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にせ茶人の歴史ブログ http://nisechajin.livedoor.blog/

『毛利家文書』、『明智軍記』、『宗長日記』、そのほか茶道関係の史料を読んでいます。

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2018/12/26

1件〜100件

  • 毛利了禅〈時親〉譲状案(『毛利家文書』13-2号)

    今日は、南北朝時代の建武四年(1337)に作成された、毛利了禅〈時親〉譲状案(『毛利家文書』13-2号)を読んでみたいと思います。 毛利了禅は吉田庄の地頭職を孫・毛利親茂に譲るとした上で、親茂が死去したのちは、その嫡子・少輔太郎師親(毛利元春)に地頭職を相続させるよう

  • 毛利了禅〈時親〉譲状案(『毛利家文書』13-1号)

    『毛利家文書』13号には、毛利広房重書案として13通におよぶ重要文書の案文(控え)が所収されており、毛利氏関係の譲状、本領安堵や地頭職、軍忠などを認める文書から成ります。 文書が作成されたのは、建武(1334~36)から、康暦(1379~81)ごろになります。 今日は毛利了禅

  • 【16】現代語訳『明智軍記』巻第三・下「三好一族、将軍の御館攻むる事、付けたり、二条城を築かるる事」

    新年に改まり、永禄十二年(1569)になりました。 正月の恵みを得て、南に枝をのばした梅が気色立ち、軒のウグイスの声がほころんで、里山は霧が晴れて、上下の人々がにぎわうころであるのに、淀・山崎のあたりから、馬を走らせる煙がおびただしいものがありました。 これは

  • 足利義満下文(『毛利家文書』12号)

    今回は、室町幕府の三代将軍・足利義満が、毛利元春に与えた下文(くだしぶみ)を読んでみたいと思います。 (毛利元春は南北朝時代~室町時代に活躍した毛利氏の当主で、戦国時代の吉川元春とは別人です) 下文とは、身分が上位の者から、下位の者へ下される文書です。 袖(古

  • 現代語訳『明智軍記』巻第三・下 (1)信長、義昭公を伴い奉り上洛の事、付けたり、三好党退治の事

    こうして織田信長は観音寺城に安座して、国民を撫育する仕置きを命令されました。 そうしたところに、佐々木六角義秀をともなって、蒲生賢秀・氏郷父子が日野谷から参上しました。 そのとき、信長の幼い弟である喜六郎殿・半左衛門殿の両人も、蒲生氏に同道していました。

  • 犬の歴史その2 島津氏と南蛮犬

    今回は、天正十二年(1584)ごろの、島津氏と「南蛮犬」に関する史料を読んでみます。 『上井覚兼日記』は島津氏の家臣・上井覚兼が記した日記で、そこに「南蛮犬」が登場します。   【史料1】『上井覚兼日記』天正十二年十月二十四日条一、廿四日、(中略)、鎮貴より南蛮

  • 犬の歴史その1 島津義弘の鹿喰犬

    今回は、文禄三年(1594)に豊臣秀次が島津義弘の家中に宛てて、犬の進上を命令した史料を読んでみます。  【原文】(文禄三年)十月二日豊臣秀次朱印状(『島津家文書』412号)嶋津兵庫家中、鹿喰犬餘多有之由、被及聞召候、然者、御用候間、逸物之犬可上之候、兵庫事、高麗在番

  • ヘンな史料を読む その8 細川政元邸に妖怪出現す

    今日は、管領・細川政元(1466~1507)の私宅に起こった謎の怪異現象について書かれた史料を読んでみます。  【原文】『蔭凉軒日録』長享二年(1488)七月七日条(前略)太郎右衛門来、宴之、話云、有人云、細川殿私弟南庭水上浮者有之、見之則人之頸也、其色白、近之則不見、遠

  • 小和田哲男先生の思い出

    ◆はじめに 今日は、「小和田哲男先生の思い出」について、語りたいと思います。 小和田先生は、戦国史に関する数多の書籍を執筆されており、また大河ドラマの時代考証なども担当されています。 NHKの歴史番組にも、しばしば出演されてますね。 今回は、にせ茶人の人生に

