桜が散り我が家の庭もあわただしくなってきました。次々に咲きだす花を追っかけるように眺めています。待ち人が来るような楽しさです。花が一斉に咲きだすと今年も出会えた嬉しさで気持ちも弾んでゆきます。花の力は遠いどこからか私に運んでくれる今日の命のありか知らせてくれているようです。私の四季
10月の花10月も終わりになりました。空気が澄んで涼やかになると花々の色が濃くなり鮮やかに咲いています。朝顔の「天上の碧」、「夕顔」、「ダリア」も秋を満喫させてくれます。夏は朝と夜しか開花を見られなかった酔蝶花も色が鮮やかです。夕顔も夕方から見られ楽しませてくれます。夕顔の種もみっしりと出来上ました。ご覧ください。「私の四季」アサガオ「天上の碧」が見事に咲きました。
高安ミツ子あの猛暑はどこへ行ったのかと思えわれるくらい涼しくなりました。我が家の花も秋風によって少しずつ風景が変わりつつあります。中秋の名月には庭に咲く花を飾り名月を眺めました。日常の中で花たちが作る穏やかな時間とは実に心豊かになるものです。今は夕顔祭りです。今年は,撒いた種からたくさん夕顔が育ち近所の方々に苗を分けて差し上げましたがそれでもたくさん残り紫陽花や「ナニワイバラ」の近くにも植えましたところ育ちがよく蔓を伸ばし其々に絡まり庭のあちこちに純白で咲きだしました。紫陽花や「ナニワイバラ」にはすまない気持ちですが1日合計すると50個ぐらい咲いております。夏のころは夜半しか見えないのですが涼やかになると夕暮れ前から咲きだします。まさしく夕顔祭りです。夜半になると咲いた夕顔に敬意を表して一つ一つ数えて眺め...私の四季「夕顔が咲きました」
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桜が散り我が家の庭もあわただしくなってきました。次々に咲きだす花を追っかけるように眺めています。待ち人が来るような楽しさです。花が一斉に咲きだすと今年も出会えた嬉しさで気持ちも弾んでゆきます。花の力は遠いどこからか私に運んでくれる今日の命のありか知らせてくれているようです。私の四季
この暖かさで木瓜の花が満開です。ご覧ください。私の四季木瓜が満開です
春が手招きして木瓜(ぼけ)の花が咲きだしました。ミモザが終わり、そして木瓜が咲きだすと本当に春が手招きしているように思われ、庭に出ることが楽しくなります。木瓜は果実が瓜に似ているから木になる瓜として木瓜といわれているようですが、実際はバラ科だそうです。我が家の木瓜は義母が盆栽として愛でていたものです。義母が盆栽をすることができなくなってからを庭に植えました。もう25年ぐらいになりますが今年もたくさんの花をつけてくれました。種類は「日月星」と「東洋錦」です。一輪の枝に複数の花色で咲くのです。「日月星」は赤、白、白に赤の絞り「東洋錦」は赤、白、ピンクと咲き、まさに春にさきがけ、マジックにかけられたような鮮やかさです。「これだけは残してほしい」といった義母の気持ちがわかる思いで眺めています。義母の年齢と私の年齢...私の四季木瓜が咲いて
高安ミツ子冬の寒さにむずかっていた光にくすぐられたように紅梅の蕾は2月の風に咲き始めました余った寒さを余白にして蜜を求めるメジロのうぐいす色の翼と紅梅は春の訪れの近さを私に知らせてくれました今日の紅梅は幼子がふふふふと笑ったように青空いっぱい満開に咲いています鮮やかな紅梅のまぶしさに義姉がみまかりもう1か月が過ぎたことが蘇り消えることの重さを感じながら気配を捜すように散っていく花弁を見つめています幼いころ生母を失い姉が抑えていた悲しみが紅梅の花びらにあてどなく見え隠れているようにも思えますが義姉の命の終わりを明るく頑張った人生であったと讃えているようにも思えるのです別れの寂しさがその姿が思い出されます義姉のすべてを分かっていたわけではないけれどもう聞くことはできない義姉の声が浅春を巡っています浅春の日差し...浅春
