修」以降、訪れていない。 ・北条家が好きである。 などが挙げられます。ということで、冬晴れの下、JR横浜駅から上野東京ラインに乗り、JR小田原駅に向かいました。 北条早雲像 小田原駅で下車し、改札を出ます。小田原駅には東口と西口があり、小田原城があるのは東口ですが、まずに北条早雲像を見るために西口へ。像はバス、タクシー乗り場の真ん中にあり、撮影場所も特に用意されていないので、中々撮りづらいですが、訪れた時は交通量も少なかったので、無事撮影。本像は北条早雲が小田原城の大森藤頼を火牛の計で攻めた時の様子を表しています。 北条氏政・氏照の墓所 駅に再び戻り、今度は西口から出ます。そして、まっすぐ小田原城へと言いたいところですが、北条氏政・氏照の墓所に向かいました。場所は少し分かりづらかったですが、Googleマップの助けを借りて無事到着。 案内板があり、要約すると以下となります。 天正十八年(1590年)の小田原攻めにより小田原城が落城すると、北条氏政と氏照は自刃し、当時この地にあった北条氏の氏寺に埋葬されました。その後放置されていた墓所は、稲葉氏が小田原城主の際、北条氏追福のため整備され、関東大震災で埋没する被害を受けましたが、翌年、復元されました。 墓所の説明以外にもう一つ「幸せの鈴」という案内板があります。 箱の中の鈴に民を思う領主の優しい心がきっと宿っています。 ここに眠る北条氏政、氏照は長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。 願い事をかけて鈴を持ち帰り、かけた願いがかなったら、幸せの鈴を結びに来て下さい。幸せの鈴がいっぱいになれば、ここに眠る領主へのなによりの供養となることでしょう。 善政を敷いた北条家を慕う良い行いだと感じます。もちろん、墓所にはたくさんの幸せの鈴が結ばれていましたよ。 小田原城

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