  • 史料にみる毛利氏の茶 その2 毛利元就、茶で妙玖を弔う

    今日は、毛利元就と茶の湯に関する初見史料を読んでみたいと思います。  【史料1】天文十六年五月二十六日付毛利元就書状(「防長寺社証文」『萩藩閥閲録』4冊―236頁―1号)  尚々御茶湯物たるへく候米一石渡可申候、北土居名年貢之事、来秋渡可申候、可有御心得候、恐々

  • 史料にみる毛利氏の茶 その1 「数寄者」毛利豊元

    今回は、大内政弘(1446~95)の重臣である安富行房から、毛利豊元(1444~76)に宛てて出された書状を読んでみたいと思います。 発給年次は不明ですが、豊元が三十三歳で亡くなったのが文明八年(1476)五月二十八日なので、だいたいそのころまでに書かれたものだと思います。 

  • 【書評】橋本素子『中世の喫茶文化――儀礼の茶から『茶の湯』へ――』(吉川弘文館、2018年)

    ■内容の紹介著者は、通説における抹茶の歴史を、以下のようにまとめています。 ・鎌倉時代:栄西が宋から持ち帰り、禅とともに広まった・南北朝時代:闘茶が流行したが幕府は禁止。室町将軍は会所に唐物を飾り豪華な茶会・戦国時代:珠光が禅の思想を背景に「茶の湯」を生

  • 現代語訳『明智軍記』巻三・上 (3)箕作落城の事、付けたり、佐々木城々開け退く事

    さて、佐々木六角氏を追討するため、信長は諸士を集め、近江の詳しい絵図で軍議を終えると、足利義昭公へ仰せになりました。 「近江の敵を退治するために義昭公が御出馬するには及びません。ですので、しばらくここにおられて、ご報告次第、ご動座なさってください」 その

  • 石田三成と「益田壺」 (『益田家文書』460号)

    『益田家文書』460号所収の「進上道具覚書」を、抜粋して読んでみたいと思います。 これは、毛利氏家臣の益田氏が、毛利氏へ献上した刀・絵・茶道具などを記した史料になります。 益田氏の先祖は、足利義政から茶壺を拝領して、代々これを秘蔵してきました。 桃山時代、こ

  • 歴史エッセイ「是非に及ばず」

    「是非に及ばず!」とは、織田信長が本能寺の変で亡くなったときにつぶやいた、最期の言葉として有名です。 『日本国語大辞典』で「ぜひにおよばず」を調べると、「よしあし、やり方などをあれこれ論議する必要はないとか、もはやそういう段階でない状態をいう。どうしよう

  • 志道広良 その1

    【原文】志道広良言上状(『毛利家文書』593号)此 御書御両通、昨日今朝被下候、御拝見ニ入申候へとハ御意候ハねとも、某か拝見申たるはかりハ無曲候条、進上候、如此之御庭訓ハ誠之金言ニて御座候歟、御家来之事、武具衣装ハ結構ニ見え申候、人々の嗜うすく候歟、 大将を御

  • ヘンな史料を読む その7 武田信玄と不良僧侶

    元亀二年(1571)、武田信玄が甲斐の慈眼寺に出した史料を読んでみたいと思います。 信玄は、六名の家臣を「祈祷奉行」という役職に任命しています。 そして、慈眼寺の僧侶たちがちゃんとお経を読んで、武田氏のために祈祷をするように、7ヶ条にわたる取り決めをしています。

  • ヘンな史料を読む その6 糞尿は遠くへ捨てろ

    天正九年(1581)、北条氏が相模国の浜居場城を守る番衆たちへ出した掟を読んでみたいと思います。 北条氏は、重臣である松田憲秀の代官として、須藤源二郎・村野安芸守・小澤孫七郎の三名を任命しました。 そして彼らが一人ずつ交替で、城代として守りを固める態勢をとった

  • 現代語訳『明智軍記』巻三・上 (2)信長江州発向の事、付けたり、勢ぞろえの事

    こうして、足利義昭が美濃へ移ると、織田信長は拝礼して申し上げました。 「将軍様がこの国へ御動座されたことは、織田家にとって面目の至りであると思います。それなので、急いで軍勢を催して、怨敵の三好一党を誅罸することは、時間を置くべきではありません。ただし、上