2月は一番寒い季節のはずですが気候が安定していません。冬の寒さが安定しないと植物や農作物にも影響するのではないかと案じています。。春といえば桜が一番です。桜も寒い日々を越してこそ美しい花が咲くと聞いたことがあります。今年の桜の開花の塩梅が今から案じられます。それでも春を待つこの心境もなかなか楽しいものだと思えます。庭に出た春一番のフキノトウを2回ほどてんぷらにして食しました。それは、それは口中が春の香にあふれ、苦みはさらにうまさを増し一足早い春の絶品を味わいました。おいしさの押し売りになってしまいましたが、平和であるからこそ過ごせる贅沢な日常に感謝したい思いがますばかりです。2月下旬に咲いている我が家の花です。ご覧ください。2月下旬の花私の四季
2月に入り雪だよりも届く寒い日を迎えています。北陸の地震の様子を聞くたびにこの寒さを乗り越えるには身体も精神も並大抵のことではないでしょう。月並みな言葉しか見つかりませんが一日も早い復興を願うのみです。そして、日常をつつがなく過ごせる有難さを感じる2月を過ごしています。冬枯れの庭でも春を待つ花々の気配が感じられ、78回目の春を待っています。人生100年とお祭り騒ぎの掛け声がきこえてきますが、誰しも生きられることでもありません。それでも春を迎えようとする気持ちには何かに期待したい思いに駆られてきます。春待ち時に味わう思いかもしれません。いま椿が咲き水仙が咲き紅梅が咲きだし、そしてミモザが間もなく咲きだすでしょう。春を待ちながら草花の世話をしていると庭の花々は私を待っているような思いに駆られてきます。営みの中...私の四季
2024年1月11日(木)明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。元旦から石川県に起きた大地震には驚かされました。石川県の地形のなせる被害状況を知るたびに胸が痛くなります。早い復興と被災者の皆様の日常が戻られることをそして、心の安寧を願うばかりです。これからの寒さをどう乗り切ればよいか案じられます。輪島の朝市の街が延焼してしまった悲しい知らせを映像で見ました。天災の被害による人間の悲しみを言葉で拭うことはできないかもしれませんが輪島の旅を楽しませていただいた御礼に、その時書いた詩作品を掲載したいと思います。高安ミツ子時の嵐に壊されることなくその歳月を共に語れる喜びを二組の夫婦は老いる思いを後ろに回し旅の風に愛おしさを結びながら粉雪が舞う北陸の街に下りました雪に包まれた町も山も海も静...北陸の街
高安ミツ子ダリアが咲き冬コスモスが咲きだした十一月八日こむぎは旅立ちました十九歳と十か月でしたこむぎは生後一か月で捨てられ拾い主の次男が我が家につれてきたのですタオルを持ってきて引っ張りっこ投げたボールを拾ってくわえ家の中を走り回りいつも遊んでほしいかわいい子犬でした私たちはこむぎに振り回されながらも愛おしさが積もっていきました自分の居場所を家中に作りマッサージチェアーに仏壇の前の布団に応接間の椅子の上にとろりとろりと居眠りしながら得意な鼻と耳で我が家の歴史を味わっているようでしたしかし眠っていても来客がインターホンを押す前にすばやく吠えるのです家を守るのは僕だからと言わんばかりです人の言葉がわかるようになり私がこむぎを抱いて庭の花を見せながら話しかけると分かっているよと目を何回もしばたかせるのですこむぎ...「さよならこむぎ」
高安ミツ子冬の朝日は家並を照らし太古から続くイチョウを金色にして大樹の記憶を蘇らせながら昇ってきました慈しみの光の中で私の意識は飛び交い生きる喜びを手繰り寄せようとしています窓ガラスが温まるころになると意識のままに体は動いてくれません体は後姿を見せたまま坂道を降りていきます意識と体が離れていく気配には夭折画家が描いたような激しい哀しさではないけれどむなしさが線描画になって沈んでゆくのです過ぎた時間をいっぱい膨らませて今日の時間を図ろうとすると紙風船が舞い上がりますひいふうみいよお懐かしさがこぼれてきます二人だけになった庭に山茶花が咲きななやあこことおおやおや紙風船が連れてきたのか翼に白の紋付きを付けたおしゃれなジョウビタキが庭を歩いては小枝に停まり時と風と光に輝いています子供のころの遊びの終わりはいつも「...「また明日」
