永禄四年(1561)四月中旬に、信長は弟・信包をはじめとして、六千五百の精兵を引き連れ、初めて西美濃へ出陣し、敵地の形勢を巡見しました。 そのころ、美濃岐阜城に、藤原利仁将軍(注・平安時代の軍事貴族)の末裔である斎藤義龍の息子・龍興という勇将が、所々に砦を構え、
【史料①】小早川隆景・吉川元春連署願文(「住吉神社文書」、『大日本史料』永禄11年8月9日条)敬白今度之弓箭於任存分者、於両国之間、参拾貫文之地可奉寄進者也、仍願書如件、 永禄十一年 吉川駿河守 八月九日 元春(花押)
戦国女性の手紙を読む その5 毛利隆元夫人(『毛利家文書』1319号)
【原文】毛利隆元夫人消息(『毛利家文書』1319号)たかはるニておほせきかせられ候御事、いち〳〵こゝろゑまいらせ候、いせんも五りう御かもしさまへも申まいらせ候ことく、われ〳〵かやうに候ていまいらせ候するほとニてハ、てるもとなひ〳〵のこゝろもちの事ハ、かいふんわ
【原文】毛利隆元夫人消息(『毛利家文書』1318号) 返々、そのうへニても、なを〳〵御おんミつの御事ともニて候ハゝ、ちきにもうけ給候するや、何となりとも、御申のまゝたるへく候、又々かしく、 又御ともしさまへ何もうかゝひまいらせ候御事御いり候するときハ、ひらさ
【原文】今川了俊〈貞世〉挙状写(『毛利家文書』10号)毛利右馬頭元春申本領安堵事、可被経御沙汰候哉、於鎮西、自最前随分致忠節候之間、如此執申候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、永和二 六月九日 沙弥了俊 御判進上 武蔵守殿 【読み下し】毛利右馬頭元
【年表】・応安4年(1371)12月19日 毛利元春、今川了俊とともに九州に渡海・応安5年(1372)2月10日 麻生山合戦・応安5年(1372)8月 大内弘世、今川了俊と意見が合わず、九州から帰国・応安6年(1373)7月 菊池武政が肥前本折城を攻める。毛利元春、本折城に兵粮を入れる・応安
【原文】室町将軍家〈足利義満〉御教書(『毛利家文書』8号)於九州所々致忠節之上、去月十二日渡筑後河、抽戦功之由、今河伊與入道了俊所注申也、尤神妙、向後弥可致軍功之状、依仰執達如件、 応安七年十二月廿四日 武蔵守(花押) 毛利右馬頭殿 【読み下し
【原文】吉川経安置文写(『石見吉川家文書』103号)爰ニ 義昭将軍為織田上総介信長御退治、備後国鞆の浦に被成御動座、毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り、幷小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子、その権威をとつて都鄙鉾楯におよふ事数十年也、 然処、因幡国之守護山
【原文】毛利輝元法度案(『毛利家文書』1468号)一、かふきひと手なる行規之事、 付、悪人徒党仕、下知をもかろしめ、諸人をあなとり、無筋武篇達過言之事、一、若衆知音停止之事、 付、もしかくし候て知音候ハゝ、聞立、双方同罪に可申付事、 付、従此
【原文】毛利隆元夫人消息(『吉川家文書』1216号)返〳〵、うちつゝきかやうに御しんらうおハしまし候御事、何ともとかく申はかり候ハす候、てるもともこのたひの御事ハ、せひとも御かた〳〵さま御とうせんにしもまていてまいらせ候ハてハとの事ニて候、いつれも下くちの御事
【原文】大友宗麟書状(「島井文書」5号、『福岡県史 近世史料編 福岡藩町方(一)』) 尚々、彼一幅相調候やうニ才覚専一候、巨細池辺宗元可申候、為音信段子一端到来、喜悦候、殊旧冬者種々無心之儀共申候処、銘々調給候、是又満足候、必当春上待入候、然者宗柏所持候雪絵
【原文】高台院〈豊臣秀吉夫人〉消息(『伊達家文書』661号)御のほりめてたく思ひまいらせ候、大坂の御事ハなにとも申候ハんすることの葉も御入候ハぬ事にて候、まつ〳〵申候ハんとて、いつも〳〵御ねん比の御事にて御入候へとも、ほとゝをくおハしまし候へハ、文にて御うれし
【原文】今川了俊預ヶ状(『毛利家文書』7号)□□□□同国□□庄領家半済、〈□□(毛)利大膳権□□□(大夫知)行分〉、幷□立庄領家半□(済)事、為所□□(々兵)粮料所之替、□(任)先例、可致其□□(沙汰)之状如件、 応安七年八月五日 沙弥(花押) 毛利右馬頭