  • 現代語訳『明智軍記』巻三・上 (1)義昭公、濃州へお移りの事

    ここに、将軍足利義輝の弟である足利義昭は、織田信長をお頼みになって、逆徒・三好義継を滅ぼし、御本意を遂げようとしている、ということでした。 そもそも足利義輝は、足利尊氏から八代目の末裔であり、将軍になってからは十三代目に当たり、足利義晴の嫡子でした。 弘

  • ヘンな史料を読む その5 糞を巻き散らすな

    今回は、牛馬の糞について書かれた、戦国大名大内氏の壁書(掟書)を読んでみたいと思います。冒頭に「築垣の内に牛馬の糞を巻き散らすな」と書かれています。築垣は築地のことで、つまり土塀を意味します。この史料を作成したと思われる大内氏や、その家臣の館の中に、放し飼

  • ヘンな史料を読む その4 犬を追う者!

    今回は、犬追物に執着するあまり、やや正気を失っている、蜷川親順という人物の書状を読んでみたいと思います。 蜷川氏は、室町幕府の政所代をつとめた家柄です。 その蜷川一族である蜷川親順が、石見国の武士である益田宗兼に宛てた書状です。 書状が書かれた時代背景と

  • 犬鼻ってなんだ? 吉川元長書状(『吉川家文書別集』124号)

    今回は、「犬鼻(けんび)」について書かれた文書を読んでみたいと思います。 『日本国語大辞典』によると、「犬鼻(けんび)」とは、「質の悪い柿」のことであるといいます。 どうやら「芋けんぴ」とは別ものであるようです。 今回読む書状では、吉川元長(吉川元春の息子)が

  • 細川頼之施行状(『毛利家文書』11号)

    今回は、永和三年(1377)七月に管領・細川頼之が出した施行状(しぎょうじょう)を読みたいと思います。 施行状は、上から出された命令を、下に伝達する時に用いられる文書になります。 将軍・足利義満の「毛利元春に吉田庄地頭職を引き渡せ」という命令を、管領・細川頼之が

  • 小早川隆景書状(『毛利家文書』838号)

    今回は、小早川隆景が妙寿寺に宛てた書状を読んでみたいと思います。 『毛利家文書』は天正六年に年次比定していますが、本文中に「元就から八年間、お家を保って来た」という記述があり、また杉重良の謀叛のことが記されているので、正しくは天正七年ではないかと思います

  • 史料にみる犬のウ●コ

    今回は、日本史の史料にみえる、「犬矢(けんし)」=「犬のウ●コ」について、語りたいと思います。下記の史料1~4には、日本の古代から中世における、犬のウ●コについて、記されています。史料には、天皇がお座りになる場所に、犬のウ●コがあったりする、ショッキングな

  • 現代語訳『明智軍記』巻二 (5)北伊勢軍の事、付けたり、神戸納得ならびに長野が事

    美濃国の斎藤氏の残党たちは、信州木曽を越えて、武田信玄を頼みとする者がおり、また伊勢へ行き、北郡の侍大将を頼りとして、織田家に対して逆らって、怨念を抱きました。 信長はこのことをお聞きになって、それならば北伊勢を退治すべしと言って、滝川一益を大将として永

  • 現代語訳『明智軍記』巻二 (4)織田殿より明智を招かるる事

    明智光秀は、越前において、朝倉義景に仕えていましたが、永禄八年(1565)の冬ごろから、義景の側近から疎まれるようになりました。 その理由は、鞍谷嗣知の讒言によるものでした。 この嗣知は、足利義満の次男・足利義嗣の四代のちの末裔である嗣俊の孫である嗣時の息子で

  • 現代語訳『明智軍記』巻二 (3) 信長、妹を浅井へ嫁がせらるる事、付けたり、斎藤竜興落去の事

    さて、美濃は過半が織田信長に従いましたが、なお斎藤龍興は井之口城(稲葉山城)にあって退去しないので、どうやって討ち滅ぼすか、信長は軍議を開きました。 丹羽長秀は、「近江の六角氏と友好関係を結べば、御威光もよろしく、敵国からは次第に帰服してくる者も多く出るで