10月の花10月も終わりになりました。空気が澄んで涼やかになると花々の色が濃くなり鮮やかに咲いています。朝顔の「天上の碧」、「夕顔」、「ダリア」も秋を満喫させてくれます。夏は朝と夜しか開花を見られなかった酔蝶花も色が鮮やかです。夕顔も夕方から見られ楽しませてくれます。夕顔の種もみっしりと出来上ました。ご覧ください。「私の四季」アサガオ「天上の碧」が見事に咲きました。
高安ミツ子あの猛暑はどこへ行ったのかと思えわれるくらい涼しくなりました。我が家の花も秋風によって少しずつ風景が変わりつつあります。中秋の名月には庭に咲く花を飾り名月を眺めました。日常の中で花たちが作る穏やかな時間とは実に心豊かになるものです。今は夕顔祭りです。今年は,撒いた種からたくさん夕顔が育ち近所の方々に苗を分けて差し上げましたがそれでもたくさん残り紫陽花や「ナニワイバラ」の近くにも植えましたところ育ちがよく蔓を伸ばし其々に絡まり庭のあちこちに純白で咲きだしました。紫陽花や「ナニワイバラ」にはすまない気持ちですが1日合計すると50個ぐらい咲いております。夏のころは夜半しか見えないのですが涼やかになると夕暮れ前から咲きだします。まさしく夕顔祭りです。夜半になると咲いた夕顔に敬意を表して一つ一つ数えて眺め...私の四季「夕顔が咲きました」
高安ミツ子異常気象が続いた八月が終わりました。日本の季節が変わってしまうのではないかと危惧するくらいの猛暑は続き、体調も疲労感が増すばかりでした。それにつけても、猛暑と同様に社会の動きが暑苦しく感じます。ウクライナの戦争は続き、テレビの情報は稚拙で品位がなく、CMは人の欲望を煽っているように思えてなりません。欲望の追及は人に幸福感をもたらせるものなのかと問うてみたくなるのは私の年齢からくる所以でしょうか。変わりゆく時代の中で私の八月を記してみたいと思います。我が家の八月は猛暑と愛犬「こむぎ」の介護と草花の水かけの日々そして私がインフルエンザにかかったことでした。愛犬「こむぎ」は一九歳と八か月が過ぎ、何とか頑張っています。今は歩くこともままならずおむつを付けた状態です。横になったまま足をバタバタさせたとき、...随筆「8月の思い」
。猛暑の中、花の葉がやけどをするくらいの日々が続いています。それでも少しずつ変化を見せながら庭の花たちが咲いています。「夕顔」も暑い日のため蕾を持っても咲ききれず散ってしまうものが多くありますが夜半になると純白の美しさを見せてくれます。ただ闇に咲いていますのでライトで照らさなければ見られません。その香りの良さは猛暑を忘れさせてくれます。涼風が吹くようになると夕方から見られ、今日はいくつ咲いたか幼児のように数えながら楽しんでいます。万葉植物の「檜扇」「南蛮ギセル」は強いから生き残ってきたのでしょうか。元気に咲いています。ちなみに「南蛮ギセル」は万葉のころは「思い草」といったようですが南蛮人が吸っているキセルに花の形が似ていることから名前が「南蛮ギセル」に変わったようです。個人的には「思い草」のほうがよいと思...「私の四季」8月最後の花が咲いています
高安ミツ子烏瓜の花を捜しに行きました。秋になると山間や藪の中に、赤い実をつけた烏瓜が見られます。その烏瓜の花は夏の夜咲くのです。まるで人に見られるのを嫌って咲いているようにさえ思います。花は幻想的で妖艶さがあります。烏瓜の実を見た場所を予想しながら夫と出かけました。しかし暗闇に咲く烏瓜の花を懐中電灯では見つけるのは難しく、一枝だけようやく見つけることができました。花には品種改良されていない原種の誇りがあって息をのむような美しさでした。暗闇を幻想的に咲く花、秋空を鮮やかに実る烏瓜の実、その想像しえない落差にとても不思議さを感じる花です。私の四季