【原文】毛利隆元夫人消息(『毛利家文書』1326号)さても〳〵ちいさまの事、御としよりとハ申なから、かやうにふとの事とハおもひまいらせ候ハぬニ、ふしきに御かくれ候て、中〳〵ちからおとし、申もおろかニて候、をなし御事に、さそ〳〵と、御しん中おしハかりまいらせ候、
【原文】毛利元就起請文(『大日本史料』永正十年三月十九日)御契約申条々事、一、於以後、無相違、長久得御扶持、奉公可申事、一、如此申合候上者、御方我等御間之儀付而、万一人何かと申子細候者、如仰、直ニ御尋あり、又たつね申、互にきやくしん申間敷事、一、於当御洞、
今回読んでみる4点の史料は、毛利輝元が後藤弥左衛門尉という細工職人から、茶器「芋頭水指」を献上された褒美として、諸役負担を免除した史料になります。いずれも『萩藩閥閲録』所収の文書です。 【史料1】毛利輝元書状後藤弥左衛門尉所持候水指芋頭之儀、差上之候、喜
【原文】志道広良書状(『毛利家文書』249号)彼連署、加判相調候而進之候、多治比へ可有持参候、来月十日吉日之由候、目出度候、其内可参候間、以御見参承へく候、毎事昨日申候之条、一筆申候、恐々謹言、 七月廿七日 広良(花押) (端裏捻封ウハ書)「
【原文】福原広俊外十四名連署状(『毛利家文書』248号)(折封ウハ書)「 連署 多治比御城 広俊 人々御中 」 幸松殿様御早世ニ付而、早御家被及断絶候之条、元就可有御存知之旨、各申候之処、御同心、
【原文】満願寺栄秀・平佐元賢連署状(『毛利家文書』247号)(端裏ウハ書)「 満願寺 美作守国司右京亮殿井上与三右衛門尉殿 まいる御宿所 栄秀 」 元就郡山御登城吉日之事、御方様御意ニ付而、委敷見申候、
【原文】寛永元年六月二十三日付黒田忠之書状写(東京大学史料編纂所所蔵「神屋文書」謄写本) 就其方所持之茶入、召上、於那珂郡住吉村之内、五百石之地、宛行畢、可令領知、幷黄金千両差遣候、右者道卜居士任遺言、如此候、然者、茶入無異儀差上、令祝着、為褒美黄金千両・
毛利元就の手紙を読む その11 毛利元就郡山入城日記 【原文】毛利元就郡山入城日記(『毛利家文書』246号)大永三年 日記一、七月十九日、渡辺長門守、井上河内守自身来候、志道上野介方使国司右京亮、井上与三右衛門尉来候而、家督可存之様、頻ニ申候、多治比之被官
現代語訳『明智軍記』巻二 (1)織田信長公由来の事、付けたり、尾州平均の事
現代語訳『明智軍記』巻二 (1)織田信長公由来の事、付けたり、尾州平均の事 そもそも尾張の太守であった織田信長の始祖をおおよそ述べます。 先祖の織田常勝は、越前国織田社の神主・織田常昌の子供でしたが、延元(1336~40)のころ、足利高経の近習として従って、のちに
■出立【原文】島津忠夫校注『宗長日記』7頁(岩波文庫) 大永二年五月、北地の旅行、越前の国の知人に付て、かへる山をばしらねども、宇津の山をこえ、さ夜の(中)山にいたりて、 このたびはまたこゆべしとおもふとも老のさかなりさ夜の中山 【現代語訳】大永二年(1522)五月
【原文】今川了俊〈貞世〉預ヶ状(『毛利家文書』7号)□□□□同国□□庄領家半済、〈□□(毛)利大膳権□□□(大夫知)行分〉、幷□立庄領家半□(済)事、為所□□(々兵)粮料所之替、□(任)先例、可致其□□(沙汰)之状如件、 応安七年八月五日 沙弥(花押) 毛
現代語訳『明智軍記』巻一 (6)「足利将軍家長物語の事」 さて、明智光秀は十日ほど、加賀国の山代の温泉に入ったので、小瘡(小さなできもの)はすべて良くなりました。 温泉に逗留中に、敷地の天神、山中の薬師、那多の観音に参詣しました。 その時、称念寺園阿のところ
現代語訳『明智軍記』巻一 (5)「北海舟路事付根挙松事」 永禄八年(1565)五月上旬、明智光秀は小瘡(小さなできもの)を患ったので、朝倉義景に暇乞いをし、加賀国山代の温泉へ湯治に行きました。 良いついでであると言って、長崎の称念寺の園阿上人も光秀と同道しました。
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