  • 現代語訳『明智軍記』巻二 (2)秀吉立身の事

    永禄四年(1561)四月中旬に、信長は弟・信包をはじめとして、六千五百の精兵を引き連れ、初めて西美濃へ出陣し、敵地の形勢を巡見しました。 そのころ、美濃岐阜城に、藤原利仁将軍(注・平安時代の軍事貴族)の末裔である斎藤義龍の息子・龍興という勇将が、所々に砦を構え、

  • 【海戦】毛利氏VS大友氏

    【史料①】小早川隆景・吉川元春連署願文(「住吉神社文書」、『大日本史料』永禄11年8月9日条)敬白今度之弓箭於任存分者、於両国之間、参拾貫文之地可奉寄進者也、仍願書如件、   永禄十一年   吉川駿河守      八月九日     元春(花押)         

  • 戦国女性の手紙を読む その5 毛利隆元夫人(『毛利家文書』1319号)

    【原文】毛利隆元夫人消息(『毛利家文書』1319号)たかはるニておほせきかせられ候御事、いち〳〵こゝろゑまいらせ候、いせんも五りう御かもしさまへも申まいらせ候ことく、われ〳〵かやうに候ていまいらせ候するほとニてハ、てるもとなひ〳〵のこゝろもちの事ハ、かいふんわ

  • 戦国女性の手紙を読む その4 毛利隆元夫人・小侍従

    【原文】毛利隆元夫人消息(『毛利家文書』1318号)  返々、そのうへニても、なを〳〵御おんミつの御事ともニて候ハゝ、ちきにもうけ給候するや、何となりとも、御申のまゝたるへく候、又々かしく、 又御ともしさまへ何もうかゝひまいらせ候御事御いり候するときハ、ひらさ

  • 今川了俊〈貞世〉挙状写(『毛利家文書』10号)

    【原文】今川了俊〈貞世〉挙状写(『毛利家文書』10号)毛利右馬頭元春申本領安堵事、可被経御沙汰候哉、於鎮西、自最前随分致忠節候之間、如此執申候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、永和二  六月九日      沙弥了俊 御判進上 武蔵守殿 【読み下し】毛利右馬頭元

  • 今川了俊〈貞世〉自筆書状(『毛利家文書』9号)

    【年表】・応安4年(1371)12月19日 毛利元春、今川了俊とともに九州に渡海・応安5年(1372)2月10日 麻生山合戦・応安5年(1372)8月 大内弘世、今川了俊と意見が合わず、九州から帰国・応安6年(1373)7月 菊池武政が肥前本折城を攻める。毛利元春、本折城に兵粮を入れる・応安

  • 室町将軍家〈足利義満〉御教書(『毛利家文書』8号)

    【原文】室町将軍家〈足利義満〉御教書(『毛利家文書』8号)於九州所々致忠節之上、去月十二日渡筑後河、抽戦功之由、今河伊與入道了俊所注申也、尤神妙、向後弥可致軍功之状、依仰執達如件、   応安七年十二月廿四日   武蔵守(花押)    毛利右馬頭殿  【読み下し

  • 鳥取城の戦い 吉川経安置文写(『石見吉川家文書』103号)

    【原文】吉川経安置文写(『石見吉川家文書』103号)爰ニ 義昭将軍為織田上総介信長御退治、備後国鞆の浦に被成御動座、毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り、幷小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子、その権威をとつて都鄙鉾楯におよふ事数十年也、 然処、因幡国之守護山

  • ヘンな史料を読む その1 毛利輝元法度案

    【原文】毛利輝元法度案(『毛利家文書』1468号)一、かふきひと手なる行規之事、    付、悪人徒党仕、下知をもかろしめ、諸人をあなとり、無筋武篇達過言之事、一、若衆知音停止之事、    付、もしかくし候て知音候ハゝ、聞立、双方同罪に可申付事、    付、従此

  • 戦国女性の手紙を読む その3 毛利隆元夫人

    【原文】毛利隆元夫人消息(『吉川家文書』1216号)返〳〵、うちつゝきかやうに御しんらうおハしまし候御事、何ともとかく申はかり候ハす候、てるもともこのたひの御事ハ、せひとも御かた〳〵さま御とうせんにしもまていてまいらせ候ハてハとの事ニて候、いつれも下くちの御事