高安ミツ子「この木でお前のお嫁入りの箪笥を作るんだよ」と父が植えた桐の木を見あげた頃父は優しく大きく見え桐の木は不安なく青空に伸びていきました首飾りを作るためにいくつもの桐の花を拾いました勾玉や貝殻を身につけていた女性の意識が幼い少女の首飾りにもとまったのでしょうか紫色の桐の花はなぜか大人の雰囲気がして子供の色ではないように思えたのですいくつもの季節が桐の木をゆすると日常を踏みはずした父の惑いが私の記憶から桐の花を消してゆきましたまたいくつもの季節の風が吹きいまや残照を歩く私の日常には雨宿りした風景は遠のくばかりです歩き疲れて立ち止まると日暮れの澄んだ空気が突然風化して行く過去からぽっと桐の花を蘇らせたのです紫色の桐の花むらさきむらさきすると父の哀しみが瀬音のように聞こえてきます転がる時が私を振り向かせた...桐の花
高安ミツ子猛暑日が続いています。子供のころこんな暑さはなかったように思えます。それでも庭の花たちは咲いてくれます。今は朝早く起きて花たちに水をあげる日々です。涼やかさを感じる風蘭が咲きました。香りが気品があってその純白の花を見ると涼やかさを感じます。また酔蝶花が咲きだしました。今は朝夕しか花が見られんません。日差しが強い時期は花はしおれてしまいますが秋口になると色が鮮やかになり日中も咲いてくれます。今年に庭のいたるところに種をまきましたので楽しめそうです。また詩集を出版した際お祝いに胡蝶蘭をいただきました。感謝の気持ちで何とか育てようと冬の時期を悪戦苦闘して育てましたところ戴いてから2年ぶりに咲きました。とても感動しています。涼しさをお届けできればと願っています。ご覧ください。私の四季風蘭が咲きました
高安ミツ子梅雨明け宣言はまだですが毎日猛暑が続いています。この暑さで庭の花々も日中は熱中症にかかったようにぐったりとした花もあります。ですから。早朝と夕方の水やりは欠かすことができません。花たちの命にかかわってくるので「早起きは三文の徳」と思いながら朝のみずみずしい花たちを眺め雑草を抜いたり、庭を掃いたり、枯れた葉や咲き終わった花々を切ったりといそがしい朝を過ごしています。中でも夏らしい花の一つに「かんぞう」があります。夕方になるとしぼんでしまう一日花です。野性を帯びた百合のような花でそのオレンジ色は実に鮮やかです。万葉集では「わすれぐさ」としてうたわれたようです。聞くところによるとこの花を持っていると、辛いことを忘れることができると信じられていたそうです。花物語を知ることも実に楽しいことでもあります。時...私の四季「7月の花」
高安ミツ子日常の図柄を弱くしたコロナの暴走は生活様式をがらんと変えてゆきましたそんな折孫とのリモート授業が始まりました笑って映る孫のパソコン映像には救いがあり頼まれた時間は一輪の花をみる楽しさでしたあなたの学校生活でもコロナの影が歩いていましたが今日の出来事をあなたは若さの早口で話します数学の授業は後回しにしてばあばは今日の出来事を聞いています育ちゆくあなたとの最後の時を感じますがいっぱいいっぱい聞いて庭に咲く花と一緒に花瓶に飾ることにしました少しの間二人で会話遊びしましょうよ正二十面体の中に潜り込み転げまわりましょうか止まることのない時間を感じますがそれでも雨上がりに見つけた木苺を二人でつまんだような気持になるのです思い出歌を口ずさみ紡いだあなたとの三年間は風のようでしたそして命の重なりを感じばあばは死...6月の詩作品「鶯のさえずり」
雨に濡れた紫陽花は6月の庭をゆっくりとやさしい風景にしてくれています。梅雨の季節に咲く紫陽花は色も鮮やかで、そのみずみずしさは心の底に眠っている思いが蘇ってくるような気持にさせてくれます。抒情があってとても人の心をひきつける花だと思います。美しい花を見た感動はなかなか言葉にはなりません。「ああ」とか「うわあ」とかそんな言葉が最初に漏れます。しばらくして花物語や花言葉やそれぞれの人生と重なっていくように思えるのです。紫陽花の青は人の物語を吸い込んでくれるような色合いに思えるのは私の感情移入の多さでしょうか。江戸時代オランダ商館の医師として日本に来た「シーボルト」もこよなく紫陽花を好み,本国に帰り、紫陽花の花の命名に関して、シーボルトの日本人妻であった方の名前を付けようとしたとも聞いたことがあります。それほど...「私の四季」6月の紫陽花