  • 大友宗麟×雪の絵×島井宗室

    【原文】大友宗麟書状(「島井文書」5号、『福岡県史 近世史料編 福岡藩町方(一)』)  尚々、彼一幅相調候やうニ才覚専一候、巨細池辺宗元可申候、為音信段子一端到来、喜悦候、殊旧冬者種々無心之儀共申候処、銘々調給候、是又満足候、必当春上待入候、然者宗柏所持候雪絵

  • 戦国女性の手紙を読む その2 豊臣秀吉夫人おね

    【原文】高台院〈豊臣秀吉夫人〉消息(『伊達家文書』661号)御のほりめてたく思ひまいらせ候、大坂の御事ハなにとも申候ハんすることの葉も御入候ハぬ事にて候、まつ〳〵申候ハんとて、いつも〳〵御ねん比の御事にて御入候へとも、ほとゝをくおハしまし候へハ、文にて御うれし

  • 今川了俊預ヶ状(『毛利家文書』7号)

    【原文】今川了俊預ヶ状(『毛利家文書』7号)□□□□同国□□庄領家半済、〈□□(毛)利大膳権□□□(大夫知)行分〉、幷□立庄領家半□(済)事、為所□□(々兵)粮料所之替、□(任)先例、可致其□□(沙汰)之状如件、    応安七年八月五日   沙弥(花押)    毛利右馬頭

  • 戦国女性の手紙を読む その1 毛利隆元夫人消息

    【原文】毛利隆元夫人消息(『毛利家文書』1326号)さても〳〵ちいさまの事、御としよりとハ申なから、かやうにふとの事とハおもひまいらせ候ハぬニ、ふしきに御かくれ候て、中〳〵ちからおとし、申もおろかニて候、をなし御事に、さそ〳〵と、御しん中おしハかりまいらせ候、

  • 毛利元就の手紙を読む その15 起請文

    【原文】毛利元就起請文(『大日本史料』永正十年三月十九日)御契約申条々事、一、於以後、無相違、長久得御扶持、奉公可申事、一、如此申合候上者、御方我等御間之儀付而、万一人何かと申子細候者、如仰、直ニ御尋あり、又たつね申、互にきやくしん申間敷事、一、於当御洞、

  • 毛利輝元×芋頭水指×諸役免除

    今回読んでみる4点の史料は、毛利輝元が後藤弥左衛門尉という細工職人から、茶器「芋頭水指」を献上された褒美として、諸役負担を免除した史料になります。いずれも『萩藩閥閲録』所収の文書です。  【史料1】毛利輝元書状後藤弥左衛門尉所持候水指芋頭之儀、差上之候、喜

  • 毛利元就の手紙を読む その13 志道広良書状

    【原文】志道広良書状(『毛利家文書』249号)彼連署、加判相調候而進之候、多治比へ可有持参候、来月十日吉日之由候、目出度候、其内可参候間、以御見参承へく候、毎事昨日申候之条、一筆申候、恐々謹言、    七月廿七日  広良(花押) (端裏捻封ウハ書)「       

  • 毛利元就の手紙を読む その13

    【原文】福原広俊外十四名連署状(『毛利家文書』248号)(折封ウハ書)「              連署 多治比御城         広俊     人々御中         」 幸松殿様御早世ニ付而、早御家被及断絶候之条、元就可有御存知之旨、各申候之処、御同心、

  • 毛利元就の手紙を読む その12

    【原文】満願寺栄秀・平佐元賢連署状(『毛利家文書』247号)(端裏ウハ書)「               満願寺                美作守国司右京亮殿井上与三右衛門尉殿 まいる御宿所  栄秀 」 元就郡山御登城吉日之事、御方様御意ニ付而、委敷見申候、

  • 黒田忠之×神屋宗湛×名物狩り

    【原文】寛永元年六月二十三日付黒田忠之書状写(東京大学史料編纂所所蔵「神屋文書」謄写本) 就其方所持之茶入、召上、於那珂郡住吉村之内、五百石之地、宛行畢、可令領知、幷黄金千両差遣候、右者道卜居士任遺言、如此候、然者、茶入無異儀差上、令祝着、為褒美黄金千両・