高安ミツ子庭の花々の世話で飽きることのない日常を過ごしていますが、先が見えないコロナ禍の三年間は内省することが多くなり、そのうえ老いへの更新は止まることがありませんでした。日々私のどこかが削られていく思いがありました。私の立ち位置から考えても未来を想像することより、過去の時間が多い所以でしょう。年齢を重ねた特権でしょうか数々の思い出が蘇ってくるのです。自己の感傷かもしれませんが、一枚の写真のように心の底から浮かび上がってくるのです。それは一種の懐かしさをさ迷い歩くような思いにもなります。日常の合間に、季節の彩の合間に、私の心模様によっても思い出は蘇ってくるのです。私の心が漠然とした寂しさを感じるとき蘇る一つの絵画があります。日本画家横山操(よこやまみさお)が描いた「瀟湘八景」(しょうしょうはっけい)そして...随筆「思い出の絵画」
高安ミツ子僕は一九歳と四ヵ月になりました後ろ足が痛くて力が入りません足が流れてへたりこむのですわかっています僕の時間は限られていることをそれでも好きな朝の空気を吸いたいのです歩き出すとしゃがんでしまうのですがお父さんと家の前でうろうろと庭でとぼとぼと今日の命を知るのです餌台の雀が僕を意識しながら餌を食べています僕はちらりと鷹揚なそぶりをしますがやはりよろよろです家の中ではおむつをつけてよろろりとへたりますお母さんは「こむぎはえらいね」と褒めてくれますお父さんは「我が家に来て19年ありがとう」とお礼を言いますお母さんは僕を抱いて毎日縁側から心地よい庭の風景を見せてくれます視力が弱った僕に咲いた花の名前を教えてくれます今年の春は急ぎ足です僕が目覚めるたびに風景が変わっていくのです利休梅も終わりつつじが咲き牡丹...こむぎの日記「僕の終章」
4月の風景は鮮やかです。なにもかもフフフフと笑っているようにさえ思えます。庭ではいそがしく春の花々が咲いています。つつじが咲き,牡丹が咲きそして薔薇が咲きだしました。なにわいばらが今はみごとに咲いています。いそがしく眼を動かさなければ、花は散ってしまうので日々気をもんでいます。私の1日のスタートは庭を眺めることから始まります。毎日水をあげ、肥料を施しあるいは植え替えを行い、花々と一体になる喜びを感じています。シジュウカラの囀りが心地よさを増してゆきます。「春眠暁を覚えず」といいますが朝の訪れが早くなり、そして日差しのかがやきが楽しい季節です。穀雨という穀物を潤す春の雨が降る季ありますが、春は生きている喜びを感じさせてくれます。我が家の4月の花々をご覧ください。「私の四季」つつじが咲き,牡丹が咲き春の輝きが増しています
春が忙しくやってくる3月ですが、その3月も終わろうとしています。まるで春風がそれぞれの花々の頭をなでて走り回っているかのように思われます。我が家の庭の花は次々に咲きだし色鮮やかな庭になりました。「世の中は三日見ぬ間の桜かな」と言われます。世の変化も早いのでしょうが、桜と同様に毎朝眺める庭の花々の変化には驚かされます。木瓜の花が2,3輪咲きだしたかと思うと瞬く間に、満開になり、気づくと木瓜の花にメジロが来て蜜を吸っています。その景色は平和な安らかなひと時を味わわせてくれます。万葉集にも野の草花や花木をうたったものがたくさんあるようですが人の心に寄り添ってくれる草花の癒しは時代を越えて日本人の中には流れていることを感じます。昨年花友達が若くして逝ってしまいましたが、花を見るたびに友と語った思い出がよみがえりま...「私の四季」木瓜(ぼけ)が咲きました