  • 毛利元就の手紙を読む その11 毛利元就郡山入城日記

    毛利元就の手紙を読む その11 毛利元就郡山入城日記  【原文】毛利元就郡山入城日記(『毛利家文書』246号)大永三年  日記一、七月十九日、渡辺長門守、井上河内守自身来候、志道上野介方使国司右京亮、井上与三右衛門尉来候而、家督可存之様、頻ニ申候、多治比之被官

  • 現代語訳『明智軍記』巻二 (1)織田信長公由来の事、付けたり、尾州平均の事

    現代語訳『明智軍記』巻二 (1)織田信長公由来の事、付けたり、尾州平均の事 そもそも尾張の太守であった織田信長の始祖をおおよそ述べます。 先祖の織田常勝は、越前国織田社の神主・織田常昌の子供でしたが、延元(1336~40)のころ、足利高経の近習として従って、のちに

  • 「出立」 『宗長日記』を読む その1

    ■出立【原文】島津忠夫校注『宗長日記』7頁(岩波文庫) 大永二年五月、北地の旅行、越前の国の知人に付て、かへる山をばしらねども、宇津の山をこえ、さ夜の(中)山にいたりて、 このたびはまたこゆべしとおもふとも老のさかなりさ夜の中山 【現代語訳】大永二年(1522)五月

  • 今川了俊〈貞世〉預ヶ状(『毛利家文書』7号)

    【原文】今川了俊〈貞世〉預ヶ状(『毛利家文書』7号)□□□□同国□□庄領家半済、〈□□(毛)利大膳権□□□(大夫知)行分〉、幷□立庄領家半□(済)事、為所□□(々兵)粮料所之替、□(任)先例、可致其□□(沙汰)之状如件、    応安七年八月五日   沙弥(花押)    毛

  • 現代語訳『明智軍記』巻一 (6)「足利将軍家長物語の事」

    現代語訳『明智軍記』巻一 (6)「足利将軍家長物語の事」 さて、明智光秀は十日ほど、加賀国の山代の温泉に入ったので、小瘡(小さなできもの)はすべて良くなりました。 温泉に逗留中に、敷地の天神、山中の薬師、那多の観音に参詣しました。 その時、称念寺園阿のところ

  • 現代語訳『明智軍記』巻一 (5)「北海舟路事付根挙松事」

    現代語訳『明智軍記』巻一 (5)「北海舟路事付根挙松事」 永禄八年(1565)五月上旬、明智光秀は小瘡(小さなできもの)を患ったので、朝倉義景に暇乞いをし、加賀国山代の温泉へ湯治に行きました。 良いついでであると言って、長崎の称念寺の園阿上人も光秀と同道しました。

  • 現代語訳『明智軍記』巻一 (4)「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」

    現代語訳『明智軍記』巻一 (4)「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」朝倉義景の父親・弾正左衛門孝景の十七回忌に当たるので、義景は永禄七年(1564)三月二十二日の明け方に一乗谷をお出かけになり、吉祥山永平寺に参詣しました。 諸閣を巡ったあと、義景は永平寺の開基につい

  • 現代語訳『明智軍記』巻一 (3)「明智光秀鉄砲誉事付諸国勘合事」

    現代語訳『明智軍記』巻一 (3)「明智光秀鉄砲誉事付諸国勘合事」こうして、朝倉義景は日を追って威勢が盛んになったので、加賀は言うまでもなく、能登・越中までもその命令に応じるようになりました。 さてまた、若狭の武田大膳大夫義統も縁者なので、朝倉家の幕下に属し

  • 現代語訳『明智軍記』巻一 (2)「従越前鎮加州之一揆事」

    現代語訳『明智軍記』巻一 (2)「従越前鎮加州之一揆事」やがて永禄五年(1562)の秋、加賀の郷民たちが一揆を起こし、越前の屋形・朝倉左衛門督義景の命令に背く事がありました。 加賀・能登・越中は先年から一揆が蜂起し、一向宗の本寺である摂津大坂の本願寺に従って、政

  • 現代語訳『明智軍記』巻一 (1)「美濃国守護事付明智入道宗宿事」

    現代語訳『明智軍記』巻一(1)「美濃国守護事付明智入道宗宿事」よくよく和漢の伝記について考えて、国家の治乱や人身の存亡を調べてみると、ただこれは人の心は善悪の道から分かれて、ついには盛衰・吉凶が決まるのです。 善いことをする人には、天はこれに福をもって報い