高安ミツ子寒さの中でも、少し暖かい日があって、紅梅が一二輪咲きだし、庭に萌黄色のふきのとうを見つけると春の前触れを感じます。「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」と百人一首の歌が思い出されます。我が家(夫と二人)の春を呼ぶイベントによもぎ摘みがあります。摘む場所は義母の生家の方が教えてくれました。犬も人も入らないよもぎ摘みに最適な場所でした。摘んだよもぎのごみを取り,茹で、蒸したもち米と混ぜ餅つき機に入れます。つきあがると草餅が出来上がります。草餅を丸めますが、形は一定にはいきません。それでも、草餅は春の色合いと香りをもたらせ華やいだ気分にさせてくれます。出来上がった草餅は春便りと称し子供や兄弟に送っています。終わるたびに、来年は無理かもしれないと言いつつ新しい春を何回か迎えてきました。...随筆「よもぎ摘み」
寒い2月も終わりに近づきました。風は冷たくほほを打ち我が家の庭もひっそりと春待ち顔です。それでも少しずつ春が近づいていることを花々は教えてくれています。庭の餌台には大きなヒヨドリが一番手でやってきますが、雀もおどおどしながらも餌を食べに来ています。気が付くと餌はすべてなくなっています。2月の花々をご覧ください。「私の四季」寒さの中でも咲きだした2月の花々
森は百年単位の時を数えています落ち葉の小径がそこかしこへと広がり最後の当主を失っても樹木は生命を語り続けているのです大干ばつに苦しむ農村を救うために両総用水の実現に生涯を捧げた父を母をそして兄を見送り血縁の思い出が深いこの屋敷を樹木を必死に守りぬこうとした最後の当主の声がいたるところに散らばっていますあるがままの自然を守ろうとしたのはあるがままの生き方を求めた当主の願いでしょうか森の落ち葉の小径は迷路のようです屋敷は400年を越えたクスノキを先頭に南天の赤い実が歴史を語るように鮮やかですいろは紅葉が初冬の風を飲み込んで色付き悠久の美しさを語るようです森は当主のたたずまいのように凛としています義母と幼なじみであった最後の当主十枝澄子さん私は電話での声しか知りませんが恵まれた村長の娘から屋敷を買い戻そうと歩ん...詩「十枝の森は落ち葉の小径」
高安ミツ子時代の笑みを浮かべ百歳の旗を掲げた押し売りが生き方ビラを届けようと玄関チャイムを鳴らし続けています私はためらいがちに我が家のチャイムは遥か遠くから私の思い出を連れてくる人への目印なのでそのチャイムで私を呼ばないでください私は髪を染めることを辞め一と自分だけしか割ることができない素数のようにただ私の運命を歩こうと思っているからですごみ箱に捨てられたように玄関チャイムは止みました思い出は簡素なものだけれど蘇る幾つもの風景幾人もの声は後悔や懐かしさで時を越えて私の心をめぐっていきますふとひたひたと感じられる今日の風は私の人生のどこで会ったのか思い出せないけれど情感にあふれた微笑は温かいのです鮮やかに色付いたカラマツやハゼの小径ですれ違った人なのかもしれませんみやると冬空に皇帝ダリアが咲きネリネも鮮やか...詩「初冬の風」
11月も終わり近くなり1年の速さを感じます。我が家の愛犬「こむぎ」は12月でまる19歳になります。犬付き合いが悪くて家族以外はあまりなつきませんが、とてもやさしくて律儀な犬です。慣れないのは捨て犬であったからかもしれません。目も悪くなり、この頃は散歩も家の周りだけで後ろ脚の筋肉が弱っているため餌を食べる時、後ろ脚が滑ってしまいます。寝ていることが多くなり立ち上がるのも大変そうです。毎日「こむぎ」を抱いて庭の景色を見せてあげると嬉しいのか私の顔をペロリと舐めます。以前はうれしいときは猫のようにゴロゴロと感情を表現しましたがこの頃はできなくなりました。家の中でそそうをすることも多くなりました。しかし、家族として、どんなに癒されたかしれない愛犬です。別れの覚悟はしなければならない時期に来ていますが、今日も庭の花...「私の四季」皇帝ダリアやネリネが咲き晩秋を感じる季節になりました。