  • 毛利元就の手紙を読む その10

    【原文】毛利元就自筆覚書(『毛利家文書』412号)    覚一、談合等、余所へ之使者なとに、向後者、隆元おし立可被申聞事、   付、元就助言之事、   付、先内談之事、一、余所へ之状、日夜共、隆元認させらるへき事、一、隆元直可被申付事を、誰々も更異儀ゑゆひ候ま

  • 毛利元就の手紙を読む その9

    【原文】毛利元就自筆書状(『毛利家文書』411号)旧冬佐東表書立、同我等存分之通、条々申候、巻物返給候、請取申候、理たて共申候事、近比口惜こそ候へ、さりなから、何之中ニても、物之ことハりと申事ハすミ候ハてハ不叶物にて候、それこそほんニて候まゝ、申事候〳〵、其上

  • 足利義詮御教書(『毛利家文書』5号)/足利義詮安堵御教書(『毛利家文書』6号)

    【原文】足利義詮御教書(『毛利家文書』5号)参御方、可抽軍忠之状如件、    貞治五年九月二日    (花押)     毛利右馬頭殿 【読み下し】御方に参り、軍忠を抽んずべきの状件の如し、    貞治五年九月二日    (花押)毛利右馬頭殿 【現代語訳】味方に参

  • 毛利貞親自筆譲状(『毛利家文書』4号)

    【原文】毛利貞親自筆譲状(『毛利家文書』4号)譲与、安芸国吉田郷者、自祖父寂佛之手、亡母〈亀谷局〉譲与、文永之譲状、同副状等在之、仍貞親ニ所譲給也、然者、先吉田郷計ヲ師親ニ譲給者也、不可有他妨、有限年貢等可令進済、仍譲状如件、    建武三年正月晦日    

  • 毛利時親譲状写(『毛利家文書』3号)

    【原文】毛利時親譲状写(『毛利家文書』3号)譲与 安芸国吉田庄〈吉田・麻原〉両郷地頭職事右地頭職者、為時親重代相伝所領之間、所譲与孫子毛利孫太郎親茂也、不可有他妨、祇園一切経会、関東御公事等、無懈怠可令勤仕之、仍譲状如件、   元徳二年三月五日       

  • 毛利寂佛〈経光〉譲状写(『毛利家文書』2号)

    【原文】毛利寂佛〈経光〉譲状写(『毛利家文書』2号)        沙弥 在判ゆつりわたす所りやうの事、あきの国よしたの庄、ゑちこのくにさハしのしやう南条の地とふしき等ハ、寂佛さうてんの所りやう也、しかるを四郎時親ニゆつりわたす所也、この状ニまかせて、永代ち

  • 鎌倉将軍家政所下文(『毛利家文書』1号)

    【原文】鎌倉将軍家政所下文(『毛利家文書』1号)将軍家政所下 周防国安田保住人  補任下司職事   藤原為資右人、補任彼職之状、所仰如件、住人宜承知、勿違失、以下、     建久四年四月十六日    案主清原(花押)令大蔵丞藤原(花押)    知家事中原(花押)別

  • 毛利元就の手紙を読む その8

    今回読むのは、弘治三年(1557)に、毛利元就から息子の隆元へ宛てて書かれた書状になります(『毛利家文書』410号)。 やはりプライベートな内容の書状は、現代語訳がしにくく、文意が取りにくいと痛感しています。 元就が隆元に出した書状について、「赤川元保が元就を嫌って

  • 毛利元就の手紙を読む その7

    今回読んでみる毛利元就の手紙は、弘治三年(1557)、元就が61歳の時に、息子・隆元に宛てて書かれたものです。 「桂元忠・児玉就忠に奉行衆並みの土地を与えたい」という隆元からの相談に対して、「二人だけを取り立てれば、他の者たちが不満に思うので、そのままにしておけ

  • 毛利元就の手紙を読む その6

    前回の「毛利元就の手紙を読む その5」では、元就の三人の息子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)が元就に対して出した書状を取り上げました。 今回は、三人の書状を受け取った元就が出した、三人への返事を取り上げます。 発給年次は弘治三年(1557)に比定されています。

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